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謙遜の高さ

 年間第4主日の第一朗読はゼファニヤ2;3,3;12-13、第二朗読はコリントの信徒への第一の手紙1;26-31、福音はマタイ5;1-12aだ。全部を読んでみて、私は珍しく聖パウロの言葉に大変感銘を受けた。今週の中心テーマはやはりイエス様の山上の説教の冒頭なのだろうが、それについてはすでに何回も取り上げてきた。それにいろいろな都合で今週は時間がなくなってしまった。だから、今回は第二朗読だけを取り上げて考察してみようと思う。
 聖パウロはそこにこう書いている。
 「兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるために、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。それはだれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです。…『誇る者は主を誇れ』と書いてあるとおりになるためです。」

 これを読んでまず感じたのは、「そうだったな、まったくその通りだ」という素直な同感だった。神の恵みの福音に招かれる人は、人間的には取り柄のない人が多い。少なくとも私はそうだった。中には立派な人もいるだろうが、たとえそういう人であっても、罪から解放してもらう必要があるからこそ、福音を信じて洗礼を受けるのだから、自分を誇るに足る者だなどとは思っていないはずだ。イエスな様の最初の弟子たちもそうだった。彼らは元はガリラヤの漁師や徴税人などだったから、学者でも知者でもなく、よい家柄の出身でもなかった。
 しかし、そういう彼等とともにおられたイエス様は、ある日こう感謝なさった。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました」と。これは主の福音を受け入れるのが、そういう幼子のような、無力で低く貧しい人たちであることを御存じだったからだけではなく、そういう者たちに天地創造の初めから用意しておいた恵みを、優先的に喜んで与えるのが、天父と御子のご意志でもあったからだ。
 そもそもそういう人たちの最も顕著な模範はイエス様ご自身だった。だから聖パウロは言った。「キリストは、神の身分でありながら、…かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じものになられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にさる名をお与えになりました」(フィリッピ2;6-9)と。極限までの謙虚は「イエス・キリストは主である」という最高の名に逆転したのだ。ここには逆説的な救いの神秘がある。
 神様のそのなさり方を、新約で最初に最もよく理解したのはマリア様だった。だから、マグニフィカトで、「主はその腕の力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ」と表現なさったのだ。そして、ご自分のことは「身分の低い、この主のはしため」と言われた。それは卑下ではなく、ありのままの低い自分を見る澄み切った自己認識だった。それが聖書の伝統に基づく謙遜だ。しかし、だからこそ神様は聖母を高く引き揚げ、聖母は誰よりも多くの崇敬を受けるようになられたのだ。
 たとえ多少の知識や能力や家柄があろうと、人は神様の前では何ほどの者でもない。「塵に過ぎないお前は塵に返る」(創世記3;19)と言われる存在に過ぎないのだ。聖パウロは同じ手紙に、「いったいあなたの持っているもので、いただかなかったものがあるでしょうか」(一コリ4;7)とも書いている。もしもすべてがいただいたものなら、人には高ぶる理由も資格もない。だから彼は「『誇る者は主を誇れ』と書いてあるとおり」だと言ったのだ。
 それなのに、私たちは初心を忘れて、何とやすやすと世の風潮に染まり、学問、才能、家柄、財力などを誇ったり羨んだり、そういう基準で人を見てしまったりし勝ちなことだろうか。聖パウロはそれを戒めたのだ。彼は聖母マリア様とまったく同じ謙虚な神の系譜にあった。そして、その後の教会の歴史を見ると、聖人たちや本物の信仰者たちは、例外なく皆その系譜の人々だったことがわかる。学も知恵も能力も少ない、取るに足りない自分という認識をもっていた。つまり謙遜だったのだ。
 もっとも教会には、聖アウグスチヌスや聖トマスのような偉大な学者や知者はいた。しかし、彼等とて学問や人知のおかげで福音を信じたのではなかった。学問や知恵は素晴らしい。信仰はそれらを排斥しない。むしろそれらは信仰を理解する助けになる。とは言え、神の恵みは学問や人知のおかげではなく、神様のイニシアティブで与えられる賜物なのだ。聖トマスは晩年「信仰は十字架に跪いて祈ってこそ得られる」と述懐したそうだが、実に示唆に富む言葉だと思う。 
 私には謙虚さのことで思い出すことがある。昔、信仰の手ほどきをしてくれたシスターがいた。受洗して1,2年後だったろうか、ある日、彼女が私に一枚の御絵をくれた。何のため?と思って裏返したら、達筆にこうペン書きしてあった。「謙遜の高さ!」 青年時代の私は自尊心が高かった。本当はただの若者に過ぎなかったのに、俺はあいつらとは違うという意識があったから、きっと見るに見かねるような言動をしたのだろう。口で注意する代わりに、彼女はさりげなく御絵の裏に一言書いて、私を諭したのだった。今にして思えば、それは聖パウロの言葉をたった4文字で要約した見事な逆説だった。

 ところで、聖パウロはそうした神様のやり方は「知恵ある者に恥をかかせるため」だと書いた。でも、「恥をかかせる」とは何かえげつない言い方だな、本当にそう書いたのだろうか?と少し疑問に思ったので、仏訳を参照してみた。それにはconfondre とあった。「唖然とさせる、困惑させる、やり込める」の意味で、「恥をかかせる」よりは少し紳士的な表現ではある。しかし、英訳はshameだった。これは「恥をかかせる」そのものだ。
 では原典はどうかと調べて見たら、ギリシャ語ではカタイスキュネイと表現されている。カタイスキュノーという動詞の能動態接続法3人称単数現在だ。意味は「恥をかかせるため」に間違いなかった。しかし、「恥をかかせる」という訳語は攻撃的で、品がない。私なら「恥じ入らせる」か「やりこめる」という日本語に訳すだろう。残念ながら、共同訳聖書の訳語には時々こういう「うーん」と思わされるものがある。それはともかく、神様が権力者や知恵のある者を恥じ入らせた例は、聖書には旧約にも新約に見受けられる。
 旧約ではその一つに預言者ギデオンの故事がある。士師記7章だが、カナンの地に定住し始めたイスラエル民族はある時、ミディアン人たちの連合軍と戦った。敵は「いなごのように数多く、平野に横たわっていた」(士7;12)。しかし、神は彼に兵3万2千人の中から300人だけを選ばせ、残りは皆帰宅させた。そして、300人だけの兵士で敵を撃破させたのだ。兵力をそんな減らさせたわけは、ギデオンに告げた神の次の言葉でわかる。「あなたの率いる民は多すぎるので、ミディアン人をその手に渡すわけにはいかない。渡せば、イスラエルはわたしに向かって心がおごり、自分の手で救いを勝ち取ったと思うであろう。」
 「心がおごり」は「思い上がり、傲慢」で、謙遜の対極になる。神の力ではなく、自分たちの力で救いを勝ち取ったと思わせないために、神様は人の力では絶対になし得ないことをさせた。それによって、勝利が純粋に神様のおかげだとはっきりわからせるためだった。旧約における出エジプトやバビロン虜囚からの解放、国壊滅の危機からの救いなどの事跡は、すべてが新約の前兆だったが、それは神の民が救われるのが彼らの知恵や力によるのではなく、神の力と恩寵によることをわからせるためだったのだ。
 新約聖書ではヨハネ9章に一例がある。ある盲人がイエス様によって盲目から癒された。それが安息日だったから、ファリサイ派の人々や長老たちは盲目から癒された男をしつこく尋問した。そこで彼が、「もうお話ししたのに、聞いてくださいませんでした。なぜまた、聞こうとなさるのですか。あなたがたもあの方の弟子になりたいのですか」と言った。すると、彼らは罵って言った。「お前はあの者の弟子だが、我々はモーセの弟子だ。我々は、神がモーセに語られたことは知っているが、あの者がどこから来たのかは知らない。」すると元盲人はこう答えた。それは実に痛快な答えだった。
 「あの方がどこから来られたか、あなたがたがご存じないとは、実に不思議です。あの方は、私の目を開けてくださったのに。神は罪人の言うことはお聞きにならないと、わたしたちは承知しています。しかし、神をあがめ、その御心を行う人の言うことは、お聞きになります。生まれつき見えなかった者の目を開けた人がいるということなど、これまで一度も聞いたことがありません。あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです。」これを聞いた彼らは「お前は全く罪の中に生まれたのに、我々に教えようというのか」と憤慨して、彼を追い出した。しかし、それは彼らが完敗したことを物語っている。神様は一人の元盲人によって、学者だの知者だのとうぬぼれていた面々を恥じ入らせたのだった。
 もう一例は使徒言行録4:1-22にある。聖霊降臨後、使徒ペトロとヨハネはエルサレムで主の復活を公言し、その福音を勇敢に宣べ伝えた。祭司、長老、律法学者たちはそれをやめさるため、ある日彼らを捕え、議会で尋問した。ところが、逆に使徒ペトロは聖霊に満たされて、堂々と彼らの前で主イエス・キリスト様の復活とその恵みを証言したのだった。彼らは二人を脅し、もう二度と「イエスの名によって話したり、教えたりしないように」と命令した。
 しかし、ペトロとヨハネは答えた。「神に従わないであなたがたに従うことが、神の前に正しいかどうか、考えてください。わたしたちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです」と。そこで、議員や他の者たちは、二人をさらに脅してから釈放したのだった。同じことは使徒言行録5章でも繰り返されるが、二人は「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません」と、彼らの脅しを突っぱねた。学問や知恵のあった人々は無学な漁師出身の使徒たちに、完璧に打ち負かされたのだ。
 それこそ聖パウロが、「神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです」と書いたことの実際だった。後の人は先になり、先の人は後になる。徴税人や娼婦たちは正しく見える人々よりも先に神の国に入る(マタイ21;31)。主の福音にはこうした逆転と逆説がある。学問、能力、権力、財力によって高ぶる者は低くされ、謙虚な者が高められるのもその一例だ。そして、その逆転は神様の介入があるからこそ起こることなのだ。 
 それは山上の説教の冒頭にある真福八端の四端にも当てはまる。特に「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちの者である」という最初の一節は、逆転と逆説そのものだ。しかし、その考察はまたの機会とし、今回はここで打ち止めにしようと思う。私にとって聖パウロの手紙を学んだ結論は、思い上がらないことの再確認だろうか。いただいた御絵はもうなくしてしまったが、「謙遜の高さ!」は忘れないようにしたい。







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福音宣教デビュー

 年間第3主日の第一朗読はイザヤ8;23b-9;3、第二朗読はコリントの教会への第一の手紙1;10-17、福音はマタイ4;12-23だ。福音はイエス様の福音宣教デビューの第一声を伝え、続いて四人の漁師を弟子にした出来事を語る。しかし、先週はコラム全体の整理をしたり、病人を見舞ったり、天満敦子のバイオリンコンサートに行ったりで、時間不足となり、いつものようには主日前にコラムを書くことができなかった。というわけで、今回は福音の前半部分だけを取り上げてみる。

 マタイはイエス様がガリラヤに退かれたのは「ヨハネが捕えられたと」聞いたからだと書いている。その点はマルコとルカも同じだ。しかし、果たしてこれは正確なのだろうか?これが今日、この個所を読んで最初に抱いた疑問だ。ヨハネの福音書によれば、洗礼者ヨハネが捕えられたのはもっと後になるからだ。彼の投獄前、主はカナの婚宴に出席、神殿で商人追放、エルサレムで過越祭参加、ニコデモと対話などをなさっている。いったい、どちらが正しいのだろうか?
 ヨハネ3;22-24を読むと、それらの活動の後、イエス様は再びユダヤ地方に戻り、そこで洗礼を授けておられたことがわかる。ところがそこには、「ヨハネはまだ投獄されていなかったのである」と書かれた一節がある。彼はまだ自由だったのだ。そして、同4;1-3を見ると、洗礼者ヨハネの集団とイエス様の弟子集団が、同じ地域で別々に洗礼活動を行っていたこと、そして、ファリサイ派の人々の目には、イエス様たちが洗礼者ヨハネのライバル集団のように映っていたことがわかる。
 イエス様は、2集団が接近した場所で洗礼をするのはまずい、自分たちの方が後発集団だから身を引こう、と考えられたのか、「ユダヤを去り、再びガリラヤへ行かれた。」ヨハネ福音書はそう読める。だとすれば、イエス様がヨハネの投獄を知ったのは福音宣教デビューの前ではなく、もっと後だったはずだ。つまり、洗礼者ヨハネがヘロデ王によって投獄されたことでは4福音書とも一致しているが、その時期では相違があるということになる。
 では、投獄の時期についてはどちらが正しいのだろうか?どうもヨハネの方に分があると思える。私がそう推理するのは、彼が洗礼者ヨハネの弟子だったし、直接の目撃者だったからだ。では、共観福音書は間違ったのかというと、間違いとは違うと解釈すべきだろう。マルコは主の洗礼、誘惑、宣教の開始を極めて簡潔に要約して書いた。洗礼者ヨハネの投獄時期等はアバウトで、気にしなかったのだと思われる。それなのに、マタイとルカはそれをそのまま踏襲してしまったのではないかと思う。

 次は単純な自問で、地名についてだ。マタイはここでもイザヤ預言書8;23-9;1を引用しているが、そこには幾つかの地名が出てくる。
 「先に、ゼブルンの地、ナフタリの地は辱めをうけたが
  後には、海沿いの道、ヨルダン川のかなた
  異邦人のガリラヤは、栄光を受ける。
  闇の中を歩む民は、大いなる光を見
  死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。」
 ちなみに、マタイはイエス様の福音宣教デビューをこの預言の成就だとしている。しかし、聖書学的にはその成就のためではなく、かつてイスラエル王国18代目の王ペカの時代に、イスラエル北部がアッシリア軍に占領されてしまった(列王記下15;29)出来事に関する預言で、その屈辱から解放されるという予告だったのだ。ただし、それは主の福音開始を描写するには、実にうってつけのくだりだった。だからマタイは引用した。そして、それは正当だったし、この主日の第一朗読に教会がそこを読ませるのもタイミングがいいと思う。
 ところでその預言には、異邦人のガリラヤ、ゼブルン、ナフタリなどという地名が出てくる。ガリラヤはイスラエルの領土だったのに、なぜ「異邦人のガリラヤ」と言われたのだろうか?これは調べればすぐわかるが、ガリラヤがそう呼ばれたのは、かなり長期間、異邦人であるアッシリア軍に占領されてしまっていたし、その後も北はシリア、西はフェニキア、南はサマリアと言うふうに、異邦人の地に囲まれていたからでもあった。
 では、そこがなぜゼブルンの地、ナフタリの地と呼ばれるのだろうか?それはイスラエルの12族に属するゼブルン族とナフタリ族の子孫の土地だったからだ。ナフタリはヤコブの息子12人の中で6男、ゼブルンは10男(創世記30;7、19)に当たり、両部族はその子孫だった。エジプトから脱出したイスラエル民族はカナンの地に侵入後、部族ごとに自力で新天地を切り開いた(ヨシュア記17;15)が、ナフタリ族はガリラヤの北西地域、ゼブルン族は南西地域に進行して住みついたのだった。

 3つ目の問いはイエス様の福音宣教第一声についてだ。それは「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言われたお言葉だが、実はマタイ3章2節に遡ると、洗礼者ヨハネもそれとまったく同じ言葉で民衆に呼びかけていることがわかる。そこで疑問が起こるのだ。それは主が洗礼者ヨハネの表現をそのまま踏襲したことなのか?それとも、それは本来イエス様のお言葉なのだが、マタイがうっかり洗礼者ヨハネもそう言ったかのように、書いてしまったということなのか?という疑問だ。
 私見だが、洗礼者ヨハネは「天の国は近づいた」とは言わなかったのではないかと思う。悔い改めさせるのが彼の使命だったから、彼が「悔い改めよ」と言ったことは間違いない。しかし、「天の国は近づいた」とは言わなかっただろうと私が思う第一の理由は、彼には「天の国」という考えはなかっただろうと推察するからだ。二つ目の理由は「天の国」という表現が、マタイ5;3等にも見られるように、マタイ独特のものだからだ。これに照らせば、洗礼者ヨハネは少なくとも「天の国」という言い回しは使わなかったと思われるのだ。
 ここで上掲の一つ目の理由に戻って、彼には「天の国」という考えがなかっただろうという推定を証明してみようと思う。もし彼に「天の国」のコンセプトがなかったとしたら、それが「近づいた」とも言うはずがなかったことは明らかになる。では、本当に彼にはそれがなかったのだろうか?私はなかったと思う。ルカの福音書3;18には、彼が「民衆に福音を告げ知らせた」という一句がある。これは一見彼が「神の国(マタイ的には天の国)は近づいた」と言ったも同然に思える。ところが、実際は逆で、それを否定していることに他ならないからだ。
 それを説明しよう。当時、民衆はイスラエルの国を復興させてくれる「油を注がれた王」メシアを待ち望んでいた。そこへ洗礼者ヨハネはメシアが来られたことを告げ知らせた。それが彼の告げ知らせた福音だった。そのメシアは聖霊と火で洗礼を授け、「手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにする」(ルカ3;16-17)方だったから、民衆の思い描いていたメシア像とはかなり違った。しかし、待ち望んでいたのがメシアだった点では共通だった。
 ところが、神から遣わされるメシアは、イスラエルという地上の国を復興させる方と考えられていた。それは神が統治する王国であっても、地上の国であることには変わりなく、天の国とは対極にあった。ここが重要だ。つまり、天の国の到来はある意味で地上の王国の否定、または超克に他ならなかったのだ。天の国(神の国)は後にイエス様がピラトの前で、「わたしの国はこの世には属していない」(ヨハネ18;36)と言われたような国のことだった。
 洗礼者ヨハネはそういう国を漠然と感じていたかも知れない。それは否定しない。しかし、主の洗礼以前に、彼がはっきりそれを意識していたとは考えられない。なぜか?彼はイエス様を「わたしよりも優れておられる」と人々に告げた。しかし、聖霊が主に降りるのを見、「これはわたしの愛する子」(マタイ3;17)と言った天からの声を聞くまでは、「この方こそ神の子である」(ヨハネ1;34)とは知らなかった。だとすれば、それ以前はイエス様が神の子であることをまだ知らなかったのだから、「天の国」のことも思い描けるはずがなかった、と思われるからだ。
 従って、「天の国は近づいた」とはイエス様のお言葉で、洗礼者ヨハネはそうは言わなかった。なのに、マタイはたぶんあまり厳密には考えず、主のお言葉を前倒しして、洗礼者ヨハネもそう言ったかのように書いてしまったのだろうという結論になる。メシアの出現と神の国の到来とは非常に密接な関係にあるが、イコールではない。神の国をよく知らなくても、約束のメシアが来られたことを告げ知らせることはできた。洗礼者ヨハネがしたのはそれだった。私はそう解釈する。

 さて、ここまでは「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言ったのは誰かという問題だったが、ここからは「天の国は近づいた」と言われたお言葉そのものを考察しようと思う。この主日の福音朗読は、「イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また民衆のあらゆる病気や患いをいやされた」という一節で終わる。ところで、その中に「御国の福音を宣べ伝え」という一句があるが、そこに「天の国」の内容を知る糸口がある。
 福音と言う言葉は、原典のギリシャ語ではエウアンゲリオンと言われる。「エウ」は「よい」ことを表わす接頭語、「アンゲリオン」は「知らせ、便り、音信」の意味だ。その2語を結びつけると、「よい知らせ、素晴らしい便り」という意味になる。マルコの福音書は、「神の子イエス・キリストの福音の初め」という一節で始まる。とてもインパクトのある冒頭だ。彼は主がなさったこと、教えられたこと、もたらされたこと全体を「良い知らせ」即ち福音だと書いた。
 しかし、すでに引用したルカ3;18にも、「(洗礼者ヨハネは)民衆に福音を告げ知らせた」とあった。では、彼も福音を伝えていたのなら、それは主の福音と同じだったのだろうか?という疑問が湧く。答えは、いや、言葉は同じでも内容は違っていたと言わなければならないだろう。洗礼者ヨハネが告げ知らせたのは、天の国の到来ではなく、聖霊と火で洗礼を授け、世を一新させるメシアの出現だった。それは民衆の待望でもあった。だから、確かに良い知らせ、即ち福音であった。
 ところが、イエス様が宣べ伝えた福音とは、まさにそのメシアが聖霊と火で洗礼を授け、世を一新して実現する「天の国」の到来だった。洗礼者ヨハネの福音はそれを実現するメシアの出現の知らせだったが、主の福音はそのメシアによる神の御業の驚くべき実現そのものだった。そこには比較にならない差異がある。「天の国は近づいた」という言明は、まさに主の福音を濃縮して、最も短く端的に言い表した一句に他ならない。
 ルカはそれを「天の国」ではなく、「神の国」(ルカ4;43、6;20 etc.)と表現したが、実体は同じだ。ただ、天の国であれ神の国であれ、その一言だけでは、言葉があっても内容はよくわからない。内容がよくわからなければ、信じようがない。では、それはおいおい明らかにされていったのだろうかというと、その通りだった。主はそれを預言の言葉や譬えをもって語ったり、ご自身の言葉で直接に話したりなさった。第一声では、天の国は「宣べ伝え始められた」ばかりだったのだ。
 では、その内容はどう明らかにされて行ったかというと、預言をもって語られた具体例には、ナザレトの会堂で次のように読まれたイザヤの書61;1-2がある。「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである」と。主は「この聖書の言葉は、今日、実現した」と、ご自分によってこの預言が実現したことを断言された。これは近づいた神の国がどういうものかの一証明だった。
 その預言と同じ内容を、主は洗礼者ヨハネが獄中から送った弟子たちにも言われた。「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、らい病を患っている人は清くなり、耳の見えない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである」(マタイ11;4-6)と。これも近づいた神の国がどういうものかを明確化した一証明だった。 
 「天の国」は多くの譬えによっても、いろいろな角度から明らかにされた。畑に隠された宝や商人が捜している高価な真珠、浜辺で仕分けされる魚(マタイ13;44-50)、ブドウ園の労働者の報酬(同20;1-16)、王の婚宴(同22;1-14)、花婿を待つ十人の乙女やタラントンを任された僕(マタイ25;31-50)等にも喩えられている。しかし、それは次第に語られ、展開していったのであって、全ては福音宣教デビューの「天の国は近づいた」に内包されていたのだった。

 福音宣教はその伝え方だった。「そのときから、イエスは、『悔い改めよ。天の国は近づいた』と言って、宣べ伝え始められた」と書いてあるが、宣べ伝えられたのはもちろん天の国の到来という福音だった。福音は宣べ伝える人がいるからこそ知らせとなりうる。「良い知らせを伝える者の足は、何と美しいことか」(ローマ10;15、イザヤ52;7)と言われる所以だ。しかし、説教者たちを含めてだが、私たち現代のキリスト者は、それをよく自覚してちゃんと受け止めているだろうか?
 以前F教会には、非福音的な言動で他者に苦しみを強いているのに、口癖のように「福音宣教、福音宣教」と言う教会委員長がいた。彼の場合は言行の一致不一致の問題以前に、福音宣教そのものが分かっていなかったのだと思う。こんな自家撞着した人物は論外だが、「人のふり見てわがふり直せ」だから、私も福音宣教の意味をわかっているのかどうか、ここは自問自省してみなければならないと思う。
 ギリシャ語原典には、「宣べ伝える」はケーリュッセイン(kehrussein)と書いてある。動詞ケーリュッソーの不定形だが、それは「布告する、大声で告げ知らせる、宣教する」という意味だ。そして、その名詞はケーリュグマ(kehrygma)と言われる。もともとそれは王の命令を伝令が伝達することを意味した。だから、確定的で疑う余地はなく、権威をもったものだった。共観福音書におけるイエス様の説教はまさにそういうものだった。   
 その一例が山上の説教だ。主は長たらしい論述や退屈な解説などはなさらなかった。「~かも知れない」とか「~ではなかろうか」などと、不確かさや逡巡の混じった話はならさらず、常に確信を持って、きっぱりと端的に言明された。「群衆はその教えに非常に驚いた。彼らの律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである」(マタイ7;28-29)とあるのは、それを物語っている。
 バチカン公会議開催前後に、ケリグマティックな福音宣教が司牧神学で盛んに論じられたことがあった。それはそれ以前の宣教の仕方と内容の反省の上に立っての運動だったが、現在はもうほとんど聞かれなくなった。しかし、同じ問題は依然として残っているのではなかろうか。イエス様の説教に照らせば、現在の教会で聞く説教の多くは落第だと思う。神学や雑学が幅を利かせ、時には退屈で、福音とは似ても似つかない。まるで「律法学者のような」説教では心を打つわけがない。
 かといって、ではそういう自分はどうかというと、人のことは言えない。このコラムなどは福音から程遠いものの最たるものかも知れない。「~かも知れない」や「~ではなかろうか」と、不確かさや疑問ばかりだからだ。ただ、少々弁解させてもらうとすれば、私は福音宣教のためにこれを書いてはいない。自分のボケ防止と知的探求のために書いている。もしこれが他の人たちのためだったら、サンデー3分間の時のように、イエス様の教えを前面に出して、もっと手短にきっぱりと書くだろう。
 しかし、書くことや言うことはそれほど難しくはない。本当に難しいのは実際に人々に福音を宣べ伝えることだ。かつて若かったとき、私にはいつもEvangelizare pauperibus (貧しい者たちに福音を宣べ伝えよ)の理想があった。たとえ実行できなくても、心にはいつもその思いがあった。ところが、今一番愕然とするのは、福音をまだ知らない人々にそれを伝え、分かち合いたいという意欲が、自分の中からほとんど消えていることにふと気付く時だ。
 私はよくJR町田駅裏のヨドバシカメラに行くが、時々駅構内を通って小田急デパート方面に渡る。その時、私はそこを行き交う人々の多さに圧倒される。そして、その都度心中にうずきも感じる。そういう雑踏を見ても、自分とは無関係の人々としか感じない自分がいることに気付くからだ。かつては主の思いを思いとして、全ての人に神の恵みを得させたいと切望したのに、今は違うと自覚するとき、自分はやっぱり変わってしまったのかと思い、主よ、ごめんなさいと謝る。
 こんな感覚は、かつて福音宣教者を志したことのある者のトラウマかも知れない。しかし、同時に私は福音宣教が言葉によるだけではなく、行いによってもできるものだということは知っている。口で宣教にたずさわらない立場の人は、縁の下の力無しでもいいから、何か福音宣教に役立つ行いをすれば、それでいいのだと思う。例えば、シエラレオネの支援はそんなつもりで行ったことの一つだった。
 さて、長すぎたので終わりとするが、それにしても、「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」(マタイ24;35)と言われた主のお言葉どおり、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言われた一句は、まさにそれだとつくづく思う。古今東西、いったいどれほど多くの本や雑誌が書かれ、どれほど多くの演説や説教が行われたことだろうか。しかし、そのほとんどは消えたか忘れ去られている。私のコラムも同じだ。新聞記事や携帯の通話などはもっとはかない。しかし、「悔い改めよ。天の国は近づいた」の声は2000年も響き続けてきた。すごいことだ。それはこれからも、世の終わりまで滅びないだろう。

見よ、神の小羊

 年間第2主日の福音はヨハネ1;29-34で、先週に引き続きイエス様の洗礼場面だ。洗礼者ヨハネはイエス様が近づいて来られるのを見て、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。『わたしの後から一人の人が来られる。その方はわたしにまさる。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのはこの方のことである」と言った。これを読んでふと、「ミサの平和の讃歌でも『神の小羊、世の罪を除き給う主よ』と歌うが、その意味はわかり切っていると思い、私たちは慣れっこになっていないか?」と思った。そこで、今回はそれを問い直してみる。 

 が、その前に、上掲の洗礼者ヨハネの言葉に気になる点が二つあるから、それをまず解消しておきたい。気になる点とは、この言葉そのものが本当に彼の語ったものかという疑問と、「わたしよりも先におられた」とはどういう意味で、本当に洗礼者ヨハネがそう言ったのかという疑問だ。
 一点目の疑問はその言葉が他の福音書にはないから起こる。しかし逆から見れば、他の福音書になかったからこそ、ヨハネの福音書はそれを書き残したのだとも言える。誰がこの福音書を記述したかはさておき、それが間違いなく使徒ヨハネの息がかかった福音書であるとすれば、彼はこの事実をどうしても伝えておきたかったからこそ、それを書き残したのだと推察できる。使徒になる前の彼は洗礼者ヨハネの弟子で、イエス様の洗礼の場にいた生き証人の一人だったからだ。
 「わたしの後から一人の人が来られる。その方はわたしにまさる」という一節は他の福音書にもあるから信じるに足る。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」の一句も、彼の言葉に間違いないだろう。彼がそう言ったのは主の洗礼の翌日だったが、彼は翌々日も二人の弟子といたとき、「見よ、神の小羊だ」と念を押した。人は取るに足りないことなら念を押さない。だが彼は念を押した。それが最重要なメッセージだったからだろう。ならば、それが彼の言葉でなかったとは考えにくい。
 二点目は、「わたしよりも先におられた」とはどういう意味かという疑問と同時に、本当に洗礼者ヨハネがそう言ったのかという付録的疑問だ。この後者の疑問について言えば、私はヨハネ福音史家が自分のメシア観を、洗礼者ヨハネの口を通して言ったのではないかと疑っている。
 洗礼者ヨハネはイエス様の親戚だった。それなのに2回も「わたしはこの方を知らなかった」(ヨハネ1;31,33)と言っている。奇妙だ。会ったこともなかったという意味か、あるいは主の神的真実を知らずにいたという意味にもとれるが、親戚だったのだから、自分の方がやや年上だということぐらいは知っていたはずだ。そうだとすれば、「わたしよりも先におられた」という意味は、誕生の後先でも宣教開始の後先でもなく、何か次元の違う事柄の後先だと考えなければなるまい。
 では、そういう後先について福音書には何か述べている個所があるかというと、ヨハネの福音書だけにその言及がある。ヨハネ8;58と、もう一つはプロローグの1;1-14だ。そこにはこの福音書の独特さと同福音史家のメシア観が見られる。ところが、それはイエス様ご自身の言葉と福音史家のナレーションだ。洗礼者ヨハネの言葉ではない。「わたしよりも先におられた」という一句に限っては、彼の言葉ではなかったのではないかと、私が疑問に思ったのはそこに根拠がある。 
 具体的に見てみると、ヨハネ8;58は真理論争の最終場面だ。ユダヤ人たちが「あなたは、まだ五十歳にもならないのに、アブラハムを見たのか」と投げかけた問いに、イエス様は「アブラハムが生まれる前から『わたしはある』」と答えられた。そこで彼らは、主が自分を神と同列に置いたととって激怒し、主を石殺しにしようとした。しかし、ここには主が神の御子だったとするヨハネ福音書の確信がある。それは「わたしよりも先におられた」と言った洗礼者ヨハネの言葉に重なる。
 では、ヨハネ福音書のプロローグはどうか。それは「初めに言があった」で始まるが、興味深いことにそこには洗礼者ヨハネが出てくる。だが「彼は光ではなく、光について証しをするために来た」に過ぎない。では光は誰かというと、初めにあった言で、その「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。」即ちイエス・キリスト様だ。つまり、主は神の言としては時空を超越して、洗礼者ヨハネよりも無限に前からおられたわけだ。これが「わたしよりも先におられた」の真の意味だと思う。
 ところが、これは完全にヨハネ福音史家のビジョンだ。そこで私は、果たして洗礼者ヨハネがそこまで知っていたのかと疑問を持った。しかし、彼は主の道を備えるために来た人だから、神の啓示でその神秘を知った可能性はある。それは否定できない。その場合は、彼が「わたしはこの方を知らなかった」を敷衍して、「わたしはこの方を普通の人だと思っていたが、彼はわたしよりも先にどころか、世の初めからおられた方だ。私はそれを知らなかった」と、言い直すなら納得できる。

 気になった点は以上で一応解消したと見なし、ここからは洗礼者ヨハネが「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」と言ったことばを考察してみる。この言明は洗礼の場にいた群衆にも聞こえただろうが、彼がそれを一番聞かせたかったのは自分の弟子たちに対してだっただろう。翌々日二人の弟子といた時にも「見よ、神の小羊だ」と繰り返し言ったからだ。では、師がそう言うのを聞いて、弟子たちは果たしてその意味を十分に把握できたのだろうか?
 思うに、ある程度はわかっただろうが、十分な理解はとうてい無理だったのではなかろうか。だからこそ師ヨハネは彼らが信じられるようにと、「わたしをお遣わしになった方が、『“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた。わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである」と言ったのだろう。少なくともこの証言で、彼らはイエス様がただ者ではなく、神の人であることはわかっただろう。
 また、「神の小羊」という言葉もある程度まではわかったに違いない。彼らイスラエル人は過越しの小羊を体験的に知っていたからだ。しかし、十分な理解は無理だったと思われる。その推測にはそれなりの理由がある。第一の理由は「神の小羊」という表現が旧約聖書にはなかったからだ。第二は、「神の」と「小羊」がどう結びつき、それがなぜ「世の罪を取り除く」のか、なぜナザレトのイエスという人がその「小羊」だと言うのか、それらが判然としなかったに違いないと思われるからだ。

 まず、ある程度はわかっただろうと思われる根拠を検証してみよう。弟子たちが過越しの小羊を体験で知っていたことは明らかだ。イスラエル人は現在でも過越祭を大切にしているが、昔はもっと熱心で、過越祭を祝わない人はいなかっただろう。ところで、その祭りに欠かせないのが犠牲の小羊だった。その律法は出エジプト記12章にある。そこにある過越しの小羊の話は、かつて神がイスラエルの民をエジプトから救い出したとき、頑なに抵抗するエジプト王ファラオに下した最後の災いに遡る。
 十番目で最後となったその災いとは、モーセの声に従わなければ、エジプトにいる初子を人も家畜もすべて撃ち殺すというものだった。しかし、何もしないでいれば、イスラエル人たちの初子もその災いの巻き添えを食う。そこで、神は彼らに小羊を屠って、その血を戸口の柱と鴨居に塗るように命じた。殺戮の天使はその夜エジプト全土の初子を皆殺しにするが、その血が塗ってあればその家は過ぎ越し、初子は死なずに済むと言われたのだった。
 彼らは命じられた通りにした。そして、小羊の肉は焼いて、酵母のないパンと一緒に家族一同で食べた。これが旧約の過越祭の由来だが、それは彼らにとって絶対に忘れてはならない民族最大の出来事であり、自分たちが神の選民であることの証しでもあった。だから、エジプトから脱出し、約束の地に入った後、彼らイスラエルの民は子々孫々に至るまで、神のその救いの業を記憶し、感謝の祭りを継承して行くよう律法で命じた。そして、現代でも彼らはそれを守っている。 
 ユダヤ教の過越祭では、セデール(初日の晩餐)にハガダー(式次第)が使われるが、その中に「三つのシンボル」というステップがある。それは晩餐の中心で、司式者は食卓の小羊を指して「ペサハ」(過越し)と言う。そして、出エジプトの事跡を語る。実に象徴的な場面だ。ところで、弟子たちは皆それを何回も体験していたはずだ。しかも羊は彼らにとって日常的に身近な動物だった。従って、彼らが私たち日本人よりもずっと実感をもって、「小羊」をイメージし理解できたことは間違いない。

 しかし、こと「世の罪を取り除く」と「神の」のことになると、そうはいかなかっただろう。出エジプト記の金の子牛の偶像については知っていただろうが、神の小羊の話は前例がなかった。しかし、神から命じられた過越しの小羊に何か特別な神的計らいを感じ、その犠牲によって殺戮の災いを免れたことに、「世の罪を取り除く」というおぼろげなイメージを持てた者はいたかも知れない。とは言え、はっきりと根拠をもってこの点を理解できた弟子は、まだいなかったのではなかろうか。
 では、洗礼者ヨハネ自身はイエス様を見て、どうして旧約聖書にない「神の小羊」という象徴的なイメージを描くことができ、それが「世の罪を取り除く」方だとわかったのだろうか?私は彼がイザヤの預言書53章を知っていたらできたと思う。では、彼はそれを知っていただろうか?知っていたことは確かだ。なぜなら、自分の使命を「主の道をまっすぐにせよ」(イザヤ40;3)と言ったイザヤの預言で言い表したからだ。そこを知っていたのなら、他の章も知っていたと考えていいだろう。
 それでは、イザヤ53章には何が書いてあるかというと、まさに世の罪を背負う「神の僕」と、それを小羊に喩えたくだりがあるのだ。まず「神の僕」についての要点を見てみると、それはこう描写する。
 「この人は主の前に育った。見るべき面影はなく、…人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている。…彼が担ったのはわたしたちの病、彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに、わたしたちは思っていた、神の手にかかり、打たれたから彼は苦しんでいるのだ、と。
 …彼が刺し貫かれたのはわたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのはわたしたちの咎のためであった。…わたしたちの罪をすべて主は彼に負わされた。…屠り場に引かれる小羊のように、毛を切る者の前に物を言わない羊のように、彼は口を開かなかった。
 捕えられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか、わたしたちの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり、命ある者の地から断たれたことを。…病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ、彼は自らを償いの献げ物とした。
 …主の望まれることは彼の手によって成し遂げられる。彼は自らの苦しみの実りを見、それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しいものとされるために、彼らの罪を自ら負った。」
 この「神の僕」は実に神秘的な存在だった。それにぴったり当てはまる人物は全聖書を通して皆無だったからだ。学者たちは誰か該当者がいるかも知れないと探したが、預言者モーセも、一番近似の感があったエレミヤも、もちろんイザヤ自身やイスラエル民族そのものも該当しなかった。該当者が誰一人出ないのなら、結局無駄な預言となるのに、イザヤはその人物を予言した。
 ただ、やがてたった一人だけ、その「神の僕」にぴったり当てはまる人が出現した。それがイエス・キリスト様だった。予言された「神の僕」は主にしか該当せず、主には当てはまり過ぎるほど当てはまった。ご受難では鞭打たれ、血染めの茨の冠で見る影もなく、十字架を負い、罪人に伍して磔刑にされ、嘲られ、槍で刺し貫かれ、命ある者の地から断たれた。だから、教会はこれを主についての預言と解釈した。洗礼者ヨハネは霊感によってそれを悟っていたのではあるまいか。

 イザヤ53;7には「屠り場に引かれる小羊のように」という一句もある。これは「神の小羊」のイメージを予感させる比喩だ。この比喩はこの小羊が小羊でも動物の小羊ではなく、人であることを示している。そればかりか、イザヤ預言者はその人が神の眼差しのもとにあることを描いている。他方、「神の小羊」もまた小羊は小羊でも動物の小羊ではなく、小羊の比喩で表現された人であり、それもただの人でなく、神的な人であることを表わしている。二つはほぼ重なっている比喩だ。
 ただし、これはまだ比喩に過ぎないが、そのイメージが過越しの犠牲の小羊と合体すると、その小羊は単なる過越祭の小羊とは違った、新しい意味合いを持ってくる。旧約の過越しでは、その血と肉が皆殺しの災厄から民を救った。しかし、「屠り場に引かれる小羊」のような神の僕が「神の小羊」であるならば、それはイスラエルの民をエジプトから救ったような犠牲としてではなく、全人類を罪の奴隷状態から救う贖いの犠牲であるはずだ。つまり世の罪を取り除く小羊なのだ。
 洗礼者ヨハネは神からの霊感でそれがわかったのだろう。「神の小羊」のイメージは、イザヤ預言53章の「屠り場に引かれる小羊のような」という比喩と、出エジプト記12章にある過越の小羊が重なって生まれたのだと思う。そして、「世の罪を取り除く」という一句も、同じ聖書の二個所、即ち「主の僕の苦難と死」のくだりと、民を苦難から贖った神の過越しが合体して新しい啓示となり、洗礼者ヨハネに示されたのだと思われる。

 しかし、弟子たちはまだそこまでは分かってはいなかっただろう。師のヨハネとて、口では「世の罪を取り除く神の小羊」と言っていたが、十全な理解からはまだほど遠かったに違いない。イエス様が「神の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である」(ルカ7;28)と言われたのには、この意味もあるかも知れない。人々が十全な理解に至れるのは、イエス様の受難と復活により、救いの御業が成就するのを待たなければならなかった。それが成就するまでは、「世の罪を取り除く」という予言まだ実体のない言葉に過ぎず、「神の小羊」という言葉も、神秘的で不可解な比喩に留まっていたからだ。
 洗礼の後、イエス様はガリラヤで福音を語り、病人や癒し苦しむ人々を助け、やがて死と復活によって人々の救いを成し遂げられた。だから、聖パウロはそれを、「あなたがたはパン種の入っていない者なのです。キリストがわたしたちの過ぎ越しの小羊として屠られたからです」(一コリ5;7)と理解した。そして、ヨハネの黙示録は「屠られた小羊は、力、富、知恵、威力、誉れ、栄光、そして賛美を受けるにふさわしい方です」(黙5;12)と書いたのだった。
 「世の罪を取り除く神の小羊」という一句すら、その十全な意味は一朝一夕に明らかになったのではなかった。なのにそれをわかりきったことのように何も感じないなら、それは慣れっこになった鈍感さだ。神に導かれた先人たちが三千年以上もかけてやっと達し得た理解は、主が死と復活によって「神の僕」の預言を実現し、「神の小羊」となってくださったからいただけた恩恵に他ならない。今私たちがその言葉の入っている平和の讃歌を、意味をよく知った上で歌えるのもそのおかげなのだ。

二つのスタート

 降誕節が終わって年間主日のシリーズが始まる。だが、その最初は「主の洗礼」の祝日となるので、年間第1主日の名称はない。第一朗読はイザヤ42;1-7、第二朗読は使徒言行録10;34-38、福音はマタイ3;13-17だ。この福音はイエス様の洗礼の個所だが、イザヤ42;1は「見よ、わたしの僕、わたしの支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を」と、来るべきメシアへの神のまなざしを預言し、洗礼の場面で「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と聞こえた声に呼応する。
 しかし、もっと興味深いと思うのは、使徒言行録10章が言葉だけではなく、現実の出来事でも主の洗礼と響き合っていることだ。私はそこに二つのスタートを見る。もっともそれをはっきりと知るためには、10章38節で止まらず、48節まで読む必要がある。では何のスタートかいうと、イエス様の公生活が始まり、異邦人への本格的な福音伝播が始まるという二つの開始だ。そして、その両方に共通なのは聖霊と洗礼だ。

 まず、イエス様の洗礼を見てみる。時が来たので、主はついにナザレトを後にし、多くの人々が洗礼を受けていた洗礼者ヨハネのところへ向かわれた。ヨハネ福音書によれば場所はヨルダン川東岸の死海から遠くないベタニアだった。どの福音書を読んでみても、主は何も言わずに人々に伍して、洗礼の場に行かれたようだ。しかし、洗礼者ヨハネはすでに「わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打もない」と人々に語っていた。
 だから主が近づくと、直感かあるいは霊感ですぐわかったのだろう。彼は「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたがわたしのところへ来られたのですか」と言った。主は答えて、「今は止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです」と言われた。そこで、ヨハネはイエスの言われるとおりにした。イエス様に洗礼を授けたのだ。これらのことは、初め洗礼者ヨハネの弟子だった、ヨハネとアンデレ両使徒のおかげで伝わったのだと思う。

 ここで一つの疑問が湧く。主は「正しいことをすべて行うのは我々にふさわしい」と言われたが、「正しいこと」とはいったい何を指して言われたのだろうか?この疑問を解くカギは、聖パウロがフィリッピの信徒に宛てた手紙2;6-8の指摘にあると思う。彼はこう書いた。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になられ、人間と同じものになられました」と。
 「人間と同じものになられ」た。だから、人が人として体験し行うことを、主も当然の「正しいこと」として体験し行われた。それが「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」ということだった。神の身分でありながら、無力無防備な赤子として生まれ、むしろ他の赤子よりも貧しく飼い葉桶に寝かされ、父母に守られてエジプトに逃れ、ナザレトの村で普通の少年のように暮らし、時が来るまでは父母に従って生き、日々の糧のために労働された。それらすべてが「正しいこと」だったのだ。
 しかし、使徒ヨハネが「御子は罪を除くために現れました。御子には罪がありません」(一ヨハ3;5)と書いたように、イエス様には罪は存在しなかった。御自身、「いったいだれが、わたしに罪があると責めることができるのか」(ヨハネ8;46)と言われたことでもそれは明らかだ。ところが、洗礼者ヨハネの洗礼は「悔い改め」のしるしだった。ならば、罪がまったくない主がなぜ罪を悔い改めるための洗礼を受けなければならなかったのか?なぜそれも「正しいこと」の一つだったのだろうか?
 それは自らの罪ではなく、やがて人々の罪を負って死に、復活して人々の救いを成就する使命を負っておられたからだと理解すべきであろう。ヨハネの第一の手紙3;5には「御子には罪がありません」と書いてあるだけでなく、「御子は罪を除くために現れました」とも書いてあることを見落としてはいけない。これこそ彼が最初の師、洗礼者ヨハネから聞いた「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」と言う証言の意味だったのだ。
 マタイもそのことを十分理解しかつ意識していた。その証拠が次のくだりにある。「イエスは言葉で悪霊を追い出し、病人を皆いやされた。それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。『彼はわたしたちの患いを負い、わたしたちの病を担った。』(イザヤ53;4)」(マタイ8;16-17)マタイの旧約聖書引用はかなりこじつけが多いが、ここでは的確にはまっている。わたちの罪を負われたからこそ、悔い改めの洗礼も踏むべき「正しい」順序として受けられたのだ。

 洗礼をお受けになると、イエス様はすぐ水の中から上がられた。洗礼者ヨハネの洗礼はヨルダン川に全身を沈めて浸すものだった。ちなみに、ヨハネ4;1-2や使徒言行録8;36-38などを見ると、使徒たちも同じ浸水方式の洗礼を続けていたようだ。おそらく初代教会もそうだったのだろう。しかし、福音がヨーロッパに及び、寒い国での幼児洗礼も増えてくると、浸水方式は問題があったので、現在のように注水方式が主流になったのだろう。
 ところでマタイは、「そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のようにご自分の上に降って来るのをご覧になった。そのとき、『これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』と言う声が、天から聞こえた」と書き残した。そこでまた疑問が湧くかも知れない。「天がイエスに向かって開いた」とはどんな現象だったのか?それは他の人々にも見えたのか?神の霊が鳩のように降って来るのを見、天からの声を聞いたのはイエス様だけだったのか?という疑問だ。
 これはすでに「行間伝いの聖書自問自学」No.3で論じたことだが、要点をもう一度確認する。まず「天が開いた」という表現だが、聖ステファノの殉教でも「天が開いて、人の子が…」(徒7;56)と書かれている。それは空が割れるような物理的な変化ではなく、見る人にとって、大空の一角にめくれるような何らかの変化が起きたことを意味したのではなかろうか。「見る人にとって」がポイントだ。救い主の登場だったからそういう特別な現象が起きた、と解釈するのが妥当かと思われる。
 次に「神の霊が鳩のようにご自分の上に降って来るのをご覧になった」というのは、他の福音書も読み比べると、イエス様だけではなく、他の人にも見えたことがわかる。それは神様が形作られた象徴的な出来事だったので、「見える人には見えた」。天からの声も、神様が特別に働きかけられたので、「聞く耳を持った人には聞こえた」と理解すべきだろう。私はそれがイエス様だけではなく、おそらくその場にいた人々にも見えかつ聞こえたのではないかと思う。
 なぜそう考えるかというと、イエス様と洗礼者ヨハネだけにわからせるのだったら、「天が開け…」のような奇跡的現象を起こす必要はなかったはずだからだ。天が開けて聖霊が降り、天から声が聞こえたのなら、それは主がメシアであることを認証するための公示であり、それが人々によって目撃され、主に注目が集まるためには、皆にも見えかつ聞こえなければ意味がなかったからだ。ただし、人々はそれが見えかつ聞こえても、その意味は理解できなかっただろうと思われる。 

 ところで、洗礼者ヨハネはイエス様の到着前、人々に「わたしは悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしより優れておられる。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる」と話していた。彼は聖霊による洗礼が水の洗礼より優れていることも明言したのだ。それにもかかわらず水の洗礼は存在理由を失わなかった。そして、主はそれを受け、それを機に聖霊は降った。それが主の公生活のスタートになったのだった。
 そして、とても興味深いことに、異邦人への本格的な福音普及も聖霊と水の洗礼がスタートだったのだ。使徒言行録10章はそれを伝える。物語としても非常に面白い。一連の出来事は、カイサリアにいた「イタリア隊」の百人隊長コルネリウスの幻で始まる。彼は異邦人だったが、信仰心あつく、神を畏れ、民に施しをし、よく祈る人だった。ある日、彼は幻で天使を見た。恐れていると、天使はあなたの施しは神の前に嘉納されたから、ヤッファにいるシモン・ペトロを呼びなさいと言われた。
 彼が使いをヤッファの町にやると、そのとき屋上で祈っていた使徒ペトロは空腹を覚えた。すると天から布状の入れ物が下がってきて、中には鳥獣爬虫類が入っていた。そして、「ペトロよ、屠って食べなさい」と言う声がした。「主よ、とんでもない。汚れた物は何一つ食べません」と答えると、「神が清めた物を清くないなどと言ってはならない」と言われ、それが三度繰り返されると、布状の入れ物は急に天に引き上げられたのだった。それは不思議な幻だった。
 「今見た幻はいったい何だろうか」と訝っていた時、コルネリウスからの使いが来たのだった。そして、「あなたを家に招いて話を聞くようにと、聖なる天使からお告げを受けたのです」と告げた。使徒は翌日何人かの兄弟と一緒に出発し、次の日にカイサリアの町に着いた。ヤッファは現在のテルアヴィヴで、ともに地中海沿いにあるが、50キロほど離れている。使徒ペトロたちが着くと、コルネリウスの家には大勢の人が集まっていた。
 そこで彼は言った。「あなた方もご存じのとおり、ユダヤ人が外国人と交際したり、外国人を訪問したりすることは、律法で禁じられています。けれども、神はわたしに、どんな人をも清くない者とか、汚れている者とか言ってはならないとお示しになりました。それでお招きを受けたとき、すぐ来たのです。お尋ねしますが、なぜ招いてくださったのですか」と。彼は汚らわしい鳥獣爬虫類が異邦人の象徴であり、律法が禁じるその食材を食べなさいと、あえて天が命じた意味を悟ったのだ。
 コルネリウスは答えて、幻で天使から告げられたことを打ち明け、「それで、早速あなたのところに人を送ったのです。よくおいでくださいました。今わたしたちは皆、主があなたにお命じになったことを残らず聞こうとして、神の前にいるのです」と言った。そこには神に耳を傾けようとする人々がいた。「どうぞお話しください。僕は聞いております」(サム上3;10)と言った預言者サムエルのような姿勢だ。きっと使徒ペトロも聖霊の働きに感動したに違いない。だから感動的な演説で答えた。
 それが第二朗読の内容だ。彼は言った。「神は人を分け隔てなさらないことが、よくわかりました。どんな国の人でも神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れられるのです」と。これは当時としては驚くべき言葉だった。なぜならそれは、今日では当たり前と思われているが、当時は偉大な智者すらまだ思ってもいなかった、人間の基本的な平等を明言した言葉だったからだ。
 そして、彼はイエス・キリスト様の御生涯を見事に要約して話した。神がナザレトのイエスを聖霊と力によって油を注がれた者とされたこと、主が方々を巡って人々に教え、苦しむ人々を助けたこと、それなのに人々は主を木に架けて殺してしまったこと、しかし神が三日目に主を復活させ、生きている者と死んだ者との審判者に定めたこと、それを民に伝え証しするよう自分たちにお命じになったことなどだ。そして、こう結んだ。「預言者も皆、イエスについて、この方を信じる者はだれでもその名によって罪の赦しが受けられる、と証ししています」と。
 すると、その時だった。御言葉を聞いている一同の上に聖霊が降ったのだ。使徒言行録はこう書く。「割礼を受けている信者で、ペトロと一緒に来た人は皆、聖霊の賜物が異邦人の上にも注がれるのを見て、大いに驚いた。異邦人が異言を話し、また神を賛美しているのを、聞いたからである」と。「そこでペトロは、『わたしたちと同様に聖霊を受けたこの人たちが、水で洗礼を受けるのを、いったいだれが妨げることができますか』と言った。そして、イエス・キリストの名によって洗礼をうけるようにと、その人たちに命じた。」
 聖霊降臨の日のようなことが再現したのだ。ただし、あの時はユダヤ人たちだけだったが、この時は異邦人ばかりだった。異邦人の洗礼はこの時が最初ではなく、使徒言行録8章にはサマリアの人々とエチオピア女王の高官の洗礼がある。しかし、聖霊がこのような感じで大勢の異邦人に降り、大勢の外国人が洗礼を受けたのは、コルネリウスの家での出来事だろう。異邦人への福音はその後聖パウロによってヨーロッパに渡った。それは彼がマケドニア人の幻を見た後だった。

 私はこれを書き始めたとき、主の洗礼についてはもうあまり書くことはなさそうだなと思っていた。しかし、該当する聖書の個所を読みくらべたり、考察したりしているうちにわかった。ヨルダン川における洗礼と聖霊の臨在が主の公生活のスタートとなったように、異邦人への福音伝播のスタートにも、百人隊長コルネリウス家に代表される異邦人への洗礼と聖霊降臨があったのだ。その響き合いを発見できたことに私は満足を覚える。
 そして、もう一つわかったことがある。主の洗礼の時に似て、コルネリウス家でも水の洗礼と聖霊が出てくるが、この場合の水の洗礼はもはや洗礼者ヨハネの時とは同じではなく、質的に違っていたことだ。それは聖霊を受けた者が、神の子に生まれ変わるしるしの洗礼だからだ。聖霊を受けて水の洗礼を受ける者は、洗礼を受けた日のイエス様のように、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」となるのだ。そこにすばらしい神秘がある。今日でもそれは同じなのだ。

聖誕伝承考―補遺

 過日、聖誕伝承考を書いたが、後で気付いたことがあった。「ヘロデ王宮での会話や出来事を後世に伝えたのは誰か?」という疑問に、「その人物Xは、王宮に呼ばれた祭司長や律法学者の中の誰かだったのではないか」という、解答めいた示唆をした。しかし、その「誰か」が誰であったかについては検証しなかった。ところが、その「誰か」はこの人ではないかと思い当たる人が二人脳裏をよぎったのだ。

 その一人はヨハネの福音書に出てくるニコデモだ。彼はファリサイ派の長老で、イエス様がエルサレムにおられた折のある夜、ひそかに主を訪ねた人だ。彼の名が脳裏をよぎったとき、私は思った。「イエス様が聖誕された時、ひょっとしたら彼はヘロデの王宮に呼ばれた学者たちの一人だったかも…そして、後にその時のことを話したかも知れない」と。突飛な空想だ!と笑われるかも知れないが、あれこれ考えてみれば、決してあり得なかったことだとは言いきれないのではなかろうか。
 言うまでもなく、それは一方では東方から占星術の学者たちが来た時、ユダヤ中の祭司長や律法学者たちがヘロデ王に召集されたということが事実であり、他方ではヨハネの福音書が語るニコデモという人物も実在したということを前提にした推理だ。しかし、ここではヘロデ王宮での会話や出来事を再確認する必要はないから、ニコデモがその人物Xでありえたかどうかを検証すれば足りる。では、彼はその人物であり得たかどうかというと、次のような根拠で私はあり得たと思うのだ。

 まず彼がヘロデの王宮に呼ばれた可能性だが、それはあったと言っていいだろう。彼はイエス様を訪問した時、自分を「年をとった者」と言った。年寄りとは少なくとも60歳以上を意味したのだろうから、もし主と30歳ほどの年齢差があったとすれば、主の聖誕時には彼は30歳台だったと推定できる。彼がファリサイ派の学者だったならば、「王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて」(マタイ2;4)とあるから、まだ若輩だったとしても、彼もまた召集されていた可能性はあると見ていい。
 ところで、若い人は好奇心も強いし、体力にも自信がある。年寄の祭司長や学者たちはヘロデ王に、メシアが生まれるのはユダヤのベツレヘムだと、預言者ミカの書5;1を引用して答えはしたが、わざわざそれを確かめに行こうとまではしなかっただろう。しかし、若い学者たちはメシア誕生の預言が実現するなんて、こんな機会にはめったに巡り合えない。ぜひ自分の目で確かめて見たいと思っただろう。だから、東方の学者たちに案内を申し出て、同道したことは十分考えられる。
 それが一人だったか数人だったかは別として、ニコデモがその一人だったことはあり得る。彼がイエス様をひそかに訪ねた夜、彼の脳裏には約30年前、東方の学者たちと共にベトレヘムで見た、不思議な星の下に生まれた幼子のことが蘇っていたかも知れない。だとすれば、そのとき彼はメシアと噂されるナザレトのイエスが本当に神の人かどうか、それを見極めようとして会いに行ったのだが、ひょっとしたら主があの時の赤子かどうか、それをも知りたいという気持ちがあった可能性はある。
 ニコデモはイエス様のご受難前、主が本物のメシアであることをある程度信じた。だから主を弁護(ヨハネ7;50-52)もしたし、主が墓に葬られた時は協力した。ヨハネ福音書に彼のことが記録されているということは、彼が後にキリスト者になり、使徒ヨハネの近くにいたからだと私は推理する。もしそうだったとすれば、東方の学者来訪で始まる聖誕物語の少なくとも王宮部分は、彼の思い出話などが発端となったという可能性はなくはない。彼はそれを知る数少ない人の一人であり得たからだ。

 Xに該当する人が一人ではなく、二人以上いたとすれば、ニコデモより可能性は薄いものの、もう一人思い当たる人物がいる。ファリサイ派の学者ガマリエルだ。当時、ユダヤではヒレル派とシャンマイ派が聖書の二大学問派閥だった。ヘロデ王宮での出来事が史実だったならば、シャンマイ(年代不詳)はともかく、年代的にはヒレル(BC70-AD10)はその場にいた可能性が濃い。ところで、ガマリエルは彼の弟子だったから、彼が師と一緒に王宮に行ったことは考えられなくはない。 
 使徒言行録5章34-40節を読むと、彼は結果的に使徒たちを救っている。まだ聖霊降臨後それほど経っていない頃だったが、最高法院は使徒たちを捕えて尋問した。しかし、かえって彼らがイエス様の復活を証言したので、人々は憤慨して彼らを殺そうとした。しかしその時、民衆から尊敬されていた律法の教師ガマリエルが立って、使徒たちをしばらく外に出させると、「イスラエルの人たち、あの者たちの扱いは慎重にしなさい」と議員たちを戒め、その訳をおおよそこう語った。
 以前にもテウダという者が立ち上がったが、間もなく殺され追随者は四散した。ガリラヤのユダも反乱を起こしたが、殺されて滅びた。だから、あの者たち(使徒たち)から手を引いて、放っておく方がよい。「人間から出たものなら自滅するだろうし、神から出たものなら彼らを滅ぼすことはできない。もしかししたら、諸君は神に逆らう者となるかも知れないからだ」と。それを聞いた一同は彼の意見に賛成し、一応使徒たちを鞭打ちで罰してから解放したのだった。
 彼は冷静で確かな考察力を持っていただけではなく、新しい教えと使徒たちの言動をある意味で好意的に理解していた。残念ながら、彼が主の福音に帰依したという文献や口伝はない。しかし、彼は使徒パウロの師であった(徒22;3)。従って、パウロの改心後も存命だったら、主の福音にもっと関心を持っただろうし、信じる一人になった可能性すらまったくは否定できない。「神から出たものなら彼らを滅ぼすことはできない」と言った彼は、真実と向き合う人だったからだ。
 いずれにせよ、民衆から尊敬され、皆がその意見に従うほどの律法学者だったのだから、彼もかなりの年配者だったのではないだろうか。だとすれば、彼もヘロデの王宮に行った可能性がある。そして、たとえキリスト教に改宗しなかったとしても、ナザレトのイエス様のことはユダヤで話題になっていたのだから、「そう言えばかつて、3、40年前だが、メシアの誕生の噂があって、私も東方の学者たちとベトレヘムに行ったことがある」と、ヘロデ王宮でのことを周囲に話したかも知れない。それが人づてに伝わって、聖誕伝承の一源泉になった可能性もないとは言えない。

 名前が言えるのは以上の二人だが、その他の目撃者も考えられなくはない。さきほどのニコデモはイエス様を訪ねた夜、「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています」(ヨハネ3;2)と言った。この言葉には注目すべき点がある。「わたしどもは」と複数で言っている点だ。「わたしどもは」と言った以上、実はファリサイ派の中にはニコデモだけではなく、イエス様に対して彼と同じ気持ちの人、いわばシンパがまだかなりいたということを意味する。
 では、それは確かめられるかというと、確かめられる。その一つはイエス様から「あなたは、神の国に遠くない」(マルコ12;34)と言われた律法学者がいたことだ。誰だったかはわからないが、主に褒められた彼は主に好意と尊敬の念を抱いただろう。その彼が主の受難を目撃し、使徒たちによる主の復活の証言や聖霊降臨に接して、これこそ真の教えと心を打たれ、主の福音を信じたことはあり得る。この律法学者はニコデモのいう「わたしども」の一人だったと言えよう。
 また、使徒言行録15章には、初代教会でユダヤから来た人たちが、モーセの慣習に従って割礼を受けなければ救われないと教えたため、聖パウロや聖バルナバと大激論になったという記事がある。ユダヤから来た人々とはイスラエル人改宗者だが、教える力があり聖パウロたちと議論で渡り合えたのだから、おそらくファリサイ派からの改宗律法学者だったと推定できる。彼らは初代教会に深刻な問題を惹起したが、彼らの存在自体はユダヤ教からかなりの学者が改宗していたことを証明する。つまり「わたしども」が実在したことを示す。
 では、そうした学者たちの中で、ニコデモやガマリエルほどの年齢の人たちがいたとしたらどうだろうか。彼らもニコデモたちのように、ヘロデの王宮に召集されていた可能性がある。もしそうだったとしたら、彼等もニコデモなどと同様ヘロデの王宮で体験したことを、救い主の幼少期に興味を持ち始めた周囲の人々に、乞われるままに話したことだろう。そして、出所が定かではないものの、それが聖誕伝承の一源泉になったことはあり得る。

 これらは現代の人たちにとってはどうでもよい話、聖書学者たちにとっては笑うべき空論かも知れないが、マタイ福音書の聖誕伝承がどこから来たかは検証に値する問題だ。ある学者たちは東方の占星術の学者たちの訪問と、そこから始まる一連の会話や出来事の史的信憑性を否定する。しかし、たとえそれが史実ではないとしても、その伝承が存在することはまぎれもない史実だ。そして、それがあったからこそマタイ福音書の聖誕物語もできた。そこに伝承考察の意義がある。

聖誕伝承考

 少数ながらこのコラムを訪問してくださる方々がおられるようだから、ご挨拶を申し上げる。
新年おめでとうございます。昨年はありがとう。本年もよろしく。
 ところで、昨年の途中から、このコラムは人様のためではなく、自分のボケ防止のための知的訓練だ。読む人がわかろうとわかるまいと、興味を持とうと持つまいと、霊的な役に立とうと立つまいと、それらには関係なく、自分が思うことを思う存分、自分の関心優先で書くのだ、と決めた。今年もそうするつもりなので、癒しや励ましには応えられないと思う。その時はどうぞ悪しからず。

 さて、さっそくだが、教会は2011年の御公現を明日、1月2日に祝う。公現(Epiphania)とはギリシャ語のエピファイネイアが語源だ。目に見えない神が姿を現わしたり、奇跡や不思議な出来事でその臨在を知らせたりすることを意味する。この主日の福音はマタイ2;1-12で、東方の占星術の学者たちが不思議な星を見て、誕生したユダヤ人の王を拝みに来た聖誕物語を伝えているが、それは神の御子の誕生が世に公示されたことだと理解された。だから公現と呼ばれる。
 まず東方教会の降誕祭として始まったこの祝日は、伝統的には1月6日とされてきた。そして、4世紀には西方教会でも祝われ始めたと言われている。ところで、マタイによるこの聖誕物語の筋書きはもう多くの人が知っている。私自身それについてもう何度も書いているから、それを繰り返し語ってもあまり意味がないと感じる。だから今回は、聖誕物語の元となったと思われる〈伝承の問題〉を中心に考察してみたい。新年早々長々しく、理屈っぽくなるとは思うが…

 初代教会にも歴史的推移があった。その初期の頃の関心事はもっぱら主の御受難と復活だった。それは当然で、その頃の教会にとって、それはユダヤ教に対抗し、自らの存在理由を示す最重要な信仰問題だったからだ。従って、聖誕は語られなかった。しかし時が過ぎ、初代教会も規模が拡大し、多少安定してきた2世信者たちの年代に入ると、関心は主の御受難や復活ばかりでなく、福音宣教をなさっていた時に主が何を教え、何をされたかに移って行った。
 一番早くに書かれたマルコ福音書はそういう関心に応えたものだと言えよう。だが、「神の子イエス・キリストの福音の初め」というその書き出しには、まだ聖誕物語はない。アラマイ語マタイ福音書もそうだったかも知れない。しかし、主の公生活に関心が向けば、やがて主の誕生の次第も知りたいという要望が起こったのは、必然の成り行きだった。実際には初代教会のかなり早い時期から、少数の人々の間ではすでに主の誕生にまつわる短い伝承が形成され始めていたのではあるまいか。私はそう思う。もちろん、これは推測の域を出ないのだが…
 信者たちの間に、主の公生活中の教えや行いだけでなく、誕生と幼少期のことを知りたいという欲求が増して来ても、マルコの福音書等はそれに応じられなかった。そこでギリシャ語マタイ福音史家と聖ルカはその福音書を書いたとき、それぞれが入手できた聖誕伝承を使って、それぞれの福音書の1,2章に主のご降誕の次第を書いたのだった。すでに形成されていた聖誕伝承には、マタイ系的なものやルカ系的なものがあったのだろうと推測できる。
 その後そうした関心におもねるかのごとく、ヤコブの福音書のような、主の幼少期を語る偽福音書もいくつか出た。ほとんどが2世紀以後の作で、もちろん偽物だ。それでも、それは主の聖誕と幼少期を知りたいという関心が、いかに強かったかの証拠でもある。マタイとルカはそうした関心に応えたのだ。ヨハネの福音書もまったく別の視点から、主の出自の神秘を伝えた。そして、初代教会の証人たちは、それらを正真正銘だと承認したのだった。それが今ある正典の福音書だ。
 では、マタイ系とルカ系聖誕伝承はどのようにして始まったのだろうか?推測だが、私はどちらの伝承にも源泉には確実にマリア様がおられたと考える。主の誕生を知っていた人がほとんど他界し、当時それを知る人はもう聖母しか残っていなかったに違いないからだ。伝承は、聖誕に関心がありかつ聖母に会うことのできた立場の誰かが、聖母に主の誕生の次第を尋ねて知ったことから始まった、と私は推測する。その多様化は口づてに語られていく途中で生じたものだ。

 ルカの場合はすでに知られていたそのような伝承から、彼が真実だと判断したものを取捨選択し、聖母に直接確かめた上で書いたのではないかと私は見る。彼は福音書の序文に、「わたしもすべての事を始めから詳しく調べていますので」(ルカ1;3)と書いている。彼は伝承の中で尾ひれの付いた話や信憑性の疑わしい事柄は切り捨て、真実と思われることだけを伝えようと試みた。それが彼の執筆原則だったし、彼の福音書と使徒言行録が高く評価される理由でもある。
 ところで、真実はそれを知る当事者に確かめるに限るが、聖誕の最重要な当事者は聖母マリア様だった。「母はこれらのことをすべて心に収めていた」(ルカ2;51)からだ。では、ルカは聖母に会うことができる立場にいたかと言うと、いたと答えてよいと思う。どこでいつ、どのように会うことができたかははっきりわからないが、会えた可能性は非常に高い。彼は聖パウロと共にエフェソに行っているが、聖母も使徒ヨハネと共に晩年をそこで過ごされた。そこには接点がある。
 しかし、もっと早い時期に会えていたかも知れない。ルカはシリアのアンティオキア生まれだ。聖パウロの2回目、3回目伝道旅行とローマへの旅に同行したが、それ以前は生まれ故郷で活動していたと思われる。ところで、使徒言行録11、13、15章等を読むと、アンティオキアは福音宣教の活発な起点になっていて、エルサレムと並ぶ初代教会の一大中心地だったことがわかる。使徒ペトロもそこを訪れている(ガラ2;11)。だから、使徒ヨハネもエフェソに行く前はそこにいた可能性がある。だとすれば、聖母も一緒だっただろうから、ルカがお会いする機会は十分あったと言えよう。
 でも、それは聖母がご存命だったことを前提としているが、その時はまだご健在だったのだろうか?然りと答えていいと思う。聖誕が紀元前8、7年で、マリア様の15歳前後の時だったとすると、紀元50年代には70歳台だったと推定される。ダビデの家系は長寿者が多かったし、何よりも聖パウロの殉教(AD68)後、使徒ヨハネがエフェソの司教になったとき、聖母もそこに住まわれたことがご健在だったことの有力な証拠だ。その時はもうルカの福音書ができていた。
 ところで、ルカが聖母に会って確認した上で、聖誕物語を書いたに違いないと私が推測する理由は、ルカ福音書の聖誕物語が終始マリア様の立場で書かれているからだ。彼は聖母から直接聞いたことだけを、確かなこととして伝えたのだと思う。そして実際、もし聖母から直接に聞いたのでなければ、天使のお告げ、マグニフィカトの讃歌の内容、洗礼者ヨハネの誕生のいきさつなど、誰も知ることができなかったし、ルカもあのように書き記すことはできなかったに違いない。
 マリア様が数十年前の言葉を全て一言一句まで正確に覚えておられたかどうかは別として、聖誕物語の核心的な内容はマリア様から聞きとり、ルカが文章としての形を整えて伝えたものだと結論できる。もしそうでなくて、それをルカの創作だと言うなら、ルカは想像力類まれな宗教文学の天才だったと言わなければなるまい。だが、実際は違った。彼が持っていた資質は想像力豊かな創作家ではなく、正確な歴史家の才能だった。彼は聖母から聞いた聖誕の事実を伝えたのだ。
 しかし、そこには神が奇跡や不思議な出来事で臨在を知らせる、エピファニアの特徴が顕著にある。天使のお告げ、聖夜の天使と主の栄光などだ。それによって、それが並みの誕生ではなかったことがわかる。にもかかわらず、その他の点ではルカの聖誕物語は実に客観的だ。その時代を知る基準はローマ皇帝アウグストゥス・オクタビアヌスの治世とされている。彼の皇帝在位は西暦紀元前30年~西暦14年だった。それは今日多くの日本人が平成よりも西暦を使うのに似て、世界基準の年代指標だった。人口調査の事実や年代では議論はあるが、歴史家はそれらのおかげで、イエス・キリスト様の実際の誕生が紀元前8年か7年だっただろうと割り出している。
 
 ルカに比べ、マタイ福音書の聖誕物語はやや複雑で、史実として証明するのが難しい。しかし、ルカと共通するその物語の根幹は、すでに前回のコラム「雄弁な沈黙」の総括でも書いたが、確かな事実だ。すなわち、マリア様とヨセフが婚約していたこと、二人がダビデの子孫だったこと、聖母が結婚前に聖霊によってイエス様を懐胎されたこと、聖誕がベトレヘムだったこと、貧しい生まれ方をしたのに不思議なことが起こったこと、聖家族がナザレトに帰って生活したこと等だ。 
 それらの史実を抑えた上でマタイの聖誕物語を見てみると、それはヨセフ様サイドから書かれていることがわかる。男社会のユダヤ人向けだったからだろう。ところで、そこには現実と不思議が交錯している。マリア様の懐妊やヨセフ様の苦悩は現実だったが、聖霊による懐胎や夢で天使が伝えた託宣は尋常ではない出来事だった。占星術の学者たちの来訪では、ヘロデ王やベトレヘムの存在は現実だったが、見なれない星は大きな不思議だった。そこにエピファニアの特徴がある。
 マタイ2章は、「イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベトレヘムでお生まれになった」と始まる。彼はローマ皇帝ではなく、当時のユダヤの権力者を主が誕生した時代を知る基準に置いたのだ。ヘロデ一世は紀元前41年から同4年までユダヤの王だった。ローマ皇帝アウグストゥスの祖父であるユリウス・シーザーの信用を得て、アウグストゥスの代にも皇帝の味方ににつき、エリコやトラコニデスを領地としてもらってもいる。二人はかなりつながりがあった。ここは確実に史実だ。
 占星術の学者たちはエルサレムに来て、「ユダヤの王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです」と言った。ヘロデ王はそれを聞いて不安になり、祭司長や律法学者たちを王宮に集めて調べさせ、メシアがベトレヘムに生まれることを知った。そこで、自分も拝みたいから、見つかったなら教えてくれと言って、東方からの学者たちを送り出した。 
 ところが、ここに問題がある。不思議な星の出現や占星術の学者たちの来訪はルカにないし、他の文献にもない。従って、その史的信憑性が疑問視されてきたからだ。しかし、私は他の文献にないことが、マタイの聖誕物語を作り話だと否定する根拠にはならないと考える。不思議な星は紀元前11年のハレー彗星だったとか、同7年の木星と土星大接近による異常光輝だったとかの解釈もあるが、私はそんな苦肉の試みは要らないと思う。昔の占星術の学者たちが何らかの星の予兆を見た。そして、来訪した。文献になくても、それはあり得たことであった。それだけの話だ。
 そこで、彼らの訪問が大筋では事実だったと仮定すると、マタイ聖誕伝承にある謎を解くカギになる推測が可能なことに気付く。その謎とは物語の王宮部分を伝えた人は誰かという謎だ。マリア様もヨセフ様も王宮には行かなかった。東方の学者たちは国に帰ってしまった。では、4、50年も経った後、王と来訪者との会話や学者たちの王への進言等、王宮であった出来事を知る人は誰もいなかったはずなのに、いったい誰がそれを伝えることができたのだろうか?
 答えは王宮にいた人たちにあると思う。マギと言われた占星術の学者たちは哲学、薬学、自然科学等に秀でたメディア人で、昔はペルシャの王に仕えていた。疑い深いヘロデ王が接見を許したのも、彼らがそういう立場の人たちだったからだろう。しかし、生まれたユダヤの王に彼らが関心を持ったように、ヘロデに呼ばれた祭司長や律法学者たちも、占星術の学者たちの話に大いに関心を持ち、本当に自分たちが待ち望んでいたメシアかも知れないと、興味津々だったのではなかろうか。
 そこでカギになる推測の出番が来る。彼等の中の誰かまたは何人かが、自分もメシアを拝みたいと、占星術の学者たちをベトレヘムに案内したのではないかという推測だ。メシア誕生に特別な興味を感じた若い者が、案内を買って出た可能性は大いにあり得る。「星が先だって進み」と言っても、東方の学者たちには土地勘のない異国だし、「幼子のいる上に止まった」と言っても、ベトレヘムには家が多いので簡単には見つからないから、その申し出は彼らにとっては実にありがたかっただろう。
 もしそうだったとして、その人または人たちがニコデモやアリマタヤのヨセフのように、後に主の福音を信じてキリスト者となっていたとしたらどうだろう。聖母が知り得なかった王宮での会話や出来事を、その人なら後世に伝えることができたはずだ。私が「若い者」としたのは、年寄の律法学者たちでは紀元50年代まで生きて、証言することは無理だっただろうなと思ったからだ。もちろん占星術の学者たちが聖家族に事の一部始終を話して行ったことも考えられる。その場合は聖母が覚えておられたら、聖誕物語のその部分も伝えることができるにはできた、と言えるだろう。
 いずれにせよ、聖母マリア様が打ち明けてくださったことが聖誕物語の主な源泉だったことは間違いない。ヨセフ様とマリア様はお互いの知っていることを共有しておられたはずだから、マタイの聖誕物語はマリア様から出た伝承を、ヨセフ様の立場に翻案して書いたのだと見ればいい。従って、聖霊によるマリア様の懐胎、ベトレヘムでの救い主聖誕、占星術の学者たちの来訪、エジプトへの避難等の伝承は、マタイでもすべて聖母が源泉だと考えれば説明がつく。
 しかし、聖家族はヘロデの王宮には行っていないから、そこでの会話や出来事に限っては、上述したように王の諮問を受けた祭司や学者たちの中の誰かが、占星術の学者たちといっしょに同道し、後にキリスト教徒になってその時の体験を伝えたか、占星術の学者たちが聖家族に事の次第をすべて話したのでなければ、それらがなぜ語り伝えられたかの説明がつかない。私としてはどちらかと言えば、誰かが同道したのではないかという仮説の方を採りたい気がする。
 そのわけはこうだ。占星術の学者が聖家族に話したという仮説にすると、彼らが礼拝して帰るまでのことはいいとしても、ヘロデが騙されたと気付いて激怒し、ベトレヘムの嬰児たちを皆殺しにしたことの説明がつき難いからだ。殺戮が事実だったとして、事件はエジプトの聖家族にも風の便りで届いた可能性はあるが、ユダヤにいてその事件を一番よく知る立場にいた、祭司か律法学者の誰かが覚えていてくれたとする方が説得力は強いからだ。いずれにせよ、マタイの聖誕物語は複数の伝承をもとにして書かれたものだと考えていいのではなかろうか。 

 では、なぜルカは占星術の学者たちの来訪や聖家族のエジプト避難を、彼の福音書に書かなかったのだろうか?それには、(1)その伝承を知らなかったから、(2)知っていたが省く理由があったからという二つの答えが考えられる。そして、(2)の答えはこれまた二つの場合に分かれるだろう。①聖母からではない伝承で知ったから、信憑性に欠けると判断し、採用しなかった。②聖母からも事実だったことを確認してもらったが、しかるべき理由があったので省略したという場合だ。
 しかし、少し考えれば、(1)の答えは実際にはありえなかったことがわかる。なぜなら、資料をよく調べていたルカが、すでに他の信者たちにも知られていた伝承を知らないはずはなかっただろうし、エジプト避難が事実だったら、聖母が少なくともその体験を話さなかったはずはないからだ。
 他方(2)の答え①の場合は、生き証人の直接証言で確かめられない以上、信憑性に欠けるとしてルカが採用しなかったのなら、それは納得がいく。しかし、同時にそれはマタイの聖誕物語の史実に対する深刻な疑問となる。これに対しては、私はすでに確証がなくても史実だった可能性はあると書いた。この場合、ルカはマタイの聖誕物語を作り話として否定したのではなく、確かでないから書かなかっただけだと解釈すれはいいと思う。これが今、私にできる暫定的な解決だ。
 しかし、②の場合が本当だったとしたら、東方の学者たちの来訪、エジプトへの避難が事実だったと、聖母からも確認が取れたことになる。それなのに、ルカが福音書に書かなかったとすれば、それは意図的に省略したことを意味する。そうなると、ではそうするほどの理由とは何だったのかという疑問が出てくる。私はそれをこう解釈する。ルカは、主のご復活後、主と弟子たちがガリラヤに戻った出来事も省略した。聖誕物語でも似たような理由で省略したのではないかという解釈だ。
 それを説明する。マタイ、マルコ、ヨハネの3福音書はこぞって、ご復活後に主と弟子たちが一度ガリラヤに戻ったと書いている。だが、ルカだけは一切それに触れず、弟子たちを聖霊降臨までエルサレムに留まらせた。実際は違ったのに、彼はガリラヤへの一時帰郷をなかったことにしたのだ。なぜか?彼のビジョンは救いの福音がガリラヤから始まり、エルサレムで完成し、聖霊降臨後そこから全世界に広がることにあった。従って、ガリラヤへの後戻りは不都合だったからだ。 
 聖誕物語のエジプト行きもそれに似ていると言えるのではなかろうか。メシアはベトレヘムで生まれ、ガリラヤで育ち、そこから福音を宣べ始め、エルサレムで完成し、そこから全世界に普及させる。そのためには、それらの成就前にエジプトのような外国に出ることは、ビジョンをブレさせる不都合な出来事だ。大筋にそれほど影響がないことなら、よりメリットのある重要なことのために、ある事実を黙して語らないことは許される。彼はそう判断して省略したのではなかろうか。

 もし上記のような推測が妥当だとすれば、マタイとルカの福音書にある聖誕物語はかなりよく整合し、補完し合う。つまりこう要約できる。
 それはまず天使のお告げで始まる。神様が人類史に再び介入を始めた最初の不思議だ。マリア様は聖霊によって身ごもり、すぐ従妹エリザベトを訪問し、洗礼者ヨハネの誕生に立ち会ってナザレトに帰った。ヨセフ様が聖母の妊娠に気づいたのはその2、3か月後だっただろう。しかし、夢で天使に神意を聞かされ、彼はマリア様を妻として迎えた。
 時はローマ皇帝アウグストゥスの時代、ユダヤはヘロデ大王の治下だった。西暦紀元前8、7年頃は、各地で人口調査が多かったと言われている。ユダヤでもそれがあったので、聖ヨセフ夫妻は先祖の地ベトレヘムに行った。しかし、宿がいっぱいで泊まるところがなく、家畜が休む洞窟のような所に行き、マリア様はそこでイエス様を出産し、飼い葉桶に寝かせた。その時、近くに羊飼いたちがいたが、天使の告げで救い主の誕生を知り、拝みに来た。最初の礼拝者だった。
 その頃、東の国では占星術の学者たちが不思議な星を見て、ユダヤに王が誕生したことを知り、礼拝に旅立った。彼らが遠方から歩いてくるには時間がかかった。その間、聖家族はイエス様に割礼をさずけた。8日目だった。そして、33日目(レビ記12;3-4)にはエルサレムに行って、初子を神殿に奉献した。「律法で定められたことをみな終えた」(ルカ2;39)とは、これらのことを意味したのだろう。神殿では預言者シメオンと女預言者アンナがイエス様とマリア様の将来を予言した。
 聖家族はその後またベトレヘムに戻ったと推測される。エルサレムとベトレヘムは近いが、ガリラヤはとても遠い。まだ首が座っていない赤子を抱いて、歩いて数日もかかるそんな遠方に旅をするのはリスクが大き過ぎたからだ。だからもうしばらくベトレヘムに滞在するつもりだったのだと思う。占星術の学者たちがやっとユダヤに到着したのはその頃だっただろう。彼らは王に尋ねれば、生まれたばかりのメシアのことはすぐわかるだろうと考え、まっすぐに王宮を訪ねた。
 しかし、それはヘロデ王にとっては寝耳に水の情報だった。不安になった彼は祭司長や律法学者たちを集めてメシアがどこに生まれるかを調べさせた。そして、それがわかると東方の学者たちに、メシアが見つかったら知らせてくれと言い含めて送り出した。もし私の想像が荒唐無稽でないとしたら、その時メシア誕生に興味を持った律法学者たちが何人か、東方の学者の案内を兼ねて同道した。そして、不思議な星の導きで聖家族のいる家を見つけることができた。
 聖家族はその頃は宿も見つけていたようだ。東方からの学者たちが「家に入って見ると」(マタイ2;11)と書いてあり、もう飼い葉桶のある場所ではなかったようだからだ。東方の学者たちは大いに喜んで幼子を礼拝し、献上物をささげ、聖家族に訪問の一部始終を語ったかも知れない。しかし、夢でお告げがあったので、ヘロデ王のところへ寄らずに国に帰った。時を同じくして、ヨセフ様にも夢で、「子供とその母親を連れてエジプトへ逃げなさい。ヘロデがこの子を探し出して殺そうとしている」と天使の告げがあったので、彼はすぐに聖母子を連れて、エジプトに避難した。
 他方、騙されたと知った王は激怒し、兵士を送ってベトレヘムにいた2歳未満の男児を皆殺しにした。自分の息子さえ2人も殺した残虐な王だったから、この虐殺は大いにあり得た。しかし、彼も紀元前4年に死んだ。それを知った聖家族はイスラエルに戻ろうとした。おそらくエジプトには3、4年いたことになろう。しかし、アルケラオが跡を継いでいるとわかったので、行く先をガリラヤのナザレトに変え、そこに住んだ。以上が聖誕物語の大筋だと言っていいのではなかろうか。

 しかし、聖誕物語を書いたのはマタイとルカだけではない。ヨハネも書いた。マタイは救い主イエス・キリストの系図をイスラエルの先祖アブラハムに遡らせ、ルカはそれを全人類の祖先アダムにまで遡らせて、「神に至る」(ルカ3;33)と書いた。しかし、ヨハネは人々が聖誕した赤子を、聖霊によって生まれたメシアであると信じていても、上から覗き込んでばかり見ていては、救いの神秘の本質を見誤るおそれがあると感じたのだろうか、神からの目線で御子の誕生をこう喝破した。
 「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。…万物は言によって成った。…言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子の栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」(ヨハネ1;1-14)と。
 マタイとルカの聖誕物語は生まれた子の母親がマリア様であることを教えるが、ヨハネの福音書はその父が神であることを啓示する。3福音書が補い合うからこそ、ご聖誕は全貌がわかる。

 さてさて、やはり長くなってしまった。ああ、楽しかったと思っているのは私だけだろう。それでよし、それでよし、だ。81歳の元旦、耳はかなり遠くなったが、まだボケ切ってはいない証拠だと自信が持てたからだ。これでよい。
プロフィール

余生風

Author:余生風
「聖書温故知新」
「思いつくまま、気の向くまま」
折にふれ「水彩画」も紹介してまいります。

「手を貸す運動」創始者
社会福祉法人「地の星」理事
元玉川大学教授

佐藤正明(余生風)ホームページ
「絵画と心」

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