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落差三点

 降誕祭に感じた三つの落差。
 その一。西方教会では12月25日にイエス・キリスト様の誕生を祝う。2千年来、世界中で、これほど多くの人々から誕生を祝われる人がいるだろうか?しかし、お生まれになった時は違った。ごく少数の人々以外は、そんな赤子が生まれたことにすら気づかなかった。何という落差だろうか!

 その二。降誕祭の夜半と早朝のミサはルカの福音書の聖誕物語、日中のミサはヨハネ福音書1章1-18だった。この福音書は「初めに言があった」の一句で始まる。天地創造のとき、神が発した最初の言葉は「光あれ」だった。この福音書は神のその言(ことば)によって天地万物が創造され、その言が人となったことを明かす。片やルカの福音書は、その方が飼い葉桶の中に寝かされた赤子だったことを伝える。天地を創造した神の言が飼い葉桶の中にあって、人々がそれを上から覗き込んでいたとは、何という落差だろうか!

 その三。2千年前、飼い葉桶に寝かされていた赤子の傍にあったのは、よくて灯心の明かりか焚火ぐらいで、周囲は真っ暗闇だっただろうに、現代の町の夜は電光がこうこうと輝き、クリスマスの意味そっちのけのイルミネーションが、昨日まではきらびやかに点滅していた。何という落差だろうか!
 しかし、暗がりにあった飼い葉桶の赤子は「人間を照らす光であった。」そして、その光は今も「暗闇の中で輝いている。」(ヨハネ1;4-5)
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雄弁な沈黙

 降誕祭についてはもう何回も書いたから、今年は降誕節最初の主日となる聖家族の祝日の聖書を取り上げて見ようと思う。第一朗読のシラ3;2-14には父母に対する子供の敬愛の務めが書いてあり、第二朗読のコロサイ3;12-21には夫婦と子供のあり方が諭されている。家族のありかたを考えさせる個所だ。では福音はどうかと言うと、マタイ2;13-23は、ヨゼフが幼子イエスと聖母を連れてベトレヘムからエジプトに避難し、やがて戻ってナザレトに住む出来事を伝えている。

 それによれば、イエス・キリスト様が誕生したとき、東方から占星術学者たちが来て幼子を拝んだ。しかし、彼等は「ヘロデのところへ帰るな」と夢で告げられ、来た時とは違う道で国に帰った。その後、「主の天使は夢でヨセフに現れて言った。『起きて、子供とその母を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている。』ヨゼフは起きて、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトへ去り、ヘロデが死ぬまでそこにいた」とマタイは伝える。
 占星術学者たちにだまされたと知ったヘロデ王は激怒し、ベトレヘムにいた二歳以下の男児を皆殺しにした。だが、マタイは続ける。「ヘロデが死ぬと、主の天使がエジプトにいるヨセフ現れて、言った。『起きて、子供とその母を連れ、イスラエルの地に行きなさい。この子の命をねらっていた者どもは、死んでしまった。』そこでヨセフは起きて、幼子とその母を連れて、イスラエルの地へ帰って来た。しかし、アルケラオが父ヘロデの跡を継いでユダヤを支配していると聞き、そこに行くことを恐れた。ところが、夢でお告げがあったので、ガリラヤ地方に引きこもり、ナザレという町に行って住んだ」と。

 これを読むと、いくつか疑問が湧くと思う。まず気になったのは「夢」のことだ。占星術の学者たちにもヨセフにも、神様からの知らせはすべて夢の中でもたらされた。夢はここで重要な役割を演じている。私たち現代人にとっても夢は大事なものだが、それには「睡眠中の夢」と「将来に抱く希望」という二つの意味がある。では、聖書の人たちにとっては、夢とは何だったのだろうか?なぜ神意は夢を通さなければならなかったのだろうか?そういう疑問だ。そこで調べてみた。
 聖書には「夢」(はローン)と「幻」(はゾーン)がある。二つは似ている所もあるが同じではない。それは私たちの「眠って見る夢」と「目覚めて見る希望という夢」にある程度対応する。しかし、彼らの「眠って見る夢」は私たちの夢よりも宗教的であり、それが夢判断や夢でのお告げなどで実生活に影響する。他方、幻は目覚めていて意識的に描く私たちの夢とは違い、見る人が意識して見るよりも、むしろ見させられてしまう場合が多く、夢と現実が混じて、「夢うつつで見る」特徴がある。
 旧約聖書では、眠って見る夢の例にはヤコブの夢(創世記28;10-22)やヨセフの夢(同37;1-11)などが有名であり、幻の例にはイザヤが見た主の御座(イザヤ7;1-5)やエゼキエルの見た翼を広げたケルビム(エゼキエル11;22-24)等がある。新約聖書でも、聖誕物語におけるヨセフの夢や主イエス様の裁判の時にピラトの妻が見た夢(マタイ27;19)の例があり、幻ではペトロが見た天からの籠(使徒言行録10;9-17)や、パウロが見たマケドニア人の幻(同16;9-10)等がある。
 現代人は、夢は夢、現実は現実と割り切り、通常は睡眠中に見た夢を信じて行動に移すようなことはしない。そんなことをすれば笑いものになる。ところが、聖書の人々は違った。単なる夢もあるが、神意が告げられる夢があると信じていたからだ。すべてが良い夢とは限らず、虚偽や悪に利用する夢(ゼカリア10;2)もあったが、聖書の中の夢は多くの場合、神がご意思を人に知らせるための伝達手段の一つだと受け止められていた。
 サムエル記上28;6には、「主は(サウル王に)夢によっても、ウリム(託宣)によっても、預言者によってもお答えにならなかった」とあるが、これは神意伝達の3手段に言及していて興味深い。ヘブライ人への手紙1;1に「神は、かつて預言者たちによって、おおくのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られた」とある通り、神意は預言者や天使を介しての託宣、預言、奇跡、そして自然現象、個人への霊感などで伝達されたが、夢も確実にその有力な一手段だったのだ。聖誕物語では夢に天使が現れて神意を伝えているから、二つの伝達手段が複合しているケースだと言えよう。

 ここまでは、聖書の人々が夢をどう受け止めていたか、夢のどんな例があったか等の検証だった。しかし、肝心なのはなぜマタイが夢による伝達方法を選んだかだ。それは私たちがその描写をどう解釈するかによる。では、それはどう解釈できるのだろうか?現代の私たちからすれば、夢で見たことはまともに受け止めることではない。しかし、古代の人々はそうは考えなかった。神意は夢を通しても知らされる。それは人が普通に考えるよりも信じるに足ることだった。だから、そういうメンタリティの人々には、神意が夢で告げられる聖書の表現スタイルは、そこから出る託宣や勧告を人々に信用させ、有難味をもって受け入れさせる効果があったと、私は考える。
 そうだとすれば、例えばヨセフのように夢で神意を告げられた人は、実際に眠っていたかも知れないが、必ずしも本当に眠っていた必要はなかったのだ。つまり、「夢の中で」という言い方は、現実に必要な勧告や命令等を、あたかも夢で語られたことのようにして伝えたのだ、と解釈できるということだ。私たち日本人にも類似の表現はある。例えば、「風の便りに」という言い方だ。実際は風が便りをするわけはなく、人の噂や間接的な情報で知ったことなのに、「風」によってもたらされたかのように言う。マタイは「風」の代わりに「夢と天使」で表現したのだと思えば納得がいく。
 この解釈でいいとすれば、マタイの福音書でも天使は聖母マリアへのお告げの時のように、ヨセフにも夢の中でではなく目覚めている時に、告げるべきことを告げてもよかったわけだ。あるいは、天使を介するのではなく、ヨセフが「霊感によって」直接神意を悟ったと表現してもよかっただろう。それにもかかわらず、マタイが「夢の中で天使から神意を伝えられる」という表現を選んだのは、それ相当のわけがあったからだ。一つには彼に旧約聖書の影響が強く残っていたからだろう。二つには彼の福音書が、夢による神意伝達に違和感のなかったユダヤ人向けだったからだろう。そして、三つ目の理由は何と言っても、そういう書き方をした方がユダヤ人たちにその事柄を神のお告げとして、より効果的に、かつ畏敬の念を持って受け止めてもらえると期待できたからだと思う。
 大事なのは聖誕物語における数回のお告げが、確実に神からのものだということをユダヤ人読者に信じてもらえることだった。そのためにマタイは、最も効果的と考えた「夢での神意伝達」形式を選んだ。ヨセフと占星術学者に対する神からの語りかけが、すべて「夢」を通して行われていることがその証明だ。もし預言者でもない一介の庶民だったヨセフが、「神意を霊感で知った」と言ったり、占星学者が「神の託宣を受けた」と主張したりしても、ユダヤ人たちはその話を眉唾だとして疑っただろうが、「夢で天使が告げた」となれば信じただろうからだ。私はそう解釈する。

 さて疑問の二つ目は一つ目に比べて他愛ないものだが、ヘロデ王についてだ。もうある程度知っている歴史的人物だから再確認だが、イエス様の御受難の時にも登場するヘロデと聖誕の時に出てくるヘロデ、そして後程出てくるアルケラオはどんな関係にあったのだろうか?答えは文献を調べればすぐわかるが、聖誕物語に出てくるのは大王と言われたヘロデ一世(BC73-4)だ。これに対し、イエス様の御受難の時に出てくるヘロデは、ヘロデ大王の末子に当たるヘロデ・アンティパス(BC22-AD39)のことで、正確に言えば彼は王ではなく、ガリラヤとペレアの領主だった。そして、アルケラオはヘロデ・アンティパスの実兄だった。 
 ところで、今日の歴史学者は主のご降誕が少なくとも西暦4年以前だったはずだと言う。そして、その一根拠になっているのがマタイ福音書のこの聖誕物語だ。6世紀にアルメニアの修道士ディオニソス・リトルが教皇命で西暦を作成したとき、イエス様の降誕を基準として西暦元年とした。しかし、ヘロデ大王は紀元前4年に死亡しているから、もし主の聖誕が西暦元年だったのなら、死後4年も経つヘロデ大王が占星術学者に会ったり、ベトレヘムの嬰児虐殺をしたりしたことになってしまう。それはあり得ない。おかしい。そこで、イエス・キリスト様が生まれたのは、実際は少なくともキリスト紀元前4年以前だっただろうと、妙な年代特定に落ち着いたのだ。

 三つ目の疑問は聖家族のエジプト逃避行についてだ。それが事実だったとしたら、避難先はエジプトのどの辺だったのだろうか?身寄りもなく言葉も知らないエジプトへ行って、はたしてどう暮らせたのだろうか?思うに、エジプトと言っても、避難先は非常に遠い内陸ではなく、シナイ半島北西部やナイルデルタ等、イスラエルに比較的近い地方だったのではあるまいか。なぜなら聖家族は歩いて逃げるしかなく、そんなに遠くまではとても行けなかったと思われるからだ。
 しかし、たとえ比較的近い地方だったとしても、その旅路は困難を極めたに違いない。マタイによれば、ヨゼフは夜のうちに幼子とその母を連れてユダヤを出たとある。ヘロデが幼子を殺そうとしていると知らされるや否や、彼はすぐさま天使の勧告を実行に移した。もともとガリラヤから来ていたのだから、持ち物は少なかっただろうが、とにかく取るも物もとりあえず出発したのだ。そのような決断と行動はなかなかできることではない。私はそこに感銘を受ける。
 赤子とは言え、それを抱いて何十キロ、いやそれ以上を徒歩で行くのは、旅そのものがどれほど難儀だったことだろうか。それに、食べ物や飲み物の調達、夜寝る場所探し等の苦労もあっただろうし、強盗の心配もあっただろう。飲食しなければ母乳は出ない。雨風や昼夜の温度差への油断も禁物だっただろう。宿がなければ赤子の健康が危ぶまれる。それを気遣いながらのエジプト行きは、実に過酷な逃避行だったろうということがわかる。
 しかし、彼らは何とかエジプトの地にたどりつけた。そして、落ち着き先では何とか生きて行けたのだと推察できる。ナイルデルタにあるゴーセンの地は、その昔祖先のヤコブ一族が移住した地方だったし、アレキサンドリアは紀元前3世紀に旧約聖書70人訳ができた都市だ。それはその地が昔からイスラエルの民と縁があり、多くのユダヤ人がそこにいたという証拠だ。彼等には互助の心があったから、聖家族は同胞のおかげで、何とか生き延びられたのだと想像できる。
 その避難生活が史実だったとしたら、聖家族はその地で何年か過ごした後、ヘロデ大王の死を知ったのだろう。これも天使が夢に現れて知らせているが、私はおそらくユダヤから来た誰かが情報をもたらしたのだろうと思う。しかし、マタイはそこに神の摂理が働いていたことを明示するために、単なる誰かの情報によるのでも、風の便りによるのでもなく、ここでもその知らせが夢に現れた天使を通して知らされるという表現で、その叙述に信用度の箔をつけた。
 天使は、「起きて、子供とその母を連れ、イスラエルの地に行きなさい」と言ったが、イスラエルの地とはユダヤのベトレヘムを指していたのだろう。しかし、聖家族はそこへ入る前に、アルケラオが父ヘロデの跡を継いでユダヤを支配していることを知った。そこで、その地が危険だと察したヨセフとマリアは、かつて住んでいたガリラヤのナザレトに戻る方を選んだ。たぶん地中海沿いの道を通ったて行ったのだろう。ここでも行く先変更は「夢でお告げがあった」からとしてある。 
 実際二人の判断は正しかった。アルケラオは父ヘロデ大王の死後、紀元前4年から紀元6年まで9年間ユダヤの領主だったから、聖家族がエジプトから帰ったのはその間だったことになるが、父に似て彼も横暴残虐だったからだ。彼がユダヤ人たちの激しい反感を買い、評判最悪なのを見て、ローマ皇帝アウグストゥスは彼の追放に踏み切った。こうしてユダヤはこれより後はローマ総督の管轄下に置かれ、ナザレトの町はイエス様が青少年期の日々を過ごす地となったのだった。 

 四つ目の疑問はマタイによる聖誕物語が史実かどうかの問題だ。その信憑性を疑問視する聖書学者は少なくない。私も、彼が旧約を引用して、エジプトからの帰国を「わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した」(ホセア11;1)という預言の実現、ヘロデによるベトレヘムの嬰児皆殺しを「ラマで声がした。…」(エレミア31;15)の預言の実現だとした見解などはこじつけだと言っていいと思う。しかし、この物語全ての史実を否定するのは間違いだと断言できる。史実だと言える部分と、それが疑わしい部分もある。そう見るのが当を得た見方だろう。
 主の聖誕を語る福音書はマタイとルカだけだが、2書には一致する部分と、一致しない部分、片方にあって他方にない部分がある。片方にあって他方にない部分は、例えば聖母への天使のお告げ、エジプトへの避難等だが、これらは問題ないと思う。どの福音書もすべてを網羅して書いたわけではないからだ。一方は取り上げても、他方が取り上げなかったことはある。その場合、他方にないからと言って、それは一方に書かれたことを事実ではないとする理由にはならない。事実であっても、他方が取り上げなかっただけの話だと言えるからだ。
 しかし、一方の書いたことと他方の書いたことが矛盾する場合は問題で、両方かあるいはどちらかが間違いっている証拠だ。また、一方にだけ書いてあることでも、常識的に見てあり得ない事柄なら、史実を疑われてもやむを得ない。ところで、マタイの聖誕物語にはそういう事柄がある。占星術学者たちの訪問、ヘロデ王の宮殿での一騒動、ベトレヘムでの2歳以下男児の皆殺し等だ。ルカの聖誕物語とかみ合わないからだ。
 しかし、ではルカの方はすべてが史実の要件を満たしているかと言うと、そうとも言えない。おそらく聖誕物語には二つの伝承があって、2書はそのそれぞれを受け継いだのだと思う。いずれにせよ、究極の出所は聖母だったはずだ。初代教会時代にはヨセフがもう世にいなかったとすれば、聖誕のいきさつを知っていたのはマリア様しかいなかったからだ。伝承される間に尾ひれもついただろうが、聖誕時の出来事の根幹については、私は史実を否定する理由がないと思っている。 
 その根拠はこうだ。史実に懐疑的な人たちは、占星術学者たちの訪問やエジプトへの逃避行など、証明する他の文献がないから史実は疑わしいと言う。しかし、イエス様の誕生は後世になってこそ有名になったが、誕生当時は誰も知らなかったし知る必要もなかった。一庶民に過ぎなかったからだ。王家の記録等とは違い、一庶民のことを記録する歴史文献などあるわけがない。では、記録がなければ存在しなかったと言えるかと言えば、それは違う。もしそういう論法が通るなら、記録のない庶民は皆いなかったことになる。
 だから、聖誕の出来事が福音書以外に記録されていなくても、それは史実性を否定する根拠にはならないと私は考えるのだ。他の記録がないので、それを史実だとは証明できないが、そうかと言って史実を否定することもできないわけだ。ただ、マタイの福音書も記録であることを忘れてはいけない。類書がないヨセフスのユダヤ戦記に歴史性を認めて、マタイの福音書にそれを認めないなら妥当性を欠くことになろう。むしろマタイの福音書にもそれ相応の歴史的信憑性があると見るべきだろう。だとすれば、東方からの訪問者や聖家族のエジプトへの避難は、フィクションの要素はあるとしても、ルカにないからと言って、一概にその史実を否定することはできないと思う。
 それよりも、私はルカ福音書との合致点の方を知ると、むしろそれに感銘を受け、聖誕の出来事の歴史性をより強く確信するのだ。両書を読み比べると、根幹は共通する。聖母がヨセフと婚約していたこと、二人がダビデの子孫だったこと、聖母が結婚前に聖霊によってイエス様を懐胎されたこと、聖誕がベトレヘムだったこと、貧しい生まれ方をしたのに不思議なことが起こったこと、聖家族がナザレトに帰って生活したこと、それらがユダヤの王ヘロデ一世とローマ皇帝アウグストゥスの治下で起こったこと等だ。これは主の御降誕が史実であったことをはっきりと証明している。 

 降誕節なのに、今回はここまで慰めにも喜びにもならないことを、ずいぶん理屈っぽく書いてしまった。しかし、最後は心の励みとなることを指摘して終わりたい。
 マタイの福音書はヨセフについて多く語るが、読んで気付いたことがある。彼が口にした言葉が皆無なのだ。それはルカでも同じで、天使も、聖母も、エリザベトも、ザカリアも、東方からの占星学者も、ヘロデやその家臣も、そして羊飼いたちまでも、それぞれ何らかの言葉を口にし、それが書き残されている。ところが、聖ヨセフの言葉は何一つない。彼も話したに違いないのだが、聖書の中の彼は完全に沈黙の人だ。
 しかし、彼には行動があった。そして、行動は言葉よりも雄弁に彼の思い、人柄、決断力、勇気、家族への愛、神を畏れ敬う心を語っている。英語に “Actions speak louder than words.” という表現があるが、彼はまさにそれだった。彼は沈黙のうちに行動した。聖母とイエス様のために。それは雄弁な沈黙だった。だから聖母と御子はヨセフ様を深く敬愛した。それが聖家族だった。それは私たちの手本になる。

インマヌエル

 いよいよ降誕祭直前の待降節第4主日となった。第一朗読はイザヤ7;10-14、第二朗読はローマ1;1-7、福音はマタイ1;18-24だ。ローマ書と福音は救い主イエス・キリスト様の生まれについて語り、イザヤ書はその予言とされた言葉を伝えている。それは救い主が来られる、あるいは再び来られるという知らせではなく、すでに来られた救い主の出生がどのようなものであったかについての教えだ。
 聖パウロはローマ1;2-4にこう書いている。「この福音は、神が既に聖書の中で預言者を通して約束されたもので、御子に関するものです。御子は肉親によればダビデの子孫から生まれ、聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子と定められたのです。この方が、わたしたちの主イエス・キリストです。」この言明は非常に興味深い。おそらくこれは初代教会の共通認識を代弁していると言っていいだろう。

 イザヤ書7;10-14は、聖パウロの言う「神が既に聖書の中で預言者を通して約束された」預言の一例として解釈されてきた。ところで、その14節には「見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ」と書いてある。マタイ1;23はそれを引用して、その預言がマリアから生まれる子イエスに当てはまることを述べ、その子こそ約束の救い主であるということの一つの証しにした。少なくとも初代教会はそう理解していたようだ。
 しかし現代の聖書学では、イザヤのこの言葉をそのように解釈することには異論もある。「おとめが身ごもって、男の子を産む」という言葉は聖母マリアだけでなく、一般論的に言えば他の乙女にも当てはまるからだ。それにイザヤのその「預言」の文脈が、紀元前8世紀、アラムと近隣諸国の同盟に脅威を感じて動揺したユダヤ王アハズに、預言者イザヤが不満をぶつけて言った神の託宣の一部分である以上、当時の国難への答えとして解釈される方が妥当だとも考えられるからだ。
 実際、イザヤ7;16は「その子が災いを退け、幸いを選ぶことを知る前に、あなたの恐れる二人の王の領土は必ず捨てられる」と書いている。アラムとイスラエル王国がアッシリア帝国に滅ぼされる予言だ。これを読むと、「おとめが身ごもって、男の子を産み」はその当時のこととして解釈する方が自然であり、私も750年後の聖母に当てはめるのは無理があるように思う。しかし、文脈から切り離してその言葉だけを見るならば、それはまさに聖母とイエス様に当てはまるということも事実だ。

 もしかしたら、アラマイ語マタイ福音書は違った書き方をしていたのではないかなどとは思うが、消失してしまったものは想像するしかない。それがどうであれ、ギリシャ語マタイ福音書は旧約聖書の言葉をよく引用して、イエス・キリスト様が約束の救い主であることを証明しようとする特徴がある。ユダヤ教からの改宗者が多かった以上、それは初代教会では必要な手法だったのだと思う。その点では聖パウロも共通認識をもっていた。それはローマ書1;2-4を読めばわかる。しかし、マタイの旧約による理由づけはこじつけの傾向があることも否めない。
 例えば、彼は聖家族がヘロデの死後エジプトから帰国したことを、「わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した」(マタイ2;15)と、それをホセア11;1にある預言の成就として解釈した。しかし、これは牽強付会だ。ホセア11;1は過去にあったイスラエル民族の出エジプトを語ったものだからだ。マタイ1;23にある「見よ、おとめが身ごもって…」というイザヤの言葉の引用も、ある意味ではこじつけ気味だと言えなくはない。
 しかし、それにもかかわらず、私は彼が膨大な旧約聖書の中から、そういう個所を見つけ出して引用したことに感服する。いや、感服するだけではない。旧約の預言の成就として引用されたそれらの言葉を読むと、むしろそれらが救い主イエス・キリスト様にこそふさわしく、やはり主のためにこそ言われたのだと納得し、不思議な魅力を感じてしまうのだ。特にインマヌエルの言葉はイエス様の出現によってこそ意味を持つことがわかる。なぜならその預言は、旧約ではまったく実現しなかったからだ。
 マタイはインマヌエルを「この名は、『神はわれわれと共におられる』という意味である」と注釈している。ギリシャ語マタイの読者はヘブライ語がわからないと想定したからだろう。この名はヘブライ語の3字、即ち「イム+ヌー+エル」から成り立っている。イムは「~と、~と共に」の意味、ヌーは「我々」の意味、エルは「神」の意味だ。イムはヌーとつながる時、文法的にインマと音韻変化をする。だから「インマヌー」で「我々と共に」の意味になる。それにエルが付くと、インマヌーエル(神、我らと共にいます)の意味になるわけだ。

 この名はヨセフの夢に現れた天使の言葉の中に出てくる。それでわかるように、マタイはイエス様の誕生の次第を、どちらかと言えばヨセフの立場から書いた。1章1-17節までの「イエス・キリストの系図」もイエス様とは血のつながらないヨセフの血統だ。では、聖パウロが「御子は肉親によればダビデの子孫から生まれ」と書いたのは間違いだったのかというと、そんなことはない。聖母マリアもダビデの子孫だったからだ。しかし、マタイは男社会だったユダヤ人向けに福音書を書いたから、父方の系譜を重視したのだろう。
 ルカの福音書と違って、マタイでは主の聖誕前後の記述でも、聖母よりヨセフの出番の方が多い。1,2章でマリアという名は6回出てくるが、天使の言葉中に説明の必要から言及されたりする場合が多く、2章などでは「子供とその母親」で済まされている。マリア様の様子や行動は背景的にしか叙述されていない。それに比べ、ヨセフの名は8回使われる上に、天使を通して神様の御意志を受け取ったり、重大な行動や決断をしたりする主役として登場している。
悩むヨセフ
   悩むヨセフ

 しかし、その彼は婚約者マリアの懐妊を知って大いに悩んだ。彼女は従妹エリザベトの出産の手伝いに3、4か月行っていたから、気付いたのはおそらくその後だったのだろう。彼女の清純さを思えば疑うに疑えず、微妙なことなので聞くにも聞けず、人に相談もできず、彼は一人どんなに悶々としたことだろうか。当時のユダヤでは婚約は結婚と同じ効力があったから、自分の子だと言えば世間には通っただろうが、それでは事実に反した。彼は正しい人だったから、嘘と疑いの潜む結婚生活に入るのは耐え難かっただろう。
 そこで彼は婚約解消を考えた。「今のうちにそっと縁を切れば、彼女は何とか助かるだろう。しかし、もし私が自分の子ではないと事を表ざたにすれば、彼女はきっと恐るべき運命に直面させられる。しかし、彼女をそんな目には遭わせたくない、絶対に」と心の中で思い巡らしたのではなかろうか。彼がそんなふうに悩んだのは申命記22;22-29に、彼女の場合に該当する次のようなモーセの律法があったからだと思う。要約して列挙するとこうだ。
①婚約した女性が町中で助けを求めず、別の男に身を許した場合は、両者とも死罪。
②婚約した女性が野で男に力ずくで犯された場合は、野では叫んでも助けがないから男だけ死罪、女性は無罪。
③男が未婚の処女を犯した場合、女性には罰なし。男は父親に銀50シェケルを払って彼女を妻にする義務があり、離縁は生涯不可。
 そこでヨセフは自分が婚約を解消すれば、マリアは自由な身の乙女となるから③に該当し、男のことはさておき、彼女は罰せられないだろうと踏んだのではなかろうか。しかし、もしも運悪く誰かが彼らの婚約を覚えていて、彼女を①に該当する不倫で訴えたら、ヨセフは②のケースを盾に彼女を守る腹つもりだっただろう。その場合、彼女がエリザベトの住むユダの山地に行ったことはその主張に好都合だったはずだ。いずれにせよ、彼は心ならずもだが縁を切って、その問題を解決しようとした。

 ところが神様は、悩むヨセフの夢に天使を遣わして伝えさせたのだった。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。『見よ、乙女が身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。その名は『神は我々共におられる』という意味である」と。
 「マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである」と言うくだりは、聖パウロが「聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子と定められたのです。この方が、わたしたちの主イエス・キリストです」と書いた言葉と一致する。イエスとはヘブライ語ではイエシュアと発音されるが、それは「ホーシーヤ」(救う)という動詞から作られた名詞イエシュア(救い、助け)と同音だ。まさに「自分の民を罪から救う」ために生まれて来る子にふさわしい名だった。
 「このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった」という言葉も、聖パウロがローマ書の冒頭に書いた「この福音は、神が既に聖書の中で預言者を通して約束されたもので、御子に関するものです」という文言と共鳴する。そして、その子について天使が告げたもう一つの名「インマヌエル」は、イザヤの預言を通して言われたのだが、その時まで誰にもつけられたことがない名だった。それが実現したのだった。

 ヨセフは神様の不思議なご計画を理解した。そして天使を通して言われたことを受け入れ、身重になっていた婚約者マリアを妻として迎えた。こうして、生まれた子に「救い」の意味を持つイエスという名を付けた。救い主が降誕したのだ。他方、この子のもう一つの名インマヌエル、「神は我々と共におられる」には「我々」が含まれる。このコラムではそれに注目したい。その時の「我々」は聖家族だけであった。しばらくして、東方からの訪問者やベトレヘムの近辺の羊飼いたちが加わったが、それでも「我々」はまだごく小人数に限られていた。
 神の子だったのに、イエス様は福音宣教の時が来るまではナザレトでひっそり過ごされていたから、「我々」は相変わらずまだ極く小数でしかなかった。しかし、主は「死ねば多くの実を結ぶ一粒の種」(ヨハネ12;24)であった。その死と復活によって救いを成就されたので、今やその「我々」は全世界の十数億人に増えた。インマヌエルとは神が我々と共におられること。そこにご降誕の神秘がある。そして、その名は我々のことでもあるのだ。素晴らしいことではないか!この主日は、自分もその「我々」の一人にしていただいている恵みを再認識し、感謝の日としたい。

来るべき方の証し

 第二バチカン公会議後に典礼の聖書が3年周期に改変される前、待降節第3主日は「喜びの主日」と呼ばれていた。必ずフィリッピの信徒への手紙4;4-7が朗読され、それには「兄弟たちよ、主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。…主はすぐ近くにおられます」(Gaudete in Domino semper : iterum dico, gaudete. …Dominus prope est.)と書かれていたからだ。この手紙は現典礼ではC年に読まれ、A年の今年は読まれない。しかし待降節第3主日の雰囲気が「喜び」であることには今も変わりがない。

 それを前面に出しているのが第一朗読のイザヤ35;1-10だろう。それは高らかにこう告げる。
「荒れ野よ、荒れ地よ、喜び踊れ。砂漠よ、喜び、花を咲かせよ。野ばらの花を一面に咲かせよ。花を咲かせ、大いに喜んで、声をあげよ。砂漠はレバノンの栄光を与えられ、カルメルとシャロンの輝きに飾られる。人々は主の栄光と我らの神の輝きを見る。
 弱った手に力をこめ、よろめく膝を強くせよ。心おののく人々に言え。『雄々しくあれ。恐れるな。見よ、あなたたちの神を。敵を打ち、悪に報いる神が来られる。神は来て、あなたたちを救われる。』そのとき、見えない人の目は開き、聞こえない人の耳が開く。そのとき、歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う。…主に贖われた人々は帰ってくる。とこしえの喜びを先頭に立てて、喜びつつシオンに帰り着く。」
 これを読むと、イザヤはやはり卓越した表現力のある詩人的大預言者だったとつくづく感服する。ところで、彼がこの箇所に書いたメッセージは「喜び踊れ。喜び歌え」だ。はち切れんばかりの喜びがそこにはある。では、そのわけは何かというと、「神は来て、あなたたちを救われる」からだ。そして、それは見えない人が見え、聞こえない人が聞こえ、歩けない人が歩けるようになり、解放された人々が帰ってくるという嬉しくも喜ばしい結果を生む。
 「敵を打ち、悪に報いる神が来られる」とか、「主に贖われた人々は帰ってくる。とこしえの喜びを先頭に立てて、喜びつつシオンに帰り着く」等のくだりを読めば、この預言が直接的には紀元前8-7世紀頃、次々と襲ってきた周辺の大国に戦々恐々とし、圧迫されて意気阻喪していたイスラエル民族を、神への信仰によって鼓舞するためだったことがわかる。しかし、旧約の神の民も教会もこの預言を、来るべきメシアの時代に重なる予告でもあると理解してきた。特に教会は、イエス様ご自身がこの個所を引用して、洗礼者ヨハネの弟子たちに答えられたからそう解釈した。

 待降節第3主日の福音マタイ11;2-11は、まさにその時のことを伝える。その時、洗礼者ヨハネは獄中にあったが、イエス様のもとへ弟子たちを送って、「来るべき方はあなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」と尋ねさせた。彼はヘロデ・アンティパスが兄弟ヘロデ・フィリッポの妻を娶ったことを不道徳として非難したがために投獄され、後にそこで斬首された(マタイ14;1-12)。しかし、存命中は獄中にいても弟子たちとの接触が許されていたのだろう。だから弟子たちを呼んで、イエス様のところへ行かせることができたのだと思われる。
 では、なぜ彼はそんなことを尋ねさせたのだろうか?それは彼の弟子たちがイエス様の弟子たちに対抗心を抱き、主に対しては疑念を持ち続けていから、それを払拭させるためだったと思う。百聞は一見にしかず。彼は弟子たちを直接イエス様に会わせて、主が告げていた福音を自分の耳で聞き、行われている出来事や奇跡を自分自身の目で確かめ、その体験によって納得するよう仕向けたのだと思う。それは主に対する先駆者としての彼の最後の奉仕だった。
 洗礼者ヨハネはナザレトのイエス様が「来るべき方」メシアであることを確信していた。すでにユダヤ人たちから聞かれた時(ヨハネ1;19-28)も、主の洗礼の時(マタイ3;13-17)も、「見よ、世の罪を除く神の小羊を」(ヨハネ1;29-35)と言った時も、彼は自分がメシアではなく、後から来る人がそれで、自分はその履物の紐を解く値打もないと明言していた。自分が何者かをよく心得、使命に徹していたのだ。しかし、弟子たちはそうは思いたくなかったようで、不満が鬱積していたのだろう。
 ヨハネ3;22-36はその辺の事情を伝えている。洗礼者ヨハネがまだ投獄されていなかった時、弟子たちは彼に「あなたが証しされた人が、洗礼を授けています。みんながあの人の方へ行っています」と告げに来た。すると彼は自分がメシアではなく、あの方こそそれだと答え、「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない」とさえ言い切った。だが、弟子たちは自分たちの師がなぜそうも譲歩してイエス様を立てるのかと、むしろ口惜しく思っていたようだ。妬みもあったのだろう。
 ヨハネ4章には次の叙述がある。「さて、イエスがヨハネより多くの弟子をつくり、洗礼を授けているということが、ファリサイ派の人々の耳に入った。イエスはそれを知ると、―洗礼を授けていたのは、イエス御自身ではなく、弟子たちである ― ユダヤを去り、再びガリラヤへ行かれた。」この記事からは、主が洗礼者ヨハネの弟子たちの気持ちを察しておられたことがわかる。だから、洗礼の競合で双方の弟子間に摩擦が起きないよう、早々とガリラヤに移られたのだと推察できる。
 洗礼者ヨハネが捕えられたのはその少し後だった。もはや彼は活動できなかった。他方イエス様の名声は日々高まる一方だった。そんな状況下では、ヨハネ教団の人々の心境は複雑だっただろう。師を失う不安、自分たちの集団が衰退していく無念、イエス様の弟子たちへの嫉妬などが入り混じった雰囲気で、それがネガティブに働いたら、主への反感や嫌悪感に変質しかねなかった。洗礼者ヨハネはそれを一番心配したに違いない。だから弟子たちを主のもとへ遣わしたのだ。

 イエス様は彼らに答えて言われた。「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、らい病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである」と。
 待降節第3主日の福音では、このお答が私たちとっても最も重要なメッセージになっている。それはまさにイザヤ預言者の言葉を引用したお答えだった。形の上では「ヨハネに伝えなさい」と、洗礼者ヨハネへの返事になっているが、彼はすでにイエス様がメシアであると信じていたから、もうその知らせを必要としていなかった。イエス様と彼は以心伝心でわかっていたから阿吽の呼吸で、彼への返事と言う形を取りながら、実はまず彼の弟子たちに主の答えを聞かせたのだ。
 しかし、主は彼らだけに聞かせるつもりで答えられたのだろか?違うと理解すべきだろう。その場には主の弟子たちや群衆もいた。彼らもイエス様が本当に来るべき人かどうか、もう一度はっきり知る必要があった。だから、主はそこにいた人々すべてにも聞かせるつもりで話されたのだと思う。従って、その答えはそこにいた一人ひとりにも信じる根拠を考える機会となった。そして、それは現代の私たちにも向けられたメッセージなのだ。

 では、それはどんな内容のメッセージだったのだろうか?そのお答えには「喜び」という語彙はない。だが、それが喜びに充満していることは話の中身でわかる。イザヤは未来のことを語ったので、「喜べ」と鼓舞する必要があった。しかし、イエス様にはその必要がなかった。洗礼者ヨハネの弟子たちは、大群衆が聞き入る主の説教をその耳で聞き、盲人や聾唖者や病人が癒される奇跡を目の当たりにすることができただろう。心を熱くする福音を聞いて喜ばない人はいない。病気を治癒されて歓喜しない人もいない。大いに喜ぶ人々がいるという事実そのものが、何よりも雄弁に喜びを証言していた。
 だから、そのメッセージには「喜べ」という呼びかけが込められていた。なぜ喜ぶのか?「神は来られる」からではなく、「近くにおられる」からだった。それはもうすぐ近くに来ている意味にもなるが、この時は「救いの神はもう来られた。今あなた方のそば、あなたがたの中にいる」の意味だったと言えよう。神様の救いの御業は成就しつつある。だから洗礼者ヨハネに、喜びなさい、大いに喜びなさいと伝えるようにという意味が、彼の弟子たちへの返事にはこめられていたのだ。
 そのメッセージには証しとなるしるしを見たら信じなさい、という勧めも込められていた。イスラエル人たちは当時の異邦人たちや現代の私たちとは違い、イザヤの預言をよく知っていて、それを実現する人こそ来るべき方メシアだと信じていた。では、その証しとは何かというと、「見えない人の目は開き、聞こえない人の耳が開く。そのとき、歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う」ことだった。
 だから、イエス様はそれらがご自分によって着々と実現されていることを断言された。しかし、主の引用にはイザヤの預言にはなかった言及がある。「死者は生き返り」という証しだ。おそらくこれはイザヤも思い及ばなかったことなのだろう。だが、この奇跡は神の力の最も強力な証明だった。そして、主ご自身の死からの復活は、― 洗礼者ヨハネはそれを知らずに斬首されてしまったが - ナザレトのイエスこそ久しく待ち望まれた救い主、「来るべき方」であることの最高の証明だったのだ。

 そのメッセージには「わたしにつまずかない人は幸いである」という警告もこめられていた。「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい」とは、そう言えばわかるという意味だ。ましてやヨハネの弟子たちはその目と耳で見聞きしたのだから、その預言が現実になっていることを否みようがなかっただろう。否めばイスラエル民族特有の「頑なであること」の罪となっただろう。だから、何人の弟子がイエス様のところへ行ったのかはわからないが、彼らのほとんどは信じて帰ったのではないかと思う。
 彼等は師がなぜ自分たちを派遣したか、その意図を理解したに違いない。洗礼者ヨハネは主イエス様が来るべき方だと確信し、弟子たちも主に従うことを望んでいたのだ。だから、それを理解した彼らは自分たちも師に倣って、その死後はイエス様を信じて、主に従ったのではないかと想像する。しかし、師の願いに従わなかった弟子もいたようなふしがある。ヨハネ教団が師の死後も存続していたことがその証拠だ。
 使徒言行録19;1-7を読むと、そこに書いてある人々はヨハネの洗礼しか知らなかった。しかし、パウロが「ヨハネは、自分の後から来る方、つまりイエスを信じるようにと、民に告げて、悔い改めの洗礼を授けたのです」と話したら、主イエス様の名によって洗礼を受けた。すると、聖霊が降ったとある。これを読む限りでは、彼らは善意の人たちだった。しかし、それを遡ること25年ほど前、師洗礼者ヨハネの意向に従わず、イエス様を信じないで教団を維持した弟子たちは、「わたしにつまずかない人」にはなれなかったのだと思わざるを得ない。
 集団というものはいったん出来ると、組織防衛本能みたいなものが働いて、なかなか消滅したがらないものだ。ヨハネ教団も、師のように「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない」とは決断しかねたのだろう。だから、もしそれなりの勢力を維持しながら、依然として「来るべき方」を待つ悔い改めの洗礼を続けていたとしたら、それは「その方はすでに来られた」と福音宣教していた初代キリスト教会とは合い容れなかっただろう。従って、ある意味で一つの困った妨害になっていたのではなかろうか。
 マタイとルカが洗礼者ヨハネの弟子の訪問を書き残したわけは、そういう妨害に躓かないよう促すためだったと考えられる。洗礼者ヨハネについての記述、例えば、「神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。…彼は光ではなく、光について証しをするために来た」(ヨハネ1;6-8)のような福音書の記述には、全てそういう意図が潜んでいたと見てもよいのではなかろうか。その背後には、ヨハネ教団と初代キリスト教会との間に、おそらく何らかの確執や論争があったのだろうということがうかがえる。
 「彼は光ではなく、光について証しをするために来た」のような表現には、必ず洗礼者ヨハネを高く評価すると同時に、その使命と限界の指摘がある。それは、「彼はメシアではなかった。メシアはすでに来られた。主イエス・キリストがそれだ。救いは成就した。それなのに、来るべき方はまだ来ていないと説く待望は空しく間違いだ。それに惑わされてはいけない」と注意を促している証拠だと思う。福音史家が主のお答えの最後に、「わたしにつまずかない人は幸いである」という一句を据えたのは、それをわからせるために念を押したのだと解釈できる。

 上記のメッセージはもちろん現代の私たちも当てはまる。しかし、当惑する問題がある。洗礼者ヨハネの弟子たちや当時の人たちは、「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、らい病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返る」証しを見て、真実を確かめるチャンスがあった。しかし、現代の私たちにはないからだ。では、私たちはどんな証しによって、イエス・キリスト様が「来るべき方」であり、救いが成就したということを確認し、信じることができるのだろうか? 
 イエス様が例示された証しの中で一つだけ、今も見聞きし、確かめ得るものがある。「貧しい人は福音を告げ知らされている」という事実だ。「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、…耳の聞こえない人は聞こえ」等は、すべて身体的、一時的かつ限定的な証しだ。しかし、愛の福音が告げ知らされている事実は普遍的、継続的、精神的で、2000年も続いて来た。マザーテレサの証しはその一つだろう。私はこれ一つで十分だと思う。ただし、それは「来るべき方」の証しと言うより、むしろ「すでに来られた方」の証しであり、「再び来るべき方」の証しだと言うべきものではある。

一物三喜

ヒヨドリジョウゴ

 一石二鳥を一石三鳥と言い換えても人はすぐわかるだろうが、一物三喜と言ったら何のことやらわからないだろうと思う。ところが最近そういう経験をした。つまり、一つの物から三つの喜びを味わえたという意味だ。
 最初の喜びは見知らぬ-と言っても、私が知らなかっただけのことだが-ある草の実の発見だった。11月末日だったが、秋の風景を描いておこうと思い立って、近くの成瀬山公園に行った時だ。入り口の植え込みに、見慣れないが赤い草の実を見つけた。その葉を見た瞬間、あ、これは!と驚いた。葉の形から、その草がわが家の前の路傍にあったことを思い出したからだ。葉が似ているから、初めは朝顔かと思ったのだが、咲いた貧弱な花を見てそうではないとわかった。そして、何だろうな?とは思ったが、そのうちすっかり忘れてしまっていた。
 ところがその日、公園で目にしたのはまさにその草だったのだ。それが実をつけていた。それも鮮やかな真紅の実を!未熟な実は濃緑色、少し成熟したのはオレンジ色だったが、成熟した実は花からは想像もできない、艶のある見事な赤だった。大きさは万両などと大差ないが、蔓性の草だからか、実の付き方はややまばらだ。しかし、その色の鮮やかさには驚きを覚えた。思いがけない発見だった。それがはからずも、小さな美的喜びを私にもたらしてくれたのだ。 

 それを描いてみたいと思ったので、野生の植物だから少しぐらいならよかろうと、2枝を折り取って持ち帰った。そして、色が映えるようにと、紺色の花瓶に差して写生してみた。だが絵では、花瓶ではなく、紺色を入れた黒の背景で浮き立たせ、なるべく自然に生えていた時の感じに近づけてみた。それが上掲のスケッチだが、ずっと引っかかっていた問題があった。それは名前がわからなかったことだった。そこで、とりあえず「この実、何の実?」とタイトルをつけ、アルバムに収めた。
 そして、名前捜しを始めた。すると、それを知った妻もインターネットで捜し始め、私より先に見つけ出した。その名は「ヒヨドリジョウゴ」(鵯上戸)だった。妻に先を越されようと越されまいと、その名がわかったことはちょっとした感激だった。以前にも数回、名前がわからない花の名捜しをしたことがあって、見つかるとその都度満足と喜びがあった。今回もそうだった。それは「やったぁ!わかったぞ」という、どちらかと言えば知的な喜びだ。これが二つ目の喜びだった。
 インターネットにあったいくつかの説明を要約すると、ヒヨドリジョウゴはナス科ナス属の多年生ツル植物で、東アジアから東南アジアに広く分布し、日本全国に生育するという。しかし、ツル植物としてはおとなしい性質で、猛烈に繁茂するようなことはなく、森や林の境界などに自生することが多いらしい。8月から9月にかけ、白い花を咲かせるとあったが、そう言えば私が見た花は形状がナスやトマトの花に似ていたし、その真紅の実はウルトラ・ミニトマトと見えなくもなかった。
 一説によれば、赤い実はヒヨドリが好んで食べるから、それを酒に強い上戸が酔って、赤ら顔になるのを連想してつけた名だそうだが、他の説によれば実際にはヒヨドリがこの実を特に好んで食べることはないそうだ。その証拠に、冬になっても実が残っていることが多いのだと言う。いずれにせよ、今まで自分には未知だったこうした物に出合うと、身近な自然の中には、まだまだ素晴らしい被造物が数多くあるんだと嬉しくなり、気持ちが若やいだ。

 そこで、この絵を使ったクリスマスカードを新作しようと思い立った。下方に飾り文字風のFrench Script MJ字体で、御降誕祭とこの絵柄に合った文言を入れたいが、何がいいかと考えたとき、ふと脳裏に浮かんだのは “Natura mirante”といラテン語の一句だった。「自然も驚いて」という意味だ。ヒヨドリジョウゴの実を見て私は驚いたが、この実を含めた自然界も、神の御子の聖誕生には大いに驚いたに違いない。そうだ、そういう意味をもたせたカードにしようと決めた。
 ところが、またも引っかかった。その一句は脳裏にス~っと自然に浮かんで来たのに、どんな文脈の中にあったかが思い出せなかったのだ。三つだけは確かだった。一つは私がそれに慣れ親しんでいたこと、二つ目はそれが何かの讃歌の一句であること、三つ目は58年前、かつてラテン語の授業でロス司教様が、その一句をablativus absolutus (奪格の独立用法)の好例として教えてくれたことだ。しかし、その記憶は鮮明に残っていたのに、その一句の出所は思い出せなかった。
 「探せ、さらば見出さむ」だ。よし、何としても見つけると決意して、昔のラ仏ミサ典書を開いた。何か聖母関連の讃歌だったという記憶を手掛かりに、まず索引から当たってみたが駄目だった。次は最初から虱潰しに1000頁ほどを朝方の3時まで調べてみた。でも、それも空しかった。こうなれば執念だと、朝食後トイレにまでミサ典書を持ち込み、今度は最終ページから調べてみた。すると、何と見つかったのだ!「あった。あったぞ!これだ」と心弾んで、小声で叫んだ。
  “Natura mirante”というその一句は、Alma Redemptoris Materという讃歌(hymne)の4行目にあった。まるで失くしたドラクメ銀貨を見つけ出した女(ルカ15;8-10)のように、私は知的な満足と小さからぬ喜びを味わった。これが三つ目の喜びだった。だが、同時に愕然ともした。歳月のもたらす忘却の恐ろしさを思い知ったからだ。それはかつて待降節の第1主日から2月2日まで、聖務日祷の終課で唱えていた讃歌だった。実践しなくなってもう43年、そのブランクはその一句が、そんなに慣れ親しんでいた讃歌の一部だということすら思い出せなくしていたのだ。

 ちなみに、その讃歌の原文は次の通りだ。

   Alma Redemptoris Mater quæ pervia cæli
   Porta manes, et stella maris, succurre cadenti,
   Surgere qui curat populo: tu quæ genuisti,
   Natura mirante, tuum sanctum Genitorem,
   Virgo prius ac posterius, Gabrielis ab ore
   Sumens illud Ave, peccatorum miserere.
    
 ところが、この一句の文脈を見つけ出せたことは嬉しかったが、インターネットで見た和訳は、残念ながらあまり良いと出来だとは思えなかった。誤訳があるからだ。しっかりしたラテン語の知識のある人が訳したのだろうか?私が誤訳だと思う個所は斜体の語句だ。その訳は次の通りだった。
   
   うるわしき救い主の母
   常に開かれた天の扉よ、海の星よ、
   倒れてもなお起き上がる人々を救いたまえ
   救い主を御産みになったことはこの世での奇跡です   
   先にも後にも処女であり、ガブリエルより祝詞を受けた方よ
   罪人たちを憐れみ給え

 以下が誤訳の指摘だ。
1.うるわしき - AlmaはAlmusの女性形だが、「滋養のある、実り多い、多産の」等の意味で、直訳すると日本語では聖母が多産な女性のように誤解されるかも知れない。だから「うるわしき」でも許容できるが、意味は違う。もともとの意味を生かせば、「実り多い」がいいかと思う。ちなみに仏訳はSainte Mèreとしてある。
2.救い主 - Salvatorなら救い主のでいいが、Redemptorは救い主ではなく、贖い主だ。
3. 「起き上がる人々」- 「起き上がる」人々なら、起き上がる力があるのだから、助ける必要はない。「起き上がろうとはするが、起き上がれないで倒れている人々」だからこそ、助けが必要なのだ。詩形の "succurre cadenti, Surgere qui curat populo" は、普通のラテン語なら、"succurre populo cadenti qui curat surgere"となる一句だ。
4. 救い主を御産みになったことはこの世での奇跡です - 私のこのコラムにとって肝心な所だが、この訳は全部間違っていると言うしかない。「自然界も驚く中、あなたはあなたの聖なる神を産みました」と訳すのが正しい。
 なお、Genitoremは生んだ者を意味し、大文字で始まる場合は神なる創造主を指すから、直訳すれば「あなたを創った聖なる方」となろう。しかし、この讃歌では神である御子をお産みになったという理解でいいだろう。「神を産む」ということは、ある意味で大それた表現だが、だからこそ“natura mirante”(自然界も驚く中)となるわけだ。そこで私は私なりに、次のような口語訳にしてみた。

   贖い主の実り多い母、いつも開かれている天の門、海の星よ、
   倒れてもなお起き上がろうとする人々を助けてください。
   自然界も驚く中、あなたはお産みになりました、聖なる神である方を。
   それでもあなたは産前も産後も処女、
   ガブリエルの口からあのアヴェの挨拶を受けた方。
   罪びとたちを憐れんでください。

 たまたま見かけるまでは未知だった草の実は、ヒヨドリジョウゴだった。それがわかって喜び、その一物から、知的な探究までしながら他の二つの喜びも得た。一物三喜だった。そして、新しいクリスマスカードもできた。その出来栄えがどうであろうと、満足しなくてはヒヨドリジョウゴにも、Alma Redemptoris Materを作詞してくれた人にも申し訳あるまい。あとはそのカードを使ってみて、もらった人も喜んでくれれば、喜びは四つ目になるのだが、さて、それはどうだろうか…

絶対に忘れない日

 他人にとってはどうでもいいか、あ、そうかぐらいの日であっても、自分には忘れがたい日がある。私にとってその一つが今日の12月8日だ。今朝の朝日新聞「かたえくぼ」を見たら、「『12月8日』 開戦の日-戦中派、レノンの日-戦後派、何の日?-戦無派」とあった。現代の平均的日本人にとってはそんなものかも知れない。しかし、私にとってこの日は特別な意味がある。無原罪の聖母の祝日であると同時に、私が受洗した記念日だからだ。
 それは今の自分がある原点だ。生物としての人は生まれたくて生まれるのではない。胎児は親も境遇も選べない。生まれるかどうかも他者が決める。自分の意志は100%ない。しかし洗礼では、もちろん神様の受け入れが先にあってこそだが、人は自分の意志で生まれることを望み、神の子として自ら生まれることができる。何と素晴らしい神秘ではないか!私はそれを望み、1948年12月8日、新たに生まれる恵みを得た。だから絶対に忘れないし、忘れてはならないと思っている。
 今年もそれを祝って感謝する日が巡ってきたので、ひとり静かな喜びにひたっている。毎年のことだが、その日の祝い方は単純だ。机の上に洗礼の日にいただいた三つ折りのカードを開く。最初にキリスト教の手ほどきをしてくれた恩人の菅原ムメさん(元聖心愛子会シスター・ガブリエラ)の晩年の写真と、これもまあ洗礼の時にいただいたラゲ訳の新約聖書を飾る。そして、カードに書いてあることばを読み、19歳だった時のあの朝を思い出すのだ。
 振り返ってみると、私はずいぶん忘恩だった気がする。菅原ムメさんのお骨は、東京マリア大聖堂の納骨堂に分骨してあると聞いているが、復活の日に会えるに違いないからと思って、お参りもしていない。洗礼を授けてくださったA・デモンティニ神父様はその時37歳で、日本に来たばかりだったが、今は上諏訪のセントベルのホスピスにおられると聞く。ご健在なら99才のはずだ。でも見舞いに行っていない。代父の半田春雄さんはもうずっと音信不通だ。でも、心では感謝を忘れてはいない。神様の恵みとこの方々のおかげで今の自分がいる。だから、信仰者として生き抜くことが恩返しだと思っている。

 戦後の昭和23年に刷られた第9版のラゲ訳聖書は紙質が悪く、もうどこも黄褐色に変色し、背表紙は擦り切れてなくなってしまった。しかし、私にとっては宝物だ。三つ折りの洗礼カードには、文語体のペトロの第一の手紙2章9-12がこの聖書から引用されている。こういう文言だ。
 「然れど、汝等は選抜の人種、王的司祭衆、聖なる人民、儲けられたる國民なり。是汝等が、己を其妙なる光に暗黒より呼び給えるものゝ徳を告げん為にして、曾ては民たらざりしもの今は神の民となり、憐を得ざりしもの今は憐を得たるものと成れり。至愛なる者よ、魂に反して戰う肉慾を去らん事を、寄留人と旅人とに對する如く、我汝等に希う。汝等異邦人の間に在りて善き行状を守れ、これ汝等を惡人として譏る所に於ても、善行によりて汝等を重んぜしめ、訪問せらるる日に神に光榮を歸し奉らんためなり。」これを読むと、62年前の朝に戻った思いがする。
 ラゲ訳を出したついでに、今朝はそれでマタイの山上の真福八端も読み返してみた。
 「イエズゝ群衆を見て、山に登りて坐し給いしかば、弟子等是に近づきけるに、イエズゝ口を開きて、彼らに教へて曰ひけるは、福なるかな心の貧しき人、天國は彼等の有なればなり。福なるかな柔和なる人、彼等は地を得べければなり。福なるかな泣く人、彼等は慰めらるべければなり。福なるかな義に飢渇く人、彼等は飽かさるべければなり。福なるかな慈悲ある人、彼等は慈悲を得べければなり。福なるかな心の潔き人、彼等は神を見奉るべければなり。福なるかな和睦せしむる人、彼等は神の子と稱へらるべければなり。福なるかな義の為に迫害を忍ぶ人、天国は彼らの有なればなり。我為に人々汝等をの詛ひ、且迫害し、且偽りて、汝等に就きて所有る惡聲を放たん時、汝等福なるかな、歡躍れ、其は天に於る汝等の報甚多かるべければなり。蓋汝等より先に在りし預言者等も斯く迫害せられたり。」

 感謝の日の写経のつもりで書き写したが、この古い文体と言い回しを読むと、心の生まれ故郷に帰ったような気がする。62年前のこの日、私はイエスキリスト様の教えに賭けた。信じるとは賭けだと思う。賭け事は嫌いだが、私は主の教えに人生を賭けた。だから洗礼を受け、神の子として新たに生まれた。そして、私の道を歩いて来た。幸せな日々、躓いて辛酸と不安のどん底を経験した日々、明るい光の中を生きられるようになった日々、いろいろあったが、81歳の今は感謝、感謝だ。
 たとえ聖ビアンネーと共に、「もし死後に天国がなかったら、私は神様に一杯食わされたことになるだろう」と言う羽目になろうとも、私は彼と共に言い続けるつもりだ。「だが、愛を信じたことを後悔しない」と。これは今年の洗礼記念日に表明する私の信仰宣言だ。来年もまたこの日を迎えられるかどうかはわからないが、カトリック教会を通して、イエスキリスト様の福音を信じ生きて来たことを、私は幸せだと思っている。そして、これは絶対に負けない賭けだとも思っている。

かつて書かれた事柄は今

 待降節第2主日の聖書はイザヤ11;1-10、ローマ15;4-9、マタイ3;1-12だった。聖パウロはローマの教会宛てのその手紙に、「かつて書かれた事柄は、すべてわたしたちを教え導くためのものです」と書いている。ところで福音書は、洗礼者ヨハネが人々に洗礼を授け、悔い改めを呼びかけた場面だが、それは「かつて書かれた事柄」の一つだったのだろうか?そうではなかったと言えよう。その手紙は紀元58年頃に書かれたと言われているが、アラマイ語マタイを除けば、その時点で現存の福音書はまだ存在していなかったからだ。
 では、聖パウロは洗礼者ヨハネのことを知らなかったのだろうかというと、それは違う。少なくとも口伝で十分知っていた。その証拠が使徒言行録13;14-43だ。そこには彼が第一回伝道旅行中(AD44-49)、ピシディア州のアンティオキアの会堂で、安息日に聖書の話をしたことが書いてある。その中で彼は言った。「ヨハネは、イエスがおいでになる前に、イスラエルの民全体に悔い改めの洗礼を宣べ伝えました。その生涯を終えるとき、ヨハネはこう言いました。『わたしを何者だと思っているのか。わたしはあなたたちが期待しているような者ではない。その方はわたしの後から来られるが、わたしはその足の履物を脱がせる値打もない。』」と。これは福音書の記述と実によく合致する。
 聖パウロは洗礼者ヨハネのことを聞き知っており、彼の使命を神の救いの計画の中にしかるべく位置付けていたのだ。福音書を読んで知ったのではなく、むしろ逆で、11使徒たちや聖パウロが語り伝えた洗礼者ヨハネについての口伝を、福音書記者たちが聞いて記述したのだった。この事実を知ると、聖パウロがアンティオキアの会堂でした話と、ローマの教会への手紙15;8-13に書いた内容の符合は、けっして偶然ではなかったことがわかる。

 アンティオキアの会堂での説教はルカが書いた使徒言行録によるが、その時、聖パウロは洗礼者ヨハネのことを話す前に、イスラエル古代の歴史をコメントしてこう話したと言う。「(神は)サウルを退けてダビデを王の位につけ、彼について次のように宣言なさいました。『わたしは、エッサイの子でわたしの心に適う者、ダビデを見いだした。彼はわたしの思うところすべてを行う。』神は約束に従って、このダビデの子孫からイスラエルに救い主イエスを送ってくださったのです」と。
 他方、彼が直接ローマの教会に送った手紙15;11-13ではこう書いている。「更に、『すべての異邦人よ、主をたたえよ。すべての民は主を賛美せよ』と言われています。またイザヤはこう言っています。『エッサイの根から芽が現れ、異邦人を治めるために立ち上がる。異邦人は彼に望みをかける。』希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなた方を満たし、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように」と。
 これを知ると、なぜ待降節第2主日のA年典礼が第一朗読にイザヤ11;1-10を読ませるのかがわかる。そこはまさに「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで、その根からひとつの若枝が育ち、その上に主の霊がとどまる」と書き始まる個所だからだ。イスラエル人たちはこのくだりを未来に出現するメシアの預言と理解し、使徒たちの初代教会はそれがイエス・キリスト様によって実現したと確信して宣教した。聖パウロの説教と手紙はその一例だったのだ。このことがわかっただけでもこの主日の自学は意味があったと満足感を覚える。

 しかし、それだけではこの日のメッセージが十分に明らかにならないから、ここで福音に目を向けてみようと思う。マタイ3;1-12は、いったい私たちに何をわからせようとしているのだろうか?思うに、そこには二つのメッセージがある。第一は洗礼者ヨハネを通して、私たちにも「悔い改めよ」と呼びかけていることだ。それは間違いない。では、なぜ悔い改めるのか?「聖霊と火で洗礼を授ける方」が来られるからだ。それを悟りなさいと呼びかけている。それが第二のメッセージだと思う。
 マタイは洗礼者ヨハネがユダヤの荒野に現れ、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と呼ばわり、ヨルダン川で洗礼を授けていたと伝えている。彼が本当に「天の国は近づいた」と言ったかどうかには若干疑問がある。イエス様がそれと同じ言葉で宣教を始められた(マタイ4;17)ことを見ると、マタイは主の表現を洗礼者ヨハネにも当てはめたのではないかと思えなくはない。いずれにせよ、彼は民衆に「悔い改め」を呼びかけた。そして、民衆は悔い改めのしるしに彼から洗礼を受けた。
 その名声が広まったので、イスラエル全土から人々がやって来たが、その中にはファリサイ派やサドカイ派の人々もいた。前者は当時のユダヤで、聖書にくわしい信仰のエリートと思われていた人々、後者は司祭階級が中心でユダヤの権力の中枢にいた。彼らも「洗礼を受けに来た」と書いてあるが、自分たちを悔い改める必要のない選良だと思っていた彼らだったから、少なくとも何人かはむしろ洗礼者ヨハネの言動を探りに行ったのではないかと、私は疑いの目で見ている。
 案の定、洗礼者ヨハネは彼らを見抜いていて、「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ」と、実に厳しい言葉を投げかけた。ある者はその言葉に激しく反発しただろうが、ある者は思いあがっていた自分に気づいて震え上がり、素直に悔いて洗礼を受けたかも知れない。実は聖パウロもアンティオキアのユダヤ人同胞に、同じく先祖の歴史を思い起こさせ、悔い改めて救い主を認め、よい実を結ぶようにと薦めたのだった。
 約2000年前にあったこれらの出来事や語られた事柄は、現代にも当てはまる。待降節の改心式を前に、私はふと自分には告解することがあるかなぁと思ってしまった。ファリサイ派の人々と五十歩百歩の感覚だった。しかし、それこそ悔い改めるべき心の姿勢だったのだ。たとえ大罪はなくても、神様の前に自分は正しい人間だ(ルカ18;9)と言える人はいない。「かつて書かれた事柄」は今の私にそれを気付かせてくれた。ここに現代に生きる私たちへのメッセージがあると思う。
 悔い改め(メタノイア)とは単なる罪の懺悔ではない。もっと根本な己が生き方のやり直し、主の教えに照らした原点からの再出発に他ならない。その意味で、最近出会ったある青年の切なる願望には感動を覚えた。彼は少年期以来不運な身の上となり、人に話すのも憚られるような荒れた歳月を過ごして来たと言う。しかし、今や彼はそれを全てリセットし、神の教えを学んで、生まれ変わりたいと切望していると述懐した。私は彼に本物の悔い改めを教えられた。感謝したい。

 ところで、洗礼者ヨハネはこう告げることを忘れなかった。「わたしは悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしはその履物をお脱がせする値打もない。その方は聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる」と。ここに、そういう方が来られることに気付けというメッセージがある。
 この「後から来られる方」は、実はもうそのとき洗礼の場に来ておられた。それはナザレトのイエス様だった。半年先に生まれただけの洗礼者ヨハネがその人について語ったのだから、それはこれから誕生するメシアについてではなく、すでにこの世にいて、救いの業の実現に現れるメシアについてだった。彼はその方が自分よりはるかに優れ、聖霊と火で人々に洗礼を授け、脱穀で麦と殻を分別するように世を裁かれることを告げた。まさに「主の日」を思わせる説教だった。
 片やイザヤ11;1-10は、いつの日かイスラエルに「平和の王」が出ることを予言し、その人物を「エッサイの株から出た若芽」に喩えている。エッサイとはダビデ王の父親のことであり、その名はマタイ1;6にあるイエス・キリストの系図にも出てくる。では、その若芽とはダビデ王のことだったのだろうか?いや、それはあり得なかった。彼はイスラエル史上最も卓越した王ではあったが、罪過もあり、神罰も受けたし、そもそもその預言は彼の死後に書かれたものだからだ。
 その預言には、メシアであるその人の上には主の霊がとどまり、貧しい人を公平に弁護させ、正義と真実をその身に帯びさせるとある。そのような点は聖王と言われたダビデ王にも少し当てはまった。しかし、狼が子羊と共に宿り、乳飲み子が毒蛇の穴に戯れ、大地が主を知る知識に満たされ、「剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする」(イザヤ2;4)ような平和な世界は、イスラエル最高と言われた彼の治世下でも決して実現しなかった。
 ましてや他の王たちの治世下では推して知るべしで、人々は歴代の王たちにずっと失望させられ続けていた。だからこそ来るべき約束のメシアとして、理想のリーダーを待ち望んでいたのだった。では、その「エッサイの株から出た若芽」、即ちダビデの家系から出る約束の人とは誰だったのか?聖パウロがアンティオキアの会堂で語り、ローマの教会への手紙に書いたのはまさにそのことだった。彼はナザレトのイエスこそその人だと断言した。

 イザヤは霊感によって来るべきメシアの時代を、「その日が来れば、エッサイの根はすべての民の旗印として立てられ、国々はそれを求めて集う」と書いた。それは神の国の象徴的描写で、ある意味で真実だが、他方ではイザヤもやはり時代と民族の子だったこと示していると思う。後世の人々はメシアを民族解放のリーダー、栄光の王と勘違いしたが、彼の預言にもそういう感じがなくはないからだ。いや、後世のそういう期待は、彼のそういう預言に影響されたと言えなくもない。
 しかし、救い主メシアの実際の登場は人々の予想とは違った。その時すでに洗礼者ヨハネのところに来ておられたが、誰もそれに気付かなかったほど目立たなかった。だからヨハネは言った。「わたしは水で洗礼を授けるが、あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履物のひもを解く資格もない」(ヨハネ1;26-27)と。その人がベトレヘムで生まれた時やナザレトで過ごした頃も、人々はずっと気付かずにいた。
 そこで、洗礼者ヨハネはその人が世の罪を除く神の子羊でもあることを明らかにした。それは必ずしも人々の期待通りではない救いの業の始まりだった。しかし、それが神の計画だった。だから、今イエス様の降誕を知って賑やかに祝おうとする人たちは、想像力を働かせ、もし自が当時生きていたらどうだっただろうか?と、自問するがいいと私は思う。そうすれば、救い主の存在すら知らず、知ろうともせず、知ったら、祝うどころか、十字架に付けろと叫んだりした群衆の一人になっていたかも…と気付けるかも知れない。

 聖パウロはアンティオキアの会堂ではユダヤ人たちに対してだったから、神様による先祖の選びから話し始め、エジプトからの解放、ダビデ王の即位、「エッサイの芽」から出る救い主と洗礼者ヨハネの出現に言及した。そして、「指導者たちはイエスを認めず、預言者の言葉を理解せず、イエスを罪に定めることによって、その言葉を実現させ」(徒13;27)、主を十字架で殺した。だが、「神はイエスを死者の中から復活させてくださった。」(同13;30)と語って、説教をこう結んだ。
 「だから、兄弟たち、知っていただきたい。この方による罪の赦しが告げ知らされ、また、あなたがたがモーセの律法では義とされ得なかったのに、信じる者は皆、この方によって義とされるのです。それで、預言者の書に言われていることが起こらないように、警戒しなさい。『見よ、侮る者よ、驚け。滅び去れ。わたしは、お前たちの時代に一つの事を行う。人が詳しく説明しても、お前たちにはとうてい信じられない事を。』(ハバクク1;5)」と。
 それに比べ、ローマの教会への手紙は異邦人信者たちに対してでもあったから、同じように「エッサイの芽」について言及しても言い方が違い、「(キリストが仕える者となられたのは)異邦人が神をその憐れみのゆえにたたえるようになるためです。『そのため、わたしは異邦人の中であなたをたたえ、あなたの名をほめ歌おう』と書いてある通りです」と書いた。洗礼者ヨハネはメシアを裁き主として語ったが、聖パウロがこの手紙で語っているのは希望と慰めの源である救い主だ。
 これらを読み比べると、確かに「かつて書かれた事柄は、すべてわたしたちを教え導くためのもの」だということに納得がいく。ユダヤ人たちには旧約聖書だけだったが、私たちには新約聖書もある。それは今も私たちを導いてくれる。待降節第2主日の聖書は、すでに来られた救い主がどういう方だったか、そして私たちがなぜ悔い改めなければならないかを教えてくれる。私たちは再び来られる主を待っている者たちだから、悔い改めるのだ。

落葉帰根

桜落葉
桜の落ち葉
 
 朝、愛犬を散歩に連れ出し、いつもなら奈良北団地方面から成瀬台四丁目西半分を一回りするところを、今日は犬のわがままに譲歩して、近くの松風公園に行ってみた。この公園には北側に階段が三段の出入り口があり、そこから上ると、数本の松がある広い草地の斜面になっている。松風公園と言われるゆえんだが、斜面の下は芝生もどきの雑草が生えた平地だ。よく来るところだから、気にもせず普段通りに足を踏み入れた。ところが今朝は二三歩して、思わず「おっ!」と目をみはった。無数の細い草の葉に、無数の小さな露の玉が光っていたのだ。晩秋の冷たい空気の、晴れた朝だからだなと思った。そして、すぐ歌人伊藤左千夫の一首を思い浮かべた。
    おり立ちて 今朝の寒さに驚きぬ 露しとしとと 柿の落ち葉深く

 だが、そこに落ちていたのは柿の葉ではなく、桜の葉だった。愛犬が動くので、露に濡れた草地を少し歩いたら、地表一面に落ち葉が積み重なり、しっとりと露にしめっているのを見た。斜面の最北端に山桜の大樹が一本ある。それから落ちた葉たちなのだ。ところが、しゃがんでよく見たら、その色の何と見事だったこと!茜色、黄褐色、黄色、臙脂色と、まさに色とりどりだった。以前から桜の紅葉はなかなかのものだとは思っていたが、あらためて見直した。葉たちに去られても、青空の下に悠然と黒くたたずむ桜の大樹には畏敬の念抱く。だが、地に落ちても美の輝きを失わずにいる落ち葉たちには感嘆し、共感を覚えた。人の老境をそれに重ねたからだ。

 でも、枯葉はみな同じではない。実を言うと、昨日はケヤキの落ち葉を見て、別の詩を口ずさんだところだった。わが家の前にはケヤキ並木があり、晩秋はその枯葉の掃除が隣近所の人たちにとって一仕事なのだが、その落ち葉はつやのない褐色で輝きがない。その黄葉も樹上にある間はそれなりに美しいが、落ちるとすぐ死相の枯葉に変わってしまうのだ。そこが桜の葉と違う。その上、昨日は風があって、舗装道路上を掃かれるように吹き散らされていた。それを見て思い出したのが上田 敏訳のヴェルレーヌの詩「落ち葉」の末尾だった。
    げにわれは うらぶれて ここかしこ さだめなく とび散らふ 落葉かな、と。

 吹き寄せられて行くケヤキの落ち葉の風情は、まさにその詩そのものだった。うらぶれてさだめなく飛び散らされていた。それを見て、この枯葉たちにはどういう終着点があるのだろうか?と思った。自然のままなら、落葉帰根と言って、落ち葉は自分がついていた木の下に落ち、土に還って養分となる。しかし、舗装道路に落ちた枯葉たちは帰根できないだろう。あるものは掃き寄せられて袋に入れられ、焼却場に運ばれて灰になる。でも、その先はどうなるのだろうか?あるものは側溝に落ちて腐り、あるものは車に轢かれ人に踏まれて粉々になるのだろう。何か不憫に思えた。

 それにくらべると、松風公園の桜の落ち葉は幸運に思えた。彼らとてずっと色彩の輝きを残せるわけではない。美しい色の落ち葉の下には暗褐色になった枯葉もいっぱいあった。数日すれば、今は美しさを残している落ち葉もそういう枯死の色になる。それが自然なのだ。しかし、ここの落ち葉は大地に落ちるから、落葉帰根ができる。幸運な落ち葉たちではなかろうか。よかったねと言ってやりたい。

 ここかしこ飛び散らう枯葉も大地に帰根できる落ち葉も、人の運命といささか重なるところがある。不運な人生を強いられる人もいれば、巡り合わせのいい人もいるからだ。人生の終わりに近くなるとそういうことに敏感になるのだろうか。桜とケヤキの落ち葉から人の身の上も思ってしまった。では自分は?できれば老いても桜の落ち葉のように輝きを失わないでいたいと思う。そして人だから、落葉帰根ではなく、老人帰天で人生をしめくくれればと願う。

 公園を去るとき、数枚の桜の落ち葉を愛犬のトイレバッグに拾い入れ、帰宅してからスキャンしてみた。今朝の感懐には写真でもなく絵でもなく、自然のじかの色どりと形が一番似合うと思ったからだ。やはり自然はすばらしい。その沈黙は何よりも雄弁に被造物の神秘を語っている。
プロフィール

余生風

Author:余生風
「聖書温故知新」
「思いつくまま、気の向くまま」
折にふれ「水彩画」も紹介してまいります。

「手を貸す運動」創始者
社会福祉法人「地の星」理事
元玉川大学教授

佐藤正明(余生風)ホームページ
「絵画と心」

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