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気になった一人

 復活節の第2主日には、ヨハネの福音書20;19-31が読まれる。その内容はご復活当日の夕方、主が弟子たちに現れた記事と、その8日後にまた出現なさった記事だ。2回目の御出現では、1回目の時に不在だったトマスがクローズアップされる。しかし、この個所は過去7年間に4回も考察した。だから、今回はまだ触れていなかった2点だけ、つまり聖霊を受けた使徒の派遣と権限のこと、次に使徒たちの中で気になる一人がいたことを取り上げてみようと思う。 

 まず使徒たちの派遣だが、ご復活なさった主は彼らへの最初の御出現で、大事なことを3つなさった。第一は、「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」と言われた派遣命令だ。弟子たちはこれで名実ともに使徒(アポストロス)になった。それはマタイ28;19、マルコ16;15等でも確認できる。では、何のため、どこに派遣されたのかと言うと、神の国の福音を宣べ伝え、すべての民に洗礼を授けて弟子にするため、全世界に遣わされたのだった。
 二つ目は、その派遣命令のすぐ後で、彼らに聖霊をお与えになったことだ。主はかつて、「いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまであなたがたに我慢しなければならないのか」(マタイ17;17)と嘆かれたことがあった。全世界に派遣されても、ご受難の際は臆して逃げ散った彼らだ。その時のままだったら、全世界に派遣されても、その任務は果たせなかっただろう。だからこそ彼らがその使命を全うできるようにと、主は聖霊を受けさせたのだ。 
 主は「彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい。…』」と。聖霊とは原典では「聖なる息」(プネウマ・ハギオン)を意味する。息を吹きかけられたのはその象徴的な動作だった。これは最後の晩餐の時に、「父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたといっしょにいるようにしてくださる。」「聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い出させてくださる。」(ヨハネ14;16、26)と言われた約束の実現だった。
 聖霊が共にいてくだされば、使徒の任務は全うできる。では、聖霊のお働きはこの後すぐ彼らに現れたかというと、その後の使徒たちの言動を見る限りでは、どうもそうではなく、彼らは従来のままだった。従って、『聖霊を受けなさい』と言われたこの時のお言葉は、来るべき日に現れる聖霊のお力の、「担保のような潜在力」として与えられたのだと理解してよかろう。それが実現し、使徒たちが一変するのは、50日後の聖霊降臨の日を待たなければならなかった。
 三つ目は「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」と言われた、罪を赦す権限の賦与だ。それは「聖霊を受けなさい」と言われたお言葉と密接につながっていた。王侯や国家権力は犯罪者の刑罰を赦免する権限はある。しかし、人の心にある罪を赦して解いたり、魂を清めたりする権限はなかった。それは今もない。心の罪を赦免する権限は神に属し、人が行使できる領域にはないからだ。
 だから、かつてイエス様が中風の人に「子よ、あなたの罪は赦される」と言われた時、律法学者たちは心中で主を非難して呟いたのだ。「この人は神を冒瀆している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか」(マルコ2;7)と。主が神の御子でなかったならば、彼らはまったく正しかった。まさに神以外に罪を赦せる方はいないからだ。しかし、主は神の御子であった。そして、その同じ権限を使徒たちに賦与なさったのだ。これは驚くべきことであった。
 聖霊と神与のその権限を受ければ、使徒たちは派遣の使命を全うできる。主は以前からその準備をしておられた。ペトロに天国の鍵を預けただけではなく、全使徒にも「あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる」(マタイ18;18)と言われたのがその証拠だ。ご復活後の罪を赦す権限授与はその仕上げだったのだ。このことから、主はご復活なさるや否や、もう将来の教会のために動いておられたことがわかる。
 しかし、その場にいなかった使徒トマスはその話を聞けなかった。では、彼だけは派遣命令も聖霊も受けず、罪を赦す権限も授からなかったのだろうか?いや、そうではない。主はそこにいた個人としての使徒10人に言われたのではなく、今後の後継者たちを含む使徒団全体の代表としての彼らに言われたのだ。だから、その命令や権限、聖霊の後ろ盾は後続のマチアスやパウロにも、そして12使徒の後継者たる教皇たちや司教たちにも当てはまる。そう解釈すべきだと思う。

 さて、今まで取り上げていなかったことのもう一つは、気になった一人の使徒のことだ。福音書を読む人は、主のご受難後も皆が一緒にいたはずなのに、まったく言及されない一人のことが気にならないだろうか?私は気になった。それは使徒ヨハネの兄ヤコブのことだ。気になったわけは、彼の名が最後の晩餐前後までは何回も言及されているのに、ご受難を境にぱったりと出なくなってしまうからだ。なぜだろうか?単なる好奇心からだが、それを少々調べてみようと思った。 
 使徒ヤコブはゼベダイの子であり、大ヤコブと言われる。アルファイの子と言われたもう一人の使徒ヤコブがいたからだ。こちらは小ヤコブと呼ばれる。使徒大ヤコブはガリラヤ湖の漁師だったが、イエス様に招かれて弟子団の一員になった。それも普通の弟子の一人ではなく、最側近の3弟子の1人として取り立てられていたと言っていいだろう。4福音書には、イエス様がペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人だけを伴われた場面がしばしば見られるからだ。
 まずヤコブとヨハネ兄弟はその召名の時から、ペトロとアンデレ兄弟とペアで3福音書に書かれている。マタイ4;21、マルコ1;19、ルカ5;10だ。マタイとフィリポを除けば、その他の使徒はどのように召し出されたかが何も書かれていない。それに比べ、召し出しが特記されているだけでも、ヤコブが別格の一人だったことが分かる。12使徒の一覧名簿でも、彼の名は3番目(マタイ10;2、ルカ6;14)または2番目(マルコ3;17)の位置にある。福音書記者から一目おかれていた証拠だ。
 次に、主がペトロ、ヤコブ、ヨハネの3人だけを伴われた場面が、何回も伝えられている。ガリラヤでの福音宣教中、死んだヤイロの娘を蘇生させられた時(マルコ5;37、マタイとルカも)はその一つだ。主が山上で変容された時(マタイ17;1)もそうだった。この時はその場景の目撃証人者として、復活後までは秘密にするよう命じられた。それほど信頼されていたということだ。主が神殿の崩壊を予言された後、その時期を質問した(マルコ13;3)のもこの3人だ。そして、捕えられる前のゲッセマネの園でも(マタイ26;37)、ヤコブは3人の1人として主の最も近くにいた。

 イエス様はヤコブとヨハネ兄弟に「雷の子」というあだ名(マルコ3;17)を付けられた。シモンにもケファ(ペトロ=岩)という名(ヨハネ1;42、マタイ16;18)を与えられたが、これはどちらかと言うと彼の使命を表すまじめな別名で、後には彼の本名みたいになってしまったが、ヤコブの場合は違った。あだ名「ボアネルゲス、すなわち、雷の子」のボアネルゲスはギリシャ語ではなく、崩れたアラマイ語で、「ボアネ」は「ブナイ」(子ら)の変形、「ルゲス」は激情の意味だ。だから「雷」なのだが、それは直情的で怒りっぽい彼の性格を半ばからかい、半ば懸念してつけたようなあだ名だった。
 その性格は時々困ったことをやらかした。例えば、いよいよエルサレムへ向かった時だった。サマリアの村がイエス様を歓迎しなかったのに憤慨した彼と弟ヨハネは、「主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか」(ルカ9;54)と、とんでもないことを言ったのだ。「お望みなら」とは、主をそんな非情残酷で反福音的な報復行為の共犯にする誘いに他ならなかった。だから、この時は主から厳しく叱責された。彼はこんな間違いをしやすかったようだ。
 福音書は使徒たち間の勢力争いというか、人間的な出世争いのようなものがあったことも伝えている。欠点だらけだったのだ。こともあろうに、それはイエス様が死と復活の2度目の予告をなさった直後だった。彼らはだれが一番偉いかを議論したのだ。それで主は「一番先になりたい者は、すべて人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい」(マルコ9;33-35、ルカ9;46-49)と教えられたのだった。ここにはヤコブの名はないが、私には議論の発端は彼ら兄弟だっただろうなという心証がある。
 それはヤコブとヨハネがイエス様にした願い事(マルコ10;35-45)から察しが付く。マタイ20;20-28では二人の母の願いになっているが、要するに主が王座に着かれたら、兄弟をその左右に座らせてくださいという厚かましい願いだった。今なら大臣席を狙った猟官運動だ。これを聞いた他の10使徒は2人にすごく憤慨した。それも同じ野心があった裏返しだったのだろうが、誰が一番偉いかの議論もおそらく2人が火をつけたのだと推察できる。ヤコブはペトロと張り合っていたのだろう。
 もちろん主は戒めて、「異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、一番上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい」と教えられた。それは最後の晩餐の席でも蒸し返された(ルカ22;24)ようだ。ヨハネでは議論はないが、洗足後に同じ戒めが話されている。主はそれが気がかりだったのだと思う。

 これらの言動や出来事を総合してみると、ヤコブの人物像がいくらか浮かび上がってくる。召命の時、父と舟を捨ててすぐ主に従ったのを見ると、彼は去就の決断ができる人だった。しかし、過激に走りやすい性格のせいで周囲と対立しがちだった。従って、主の3側近の1人だったからほどほどの尊敬は受けていたものの、仲間たちからはリーダーと見られていなかったのだ。漁師だったせいか、考え方は実利的で、神の国も地上的に理解し、福音の精神にも半可通のままだったのだと思われる。
 だから主が捕えられた時、ペトロは剣を抜いて立ち向かったのに、彼は何もしなかった。損得勘定がマイナスに働いたのだろう。ペトロもまだ主の教えをよく理解してはいなかったが、彼には純粋さと忠誠心があった。だが、実利的ヤコブは神の王国を地上的に考えていたから、メシアが捕まって死ぬという主の予言に失望した。そして、主が実際に捕えられると、もうだめだ、望みは絶たれたと状況判断するや、主を見限って、わが身を守る方に去就を決したのだと推察できる。
 彼の名がご受難以後の福音書記述からまったく消えたのは、そこが境目だったように思える。ペトロは司祭長の屋敷に忍び込み、ヨハネは十字架の下にいた。ある程度努力はしたのだ。3側近で何もしなかったのはヤコブだけだった。その後、婦人たちがアリマテアのヨゼフと共に主を墓に葬った時は、12使徒は誰一人そこにいなかったようだ。ユダヤ人を恐れて隠れ家にこもり、息をひそめていたのだ。その点ではペトロもヨハネも他の使徒も同じで、皆、卑怯者だった。
 しかし、復活の朝、婦人たちの知らせを受けるとまた違いが出た。ペトロとヨハネは墓に走った。その後、仲間たちが「本当に主は復活して、シモンに現れたと」(ルカ24;34)と言っているところを見ると、ペトロはもう一度墓に行った可能性がある。動機はどうであれ、トマスもどこかに行っていたから、主のご出現の時に不在だった。しかし、ヤコブが動いたり何か言ったりした形跡は皆無なのだ。彼は周囲にお構いなく、失意の中で今後の身の振り方を考えていたのではなかろうか。
 そんな兄ヤコブを見たヨハネは失望し、兄に愛想を尽かしたのではないかと私は推測する。驚くべきことだが、ヨハネの福音書は主のご復活後の弟子たちの会話や動向をくわしく伝えているが、その全編を通してヤコブの名は一度も記述していないのだ。兄弟だからさし控えたことも考えられるが、唯一ヤコブの存在を示唆しているのが21章2節だけで、それもペトロ、トマス、ナタナエルの名は明記しているのに、「セベダイの子たち」と書いてあるだけとは異常だと言うしかない。
 これを見ると、弟ヨハネは兄と縁を切ったとは言わないまでも、ご受難以後はもう行動を共にしなくなったのだと思われる。代わりにペトロと組むようになった。それは復活の朝、二人で墓に走ったことが決定的な契機だったように思える。ヨハネ21章にある不思議な大漁の時も、主がペトロに彼の死に方を予言された時も、ペトロとヨハネはお互いに知らせ合ったり、お互いのことを主に尋ねたりしたが、ヤコブのことはまったく出て来ない。彼は関心外にあったことがわかる。
 ペトロとヨハネの二人組は使徒言行録になるともっと歴然とする。2人は揃って神殿に行き(徒3;1)、揃ってソロモンの回廊で説教し(同3;11-26)、神殿の衛兵から一緒に捕えられて、大祭司たちから取り調べを受け(同4;1-22)ている。使徒言行録ではその他に使徒フィリポ、弟子のバルナバやステファノ、パウロのことが語られる。しかし、ヤコブの名は1章の使徒全員のリストの中以外では12章まで皆無だ。そのリストでも、ペトロ、ヨハネ、ヤコブ…と順位が下がっている。

 いったい、それらは何を意味するのだろうか?ヤコブが一番の味方だった弟ヨハネに見限られ、同僚使徒や他の弟子たちの信用も減って、注目されなくなっていたことを意味すると思う。それはかつての言動や、主のご受難以後何もしなかったことの結果だったのだろう。では、そんな者を側近の使徒に取り立てたのは、主に人を見る目がなかったということだろうか?そんなことはない。主はわけがあって、すべてを承知の上で彼を使徒になさった。その真実は神だけがご存知だ。
 私は彼への言及がご受難以後、新約聖書の中で皆無に近いのは、他の人々が彼を重んじなくなったからだけではなく、彼自身が沈黙の中にいることをよしとし、それを選んだからではないかと思いたい。ペトロが主を裏切ったことを悔いたように、彼も自分の言動を悔いて、もはや注目してもらうには値しないと自覚し、世の毀誉褒貶は眼中に置かず、絶対の沈黙に留まったからではあるまいか。思い切りよかった召命時の決断力が、ここでも働いたのではないかと想像するのだ。
 だから、彼を低く見てはいけないと思う。彼も他の使徒たち同様に聖霊降臨の日には聖霊の力を受け、主の福音を完全に理解したはずだ。彼は自分に出来ることを行い、他の使徒たちが各地に散って行った後、自分に委ねられたエルサレム教会の司牧に徹した。そして、西暦43または44年に王ヘロデ・アグリッパ1世の時に殉教した。使徒言行録12;1-2はそれを、「ヘロデは…ヨハネの兄弟ヤコブを剣で殺した」と伝えている。ご受難後、ヤコブについて唯一のまとまった叙述だ。 
 しかし、私はその1行に思いを致す。一人の使徒の生き様がそこに凝縮されているからだ。彼は主の十字架の死に続いて殉教した最初の使徒だ。ご受難の時に主を捨てた負い目を、彼は自分の命をもって返した。自分の間違いを償うため沈黙に徹し、最後は主ご自身の死に近い壮絶な死を受け入れたのだと思う。だからすごい。私などには到底まねはできない。ちなみに、使徒言行録15;13やパウロの手紙に出てくる「主の兄弟ヤコブ」は別人で、使徒ヤコブの後継者だ。 
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主の復活の記憶

復活祭の朝
復活祭の朝  カナダの牧場の道
Dic nobis, Maria, quid vidisti in via.
    
 主イエス・キリスト様のご復活は、もう2000年も昔のことだ。それなのに、あたかも一昨日十字架上で亡くなり、今日復活なさったかのように、それを祝う復活祭はやはり嬉しく、心が晴れやかになる。そして、アレルヤ!と声に出したくなる。毎年味わう感懐だ。ミサはカトリック町田教会で10時半にあずかった。祭壇脇には復活祭の新しい大ローソクが立ち、赤い十字架の上下には時の始めと終わりを示すΑとΩ、横画の上下には今この時を表す2011がはめ込まれていた。 
 高木神父様の説教はこの日の福音ヨハネ20;1-9についてだったが、印象に残った点が二つあった。一つは、主の復活が週の初めの日であったことの意味合いだ。週の初めの日とは天地創造の初日に当たるが、それはキリストの復活によって、新しい創造が始まったことを意味するという話だった。もう一つは、その朝、マグダラのマリアが墓に向かって泣いていた時、イエス様が墓の方からではなく、後ろから声をかけられた意味合いだ。主はもう空の墓にはおられない。後ろから話されたことは復活した主を意味する、と。考えたことのない見方だったので心に残った。

 しかし、「聖書と典礼」後記には「うーん」と思うことがあった。筆者は大阪の中川神父だったが、読んで首をひねった。まず題名が「復活は喜びへの希望です」とへんだった。なぜ「復活は喜びです」とか「~は希望です」とか、「~は喜びと希望です」とかにしなかったのだろうか?「喜びへの希望」とは何のことか、意味がよく通じない。内容はもっと疑問だらけだった。大半はハンセン氏病で死んだ歌人明石海人のことに割かれていたが、主のご復活と何らつながっていなかったのだ。
 そして復活そのものについては、「わたしたちは、復活を死体の蘇生と誤解しがちです。しかし、…それは、人と人との間に紡がれた〈交わり〉とその〈暖かさ〉が永遠だという意味です。…復活の信仰は、そうした無数の忘れられた大切な〈交わり〉の永遠性を教えてくれるのです」と書かれていたので、これにも驚いた。これでは「体の復活」を否定していると誤解されかねないし、主の復活の意味も曖昧で、その喜びはほとんど伝わらない。他のタイミングと紙面でならいざ知らず、復活祭の特別号に、オリエンス宗教研究所はなぜこんな一文を掲載したのだろうか?見識が問われる。

 しかし、思わぬ嬉しいことも一つあった。この日のミサ中に3人が洗礼を受けたのだが、その一人が東玉川学園の方で、奇遇と言うか、おもしろいご縁で知った顔だったからだ。洗礼後、ミサの進行係が近隣の方はお近づきになってあげてくださいと言ったので、パーティの時に近くの成瀬台にいますと挨拶したら、「佐藤さんですよね」とこちらの名前を知っておられたので驚いた。すると、「ベリーの主人です」と言われた。顔をみると、なるほどベリーちゃんの御主人だったのだ。
 ベリーちゃんとは茶色い小型犬トイプードルの名前だ。以前は奥さんが散歩に連れて出て、初めは人見知りする仔犬だったが、次第に慣れてきて、私を見ると独特な「キュン、キュン」と言う鼻声を出しては近づき、なでてやると満足して去るのが常になっていた。ところが昨年半ばから奥さんが見えず、御主人らしい男性が代わってベリーを散歩させるようになっていた。御主人は知らないが、犬は覚えていて近づくから撫でてやり、その都度ありがとうございましたと言われていた。
 その御主人が洗礼を受けた人だったのだった。新藤さんという名だったが、そちらはわが家の前を散歩でよく通るから、私の名を知っていたわけだ。パーティの時の自己紹介で、昨年フランス旅行後、ご夫妻で教会へ行こうと決めたところ、奥様は脳梗塞で急逝なさったのだとか。それでご主人がベリーを散歩させるようになっていたのだった。教会へ行きたいと願っていた奥さんは、きっと希望の洗礼で神の国に行けたと思う。その御主人がキリストにおける兄弟となられたことは大きな喜びだった。犬を介しての不思議なご縁なので、今度会ったらベリーにもありがとうと言おう。

 さて、今日の福音は過去に3,4回考察しているから、もう十分と見なし、今回は第一朗読の使徒言行録10;34-43を取り上げてみる。この個所は初代教会のまさにケリグマティックな福音宣教と、その雰囲気を色濃く伝えている。そこから感じとれるのは、主の復活の鮮明な記憶だ。だから、読めば読むほど味わい深く、静かな感動を覚えさせるのだと思う。ある意味で、ここは主イエス・キリスト様によって達成された救いのみ業の、最も優れたレジュメだと言ってもいいだろう。
 内容は使徒ペトロがカイザリアのコルネリウス家で行った説教だが、それは次のような文脈の中で行われたのだった。コルネリウスはローマ軍の「イタリア隊」と呼ばれた部隊の百人隊長だったが、信仰心厚く、民をいたわり、いつも神に祈っていた。ユダヤ教徒ではなかったが、唯一の神を畏敬する人だったのだ。ある日その彼に幻が現れ、天使からヤファの町にいるシモン・ペトロを招くようにと告げを受けた。そこで彼はすぐ三人の使いを送った。ヤファまでは約50㎞だった。
 翌日、彼らがその町に近づいていたころ、他方のペトロは皮なめし職人シモンの家の屋上にいて、空腹を覚えていた。昼の12時ごろだったからだ。すると、天から大きな入れ物が四隅で吊るされて下って来た。見ると、中には獣鳥爬虫類が入っていて、「ペトロよ、身を起こして、屠って食べなさい」という声がした。彼は反射的に、「主よ、とんでもない。清くない物は何一つ食べたことはありません」と答えた。すると声は「神が清めた物を、清くないなどと言ってはならない」と言った。
 それが3度繰り返されると、入れ物は天に引き上げられて行った。そこで、この幻はいったい何だろうかと、思案に暮れていた時、コルネリウスからの使者が着いたのだった。「ペトロと言う方はどなたですか」と尋ねられたので、「私です」と答えると、使者たちはコルネリウスが幻で天使から、あなたの話を聞くようにと告げられた旨を伝えた。そこで翌日、ペトロは使者たちと共にカイザリアへと赴いたのだった。このことから、使徒ペトロは当時はまだパレスチナにいたことがわかる。
 彼らが到着すると、コルネリウスはもう親類や友人たちを家に集めて待っていた。そして、ペトロを見ると、前にひれ伏して拝んだ。すると、ペトロは彼を起こして言った。「お立ちください。わたしも人間です」と。演説前だが、私はここもすばらしいと思う。偽宗教家はえてして自分を別格化したり神格化したりするが、神の前に人はみな対等だと考える、福音的自己認識の真骨頂がここに見られるからだ。最後の夕食で主に足を洗ってもらった時の戒めが、そこにはしっかり生きている。
 ペトロは言った。「ユダヤ人は外国人と交際したり、外国人を訪問したりすることを律法で禁じられています。けれども、神はわたしに、どんな人をも清くないとか、汚れているとか言ってはならないとお示しになりました。それで、お招きを受けた時、すぐ来たのです。お尋ねしますが、なぜ招いてくださったのですか」と。コルネリウスは幻で見かつ聞いたことを話し、「わたしたちは皆、主があなたにお命じになったことを残らず聞こうとして、神の前にいるのです」と答えた。

 そこで、ペトロは口を開いて語った。それがこの復活祭で読まれた使徒言行録10;34-43の内容なのだが、私はこれを読むとキリスト教の要点がよく分かると思う。
 彼は開口一番、「神は人を分け隔てなさらないことが、よくわかりました。どんな国の人でも、神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れられるのです」と言った。これは非常に感動的な人間の平等宣言だ。彼はガリラヤ生まれでも、異邦人を汚れていると見る根っからのユダヤ人だったが、そんな彼も聖霊の働きではっきり悟ったのだった。幻で見たあの天からの不浄な鳥獣爬虫類は異邦人の象徴であって、神はそれを自分たちと同じように清くなさろうとしているのだ、と。
 そして、ここからは対等ですと謙遜する人間ペトロではなく、聖霊の力に満たされて、「神がイエス・キリストによって、-この方こそ、すべての人の主です-平和を告げ知らせて、イスラエルの子らに送ってくださった御言葉を、あなたがたはご存知でしょう。ヨハネが洗礼を宣べ伝えた後に、ガリラヤから始まってユダヤ全土に起きた出来事です。つまり、ナザレのイエスのことです」と単刀直入に、権威をもって、主イエス・キリスト様の出現によって起こった出来事を話し出した。
 そこには出しゃばったり勇み足をしたりしては主に叱られたペトロではなく、聖霊が共にいてくださるペトロがいた。この時の話は彼が聖霊降臨直後に語った説教よりも短いが、内容の濃さと的確さでは少しも劣らない。聖霊降臨の時はエルサレムの住民や諸国から来ていたユダヤ人たちに話したので、預言書や詩篇を引用したが、この時は聞いていたのが異邦人たちだったから、そういう引用はしなかった。だから簡潔だが、それだけに迫力がある。彼は続けて言った。 

 「神は聖霊と力によって、この方を油注がれた方となさいました。イエスは、方々を巡り歩いて人々を助け、悪魔に苦しめられている人たちをいやされたのですが、それは神がご一緒だったからです。わたしたちは、イエスがユダヤ人の住む地方、特にエルサレムでなさったことすべての証人です。人々はイエスを木にかけて殺してしまいましたが、神はこのイエスを三日目に復活させ、人々の前に現わしてくださいました。しかし、それは民全体に対してではなく、前もって神に選ばれた証人、つまり、イエスが死者の中から復活した後、御一緒に食事をしたわたしたちに対してです。そしてイエスは、御自分が生きている者と死んだ者との審判者として神から定められた者であることを、民に宣べ伝え、力強く証しするようにと、わたしたちにお命じになりました。また預言者も皆、イエスについて、この方を信じる者はだれでもその名によって罪の赦しが受けられる、と証ししています。」

 その部分ごとに、少々解説を加えてみる。「神は聖霊と力によって…」以下「すべての証人です」までは説明がなくても、読めばわかる。ただ、イエス様のガリラヤとユダヤにおける福音宣教の3年間を、「方々を巡り歩いて人々を助け、悪魔に苦しめられている人たちをいやされた」の短い言葉で要約したことは注目に値する。主の教えについては全く触れず、人々を助け悪魔に苦しめられていた人たちを癒したことだけに言及し、それを神が共におられた証しとしているからだ。
 それに対して、主の死と復活にかかわる40日前後の事柄ついては、「人々はイエスを木にかけて…」から「御一緒に食事をしたわたしたちに対してです」まで、3年間のことと同じほど語っている。これは主の死と復活とが使徒たちにいかばかり強いインパクトを与え、それが昨日のことのように鮮明な記憶として残っていたかを物語る。福音のすばらしさはもちろんだが、彼らを突き動かす最も強い原動力となっていたのは、主の死と復活の特別な証人だという自覚だったのだろう。
 「人々はイエスを木にかけて殺してしまいましたが」と言う表現は、婉曲的な言い方など一切気にせず、ずけずけと率直だ。飾りっ気のないガリラヤの漁師出身らしい。それだけに生々しさがじかに伝わってくる。そして、「神はこのイエスを三日目に復活させ、人々の前に現わしてくださいました。」という言い方には、それが全く疑問の余地のない事実として、すでに初代教会の非常に早い時期から、定型化した表現になりつつあったことを思わせる。
 私がとりわけて興味深いと思うのは、「しかし、それは民全体に対してではなく、前もって神に選ばれた証人、つまり、イエスが死者の中から復活した後、御一緒に食事をしたわたしたちに対してです」というくだりだ。聖霊降臨後の説教では、「わたしたちは皆、そのことの証人です」(徒2;32)という一言はあるが、この時のように明確な限定はしなかった。これは神様が救いの業をどう続けようとなさっているかを、聖霊降臨後少し経った頃の教会がどう理解し始めていたかを物語る。
 ある人は言うかも知れない。「神はイエス・キリストを死なせなくても救いができたのではないか?」と。また、こう問うかも知れない。「なぜイエスは天に昇られたのか?復活した体のまま世の終わりまで地上にいてくれたら、異端も迷いも生まれず、人々は確実に福音を信じられただろうに」と。初代教会にはそんな呟きも生まれていたのかも知れない。ペトロの説教にはそういう呟きへの答えも含まれていたと思われる。どんな答えかというと、「そうだ、そうしようと思えば神にはどちらもできた。だが、それは父と子と聖霊である神のお考えではなかった」という答えだ。
 神は復活の主を「民全体に対して」ではなく、「前もって神に選ばれた証人、つまり、イエスが死者の中から復活した後、御一緒に食事をしたわたしたちに対して」だけお現わしになったという指摘も、なぜ皆にではなく使徒たちだけに現れたのうかという疑問への答えだった。それは使徒たちの証言を信じる者が罪を赦され、神の子となれるためだった。救いは何もしない人にではなく、信じるというふるいにかけられた人に与えられる。ペトロは神様のそのやり方を明言したのだ。
 それに続く「御自分が生きている者と死んだ者との審判者として神から定められた」と言う一節は、後に使徒信条に「生者と死者を裁くために来られます」と盛られる文言が、すでに初代教会の早い段階で、このように定型化していたことがわかる。それはペトロの第一の手紙4;5でも、「生きている者と死んだ者とを裁こうとしておられる方」と表現され、またパウロのテモテへの第二の手紙4;1にも同様な表現があることで確認できる。
 そして、そういうメッセージを「民に宣べ伝え、力強く証しするようにと、わたしたちにお命じになりました」というくだりは含蓄的にある一つの答えでもあったと思われる。おそらく初代教会では、なぜ救いの福音が使徒たちに委ねられたのかと、その権限について多少の疑問が起きていたのだろう。聖パウロのコリントの信徒への第一の手紙1;10-13、3;4-9などはそれを窺わせる。だからこそペトロは使徒たちが証人として受けた使命を強調し、明言したのではないだろうか。

 「この方を信じる者はだれでもその名によって罪の赦しが受けられる」という最後の一節の意味は明らかだ。しかし、「その名」については一考しておこう。新共同訳は主の名をイエス・キリストに統一したが、高木神父様は今もイエズスと発音しておられる。いったいどれがふさわしいのだろうか?かつて共同訳試案が出た時、それはイエスス・キリストだった。そもそもギリシャ語原典がその発音だったし、プロテスタント聖書はイエス、カトリック聖書はイエズスだったので、一方にはスを一つ追加し、他方にはズをスに換えてもらうだけでいい妥協案だったからだ。だが、賛成は得られなかった。そこで、どちらかと言えばカトリックが譲った形で、一応「イエス」に統一したのだった。
 ではイエスという発音は最良なのだろうか?そうは思えない。イエスかノーかのイエスと同音だし、私の知る限りでは外国語でそういう発音はないからだ。ギリシャ語原典は上述の通りだが、例えばラテン語とドイツ語ではイエズス・クリストゥス、フランス語はジェズ・クリ、スペイン語はヘスクリスト、英語はジーザス・クライストで、実に多様だ。ならば、日本語ではイエスでもいいではないかという意見もあろうが、それならなぜイエスでなければいけないのかという意見も成り立つ。私はむしろイエスの発音にこだわった人々の気が知れない。こんな一事でさえ一致は至難なのだ。
 そこで私が提案したとする。「本当の発音を見落としていませんか?主ご自身も使徒たちも口にしていたのはヘブライ語の発音で、『イェシュア・ハ・マーシアーハ』でしたよ。主と同じ発音をすることになるのなら、いっそのことそれで統一したらどうですか?」と。反応は想像がつく。皆、「いやだ!」と猛反発することだろう。信者になると、それほど保守的で、ある時点で信じたことを変えたがらなくなる。ファリサイ派の人々も同じだったから、主の福音を受け入れることができなかった。
 では、どうしようか?最良はイェシュア・ハ・マーシアーハ様だと思うが、それへの適応が期待ゼロならば、小原國芳先生のように「エス様」と呼ぶもよし、高木神父様のように「イエズス様」と言うのにも共感できる。個人的には「イエス」という発音は最悪だと思っている。だが、“In neccessariis, unitas”(必要な事では一致)の観点から、「イエス」で我慢しているだけだ。でも、必ず様は付ける。そして思う、一番大事なのは、そのみ名の発音がどうであれ、それを信じて罪の赦しを受け、救われることだ、と。

 この個所のすぐ後を読むと、感動的な場面が展開する。ペトロが話し続けていると、聞いている一同の上に聖霊が降ったのだ。ペトロに同道していたユダヤ人信徒たちはそれを見て驚嘆した。異邦人が異言を話し、神を賛美したからだ。それはまさに二度目の聖霊降臨だった。一度目はペンテコステの日、使徒たちイスラエル人に対してだった。しかし、この時は異邦人に対する聖霊降臨だった。異邦人への福音は聖パウロの宣教前に、もう始まっていたのだ。
 それを見たペトロは「わたしたちと同様に聖霊を受けたこの人たちが、水で洗礼を受けるのを、いったいだれが妨げることができますか」と言って、イェシュア・ハ・マーシアーハの名によって洗礼を受けさせた。その恵みは現代でも再現される。町田教会だけでなく、この復活祭に全世界で行われた洗礼は、かつてカイザリアであったことの再現で、主が復活なさったからこそある出来事に他ならない。それは現代でも、主の復活の鮮明な記憶であり証しなのだ。 

聖週間日記:聖金曜日、聖土曜日

4月22日 聖金曜日
 イエス様のご受難と死を想起するこの日は心が重い。ところが午前十時ごろ、ファックスが鳴った。そして、須藤勝江さんから無事だという知らせが入った。まるで復活の喜びを少しばかり前倒ししたような嬉しいニュースだった。いわき市在住の方だが、住まいが海岸から4キロぐらいしか離れていないので、津波に巻き込まれたのではと懸念されていた一人だった。地震後、水戸に一時避難していたが、やっと家に戻ったところ、安否を気遣うハガキを見てファックスしたとのことだった。神に感謝!こちらもすぐに絵はがきで喜びの返信を書いた。手を貸す運動の支援者中、津波の犠牲になったのではと特に心配だった5人の中で、これで3人は無事がわかった。あと2人が気遣われる。

 今年の聖金曜日の聖書はイザヤ52;13-53;12、ヘブライ人への手紙4;14-5;9、ヨハネ18;1-19;42だ。この福音の朗読は非常に長い。だから、これは祭式で朗読される時に黙想することにして、ここでは気付いたことだけを少々考察するにとどめようと思う。気付いたことの一つは、福音の中に見られる独自の描写や言及だ。二つ目は、弟子もユダヤ人たちも入れなかったピラト官邸内の裁判などがどうしてわかったのかという疑問だ。
 どの福音書にも共通性と同時にその福音書だけの独自性はあるが、特にヨハネ福音書は他の福音書にない具体的な言及や、出来事の独自の記述が目立つ。しかし、この日読まれる18章19章に限っては、むしろ例外的と言えるほど共観福音書と共通している。それはイエス様の逮捕と連行、ペトロの否み、大祭司の尋問、ピラトの尋問、死刑の判決、十字架の処刑、主の死と葬りを伝えているが、ほぼ他の福音書の内容や順序と合致しているのだ。そうは言っても、やはり独自の描写や言及は多い。それをピックアップしてみよう。
 例えば、18;1-11はゲッセマネの園での場面だが、イエス様は捕えに来た群衆の前に進み出て、「だれを捜しているのか」と問われた。彼らが「ナザレのイエスだ」と答えると、イエスは「わたしである」と言われた。すると彼らは後ずさりして、地に倒れたと書かれている。このようなやりとりと出来事の描写は他の福音書にはない。群衆が気圧されて後ずさりし、神の子への怖れから倒れた描写は、目撃者ならではの迫力十分な証言だ。
 4福音書はペトロが剣を抜いて大祭司の手下の片耳に切りつけたことを記録している。しかし、それが右耳だったと書いたのはヨハネとルカだけだ。そして、その手下の名がマルコスだと伝えているのはヨハネだけだ。松明があっても園は暗く、人でごった返していた。そんな状況で、どうして人名と右耳が特定できたのだろうか?ルカはイエス様が彼の耳を癒されたと書いている。彼がそれに恩を感じ、後に信者になって、切られたのは私の右耳だ、と語ったからではなかろうか。それにしても、右耳を切り落とすなんて、ペトロは左利きだったのだろうか…
 彼らがイエス様を連行した場所も、共観福音書では大祭司カイアファか大祭司の屋敷だが、ヨハネはまずアンナスのところへ連れて行ったと書き、その人が大祭司カイアファのしゅうとめだったからだと、その理由も付け加えている。おそらく実力者だったのだろう。「この弟子(ヨハネ)は大祭司の知り合いだった…」(ヨハネ18;15)から、そのような事情を知りえたのだった。ひょっとしたらマルコスという手下も知っていた顔だったのかも知れない。
 最高法院での裁判では、大祭司の質問にイエス様が無礼な答え方をしたと言って、下役の一人が主を平手打ちする場面がある。そのやりとりと行動もヨハネの福音書だけに書き残されている。大祭司たちが主をローマ総督のピラトのもとへ連行した時、彼らが官邸に入らなかったことに言及したのもヨハネだけだ。それは「汚れないで過越の食事をするため」(ヨハネ18;18)だったと書いている。この記述のおかげで、私たちには裁判が過越の前日だったことがわかるのだ。
 主が十字架に磔にされたとき、罪状札がつけられた。4福音書ともそれに言及しているが、マタイは「ユダヤ人の王イエスである」、マルコは「ユダヤ人の王」、ルカは「これはユダヤ人の王」と書かれていたと記録している。しかし、ヨハネだけは「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」と、ヘブライ語、ラテン語、ギリシャ語で書かれていたと伝えている。一番くわしく状況に合った記述だ。おそらくヨハネが伝えた罪状書きが正確な内容で、他の福音書はアバウトに書いたのだと思われる。
 十字架上からの主のお言葉もヨハネでは共観福音書の伝えないものがある。マタイとマルコでは「わが神、わが神…」の一言しか記録されていない。ルカでは三言(または二言)だが、ヨハネでは4回で、どれも他の福音書にはない言葉だ。特に印象的なのは聖母と愛弟子ヨハネが寄り添っているのを見て、「婦人よ、ご覧なさい。あなたの子です」と言い、弟子には「見なさい、あなたの母です」と言われた。母マリアへの心遣い溢れたお言葉だ。そして、「渇く」にはその苦悶の激しさ、「成し遂げられた」には天父から受けた使命への達成感がにじみ出ている。
 主を葬った最後の場面では、共観福音書はこぞって、アリマタヤのヨセフがピラトに願い出てご遺体を貰い受け、婦人たちと一緒に岩穴の墓に仮安置したことを伝えている。ヨハネでもそれは同じだが、彼だけはそこに長老のニコデモが加わっていたことを書き残した。そして、その日がユダヤ人の「準備の日」であったことにも言及している。それは神殿で小羊を屠り、その日没後から始まる過越の食事の準備をすることを意味した。ヨハネはそこに関心があったようだ。

 さて、ここまではヨハネの福音書にだけある点を取り上げてみたが、それらが語られた場面のいくつかでは使徒ヨハネ自身が目撃者だった。ところが、彼自身が目撃者にはなれなかった場面もあった。例えば、最高法院やピラトの裁判がそうだ。たとえ彼が大祭司の知り合いだったとしても、長老や議員だけで構成する最高法院に、一般人だったヨハネが入れたわけがない。では、その裁判の様子や言葉のやり取りを、彼はどうして知ることができたのだろうか?その場にいた者が後に明かしてくれたからだ。最高法院の裁判には議員アリマタヤのヨセフとニコデモがいた。
 ピラトの裁判では彼も群衆に交じっていたのかも知れない。「弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった」(マタイ26;56)とあるが、少なくともペトロとヨハネは、素性がばれないよう用心しながら大祭司館の庭に忍び込んだ。ヨハネは十字架の下に聖母といたのだから、十字架の道行きでもピラトの裁判でも、遠くから様子を見ていたのだろう。そうだとすれば、ピラトとユダヤ人とのやり取りや「十字架につけろ」と叫んだ声は聞き、騒ぐ様子は目撃しただろう。
 しかし、ピラトが官邸内でイエス様を尋問したやりとりや、兵士たちが主に茨の冠をかぶせ、紫の衣を着せ、「ユダヤ人の王、万歳」と言って平手打ちしたこと等は、邸内に入らなかったユダヤ人たちは目撃していないし、ヨハネももちろん知らなかっただろう。それを知り得たのは邸内にいた人たちだけだ。では、その中に後に証言者となった人がいただろうか?いたと思う。それは百人隊長だ。彼は主の死に感銘を受け、「ほんとうにこの人は神の子だった」(マルコ15;39)言った。おそらく後に信仰者になったと思われるからだ。

 実はここまで書いた後、カトリック町田教会に行ってきた。祭壇からは布がはがされ、正面の大十字架は覆いがかけられていた。聖櫃には御聖体もなく、花は飾られず、蝋燭も点火されない。すべてが喪に服して沈黙の中にあった。そういう象徴的な物体の押し黙った表情は、むしろ言葉よりも雄弁に思われた。そして、教会に行く前にしたような知的な考察は、聖金曜日にはふさわしくないと痛感した。
 この夜の典礼で読まれたイザヤ52;13-53;12にはあらためて感銘を受けた。まるでイエス様のご受難の幻を見たかのように、よくも500年前にこれほど見事に当たっている預言を書けたものだと、驚きを禁じえなかった。ヨハネの福音朗読では主のご受難を思い巡らした。群衆に交じって忍びこんだ使徒ヨハネのつもりで、私はピラトに要求する民衆の声に心で反対し、「十字架に付けろ」の叫びでは、やはり口をつぐんだ。
 主の最後の「成し遂げられた」と言われたお言葉は、委ねられた救いの業を「全部やり遂げました」と、父なる神に報告なさったのだと思えた。それには「わが神、わが神、なぜわたしを見捨てられるのか」と叫ばれた極限の苦悩も耐えた末の、大いなる安らぎがあると思った。しかし、聖母の苦しみは終わっていなかった。だから、聖土曜日は聖母と共に悲しみを共にする日だと思う。
 明日はその聖土曜日だ。イエス様が墓におられる日だから、私もこの日は沈黙の日とし、書くのもやめる。

聖週間日記:聖木曜日

ペサハ

 4月21日、町田教会の聖木曜日ミサは午後7時半からだった。それに与って来た。聖なる三日間の特別な典礼だが、聖書は出エジプト記12;1-14、聖パウロのコリントの教会への第一の手紙11;23-26、ヨハネの福音書13;1-15だった。
 出エジプト記12;1-14はエジプトから脱出したイスラエル民族が、神の救いに感謝して過越の祝いを定め、世々それを続けなければならない掟として伝えている個所だ。それに対し、聖パウロのコリントの教会への第一の手紙11;23-26は新約の過越の食事について語る。そこにある言葉はミサの中で最重要な位置にあるものだ。なぜなら、ローマカトリック教会における現在のミサ聖祭は新約の過ぎ越しの祝いに他ならないが、その最も中枢的な部分である聖変化は、まさに聖パウロのこの個所からとられた言葉だからだ。司祭はそれを次のように言う。
 「主・イエスはすすんで受難に向かう前に、パンを取り、感謝をささげ、割って弟子たちに与えて仰せになりました。『皆 これを取って食べさない。これはあなたがたのために渡されるわたしのからだ(である) 。』 食事の終わりに同じように、さかずきを取り、感謝をささげ、弟子に与えておおせになりました。『皆 これを受けて飲みなさい。これはわたしの血のさかずき。あなたがたと多くの人のために流されて、罪のゆるしとなる新しい永遠の契約の血。これをわたしの記念として行いなさい』」と。聖ルカは聖パウロの言葉をその福音書22;14-20に反映させた。聖パウロがルカ福音書から引用したのではない。逆だ。
 ヨハネ13;1-15はイエス様がご自分の時が来たことを悟り、弟子たちをこの上なく愛されたこと、夕食の席で弟子たちの足を洗って、互いにどうすべきかの模範を示されたことを伝えている。本日の朗読外だが、その後で裏切りに言及された19節では、「事が起こる前に、今、言っておく。事が起こったとき、『わたしはある』ということを、あなたがたが信じるようになるためである」と言われた。今まで見落としていたが、『わたしはある』は出エジプト記3;14の神の御名と同じで、実に驚くべき一言だ。

 ところで、ルカは主が「あなた方と共にこの過越の食事をしたいと、わたしは切に願っていた」(ルカ22;15)と言われたこと書き残している。なぜ切に願われていたかと言えば、それは旧約の過越にとって代わる新約の過越が誕生する時だったからだ。ミサ聖祭とはまさに新約の過越の記念だが、聖週間の聖木曜日はあらためてその恵みを年に一度、特別に思い起こして祝う日に他ならない。旧約の過越と新約の過越との間には共通点があるが、同時に決定的な違いもある。
 違いを見てみると、旧約の過越はイスラエルの民だけのものだったが、新約の過越は全人類のものだった。前者では一民族をエジプトの奴隷状態から救った神の業だったが、新約の過越は全人類を罪と死の奴隷状態から救った神の業だった。前者では屠られたのが動物の小羊だったが、後者で屠られたのは神の小羊だった。それによって前者が目指したのは約束の地だったが、後者が目指すのは永遠の神の国だ。 
 しかし、その二つには共通性があった。つまり継続性があった。そこにある違いは、断絶と同時に継続しながら、新しいものになったことを意味している。特に、イエス様が旧約の過越の記念の中で、旧約の過越を祝いながら、パンと葡萄酒によって自らを新約の捧げものとなさり、新しい過越を定められたところにその継続性と断絶性がある。新約の過越は旧約の過越とはまったく違う記念となったが、旧約の過越がなければ新約の過越は生まれなかった。旧約の過越は新約の過越の前徴だったのだ。

 してみると、旧約の過越がどう祝われたかを知ることは、新約の過越をもっとよく理解することにつながる。もちろん、現在のユダヤ教の過越祭は出エジプト記の昔のままではない。おそらく出エジプト記12章がその記念を命じた時は、もっと単純で素朴だっただろう。しかし、年月を経るうちにいろいろな要素が付け加えられた。おそらくイエス様の時代の過越にも中核的要素と、その時代なりのつけ加えられた要素があったに違いない。しかし、本質的な部分は残っていると見ていいと思う。
 そのことは新約の過越の記念であるミサ聖祭にも言える。本質的なことは初代教会時代から保たれてきたが、長年月の間にいろいろな付属的要素が加えられた。第二バチカン公会議はそういう付属要素をかなり除去し、間違いを直したが、まだまだ本質的ではないものは残っている。それはローマ典礼だけでなく、ギリシャ典礼、ウクライナ典礼などを見れば明らかだ。例えば、ウクライナ典礼のミサでは、主の聖誕の要素まで入っている。これは初代教会にはなかったことだ。
 ちなみに、小さいことだが、聖変化の後に司祭が言う「信仰の神秘」という言葉もその一つだ。イエス様のお言葉ではなかったにもかかわらず、以前の古いラテン語のミサ典書では、それは司祭が葡萄酒を聖別するときに言う「これは新しい永遠の契約のわたしの血の杯、…」という文言の真ん中に入っていた。きっと歴史上のある時点で、ある教皇か誰かが感動の余り、「信仰の神秘」という文言を挿入してしまったのだろう。それがそのまま伝わったのだ。第二バチカン公会議はそれを正し、聖変化の後に置いた。そして、信者たちはその後で「主の死を想い、復活を讃えよう」と言うようになったのだ。
 ということで、現在のユダヤ教の過越のセデール(晩餐式)はモーセの頃とは同じではないが、過越の本質を依然保っていると見て、ここからはその要点を検証し、主がそれを祝う中で、どう新約の過越の記念の仕方を実現なさったかを探ってみようと思う。それは新約の過越の記念であるミサ聖祭の理解に、必然的につながると思う。ユダヤ教の過越の晩餐式テキストは、ユダヤ民族福祉協会が米国陸軍のユダヤ教徒用に編纂した「過越祭晩餐次第」(ハガダー・シェル・ペサハ)を使用することにする。以下がその要約だ。

過越祭晩餐次第(ハガダー・シェル・ペサハ=The Jewish Passover Haggadha)

Ⅰ準備
1 用意する象徴的食物  
 ①種無しパン3枚:マッツアと言う。
 ②ペサハ(パスカの語源):骨付きの焼いた小羊の肉
 ③マロール:苦い野菜
 ④カルパス:青い野菜
2 点灯

Ⅱ晩餐式そのもの
1 祝福のことば(キドゥッシュ) 一回目の葡萄酒の祝杯
2 洗手(Wash the hands)
3 春の野菜祝福
4 種なしパンの分割 (真ん中の一枚を割って隠す)
5 過越の物語  種なしパンの覆い布を取り、見えるようにする。2回目の杯を葡萄酒で満たす。
           4つの質問 一番若い者が年長者に尋ねる。
① いつもはパンを食べるのに、今夜はなぜ種なしパンだけなのですか?
② いつもはあらゆる野菜を食べるのに、なぜ今夜は苦い菜だけを食べるのですか?
③ いつもはどんな食べ物も他の食べ物に浸さないのに、なぜ今夜は野菜を2度塩水に、苦菜をハロセット(茶褐色の濃厚な汁)に浸さなければならないのですか?
④ いつもは座ったり寄りかかったりして食べるのに、なぜ今夜だけは寄りかかって食べるのですか?
今夜そうする理由の説明。
四人の息子の話。
ユダヤの物語が聖書で語られる。 -われらの父祖の起源
                     -エジプトでのわれらの苦悩
                     -エジプトでのわれらの悲哀
                     -主の御手によるわれらの勝利
                     -エジプト人に与えられた10の災厄
   ダイエヌー (われらは満たされた)の唱和
   三つのシンボル(過越の晩餐の最重要な部分)
① ペサハ:過越の犠牲  司式者はそれを指さし、小羊の犠牲の意味を説明する。
② マッツァ:種なしパン  皿に乗せたパンを高く上げて、それを食べる意味を説明。
③ マロール:苦菜     苦菜を示し、それを食べる意味を説明する。
   この夜の不滅の意味を語る。奴隷のくびきから自由への解放
   詩篇113 ハレルヤ
   詩篇114 主は父祖を贖われた。 ここで葡萄酒の杯を高く上げ、2度目の祝杯を飲む。
6 洗手 (水の入った器と手ぬぐい布が用意されている)
7 種なしパンの祝別  神を賛美し、一番上のマッツァを割くと、皆に配り、皆は食べる。
8 苦菜の祝別      ハロセットに浸した苦菜をみんなで食べる。
9 過越の夜のシンボル混ぜ合わせ  一番下の種無しパンと苦菜を合わせて食べる。
10 食事  テーブルにある過越祭用の食事をいただく。卵や魚なども。
11 アフィコメンの分かち合い  隠してあった真ん中のマッツァを割いて食べる。
12 過越の夜の食事に対する感謝
    -詩篇126
    -感謝の答唱
    -シオンへの祈り
    -安息日の祈り
    -祭りの祈りとその他の祈り
    -閉祭の感謝の祝福  3度目の葡萄酒の祝杯。
   戸開き (Open the door) 4度目の祝杯を満たす。預言者エリアと貧者のため戸を開ける。
13 ハレルヤ  食後の主への賛美の歌
    詩篇115
    詩篇116
    詩篇117
    詩篇118
    終了ハレルヤの祝福
    詩篇136
    永遠の神よ、その他6つの祈りや賛美
14 過越の祭式の終了  4回目の葡萄酒の祝杯。

 以上が現代のユダヤ教における過越の晩餐の要約だ。ユダヤ教もオーソドクス、コンサバティブ、改革派があるので、祝い方の違いはあるだろうし、この要約を見ても、後世に付け加えられたのだろうと思われる要素はいくつか見かけられる。しかし、エッセンシャルな部分は旧約時代から続いていると見ていいと思う。そうだとすれば、イエス様もほぼこのような順序で過越を祝われたのだと想像できる。
 聖木曜日の福音ヨハネ13:1-15が伝えるイエス様の洗足は、その夕食がユダヤ教の過越の食事だったとすれば、晩餐の6番目の段階にある「洗手」の時ではなかったかと私は想像する。手を洗う器や布も用意されていた。このタイミングなら主が立ち上がったのは自然だった。誰も当たり前と思っただろう。だが、イエス様は手ではなく、屈んで弟子たちの足を洗い始めたのではなかろうか。だから、弟子たちは「えっ、手を洗う時なのに、これは違うのでは?」と面喰い、ペトロは「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」と驚いたのだと思う。
 また、主がパンを裂き、「これはわたしの体である」と言われて、弟子たちにお与えになったのは、その次のNo.7段階だったのではなかろうか。種無しパンの一枚を割いて皆に配り、皆で食べるからだ。そして、「これはわたしの血のさかずき」と言われたのは、もっと後のNo.12段階の3回目の祝杯の時だったと思われる。その際、種無しパンと杯を高く上げることも注目に値する。主も感謝してそうなさった。ミサで司祭が御聖体と聖杯を高く上げるのは、それが継承されたのだと思う。
 主が晩餐の席で、ユダの裏切りに言及なさったのは2回あったように思える。1回目はNo.6の洗手(それは洗足になったが…)で、遠回しに「あなたがたは清いが、皆が清いわけではない」(ヨハネ13;10)と言われた時だ。2度目はNo.9段階かNo.10段階だったと思われる。この時ははっきり言われた。その時の「パン切れを浸して」という描写は、種無しパンをハロセットにつけて苦菜と一緒に食べたりする状況と合致する。
 マタイとマルコの記述は「鉢に食べ物を浸した者」が先で、聖体の制定が後になっているが、その順序は前後していると思われる。これは洗足の時に言われた警告と混同したからではなかろうか。この点はルカやヨハネの順序の方が正しいと思う。いずれにせよ、主が2回も裏切りの存在を明かされたのは、ユダの裏切りで「聖書の言葉は実現しなければならない」(ヨハネ13;18)としても、事後に改心するよう促しておられたからではないかと私は思う。そこに主の憐みを見る。
 ユダが出て行ったのは、No.12段階の終わりにある「戸開き」(Open the door)の時だっただろう。疑われずに出ていくには一番自然でいいタイミングだったからだ。ただし、これは共観福音書には記録されていないし、ミサ聖祭にも受け継がれていない。だから、多くの人が気付かないのだろう。イエス様が新しい掟を与え、聖霊を約束する長い話をなさったのは、ユダが出た後、No.13段階のハレルヤの後にあるいくつかの祈りの時ではなかったか、と私は推測している。
 ユダヤ教の過越の晩餐はNo.14の段階で終了する。イエス様が「神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい」(マルコ14;25)と言われたのは、おそらく4回目で最終の杯を飲むこの時だったのではなかろうか。そう考えると筋が通る。ルカはこの言葉を御聖体制定の前に置いているが、その後で3度目の杯が御血となり、最終杯もあったから、この点ではルカの順序よりも、マタイとマルコの方が説得力をもつように思われる。
 このように旧約の過越の食事の中で、主は新約の過越の記念を形成なさった。しかし、焼いた動物の小羊肉は、もはや新約の過越の食事には必要なかった。神の小羊がそれに代わったからだ。こうして「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」(ヨハネ1;29)と言われた預言は実現した。その神の小羊が犠牲として屠られるのは翌日の十字架上だが、それは前倒しされて種無しパンと一つになった。だから、新約の過越であるミサ聖祭はパンと葡萄酒だけで足りることになった。それが神の小羊である主イエス・キリストの肉と血だからだ。ここに新約の過越の神秘がある。

聖週間日記:聖月曜日、聖火曜日、聖水曜日

4月18日 聖月曜日
 典礼A年は聖週間月曜日の福音をヨハネ12;1-11としている。その個所はイエス様一行がベタニアのラザロ家を訪ねた時のエピソードを伝える。しかし、これはもうエルサレム入城前の足取りの検証で考察済みだから、取り上げないことにする。ただし、一つだけ追加するとすれば、重箱の隅をつつく程度のことだが、マリアが主の足に香油を塗った時に非難した人の問題がある。それはマタイとマルコでは、エルサレム入城後のらい病者シモンの家でのことになっているが、ここでも女のしたことは非難されている。
 ラザロ家とシモン家への訪問は別だったと考えられるが、マリア(=女)が油を塗った時に非難されたのは一回だけだったのに、それが混同されて両方に書かれたのではないか。私はそう見る。その場合、彼女の行為を非難したのは、マルコ14;4では「そこにいた何人か」、マタイ26;8では「弟子たち」だが、ヨハネ12;4では「弟子の一人で、後にイエスを裏切るイスカリオテのユダ」だ。いったいどれが正確なのだろうかという疑問がわく。
 想像に過ぎないが、おそらく「なぜこの香油を三百デナリオンで売って、貧しい人に施さなかったのか」と、言葉に出して言ったのはユダだったと思う。しかし、他の弟子たちも同調して、「そうだとも。そうだとも」と非難したのではなかろうか。「そこにいた何人か」は弟子以外の会食者も含んでいた可能性はあるが、この時の状況からすれば一般の人はいなかっただろう。従って、事実上は弟子たちだけだっただろうから、非難したのは「弟子たちの何人か」だったが、一番強くなじったのがイスカリオテのユダだった。そう見るのが妥当な解釈ではないだろうか。
 それよりも、ここでとても印象的なのは、マリアが高価なナルドの香油をイエスの足に塗り、自分の髪の毛でその足をぬぐったとき、「家は香油の香りでいっぱいになった」という言及だ。人間はどちらかというと視覚、聴覚に頼りがちな生き物だから、嗅覚はふだん忘れられがちだ。従って、想像でものを言ったり書いたりするときには、匂いや香りには思い及ばないものだ。しかし、強烈な実体験の時は違って、忘れがたい記憶となって残る。 ヨハネにとっても部屋に充満した香油の香りはそうだったに違いない。イエス様がユダを諭して、「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それをとっておいたのだから。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない」と言われた言葉とともに、その香りは何十年たっても記憶から消えなかった。その言葉がその香りを蘇らせ、その香りがその言葉を呼び起こしたのだと思う。これもヨハネ福音書の信憑性に対する一証明だ。


4月19日 聖火曜日
 典礼はヨハネによる福音書13;21-38を読ませる。ユダの裏切りと新しい掟の個所だ。しかし、その話題は別の機会があるから、今日は十字架上で主が叫ばれたお言葉を考察してみたい。
 日曜日のミサの説教で、司祭はマタイとマルコが伝えるイエス様の最後はルカとヨハネに比べ、絶望に近い訴えであると言った。その通りだが、少し気になったので読み返してみた。十字架上の主は罵詈雑言を投げかけられても一言も反論なさらず、三時ごろ大声で、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と叫ばれた。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味だと書いてある。確かにマタイでは、それが主の口から出た唯一の言葉だった。これには驚きを覚える。 
 その後で、「イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた。」大声の叫びとは言葉にならない絶叫だったのだろうか。ルカは「イエスは大声で叫ばれた。『父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。』こう言って息を引き取られた」と書いたが、司祭はこの冷静な感じの訳は不十分で、原典ではもっと切迫感がある。プネウマは霊よりは魂の意味、パラティテマイは犠牲として捧げる意味だから、「父よ、私の命を捧げます」と訳すべきだと言っていた。それは壮絶な死だったのだ。

 しかし、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」は、神に対するイエス様ご自身の叫びだが、詩篇22(70人訳では詩篇21)を唱えられたのでもあるということを見落としてはなるまい。ところで、ヘブライ語の詩篇22では、ローマ字表記すると、“Eli, Eli, lama azabtani?”だ。新約聖書のヘブライ語では“El, El, lemana shubachtani?”となっているが、ヘブライ語のshabaqはazabと同じように「見捨てる、離れ去る」の意味だから、この一節の意味は変わらない。ちなみにヘブライ語では、Elは神、それにi(私の)が付けば「わが神」になる。Lamaは「なぜ」、azabtaはazab(離れ去る、捨てる)の二人称男性過去形で「捨てた」、それにni(私を)が付けば、「私を捨てた」の意味になる。
 しかし、なぜヘブライ語の詩篇の言葉でお唱えにならなかったのかと言う疑問は残る。推測だが、慣れたアラマイ語詩編を使われたからではあるまいか?当時のガリラヤの会堂などでは、しばしばヘブライ語と同時にアラマイ語の聖書が使われていたと言われる。人々がむしろそちらの方に慣れていたからだ。イエス様もナザレトでは幼少時からそれに慣れ親しんでおられたに違いない。死の間際に出るのは標準語よりも慣れ親しんだ言葉だろう。だとすれば主が息を引き取る際に叫ばれたのはアラマイ語詩篇だった、と推測してもいいのではなかろうか。
 そもそも私たちがその叫びを知るのは、ギリシャ語原典からだ。耳で聞いた叫びが、マタイではギリシャ文字で、“Eli, Eli, lema sabachtani?”、マルコでは“Eloï, Eloï, lama sabachtani.”と書かれたわけだ。ところで、それはヘブライ語新約聖書マタイでは、(ローマ字で表記すると)“El, El, lemana shubachtani?”とし、マルコでも同じ文言にしてある。しかし、マルコではそれを、「すなわち“Eli, Eli, lama azabtani?”の意味である」と説明している。これは興味深い。なぜなら、この説明語句はヘブライ語の正式詩篇のものと全く一致するからだ。 
 ということは、説明を必要とされた“Eloï, Eloï, lama sabachtani.”という語句はヘブライ語ではなかったということを意味する。では、何語だったかと言えば、アラマイ語以外にありえなかった。私はアラマイ語の正しい発音は知らないが、ヘブライ語式の読みでローマ字表記すると、それは“Eil, Eil, lmana shubachtani?”と書ける。これはマタイでもマルコでも同じだ。実は、Shabaqという語彙はキリスト教聖書塾のヘブライ・日本語辞典には収録されていない。私が見つけたのはラルースの仏・ヘブライ語辞典のおかげだ。思うにShabaqはアラマイ語では一般的だが、それに対してヘブライ語ではazabが一般的で、Shabaqはほとんど使われないからではなかろうか。
 要するに、主が十字架上で詩編22の出だしを叫ばれたのは、アラマイ語詩篇だったと推定できる。lamaとlmanaは非常に近いし、sabachtaniとshubachtaniも非常に似ている。ほんのわずかな違いは書いた福音史家が、耳で聞いたアラマイ語の詩篇をギリシャ語で表記したときに生じた違いに過ぎないと見ていいと思う。EilがEli またはEloïと書かれたのは、それが聞いた人にそう聞こえ、それがそのまま初代教会で言い伝えられていたからだろうと推察できる。

 しかし、言葉の問題よりも大事なのは、主がなぜ詩篇の出だししか言われなかったのか、そしてなぜこの詩篇を臨終の言葉とされたのかだ。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」というこの詩篇の出だしだけを聞けば、人は主が本当に神からも人からも見放されたと感じて息絶えた、と思ってしまうだろう。苦悶はそれほど激しく大きかった。だから、主がそれしか言われなかったわけは、確かにもうそれ以上言う力が残っていなかったからだろう。
 しかし、詩篇22をもって最後の言葉とされたことには深い意味があったのだ。それは苦悩のどん底にあった旧約の民の声を代弁する詩篇だった。だから主は救い主として、ご自分個人の苦悶ではなく、人類の苦悩の叫びを表明するために、それを使われたのだと私は思う。そして、十字架の近くいた信奉者の誰かが、その詩篇の残りを続けて唱えることをお望みになったのではなかろうか。少なくとも聖母マリアだけは、悲嘆の極限におられながらもそうなさった、と私は想像する。
 その詩篇は神に祈り、呼び求めても答えがない苦悩を訴える。神に信頼していたのに、人々から虫けら扱いにされ、「主に頼んで救ってもらうがよい。主が愛しておられるなら、助けてくださるだろう」と嘲笑される。これは十字架の下で人々が主を嘲って言った言葉と同じだ。神よ、あなた以外はだれも助けてくれる者はいない。でも、迫害者が取り囲むのに、あなたは私を打ち捨てておかれる、と嘆く。しかし、この詩篇の最後は神への賛美と感謝に変る。聖母だけはその時、もうそれが主の復活を示唆していることに気づいておられたのではなかろうか。その詩篇は苦悩の後に来る命の喜びをこう歌うからだ。

「主は貧しい人の苦しみを決して侮らず、さげすまれません。
御顔を隠すことなく、助けを求める叫びを聞いてくださいます。
それゆえ、わたしは大いなる集会で、あなたに賛美をささげ、
神を畏れる人々の前で満願の献げ物をささげます。
・・・
地の果てまで、すべての人が主を認め、御もとに立ち帰り、
国々の民が御前にひれ伏しますように。
王権は主にあり、主は国々を治められます。
・・・
わたしの魂は必ず命を得、子孫は神に仕え、主のことを来るべき代に語り伝え、
成し遂げてくださった恵みの御業を、民の末に告げ知らせるでしょう。」

 この最終の2節はまさに復活と新しい神の民の未来を暗示している。イエス様は少なくとも聖母にそれをわからせるために、わざわざこの詩篇22を最後の言葉代わりとなさったのだと思う。そして、その出だしだけしか言われなかったのはなぜか、信じる者たちがそのわけを知るに至ることをお望みになったからではなかろうか。


4月20日 聖水曜日
 月曜以降一週間の福音がほとんどヨハネの福音書なのに、典礼はこの日だけマタイの福音書を読ませる。マタイ26;14-25で、その内容はユダの裏切りと過越しの食事だ。過越しの食事と言っても、食事そのものについては26節以後に語られ、この個所はだれが裏切り者になるかに関心が集まっている部分だ。ひと言で言えば、裏切り者についてのくだりだ。
 イスカリオテのユダは祭司長たちのところへ行き、イエス様を引き渡せばいくらもらえるかと掛け合って、銀貨30枚で手を打った。そして、裏切る機会をねらっていた。イエス様はもうそれを察知しておられた。だから、一同が食事をしている時に、主は言われた。「はきり言っておく。あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている」と。弟子たちは騒然となって、「主よ、まさかわたしのことでは」と代わる代わる言い始めた、とマタイは書いている。
 マルコとルカの記述もこの個所はほぼ同じだ。主には12使徒以外の多くの弟子も婦人たちもつき従っていたが、共観福音書によれば、どうやら過越しの食事の席にいたのは12使徒だけだったようだ。過越しの最初の夜の食事はセデールと言って、儀式的な要素がいっぱいある。式次第の順序に従って、祝福があったり、問答があったり、祝杯が何度もあげられたりする。主はその食事のどの段階で裏切り者のことを言いだされたのだろうか?
 マタイでは主が「わたしといっしょに手で鉢に食べ物を浸した者が、わたしを裏切る」と明かされた。そして、イスカリオテのユダが「先生、まさかわたしのことでは」と聞くと、主は「それはあなたの言ったことだ」と答えられたとある。変な訳だが、要は「そうだ、あなただ」と言う意味だ。ところが、マタイではその後、主がパンを取り「これはわたしの体」と言われ、杯をとって「これはわたしの血、契約の血である」と、聖体の制定がある。ユダがその時点までいたかどうかは書かれていない。マルコ同じだ。ヨハネはユダが司祭長のところへ行ったことは書かなかったが、食事の席でのいきさつは一番くわしく伝えている。ヨハネ福音書の最後の夕食が過越しのセデールであったかどうかは議論があるが、いずれにせよ、その食事の席で裏切りのあることを匂わせられた。
 ヨハネの福音書でも、「はっきり言っておく。あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている」と言われた。しかし、マタイやマルコと違って、「主よ、まさかわたしのことでは」と代わる代わる言わない。むしろ気兼ねして、顔を見合わせたと書いてある。結局ペトロが、主にかわいがられていたヨハネに、いったい裏切るのは誰か聞いてくれと耳打ちした。そして、ヨハネが「主よ、だれですか」と聞くと、「わたしがパンきれを浸して与えるのがその人だ」と答えられたのだった。
 それから、パン切れを浸して、イスカリオテのシモンの子ユダにお与えになった。だから、ペトロとヨハネとユダ以外はその意味がわからなかったかも知れない。そこには、たとえ裏切り者であっても、その不名誉があからさまにならないよう配慮なさったのだと思う。ユダがパン切れを浸して取ると、「サタンが彼の中に入った。」 つまり、意を決したということだ。そこで主は、「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」と彼に言われた。そして、ユダはすぐ出て行った。
 面白いのは、ユダへの主の言葉を聞いて、他の使徒たちが祭りに必要な買い物か、または貧者への施しを言いつけられたのだろうと思ったことだ。ユダが財政担当者だったからだ。従って、裏切りを実行するためだったとは考えてもいなかった。ところで、ユダが出て行ったのは食事のどの段階だったのだろうか?御聖体の制定の後だったのだろうか?共観福音書はそれについては何にも書いていない。ヨハネ13;29だけがいくらかのヒントを与えてくれるだけだ。
 もし最後の晩餐がユダヤ教の過越し祭セデールに従ったものだったとしたら、ユダが出たのは御聖体の制定後だったのではないかと私は推測する。セデールにはクライマックスがある。三つのシンボルと言われる段階で、ペサハ(=パスカ=過越し)の犠牲、マッツァ(種なしパン)、マロール(苦菜)を指さし、その夜のメッセージを言い、それを祝福する。私の推察だが、主がパンを「これはわたしの体である」と聖体として定められたのはこのタイミングではなかっただろうか。
 その後に感謝の祈りがあり4回目(最終回)の杯が済むと、ドアが開けられる。希望の預言者エリアとすべての飢えかつ貧しい人のためだ。ユダが出て行ったのは、このタイミングだったのではないかと私は思うのだ。なぜなら、ヨハネはその瞬間を「夜だった」(ヨハネ13;30)と書いており、ドアが開けられるのは貧しい人々のためでもあったからだ。だから弟子たちは「貧しい人に何か施すようにと、イエスが言われた」(ヨハネ13;29)と思ったのだろう。食事後はハレルヤの長い詩篇が続く。それは「一同は賛美を歌ってから、オリーブ山へ出かけた」(マタイ26;30)とあるのと合致する。
 もしそうだったとすると、イスカリオテのユダは御聖体も御血もいただいたわけだ。ルカによれば、主がユダの裏切りを言いだされたのは「わたしの血による新しい契約である」(ルカ22;20)と言われた後だ。従って、その後で外に出たことは間違いない。彼は過越しの晩餐の大半を主や仲間の使徒たちと過ごしたのに、皆が感謝のハレルヤの詩篇を歌っていた時は、司祭長たちのもとへと暗闇の中を急いでいたのだった。その暗闇は彼の心を表す象徴でもあっただろう。

 ところで、彼はなぜ師を裏切ったのだろうか?彼はイエス様が神の国を建設するメシアだと信じて弟子になったが、教えを聞いているうちにだんだん、自分の夢見ている理想とは違うことに気づいて、失望したからだという人がいる。ヨハネはユダには辛辣で、ベタニアのマリアが主に香油を塗ったとき、彼が彼女を非難したのを、「彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではない。彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたからである」(ヨハネ12;6)と書いている。要するに使い込みが裏切りの動機だというわけだ。
 ある人はこう想像する。その通り彼は使い込みをしたが、お金に頓着のないイエス様は、大所帯を養うためやりくりしているユダの苦労をわかってくれない。ところが、イエス様は奇跡ができる力のある人だ。それまでも何度か石殺しにされそうになったのに、いつも逃れられた。それなら銀30枚を手に入れた後、自分が司祭長たちに売っても逃れられるだろう。そう期待したから裏切ったのではないか、と。いずれにせよ、彼は間違った。主の死と復活の予告がわかっていなかったからだ。
 しかし、彼を責められる人がいるだろうか?他の使徒たちも五十歩百歩で、主を裏切り、逃げ去った。裏切ったのは彼だけではなかったのだ。正統のキリスト教では、悪を行う者は永遠の罰を受けるが、たとえどんなに悪人であっても、具体的な誰かが地獄に落ちたと断言してはならないと教える。それは神様だけが知ることで、どんな悪人でも死の瞬間に痛悔してゆるされ、救われる可能性があるからだ。十字架上で「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」(ルカ23;43)と言われた犯罪人のように。
 かつて、神学者の中には「ユダだけは確実に地獄に落ちた」という者がいると聞いた。その根拠はイエス様が「人の子を裏切る者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった」と言われたからだという。今日の福音の最後の方にあるお言葉だ。しかし、よく読むと、それは地獄が確実だと宣告なさったわけではない。むしろ深い憐憫の情に溢れんばかりだ。人の子は聖書に書かれた通り死と復活を遂げなければならなかった。ある意味でユダはその必要悪だったのだ。
 だから、私は彼を地獄確実などときめつけたくない。むしろ同情する。マタイは「イエスに有罪の判決が下ったのを知って後悔し、銀貨三十枚を祭司長たちや長老たちに返そうとして、『わたしは罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました』と言った」(マタイ27;3-4)と書いている。しかし、彼らから「我々の知ったことか」と相手にもしてもらえず、銀貨を神殿に投げ捨てると、首を吊って死を選んだ。彼の悔いと苦悩を神様は拒否なさるだろうか?私はそうは思わない。聖ビアンネは橋から飛び降りて自殺する人も、落ちる間に痛悔する可能性がある。地獄に行くとは限らないと教えたそうだ。イスカリオテのユダにもそう言えるのではなかろうか。

聖週間日記: 受難の主日(枝の主日)

 町田教会で10時半のミサに出た。福音はナレーター、キリスト、ピラト役を3人が分担し、信者全員が民衆の役を演じて、マタイ27;11-54が朗読劇風に読まれた。ピラトはバラバ・イエスとメシア・イエスのどちらを釈放してほしいのかと聞いた。傍聴席の人々に意見を聞くなど、裁判官にもあるまじき愚行だった。答えは彼の期待に反して、バラバスを!だった。ユダヤ人を見くびっていたから、しっぺ返しを喰ったのだ。
 ピラトは言った。では、キリストと言われるイエスをどうしたらよいか?と。またもや同じ愚行を犯した。民衆は「十字架につけろ!十字架につけろ!」と叫んだ。弱腰を見透かされたのだ。興奮した群衆はもう彼の手におえなかった。教会の朗読でもピラト役は同じように問う。そして、信者たちは群衆役を演じて「十字架につけろ!十字架に付けろ!」と答える。
 だが、今年も私は無言を貫いた。「十字架につけるなど、やめろ!」とは叫ばなかったが、せめてそれには同調しない意思表示として、黙っていたのだ。2000年前の民衆にも、「十字架に付けろ」の要求に賛成ではない人がいたに違いない。しかし、小さな声は大きな声に押しつぶされて、沈黙せざるを得なかったのではなかろうか。教会でも、なぜ全員が横暴な民衆の真似をして、「十字架に付けろ」と言わなければならないのか。私はそれに賛同したくない。だから無言でいた。
 それにしても、2000年前、「ホサナ」と叫んだ民衆はなぜ「十字架につけろ」と叫ぶ群衆に豹変してしまったのか?いや、その問いはよくない。群衆は群衆でも、同じ群衆ではなかったと思われるからだ。群衆は豹変したのではなく、入れ替わったのだと思う。ホサナと叫んだ民衆は裁判の場には入れてもらえなかったのだろう。そして、祭司長たちに買収された群衆だけが、ピラトの裁判の庭に集まったのではなかろうか。それを解くカギはマタイ21;10-11にあると見る。そこにはこう書いてある。
 「イエスがエルサレムに入られると、都中の者が、『いったい、これはどういう人だ』と言って騒いだ。そこで群衆は、『この方は、ガリラヤのナザレトから出た預言者イエスだ』と言った。」
 「これはどういう人だ」と尋ねた都の人々の一部が、「十字架に付けろ」と叫んだ群衆になったのだと私は思う。彼らはイエス様のことをあまり知らない人たちだった。悪く思わせる情報を吹き込まれ、買収のお金をもらえば、あまり良心の呵責もなく「十字架に付けろ」と叫んだだろう。「この方は、ガリラヤのナザレトから出た預言者イエスだ」と言った人々は、ホサナと神をたたえた群衆だが、彼らは裁判の場からは司祭長たちの手兵によって締め出されたに違いない。群衆は入れ替わっていたのだと考えると筋が通る。
 さて私は、買収された群衆の一人になるのは、来年もおことわりしようと思う。

エルサレム入城前後の足取り

 今年は枝の主日には、行列の前にマタイ21;1-11が読まれ、ミサではイエス様のご受難がマタイ27;11-54で読まれる。ご受難の個所は聖週間中にも学べるから、ここでは枝の行列の福音だけを取り上げ、それも主のエルサレム入城前後の足取りを追うだけにしてみようと思う。そんなことをしたところで、信仰を深め、希望を強くし、愛を増すためには、おそらくほとんど役に立つまいが、興味を覚えたことの検証は知的な満足を与えてくれると思うので、そんな期待をもって調べてみる。

 問題はどこにあるかというと、ご受難の前、イエス様は弟子たちと共にエルサレムに入城なさったが、その前後の足取りが4福音書で違うことにある。本当はどのように動かれたのだろうか?そう動かれたわけは?私の興味はそれを知ることにある。ただし、3福音書は主のご昇天後40年ぐらい後で書かれ、ヨハネの福音書は更にずっと遅れてできた。2人の福音史家が主の証人である使徒だったとしても、記憶が曖昧化し、思い違いをしていた点があったかも知れない。だから最終的には、実際の足取りをぴったりとは割り出せなくてもやむをえない。 
 検証の方法だが、その足取りは4福音書に書かれている情報だけで追うことにする。次に、4福音書を比較照合しながらの検証だから、どの福音書を基準にするかが問題になるが、共観3福音書は大同小異なのに対し、ヨハネの福音書はかなり違うので、こうしようと思う。今年の枝の主日の福音はマタイ21;1-11だから、共観福音書側の代表はマタイの福音書とし、それとヨハネの福音書にあるイエス様一行の足取りを比較照合するという方法だ。
       
 さて、前の行とこの行では続きのように見えるだろうが、実際はその中間に比較照合の研究があった。つまり、昨日と今日の落差だ。実は、共観福音書とヨハネ福音書を縦2列にして、要所になる章節を併記し、A45ページの研究結果をまとめたのだ。ところが、それをここにはうまく掲載できなかった。従って、その比較照合資料は割愛することにしたのだ。しかし、結果は得られたので、以下のように公表する。

 比較対照の方法で、エルサレム入城前後のイエス様の足取りを追ってみてまずわかったことは、共観福音書が総じてそれを大雑把にしか記録していないのに対し、ヨハネの福音書がかなり詳細に書き残していることだ。そしてそこからは、主を抹殺しようとしたユダヤ人たち、特に祭司長たちを中心としたサドカイ派の殺意と、それを察知した主のぴりぴりした警戒感がよく感じれることだ。

 共観福音書によれば、主の一行はガリラヤを出た後、ヨルダン川沿いの道をエルサレムへとゆっくり進んだ。途中の町々、村々で宣教したり病人の治癒をしたりの出来事もあったが、道程としては一路エルサレムへ行くだけで、オリーブ山のところから「ホサナ」と歓迎されつつエルサレムに入城なさったことになっている。そして、入城後はご受難まで、毎日昼は神殿の境内で教え、夜はオリーブ山に戻られた。ベタニアのらい病者シモンの家に行かれたのも、そんな一コマだった。他の日は野宿もなさったのだと思われる。
 要するに、足取りは単純だ。というより、簡略化して書かれている印象を受けた。共観福音書は主がどこへ行かれたかにはそれほど関心がなかったのではなかろうか。その関心はイエス様の教えと業を告知することにあり、都への道程と都での滞在はそれを発信する舞台だったのだと思われる。その目的はナザレトのイエス様がメシアであることを、いかにご受難と復活が証明しているかを証言することにあったと言えよう。

 それに対して、ヨハネの福音書はかなり詳細に主の一行の足取りを書き残した。もちろんわからない点もあるが、ヨハネによれば主は一路エルサレムを目指して行かれたのではなかったことになる。最終的にエルサレムで捕えられ、そこで受難なさる点では3福音書と共通だが、そこまでの足取りはもっと細かく紆余曲折がある。
 主がガリラヤを出発されたことは3福音書と同じだ。しかし、ヨハネではそれがヨハネ7;1,2,10 にある仮庵祭の時だったとしたら、ルカの場合とはずいぶん違う。ヨハネでももちろん弟子たちが一緒だっただろうが、人目を避けて都に上ったと書いてあるのに、ルカでは少なくとも12使徒と70人の弟子が一緒だったからだ。つき従った婦人たちもいた。そんな大人数ではとうてい人目を避けられたはずがないからだ。いずれにせよ、もしこの時がガリラヤとの別れだったとしたら、その足取りは簡潔に表現すると、次のようになるのではなかろうか。

 仮庵祭(9-10月)をエルサレムで(この後は都におられたのか、他所に行かれたのか不明)神殿奉献祭(11-12月)をエルサレムでヨルダンの向こう側、ヨハネが洗礼を授けた所へラザロを蘇らせにベタニアへユダヤ人たちを避けてエフライムの町へ過越祭の六日前に再びベタニアへ「ホサナ」と迎えられてエルサレムへベタニアのらい病者シモンの家へ(この足取りは共観福音書によるが、ヨハネ12;37 「立ち去って彼らから身を隠された」とあるのは、このことかも…)最後の晩餐のためエルサレムへゲッセマネの園へエルサレムへ(大祭司カイアファの舅アンナスの屋敷へ)。

 ここからは、感想とコメントだが、その一つにベタニア訪問がある。ヨハネにある2回目のベタニアへの訪問は、マタイとマルコが伝えるベタニア訪問とは別の機会だったと思われる。一方はエルサレム入城前、他方は入城後であり、訪問先は一方がラザロ家、他方がらい病者シモンの家だったからだ。しかし、Bible de Jerusalemによれば、後者の家で主に香油をかけたのは、ラザロの姉妹マリアだった。では、どうしてそういうことができたのだろうか?バルバロ師によれば、らい病者シモンはラザロと親しい間柄だったらしい。だから、マリアはイエス様が来られると聞いて出かけて行き、前にしたのと同じように主に香油を注ぐことができたのだろう。
 ただ、シモンの家で香油をかけた彼女を、ユダまたはそこにいた人々が非難したというのは、ラザロ家であったことと混同したのだと思う。エルサレム入城前にイエス様から「この人のするままにさせておきなさい」とたしなめられていたのなら、彼女が二度目に香油を塗ったのを見て、弟子たちが非難するわけがなかったからだ。マリアはもう主のお墨付きをもらっていたのだ。ちなみに、らい病人シモンはイエス様から病気を癒された人で、ベタニアの住人だった。だから、今度はラザロ家ではなく、私の家に来てくださいと招待したのだと想像する。当時のらい病者は隔離されていたから、治癒していなかったら彼もベタニアにはいられなかったはずなのだ。

 ところで、足取りを調べて感じたことがまだある。ヨハネの福音書が書かれたのは主のご昇天の6,70年後だ。そんな年月が経った後でも、人はかつて歩いた道筋を覚えているものだろうかという疑問に、覚えているものだ。だから、そういう点ではヨハネの福音書がむしろ一番信用できると思ったことだ。思うに人はある時に言われた言葉をそのまま覚えていることは稀だが、体験した出来事は忘れないものなのだ。6,70年前と言えば、私にとっては十代の時のことだ。では、私がその当時体験した旅路の行程を覚えているかと言えば、覚えているのだ。
 例えば、少年兵に志願した私にとって、針尾海兵団への入団の旅は初めての長い列車旅行だった。1944年5月、バスで御所見村(現在藤沢市)用田から小田急線長後駅に出て、藤沢駅経由で小田原駅に集結し、蒸気機関車に引かれた列車で東海道を走り、長崎県の南風崎駅に着いた。そして、早岐の瀬戸に架かる大橋を渡って針尾海兵団に入ったのだった。また、一年後の1945年5月、神奈川県の相模野海軍航空隊(現厚木基地)に配属されたときは、はるばる針尾から2日がかりの列車で横浜駅に到着、そこから現在の相鉄線で無蓋の貨物列車に乗り、大塚駅(現相模大塚駅)で下車、そこから大きな衣嚢(衣服入れ)を担いで、埃の舞う田舎道を第二相模野航空基地まで歩いた。66年前のことでも鮮明に覚えている。一事が万事だ。若かった使徒ヨハネも主と共に歩いたエルサレムへの最後の旅路を、きっと鮮明に覚えていたのだと私は確信する。

 ついでに書くと、そうした出来事の記録に比べ、ヨハネが伝える主の言葉には、いつの間にか彼自身の思いや言葉が混じってしまっているように思う。言葉というものはありのままに思い出すことは難しいものだ。しかし、彼は後年ギリシャ語圏のエフェソの司教になったが、若かったのですぐ環境に順応し、ギリシャ語をマスターしてしまったのではあるまいか。その意味で彼の福音書ギリシャ語原典は非常に信用できると思う。特に、目撃者・体験者でなければ書き得ない語句があるからだ。
 例えば、パンの奇跡のとき、「パン五つ」を大麦のパンだったと覚えていたのは彼だけだ。ベタニアでマリアが主に香油を塗ったとき、彼は「家は香油の香りでいっぱいになった」と書いた。匂いはふつうの想像ではなかなか思いつかないものだ。だから、香りの描写はすごくリアリティがあると私は思うのだ。最後の食事の時もそうだ。ユダが出て行ったとき、「夜であった」と彼は書いた。これもすごいと思う。ユダが外に出るにはドアを開けなければならなかった。彼の後姿を目で追った彼は、開けられたドアの外の暗さがきっと非常に印象深かったのだろう。それはなくても文章には何の影響もない短い一句だ。それなのに無意識に書いてしまったのだと思う。そこに目撃した者でなければ知り得ないし、言い得ない真実がある。だから、ヨハネの証言を私は信じるのだ。

 他の3福音書には、ヨハネの福音書が5章も割いた弟子たちへの最後の話、すなわち聖霊の約束や「わたしが愛したように互いに愛し合いなさい」という新しい掟が書かれていない。逆にヨハネの福音書には、他の3福音書にあるエルサレムの崩壊と世の終わりの予言とか、御聖体の制定とかが欠けている。主の足取りを追ったおかげで、そのことを私は今まで以上に強く感じた。彼は「このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない」(ヨハネ20;30)と書いたが、それはこのことだったのだ。ヨハネが御聖体の制定や世の終わりについて書かなかったのは、すでに他の福音書に書かれており、当時の教会ではもう当たり前だったからだろう。しかし、3福音書に書かれてないことを書いたのは、「あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により、命を受けるため」(同20;31)だったのだ。それも実感した。

素朴な疑問

 過日、花見帰りのお酒の席で、一人の友が言った。「なぜイエス様は自分で聖書を書かなかったんだろうねぇ」と。なるほど… 私もちらっと同じ疑問を持ったことはあるが、ちゃんと考えたことはなかった。しかし、それはふだんなら馬鹿にされそうで口にしないかも知れないが、素朴でも実に興味深い問いだと思った。たぶん教父や神学者たちはもうそれについて論じているのだろうが、寡聞にして私は知らない。そこで少々考察してみることにした。
 
 確かに、イエス様が福音書を書いてくださっていたら、後世の人たちが書く必要はなかった。どの福音書が真正でどれが偽物かと迷い悩む問題もなかっただろうし、真正な4福音書に相違点があるときなど、どれが正しくどこが不正確かなどと議論する必要もなかったはずだ。異端や論争に起因する分裂などが予想できただろうに、なぜ主は福音の記述を後の人たち、それも直弟子以外の人たちにまでお任せになったのだろうか?
 イエス様が書いてくださっていたらよかったのにという思いには、私も共感するところはある。しかし、あれこれ考えてみると、教会と聖書の教えを信じている限り、やはり主が書かれなかったのは当然だったと結論せざるを得ない、と私には思える。では、なぜ当然だったかと言うと、それが①その時代の福音伝達の実情に合っていたから、②救い主の使命ではなかったから、③福音書は聖霊の仕事だったから、という3つの理由が考えられるからだ。そこで、これからその立証を試みてみる。

 まず、時代の実情に合った福音の伝達という理由を考えてみる。2000年前のイエス様の時代、大勢の人に情報を伝える方法は口頭が基本で主流だった。ここに問題解決の鍵がある。他方、書き記す伝達手段もあったが、それはまだ一般的ではなく、伝播の迅速性に欠け、費用がかかり、文盲の多い民衆には役立たなかった。しかし、遠方への伝達、情報の保持が可能という長所があった。だから、王家などは記録を残したり、遠方に命令を伝えたりするために文書を使った。
 しかし、口頭での情報伝達は圧倒的に優勢だった。それは当時だけでなく、今日でもまだ主流であり効果的でもあり続けている。家庭生活、仕事場での意思疎通、会議での情報交換など、ほとんどは口と耳での会話によることがその証拠だ。電話や携帯での通話は文明の利器を利用して到達範囲を拡張した口頭の意思伝達であり、TVのニュースや討論、演説なども、基本的には電波を利用して伝達範囲を大いに広げた口頭での情報、意思伝達に他ならない。
 現代では教会も電話やTVやインターネット等の文明の利器を利用している。もしイエス様の時代にもそのような伝達手段があったなら、主もお使いになったのではなかろうか。だが、かつてはそういうものが皆無だったし、福音を告げた民衆には文盲が多かった。だからこそ、主は町々、村々を回って、同じことを何度も口頭で話さなければならなかった。それが福音伝達の最も確実で効果的な方法だったからだ。逆に言えば書く意味は少なかった。だから書かれなかったのだと言えよう。

 でも、将来を見越して、宣教の合間にも福音書を書けなかったのだろうか?いや、書かれなかっただろう。たとえ書こうとしても、書けないのが現実だったと言ってよいと思う。当時はパピルスや羊皮紙に羽根のペンと墨のインクで書いた。当然早くは書けない。ガラスや金属のペン先にインクをつけて書く、つけペン書きを経験した者ならわかる。それに、当時の夜は灯心の弱い明かりがあればいい方だった。ところが主は、昼間は人びとに福音を語り、ひっきりなしに病人を癒し、夜はしばしば野宿だった。いつどこで本を書けただろうか。
 よしんば書く場所や時間が多少あったとしても、パピルスや羊皮紙、ペンなどの書く材料や道具は高価だった。主の一行は大勢だったのに、パンの奇跡の時には200デナリしかなかった。たぶんいつもそんなだったのだと思う。だとすれば、福音宣教にすぐ必要でもない福音書を書くために、主がそういう物品に散財されただろうとは思えない。もっとも、これは書こうと思えば書けたことを否定する証明にはならないが、主には、書けなかったからではなく、書かなかった理由もあったのだ。
 それは福音宣教が口頭でこと足りただけでなく、書物が今日と違って、その当時は迅速でも効果的でもない伝達手段だったことだ。本は書くだけでも長い時間がかかる。そして、2冊目は誰かが書き写す写本を待たなければならなかった。まだ印刷術がなかったからだ。最初の写本の次は2冊を2人が書写すれば4冊になったが、とにかく普及にはすごく時間がかかった。それに、文盲が多かったから、書になっても読めたのは知識階級と、本を買う資力のある人だけだったのだ。
 そんな方法では効果的な福音宣教はできない。だから、主が福音を、書によるのではなく、口で伝えられたのは当然だったのだ。しかし、イスラエル民族は聖書を残し、教会はそれに新約聖書を加えた。書物には長所があったからだ。聖書は教えを迅速に広めるのが主目的ではなく、それを声の届かない所の信者たちに伝え、同時にひとたび語られた教えが後世に歪曲されないよう、固定して保持するためであった。そして時が移り、後世になると、書かれた福音は福音宣教の最重要なツールとなったのだった。
 特に近世の印刷技術の発明によって、書いて伝えるという伝達手段は様変わりした。今日出版される膨大な数量と種類の書籍と、新聞雑誌というマスメディアの甚大な影響力がそれを物語る。更に、インターネットの発達は口頭の伝達手段を超えつつある感がある。それによって人は世界規模の広範囲に、数秒で情報を送受できるからだ。それらは電話やテレビと違い、基本的には書物と写本の延長線上にあると言えるが、今日の福音宣教には必要不可欠となっていることは確かだ。だが、イエス様の時代は違った。

 さて、主が福音書を自分で書かれなかった理由を、ここまでは伝達手段の効果や物理的に無理な理由から、かなり微に入り細を穿って考察してみた。しかし、本当はそれらよりもずっと根本的な理由があった。それについては長々と述べる必要はないが、重要さではその方がずっと上だ。では、その理由とは何であったかというと、その一つが救い主の使命にあった。つまり、その使命を知れば、必然的に主が福音書を書かれなかったわけが結論として出てくるということだ。
 では、イエス様の使命は何であったかと言うと、人類を救うことにあった。そのために父なる神は御子を世に遣わされたのだった。ところで、その救いは御子の死と復活によってのみ達成されるものであった。福音とはまさにその実現の「良い知らせ」のことだった。だとすれば、その達成前にいくら教えや事蹟を書いても、それは最重要部分を欠く未完の福音書にしかならなかったはずだ。主の使命はそんな書を書くことではなく、その死と復活によって福音そのものになることだったのだ。

 主が福音書を自分で書かれなかった3つ目の理由は、それが主の使命ではなく、聖霊の使命だったからだ。福音書の成り立ちは非常に興味深い。主が福音を宣教なさっていた時点では、すでに述べたとおり書物は非効果的で不要だった。しかし、初代教会でその必要性が生じると、いくつかの福音書が書かれ、偽物も出現した。では、その真偽はどう判別されたかというと、見極めたのは教会であり、それを導いたのは「すべてを思い出させる」(ヨハネ14;26)聖霊だった。聖書は聖書記者と聖霊の協働で書かれたというのが教会の見解だが、主役は聖霊なのだ。
 ところで、人間的な面から福音書の成立を見ると、そこには必然的な経緯があったことがわかる。そもそも初代教会の草創期には、福音はもっぱら口頭で伝えられていた。福音書を書くには最適任の立場にいた使徒ペトロは、手紙は書いても福音書は書かなかった。あれほど膨大な手紙を書いた聖パウロさえ福音書は書かなかった。それは「福音宣教は口頭で」が当然とされていた証拠で、聖パウロの伝道旅行もそのスタイルだった。主のご昇天後3,40年間はそうだったと思われる。
 当時はイエス様を知る使徒や弟子たち、婦人たち、主に癒してもらった元病人や元盲人たち、救われた元罪人や徴税人たちなど、主を信じたたくさんの人々が、それぞれイエス様について知っていることや体験を話して、新しく信仰に入る人たちに霊的な糧を供給していたのだと推察できる。片や教会の運営を託された長老や説教者の中には、イエス様のそういう教えや事蹟を集めてメモにする人がいただろう。聖書学者たちはそういう収集メモ集をQ資料(Quelle=源泉)と呼んでいる。私自身も常時いい話や記事を講話の材料として集めていたが、それと同じだったと思う。
 しかし、やがて口頭だけで伝えられていた福音を、福音書にする必要が出てきた。口伝を文書に固定して保持しなければならなくなったのだ。そのわけは、主の教えや出来事の証言者たちが世を去り始めたこと、世代が変わって聖霊降臨後の草創期を知らない信者が増えたこと、キリスト教がトルコ、ギリシャ、ローマ等の遠い国々まで広がったこと、ユダヤ教からの信者によるユダヤ教的律法主義への先祖返り的な危険が生まれていたことにあった。
 証言者世代がいなくなれば、口頭だけの福音伝達は難しくなる。又聞きの人だけでは信じてもらえなくなるからだ。3、40年は世代の完全入れ替えになる年月だ。新しい世代にはしっかりした福音伝達が必要なのに、証言世代は逆に減って行く一方だった。そして、遠隔地に信者が増えると、すべてには使徒たちやその協力者も応じきれない状況になった。その上、ユダヤから来た信者たちが律法を守らないと救われないなどと問題を起こした。しかし、それらの問題は、書かれた福音があれば解決に役立つと思われた。つまり福音書の必要が生まれたのだ。
 使徒たちや聖パウロが手紙を書いたのは、そういう状況に対応するためだった。しかし、主の教えと行いを書いてほしいと言う願望が次第に湧き起って来たのだと推察する。やがてそういう願いに応えて最初の福音書が書かれた。おそらくQ資料を利用したメシアの言行録だっただろうと思われる。カトリックでは、プロト(元祖)マタイ福音書をその最初だと考える聖書学者が多いようだ。教父エウゼビウスの証言によるアラマイ語マタイ福音書がそれで、出たのは西暦50年頃だとされる。
 次にそれを訳したか、あるいは手本にして書かれたのがギリシャ語マタイ福音書だと考えられている。マルコ福音書もそうかも知れない。イエス様はアラマイ語とヘブライ語を話しておられたから、アラマイ語マタイ福音書が現存したら、それこそ正真正銘で最良の原典になったのに、残念ながらそれは消失してしまった。その結果、イエス様の言葉とはまったく異なるギリシャ語福音書が原典だという、残念で妙な現実になっているが、とにかく西暦6、70年代にはいくつかの福音書が書かれた。
 Q資料には、イエス様の教え、奇跡、譬えなどいろいろあっただろうが、口伝の福音宣教での中心は主の死と復活だった。聖パウロの手紙はそれを証明している。初代教会ではそれが最大の関心事だったからだ。だからどの福音書も、最後の晩餐からご受難までをもっとも詳細にかつ長く書き、ナザレトのイエス様こそ約束のメシアで、人類の罪をあがなって死んでくださり、復活して父の右の座に着かれた方だという、福音のエッセンンスを強調している。福音書の必要不可欠な最重要部分だ。
 しかし、信者たちはそれだけでは満足しない。そういう死と復活を遂げた主が、それ以前には何を教え、何をなさっていたかをも知りたいと思うもので、それは自然な願望だ。だから、どの福音書もそれらのことを収録している。しかし、人はそういう偉大な方の教えと事跡を知れば、次はどんな出生だったかも知りたくなるものだ。だから、後発の福音書はキリスト聖誕の記事も載せたと見ることができる。その意味で3福音書中、聖誕物語のないマルコは先で、マタイ、ルカの方は後だと見てよかろう。

 ところで、真正の4福音書を書いた人の中ではっきりしているのはルカだ。彼は主の直弟子ではなく、聖パウロの弟子だった。しかし、彼は聖母や使徒たち、主とつながりのあった証言者たちにインタビューしては記録を取り、Q資料も使って彼の福音書を仕上げたのだと推察する。マタイは使徒だったが、アラマイ語マタイ福音書の記者が彼だったかどうかは判然としない。それを手本にギリシャ語マタイ福音書を書いた記者も同様だ。現存のギリシャ語マタイ福音書はその前の原初ギリシャ語マタイ福音書を敷延して書き直したものらしく、その記者は使徒マタイではないと思う。
 マルコの福音書は聖マルコが書いたとされる。それを否定する根拠はない。彼は聖パウロや聖バルナバと伝道旅行もしたが、聖ペトロの弟子だったから、多くを師から聞いて書いたのだろう。しかし、原初ギリシャ語マタイ福音書を参考にしたことも確かだ。ヨハネの福音書はずっと遅く、1世紀末ぐらいに出来た。記者は使徒ヨハネだとされるが、弟子が書いたとも、口述で弟子に書かせたと言う説もある。いずれにせよ、この福音書に使徒ヨハネが直接かかわっていることだけは確実だと思う。
 ところが、その他にも福音書と名のつく偽書(Apocryphes)がいくつも出た。多くは共観3福音書よりずっと後だが、例えば聖ペトロの福音書、マチアスの福音書、バルトロマイの福音書、バルナバの福音書、ニコデモの福音書、ヤコブの元祖福音書、幼きイエスの福音書、12使徒の福音書、ヘブライ人の福音書等がある。さて、こうなると一般の信者はどれが真正でどれが偽物か判別できない。そこに口伝で宣教を続けてきた教会の出番があった。
 ある福音書が真正かどうかは、証言者世代が生きているときは、その証言に照らして判別できた。しかし、そういう人たちがいなくなっても、教会には主の福音が口伝で保持されて来ていた。従って、それに照らして合わなければ偽物、合えば本物と決めることができた。だから、福音書が先にあって、それによって教会ができたのではないことが、ついでながらここで言える。逆なのだ。教会があって真正な福音書が決まったのだ。「聖書のみ」の考えがいかに間違っているかはこれでわかる。
 そのようにして真正と認定された福音書こそが正典なのだ。それ以外は偽典として排除された。しかし、教会が間違いなくそう判定できたのは、聖霊が導いてくださったおかげだった。そして、正典の福音書は人間である福音史家が書いたのだが、彼らに霊感を与え、真の福音を書けるように導かれたのも聖霊なのだと、教会は教える。ある意味で福音書は聖霊が主役の作者なのだ。それはまさにイエス様が最後の夜、弟子たちに聖霊を約束してくださったことの一つの実現だったと言えよう。
 正典の福音書が書かれた時は聖霊が霊感で導き、書かれた後は教会が聖霊に守られて正しく真偽を判別した。しかし、かつて福音書の普及は写本によって行われた。ところが、写本は書記者が間違えたり、不心得にも個人的感想を挿入したりするようなことも起こり得る。それを次の写本記者がそのまま書き写すと間違いは再生産される。それはどうなったのだろうか?その時も教会は聖霊の助けによって判断してきた。そして、学者たちも研究して間違いを正してきた。それもまた聖霊のお働きだと見ていいと思う。

 素朴な疑問にちょっと答えを探すつもりが、こんなに長くなった。ここらでまとめることにしよう。福音書は普通の本と違って、最初に一番重要なご受難と復活の部分が形成され、次に教えと諸々の事跡、そして最後に降誕の部分が加えられた。最後の方から出来てきた書だと言っていい。だとすれば、イエス様の使命はもともと福音を実現することで、福音書を書くことではなかったから書かれなかったのだが、仮に書こうとなさっても、最初に書くべき使命の最も大事な部分はご昇天まで終わっていなかったのだから、書き終わることはできなかったと言わなければなるまい。
 それより何より、主がご自分で福音を書いてくださればよかったのに、という思いをもっと極端に推し進めると、いっそ天になど昇らず、ずっと地上にいて教会を治め、教え続けてくださったらよかったのに。そうすれば福音書も要らなかったのにという言い分にまで行き着きかねない。実はユダヤ人たちはそういう言い伝えを聞いていて、「わたしたちは律法によって、メシアは永遠にいつもおられると聞いていました」(ヨハネ12 ;34)と言ったのだった。それと五十歩百歩になる。
 しかし、救いのご計画はそうではなかった。イエス様は父から遣わされた使命を地上で果たされると、聖霊にバトンを渡し、教会に福音を伝え、神の国を実現する任務を託したのだった。福音書を書くと言うこともその中に含まれていた。福音書とは口で伝える福音が文字になったに過ぎず、本来は口で宣べられていたことなのだ。ところで、それをペンで本に書いたのは人だったが、それに霊感を与えたのは聖霊であり、真偽の判定で教会を導き、今も導いているのは聖霊だ。だから、主は自分で福音書を書かれなかったのだ。これで論証できたと思う。

死んでも生きる

 四旬節第5主日の福音はヨハネ11;1-45で、ラザロの死と蘇生のしるしを通して、イエス様がご自分を復活であり命であることを示された箇所だ。とても長いので、聖書と典礼も何節かは省略し、短縮して読ませる。それを見ると、一番重要なくだりは25、26節の「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」と、マルタに問われた主のお言葉にあると思われる。

 マルタとマリア姉妹、そして兄弟ラザロはエルサレムから遠くないベタニア村に住んでいた。ラザロとはエレアザルを縮小した名で、ルカの福音書16章の譬えにも出てくる。他方、姉妹は同福音書10章とヨハネ12;1-8に言及がある。このマリアは同7;36-50に出てくる罪深い女やマグダラのマリアと混同されがちなようだが、それとは別人だ。しかし、イエス様がエルサレムに上られる度にお寄りになったりして、親しい間柄にあったことはラザロを「友」(ヨハネ11;11)と呼ばれていることでもわかる。 
 そのラザロが危篤に陥ったので、姉妹は主に使いを出して知らせた。主はその時、ヨルダン川の対岸におられた。殺意を強めていたユダヤ人たちとの接触を避けるためだった。知らせを聞くと、主は「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである」と言われた。これは盲人の目を癒された時と同じお言葉だ。そして、後でマルタに言われたことを理解する鍵になる。哲学者ケルケゴールは「死に至る病」という本を書いたが、その題名はここから得たのだろうなとふと思った。

 イエス様はすぐには動かれなかったが、二日後「ラザロは死んだ」と弟子たちに告げ、ユダヤに戻られた。ベタニアでは、迎えに出たマルタが恨みがましげに、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに…」と言った。「何ですぐ来てくださらなかったのですか?」という気持が言外ににじみ出ている。しかし、「あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています」とも言った。信頼は失っていなかったのだ。
 すると主は答えられた。「あなたの兄弟は復活する」と。非常に断定的なお言葉だ。主がこれからなさろうとしていたことへの意志が、そこにはっきり感じ取れる。ラザロはすぐに生き返ると言われたのだ。しかし、マルタにはそれがわからなかった。だから、すぐにではなく、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と答えたのだ。ラザロが復活するなど、誰一人予想していなかったのだから無理もない。世の終わりの復活を信じていただけでも、彼女は殊勝だった。
 しかし、イエス様は彼女が、「あなたの兄弟は復活する」という意味を理解できないでいるのをご覧になると、これから何が起こるか、それが何のためかを彼女が少しでもよくわかるように、こう言われたのだった。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」と。冒頭にこの個所で一番重要なくだりだと指摘した25、26節の言葉だ。
 考えてみると、「わたしは復活する」ではなく、「わたしは復活である」とは、主が復活そのものだということで、実に驚くべき啓示だ。人の生死は最終的に神の御手にある。従って、これは主がご自分を生命与奪の権能を持つ、神性のある者だと言明されたことに他ならない。だからこそ、「信じる者は、死んでも生きる」と言うことができた。死んでも、信じた人は主が復活させてくださるからだ。そして、その真実を証明するためにこそ、主はラザロを復活させようとなさっていたのだった。
 でも、「生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない」というのは事実と違う。信じていても、信じない人たち同様、信者たちも皆死ぬではないかという疑問は湧くだろう。確かに皆死ぬ。しかし、主が「決して死ぬことはない」と言われたのはこの世の死ではない。主を信じて生きた者は、「死んでも生きる」と言われた人と同じく死後永遠の生命を得て、やがて復活する。だからそう言われたのだ。生きるにせよ死ぬにせよ、信じる者は復活して生きるということだ。
 「このことを信じるか」と問われたマルタは、「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであると私は信じております」と答えた。正しい答だった。でも、「はい、主よ、信じます」とだけ、きっぱり言っていたらもっとよかったと思う。その後に続けて言った部分は、「わたしは復活だ。信じる人は死んでも生きる。このことを信じるか」と問われたのに、「あなたは神の子メシアだと信じています」と、ややイスカの嘴的にずれた答だったからだ。でも、主はそれでよしとされたようだ。
 マリアは家にいたが、呼ばれてイエス様に会うと足もとにひれ伏し、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と、マルタと同じような恨み言を言った。ただしっかり者のマルタと違って、マリアは泣いていた。そして、ついて来たユダヤ人たちも皆泣いていた。死者への慟哭を見れば、たいてい人は胸が詰まる。彼らが泣いているのをご覧になると、主も身震いするほど感極まって心を高ぶらせられた。そして、「どこに葬ったのか」とお尋ねになった。

 さて、ここで話の筋を暫し止め、一語が誤訳かどうか検証しようと思う。新共同訳は33節を「泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して」と訳しているが、私はこれを誤訳だと見た。そこで、「…身震いするほど感極まって、心を高ぶらせ」と訂正してみた。少し注意深く読む人なら、皆がラザロの死を悲しんで泣いているのに、なぜ主は憤ったのだろうか。泣くのが当たり前で、怒る理由などないではないか。変だ。何か間違いではないのか、と疑問に思うのが普通ではなかろうか。
 問題は「憤りを覚え」という訳だ。もしそれが正しいとしたら、何に対する憤りだったのだろうか?マリアの言葉に対してだったとしたら、マルタも同じことを言ったのだから、マルタが言った時にもう憤られていたはずだ。しかし、それはなかったから、マリアの言葉に対してではなかった。彼女と人々が泣いていたからでもない。そのすぐ後、「イエスは涙を流された」とある。主ご自身も悲しんでおられたのだとすれば、人々が泣いていたことに憤ったのではないことは確かだ。
 そうなると、憤る理由もないのに「憤りを覚え」とした訳に、むしろ問題があるのではないかということになる。これは見過ごせない問題だと思ったので、実はもう2008年3月9日の四旬節第5主日の折、徹底的に調べ、「イエス様が憤った?」の題名でサンデー3分間に発表している。しかし、大事なことなので、もう一度取り上げたのだが、ここでは既発表のものの要約に留めようと思う。調べたのはギリシャ語原典、ラテン語訳、英仏独スペイン語訳、四邦訳、ヘブライ語訳だった。
 まず日本語訳だが、聖書協会訳は「激しく感動し」と訳し、バルバロ訳は「感動し」、ラゲ訳は「胸中感激し」と訳している。フランス語のBible de Jerusalemは “frémit intérieurement”(内的に身震いして)、スペイン語は “se conmovió interioramente”(内的に感動して)と訳した。英語は “deeply moved” (深く感動して)と訳している。ラテン語のブルガタ訳はfremuit spiritu (心中、感じて身震いして)としている。これらを見ると、「感動系」の解釈で共通している。 
 それに対して新共同訳は、「心に憤りを覚え」と訳した。他には独訳が“Er wurde zornig”(彼は立腹して)と訳していた。この訳は少数派で、「憤怒系」と呼んでいいだろう。しかし、感動と憤りでは全然違う。では、共同訳はなぜそう訳したのだろうか?原典のギリシャ語に「憤る」の意味があるため、おそらくその意味を採用したからではなかろうか。その結果、「感動系」の否定になった。 
 では、ギリシャ語を調べてみよう。原典にはενεβριμήσατο τω πνευματι(エネブリメーサト・トイ・プネウマティ)と書かれている。Ενεβριμήσατο(不定形はeμβριμαομαι)には「(馬が)鼻を鳴らす、ブルブルッと震える、怒る、怒鳴る、憤る、禁じる、大いに感動する」等、いくつかの意味がある。それから見ると、新共同訳が「憤って」と訳したのは適切とは思えないが、間違いではない。原典のενεβριμήσατοにはそういう意味があるからだ。だが、それには同時に「感動する」の意味もある。従って、「感動して」とした多くの近代語訳も、その意味では原典に照らして間違ってはいない。 
 では、ヘブライ語訳はどうだろうか。イエス様はギリシャ語ではなく、アラマイ語とヘブライ語を話しておられた。それなのに、原典はギリシャ語なので、ヘブライ語が訳になるという妙な関係にあるが、ユダヤ人の心情はユダヤ人が一番よく知っているから、この訳は大いに参考になる。では、どう訳してあるかというと、ニスアル ベルホ(註1)だ。ニスアルは「心が騒ぐ」「感動する」「荒れる」等の意味、「ベルホ」は「彼の心中で」の意味だ。どちらかと言えば感動系に近い。要するに、言葉だけ見て判定すれば、「感動」と「憤り」はどちらの訳も間違っていないことになる。

 しかし、二つは全く違う心の状態だから、「どちらも正しい」では問題は解決しない。そこで、決着をつけるには文脈で解釈する必要が出てくる。ところで、「感動し」という訳は、それがふつうの意味での感動ならおかしいことがわかる。なぜならラザロの死に姉妹は悲しみ、ユダヤ人たちも泣いていた。そんな時は哀悼を示しこそすれ、感動するものではないからだ。Deeply moved等は感動以外の意味もあるからいいが、「感動」という日本語はこの場面には不適切だ。いただけない。
 では、「憤りを覚え」はどうか?これは「感動」よりももっと見当違いな感情だと言わざるを得ない。すでに述べたが、もし「憤りを覚え」とか「怒って」なら、いったいイエス様は誰に対して、なぜ憤ったのかが問題になり、納得のいく説明がなければならない。ところが、悲しんでいるラザロの姉妹やユダヤ人対しては慰めや励ましの必要はあったが、これと言って憤るような理由は何も見つからなかった。
 神学者ブルトマン等は主が憤った理由を、マリアやユダヤ人たちの不信仰にあったとしているようだが、それは間違っていると思う。死者を悼むことは不信仰ではないし、復活の信仰があっても、ラザロの蘇生は想像すらできないことだったからだ。それに、そんな悲しみの場面で憤るのは、愛の人イエス様にはなじまない。他の学者は死をもたらしたサタンの支配に対する憤りだったと解釈するが、こんな時にそんな因果関係を考えるだろうか?ここの解釈にパウロ的神学は要らない。
 こうしてみると、「感動し」も「憤りを覚え」も良い訳ではないことがわかる。言葉そのものの訳が間違いではなくても、その場の状況に合っていない。主の精神的状態も十分に伝えていない上に、誤解すら生みかねない訳なのだ。では、どう訳したらいいのかというと、私なら「感極まって」とする。あるいは「身震いするほど感極まって」としてもいい。事実、原典のΕμβριμαομαιは本来「(馬が)鼻を鳴らしてブルブルッと震える」意味だ。それをヘブライ語の「心を揺さぶり動かされる」という意味とブレンドすれば、「身震いするほど感極まって」ということになるからだ。
 私たちも感極まるときは、言葉を失ったり、涙が抑えられなかったり、鳥肌が立って身震いしたりする。それは魂を揺さぶる感情のエネルギーが表に出る時だ。この時のイエス様もそうだったのだと想像する。主はラザロ一家を愛しておられたから、その家族の慟哭を目の当たりにして、身震いするほど感極まってしまわれた。それは救い主としての全身全霊を突き動かした感情だった。その感情にはラザロ兄弟姉妹への愛情、ユダヤ人たちの鈍い信仰への苛立ち、迫っていたご自分の死と復活の予見と恐れ、父からの使命の実現、そういう全てが含まれていたと推察するのだ。

 だから私は問題の一語を、「身震いするほど感極まって」と訳し直した。これだと、マリアの訴えを聞き、皆が泣いているのを見て、ご自分も涙を流されたことがよく理解できる。憤りでは逆だ。主の涙を見ると、ある人々は「ご覧なさい。どんなにラザロを愛しておられたことか」と言い、他の人々は「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか」と言った。それを聞くと、主は再び身震いするほど感極まった。これからなさることをご存知だったからだ。
 そこで、ここからまた話の筋にもどろう。墓に来られると、主は「その石を取りのけなさい」と言われた。するとマルタが「主よ、四日も立っていますから、もうにおいます」と、やめた方がいいと言うような感じで口をはさんだ。すると、主は「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と言われた。ところがこのお言葉は彼女との対話にはない。使いの者に言われた(ヨハネ11;4)のだ。だから、主は彼女たちが使いの者からそれを聞いて、知っていることを前提にそう言われたのだと思われる。
 その頃のユダヤの墓は岸壁にくり抜いた洞窟等にあり、入り口は石で塞いであった。その石は円盤形で、墓の前を転がして入り口を開閉した。だから「人々が石を取りのけると」と、複数で書いてあるのだ。円盤形でも石だから重くて、一人では動かせなかったことがわかる。墓が開くと、主は天の父にお祈りになった。そして、大声で叫ばれた。「ラザロ、出て来なさい!」と。そして、マルタも人々も神の栄光を見たのだった。その後のことは福音書に書いてある通りだ。解説は要らない。

 要るのは私たちがこの出来事から何を学び取るかだ。
 その第一はこの日の朗読の最終節が示唆している。そこには「イエスのなさったことを目撃したユダヤ人の多くは、イエスを信じた」と書いてある。では、彼らはイエス様の何を信じたのだろうか?マルタが言った「あなたが世に来られるはずの神の子、メシアである」ということを信じた、というのが答えだと思う。しかし、信じたのは目撃者たちだったが、私たちは目撃できない。だから、私たちも同じ信仰がもてるかどうか問われているが、それには「見ないで信じる者は幸い」の一言が加わる。
 第二は主が「復活であり、命である」ということだと思う。この奇跡の時、その場にいた人たちは、まだこの真理を理解できなかっただろうと推測する。主がまだ死と復活を遂げておられなかったからだ。しかし、それが成就したことを知っている私たちは、「わたしは復活である」と言われた啓示が、神の救いのご計画の核心であったこと、そして、ラザロの復活はその一証明だったということを学び取れる。もしもそれを疑うなら、福音書そのものを疑うことになる。
 第三は、主を信じた者は死んでも生きることを確信することだ。ラザロの復活はしるしだった。一度は復活したが、彼はその後の人生を全うして、結局は死んだ。二度目の死を迎えたのだ。人と生れて死なない人はいない。しかし、主を信じる者は死んでも生き、生きている者はすでに述べた意味で、決して死ぬことはない。以上がこの個所の三大メッセージだと思う。
 大事なのはその後だ。私たちはマルタと同じように、「このことを信じるか?」と問われている。それに答えて、それを信じた者にふさわしい生き方をすれば、復活の約束に与れる。しかし、そうでなければ、いくらそれを理解しても何にもならない。最後は信じるかどうかにある。 

 これを書いているとき、藤が丘教会で親しくしていただいていたK.S.さんが亡くなったという知らせを受けた。そして、昨日はお通夜、今日はお葬儀と告別式に参列してきた。彼女の病気は多発性骨髄症だと聞いたが、背中や胸の骨も変形し、とても激しい痛みを伴う病気だった。昭和医大病院にお見舞いした時は、もともと小柄なお体が更に小さく見えた。でも、苦しみを捧げて一生懸命生き、幸いにも病者の秘跡も御聖体も受けて、この四旬節に世を去られたのだった。
 そのお通夜と葬儀ミサの式次第には、「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる」の聖句が載せてあった。そして、葬儀ミサの福音はヨハネ11;18-27だった。ちょうどそれが今度の日曜日に読まれる福音の個所だとは、私には何か偶然以上に感じられた。Sさんの家族はマルタとマリアと同じような悲しみの中にあり、列席の私たちはマリアと共に泣いていたユダヤ人たちのように悲しんでいた。だから、この福音をこれほど切実に感じたことはなかった。
 そして確信した。イエス様があの時、「憤りを覚え」たことは絶対にありえないと。喪主がご挨拶の最後に、「お母さん、今でも愛してるよ」と言われた時、私はジーンと来た。このような時、憤るわけがない。私たちと同じように、主もあの時、悲しむ人々と同じ気持ちで悲しみ、感極まって涙を流されたのだ。しかし、ラザロを蘇らせるおつもりだったから、その時の人々の驚きと喜びをもう知っておられ、天の父への感謝もこめて感極まっておられたのだ、と。これはSさんがわからせてくれたのだと思っている。
 だから、説教は「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる」のところに焦点を当ててほしかった。そしたらどんなに励まされたことだろうか。故人の人となりや生きた証しはご家族や友人の方がずっとよく知っている。司祭は復活がどれほど大きな希望であるか、その約束がどんなに確かであるか、そして、信じる人の人生の終わりが、神の国へのどんなにすばらしい入国であるか、それを話してほしかった。それこそが良い知らせ、福音だからだ。
 何が起こるかも知らずに、「死んでも生きる」のタイトルでこのコラムを書き始めたが、今思うにこのお言葉は、今回はまずSさんのためだった。次に、主は彼女を通して私たちに、それを実感をもって学ばせてくださったのだ。奇跡の時代ではない今、私たちの中には、「盲人の目を開け、ラザロを蘇らせた主でも、彼女が死なないようにはできなかったのだろうか」と呟く人はいないだろう。いずれは誰も死なざるを得ないが、私たちは体の復活と永遠の命とを信じているからだ。
 
(註1)
ニスアル

東日本大震災:被災地からの手紙

 東日本大震災と福島原発事故のせいで、東北の人たちが苦しみ、日本中の人々も多かれ少なかれその影響を受けているときに、聖書のことばかり書いているのは、現実離れしているのではないかと気が引けていた。本当はもしヨブが今ここにいたらというテーマで、この大天災と人災のことを突き詰めてみたいのだが、自分に課している聖書のコラムを優先しているから、なかなかそれが果たせないでいる。そんな時に被災地仙台の知人からまた手紙が来た。
 それは新聞やテレビやインターネットなどの情報とは違う、もっと生活感がにじむ被災地からの知らせであり、普通の人の感覚に映った異常な日常の様子だった。差出人は中学生の孫がいるご婦人で、罹災はしなかったものの、彼女は大災害が残した爪痕の中で生きている。読んで感銘を受けたから、おそらく他の人たちにも興味深いのではないか、そして、大震災理解と支援のため何らかの役に立つかも知れないと考え、ここに掲載することにした。ただし、ご承諾があるまではお名前は伏せておく。それはこんな手紙だ。

「主の平和をお祈り申し上げます。
 今日の日差しはとても暖かいです。
 この度の東日本大震災の折には早速お見舞いと励ましのお便りをありがとうございました。大変なご心配をおかけいたし、ご案じいただきましたこと、心より御礼申し上げます。わずかな献金の支援者をこのように大切に思ってくださる、運動の柱となってくださっている方々のあたたかいいお心の故に、これまで続けて来られたと、あらためて思いました。
 私の所は高台にあり、川向うの被害にあわれた方々には申し訳ない位大丈夫でした。電気は一週間目につき、ガスはまだですが(私の所は電気)、今日の昼、十九日ぶりに水が出ました。水がキラキラと美しく思えました。
地震の後の四、五日は行き交う人々は皆リュックを背負い、ペットボトル等の水を入れる容器を持ち、黙々と歩いており、どの店もシャッターが下りたまま。空が明るいのに、空気が重く感じられました。
 最初に給水に行った中学を卒業したばかりの孫の話で、行列の些細な事で二人の大人の口論となり、『まあ、まあ』と仲裁に入った人、『落ち着いて』となだめに入った水道局の職員を交えての口論となったそうですが、誰も責めることはできません。お風呂の水はとても役に立ちました。
 三月なのにどうしてこんなに寒いのかと思う日が何日かありました。雪の積もった朝、バケツに雪をかき集めましたが、溶けたら水はわずかでした。日本各地からの応援で、給水車も広島から佐賀からと、お聞きした時は頭が下がりました。
 買い物は店頭販売で、はじめは人数にも品物にも制限がありました。今日は600名様。野菜5点その他5点等。卵一パック買えた時はうれしかったです。昨日はお肉も買うことができ、日に日に良くなっています。
 地震の翌々日、川向うに行ってみました。国道に向かう道には自衛隊の車が並び、街路樹の根元には救命ボートもありました。横道に入りましたら、水がまだ残っており、流されてこわれた車が何台も重なっていて、それ以上は恐くて行けませんでした。帰り道、市の広報車が、避難者が一万人以上もおられ、毛布が足りないと呼びかけていましたので、一枚だけですが、市役所に毛布を持って行きましたところ、市役所のホールには人がいっぱい。若者、男の人が多く、何重にも行列で、何事かと尋ねましたら、携帯に充電するため一人十五分で、市役所も自家発電ですが、夜の十一時迄受け付けるとのことでした。
 先日、知人をたずねましたら、90を過ぎたおじいちゃんを二階に上げるのが精いっぱいだったと、家の中には津波の跡が線を引いたように残り、後片付けが思いやられました。
 私は電気もガスも水もない中で、沢山の方のご親切をいただき、三度の食事ができました。共に生きること、支えられていることを身にしみて感じました。家を流され、肉親や身内の方を亡くされた方々のご心情を思うと、言葉もありません。ふっとヨブ記がよぎりました。謙虚に、謙虚に祈らねばと思いました。
 運動ニュースにもこちらの様子を書かせていただきましたが、お礼の手紙がこのようになりましたこと、お許しくださいませ。
 くれぐれもお体をお大切にお過ごしくださいませ。感謝のうちに かしこ。
 3月30日      
          S.U.
                     
手を貸す運動顧問
 佐藤正明様 」

 以上だが、封筒の裏面を見たら、「郵便局にまいりましたら、日数がどれ位かかるかわからないと言われました。悪しからず」と書いてあった。私の手元に届いたのが4月4日だから、足掛け6日かかったことになる。何とシエラレオネへのエアメールとあまり変わらない日数だ。こんなところにも、やはり陸上輸送や通信業務などが、まだ平常に戻りきっていない一端が見える。
 この手紙と新聞やテレビ記者の現地報道との違いは、例えば「十九日ぶりに水が出ました。水がキラキラと美しく思えました」という感想などに見える。その場に生活していない、いわば通り過ぎてします記者には、こんな待望感はにじみ出てくる由もなく、水がキラキラ美しく思える感動も味わえないだろう。記者自身が被災者として体験したのなら別だが。
 「昨日はお肉も買うことができ、日に日に良くなっています」とある知らせもそうだ。スポット的に短時間しか一か所にいない記者が、こうした時間的に持続した結果の状況を実感込めて知らせることは、伝聞では書けるだろうが、自分の実感としてほぼ伝えられないだろう。それはある土地に対して、そこに長年住んでいる人が持っている感想と、一時的に訪れるだけの観光客が持つ感想の違いに似ている。この手紙が貴重なゆえんだ。
 給水の場での口論は、「人の世界はやはり美談ばかりではないな」ということを裏付ける。忍耐深く助け合う東北人の中にも、列に割り込んだり、人より多くもらおうとしたりする人はやはりいるんだとわかった。東京圏など震災圏外の人たちの中にも、支援しようとする人たちがいた半面、食料や水を買い占めた人たちもいた。人間、この素晴らしいもの、そしてこの醜いもの。その両面はまさにこういうときに現れるものなんだなと思う。しかし、彼女は「誰も責めることはできません」と書いている。私なら非難してしまうのに、と心を打たれた。
 この知人は災害から大きなダメージを受けずに済んだが、それでも他の方々と同じように、恐怖、不安、停電、断水等の不便は体験した。そして、周囲の惨状を目撃しなければならなかった。だから彼女はヨブのことを想起したのだと思う。謙虚で素直な信仰を持っているから、すべての財産を失い、不幸のどん底に落とされても、「主は与え、主は取り去り給う。主のみ名はほむべきかな」と言った義人ヨブのように。
 だが、私は彼女とは違い、今回の大震災では憤慨して、神に食って掛かろうとしている。「なぜ、こんな残酷なことをお許しになられたのか?あなたは愛だと言われるのに、これが愛の仕業ですか。筋が通らないではないですか」と、ヨブよりも徹底的に神に議論を挑んで、答えを得たいと願っている。この掲載はとりあえず、その答えを得るまでの私の態度表明でもある。
 さて、最後になってしまったが、この大震災で命を失った方々には心から哀悼の意をささげたい。今は安らかに憩うてください。行方不明の方々は一日も早く安否がわかりますように。そして、被災なさった方々には励ましのことばにかえて、拙作のスズランの絵をここに載せます。花言葉が「幸せの再来」なので…
幸せの再来

見える人、見えない人

和泉の水

 四旬節第4主日の福音はヨハネ9;1-41で、そのテーマは「見える人、見えない人」だと言っていいだろう。本文はとても長い。しかし、キーワードはイエス様が「わたしは、世にいる間、世の光である」と言われた5節と、「こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる」と言われた39節にあると見る。ところで、なぜそう言うお言葉が出たのか?まずその背景をざっと見ることから始めよう。その後で5節と39節の考察に入ろうと思う。

 ある日一人の盲人を見かけたとき、弟子たちはイエス様に質問した。「この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪をおかしたからですか?本人ですか。それとも、両親ですか」と。彼らは旧約の応報説にとらわれていたから、そういう発想で人の不幸を考えたのだった。えせ宗教もよく病気や不幸を先祖のたたりだなどと言う。しかし、主はそういう因果をきっぱり否定し、「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」とお答えになった。
 そして、これから行うことを弟子たちがわかるように、続けてこう言われた。「わたしたちは、わたしたちをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わなければならない。だれも働くことのできない夜が来る」と。そして、その後に「わたしは、世にいる間、世の光である」と言われたのだった。「お遣わしになった方の業」とは救いの仕事だが、それは無期限ではない。やがて、世の終わりが来る。つまり、夜が来る。そうなれば見えないし働けない。しかし、それまでは主が光として世を照らしていると教えられたのだ。
 そう言われてから、主はその盲人に近づかれた。そして、地面の土を唾でこねると彼の目に塗り、「シロアムの池に行って洗いなさい」と言われた。これはエリコの盲人の奇跡(ルカ18;35seq.)に比べると随分違う。その時は「憐れんでください」と乞われて、「見えるようになれ」の一言で治されたが、ここでは頼まれないのに近づいて治癒なさり、治し方も唾でこねた土を目に塗るという手の込んだ奇跡だった。子どもたちなら、「ゲぇ、きったねぇ!」と言うかも知れない。その通り。汚いと感じるなら、その感覚は正常だ。
 なぜなら、それが「見ようとしない罪」の象徴だとしたら、汚くて当然だからだ。創世記では人は土から創られ、原罪で汚れた。唾でこねた土は目薬でも何でもなく、むしろ目に邪魔な汚れに他ならなかった。イエス様はそのふわしい象徴として、わざわざそういう物を使われたのだと思う。心の汚れを聖なる水で洗い落とせば、見えなかった心の目にも神様の光が入るからだ。主は人びとにそれをわからせるため、このような奇跡のやり方をなさったのではなかろうか。
 その盲人は「主よ、見えるようにしてください」とは叫ばなかったが、見えるようになりたいとはずっと願っていたに違いない。だから、彼は言われるままにシロエの池に行った。その池はエルサレム旧市街東南端の城壁内にあって、余った水はキドロンの谷川に注いでいた。おそらく何人かの人たちが盲人といっしょに行ったのだと思われる。主が彼を見かけた場所が池に近かったとしても、盲人一人でそこへ行くのは無理だったし、危険でもあると心配したに違いないからだ。 
 池に着くと、盲人は信じて洗った。そしたら見えたのだ!彼が池の水で洗ったら目が見えたように、罪の泥を洗い落せば、魂の目も見えてくる。泥は目から鱗と同じで、塗るよりも洗い落とすことの方が重要だったのだ。典礼はそのことから、洗礼に着目するよう促していているのではなかろうか。四旬節は信者には改心の時期だが、最初はむしろ洗礼志願者の準備期間だった。この日の福音の盲人は、洗礼によって罪を洗われ、神の恵みの光を見る受洗者の原型だと見ていい。
 目を洗ったら初めて見えたまぶしい世界!盲人だった彼はどれほど感激したことだろうか。しかし、大きな喜びもつかの間、周囲で面倒な事態が起こった。盲人を知っていた人々が、「これは、座って物乞いをしていた人だ」と驚く人と、「いや違う。似ているだけだ」と否定する人もいたからだ。彼が「わたしです」と言って、イエス様が言われたこととなさったことを話すと、人々は彼をファリサイ派の人々のところへ連れて行った。その日が働いてはいけない安息日だったからだ。

 ファリサイ派の人々は彼を尋問して一部始を聞くと、「その人は安息日を守らないから、神から来た者ではない」という人と、「どうして罪のある人間がこんなしるしを行うことができるだろうか」と言う者とで意見が割れた。そこで両親を呼んで、どうして見えるようになったかを聞いた。しかし、「もう大人ですから、本人に聞いてください」と逃げられ、仕方なく再度元盲人を問い糺した。だが、かえってやり込められ、憤慨して彼を外に追い出すしかなかった。お手上げだったのだ。
 イエス様は元盲人が追い出されたことを聞くと、彼に会われた。注目すべきは、主の方から会いに行かれたらしいことだ。まだ主を見たことがない元盲人には、主を見つけることは難しいと思われたからだろうか。彼に出会うと、主はお問いになった。「あなたは人の子を信じるか」と。彼は答えて、「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが」と言った。癒される前はまだ主が見えていなかったから、会ってもそれが主だとはわからなかったのだ。
 すると主は言われた。「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ」と。サマリアの女に言われたのと同じお言葉(ヨハネ4;26)だった。元盲人は声でしか知らなかった方を、見ることができた。しかも、その癒された目で!彼はどんなに驚き、喜んだことだろうか。その方が今自分の前にいて、「人の子を信じるか?」とお問いになり、「あなたと話しているのが、その人だ」と言われたのだ。彼はためらわず言った。「主よ、信じます!」と。そして、膝まずいた。 
 すると主は言われた。「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる」と。今日の福音の一方のキーワードだ。これはその場にいた人たちすべてに言われたのだと思ってよかろう。果たせるかな、ファリサイ派の人々がすぐ反応して質問した。「我々も見えないということか」と。元盲人を尋問の場から追い出したが、気になって数人が後をつけて来ていたのだ。主は言われた。「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る」と。

 さて、以上は背景とストーリーのコメントだった。ここからはそれをどう理解したらいいか考察しよう。そもそも物が見えるには何が必須条件かというと、少なくとも視力と光の二つが必要だ。それを前提にして考えると、「見えない」ケースは4つある。①視力も光もない場合。②視力があっても、光がない場合。③反対に光があっても、視力がない場合。そして、④光も視力もあるのに、目を閉じて見ようとしないか眠っている場合の4つだ。それに対して見えるケースは、視力も光もある場合だけで、それも目を開けて見ようとしなければ、見えない人のケース④に該当してしまう。
 福音書の盲人は見えないケース③だった。光がある昼も、盲人には夜同然だった。しかし、彼に光が射した。イエス様のおかげで見える人になれたのだ。では、見える人になったとき、彼には何が見えたのかと考えてみるに、まず目を洗ったシロエの池の水や自然界の諸々の物が見えたと思う。次に両親や近所の人々も見えたに違いない。そして、連れて行かれた先ではファリサイ派の面々も見えただろう。しかし、彼らの審問を通して、彼は自分の目を癒してくれた方が、預言者または神の人だということも見えるようになって行った。
 ところが、それは肉眼に見えたことではなかった。そのことは人が肉体の目によってだけ物を見る存在ではないことを意味する。ここが大事なポイントだ。仏教の大無量寿経は、目には肉眼、天眼、法眼、慧眼、仏眼の五眼があるとし、例えば「慧眼見真」と言うそうだ。そこまで区別しなくてもいいと思うが、少なくとも私たちは肉眼以外の目を心の目と呼ぶ。そして、少し注意して観察すると、人は肉眼で見るよりもずっと頻繁かつ多岐に亘って、実は心の目で物事を見ていることにも気付く。
 例えば、万札は猫にも人にも物として見える。しかし、猫はそれを踏んでも平気だが、人は急いで拾うだろう。肉眼には見えない万札の価値が見えているからだ。肉眼はマザーテレサの顔に深い皺を見るが、心の目はそこに死に瀕した人をみとった彼女の愛を見る。人々はテレビを通して、東日本大震災で家族を失った方々の表情を見る。しかし、そこに深い悲嘆を見てとるのは心の目だ。だからこそ心が動く。人の洞察力とは、肉眼の視力ではなく、心の目の眼力のことなのだ。

 ところで、見えるためのもう一つの条件は光だ。どんなによい目を持っている人も、光がなければ物を見ることは出来ない。人は自然界の物なら昼は太陽光で、夜は月明かりや電燈や蝋燭などの光で物を見る。しかし、肉眼では見えないものがある。「大切なものは目に見えない」と星の王子様は言った。そういう目に見えないものは心の目と、目に見えない世界を照らす光があってこそ見える。心の目だけあってもだめで、それにふさわしい光が存在しなくてはならないのだ。
 そこで、なぜイエス様が「わたしは…世の光である」と言われたかがわかる。主こそ人の心の世界を照らす光だからだ。それは福音の他の個所にも書かれている。「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。…その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである」(ヨハネ1;4,5,9)と。そして、「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇を歩かず、命の光を持つ」(同8;12)とも。
 この時癒された盲人は肉眼だけでなく、心の目も見えるようになっていた。いや、むしろそうなるようにと、主はまず彼の肉体の目を癒されたのだと考えた方がいいかも知れない。この奇跡的治癒の例によって、見える人と見えない人のことを他の人々にも悟らせるためだったからだ。そう解釈すると、なぜ頼まれもしなかったのに自分の方から彼に近づき、しかも唾でこねた土を目に塗ってシロエの池で洗わせるという、極めて変わったやり方で彼の目を癒されたか、納得がいく。
 元盲人はファリサイ派の人々に審問されている間に、主が預言者だと確信し始めていた。心の目も見えるようになっていて、目に見えないものを見えさせる光に照らされ始めていたからだ。そして、主に出会えたとき、彼は遂に最良のものを見ることができた。神の救いの証しである人の子そのものを見たのだ。どんなに感激したことだろうか!だから、彼は跪いて信仰を吐露した。「こうして、見えない者は見えるようになり」と言われたお言葉は実現したのだった。

 では、その同じお言葉の「見える者は見えないようになる」という後半は、どういう結末になったのだろうか?それは「今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る」と言われたことでわかる。ファリサイ派の人々は、光も視力もあるのに、目を閉じて見ようとしないか眠っている場合の④に該当した。彼らは律法のエリートとして聖書に通じていた。だから、心の視力は十分あった。他方、光も輝いていた。だが、彼らは目を開けて見ようとしなかったのだ。
 旧約ではまだすべてが啓示されてはいなかったから、聖書に通じていた彼らではあっても、すべてがわかっていたわけではなく、更なる啓示を受け入れる必要があった。それなのに彼らは「私たちは見える」と自負し、現状以上は受け入れようとしなかった。見えると自負する者は、本当は見えていなくても、見えていると思い込んでいるから、見ようとしない。彼らもそうだった。主が「そこに罪が残る」と指摘されたのは、その頑なさ、その拒絶だった。
 見る力も心の光も揃っているのに、見まいとして心の目を閉じたら結果は明白で、「見えない」状態だった。彼らは人為的に自分を夜にしてしまっていたのだ。では、彼らには何が見えなかったかと言うと、父の独り子が来て打ち明けてくださった救いの新たな進展と、その喜ばしくも驚くべき福音の生き方だった。日中でも戸を閉めた家は暗い。同じように、目を閉じた彼らの心の中は暗いままだった。「罪が残る」とは「暗闇のままだ」とも理解できる。このようにして、「見える者は見えないようになる」ことが実現してしまったのだ。
 「暗闇は光を理解しなかった」(ヨハネ1;5)とはそのことだった。しかし、「罪が残る」と言われたお言葉は、そう言われてもまだ心の目を開けようとしない場合、「暗闇のままだ」であるだけでなく、「見ようとしない罪」 だという警告でもあった。預言者エレミヤが「目があっても、見えず、耳があっても聞こえない民」(エレミヤ5;21)と断じた逆らいの罪だ。「私たちも見えるようにしてください」と願ったら、目を開ける恵みに浴せて、ファリサイ派の人々も見える人になれたのに…悔やまれる。 

 要約してみよう。この日の福音の中心メッセージは、「イエス・キリスト様は世の光である。主を信じる者は神の救いを見る」ということにある。そして、その光の前に二つのモデルが登場した。一人は盲人で、光が照っていても視力がなかったから、見ることができなかった。しかし、主は見えるようになりたいと願っていたその人の目を開かせ、見える人とされた。彼は洗礼志願者たちのモデルだ。彼らも洗礼によって罪の泥を洗い流され、見えなかった人から見える人になるからだ。
 もう一つのモデルはファリサイ派の人たちだ。彼らは視力もあり光もあったのに、目をつむって見ようとしなかった。だから、自ら見えない人たちになってしまった。彼らはすでに主を信じている者たちの反面教師だと言える。見る力も光もあるのに、目を閉じて自己の暗黒にとどまる信者は彼らと同じだ。しかし、四旬節を改心の恵みの時として目を開ける信者は、見える人であり続けられるだろう。では、自分はどうか?その答えは「見える人になりたいか?」という問いへの自答次第だ。
プロフィール

余生風

Author:余生風
「聖書温故知新」
「思いつくまま、気の向くまま」
折にふれ「水彩画」も紹介してまいります。

「手を貸す運動」創始者
社会福祉法人「地の星」理事
元玉川大学教授

佐藤正明(余生風)ホームページ
「絵画と心」

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