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天の父が与えるパン 見直しNo.2

 見直しRetractandumの第2弾はヨハネ6;30-37についての講話を選んだ。1985年10月8,9日、玉川大学2年生の宗教礼拝のためだった。これを選んだ理由は、たまたまどれにしようかと原稿集をめくっていたら、「ヨハネ伝ところどころ集」に、来週祝うキリストの聖体の主日第一朗読申命記8;2-3、14b-16a、およびヨハネ福音書6;51-58と重なるこの原稿が目に入った。これなら主日の聖書自学自習を兼ねられるからだ。初回と違って、次のように書き直したものだけを掲載することにした。 
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 それはガリラヤ湖の岸辺での議論の時だった。イエス様は追ってきた人々に、「あなたがたがわたしを尋ねてきているのは、しるしを見たためではなく、パンを食べて満腹したからである」と言われた。実はその前日、イエス様は対岸で五千人ほどの人々に、パンと魚を満腹するまで食べさせる奇跡をなさっていた。この言葉はその前後関係の中でこそわかる。ところが、人々は奇跡を体験しても、感謝するよりも、それをさらなる欲望充足のために求めようとしていた。それを感知なさった主は、彼らの余りにも強いこの世的な関心をたしなめてそう言われたのだが、そこには情けなさと強烈な皮肉も込められていた。イエス様はこう言われたかったのだと思う。
 「どうしてあなた方はそのように、この世の命のことしか頭にないのか?昨日与えたような食物は、本来なら働けば食べられる。それに朽ちてなくなるものだ。なくなればまた求めなければならない。そういう朽ちる食物のためにばかり心を煩わせず、永遠の命に至る朽ちない食物をどうして求めないのか。それを求めなさい。それこそ人の子が最も与えたい食物で、昨日のパンの奇跡は、あなたがたが余りにも気の毒だったから行ってあげたに過ぎない。あれは重要なことでもたいしたことでもないのだ。わたしが本当に与えたい食物は、天の父から委されたものなのだ」と。
 ユダヤ人たちは言葉の上ではそれがわかった。だから、主が「永遠の命に至る食べ物のために働きなさい」と言われたのをきっかけに、「神の業を行うために私たちは何をしたらよいでしょうか?」と、話題を信仰問題に変えた。自分たちのこの世的な姿勢から議論を逸らしたかったし、「人の子」という言葉にカチンと来たからでもあろう。ユダヤ人たちはイエス様が神を父とすることなど受け入れられなかった。もしそう信じるよう問われたら、「ノー」と拒絶するつもりだったに違いない。
 彼らはこう考えていたのだと思う。「なぜこのイエスなる人物は神を父と言ったり、自分を人の子と言ったり、わけのわからないことを言い張るのだろうか?そんなことを言わずに、奇跡ができるのだから、その力で民を養い、ローマ人を追っ払って、ユダヤを再興してくれたら、それでいいのだ。もしそうしてくれたら、我々はメシアとして文句なくこの人に従うのに…」と。
 しかし、イエス様にとってそれはまさに本末転倒であった。肉体を養う食物とかローマの占領政策とかは、極言すればどうでもよいことであった。だから、主は答えた。「信じることだ」と。しかし、ここでは「わたしが神の子であることを」とか、彼らが躓きそうな表現は避けて、「神が遣わされた者を」と言われた。これなら、ユダヤ人は拒否しようがない。モーシェも他の預言者もみな、神から遣わされた者とされていたからだ。
 そこで彼らは言った。「私たちが見て信じるために、どんなしるしを行ってくださいますか?どんなことをしてくださいますか?私たちの先祖は荒野でマナを食べました。それは『天よりのパンを彼らに与えて食べさせた』と書いてある通りです」と。考えてみると、これは厚かましい挑発だった。なぜ厚かましいかと言うと、第一に彼らはその前日、五千人余の人々に食べさせたパンの奇跡を見たばかりだったからだ。まだ興奮も冷めやらぬ奇跡を見たばかりなのに、どんなしるしを行ってくださいますかなどとよく言えたものだ。しかし、その挑発にはもう一度それをやってみてくれというニュアンスがある。そこが厚かましいと言われる第二点だった。
 しかも、彼らはこう挑発しているようにもとれた。「昨日の奇跡は、すでにあった五つのパンと二匹の魚を増やしただけではないか。それに比べ、モーシェは何にもない所から天よりのマナを与えた。あなたはそれと同等かそれ以上のことができるか?できるなら、我々はモーシェを信じるように、あなたも信じよう」と。彼らはイエス様が挑発に乗って、よしそれなら見ておれと、天のマナを降らしてくれたら儲けものだ。その時は信じればよい。もしそうでなければ、できないじゃないかと、信じることを拒否すればよい。どっちに転んでも損はないと思っていただろう。
 しかし、イエス様は彼らの魂胆を見抜いて、その間違いをぴしゃりと指摘された。「天からのパンを与えたのはモーシェではない。わたしの父なのである」と。実際、旧約聖書にあるマナの話は出エジプト記16;4、申命記8;3、民数記11;6に出てくるが、何と皮肉にもイスラエル人が不信仰だから与えられたのだ。彼らは出てきたエジプトの食物を懐かしがり、ぶつぶつ不平を言ったのだった。主の返答はその事実を言外に匂わせている。「天のマナはあなたがたの先祖が立派だったから与えられたのではない。むしろ、その不信仰の証明である。あなた方の先祖も頑なで、不平不満ばかりだったから、モーシェが神に願って降らせてもらったのだ。誇らしげに言えることか。天のマナを願うなら、あなた方も先祖と同じだということになる」と。神もモーシェもその時、不快感いっぱいだったのだ。
 民数記ではこのマナを「コエンドロの実のよう」とし、民はそれを集めて臼で挽いたり搗いたりし、釜で煮て餅としたが、味は油菓子のようであったと描写している。ところが、民はやがてマナにも飽きたと言って不平を言った。申命記はマナが不信の民を信仰に導くために与えられたものだと総括し、「人はパンだけでは生きず、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった」(申命記8;3)と書き残した。律法に精通していたユダヤ人たちは、イエス様のこの指摘で、モーシェと主なる神の立腹が自分たちにも当てはまることを、すぐ感づいたに違いない。その挑発はブーメランのようにユダヤ人たちに戻る行為だったのだ。
 イエス様はたたみかけけるように言われた。「神のパンは天から降って来て、この世に命を与えるものである」と。この時、主の脳裏には、荒野の誘惑で悪魔に答えた言葉が蘇っていたかも知れない。「人の生くるはパンのみによるにあらず。またすべて神の口より出ずる言葉による」とは、先ほどの申命記の言葉に引用だったのだ。

 すると人々は言った。「主よ、そのパンをいつも私たちにください」と。イエス様は人々が物欲からそう願っていることを見抜いておられ、真実を言っても今は信じないだろうとはわかっておられたが、真の天のパンの神秘を明言なさった。「わたしが命のパンである」と。その短い一句は次の意味を含んでいたと見るべきだろう。「人が真に生きるパンは神の言葉だ。そのことばは人となった。それがわたしだ。わたしに来る者は飢えることがない。わたしを信じる者は決して渇くことがない」という意味だ。
 しかし、主はすかさず言われた。「だが、あなた方はわたしを見たのに信じようとしない」と。先祖がそうであったように、信仰深いと自己評価していたユダヤ人たちは、実は頑なな不信仰者だった。ましてやこのすぐ後で、主が「わたしはまことに肉、わたしの肉を食べ、血を飲まないなら命はない」と言われると、もうとうてい信じることはできないのだった。この議論には魂を養う天のパンをもたらしたのに、それは要らない。欲しいのは体を養うパンだと言い張った人々の実態を見せつける。
 ユダヤ人だけではない。人類は常にそうであった。だが少なくとも神の民は、この魂を養うパンのかけがえなさがわかるはずだった。なぜなら預言者アモスが。「それはパンの飢饉ではない。水に渇くのでもない。主の言葉を聞くことの飢饉である」(アモス8;11)と言った警告を知っていたからだ。それはパンはパンでもただのパンではない。魂の飢えと渇きをいやすパンのことだったのだ。しかし、彼らもそれが理解できなかった。

 この天からのパン論争は、今日の私たちに何かを教えているだろうか?大切なことを問いかけていると私は思う。私たちは当時のユダヤ人のように、身体を維持する食物を日々気にかけているが、魂を養う天のパンに関心を持っているだろうか?という問いかけだ。もし答えがネガティブであるならば、それは私たちに天のパンへの食欲がないからか、それともそれを知らないからだろうか?
 食欲のない場合もある。その解決は飢えるに限る。ユダヤ人たちはバビロン虜囚になった時、神の言葉が聞けなくなって、初めてアモスの言葉を悟ったのだった。人は飢えて何もなくなる時、初めて食物の有難さがわかり、大切にし始める。神の言葉に対しても同じだ。だから、人間にとって、失意、苦悩、窮乏のどん底に落ちることはある意味では不幸でも、別の見方では一つの恵みとも言えるのだ。
 もしも魂のパンを知らないのだったら、その解決は求めることにある。今日は情報社会と言われ、あらゆる知識が氾濫している。今年、ワイン業界に毒物のジエチレングリコール混入事件が世を騒がせたが、心の養分にとっても同じことがあると言えよう。あらゆるメディアがもたらす処理不可能なほどの情報は、全部が全部魂を養うものとは言えない。それなのに、魂の栄養にもならないものを手当たり次第に吸収し、それで魂が満腹感になり、天からのパンなどほしくもない気分になってしまう。それどころか、毒性のある魂の食物を取り続けて、心が死に至ることもあるのではあるまいか?

 私は今年の夏、そのことで思い出すたびに心の痛むことを体験した。ある日のこと、自宅に帰ってほっとしていると、ピンポンとドアベルがなった。家内が出て行って、少しすると手に何かを入れて、ちょっと困ったような、ちょっと嬉しいような顔つきで戻って来た。
「どうした?」
「これ見て。四十雀の雛よ。」
「えっ、また?」
 四年前、二羽の雛が雀に襲撃されて軒下に落ちた。まだ赤裸なのに育ててやろうとしたが失敗した。その苦い経験があったからそう言ったのだ。しかし、手の中をのぞくと、もう羽根もかなり出揃って、親指の半分位の大きさだが、実にかわいらしく元気に見えた。
「どうしたの、これ?」
「近所の女子中学生が二人来て、道端に落ちてチーチー鳴いていたから拾って来たんだって。」
「でも、なぜ家に持って来たんだ?」
「自分ちでお母さんに話したら、難しいから飼うのは無理だ。頼みに行きなさいって、うちを教えたらしいのね。うちなら小鳥をいっぱい飼っているから、多分引き受けてくれるでしょって言われたらしいのよ。お願いしますって言うから、預かっちゃった。いけなかったかしら?」
「参ったな。動物保護所みたいだね。まあ、いいか。今度のはかなり成長しているし、やれるかも知れない。」
 頼りにされてまんざらでもなかった私は、養ってやることにした。まず小さなクリネックスの箱を切り抜いて巣のようにし、滑らないように納豆の藁を少し敷いて、その中に入れた。すると、私の指が動く度に菱形の黄色い口を大きく開けて、食べ物をせがんだ。前の時は少し肉を入れたすり餌で失敗したから、虫を採集することにした。旺盛な食欲を満たすために、私は外に飛び出さざるを得なかった。日が暮れないうちに何匹か集めなくては…と。こうして、私の奇妙な戦争が始まったのだった。
 四十雀は頭と背が黒く、腹や横顔は白。おしゃれな小鳥だ。だが、口を見ればわかる通り虫食で、インコの餌の稗や粟では育たない。しかし、親鳥たちは高い枝などで餌になる虫を見つけるのだが、私は高い所まで届かないし、小さい虫を簡単には見つけられない。たとえ見つけも、草地の虫がはたして四十雀に合った餌かどうか疑問はあった。だが、手の届くところで探すしかなかった私は虫籠を持って、青虫やきりぎりすなどをあちこち探し回った。探すとなるとなかなかいない。おまけに私はもう老眼だ。一晩の食物を見つけるのに一時間も二時間も歩き回るのは一苦労だった。 
 しかし、幸いなことに四十雀は元気で、二日目には箱から飛び出し、私を親だと思って絨毯の上をぴょんぴょん跳ねて、餌をねだった。小鳥は一躍わが家のアイドルになり、息子も学校から帰ると、「四十雀は?」と問うほどであった。
 「これは成功しそうだ」と、私は内心自信がついた。礼拝センターに来る道々も徒歩にして、キョロキョロ虫を探しながら歩き、昼には一度帰宅して給餌するという熱心さだった。しかし、スクーリング前で大学は休みに入ったとは言え、まだ仕事があった。そうそう学園の中を虫探しばかりしてはいられない。腹をすかして待っているチビを思うと、何かいつも急き立てられている気分だった。
 四日目のそんな時、バイクを置いた礼拝堂下の百合の葉に、ふと私は黒い虫を見た。夜盗虫ぐらいだが、もっと真っ黒で大きく、いくつかの赤い斑点があった。
「あっ、虫だ!三匹もいる!」
 つまむと、その虫はぐるぐるっと丸まった。一瞬、変な虫だな。ちょっぴり気味が悪いと感じた。だがなかなか探せなかったその日は、背に腹は代えられないと思って紙に包んだ。そして、昼に帰宅すると、妻と一緒にそれを四十雀のチビに食べさせた。チビはいつもより大きめの黒い虫を、元気いっぱいのみ込んだ。二匹目も。大きいから、今はこのくらいでよかろうと思ったのだが、まだ口を開けてねだる。仕方がない、全部やっちゃおう、と三匹目も与えた。そして、もう夕方までは満腹だろうと思い、私は学園に戻った。他方、家内は町田へ買い物か何かに出かけた。 
 さて、その日の四時ごろ、私は早めに帰宅した。もう大学では先生方は大半が来ておられず、私も小学部、高東部の礼拝が残っていたから礼拝センターにいただけで、あとは自由だったのだ。家に入ると、いつものようにチビがどうしているかと見に行った。その頃はもう留守中どこかへ入り込んで、うっかり潰したりすることのないよう、不在の時は鳥かごに入れて行くことにしていたのだ。
 ところが籠の中を一目見るや、私はドキッとして息をのむと、アッと言ってしまった。四十雀が横たわって目を閉じていたのだ。「死んだのだろうか?」そう、死んでしまっていた。小さな体はもう動かず、口も開かない。取り出すと、冷たく踏ん張った足は硬直していた。
 「かわいそうに。でも、どうして急に?」だが、私は思い当たった。あの虫だ、と。何か気味が悪かったが、毒性があったのではなかろうか。それ以外思い当たらなかった。親鳥なら与えなかったに違いない。しかし、区別のつかない私はあげてしまった。かわいそうなことをしたと、涙が出た。妻も帰ると、しゅんとした。息子が帰る前にと、私は急いで小さな死体を木の下に埋めたのだが、そのことを思うと、今も胸が痛む。飼ってやらなかったら、その日のうちに野良猫に殺されていたか、生き延びても飢え死にしていたに違いない。飼ったから四日間は生きられたと思えるのが、せめてもの慰めだった。
 この小さな出来事は、私に天のパンのことを考えさせた。人は何と多くの情報を魂の糧として吸収することか。しかし、そのどれもが魂を養うのではない。中にはあの黒い虫のように、魂を死に至らしめるものもある。ところが、人はどれが本当に良いもので、どれが毒であり、どれが毒にも薬にもならないかを知らないで吸収することが多い。だから、大切なのは何が真に魂の糧となるかを教えてくれる誰かに出会うことだ。それはこういう情報反乱の時代だからこそなおさらだと思う。
 イエス様は言われた。「わたしがその天からのパンである」と。それは天の父が与えるパンだ。私たちはそれをいただけるのだが、それをいただくかどうか、信じるかどうかは私たち次第なのだ。
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見直しRetractandumの感想。
 元の原稿から取り立てて撤回すべき内容はなかった。しかし、文章の表現などにはかなり手を加えた。かつては主のみ名を「イエスは…」という風に呼び捨てにしていたので、すべて様付に直した。また、文体は「~である」調だったのを、「~だ」調に変更した。
 この講話は大学生向けだったから、ねらいは聖書に対する関心と信頼をもたせるためだった。それなのに御聖体などのような教会用語があったので、それは削除した。しかし、実際の礼拝で話した時は口に出さなかったと思う。原稿とは別に「礼拝ノート」がとってあって、1985年のものをめくると、原稿の要点メモが貼ってあった。次のようなものだが、それを使って話したはずだからだ。
 天よりのパン -食べたことがあるか?ある。これは原稿にないメモだが、聖書は神の言葉で、パンはパンでも、ただのパンではないパンとは神の言葉のことだから、聖書を読んだ人は食べたことがあると言える。そういう意味で書いたメモだと思う。
 コンテクスト ガリラヤ湖辺。前日5千人の人にパンと魚の奇跡
 モーシェのこと 旧約の故事 マナ
 イエスの本当に与えたかったもの 天のパン。魂の糧
 ユダヤ人の挑発 私たちも あくせく働くが、魂を養う糧は? 
 アペタイトがないから - 飢えるに限る。苦悩はしばしばチャンス。「悩みの中に神まします。」
 飽食 情報の氾濫 満腹…魂の糧を見つけられない。見つけない。
 四十雀のこと 胸が痛む。どれが本当に良く、どれが悪いかわからない。
 魂を養うパンを与える方を知る。持っている。聖書がそれ。〔以上がメモだった。〕
 原稿には当時を偲ばせる特徴が二つあった。毒物のジエチレングリコールの例と、情報手段の例に「新聞、テレビ、本」とあって、インターネットがなかったことだ。でも、それらはそのままにした。
 四十雀の雛の話は自分でも忘れかけていたが、この経験があったので、2008年にヒヨドリの雛を拾った時は、すぐ動物病院に持ち込んで助けることができた。そして、今は虫探しをしなくても、ワームと言う餌があることを知った。それを知っていたら、チビも死なせずに済んだものをと悔いが残る。
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「聞き分ける」-一つの日本語研究

 自分のホームページにある「最近のコメント」をずっと見ていなかったら、5月12日の「聞き分ける」というコラムに、「ここで取り上げられている羊たちが飼い主の声を聞き分けるというテーマですが、この聞き分けるという語は、もしフランス語で置き換えるのならば、distinguer となるのでしょうか? 音を聞き分けるとか、香水の香りを嗅ぎ分けるという時にこの語を使っていますから。」という疑問が投稿されていた。
 もう遅きに失しているのでそこには答えなかったが、それについて少々考えてみた。日本語の「聞き分ける」は仏語のdistinguerとはイコールではないとは言っていいと思う。日本語の「聞き分ける」は「聞く+判別する」の2語の合成語だ。仏語なら“ècouter+discerner”となろうか。判別するは、仏語ではdistinguer でもいいが、discernerの方がより妥当な気がする。Discernerは単なる区別ではなく、真偽を区別する意味があるからだ。
 しかし、仏語ではècouterはentendreと違って、「注意して聞く、耳を傾ける」の意味であり、Les brebis ècoutent sa voix (羊は彼の声を聞く)のècoutent には、すでに「注意して聞く、聞き分ける」の意味が入っている。だからdiscernent sa voixとかdistinguent sa voixとか書く必要はない。では、日本語は2語を合わせないと意味が十分に伝わらないから不完全かと言うと、そんなことはない。むしろ、いともたやすく合成反応を起こせるのは、日本語に融通無碍な長所がある証しなのだ。
 それに興味を覚えたので、まさに思いつくまま気の向くままだが、5感の感覚を表す動詞と他の動詞の合成反応を調べてみた。5つの感覚と合体する相手の動詞はあいうえお順にしてみた。するとこんな一覧ができることがわかった。
日本語の研究 表
 合体相手の動詞は思いついたままに過ぎないので、丹念に調べればもっとあるに違いない。が、とりあえずこれでもわかることがいくつかある。
 これを見ると、まず合成率が一番高いのは「見る」であり、次は「聞く」であることがわかる。ということは、視覚と聴覚が人間の活動で、いかに重要な役目を果たしているかということを証明している。それに比べ、嗅覚、味覚、触覚等は合成不成立の場合が目立つ。その理由は何だろうか?テン語のことわざに、“De gustibus non discutatur.”(味については議論しても無駄)というのがある。味の好みは基準がないから人それぞれで、どれが美味しいとも美味しくないとも断定できない。結局は人それぞれの好みが結論になるという意味だ。
 見る、聞くは多分に知的な感覚で、普遍的な基準を設定できる。「見る」では、大きさ、長さ、色合い、形など共通尺度が定め得るし、動きや静止、その他の活動と結びつく。聞くも音声の音階や強弱や音質、そして言葉の意味と結びつきやすい。だが、その他の感覚は味覚のように、体感的かつ本能的で言葉になりにくい。例えば、味覚は美味しい、不味い、甘い、辛い、塩辛い、酸っぱい、苦い、渋いぐらいだし、嗅覚はもっと幅が狭く、良い、悪い、嫌なぐらいしかない。その他の場合は、何とも言えない匂いとか、鼻が曲がるような悪い臭いとか、バラのような匂いとか、類比や形容で表すしかない。それが合成語に不向きな一つの原因なのではなかろうか。
 合成語になると、元の動詞とは違った意味になる場合もある。これも面白い。例えば、「取れる」は「聞き取れる」、「嗅ぎ取れる」という合成語は作れるが、「見とれる」とはならない。それは「見惚れる」と書き、まったく別の意味だからだ。「届ける」も、「聞き届ける」、「見届ける」の合成語になり得るが、意味となると3つとも違ってしまう。そんな点に気付くと、なかなか面白いなぁと思う。
 こんなことを調べて何になると言う人もいるだろうが、この一覧表は日本語の優れている機能の証明として役に立つ。それに、そういうことに私の好奇心をそそることによって、少なくとも呆け防止には役立ってくれる。Bravo le japonais!

人の一生は祈りに似る  見なおしNo.1

 日曜日ごとに聖書について書いて来たが、今週は気が乗らないし、時間もないので休む。しかし、6月14~16日に、夫婦連れだって大分県へミニ旅行をしたので、一番先に訪ねた青の洞門のことを書いておこうと思う。それにはちょっとしたわけがあったからだ。
 そもそも大分旅行をしたのは、手を貸す運動の支援者の一人N.M.さんが招待してくださったからだが、初めは彼女から海と山とどちらがいいですかと尋ねられても、今まであまり考えたことがなかったので、どこへ行きたいとはすぐ言えなかった。しかし、出発4,5日前に、もしできたら青の洞門を見てみたいと希望を出した。それはふと、そうだ、もうかなり前だが、玉川学園中学部の生徒たちに、礼拝でその話をしたことがあったな、と思い出したからだった。
 私と大分県との接点は、具体的にはそのくらいしかなかったのだ。そこでこう考えた。私はかつて、菊池寛の短編小説「恩讐の彼方に」を要約して、行ったこともない土地の話題を取り上げたが、その現場を見てみたい。そして、私の話が正確だったかどうかを確かめ、村人が本当は方言でどんな風に言ったのかも知りたい、と。もちろんN.M.さんはすぐ承知してくださった。それで、すこし手間取ったが、当時の原稿集を探し出してみた。書いたのは1985年9月17日だった。
 当時はまだワープロさえ使っていなかったから、原稿用紙に手書きのままだ。それをパソコンに打ち込んで、プリントした。原稿の最初の方は日航ジャンボ123便の墜落事故のことに割かれていた。それが夏休み後最初の礼拝で、大惨事1ヶ月後だったから、その話題は当然だった。しかし、テーマはルカ11;1-13の祈りについてだった。だから、その事故の部分はここでは省略する。青の洞門を見学し、方言を調べた上で、その原稿を見なおしてみようというのが今回の試みだ。
 かつて聖アウグスチヌスは自分の書いた本を見直して、それをRetractandumと言ったそうだ。それに倣って見直してみようと思い立ったのだ。聖人のことは私の記憶違いかもしれないが、そんなことはどうでもいい。要はRetractandumが「見直し」とか「撤回」とかいう意味で、自分の書いたり話したりしたものの中で、訂正すべきものがあれば直し、間違いがあれば撤回する作業をしてみることにある。その第一歩が今回の「人の一生は祈りに似る」という題名の原稿だ。
 青の洞門の話は祈りについての例話だが、その見直しは、史実と現場の見学と照合し、村人たちの会話の正確さを地元のN.M.さんからの聞き取りで検証できる。そんな方法で見直しをしてみる計画だ。ところで、検証するためには26年前の原稿が必要だから、それをまず以下に掲載する。青の洞門の例話は祈りについて一通り語った後にある。それから、日航ジャンボの事故だけでなく、その他の点も多々省略することにする。
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 人の一生は祈りに似る  (ルカ11;1-13)    
             1985年9月17日 玉川学園中学部礼拝説教から
  (これ以前の部分は省略)
 祈ることは実に人間らしい。祈りなど要らないという人もいるが、そういう人は人間と言うものがよくわかっていないのだ。今日の聖書の中で、イエス様は祈りを教えられた。大きく分けると、何をどう祈るかという2点だ。祈りとは何も願いばかりではない。感謝も賛美もある。しかし、願いが多いのは人間が欠けたところの多い存在だからだろう。だからイエス様も祈ることと願うことを同じ意味で使っておられる。
 では、何を祈ったらよいのだろうか?その中身が主の祈りなのだ。ルカ版主の祈りはマタイ版に比べると短い。そのことは私たちにまず、祈りは簡潔でよいことを教えている。ぐでぐでと長たらしく言わなくても、神様は私たちが願う前からご存知だからだ。次に、良いことを祈らなければならないことを示唆している。とは言え、良いことでも祈らなくてよいことがある。明日の試験がよくできますようにと祈ってもわるいことではないが、試験などは自分でやればいいことだから、わざわざ祈る必要はないのだ。
 しかし、悪いことは祈ってはいけないのだ。なぜか?それは神様を悪に加担させる試みで、冒涜だからだ。例えば、Aさんがいるから私がもてない。憎らしい。あの子が顔に火傷でもするようにとか、畜生、今年は阪神タイガースが優勝しそうだ。バースと掛布と岡田が一度に交通事故に遭いますようにと、仮に巨人ファンが祈ったら、それは悪い祈りになる。人の不幸を願うのは悪なのだ。だから、祈る時は何を祈るかに心しなければいけない。
 そして、ここに一つ問題が出てくる。良いことを祈っても、神様が聞き届けてくださらないのはなぜか?という問題だ。あの日航機事故でも乗客たちは祈っただろうに、神様は助けてくれなかった。自分の母は病だったから祈ったが、その甲斐もなく死んだ。なぜ?そして、人々はこのために、「神も仏もあるものか」という結論を出すことがある。確かにそれらは心痛むことだが、ここにどう祈るべきかが出てくるのだ。
 その第一点は、今日の聖書ではイエス様は触れていないが、ゲッセマネの園で模範を示してくださっている。「わたしの思いのままでなく、御心のままに」ということだ。主は天父にそう祈られた。人間にはわからないことがいっぱいある。しかし、神様はそれをご存知だ。神様の計らいは一つの神秘で、これは信じて受け止めるしかない。これが「御心のままに」という姿勢なのだ。でもこれは難しいから、またいつかにしよう。
 どのように祈るかのもう一点は、御心のままにとしつつも諦めないことだ。それが「求めよ、そうすれば与えられるであろう。探せ、そうすれば見出すであろう。叩け、そうすれば開かれるであろう」という勧めなのだ。小原先生はよくこれを強調された。玉川学園を創立する前、先生は自分の理想の学園を創りたかった。しかし、金はない。だから、「ああ、夢は夢で終わるのか」と洩らしたそうだ。しかし祈った。求めた。探した。叩いた。そして、玉川学園を実現したのだ。この体験から、この聖句が実感できたのだと思う。
 私たちが願いを叶えてもらえないのは、願い方が足りないせいの時がどれほど多いことだろうか。私は福音書のこの個所を読んでいて、一つの物語を思い出した。菊池寛という作家が書いた「恩讐の彼方に」という小説だ。諦めないことを考えさせるよい例になる。君たちの推薦図書にある一冊だから読んだ人もいるだろうが、何度聞いてもよいし、読んでいない人もいるだろうから、簡単に要点を紹介しよう。

 今から250年ぐらい前のこと、豊前の国(今の大分県)の青村という所に一人のお坊さんがやってきた。その村には周防灘に流れ込む山国川の急流が流れていた。お坊さんの名は了海と言った。村に入ると、村人から一人の溺死者のためにお経を上げてくれと頼まれた。もちろんそれが僧の務めだから頼みに応えてあげた。しかし、死者が余りにもひどい傷を負っていたので、村人にわけを尋ねてみた。
 すると人々はこう説明した。山国川の上流に岩が突き出ていて、道が途切れる所がある。そのため、その岩場は鎖伝いに通る通称「くさり渡し」になっているのだが、長さは約300mもあり、上も絶壁、下も絶壁で、危険この上もない。だから、風や嵐などがあると、よく足を踏み外し、下の川に転落して、毎年何人も犠牲者が出るというのだ。
 了海がそこへ行ってみると、なるほどものすごく恐ろしい難所だった。了海はしばし岩場の前でお経を唱えていたが、やがて眼を開けると、「どうか力をお与えください」と祈った。もちろん聖書は知っていなかったから、仏様か誰かに祈ったわけだ。村へ帰ると、彼は村人たちに寄進を願い、自分はあの岩山をくり抜いて道を作る。そうすれば1年に10人、10年に100人、100年に1,000人の命が助かるから、どうぞ協力してくれと言った。ところが村人たちは、そんなことができるわけがない。頭がどうかしていると、取り合わなかった。
 そこで了海はたった一人で岩山をくり抜く決心をした。左手にノミ、右手には槌をもって、彼は岩山に立ち向かった。一振り一振り岩を割り崩しはじめたのだ。今なら掘削機とダイナマイトがあるから比較的たやすいが、一昔前までは削岩棒でこつんこつんと掘ったものだ。私も防空壕掘りでそれを使った経験があるけれど、それは大変だった。私たちは発破を使ったが、了海の時代にはそんなものはなかった。一打ちしても数かけらでは、1日掘ってもらちが明くわけがない。しかし、それでも彼は一念発起してから掘り続けた。彼は槌を一振りする度に、「南無阿弥陀仏」と唱えたと言う。
 彼がこういう決心をしたのは気の毒な溺死者を見て、人々を助けたいと思ったからだけではなかった。それもあったが、心の中には罪滅ぼしの意味もあったのだ。実は、了海はもとは侍で、名を市九郎と言い、中川三郎兵衛という侍の家臣だったが、女のことで争いになり、主人を殺害してしまったのだった。国を逃げ出した彼は追剥や人殺しの悪事を重ねたが、やがて非を悔いて出家の身となり、諸国を歩いて一生を人のために尽くそうと心を決めたのだった。だから、単なる人助けよりは決心が堅く、祈りながら働くことができたのだった。
 やがて1年経つと、洞穴はやっと3mぐらいになり、5年経つと15mほどになった。その頃になると、了海はもう髭がぼうぼうで、身なりもぼろぼろになっていた。しかし、まだ誰一人手を貸そうとする人はいなかった。人々はどうせやってもやれ切れるものではないと思っていたからなのだ。
 さらに年月が過ぎ、9年経つと、穴は40メートルぐらいになった。さすがに人々も驚いて感服し、「一人であれだけできるのなら、みんなでやればもっとはかどる」と気付いた。そこで、お金を出し合って、石工を雇い、手伝いをよこした。しかし、それが長続きせず、そのうち坊さんのことをまたすっかり忘れてしまったのだった。
 ところが、12年目のある日のこと、くさり渡しを渡った一人の村人があっと驚いた。ずっと進んだところに了海が中側から掘った明り取りの穴が開いていて、覗き込むと、一心に槌を振るう了海の姿が見えたからだった。その村人は走り帰って人々に告げ知らせた。
 「おい、皆の衆、えらいこった。あの坊さんがまだ生きていて、穴を掘っていらっしゃるぞ!」
 驚いた村人たちが洞穴へ行ってみると本当だった。了海は痩せこけて色青ざめ、飛び散る岩の破片で目を傷めていたし、座り続けていたために足もあまり動かなくなっていた。それでも仕事をやめようとしない。たった一人で「南無阿弥陀仏」と唱えながら掘り続けて止まない。村人は自分たちのためにしてくれているのに、手伝わなかったことを非常に後悔した。そして、それからは暇があれば手伝うようになった。おかげで能率はずっとあがった。
 そのようにしていた19年目のある日のことだ。一人の若い侍がやってきて、村人たちに尋ねた。
 「了海という和尚がいると聞いたが本当か?」
 「当たり前のことを言いなさるな。一日たりとも留守にされたことはありませぬ。」
 「ならばぜひ会いたい。呼び出してはくれまいか。」
 村人に告げられて、了海は洞穴から這うようにして出てきた。
 「どなた様かな。ご用の方というのは?」
 「おお、お前が了海か。私はお前に殺された中川五郎兵衛の一子、実之助だ。20年も探し回ってやっと見つけたぞ。親の仇、覚悟!」
 「おお、実之助様か。なにとぞお切りくだされ。人のためにと掘って来たこの洞穴も、もうすぐ終わりになろう。あとは村人たちだけでもやれると思うから、さあ、どうぞ。」
 よく見えない目で見上げた了海は、座ったまま首を出した。しかし、村人たちが許さなかった。
 「とんでもない。そんなことをさせてなるものか!」
 人々は了海をかばうと、実之助をにらみつけた。その真剣さにたじろいだ実之助は、よし、この分では逃げも隠れもしないだろう。念願成就まで待ってやろうという気になった。
 「よし。この穴が開くまで待ってやろう。」
 そして、仇討の日が早まるように、彼もその日から了海と並んでノミと槌を持って手伝い出した。
 それから1年が過ぎたある日のこと、いつものように「南無阿弥陀仏」と唱えながら、了海が槌を振り下ろしたとき、鑿がスポッと向こう側に抜けた。
 「あっ、開いたぞ!」
 その穴の向こうには秋の美しい月光が見え、川の響きが聞こえていた。
 「ああ、とうとう通った。実之助殿、21年目にとうとう通った。さあ、では約束の日です。私をお切りなさい。」
 だが、実之助にはもう敵討ちの気持ちがなくなっていた。そんなちっぽけな愛憎はもう取るに足りないことに思えたのだ。2人は手を取り合って、しっかり握った。2人の目からは熱い涙がとめどもなく流れた。これが青の洞門ができた物語のあらましだ。

 この話をもう一度読み直して、私は二つのことを思った。
 一つは、祈るのは自分の力が及ばない所があるからだが、祈る人は及ぶ限りの努力をしなければならないと言うことだ。寝転んで何もせず、神様に全部やってもらうおうとするような祈りは、真剣味のある祈りではない。了海は力の限り努力した。しかし、彼は祈った。でも、仏様に槌と鑿を動かしてくれとは祈らなかった。それは人間に出来ることだったからだ。彼が祈ったのは「力をお与えください」ということだけだった。くじけない勇気とやり遂げるまでの力をお与えください、と。彼は与えられた力を自分で使ったのだ。
 もう一つは、21年はたしかにすごく長い年月だが、考えてみると、真剣に生きる人、人々のために一生働いている人はみな、それ以上のことをしているとも言えることだ。21年以上の60年、70年、80年と、皆さんのお父さんお母さんもそうなのだ。人生は先の見えないところが岩と同じだ。真剣に生きる人は「力を与えてください」と祈りながら、与えられた力を使い、槌と鑿の一振り一振りで己が人生を切り開いているのだ。
 その人たちはきっとみんな心に願いを持ち、愛を持ち、祈りつつ力の限り、目に見えない槌と鑿を振り続けている人たちなのだ。ぶつぶつ不平を言って呪いつつ人生を掘るか、それとも「天にいます父よ」と、あるいは「南無阿弥陀仏」でもよいが、祈りながら人生を掘り進むか、それはその人自身にかかっている。さて、中学生の皆さん、君たちはどうしますか?
 これで今日の礼拝の話を終わります。
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青の洞門の明り取り青の洞門内の明り取り
青の同門前の余生風青の洞門前の余生風

 さて、ここからは上記の物語を含む原稿の見直しに入る。
 私の大分旅行は6月14日、大分空港から始まり、真っ先に案内してもらったのが青の洞門だった。それは耶馬日田英彦山国定公園中の本耶馬渓にあり、今は中津市観光スポットの一つになっている。空港からそんなに遠いとは思っていなかったので、運転してくれたN.M.さんには、さぞかしくたびれただろうなぁと申し訳なかった。平日だったせいか、青の洞門前には観光客はほとんどいなかった。
 最初に気付いたのは、洞門を掘った僧の名が了海ではなく、禅海だということだった。史跡のいわれを書いた看板にもパンフレットにもそう書いてあった。しかし、菊池寛の「恩讐の彼方に」では、確かに了海となっていた。自分が読み違えたのかも知れないと思ったので、これは町田市に帰宅後調べたのだが、小説ではやはり了海に間違いなかった。菊池寛はこの洞門を材料にして彼の出世作を書いたのだが、史実ばかりか主人公の名前まで変えていたことを知った。
 もう一つ間違いがあった。それは私の間違いで、了海がやって来たのは青村ではなく、樋田村だった。樋田はおそらく日田市の日田だったのだと思う。私がどうして青村と書いたのか、思い出せないが、とにかく違っていたらしいので見直しの一つに加えておかなければなるまい。
 肝心の隧道だが、今あるのはその後広く掘り直されたもので、禅海和尚が掘った部分は少ししか残っていない。しかし、明り取りの近くには鑿による古い掘削跡がついている。私はそれを見て感動した。禅海の気迫がそこに読み取れた。それを見ただけでも訪れた甲斐があった。明り取りの穴は電気もカンテラもなかった昔、作業を続けるために不可欠だった。しかし、それを掘るだけでもどんなに大変だっただろうか。小説で村人が明り取りから覗いたのを読んだ時は、それは上半身が入るぐらいの大きさだろうと想像したが、実際はもっとずっと広くて、1.5㎡ほどもあった。
 明り取りの広さから私はある推測をした。それは禅海が、掘り崩した岩をそこから川に落とすためにも利用したのではないかということだ。洞穴は削岩だけでは済まない。砕石を外に運び出す必要があった。でも奥に進めば進むほど、その運搬は削岩以上の重労働になったに違いない。しかし、明り取り穴から捨てれば、長い距離を運ばなくても済んだし、川底なら障碍にならなかっただろう。皆、掘る方にばかりに気を取られているようだが、私は明り取りをそういうふうにも利用したと思うのだ。
 明り取り穴の下には山国川が見えた。かなり幅の広い水量の豊かな川だ。これでは嵐の日などに崖から転落したら、溺死は免れなかっただろうと思った。この川はアユが獲れるというから、水はきれいなのだろう。隧道そのものは144mだが、掘削道は342mで、30年余りかかったそうだ。だから、小説の21年は事実とかなり違う。推察だが、仇討物語を絡めて書いた菊池寛は、30年では長すぎて、仇討にあまり都合がよくないと考え、短縮したのではなかろうか?
 史実の禅海和尚は越後の生まれだったが、仇討とは無縁だった。小説の了海は元侍で、不倫が原因で主人を殺害し、悪行を重ねた末の出家だったが、それは菊池寛の創作だった。史実の禅海和尚は自分だけで掘ったのではなく、藩主の許可も得、石工たちを雇ったりして掘り始めたようだ。そして、宿願を果たした後は村人からは「生き仏」と尊ばれ、平和な落ちついた生涯を過ごしたと言われる。
 しかし、青の洞門が一躍日本中に知れ渡ったのは、菊池寛の「恩讐の彼方に」のおかげだった。それなのに、中津市や観光協会のホームページはそれにはちょっとしか触れず、現地の史跡説明看板などはまったく言及していない。普通なら文学で有名になったりすると、観光宣伝に利用するものだが、それが非常に少ないところを見ると、小説の物語は現地ではあまり歓迎されていないように思えた。禅海の名が変えられ、史実とあまりにも違って描かれているからかも知れない。

 ところで、村人たちが話したはずの大分方言はN.M.さんに尋ねたところ、次のようになるだろうということがわかった。ただし、250年昔だったら、もっと違っていたかも知れないが…
 「一人であれだけできるのなら、みんなでやればもっとはかどる」
 方言でも同じ。
 「おい、皆の衆、えらいこった。あの坊さんがまだ生きていて、穴を掘っていらっしゃるぞ!」
 「おい、皆の衆、えらいこっちゃ。あの坊さんがまだ生きちょって、穴を掘っていらっしゃるぞ!」
 「当たり前のことを言いなさるな。一日たりとも留守にされたことはありませぬ。」
 方言でも同じ。 
 「とんでもない。そんなことをさせてなるものか!」
 「とんでもない。そんなことをさせてなるもか!」
 標準日本語とそんなに大きな違いはないのだな、というのが感想だった。でも、「~しちょる」などの表現は、やはり現地で聞かないとわからない。一つの収穫だった。

 それにしても、昔の人々はなぜそんな危ない鎖渡しを通る必要があったのかを調べたところ、隣接の日田地方(現日田市)は昔天領で、そのために人の往来が少なくなかったからのようだ。そこの観光資料に福沢諭吉のパンフレットが混じっていたので、えっ、なぜ?と思って読んだところ、この明治の先駆者は中津藩下級武士の次男として生まれたことを知った。咸臨丸で勝海舟らと渡米したことや、慶応大学の創立者であることは知っていたが、中津藩士だったとは知らなかった。
 福沢は青の洞門と無関係ではなかった。明治になってから、この洞門がある競秀峰一帯の山林が乱伐され、風景が壊されて行ったらしいが、それを憂えた福沢がその近辺を3年がかりで買収して、自然の保存に努めたからだ。買収費用はどう捻出したのか知らないが、今その先見性はナショナルトラストの先駆者だと評価されているようだ。青の洞門のある耶馬渓は、名前も実に渓谷らしくていいが、秋の紅葉が見事らしい。それを守ったことは彼の功績だ。

 さて、見直しの結論を出すとしよう。私が中学生たちに話したのは、「恩讐の彼方に」の了海の物語だった。それは感動的だが、創作だと知るとインパクトはやはり半減する。それでいけなかったとは思わないが、もし今もう一度この話題を祈りについて考える例として話すとしたら、私は史実の方を選ぶだろう。禅海和尚の生涯には了海のような波乱万丈の起伏はなかったが、30年も洞門掘削に懸けた生き方はやはりすごいからだ。人の心を十分打つ。

あなたがたに平和

 イエス様は復活なさった日の夕方、弟子たちにお現れになった。彼らはユダヤ人たちを恐れて、家の戸に鍵をかけ、息を殺すように隠れていた。ところが、戸は閉まったままだったのに、彼らの真ん中に主が立たれた。彼らはどんなに驚いたことだろうか。主を亡霊だと思って「恐れおののいた」(ルカ24;37)ようだから、ほとんど恐怖で固まってしまっていたのだろう。聖霊降臨の祝日の福音ヨハネ20;19-23は主のご出現のそんな様子を伝える。
 もちろん典礼のねらいは、私たちに聖霊のことを新たに思い起こさせることにある。しかし、使徒言行録にある聖霊降臨の出来事はもう過去に何度も取り上げたので、今年は福音に目を向けたい。ヨハネの福音書20;19-23の主要なメッセージも21節以降の「聖霊を受けなさい」と言われたお言葉の前後にある。この主日は聖霊降臨の祝日だから当然だ。しかし、まず私の興味をそそったのは、主が弟子たちに言われた「あなたがたに平和があるように」という挨拶だった。 
 なぜ興味をひいたかと言うと、こんな短い叙述の中に2回も言われているからだ。重ねて言う理由があったからこそ、そう言われたのだとすれば、どんな理由があったのだろうか?それは弟子たちの心理状態を想像すれば察しがつく。ユダヤ人を恐れて家にいた彼らは不安でたまらなかった。その上、婦人たちが知らせて来た主の復活も、もしそれが本当なら、どんな顔をして主に会えるだろうかと、彼らをさらに不安にしただろう。主を見捨てた負い目と気まずさがあったからだ。
 だから、主は出現なさるや否や、まず彼らを安心させるために「あなたがたに平和があるように」と言われたのだと思う。平和は不安の反対で、不安を打ち消す。それは弟子たちの心の状態がわかっていた主の思いやりだった。そして、手とわき腹をお見せになったのは、亡霊だと思って恐怖に固まっていた彼らに、十字架に釘打たれ、槍で突かれたご自分に間違いないことを実感させる、言葉以上に雄弁なジェスチュアだった。これも彼らの不安を払しょくするためであった。
 ヨハネは「弟子たちは、主を見て喜んだ」と簡単にしか書かなかったが、ルカはもう少し詳しくこう伝えている。「彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは『ここに何か食べるものがあるか』と言われた。そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた」(ルカ24;41-43)と。主は「亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある」と言われた上に、魚を食べても見せたのだ。
 ヨハネはこのことを省いて書かなかった。しかし、主が亡霊ではなく、ちゃんと体があって、それを弟子たちが見て確かめられた点ではルカと完全に一致している。もちろん、それは普通の体とは違っていた。戸が閉まったまま入って来られたことでもそれがわかる。ヨハネではこの後どうなったかは書かれてないが、彼らが後で「わたしたちは主を見た」とトマスに言った口ぶりから推理すると、戸が閉まったまま、また姿を消されたように思われる。それが復活した主のお体だった。
 ところで、弟子たちが喜ぶと、主は再び「あなたがたに平和があるように」と繰り返し、今度はそれに加えて「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」と言われた。この2回目の挨拶は彼らを安心させるためだけではなく、別の意味をも込めて言われたのだと思われる。「あなたがたに平和」は、ヘブライ語だと「シャローム・ラケム」だ。シャロームとは平和、平安、安息など、相手を気遣い、祝福の気持ちを伝える素晴らしい挨拶なのだ。
 では、主はどんな意味を込めてそう言われたのだろうか?私は、それには赦しの意味が込められていたのではないかと思う。なぜなら弟子たちは主を捨てて逃げ、裏切り、信じなかったので、心に負い目があったはずだからだ。亡霊だと思った怖れは消えても、気まずさは消えずに残っていたに違いない。だから、主はこの2度目の挨拶を、「裏切りなどは初めからわかっていた。だから気にするな。赦しているから安心しなさい」の意味を込めて言われた。私はそう推察する。
 そして、後半の「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」と言われたお言葉によって、主は彼らの使徒職を再確認なさった。一般社会では裏切りや背信行為をしたら、組織はその人を任務から解任し、二度と使わないものだ。しかし、主は彼らを信任なさった。それは赦しと人を活かす秘訣のお手本だった。失敗しても赦され、信じてもらえれば、人は恩を感じ感激する。その記憶は彼らが全世界に福音を伝えに行くエネルギー源になったと思う。 

 彼らは主が本当に復活されたばかりか、彼らの不信仰を咎めても赦し、以前と同じ師弟関係でいてくださることを知って、どんなに喜んだことだろうか。すると主は、彼らに重要なことを聞けるゆとりができたと見て言われた。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」と。この権限は初代教会の基本的な共通理解の一つだったのだろう。マタイ18;18のお言葉と一致する。
 ところで、この権限を与えられた「あなたがた」とは誰を指すのだろうか?その家には使徒だけでなく、少なくともエマオへの2弟子や、使徒たちに主の復活を知らせた女性たちが出入りしていた。もし、彼らがそこにいたとしたら、彼らもその「あなたがた」に入ったのだろうか?私の考えでは、使徒たち以外は入っていなかったと思う。上掲のマタイ18;18やご昇天前の派遣命令(マタイ28;16-20)等を見れば、それは使徒たちだけを指したと解釈するのが妥当だろう。
 では、その「あなたがた」はその場にいた10使徒たちだけを指していたのだろうか?こんな疑問が湧くのはトマスがその場に不在だったからだ。私はその権限がそこにいた10使徒個人にではなく、使徒団としての彼らに与えられたと解釈する。さもないと、トマスだけでなく、主のご昇天後イスカリオのユダに代わって選出されたマチアスも、その権限がなかったことになるからだ。実際それは使徒団への権限だったから、以後ずっと教会に受け継がれてきたのだと思う。
 次に、「聖霊を受けなさい」と言われたが、それは聖霊の派遣だったのだろうか?という疑問も湧く。使徒言行録2章の聖霊降臨は、主のご昇天および父と子による派遣を前提にしていた。それは主が最後の晩餐で、「わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、…」(ヨハネ15;26)とか、「わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ない」(ヨハネ16;7)と言われたことからも明らかだ。
 だとすれば、ご復活直後のご出現で、息を吹きかけながら言われたのは、顕在的な聖霊降臨だったとは言えない。使徒たちは聖霊を受けたが、そのお働きがまだ潜在的だったことは、あまり変化が起きなかった彼らのその後の言動でわかる。主が最後の晩餐で、「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠のあなたがたといっしょにいるようにしてくださる」(ヨハネ14; 16)と言われた約束の十全な実現は、聖霊降臨の日を待たなければならなかったのだ。
 では、この時の「聖霊を受けなさい」とは何だったのだろうか?イエス様はご自分を一粒の麦に喩えられたが、聖霊にもそれは当てはまると思う。喩えて見れば、この時の聖霊は、使徒たちの中に蒔かれた命ある麦粒のようだった、と言ってもいいのではあるまいか。この時、種は隠れて見なかったが、ペンテコステの日に勢いよく芽を出した。聖霊のその顕在化こそが聖霊降臨だった。それが双葉の教会を育て、どんどん成長させ、やがて百倍の実を結ばせるに至る。 
 この約束の実現の仕方は、主がペトロに「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。…わたしはあなたに天国の鍵を授ける」と言われたのと似ている。主はカイザリア地方でそう言われたが、その実現はずっと後だった。その時はまだ教会の形すらなく、天国の鍵もまだペトロに渡されなかった。聖霊派遣の約束と実現もそれに似ていた。その約束はご受難の前だったが、その実質的授与はご復活の夜、そしてその公的な派遣は降臨の日だった。

 イエス様はこの夜のご出現でのことを、最後の晩餐の席ですでにこう予告しておられた。「父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことをことごとく思い起こさせてくださる。わたしは平和をあなたがたに残し、わたしの平和をあなたがたに与える。私はこれを、世が与えるように与えるのではない」(ヨハネ14;26-27)と。主は弟子たちに約束したその平和を、このご出現で与えられた。その平和が世のものと違うのは、聖霊が共にいてくださるからだ。 
 思えばF教会にいた最後の数年間、私には心の平和があまりなかった。ミサでは「主の平和」とあいさつを交わしても、それは形式的で、信者間に本当の心の和み合いはなかった。皆で集った時、一度も真剣に「聖霊来てください。私たちの心を照らしてください」と祈らなかったからではなかろうか。そう祈ったことがあっただろうか?なかった。信徒総会代わりの年次報告会もそうだった。聖霊が共にいてくださらない空疎な平和しかなかったのは、そのせいだったと思う。

ご昇天は通過点

 どんな人の一生も誕生で始まり、死で終わる。しかし、イエス様は違った。人として生まれ、一度は死なれたが、復活され、天に昇られたからだ。では、ご昇天が主の御生涯の終点だったのかと言うと、それも違う。世の終わりに再臨されるからだ。神様の救いの計画を三段跳びに喩えてみえれば、旧約時代はホップ、新約時代はステップ、主の再臨以後はジャンプに相当するが、ご昇天はそのステップの通過点だと言えるだろう。その祝日の聖書はそのことを想起させる。
 ご昇天の出来事を最もはっきりと書いているのは使徒言行録1;6-11だ。しかし、それは昨年「主の御昇天と宇宙」で考察したから、今年は福音書に目を向けてみる。ただし、使徒言行録の「あなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる」という一節だけは、福音書の後で取り上げてみたい。第二朗読エフェソの信徒への手紙で、聖パウロは「御父が、あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるようにし、心の目を開いてくださるように」と祈っている。そうなるよう使徒の祈りにアーメンと答えて、考察を始めよう。

 マタイによる福音書28;16-20は、11使徒が復活された主とガリラヤのある山上で再会したことを伝える。主は最後の晩餐の時、彼らに「わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤに行く」(マタイ26;32)と予告なさった。そして、復活の朝は彼らへの同じ内容の伝言を、墓に来た婦人たちに託された。これはその約束の再会だったのだ。ただ、他の3福音書はご復活後、主がエルサレムで弟子たちに現れたことを伝えているのに、なぜかマタイにだけはその記述がない。
 従って、マタイだけ読むと、主がご復活後初めてこの山上で彼らと会ったかのようにとれる。しかし、ルカは「四十日にわたって彼らに現れた」(徒1;3)と、ご復活後エルサレムで何度か出現されたことを伝え、ヨハネも「八日の後、弟子たちはまた家の中におり…戸には鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち」(ヨハネ20;26)と書いている。だから、この再会はご復活後一週間以上経ち、ガリラヤに帰った後のことで、実際は何回目かのご出現だったと見るべきだろう。
 また、「イエスが指示しておかれた山」とは、山上の説教があった山ではないかとか、ご変容のあった山ではないかと考える人がいるようだが、その手掛かりは福音書のどこにもないから、特定しようとしても無駄だ。それにこれは重要なことではない。ガリラヤには大小の山が多くある。そのどれか一つだったと思うだけで足りる。それよりも大事なのは、山の上で使徒たちに会われた事実だと思う。マタイの福音書ではしばしば、重要な啓示は山上で発信されているからだ。

 では、どんな重要な啓示がそこであったのかというと、それはイエス様のお言葉でわかる。主は使徒たちに、「わたしは天と地の一切の権能を授かっている」と言明された。これが第一に重要な事柄だと言えよう。第二朗読のエフェソ1;20には、「神は、…キリストを死者の中から復活させ、天においてご自分の右の座に着かせ、すべての支配、権威、勢力、主権の上に置き、今の世ばかりでなく、来るべき代にも唱えられるあらゆる名の上に置かれました」とあるが、まさにそのことだ。
 教会が典礼暦年の最終主日に「王であるキリスト」として祝うのは、この一切の権能を持った主イエス・キリスト様に他ならない。主はすでにガリラヤでの宣教中、「すべてのことは、父からわたしに任せられています」(マタイ11;27)と言われたが、誰がそれに気付いただろうか?主は十字架上では罪状札に「ユダヤ人の王」と書かれたが、実際は一切を無視され嘲笑された王だった。しかし、この山上では父から授かった天と地に対する一切の権能の発効を宣言されたのだ。
 次に重要な事柄は、使徒たちの派遣だった。それは父から権能を授かっているからこその命令で、その目的は人々に福音を伝えることだった。「行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」とはそういう意味だ。この派遣はご受難の前に終末の予言をされたとき、すでに「御国のこの福音はあらゆる民への証しとして、全世界に宣べ伝えられる」(マタイ24;14)と言及されていた。「彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」とは、その福音宣教の具体的な実りと生き方について言われたのだ。
 弟子たちから主の福音を聞くと、人々はそれを受け入れるかどうか去就を決める。洗礼は受け入れて罪を洗い清められ、神の子となり、新約の神の民の一員となるしるしだ。「洗礼を授けなさい」とは、信じていない人々がそこに到達できるよう導きなさいという洗礼前の働きかけ、そして、「あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」とは、洗礼を受けた人々が信者としてふさわしく歩み続けられるよう導く、洗礼後の働きかけだと解釈できるのではなかろうか。
 三つ目に重要な事柄は、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と、主が使徒たちといつも共にいてくださる保証を約束してくださったことだ。これは主がいつまでも地上に留まると言う意味ではない。それとは逆だ。主は天に昇られるからだ。では、どのようにして彼らと共にいることができるのだろうか?第一に主は神のみ言葉だから、いつも共にいられる。第二に、聖霊を送って、聖霊と共に、教会の頭として世の終わりまで働き続けられるからだ。

 マタイはどうもパウロやヨハネのようには、復活後の主のご出現に力点を置かなかったようだ。復活当日のことは簡単にしか書いていないし、ご出現は婦人たちへの一度だけだ。だから、ガリラヤの山上でのご出現も、父から授かった一切の権能のこと、弟子たちの派遣、世の終わりまで彼らと共にいる保証という、重要な三つの事柄を発表するためだけに書いたという感じがする。何回目の出現か、どの山かがなどは彼にとってはどうでもよく、関心事ではなかったのだろう。 
 しかし、どうでもよいで済まされないことが二つある。その一つは「しかし、疑う者もいた」という短い一句だ。いったい何を疑ったのだろうか?そんなこと、どうでもいいではないかと言う人はいるだろが、私には気になる。彼らはそこにいた人がイエス様ではなく、別人ではないか、それとも幻ではないかと疑ったのか?あるいは、主が本当に復活されたかどうか、それともその人が主のように見えても、確かめるまでは主だと信じられないと疑ったのか?いろいろな疑問があり得た。
 しかし、主の復活の事実についての疑問は、エルサレムでのご出現ですでに解消していたはずだから消去していい。この問題を解くヒントは疑った人が複数いたことと、「イエスは近寄って来て」(18節)の一句にあると思う。近寄って来られたのならば、その前は遠くに見えたわけだ。ところで使徒たちは11人いた。従って、前方にいた者たちはイエス様だとわかるとひれ伏したが、後方の者たちにはまだそれとわからなくて、「ほんとに主なのか?」と疑ったケースが考えられる。
 ヨハネ福音書は使徒数人が漁に出た時のことを、「夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。だが、弟子たちは、それがイエスだとは分からなかった」(ヨハネ21:4)と書いている。強風の日も、湖上を歩いて来られた主を彼らは幽霊と見間違えた。(マタイ14;24-27)距離があれば主かどうか見分けられないことはあり得たのだ。また、エマオへ行った弟子2人は、イエス様がいっしょに歩いていたのに、目が遮られていたために、パンを割くまで主とは気付けなかった。
 これらのことを参考にすると、山上で再会した時も、何人かの使徒が疑ったのだから、疑いも一様ではなかったことがまず考えられる。ある者は主との距離があったので、別人では?と疑ったが、ある者は湖上での時のように、幻では?と疑ったのかも知れない。仮にある使徒が近視だったら、声を聞くまでは主だと確信が持てずに疑ったということも想像できるし、ある者は何らかの理由で、エマオへの弟子たちのように、近づいた主が主とは見えなかったのかも知れない。
 疑ったわけはこの程度の解明でいいと思う。しかし、それだけでは単なる興味で終わってしまう。大事なのはなぜこの一句が重要な言明の前に書いてあるのかだ。マタイの意図が何であったかはわからないが、私にはこの一句が教会の歴史を暗示しているように思えてならない。主の復活をじかに体験した使徒たちですら、主に再会してもまだ疑念を抱いたのだ。ましてや、主をも使徒たちをも知らない世代になれば、疑問を持つ者が多く現れても何ら不思議ではない。
 事実、教会の歴史2000年は異端、謬説、背信が多く出て、それを証明するものになった。彼らは主から遠くに立っていたり、心の視力が弱かったり、この世の論理に負けたりしたから、主の福音がありのままに見えなかったのだと思う。だから、聖パウロはエフェソの信徒たちに、「御父が…心の目を開いてくださるように」と祈った。そう祈らないと人は疑いの道に迷い込みやすい。「疑う者もいた」と言う一句は私たちがそのことに気付くためで、そこに意味があるのだと思われる。

 どうでもよいで済まされないもう一つのことは、マタイ28;16-20が主のご昇天について何一つ明記していないのに、なぜその祝日に読まれるのかという疑問だ。実際、主と11使徒は山上で再会し、使徒たちがすべての民に派遣されたことを伝えるが、その後で昇天されたとことには何も触れていない。主の言葉で終わっている。では、この個所は主のご昇天を何ら伝えていないのだろうか?いや、そうではない。明記はしていないが、伝えているに等しいと言っていいと思う。 
 マタイとヨハネはその福音書の最終章に、主のご昇天のことを書かなかったが、それは福音書を書いた目的がルカとは違ったからだろう。しかし、マタイは最終章以前の章で、天に昇られなければできない約束、予言、譬えによって、含蓄的にご昇天を伝えている。その例を挙げよう。
 マタイ24;29-44は「地上のすべての民族は悲しみ、人の子が大いなる力と栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見る」と述べ、「人の子は思いがけない時に来る」と伝えている。人の子とはもちろん主イエス・キリスト様を指す。ところで、あらかじめ天に昇っていなければ、どうして天の雲に乗って来ることができるだろうか?天からの再臨はすでに天におられるからこそできる。従って、主の再臨は昇天を前提にしているから、昇天を伝えているに等しいと言えるのだ。
 それに「忠実な僕と悪い僕」(マタイ24;45-51)、「十人のおとめ」、「タラントン」(同25;1-30)等の譬えは主を主人や花婿に喩えていて、戻って来る主と世の終わりの裁きを語っている。つまり、昇天した主の再臨を示唆している。特に、「すべての民族を裁く王の譬え」(同25;31-46)は一番明瞭だ。人の子の来臨は王の裁きにつながるが、その描写はダニエルの預言に酷似している。その裁きは、父の右の座におられた人の子が再臨したのでなければ考えられない譬えなのだ。
 これで、マタイの福音書は最終章では昇天を伝えないが、それ以前の諸章で語っていることがわかる。そして、それは主のご昇天が、神の救いのご計画における終点ではないことも示している。主は再び来られるのだから、ご昇天はまだその中間点なのだ。それはホップ、ステップ、ジャンプの中でステップに入るが、そのステップの初期段階の一出来事に他ならならないと言える。聖霊降臨や長い教会の旅路が続き、その後に再臨があって、ジャンプに移るからだ。

 そこで最後は、「あなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる」(使徒言行録1;11)という、その再臨を告げる一節を考察してみよう。それは信仰宣言にも「生者と死者を裁くために、栄光の内に再び来られます」とある。私がここで問いたいのはその事実ではなく、どのように来られるかという「来られ方」だ。マタイ24;30にも「人の子が大いなる力と栄光を帯びて天の雲に乗って来る」とあるが、現代の宇宙観で考えると、それがどう実現されるのかに疑問が湧くからだ。
 「天への昇り方」につては昨年「主のご昇天と宇宙」で、とりあえず次のように解決した。即ち、主のご昇天は私たちの世界と同じ次元で考えない方がよい。ご昇天は神の国がこの宇宙のどこかにあって、主がそこまで飛んで行くことではなく、私たちがいる世界とは違う次元で行なわれたに違いないと考えるべきだ、と。ただ、主はこの世から去ることを弟子たちにわからせるため、ある高度までは人々に見える姿で昇られた。雲が出て主を隠したというのは、実にうまい幕の引き方だった。雲が隠した後はきっと神の次元の行動に移られたに違いない。つまり、もう宇宙空間を移動する必要はなかった。昨年の私はそう考えた。そして、今もそれでいいと思っている。
 主のご昇天は、それが超自然的な出来事だったと認めさえするならば、限られた人たちの前で、特定の場所から天に昇られたのだから、皆が天を仰いで見上げていたという叙述におかしいところはない。理解できるしイメージも湧く。ところが、主の再臨となるとそうはいかない。福音書や使徒の手紙に書いてある主の再臨のあり方は、そのままでは現代の宇宙観で考えると実現不可能に思えるからだ。まず福音書や使徒の手紙の描写を見てみると、次のように書いてある。
 「そのとき、地上のすべての民族は悲しみ、人の子が大いなる力と栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見る。人の子は大きなラッパの音を合図にその天使たちを遣わす。天使たちは天の果てから果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める。」(マタイ24;30-31)
 「大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、主御自身が天から降って来られます。するとキリストに結ばれて死んだ人たちが、…」(一テサ4;16)
 これを読むと、裁きの主は天から地球上のどこかに来られると言っている。しかし、現代人は地球が平らではなく、球であることを知っている。従って、仮に主がイスラエルの地に降りて来られるとしたら、オセアニア等地球の反対側にいる人々には見えないだろう。ラッパで合図をしても、そこまではとうてい聞こえないだろう。四方から人々を呼び集めると言っても、遠過ぎたり海があったりして、すべての民族は集まれないだろう。つまり、実現は無理だということになる。
 だとすれば、聖書の表現を現代の知識に合うよう解釈し直すか、そのような再臨が可能になるよう、地球側に何らかの大変化が起きるかしない限り、人の子が再臨してすべての民を集めて裁くということは、理解不可能な出来事以外の何ものでもなくなる。少なくとも私にはそういう状景はイメージできない。では、そのような聖書の解釈し直しは可能なのだろうか?そして、主の再臨に合うような地球環境側の大変更は可能なのだろうか?
 聖書は解釈し直せる。天地創造の解釈も科学の進歩に応じて変化してきた。かつては神が7日で天地を創造し、自然界は創造されたままだと信じ、人類の誕生も聖書の年代を逆算して、約7千年前だと考えられたりした。しかし、宇宙観は天動説から地動説に変り、生物観や人類史観は進化論や古生物学、先史学などの進歩によって一変した。今の日本で、天地が7日で創造され、万物が聖書に書かれた通りに現存するなどと主張したら、ほとんどの人に相手にされまい。
 今日の聖書学では、天地創造物語は2千数百年昔の人知に基づいて、イスラエル民族の信仰を確立する目的で書かれたのだから、7日の期間や細部の描写は科学的真理を述べているのではないと理解されている。ただ、神が宇宙万物を無から創造し、人も起源を神からいただいたというような根本的なメッセージだけが、創世記で保持すべき真理なのだとされている。では、主の再臨も、もしそれと同じような考え方で理解していいとすれば、どう解釈できるだろうか?
 昔の人々は大地が平らで、その上をドーム型の天が覆っていると考えていた。福音書や使徒たちの手紙は当時のそういう常識を前提にして書かれた。また、そうでなかったら当時の人々には理解してもらえなかっただろう。しかし、現代は違う。比喩的な描写等は人知の進歩に応じて解釈し直してよく、変えられない重要なメッセージは世の終わりに主が再び地上に来られ、死者が復活し、全人類が裁きを受けるという事実だけだ。主が雲に乗って再臨するというのは昇天の時の逆で、神の次元から現れるために雲を利用なさるのだ、と考えればよいのではなかろうか。
 従って、「そのとき、地上のすべての民族は…人の子が大いなる力と栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見る」とある文章は、「見る」を「知る」ととれば解決すると思う。地球は丸いから、再臨の主を見ることができない人々は必ず出るが、東日本大震災の情報が瞬時に全世界へと伝わったように、今なら主の再臨も瞬く間にすべての民族に知れ渡るはずだからだ。ラッパの合図や天使の派遣は当時の周知方法だったが、比喩的で枝葉末節の表現だから文字通り受け止める必要はなく、現代的に解釈すればいい。インターネット会議ができる時代だからだ。
 他方、地球の変化を期待することは難しい。しかし、神に不可能はないはずだから、人の子の再臨のために超特大奇跡を空想することが許されるならば、こう考えることはできるだろう。すなわち、もしその超特大奇跡で、現6大陸と島々すべてがかつてのパンゲアのように唯一の大陸にまとまり、地球が煎餅型に平たくされるなら、時間差はあっても、全人類が世界の四方から集まり、主の再臨を見ることは不可能ではない。終末の時、「星は空から落ち、天体は揺り動かされる」(マルコ13;25)のなら、そのような超奇跡も天変地異の一つとしてあり得なくはなかろう、と。
 しかし、それはあくまでも、再臨がどう行われ得るかを何とかわかろうとする私の苦肉の解釈と空想に過ぎず、期待はできないし、根拠も弱い。救い主のご降誕も当時の人々の想定とはまったく違っていた。再臨でも、主は思わぬ時に来られるだけではなく、来られ方もまた私たちの想像とはまったく違う可能性が強い。そうだとすれば、最も大切で確かなことは、「あなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる」ということを、わからなくても信じて待つことだけだと思う。
プロフィール

余生風

Author:余生風
「聖書温故知新」
「思いつくまま、気の向くまま」
折にふれ「水彩画」も紹介してまいります。

「手を貸す運動」創始者
社会福祉法人「地の星」理事
元玉川大学教授

佐藤正明(余生風)ホームページ
「絵画と心」

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