FC2ブログ

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

摂理に委ねる

 先週の2月19日(土)にすぐ上の兄が死去したため、その納棺から葬儀終了まで、週の三日を藤沢市や海老名市で費やした。そして今日26日(土)はベロニカ苑ともの会の総会というわけで、今週は書く時間が少なく、この聖書自学は止めようかと思った。そもそもこれを毎週書く責任も義務もないし、自分のボケ防止のためだけなのだから、誰に断る必要もないわけだが、休むとやる気が崩れていきそうなので、やはり少し書くことにした。

 ところで、年間の主日が四旬節前に第8番目まである年は珍しい。復活祭が遅いからだが、その主日の福音はマタイ6;24-34だ。イエス様が「空の鳥をみなさい。野の花を見なさい」と話してくださった、有名な個所だ。聖書のどこにも、これほど素晴らしい個所はないと思う。深い理の筋が通っているのに、何と詩的で明るいことか!主は親しみやすい身近な例で、聞く人をほっとさせ、わかりやすい言葉で慰めと希望がいっぱいの話をしてくださった。身構えている人がいても、ここを読めば自然に気持ちがほぐれ、引き込まれてしまうと思う。
 ここは理屈っぽい解釈をするよりも、読んでわかればそれだけでいい章節だ。あれこれ解説したり注釈したりすれば、かえってせっかく感じ取ったものをぶち壊してしまいかねない。おいしい食べ物も黙って味わうのが一番で、そばでどんな材料を使ったの、味付けがどうの、食感がどうの等と説明されると、かえって邪魔になる。それと同じで、教会の説教もえてして余計な解説をして、福音の味を消しがちだ。
 とくにこの日の福音は、くどくどと余計な説明をしない方がいい。読んでわからない所はそんなにない。二番煎じの解説などを聞くより、むしろひとりゆっくりと読んで、イエス様の言おうとなさったことがわかりさえすれば、それでいい。だからこのブログも、今回はむしろ邪魔になる解釈などはしないことにし、読んで受けた感動の余韻が、しばらくはそのまま心に残るようにしよう。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 さて、その感動を保ったまま少し時間をおいた上で、ここからは読んだ時に覚えた疑問と読後の感想を、二つずつ書いておくことにする。
 読んでいて湧いた疑問の一つは、「この個所は主が話されたそのままだろうか?」という点だった。内容への疑いではない。むしろこの章節のように、これこそまさに正真正銘の主のお話だ、と実感できる箇所はそう多くはない。ただ、ルカが伝えたのとは若干違う。そこで、どちらが元の話により近いのだろうかと疑問に思っただけだ。たとえ結論としてそれがはっきりしなくても、この章節が私を感動させ、イエス・キリスト様がどういう方だったかを、最もよく想像させてくれる個所であることには変わりがない。
 ところで多くの翻訳聖書は、話の一まとまりごとに題名を付けているが、新共同訳はこの個所を「思い悩むな」と名付けている。英訳は「真の知恵(True Wisdom)」とし、仏訳は「摂理に委ねよ(S’abandonner à la Providence)」、ドイツ語訳は「日々の思い煩い(Die täglichen Sorgen)」としている。それらの中では、仏訳が内容を一番適切に表現していると思われる。テーマは「神の摂理への信頼」だからだ。そこで、私はこの章節を「摂理に委ねよ」の題名で呼ぶことにするが、その大部分はマタイとルカ(12;章22-34)でよく一致している。むしろ驚くほどだ。しかし、違いもある。そして問題はそこから来る。
 では、どこがマタイと違うかというと、小さな違いでは①空の鳥がルカでは烏であり、②「なぜ衣服のことで思い悩むのか」がルカでは「こんな小さな事さえできないのに、なぜほかの事まで思い悩むのか」となり、③「神の国と神の義を求めなさい」がルカでは「神の国を求めなさい」となっている点等だ。④しかし、大きな違いは、「だから明日のことまで思い悩むな…」以下がルカにはなく、「小さな群れよ、恐れるな・・・」という励ましと、天に富を積めという勧めになっているくだりにある。
 ④にあるルカの「小さな群れよ、恐れるな」はヨハネ10;7-18や同14;27 を連想させるが、持ち物を売って施し、天に富を積みなさいという勧めは、マタイではこの「摂理に委ねよ」の話の少し前、6;19-21に書いてある。ルカは「摂理に委ねよ」の話を「愚かな金持ちの譬え」の続きとして伝えたので、食べることや着ることなどに思い悩まず、むしろ富は天に積むことを心がけるべきだとまとめた。その方が筋が通ると考えて、この部分を「摂理に委ねよ」の後に持ってきたのだと思う。
 それに対して、ギリシャ語マタイは記憶や資料にあった主の教えを、アラム語マタイに従い、マルコを参考にして、ある意味ではそれほど整合性のある構築は考えることなく、山上の説教として並べて行ったのだと推察できる。そうだとすると、④で指摘したルカとの違いを比べるとき、私はマタイの方がイエス様の話の元形をよりよくとどめているのではないかと推理する。なぜなら、「だから明日のことまで思い悩むな」という励ましは、「だから天に宝を」という勧めよりも、摂理に委ねよという教えと整合性があり、より自然な帰結だからだ。
 根拠は私の想像力だけなのだが、①の場合は、おそらく主は「空の鳥」と言う言葉を使われたのではなかろうか。しかし、実際に飛んでいたのは烏だったのではないかと想像する。小鳥のようにすばやく飛ぶ鳥では、「空の鳥を見なさい」と言われても、あっという間に見えなくなってしまう。しかし、高いところをゆっくり飛ぶ烏なら、見上げながら、「種も蒔かず、刈り入れもせず…」と言われる言葉にうなずく間があっただろうと思えるからだ。ルカ福音書に出てくる「烏」は、ワタリガラスのことだった。
 ②の違いは問題にするほどではないと思う。だからスキップする。③の違いはルカが「神の義」を省いたのだと見る方が妥当だろう。マタイはユダヤ人信者のために福音書を書いたので、とうていそれを省くわけにはいかなった。「義」は聖書の伝統の中で、非常に重要な思念だったからだ。しかし、それについては少し前、「義がまさっているとは」の題名で考察したから、ここでは繰り返さない。そこで結論だが、この章節はほぼ主が話されたままの、元の言葉と内容を伝えていると信じていいのではないか思う。

 もう一つの疑問-というより気になる点-は、「自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服より大切ではないか。空の鳥をよく見なさい」とあるくだりで、「命は食べ物よりも大切であり、体は衣服より大切ではないか」という問いの論理が、やや危ういのではないかと思えることだ。この問いにはそれへ肯定的な答え、それを受ける小前提、そこから引き出される暗黙の結論が隠されている。
 それを言葉に表すと、「然り、命は食べ物よりも大切、体は衣服より大切だ。ところで、食べ物や着物のことばかり心配するのは本末転倒だ。故に間違っている。見方を変えて、命と体の方を大切にすべきだ。空の鳥を見なさい」と言えるような展開だ。しかし、「命は食べ物よりも大切であり、体は衣服より大切だ。だからこそ、命と体を守るために食べ物や着物の心配をしているのではないか。それは命と体を大切にしている証拠で、筋が通った話だ。そのどこが間違っているのか?」と反論される余地がある。
 論理に危うさがないかと指摘したのはその点だ。イエス様は命と体の方が食物や着物より大切だから、そちらに目を向けなさいと言われた。天の父は食物や着物などが必要なことはちゃんとご存じだ。だから、たとえ願わなくてもそれをくださる。それが摂理と言うものだ。だから、それに信頼を置き、まず一番大切な神の国と神の義を求めなさい。そうすれば後の物はみなついてくる。求める順序を間違えてはいけない、ということをわからせようとなさったのだ。英訳が題名を“True Wisdom”としたのも、そう理解したからだろう。
 では、上述のような反論にはどういう答えがあるのだろうか?実はもう主がそれに答えてくださっている。「あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか」というお言葉がそれだ。命と体を大切にしているからこそ、食べ物や着物の心配をしているという理屈は、筋は通っている。問題はいくら心配しても、命や体は人間の力ではいかんともし難く、寿命をわずか延ばすことすら出来ないのに、その理屈が自力でできることを前提にし、神の摂理を考慮に入れていないことだ。間違いはそこにある。
 主は、命や体のために食物や着物のことを思い煩っても、結局人の力では確かな解決は得られない。だから、そういう求め方ではなく、むしろ神様の御心に適った、価値が上の大切なものから先に求めなさい。そうすれば、下の価値の食物や着物も与えられると教えられたのだ。ただし、それは信仰を前提とする。人々が福音を信じれば、互いに愛し合うはずだから、そうなれば、食物や着物は天の父から直接ではなくても、隣人愛を通して与えられるからだ。これが主の答えだと思う。

 さて、二つの感想だが、その第一は主が話された言語についてだ。最初の疑問は「この個所は主が話されたそのままだろうか?」ということだったが、その問いは話の内容や言葉とは別に、言語にも当てはまる。神様の言葉、つまり神語というものはないのだから、いや、あっても人間には理解不能のはずだから、聖書といえども書いてあるのは人間の言語だと言わなければならない。しかし、人として生まれたイエス様は神の御子ではあったが、特定の言語を話しておられた。真の人でもあったからだ。
 では何語を話しておられたかというと、ヘブライ語のガリラヤ方言だった。それはアラマイ語の影響を強く受けていたと言われる。従って、ガリラヤで民衆に話されていた時は、おそらくガリラヤ方言で話されたのだろうから、「摂理に委ねなさい」の話もその方言でなさったのではないかと想像する。しかし、知的エリートだった律法学者たちやファリサイ派の人たちと議論もし、何度も都エルサレムに上られたのだから、そういう時は、まともなヘブライ語を使われたに違いない。
 ということは、主が話されたのはもちろん日本語ではなかった。そして、福音書を日本語訳で読んでも、正確にはありのままに主のお言葉を読むわけではない、ということになる。同じことは他のどの諸言語の翻訳聖書にも言える。ギリシャ語原典すら主が語られたままの言葉ではないのだ。ギリシャ語も主が使われた言語ではないからだ。翻訳の聖書がどんなに役立ち、貴重であるかは言うまでもない。ましてや原典は何ものにも代えがたい貴重なものだ。その価値は計り知れない。
 しかしながら、そこに書き残されているのは、やはり主が話されたありのままの言語ではないのだ。よく「ギリシャ語では…」などともったいぶって言う神父がいるが、私は原典で読むと、「ああ、主はこんな言葉では話されなかった!」と強く感じる。だから、私はよく福音を、私の宝物であるアラマイ語とヘブライ語対訳の訳書で読む。福音史家が伝えたので、それがイエス様の話されたままとは言えないが、少なくともギリシャ語よりはずっと元のお言葉に近いと思うからだ。
 特にこの章節ではそれを感じたかったので、ヘブライ語訳でも読んでみた。そして、おそらく主はこんな言葉を使い、こんな話法で人々に話されたのだろうなぁと感じ入った。しかし、日本語や英語の訳でしか読めなくてもがっかりすることはない。ヘブライ語やアラマイ語で読んだとて、結局イエス様の話されたままを、言葉の抑揚まで復元することは不可能だからだ。やはり大切なのはそこにある内容とメッセージだ。信じる心があれば、それはどの翻訳を通しても心に伝わる。そして、もっと大事なのは実践だ。わかっただけでは何にもならない。

 もう一つの感想は、この章節を読むと、それだけでイエス・キリスト様がどういう方だったか、弟子たちや当時の民衆がどんな状況に生きていたかを、とてもよく感じとれるということだ。自分の命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い煩うなと励まし、まとめに「明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労はその日だけで足りる」と言われたお言葉の背後には、明日は何を食べて生きようかと心配しなければならなかった、一般民衆の貧しかった実情がうかがえる。
 当時は多くの人々が明日の保証もなく生きていた時代だった。だからこそ主はこういう話をして、神様の摂理に信頼しなさいと、人々を励まされたのだ。昭和の初めごろ、私の少年時代の農村にも、その日暮らしのそんな貧しさがあった。ある日、私が鉛筆を買いたいと頼んだ時、母は今家には25銭しかないんだよ答えた。辛そうだった母の表情を今も覚えている。年金もなく貯金もなく、自給自足で生活し、食事は毎日ご飯とみそ汁だけだった。イエス様の時代の庶民はきっともっと貧しかったのだと思う。
 しかし、そういう人々の実情を知っていたからこそ、主はそういうアプローチで話すことができた。ということは、主ご自身もマリア様も人々と同じように、そういうその日暮らしの生活を味わっていたことを意味する。自分は暖衣飽食をしながら、もっともらしい道徳を説く導師や学者や聖職者とは大違いだったのだ。そこも気付くべき点だ。主がそうであったからこそ、「その日の苦労はその日だけで足りる」と言われたお言葉は説得力がある。
 また、主が人々に話しかけられたお言葉に、自由に飛ぶ空の鳥、種まきや刈り入れ、明日は炉に投げ込まれるかも知れないのに、今は美しく咲く野の花、糸を紡ぐ仕事などがあるのを読むと、主がどれほどよく人々の生活や自然を観察なさっていたかがわかる。そして、そこからどんな少年時代を過ごされたかも推察できる。また、栄華を極めたソロモン王への言及は、主の歴史への眼差しをもうかがわせる。その発想は自然や人々への愛情に満ちていて、詩的な香りさえ漂う。だから読むと気持ちが和らぐのだ。
 それらすべてからは、天の父への深い信頼と思いが伝わってくる。神学的な理屈っぽい論証ではなく、主は天の父の慈しみと摂理を、空の鳥や野の花からわからせてくださった。空の鳥を生きさせ、野の花を着飾ってくださる天の父が、どうしてもっと価値のある人間を見捨てて置かれるだろうか、という身近な話からの論証には、何か嬉しい励ましのまじった説得力がある。そういうお話だったからこそ、人々はイエス様について行ったのだ。
 そして何よりも、そういう親しみのある話し方の中に、素晴らしいメッセージとしっかりした理路が通っていたことを見落としてはならないだろう。この章節のメッセージは、「日々の生活に思い悩むな。それは神様の摂理に委ねて、まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば生活のことも解決が与えられる」ということにあった。そこには神の言葉の力がある。
 
スポンサーサイト

敵まで愛する愛?

 年間第7主日の福音はマタイ5;38-48だった。イエス様は言われた。「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである」(マタイ5;43-45)と。
 62年前、初めてここを読んだ時、私は非常に感動した。しかし同時に、そんなことができるだろうかとも思ったことを覚えている。実際、F教会での過去数年の体験から、信者同士が赦し合うことすらいかに難しいかを思い知った。だから、ましてや敵を愛することなど…と腰が引けがちになる。他人事ならきれいごとは言える。だが、苦渋の当事者になれば、そうはいかない。とにかく、この「敵までも愛する愛」については、今まで正面から向き合って来なかった気がするので、今回はそれに焦点を絞ってみる。

 まず引き合いに出された、「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている」と言う一節だが、「隣人を愛し」の一句はこの主日の第一朗読レビ記19;18にある。ここでもイエス様は律法を廃止するために来たのではないことを再確認し、旧約の最も大切な律法の一つを是認さなさった。しかし、「敵を憎め」という一句は、そのままの文言では旧約聖書のどこにも見当たらない。律法にないことをあったかのように言われたのは、どう理解したらよいのだろうか?
 それにはこれがもともとアラマイ語で書かれたことと、マタイが書いたことを考慮する必要がある。専門家によれば、表現力が貧弱なアラマイ語は、「敵を愛してはならない」の意味を、「敵を憎め」としか表現できなかったと言う。だとすれば、レビ記19;17には「兄弟を憎んではならない」とあるから、その裏返しは「敵を愛してはならない」となり、それを積極的な言い方にすれば、「敵を憎め」となる。マタイはそういう言い換えで流布していた表現を採用したのだろう。必ずしもイエス様が本当にそう言われたわけではないのだ。
 いずれにせよ、イエス様が根本から改めたのはこの部分だった。その表現が「敵を憎め」であろうと、「敵を愛してはならない」であろうと、それは愛を自分の所属する民族だけに狭く限定し、他のすべての人々を排除していた。そこで主は、「しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」と言われたのだ。考察しなければならないのは、主がすでにあった律法に新しく加えられたこの生き方だ。

 「でも、敵を愛し、自分を迫害する者のために祈ることなど、果たしてできるのか?たとえできるとしても、なぜそうしなければならないのか?」おそらく主の話を聞いた当時の人々も、そういう疑問を感じたことだろう。主はそれを百も承知だったと思う。だから、「なぜそうしなければならないのか?」という疑問には、「あなたがたの天の父の子となるためである」と教えてくださり、「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ…」と、具体的な喩えでわからせてくださった。だからその疑問にはもう答えがある。
 「敵を愛しなさい」という教えについても、「自分を愛してくれる人をあいしたところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」と、その愛がどんなに優れているかを教え、それを行うモチベーションも与えてくださった。しかしし、では敵とは誰(何)か?という疑問には答えをくださらなかった。おそらく当時は自明のことで、言うまでもなかったからだと思う。だが、私にはこれが解明しなければならないネックだった。
 そこで「敵」について考えようとした矢先、2月17日の朝日新聞オピニオン欄で、国語学者金田一秀穂氏の「白黒つけない人情の言葉」という一文を読んだ。大相撲の八百長問題に関する意見だったが、その中に、「(日本の社会は)情が基本だから「敵」という概念も薄い。月光仮面の敵はドクロ仮面。敵はあくまでも異形、異世界のものなんです。キリスト教の『汝の敵を愛せ』の『敵』には、そうしたニュアンスがありません」と書いたくだりがあった。私はそこに興味深いヒントを見た。
 その論旨を要約すると、日本人の国民性は情にある。八百長は人情だから、あんまり白黒つけないのが日本人らしい。八百長ぐらいで目くじらを立てることはないと言うことだった。私はその論旨にもキリスト教云々についても賛同しないが、日本社会では「敵はあくまでも異形、異世界のもの」という指摘は参考になると思ったのだ。実は氏の認識とは裏腹に、キリスト教の「敵」にもニュアンスがあり、それを明らかにすると「敵」とは誰(何)かを仕分けできると気付いたからだ。

 然り、聖書を読むと、人間の「敵」は人間だけではないことがわかる。敵にもいろいろあって、一様ではない。そして、人間の真の敵はむしろ異世界からの者なのだ。日本的な異形、異世界のものはドクロ仮面や悪鬼、妖怪等だろうが、聖書では悪魔と呼ばれる存在がそれだ。ただ、ちょっと意外だが、悪魔は旧約聖書では実にわずかしか言及がないのだ。確かに蛇は創世記3章の人祖の堕罪で、主犯役だった。しかし、それも「蛇」とあるだけで、悪魔とは書かれていない。
 悪魔が明記され、その出没が頻繁に言及されるのは、イエス様の荒野の誘惑以後だ。遂に決戦の時が来て、真の敵が姿を現したという感じで、それは新約聖書の一特徴だとも言える。数例を挙げれば、毒麦の譬えでは「敵は悪魔」(マタイ13;39)と断定され、最後の審判の譬えでは「悪魔とその手下」(マタイ25;41)と断罪され、主から「わたしは、サタンが稲妻のように天から落ちるのを見ていた。」(ルカ10;18)「今この世の支配者が追放される」(ヨハネ12;31)と言われた。
 人類の真の敵は彼らだ。ではイエス様は、悪魔をも含めたすべての敵を愛しなさいとい言われたのだろうか?いや、そう教えられたことは決してなかった。むしろこの「敵」には容赦なく、厳しく対決された。従って、彼(または彼ら)は敵への愛の対象にはなっていない。そればかりか、妥協したり赦したりしてはいけない敵であることもはっきりしている。悪魔以外にも、人類の敵には病原菌や有害動植物等がある。しかし、それらも全て「愛しなさい」と主が言われた「敵」には該当しないのだ。
 そうしてみると、主が「愛しなさい」と言われた「敵」とは、人間同士に限られることがわかる。従って、考えるに値するのは、「敵」である人間に対する愛についてだけだ。それに限定してこそ、果たして敵を愛することができるかと問う意味が出てくる。ところが、ここで私には思いがけなくも、その問いを無意味にしかねない奇妙な疑問が湧いてしまった。「私だけに限ったことだが、私にはいったい敵と思える人がいるか?」という疑問だ。

 今まで私は敵への愛は価値あることで、その実践を心がけることは当然だと思って来た。しかし、では実践して来たかと自問したら、して来なかったという答えしかないことに気が付いた。では、なぜ実践しなかったのかとまた自問したら、敵がいないからだとわかったのだ。敵がいなければ、敵を愛する必要はなくなる。それは論理の必然だ。でもそれでは、「敵を愛しなさい」と言われたお言葉が、意味を失ってしまわないか?こんな考えが湧いたのは初めてだったので、私は動揺した。
 そこで私は、自分には本当に敵と思える人の心当たりがないかどうか、自分を省察してみた。すると、過去には「敵」と言っていい人がいたことを思い出した。かつて針尾海兵団にいた時、軍人精神注入棒で何回も、理不尽な罰直を加えた一等海曹のT教班長だ。海軍では耐えるしかなかったが、私の恨みは骨髄に徹していた。だから、戦後に復員して、背丈もぐんと伸び逞しくなった私は、よく独り呟いたものだった。もし駅とかで偶然彼を見かけたら、奴を半殺しにしてやる、と。 
 しかし、洗礼を受けてキリスト者となった私は、その憎しみは一切捨てた。だから、私を敵と思って憎んでいる人はいるかも知れないが、私の方から敵と思う人はいない。好きではない人や非友好的な人等はいる。しかし、彼らも敵だろうか?少し違う気がする。だとすれば、今の私には敵と言える人はいないということになる。ところで、もしこれが私だけでなく、多くの人たちもそうだとしたら、どうだろうか?「敵を愛しなさい」という教えは、ごく限られた人にしか当てはまらなくなってしまいそうだ。
 そうなると、人はこう考えてしまうのではなかろうか。「この教えは素晴らしいが、『もし敵がいたら』という仮定のバーチャルな問題だ。でも自分には敵はいない。だから、この教えを切実に受け止めることはない。現実には実践の必要もない」と。だから、説教者たちはしばしばそれを高いレベルの愛として語るが、一般の人はそれを現実離れした理想として本気には受け止めない。このミスマッチは、この教えそのものを自分とは縁のない、美談の世界の問題としてしまいかねない。
 
 でも、それはどこかおかしい。だとすれば、発想を変えて考え直す必要がある。まず隣人への愛が根本だということを抑えることだ。次に隣人を見てみる。すると、すぐわかることは、隣人と呼ばれる他者も一様ではないことだ。例えば、肉親、友人、普通の付き合いの人、仲が悪い人、敵対的な人などいろいろだ。従って、愛も一様ではない。相手によって対応する愛のあり方も違ってくる。敵への愛とはその中の一つであって、普通の隣人愛から切り離された愛ではなく、その延長線上にある。そう理解し直すべきなのだと思う。 
 もちろん敵がいなければ、敵への愛は実践の必要が生じない。日本人の多くは私と同様、誰ともあまり争わず、比較的平穏に暮らしているだろう。いわゆる「敵」はいない。少なくとも多くはない。従って、現実的には敵を愛し、自分を迫害する者のために祈らなければならない機会ない。少なくとも多くはない。だから、敵への愛を実践しないからと言って、自分は主の教えに不忠実だと思う必要はないのだ。

 では、イエス様はなぜ「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」と教えられたのだろうか?その時代のイスラエルの人々には、まさにそう教えなければならない理由があったからだと思う。その理由とは、当時のイスラエル人たちが激しく憎み、敵対せずにはいられない状況で生きていたという現実だ。私個人には敵と呼ぶ人はいないが、日本人全体にとっては、ミサイルで威嚇する敵対的な民族や国は多少存在する。しかし、イスラエル人たちはその比ではなかった。
 今でも彼らは、自分たちの生存権を認めてくれないアラブ諸国と敵対しているが、彼らにはそもそも昔から敵が多かった。圧制者だったエジプト人、カナンの地侵入後に死闘を繰りひろげた敵フィリスティン人、征服者のアッシリア人やバビロニア人など、絶えまなく敵が出現した。イエス様の時代には、それは占領者ローマ帝国だった。イスラエル人同士にも、派閥間の敵対、個人間の争い、横暴な主人への妻や奴隷の敵意、怨恨もあっただろう。しかし、その最たる敵はローマ人たちだった。
 マカベ一族がシリアのセレウコス朝の勢力に抵抗していたとき、ローマは彼らと同盟を結んだ友好国だった。それはマカバイ記一8章に書いてある。しかし、ローマもシリアでの王権争いに介入した時に、イスラエルに進駐した。そして、そのせいでユダヤは前63年に独立を失い、事実上ローマの支配下に入ってしまったのだ。私はそれほど圧制ではなかったと思うのだが、政治や裁判の制限、税金の徴収、理不尽な要求もあった。だから、彼らはローマ人を敵として憎み、追い出したいと考えていた。
 そうした状況を念頭に読むと、なぜイエス様が「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」と教えられたか納得がいく。イスラエル人たちには現実に不倶戴天の敵がいたからだ。しかし、敵を憎んで、受けた悪に悪をもって復讐すれば、報復の連鎖は止まらない。天の父はそんなことはなさらない。だから、それはやめるべきだ。逆に、天の父が悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも不正な者にも雨を恵むように、自分たちを憎む敵にも愛で応じるべきだ。主はそう言われたのだ。
 それは敵を愛することが一番大事だと言う意味ではない。一番大事なのは普通の隣人愛だ。敵を愛する前に、身近な人たちや普通の付き合いの隣人たちを愛することが先で、基本だ。しかし、人の世には敵も出現する。敵がいなければ、それに越したことはなく、その時は隣人を普通に愛するだけで済む。しかし、敵対する他者が現れた時はどうするか?主が「敵を愛しなさい」と教えられたのは、そういう場合のことなのだ。その場合は、敵までも愛する愛を持ちなさい、と。

 では、敵を愛するはどのようにすることなのだろうか?マタイ5;38-41もその具体例だと言えるが、それは別の機会に回し、ここでは同5;43以降に例示されたヒントだけを取り上げてみる。それは三つある。第一は「自分を迫害する者のために祈りなさい」と言われたヒント、第二は「自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか」と言われた反問、第三は「自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか」と言われたお言葉」だ。
 そのヒントを個々に考察する前に、それらを読んで気付いた一般的なことがある。「敵」と言っても程度の差があることだ。例えば、自分や家族の命を脅かす他人は最悪の敵だ。自分の社会的生命や財産を奪う他人も最悪の敵の部類に入るだろう。しかし、罵声を浴びせるだけの他人はそれよりも軽度だ。いじめや意地悪をする人も敵と言えば敵と言えようが、もっと軽度だろう。自分を無視し、挨拶もしない非友好的な他者をもあえて「敵」と呼ぶなら、それは「超軽度の敵」に過ぎまい。
 ヒントからすると、どうもイエス様はそういう人をも敵に数えて話されたようだ。だとすれば、先ほど「今の私には敵と言える人はいないから、私には敵への愛は現実には必要ない」という意味のことを書いたが、それはここで訂正する必要がある。私は最悪のレベルの敵を念頭にそう考えたが、非友好的な他人も「超軽度の敵」と言えるなら、私にも何人かそういう敵の心当たりがいるからだ。ということは、敵への愛は「もし敵がいるとすれば」という仮定の問題である以上に、誰もが多かれ少なかれ現実で直面する問題だと言うことが分かる。

 さて、では個々のヒントだが、その第一にある「自分を迫害する人」とは、最悪の部類に入る敵だと言えよう。ところが、主はその人のために祈れと教えられた。第二第三のヒント流に言えば、「自分の味方のためになら、この世の子らでも祈っているではないか。それだけでは天の父の子と呼ばれる者にふさわしくない。だから、自分を迫害する者のためにも祈れ」と言われたのだ。では、迫害者のために何を祈るのか?不幸や禍が降るようにではなく、彼にも善いものを与えてくださいと、天の父に祈ることだと思う。
 第二は自分を愛してくれない人をも愛することだ。愛してくれないとはやや抽象的なので、善くしてくれない人と言い換えてもよいのではなかろうか。具体的には無視したり、仲間外れにしたりする非友好的な人のことだ。それが単なる無関心ではなく、悪意からだったら、その人は「超軽度の敵」とは言える。しかし、そうだからと言って、その人と同じようにするなら、世の子らと同じだ。福音を信じる者は愛してくれない人にもよくしてやり、彼ら以上になりなさいと主は言われたのだ。
 ところで、マタイは「徴税人でも、同じことをしているではないか」と書いた。これには徴税人を卑しむようなニュアンスが感じられたので、本当にイエス様はそう言われたのだろうか?と、ちょっと気になった。しかし、考えてみると、ここは「教会の言うことを聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい」(マタイ18;17)とある箇所とは違って、見下した表現ではないことがわかる。むしろ徴税人を普通のユダヤ人と同等に見なし、まともなことをしていると言われたに等しいからだ。
 第三は自分が好きではない人や自分に好意的でない人への挨拶だ。好きな人や仲間内にだけに挨拶をすることは、異邦人でもしている。それと同じことをしているのでは、何も優れてはいないではないかと主は言われた。挨拶ぐらいと思う人もいるだろうが、挨拶とは相手から心をそむけず、好意的であることを示すしるしの言葉と動作だ。その点で、ヘブライ語訳を参考のために読んでみた時、ちょっと興味深い表現に気付いた。
 「兄弟にだけ挨拶したところで」とある個所が、ヘブライ語では「ベイム・ショアリーム・アテム・ビシャローム」と訳されていたのだ。シャロームという言葉は、ここでは「どうしていますかと近況を尋ねる」の意味だった。通りすがりに「今日は」と言う単なる挨拶もあるが、この訳は挨拶が他者への関心と好意のしるしだという、挨拶本来の意味を思い起こさせる。イエス様もそういうニュアンスを念頭にお話しになったのではないだろうか。
 この最後のヒントは私が一番思い当たる点であり、すぐにも実践できることでもある。折しもその機会があった。実はこのコラムを書いていた2月19日、長年パーキンソン病を患っていた兄が死亡した。おかげで書くのを中断し、今日まで延びてしまったのだが、兄の家は藤沢市と言っても田舎にあるから、親戚やご近所から多くの人が集まった。そんな中には話したくもない人がおり、したくもない仏教式作法もあった。でも、誰にも挨拶し、他宗教に敬意を表してしきたりに従った。
 好きではない人にも挨拶できたのは、彼らの方がことさら私をきらったりしていないからだったと思う。しかし、情けないことだが教会には、口では主における兄弟だなどと言いながら、あからさまに私に敵意をみせたり、逆に無視したりする信者がいる。陰で流されたネガティブな評判を、一方的に信じているからだろうが、やや辛いことだ。そこでこう思う。愛するのはまず普通の隣人から。でも、敵対的な人にもそれを拒まないようにしよう。そして、その実践はまず「軽度の敵」への挨拶から始めよう、と。

義がまさっているとは

 年間第6主日の福音はマタイ5:17-37だ。全部読むとかなり長いが、実際にミサで読まれるのは5;20-22a、27-28、33-34a、37節だけだ。今週は超多忙で、書く時間がない。しかし、このコラムを休みたくはないから、ミサで読まれる個所だけを考察して簡単に書く。

 マタイ5;20でイエス様は、「言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない」と言われた。ところで、その前の17節では、「わたしが来たのは…律法と預言者を廃止するためではなく、完成するためである」と、旧約に対するご自分の基本姿勢を明らかになさった。20節はそれに対して、私たちがどうあるべきかを求められたお言葉だ。ここには、主と私たちの基本姿勢がペアで示されていると見てよかろう。

 では、「あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ」とはどういうことだろうか?まず「あなたがたの義」だが、それは私たちからすれば「私たちの義」と言い換えられ、私たちとは弟子たちや集まった人々、ひいては現代の私たちを指すことは明らかだ。だからこれは問題ない。だが、「義」とは何だろうか?これは考察する必要がある。義の文字は正義、信義、義理、義人、義士など熟語ではたくさん使われている。しかし、その意味は聖書の解説書を何冊か読んだが、どれも詳細すぎて、かえってわからなくなる。
 そこで、もっと簡単明瞭な説明を求めて広辞苑を見たら、「①道理、条理。物事の理になかったこと。人間の行うべき道筋。②利害を捨てて条理に従い、人道・公共のためにつくすこと」と定義してあった。ラルースの百科全書には「①法と公正の尊重を要求する道徳的原理。②各人に属するものを各人のものとして尊重し、社会生活の全義務を果たす道徳的資質」とあった。納得はできたが、これだけでは法と道徳の次元にとどまるし、まだ長々しい。
 それで、聖書に従えばどう定義できるのだろうか?と自分で考えたら、一言でいえば、義とはまず正しさだと言ってよいと思った。そこで問題は何を基準に正しいとするかになる。法的・道徳的正しさは、法律や社会規範に照らして決まる。しかし聖書では、生き方や言動の正しさは神様の御心に照らして決まるものだ。神様の御心に合致していれば、生き方や言動は正しいとされる。そして、それを御心かなっていると言う。従って、聖書における義は「神様の御心にかなっていること」と定義できると思う。その根拠は三つある。
 第一の根拠は、「アブラハムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」(創15;6)という言葉だ。聖パウロは後にこれを引用して、「義人は信仰によって生きる」(ハバクク2;4、ガラテア3;11)と、人が義とされるのは信仰によることを強調した。少し強調し過ぎたとは思うが…いずれにせよ、「義と認められた」とは、アブラハムが主を信じたので「神に嘉された。御心に適った」と言い換えることができる。従って、義とは神様の御心に適うことだと言う証明になる。
 二つ目の根拠は、イエス様に向かって、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と響いた天からの声だ。洗礼の時と山上のご変容の時の2回だったが、これを天父の声だとすれば、それは主ほど天父の御心に沿う人はおらず、主ほどその存在と言動が正しい人はいないことを意味した。だからこそ主は最高の義人と言われ、その犠牲は人類を救えたのだが、この天からの確認によっても、義とは神の御心に適うことだということがわかる。 
 三つ目の根拠はイエス様が「神の国とその義とを求めなさい」(マタイ6;33)と言われたことだ。これを主の祈りの前半と対比すると、興味深いことがわかる。マタイとルカに共通なのは「御国が来ますように。御心が天に行われるとおり、地にも行われますように」という2句だが、「御国が来ますように」は「神の国を求めなさい」に対応し、「御心が天に行われるとおり、…」は「その義とを求めなさい」に対応するからだ。従って、「御心が行われる」ことと「御心に適うこと」は金貨の裏表に他ならず、それが聖書の義だということがわかる。

 「では、律法学者やファリサイ派の人々の義」とは何であったかと言えば、彼らは律法の条文を細かく解釈し、その文言のままに守ることが「義とされること」だと信じていた。従って、正しさの基準は「神の御心に適う」ことではなく、律法の条文だった。だから、律法の精神がないがしろにされ、表面的で律法主義的な順守や偽善的な守り方になった。イエス様が厳しく非難なさり、聖パウロが「文字は殺しますが、霊は生かします」(二コリ3;6)と指摘したのはそのことだった。
 そこで私たちも自己省察しなければならなくなる。もし私たちの生き方や行動が彼らと同じであるならば、私たちの義も彼らの義と同じになる。従って、「あなたがたは決して天の国に入ることができない」という宣告に該当してしまうからだ。このお言葉を聞くと、厳しすぎるのではと驚く人がいるかも知れない。真福八端や「あなたがたは地の塩、世の光である」と語ってくださった時は、慈しみと慰めに満ち、理想を示して励ましてくださったのに、なぜ律法の話になった途端、こんなに厳しい要求と恐ろしい予告に急変なさったのか、と。
 しかし、見落としてはいけない。真福八端や「地の塩、世の光」のことを語ってくださった時も、厳しい半面があったのだ。「心の貧しい人は幸いである」と語られた半面には、「心の貧しくない人は不幸だ。天の国には入れない」という宣告があった。「あなたがたは地の塩である」と話された時も、「塩気がなくなれば、…捨てられ…踏みつけられる」という断言があった。律法学者やファリサイ派の人々の義に優らない場合に限ってだけ、厳しい裁きを予告なさったわけではないのだ。
 注目すべきは、むしろ厳しさや恐ろしい予告のネガティブな面ではなく、そのプラス面だ。「あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ」という条件は、「あなたがたの義を律法学者やファリサイ派の人々の義にまさるようにしなさい」というメッセージを前提にしている。明記されていないから見落としやすいが、「地の塩、世の光になりさない」と言われたのと同じように、主はそういうメッセージで、私たちがより高い福音的な理想を目指すよう励まされたのだ。それが大事な点だと思う。
 もしそうでなければ「決して天の国に入ることができない」と、主は言われたが、それは福音に従う者がそれだけ高い生き方を求められているという招きで、素晴らしい価値がある証拠だ。それから逃避する者への厳しい予告は、「~なければ…」という場合に限る。しかも、それは主の望みではないのだ。それなのに、そういうマイナス面にばかり気を取られて恐れるのは、1タラントンを地中に隠しておいた僕(マタイ25;24-30)に通じる。恐れるよりも、欣喜雀躍して福音に生きよ!そういう発想をすべきだと思う。

 では、律法学者やファリサイ派の人々の義にまさる義は、どのようにして実現できるのだろうか?イエス様はそれを具体的な例で教えてくださった。それがマタイ5;21-22a、27-28、33-34a、37に書かれている事柄だ。二つの例はモーセの十戒中の第5戒と第6戒だった。この律法は出エジプト記20章1-21と申命記5章1-22に書いてある。三つ目の例は誓いのことで、民数記30章と申命記23;22-24に規定がある。
 イエス様は十戒を神与の大事な掟と見ておられた。それは金持ちの青年が「永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか」と質問した時、「掟を守りなさい。…『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、父母を敬え、また、隣人を自分のように愛しなさい』」とお答えになったことでもわかる。しかし、律法にも重要なものから軽いもの、永久的なものと暫定的なもの、神与のものと人定法的なものがあった。主が廃止ではなく、完成するために来たと言われたのは、神与の永久法だった。そして、十戒はそのような律法だった。
 その第5戒は「(あなたは)殺してはならない」だ。主は言われた。「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる」と。
 人を殺すとは、当時は人の肉体的命を奪うことだと考えられていた。しかし、主はいやそれだけではない、兄弟を馬鹿とか愚かとかいうのもこの律法を犯すことだと言われた。そういう罵詈悪口で人の評判を落とし、それによってその人の社会的生命を奪からだ。現代ではパワーハラスメントとか言葉や心理的虐待による暴力、仲間外しや無視によるいじめなどもこれに該当すると見てよかろう。主は第5戒を廃止どころか、その質を上げて、より完全なものになさったのだ。
 その第6戒は「(あなたは)姦淫してはならない」だ。旧約聖書は男社会の見方で書かれているが、ことこの第6戒に対する罪と罰に関しては、律法は男女に平等で、どちらかと言えば男の方にに厳しく、女性を守っている。これは興味深い。いずれにせよ、主は実際の姦通だけがこの律法に反するのではないことを指摘され、「みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、すでに心の中でその女を犯した」と言われたのだ。
 そして、そういうつまずきが右目のせいなら、それをえぐり出して捨てなさい」と言われた。恐ろしいほど厳しいが、これはそれほどの決意をせよと、弟子や民衆の記憶に鮮烈に印象づけられるよう語られた喩えだ。それを文字通りを真に受けて、目を抉り出すことを勧めているのではない。大事なのは主が罪を外面だけでなく、心の内面のこととして指摘された点だ。行いだけではなく、思いによる罪だ。ここにも律法の廃止どころか、その内面化による完成があった。
 三番目の例は誓いだ。イエス様の時代になると、「天にかけて誓う」とか「髪の毛にかけて誓う」のように、誓いの誤用うと軽々しい乱用がはびこっていたらしい。誓いは本来、神様に自分が直接にする約束だった。ところが、他の誰かまたは事物にかけて誓うとは、他の誰かまたは事物の保証人(事物)に頼って約束することで、自分の責任において約束することを逃避している証拠だ。例えば、髪の毛とか神殿を保証としても、そんなものが保証にならないことは明らかだ。なのに、そんな物にかけて誓うのは、誓いが誠実ではなく、本気度が欠如しているか、責任逃れを隠しているからだ。
 だから、主は「一切誓いを立ててはならない。…『然り、然り』『否、否』と言いなさい。それ以上のことは、悪い者から出る」と言われたのだ。不誠実さと狡さはやめ、誓いをするなら、率直に「はい、します」、「いいえ、しません」と言いなさいということだ。主は「一切誓いを立ててはならない」と言われたが、これは神様への誓いを全否定されたのではなく、「~にかけて誓う」類の「偽りや責任逃れの誓いを一切立てててはならない」と言われたのだと解釈すべきだろう。ここには誓いの純化による律法の完成があった。
 
 これらの例に共通するのは、律法の外面的かつ文字面をなぞった履行ではなく、心の内面における遵守と律法の純粋な精神の尊重にある。イエス様が律法を廃止するためではなく、むしろ完成するために来たと言われたのは、そのことだった。実際、十戒の遵守一つ取って見ても、主が要求なさった行いは、外面はもとより、内面を重視し、実践のレベルがより高度でより難しい。しかし、それを行なってこそ天父の御心に適う、つまり律法学者やファリサイ派の人々の義にまさる義と言えるのだと教えてくださったのだ。
 では、律法をそのように守れば、人は天の国に迎え入れてもらえるのだろうか?そうではないと思う。律法のそのような履行は、まだ福音的生き方の始まり、ほんの初歩に過ぎないと言わなければなるまい。だれもが容易に気付くと思うが、十戒の「殺すな」、「姦淫するな」、「盗むな」などは、すべて禁止命令だ。禁止されたことをしないことは善には違いないが、それだけでは積極的な価値はない。福音を積極的に生きるのでなければ、「あなたがたの義は律法学者やファリサイ派の人々の義に十分まさっている」とは認めていただけないだろう。
 では、主の教えをもっと学び、もっと精進努力して、もっと優れた生き方と言動をする人になれば、天の国に値する者になれるのだろうか?その点では論争がある。そうだ、神様の救いを信じ、そういう努力をして天に宝を積むなら、天の国に入れていただけるという説と、いや、人間はもともと罪で根本的に堕落しているから、自分の努力は何にもならない。ただ信仰によってのみ救われ、神様の恵みによってだけ御国に入れていただけるという説だ。
 しかし、ここではそんな論争は横に置こう。少なくとも私たちにわかっていることは、「~なければ、天の国に入ることができない」と言われたことは、裏返せば「~ならば、天の国に入ることができる」と言うことだから、「~ならば…」の方を選べばいいことだ。そして、ここで考察した律法の福音的実践はまだ初歩だが、愛は「律法と預言者」(マタイ7;12)に他ならないこと、つまり全聖書の教えであることもわかっている。旧約の律法は玉石混交、多様で雑然としていたが、イエス様はその真髄を「愛」だと教えてくださった。愛こそ律法の完成なのだ。

地の塩、世の光

年間第5主日:第一朗読イザヤ58;7-10、第二朗読コリントの教会への第一の手紙2;1-5、福音マタイ5;13-16

 「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味がつけられよう。もはや何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。
 あなたがたは世の光である。・・・また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。
 そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」

 主イエス様はこう話されたと、マタイの福音書は伝えている。初めてこれを読んだとき、私はとても感動したことを覚えている。肺結核で若死にした二番目の姉が、死ぬ少し前、もう読む力もなくして投げ出した聖書を縁側で読んだ時だ。そして、今もここを読むと心を打たれる。だから思うのだ。このお言葉を聞いて感動したならば、くどくどとした解説は要らない。余計なことはしなくていい。心に響いたことを生かすことが大切なのだ、と。
 感動というものは、エマオへの二人が「わたしたちの心は燃えていた」(ルカ24;32)と自覚したように、心を熱くし、行動へのエネルギーとなる。しかし、理屈っぽい解説は心から熱を奪い、知的満足に終わりがちだ。ちなみに、教会説教がつまらなくて実践に波及しないのは、そういう解説が多いからではなかろうか。聖パウロは「文字は殺しますが、霊は生かします」(二コリ3;6)と言った。そういう説教はそれに似ている。命のある御言葉を人知や学問で解剖して、命のない理解の断片にしてしまうに等しいからだ。

 この自学ではそれは避けたい。だから、御言葉を読んだ感動を心に保つことの大切さをよーく心に留めた上で、この主日の福音を少し考察してみることにする。あえて解釈を加えなければならない個所は多くないが、やはり少しはあると思われるからだ。
 山上の真福八端は、「天の国はその人たちのものである」のように、三人称で言われているが、「わたしのためにののしられ…」というくだりになると、「あなたがたは幸いである」と二人称に変わる。この主日の福音でも同じで、弟子たちや教えを聞こうと集まった人々に、イエス様は「あなたがたは」と二人称で語りかけられた。そして、現代の私たちにもそう呼びかけられている。それに気付くことは大事だ。さもないと、「あなたがたは地の塩」というメッセージも他人事になりかねないからだ。

 主は私たちを「地の塩」だと言われた。なぜ単に「塩」と言わず、「地の」を加えられたのだろうか?日本人の私には塩が海水から出来るというイメージがある。しかし、塩は岩や塩湖からも採取される。「塩の海」と呼ばれる死海があるイスラエルでは、おそらく昔は岩塩が主流だったのではあるまいか。岩塩は地から採られる。だから塩は「地の塩」なのかも知れないが、「地」とは世とか社会をも意味してもいるから、むしろそういう意味で言われたと理解する方が妥当だと思う。
 真福八端の3番目、「柔和な人々は、幸いである」のところでは、「その人たちは地を受け継ぐ」と言われた。この「地」とは、今生きている地上の世界のことだ。従って、「地の塩」とは、塩が食物の調味料として塩味をつけ、食物を腐敗から守るように、この地上の人間社会を善によってよい味のあるものにし、悪徳の腐敗から守る役目を意味する。「あなたがたは地の塩である」とは、私たちにそういう存在でありなさいと言われたのだ。大事なのはそうなろうとすることだ。
 「塩に塩気がなくなれば」と言われたが、塩から塩気がなくなることがあるのだろうか、というような問いは愚問だと思う。質の悪い塩は劣化することもあるそうだが、そんな問題ではないからだ。「塩に塩気がなくなれば」とは仮定の話で、仮にそうなったたらどうなるかという結果が問題なのだ。仮に塩気のない塩になったら、もう塩ではない。人もそういう塩のような者になったら、無価値で存在価値を失うということだ。

 主はわたしたちに、「あなたがたは世の光である」とも言われた。しかし、そのすぐ後に言われた「山の上にある町は、隠れることはできない」という一節は、光とは関連がない。その後に「また、ともし火をともして・・・」と、光のテーマが再び出てくるのを見ると、「山の上にある町は・・・」の一節は異質だと言うしかない。これは山の上の町と燭台の上のともし火が、高い位置にあって人目につく共通点があるから、マタイがその後の文脈と合うと見て、光のテーマとは関係なく挿入したのではないだろうか。
 塩のテーマと違い、山の上の町もともし火も人の目につくことがポイントになっている。イエス様は弟子たちがやがて世の人々から注目されることを予見しておられた。事実、使徒言行録を読むと、後にそうなった。山の上にある町は守るには堅固でよいが、目立つから敵から隠れることはできない。あなたがたも同じで、よきにつけ悪しきにつけ世から注目される。ならば、誰にどこから見られても恥じないような生き方をしなさいと、言われたのだ。
 次の「また、ともし火をともして、升の下に置く者はいない」という一句は、「あなたがたは世の光である」と言われた光のテーマの続きだ。光は世を照らす。光によって人は物を見、歩き、働き、生活が営める。光がなければ、人は目があっても見ることができず、足があっても安全に歩けず、手があっても十分に働いたり書いたりできない。だから、夜も安全かつ快適に生活できるよう、人は光を作り出してきた。今は電燈の明かりがあるが、昔はそれが灯心やランプだった。
 イエス様は私たちを当時の夜の光源であったともし火にたとえて、闇を照らす光のようになりなさいと呼びかけられた。当時のともし火とは油を満たした陶器に灯心を入れ、その先端に火をつけた明かりだった。光が弱かったから、部屋中を照らすためには少し高い燭台に置く。升で蓋をするような愚かな人はいなかった。きっとナザレトの家でも、隣近所でもそうだったのだろう。この短い比喩にも、主の幼少期からの生活経験をうかがい知ることができる。
 主は言われた。「そのように、あなた方の光を人々の前に輝かしなさい」と。これがこのテーマの中心的メッセージだ。その目的はというと、「人々があなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるため」に他ならない。この御言葉を読むと、私には聖書の個所が二つ脳裏に浮かぶ。使徒言行録の2章47節とペトロの第一の手紙2章9-12節だ。

 使徒言行録の2章は、聖霊降臨後洗礼を受けた多くの信者たちがすべての物を共有し、毎日「喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられていた」と伝えている。民衆全体とは一般人たちだ。自分たちとは違う者が出現すると、人はえてして排斥しようとするものだが、この時のユダヤ人たちは違った。最初のキリスト信者たちにむしろ好意を寄せていたのだ。その行いが排斥や非難どころか、称賛に価したからだった。
 聖ペトロの手紙にはこうかいてある。
 「あなたがたは選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです。・・・異教徒の間で立派に生活しなさい。そうすれば、彼らはあなたがたを悪人呼ばわりしてはいても、あなたがたの立派な行いをよく見て、訪れの日に神をあがめるようになります。」これはコメントが不必要なほど、主が私たちに望まれた「世の光」と立派な行いのエコーになっている。

 地の塩、世の光とは比喩的表現であって、それが意味するものは「あなたがたの立派な行い」に他ならない。では、立派な行いの内容はどんなものかというと、それは主の福音全般で教えられている福音的生き方だ。具体的には金持ちの青年(マタイ19;16seq.)や律法の学者(ルカ10;25seq.)へのお答えでもわかるが、山上の説教の冒頭に「幸いである」と言われた人々の生き方と行いもそれに当たる。そして、それは旧約時代から一貫していた。第二朗読のイザヤ58;7-10はそういう角度で読むとよく理解できる。できれば同章3節から読む方がよいと思う。
 それは神様にこう問う。「何故あなたはわたしたちの断食を顧みず、苦行をしても認めてくださらなかったのか?」と。すると、預言者を通して神様はこう答えられた。お前たちは断食の日にしたいことをし、労する人々を追い使い、争いを起こし、暴力を振るう。「そのようなものがわたしの選ぶ断食、苦行の日であろうか。・・・(それを)主に喜ばれる日と呼ぶのか。わたしの選ぶ断食とはこれではないか。」即ち、悪による束縛を断ち、虐げられた人を解放し、飢えた人にパンを与え、貧しい人を家に招き、裸の人に衣を着せ、同胞に助けを惜しまないことだ、と。
 「そうすれば」と預言者は続ける。「あなたの光は曙のように射し出で、あなたの傷は速やかに癒される。あなたの正義があなたを先導し、主の栄光があなたのしんがりを守る。あなたが呼べば主は答え、あなたが叫べば『わたしはここにいる』と言われる。・・・飢えている人に心を配り、苦しめられている人の願いを満たすなら、あなたの光は闇の中に輝き出で、あなたを包む闇は、真昼のようになる」と。これはマタイ5章の「世の光」とも同25章の「裁きの日」とも響き合うくだりだ。

 しかし、これらすべてを知識としてわかったとて、それが知的満足で終わるなら何になろうか。最初に心したように、最も大切なことは、「あなたがたは地の塩、世の光である」と言ってくださった主の御言葉に感動し、「主に応えて、自分も地の塩、世の光になれるようにつとめよう。たとえ及ばないとしても…」と、感動を行動に生かすことにある。そして、第一朗読の聖パウロの手紙は、それを悟らせる宣教が知恵に溢れた言葉によらず、“霊”と力の証明によることを教えてくれる。
プロフィール

余生風

Author:余生風
「聖書温故知新」
「思いつくまま、気の向くまま」
折にふれ「水彩画」も紹介してまいります。

「手を貸す運動」創始者
社会福祉法人「地の星」理事
元玉川大学教授

佐藤正明(余生風)ホームページ
「絵画と心」

最近の記事
最近のコメント
最近のトラックバック
月別アーカイブ
カテゴリー
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

ブログ内検索
RSSフィード
リンク
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。