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何を待つのか

 待降節がまた巡って来た。「降」とは一義的にはご降誕を意味するのだろうから、待降節がそれを待つ期間であることは間違いない。しかし、そのためだけの期間と受け取られやすいことも確かだ。ところが、第一主日の福音マタイ24;37-44を読むと、そういう受け止め方ではいけないことがわかる。なぜなら、それはイエス・キリスト様のご降誕にまつわることではなく、人の子が来られる世の終わりのことを伝えているからだ。降誕の過去とは対極の未来に起こるその出来事を、主はこう言われた。 
 「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである。人の子が来るのは、ノアの時と同じだからである。洪水になる前は、ノアの方舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた。そして、洪水が襲ってきて一人残らずさらうまで、何も気が付かなかった。人の子が来る場合も、このようである。そのとき、畑に二人の男がいれば、一人は連れ去られ、もう一人は残される。二人の女が臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるか、あなたがたには分からないからである。このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒が夜のいつごろやってくるかを知っていたら、目を覚ましていて、みすみす自分の家に押し入らせはしないだろう。だから、あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」

 これはマタイとマルコでは、エルサレム入城後に話されたとされているが、ルカではエルサレム入城前のことになっている。従って、それがどこで話されたかを特定することは難しい。しかし、イエス様ご自身が話された予言だから、主のご降誕についてでなかったことだけは確かだ。そして、その内容からしても、それが終末の予言であったことは明らかだ。だとすれば、ここで「待つ」のはご降誕ではなく、終末に来られる主の再臨だ。ここに待降節は何を待つ期間かの答えがある。
 待降節は降誕祭前の4週間だが、英語ではAdvent、仏語ではAventという。これはラテン語のAdventusから来た言葉で、その動詞のAdvenireは「やってくる、到着する」を意味する。では、何がやってくるのかというと、救い主の降誕祭と終末の日における主の再臨だ。待降節はその二つの待望を私たちに再認識させる期間に他ならない。ただ、前半は終末における主の来臨が強調され、後半は降誕祭が近づくにつれて、救い主として降誕された最初の来臨の追体験が前面に出る。 
 待降節第一週は典礼暦年の新しい出発だ。しかし、円の360度が0度でもあるように、それは前年度の終わりと重なっている。実際、年間最終主日の福音はエルサレムの滅亡の予言だったが、それは待降節第一主日の福音が伝える世の終わりの予言と重なっている。イエス様はその日のことを語るために、マタイではノアの洪水の事例を引き合いに出された。イスラエル人の誰もが知っていた過去のこの物語は、人の子が来る時の神秘をわからせるためには、うってつけの前例だと思われたからだろう。 

 その大洪水のとき、人々はそんな災いが突如襲ってくるとは夢にも思わず、直前まで日常の営みを続けていた。主はそのことを指摘され、人の子も同じように突如思いがけない時に来る。その日、その時は、父以外は誰も知らない。だから、「目を覚ましていなさい」と警告なさった。「子も知らない」とは、子が父以下で、子も知らないことがあるという意味ではなく、その日を来させる決定は父なる神が行うという意味だと思う。また、男も女も二人いれば一人は連れ去られ、もう一人は残るとは、たとえ一緒にいても、その時は人の命運が別々に分かれるという意味だろう。裁きの時だからだ。
 しかし、人は眠らなければ体が持たない。いくらイエス様のお言葉でも、目を覚まし続けているのは無理だ。主は本当に「目を覚ましていなさい」と言われたのだろうか?そういう疑問を持つ人もいるだろう。私もそう思ったので原典を調べてみた。そうしたら、ギリシャ語は“グレゴレイテ”で、やはり「目覚めてあれ」の訳に間違いはなかった。だとすれば、それは主の再臨の時まで肉体的に一睡もせずにいなさいと言う意味ではなく、精神的に目覚めていなさいという意味だろう。私はそう取るべきだと思う。
 その解釈の正しさは、「家の主人は、泥棒が夜のいつごろやってくるかを知っていたら、…」という喩えからも証明できる。イエス様はこの比喩をノアの洪水の事例と並べて話し、人の子の日に備えるよう念を押された。しかし、それを読む人はおやっと思うのではなかろうか。なぜなら、「泥棒が夜のいつごろやってくるかを知っていたら」侵入させないとは、知っていることを仮定している表現だ。だが人の子が来る日は、まさにその仮定の逆であって、誰もその日その時を知らないのが実情だからだ。
 従ってこの比喩は、「では、知っていなかったら?」という逆の仮定を検討した上で理解する必要がある。それはこう敷衍すればわかりやすのでのではなかろうか。泥棒が夜のいつやってくるかを知っていたら、主人はその夜は寝ずの番をして、家に侵入されないようにすれば済む。しかし、いつ来るかわからないならそうはいかない。ところが実際は「人の子は思いがけない時に来る。」つまり、いつ来るかわからないのだ。では、毎晩寝ずの番ができるかというと、それは無理だ。では、どうすればいいか?戸締りをしっかりして寝るとか、警報装置をつけるとか、泥棒がいつ来ても対応できるように備えるしかない。それが「用意していなさい」ということなのだ。
 マタイはイエス様の言葉を少し省略して、舌足らずに伝えたきらいがなきにしもあらずだが、このように敷衍すれば筋が通る。ところで、ノアの事例では「目覚めていなさい」と言われたが、泥棒の比喩では「用意していなさい」だった。共に警戒を促す点では同じだが、若干違いもある。私は「用意していなさい」の方が本来で、「目覚めていなさい」は「用意していなさい」の比喩的表現に過ぎないと思っている。だから「目覚めていなさい」を、文字通り身体的に眠らないことと受け止めてはなるまい。まさかそんな人はいないだろうが…

 ところでノアの洪水の時、人々はそれが襲って来るまで何も気が付かなかったとあるが、実はある人々だけは知っていた。ノアの家族だ。神様が御心に適った人ノアには何が起こるかを前もって教え、その準備をさせたからだ。ところで、それは人の子の日についても言える。洪水の時と同じように、その日がいつ来るかはだれも知らないが、ある人々はその日が必ず来ることは知っていて、それに備えているからだ。それはイエス様を信じる人々で、主が教えてくださったおかげで彼らはそれを知っている。
 しかし、主の再臨を信じる人々も、待ち方においては様々だ。初代教会の人々はどうやら主がすぐにも戻って来られると期待しがちだったらしい。聖パウロのテサロニケの信者への手紙は紀元51年に書かれたと言われているが、彼はその手紙4;15で、彼自身もその日まで生きているかも知れないような書き方をしている。それは彼の望みでもあったのだろう。次のくだりを読むと、彼だけではなく、信徒の多くが主の来臨については確信を持っていたことがわかる。
 「兄弟たち、その時と時期についてはあなた方には書き記す必要はありません。盗人が夜にやって来るように、主の日は来るということを、あなたがた自身よく知っているからです。人々が『無事だ。安全だ』と言っているそのやさきに、突然破滅が襲うのです。…しかし、兄弟たち、あなたがたは暗闇の中にいるのではありません。ですから、主の日が盗人のように突然あなたがたを襲うことはないのです。あなたがたはすべて光の子、昼の子だからです。」(一テサロニケ5;1-5)
 これをこの日の福音マタイ24;37-44と比較すると、実によく合致していることがわかる。その日がいつかはわからないが、信じる者たちにはすでにその事実と救われる方法が知らされていた。ノアの時は方舟だったが、新約の救いでは教会がその方舟に相当した。旧約の方舟に入ったのはノアの家族だったが、新約では主の福音を信じる人たちがそこに入る。そして、聖パウロの言うように、彼らにとって主の日は盗人のように突然襲うのではなく、来ることがわかっていて来る日なのだ。
 
 ところが、キリスト教も中世になると主の日の待ち方が変わった。主は再び来られると何度も聞かされたが、それは実現しなかった。その日はずっと先なのではないか?主はなかなか来られないではないか?人々は待つことにくたびれたのだろうが、その間に無数の人たちはこの世から去って行った。そこで人々は全人類を裁きに来られる主を待つよりも、死んで行った一人ひとりを偲びながら、来世を思う方に傾斜して行った。少なくとも民衆のメンタリティはそう変わって行った。
 そのメンタリティは方向を逆転させた。主が来られるのを待つのではなく、こちらから皆が天国に行って集うという方向の変化だ。中世の人々は考えた。人は死後私審判を受けて天国か地獄に行くから、最後の審判はあるが、それは私審判の確定に過ぎない、と。そこで彼らの関心は次第に死後救われるかどうかに向き、主の再臨を待つ意識は薄らいだ。そこにもはや初代教会の信者たちが「主は近い」と待った切迫感はなく、待降節はもっぱら降誕祭の準備の時期となってしまった。
 では、現代はどうであろうか?人の子の再臨などおそらく思ってもいない人が大部分だろう。そんなことを聞けば、あり得ないと一笑に付すに違いない。もっとも、そういう否定派は何も今に限ったことではなかった。洪水など来るわけがないと思っていたノアの時代の人々もある意味ではそうだったし、聖パウロの手紙にある『無事だ。安全だ』と言っていた、初代教会時代の人々もその部類に入る。近代の無神論者の系譜につながる人々はほとんどが否定派だ。もともと神もキリストも信じないのだから、主の予言を認めないのは当然の帰結だ。
 しかし、現代でも人の子の来臨を容認する人は大勢いる。ただし、その予言への向きあい方はさまざまだ。その日は来るかも知れないが、できれば来なければいいと願っている人たちもいるだろうし、いつか来るとしても今すぐではないだろう思って、将来設計に余念がない人たちもいるだろう。キリスト信者の中にもそういう部類の人がけっこういるかも知れない。だから、でもそれでいいのかと自問する必要がある。では、真に主のお言葉を信じる者はどうあるべきなのだろうか?
 「その日、その時は、だれも知らない」と言われたのに、初代教会の人々は主がすぐ来られると思い込み過ぎた。反対に、現代の信者たちは主がすぐには来られないと思い込み過ぎてはいないだろうか。他方、中世の人たちは主の来臨を天国へ行くこととすり替えて、まともに受け止めていなかった。だからこそ、「あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである」と言われたお言葉を、思い巡らさなければならないだろう。本当に信じるとは、このお言葉を本気でどのように受け止めるかにある。

 今日の福音には二つのメッセージがあると思う。その一つは新約の方舟である教会に留まれというメッセージだ。ノアが方舟によって洪水から救われたように、主のお言葉を信じて新約の方舟に入り、主の再臨を待つ人たちは神の救いに与れる。それはイエス様がもたらしてくださった福音を堅く信じて、世の誘惑打ち勝ち、使徒たちの勧めを実践し、信仰共同体の一員であり続けるならば、主が再び来られるとき、そのみ前にうつむかないで出られるという励ましだ。
 二つ目は、「最初の来臨」から「再臨」を悟れというメッセージだ。主は当時の人々に、ノアの洪水の例から人の子の再臨をわからせようとなさった。しかし、すでに主のご降誕を知っている今の私たちには、ノアの例はなくてもいい。主の最初の来臨だったご降誕は、約束されたようにすでに実現した。それと同じように、主は必ず再び来られる。約束されたからだ。ご降誕が実現したということは、ノアの例よりも強力に主の再臨を確信させる。だがそこには、ご降誕の時も主の訪れを見誤った人々がいた。再臨ではその轍を踏むなという戒めが込められている。
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王旗のような罪状札

 2010年11月21日、ついに典礼暦年最終の主日になった。教会は毎年その日を王であるキリストの主日として祝う。福音書はルカ23;35-43、第一朗読はサムエル下5;1-3、第二朗読はコロサイ1;12-20だ。共通するキーワードは「王」という言葉にある。
 3年ほど前テレビドラマのチャングムを見てから、私は韓国ドラマをよく見るようになった。だが、冬ソナのような恋愛ものやスパイサスペンスものより、「イ・サン」や「ホ・ギュン」のような韓国時代劇的な連ドラが多い。朝鮮史に興味が湧き、それを知るにはこういうドラマが手っ取り早いと思ったからだが、朝鮮史は王朝史でもあるから、そういうドラマには必ず王が出てくる。だが、私は全般的に彼らには反感を覚えながら見ている。
 そもそも私は根っからの庶民だから、王とか皇帝とか天皇とかが好きではない。能力と人徳があったがために民衆に押されて統率者となり、結果的に王の称号を得た初代の王なら納得だが、世襲でさしたる苦労もせずに王になる者を、とうてい好意的に見る気にはなれないのだ。狭量だと言われようと仕方がない。特に、自らは安全な所にいて民を戦争に駆り出したり、気に入らない臣下を手打ちにしたり、敵対国の一般人を虐殺したり、民に血税を出させながら贅沢に暮らしたりする王には憤りを覚える。

 しかし、そんな私にも一人だけ、どんなに敬っても敬いきれないほどの王がおられる。メシアであるイエス・キリスト様だ。伝説の聖クリストフォロスが、この世で一番強い王に仕えたいと世界中を回ってその人を探し出したように、私も真の生き方を示すこの王に出合えた。聖クリストフォロスはある聖者から、その王に会いたければ川の渡し守をしなさいと言われた。そして、ある嵐の日、川を渡りたいと願った幼子を背負って、それが姿を変えたイエス様だったことに気付いた。それ以後、彼は背負って川を渡す人々すべての中に王であるキリストを見て、渡し守を続けたと言う。
 この王は、生まれも生き方も死に方も、復活後の今も、他の王たちとは全然違う。生まれたのは宮殿ではなく貧しい馬屋で、礼拝に来たのは東の国からの学者たちと羊飼いたちだけだった。少年時は普通のユダヤ人男児として両親と共にナザレトで過ごし、30歳になると人々に伍して洗礼者ヨハネの洗礼を受け、一人の若い教師として民衆に神の国の福音を伝え始めた。教えると同時に、病人を癒し、苦しむ人々を励まし、貧しい人々と生きた。いわゆる王には全く見えなかった。
 イエス様は洗礼者ヨハネについて言われた。「あなたがたは何を見に荒れ野へ行ったのか。しなやかな服を着た人か。華やかな衣を着て、ぜいたくに暮らす人なら宮殿にいる。では、何を見に行ったのか。預言者か。そうだ、言っておく。預言者以上の者である」(ルカ7;25-26)と。洗礼者ヨハネを称賛し、王や王宮のあり方を暗に批判された言葉だが、それは主ご自身にも当てはまった。なぜなら暖衣飽食の王とは無縁で、粗食で過ごし、野宿すらして各地を行脚されたからだ。

 しかし、そんな中にも、この世の王にない徴が時折光りを放つことがあった。生まれたとき、不思議な星が現れて東方の学者たちを導き、天使たちが羊飼いに現れて聖誕を知らせた。洗礼者ヨハネの洗礼を受けたときは、天が開けて、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声がした。ある山の上で祈っていたとき、お姿が雪よりも白く輝き、預言者モーセとエリヤが現れて語り合い、洗礼の時と同じ「これはわたしの愛する子、これに聞け」という天の声がした。
 ある家で話しておられたとき、4人の男が中風で寝たきりの病人を運んできた。すると主は、人の子が罪を赦す権限を持っていることを示すために、その病人を癒して家に帰らせた。ある日、弟子たちの小舟はガリラヤ湖で突然の嵐に遭い、沈没の危機に瀕していた。ところが主は、嵐と波を一言で鎮められた。ある時は、男だけでも5千人の群衆に5個のパンと2匹の魚を増やして食べさせた。ベタニアでは、死んで三日目のラザロを墓から蘇らせた。
 それらは只者ではない証明だった。だから、パンの奇跡を見た群衆はイエス様を王に担ごうとした。ところが、主は山に退かれた。彼らの考えるような王であることを否定なさったのだ。逆に、ラザロの復活を目撃したユダヤの権力者たちは、主がメシアとしての王であることを恐れ、主を捕ええると、「お前はほむべき方の子、メシアなのか」と尋問した。そして、主が「そうです」(マルコ14;61,62)と答えると、死刑を宣告した。主はここでは王であることを否定されなかった。否定したのは彼らだった。

 主はけっして前面に出しては教えられなかったが、ご自分が約束のメシア、油を注がれた王であることを十分すぎるほど自覚しておられた。それは教えや行いの端々にうかがえる。その一例が主の祈りだ。その中には「御国が来ますように」という一節があるが、それはこの祈りの最も重要な願いだ。ところで、日本語では「御国」という意味がやや曖昧だが、外国語だとはっきり見えてくる。そもそもそれは「あなたの王国」を意味しているのだ。
 原典のギリシャ語をカタカナ表記すると、それはバジレイア スウだ。だから、その一節は英語では、“Thy kingdom come.”となる。Kingdomは王国だ。ラテン語では、“Adveniat regnum tuum.”となる。ヘブライ語では“タボー マルクートカ”で、regnum tuum もマルクートカも「あなたの王国」を意味する。単に敬語の御を付けただけの「御国」ではないのだ。それを知ると、ルカ24;38を読む人は、「ユダヤ人の王」と書かれた捨て札がいかにそれと呼応しているかにうなずけるだろう。
 主が王であると自覚しておられたことは、裁きの日の譬え(マタイ25;31seq.)にも現れている。その時、栄光の座に着いた人の子は万民を集める。ところが次の段階で、人の子は王の立場をとり、祝福された人々とそうでない人々を分別する。そこがポイントだ。主は常々ご自分を人の子と呼んでおられたが、王としての人の子は言う。「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」と。それは人の子と王が同一だと言うことに他ならない。
 その自覚はピラトの裁判の場での問答でもわかる。主は彼に言われた。「わたしの国は、この世には属していない。もし、わたしの国がこの世に属していれば、…部下が戦ったことだろう」と。ピラトは「それでは、やはり王なのか」と尋ねた。主は答えられた。「あなたの言う通り、わたしは王である」(バルバロ訳)と。ここでも「わたしの国」の正確な訳が「わたしの王国」だと知れば、主がご自分を王だと言明されたことは明らかだ。主はローマ総督にははっきりそう言われたのだ。

 では、なぜ同胞の民衆にははっきりとそう言われなかったのだろうか?イスラエル民族には聖なる王メシア(マーシアーハ)待望の伝統があった。そのイメージは、大預言者モーセの統率力とダビデ王の神的恩寵を併せ持つ、偉大な国民的なリーダーであった。イエス様の時代はローマの統治下にあったから、民衆はそのメシアを民族の解放者だと期待していた。弟子たちですらそうだった。だが、それは神様の計画とは大違いだった。だから主は慎重になさったのだ。
 しかし、それを隠されたのではない。弟子たちにも民衆にも、ご自分が王たる者であることを暗にわからせておられた。例えば、最後の晩餐の後、主は弟子たちの間に誰が一番偉いかの議論が起こったとき、「異邦人の間では、王が民を支配し、民の上に権力を振るう者が守護者と言われている。しかし、あなたがたはそれではいけない。…上に立つ人は、仕える者のようになりなさい」と諭された。そして、弟子たちの足を洗われた。暗に主はご自分もそういう王だと示されたのだ。
 また、最後のエルサレム入城の時もそうだった。ロバに乗って進む主に、群衆が「ダビデの子にホーシャナ」と叫んだとき、ファリサイ派の人々が「先生、弟子たちを叱ってください」と苦情を言った。すると主は、「言っておくが、もしこの人たちが黙れば、石が叫びだす」(ルカ19;40)とお答えになられた。民衆の叫びはまさにダビデ王の子孫であるメシアに対する歓呼だった。この時ばかりは、黙認どころか、イエス様は彼らを「黙らせるな。その通りなのだから」と、公認なさったのだった。

 その王をユダヤの指導者たちは捕えて殺した。それを聖ペトロは聖霊降臨の朝、民衆にこう説教した。
 「このイエスを神は、お定めになった計画により、あらかじめご存じのうえで、あなたがたに引き渡されたのですが、あなたがたは律法を知らない者たちの手を借りて、十字架につけて殺してしまったのです。しかし、神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました。…だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです」(徒2;23-24,36)と。
 メシアとは救世史の中で神から遣わされるたった一人しかいない、聖なる油を注がれた王を意味している。王であるキリストの主日の福音ルカ23;35-43は、そのイエス・キリスト様がまさに十字架上にあった間、民衆が何をし、議員たちが何と言ってあざ笑ったか、十字架にかけられた二人の盗賊がどんなことを言い、イエス様がそれにどう答えられたかを伝えている。それは読めばわかるから、ここではイエスの頭の上に「これはユダヤ人の王」と書いた札が掲げてあったことを取り上げよう。
 この札には四福音書すべてが言及している。長短の違いがあって、一番完全なのはヨハネの福音書だ。新共同訳は不完全なので、正確に訳せば、「ナザレのイエス、ユダヤ人たちの王」と書いてあった。それはピラト自身の文言で、ユダヤ人たちが「ユダヤ人の王と自称したと書いてください」と抗議しても、彼がはねつけたこと、ヘブライ語、ラテン語、ギリシャ語で書かれてあったことを伝えている。この3か国語で表示しないと、当時のユダヤにいた人々すべてにはわからなかったからだろう。次のような文言だった。
זה ישוע הנצרי מלך היהודים (これはナザレのイエシュア、ユダヤ人たちの王)
Iesus Nazarenus Rex Iudaeorum   (ナザレ人イエズス、ユダヤ人たちの王) 
罪状札のギリシャ語(ナゾライ人イエスス、ユダヤ人たちの王)
 次に長いのはマタイの福音書の表記で、「これはユダヤ人の王イエスである」と書かれている。マルコとルカは「これはユダヤ人の王」と短い。書かなくてもわかる部分を省略したのだろうが、それだけにむしろ肝要な部分が残った。つまり、主が「王」であるというメッセージだ。そして、それは前述した「御国」や「わたしの国」という王国と密接に呼応している。 
 かつて聖金曜日の十字架の崇敬には、ヴェキシラ・レージスという讃歌があった。一番はこういう歌詞だった。
Vexilla Regis prodeunt; (王の旗は前に進み、)
Fulget crucis mysterium, (十字架の神秘は輝く。)
Qua Vita mortem pertulit, (十字架において命は死を蒙り、)
Et morte vitam protulit.  (死によって命は実を結んだ。)
 十字架上の罪状札は、まさにメシアを王とする王国の軍旗のような象徴なのだ。

 この祝日の第二朗読では、聖パウロのコロサイの教会への手紙が読まれる。彼は書いた。「御子は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です。天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました。御子はすべてのものよりも先におられ、すべてのものは御子によって支えられています」(コロサイ1;15-17)と。これはヨハネ1;1-18を連想させる。
 この日の福音は死と復活前の十字架を語るが、聖パウロはご昇天後のイエス・キリスト様を語っている。十字架で苦しんだ主は、今は万物の主であり王でもある。“Rex iudeorum (ユダヤ人たちの王)”の罪状札は、その時は恥のしるしだったが、今はこの王の旗じるしであり、十字架はその旗竿だと言えよう。ヘブライ人への手紙12;2には、「このイエスは…恥をもいとわないで十字架の死を忍び」とあるが、「メシアは苦しみを受けて栄光に入るはずだった」(ルカ14;26)のだ。
 聖パウロがこのようにイエス様を、「すべてのものよりも先におられ、すべてのものは御子によって支えられている」と教えてくれたことは、私をほっとさせる。たとえどんなに天才的で偉大な宗教家だったとしても、もし単なる一人の人間に過ぎなかったのなら、30歳代だったイエス様は老齢の私から見れば、科学も知識も未熟だった2000年前の若造に過ぎないから、そんな者に心服できるかという思いがよぎりかねない。しかし、同じく高齢になっていた聖パウロの断言は、そのような迷いを超越させてくれるからだ。
 福音書もそんな不敬な思いを粉砕してくれる。主は十字架の下で嘲笑った民衆や議員たちばかりか、十字架につけられた一人までもが、「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろと」と罵るのをお赦しになった。そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と願ったもう一人には、「あなたは今日わたしといっしょに楽園にいる」と励まされた。これだけでも、私は百人隊長と共に「本当にこの人は神の子だった」と言うに十分だと思う。
 そんな王はいたことがなかった。「見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方」なのに、人となり、本当は王たちの王であったのに、地上におられた間は人々に奉仕し、いわゆる王の尊大さ、横暴、華美浪費などは一切なく、むしろ謙虚で、貧しく生まれ、最も苦しむ人々の一人となり、心に痛みのある人々の友となられた。私も貧しい生まれで、多くの辛酸をなめてきたから、世襲の王や権力者は嫌いだ。しかし、この王なら尊崇し、その王旗のもと喜んで働いていきたいと思っている。

壊れるもの壊れないもの

涙の教会
オリーブ山の上から見たエルサレムとChurch of Dominus flevit(涙の教会)-右下方中段

 11月14日、年間第33主日の福音はルカ21;5-19だ。いよいよ典礼C年のサイクルは終わりを迎える。聖霊降臨祭後の長い年間主日の期間は、教会が世の終わりまで歩む長い道のりの象徴だ。その終わりは世の終わりが来ることの象徴でもある。生きるものは必ず死滅し、在る物は必ず崩壊する。地球はおろか、太陽系とて同じだ。問題はそれを自然法則だけによると見るか、それとも神様の見えざる御手の働きによると信じるかだ。この日の福音書はイエス様のお言葉を通して、世の終わりに起こることの一端を予告する。

 聖書は世の終わりに一連の破壊消滅が起こり、その後に新しい世界、神の国が出現することを教える。一連の破壊消滅とはエルサレムの破壊とユダヤの消滅、そして現存する全世界の大変動だ。この日の福音がまず語るのはその前半に当たるエルサレムの崩壊だ。共観3福音書はどれもこの出来事を伝えているが、その起こり方については若干叙述に違いがある。ルカの書き出しはこうだ。
 「ある人たちが、神殿が見事な石と奉納物で飾られていることを話していると、イエスは言われた。『あなたがたはこれらの物に見とれているが、一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない日が来る。』」
 イエス様がそう言われたきっかけはある人たちの会話だった。では、その「ある人たち」とは主の話を聞きに来た人たちの誰かで、彼らの話を耳にした主が横から口出しされたのだろうか?それともそれは弟子たちで、彼らに感想を聞かれたからそう答えられたのだろうか?ルカでははっきりしないが、マタイを読むと、どうやらそれは弟子たちだったようだ。マルコは弟子の一人が、「なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう」と感嘆したので、主が答えたと書いている。
 彼らが見とれていたのは神殿だった。今日のエルサレムには城壁の壁が一部分だけ残されていて、イスラエル人たちはその「嘆きの壁」の前で祈る。見事な大石でできた壁だ。しかし、弟子たちが指差したのは城壁のその大石ではなく、神殿の石だった。それは白大理石で、12メートルもの高さがあったそうだ。また奉納物には純金でできた大きなぶどうの木があり、人間の背丈ほどもある房が垂れていたと言われる。
 マタイとマルコによると、この時イエス様は神殿の境内から出て行こうとなさっていた。だから、弟子たちは振り返って神殿を眺め、あらためてその壮麗さを讃嘆したのだろう。そして、主に相槌を求めたのだ。しかし、主の答えは彼らの予期しないものだった。予期しなかっただけでなく、司祭たちに聞かれたらただでは済まない、不穏当な予告だった。「一つの石も崩されずに他の石の上に残ることがない」とは、崩壊と滅亡を意味したからだ。
 しかし、イエス様は好き好んでそのような予告をされたのではなかった。マタイではその直前に、「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で撃ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。見よ、お前たちの家は見捨てられて荒れ果てる」(マタイ23;37-38)と、その滅亡を嘆かれた。同じ言葉はルカでは13章34-35節に収録されている。

 そこで弟子たちは尋ねた。「先生、ではそのことはいつ起こるのですか。また、そのことが起こるときには、どんな徴があるのですか」と。彼らはその予言がすごく心配だったのだろう。メシアはイスラエルの国を建てなおすと聞いたのに、もし神殿が礎石もないほどまで壊滅するとしたら、それは敗北と滅亡に他ならないではないか。ならば、自分たちが主に賭ける希望はどうなってしまうのだろうか?予言されたよう苦難はいつどのようにやってくるのだろうか?彼らは知りたかった。
 ところで、ルカはこの質問が主の予言のすぐ後、すなわち神殿の見事な石と奉納物が見える神殿の境内で行われたように書いている。しかし、マタイとマルコでは神殿崩壊の予言は神殿の境内でされたが、終末の徴候はオリーブ山に座って話されたことになっていて、二つの話の間には時間差がある。予言の内容に変わりはないが、もしマタイとマルコが書いたようだったとしたら、やがて滅びる都エルサレムを見下ろして話された主に、私は深い憂いを帯びたお姿を想像してしまう。
 オリーブ山は神殿があるシオンの丘を降り、ケドロンの谷を渡った向かい側にある。今はそこに「涙の教会」が建っているが、その名は「エルサレム、エルサレム」と嘆かれた主のお言葉からとられたものだ。私もそこから眺めたが、祭壇の背後の窓からは眼下にエルサレム市街が一望できた。主はそこに入城後、昼は神殿で教え、夜はオリーブ山で過ごされた。もしそこに戻ってから弟子たちが質問したのだとしたら、時刻は夕方だっただろうが、主の答えの長さを考えると、その話は神殿の境内よりもここでだったかなという気がする。

 いずれにせよ、イエス様の答えは具体的で、恐ろしいものであった。主はまずこう言われた。
「惑わされないように気を付けなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』とか、『時が近づいた』とか言うが、ついて行ってはならない。戦争とか暴動のことを聞いても、おびえてはならない。こういうことがまず起こるに決まっているが、世の終わりはすぐには来ないからである。」
 これは偽預言者の出現や流言飛語に惑わされるなという警告だった。実際それ以来どれほど多くの偽メシアが現れ、偽預言が流されたことであろうか。まったくの偽預言なのに、日本では一時ノストラダムスの大予言が喧伝されたことがあった。オウム真理教の麻原彰晃のように、救世主をかたる人物は今も後を絶たない。偽預言的な情報流布には尖閣沖映像がユーチューブで流れたように、現代では無責任なインターネットもある。昔の比ではない。
 主は更に言われた。
 「民は民に、国は国に敵対して立ち上がる。そして、大きな地震があり、方々に飢饉や疫病が起こり、恐ろしい現象や著しい徴が天に現れる」と。これはその前に言われた「戦争や暴動のことを聞いても」というお言葉の具体的な描写であり、敷衍だと思っていいだろう。この「民は民に、国は国に敵対して立ち上がる」という一句を読むと、人はユダヤ人歴史家フラビウス・ヨゼフスの「ユダヤ戦記」を思い浮かべるのではなかろうか。
 それはまさにユダヤ人がローマに対して反旗をひるがえし、血みどろの民族戦争を続けた記録だ。しかし、紀元70年、最後はローマ軍に制圧されてエルサレムの町は焼き払われ、イエス様の予言通り神殿は「一つの石も崩されずに、他の石の上に残ることなく」壊滅した。国としてのユダヤは地上から抹殺されたのだ。ヨゼフスは最初ユダヤ軍のガリラヤ地方司令官だったが、形勢不利になるとローマ軍に降伏し、以後はローマ側について戦った。 
 そして、ユダヤ滅亡後は皇帝から厚遇されてローマに住んだ。ユダヤ人から見れば、彼はいわば売国奴だった。しかし、ローマ軍に参加して、自分の目で見たユダヤとエルサレムの惨憺たる崩壊を、紀元80年頃に「ユダヤ戦記」として書き残した。それだけに、自分に都合のいい歴史観だと批判もされるが、たとえ誇張や我田引水があるにせよ、ユダヤ側とローマ側の両方に身を置いた者が、ユダヤ滅亡の実体験を書き残したことは、やはり実に貴重だと言わなければならない。
 それはイエス様の予言を理解する助けになる。ルカの福音書は紀元70年ごろ書かれたとも80年頃だとも言われるが、80年説をとる批判者は、ルカがヨゼフスのユダヤ戦記を見てからイエス様の予言を書いた。これは事後予言だと主張している。しかし、マタイやマルコはユダヤ戦記がまだ世に出ていなかった紀元60年代に書かれている。ユダヤ戦記の影響は皆無だ。ルカも同じことを書いているから、ヨゼフスの書を読んで書いたのではあり得ない。それに昔は写本で読むしかなく、ユダヤ戦記が80年頃に出るや否や、ルカのような庶民が簡単に読めたとは思えない。
 ルカは使徒言行録も書いたが、その最終章は聖パウロがローマで囚人だった時で終わる。ルカもそこにいたのだ。しかし、聖パウロは紀元63年に解放され、67年に殉教したとされる。だとすれば、使徒の殉教に触れていない使徒言行録は遅くともAD67年より前に書かれたはずだ。ところで、ルカの福音書と使徒言行録は前編と後編の関係にあるから、福音書が使徒言行録後に書かれたことはあり得ない。ということは、彼がユダヤ戦記を参考にしたこともあり得なかった証明になる。
 いずれにせよ、「民は民に、国は国に敵対して立ち上がる」戦争は実際に起き、ユダヤは敗れた。しかし、ここで大事なことは「世の終わりはすぐには来ないからである」と言われた主のお言葉だ。エルサレムや神殿が灰燼に帰しても、それはまだ「主の日」、つまり主が裁きに来られる日ではない。いろいろな苦難や戦争や天変地異があり、人心も乱れに乱れる。そういうことは事前に必ず起こる。だが、それでも「世の終わりはすぐには来ない」と主は言われた。そこが大事なのだ。
 それから2千年。20世紀だけ見ても、第二次世界大戦のような悲惨な戦争がどれほどあったことだろうか。スマトラ沖大地震のような大きな地震がどれほどあったことだろうか。それも数えきれない。中世のペスト大流行のような疫病やエチオピアであったような飢饉もどれほどあったことだろうか。それにもかかわらず、世の終わりはすぐには来ないのだ。「恐ろしい現象や著しい徴」はまだそれほど現れていない。だから、世の終わりもすぐには来ないと言えるだろう。

 では、それはいつ来るのか?弟子たちの関心事もそこにあった。主は答えられた。エルサレムが蹂躙され、異邦人の時代が来る(ルカ21;24)。その後に天変地異があり、天体が揺り動かされる。そのとき、「人の子が大いなる力と栄光を帯びて」(ルカ21;27)やって来る。しかし、「その日その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じで」(マタイ24;36)、「人の子は思いがけない時に来る」(ルカ12;40)と。
 つまり、明日かも知れないし、千年後かも知れないのだ。それは何を意味しているのだろうか?主は教えてくださった。「このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ。…神の国が近づいていると悟りなさい」(ルカ21;28、31)と。「頭を上げて」とは、しゃんとしなさい。落ち込んでうつむかず、金儲けにうつつを抜かさず、来るべき時がいつ来てもいいように自覚しながら、福音的に生きなさい。神の国が来ると喜びなさいと言うことではないかと思う。
 だから、イエス様は弟子たちに起こるもっと身近な困難や試練も予告して、こう言われたのだ。
 「しかし、これらのことがすべて起こる前に、人々はあなたがたに手を下して迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために王や総督の前に引っ張って行く。それはあなたがたにとって証しをする機会となる。だから、前もって弁明の準備をするまいと、心に決めなさい。どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、わたしはあなたがたに授けるからである」と。
 ここに挙げられる具体的な権力者は、王であったヘロデ・アグリッパやローマ総督たち、そしてユダヤの宗教的権力者だった大祭司や長老たちだ。現代の権力者たちとは違う。そして、迫害者たちが弟子たちを連行する場所は会堂や牢だった。もちろん、現代でもそれに似た権力者はいる。一党独裁の中国などはその例だ。当局の意向に沿った「愛国教会」しか許可しないからだ。しかし、この個所でイエス様の念頭にあったのは、あくまでも当時の権力者だったと見るべきだろう。
 弟子たちの近未来についてこの予言は、主のご復活後すぐ現実となった。特に使徒ペトロとヨハネは神殿でイエス様の復活を民衆に勇敢に伝えたため、2度も大祭司や司祭たちに捕えられ、最高法院に連行され、投獄された。しかし、二人は「人間に従うよりは、神に従わなければなりません」(徒5;29)と、ひるまずに反論した。主が「どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、わたしはあなたがたに授ける」と言われた通りだった。他方、聖ヨハネの兄聖ヤコブは紀元43年にヘロデ王によって斬首され、立派に殉教した。

 主は苦難が権力者などからだけではなく、身内や身近な人たちからも来ることを予言してこう言われた。「あなたがたは親、兄弟、親族、友人にまで裏切られる。中には殺される者もいる。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない。忍耐によって、あなたがたは命をかちとりなさい。」
 助けになり慰めにもなるはずの家族や友人に理解してもらえず、疎まれたり、裏切られたりすることは、ある意味で権力者の迫害よりも辛いことだ。しかし、福音に従えば必ずそう言う目に遭う。初代教会ではまず聖ステファヌスが、同胞に憎まれて石殺しにされた。修道女になったため、家族の縁を切られた女性もいる。洗礼を受ける決心を打ち明けた時、私も家族から疎まれた。そういう人は少なくない。主ご自身が弟子のユダに裏切られたのだから、そのくらいは当たり前なのだ。 
 終末の時が近づけば、戦争や暴動、破壊と殺戮、飢饉、疫病、天変地異が起こる。それらは変動に次ぐ変動であり、変動は既存のものを変え、壊し滅ぼす。権力者の迫害や圧迫、身近な人々の裏切りや拒絶もまた人の心身を壊す力だ。では、イエス様は私たちを恐怖におののかせるために、そういう恐ろしい予言をなさったのだろうか?いや、まったく逆だと理解すべきだろう。神様の救いの計画でそれらは起こらざるを得ないが、それに備えつつも、恐れるなと励まされたのだ。
 だからこそ、主は「あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない。忍耐によって、あなたがたは命をかちとりなさい」と言われたのだ。崩壊と消滅の時は来る。しかし、自然や人の力では壊れず消滅しないものもある。私は太平洋戦争の時、空襲の爆弾が日本の大都市を壊滅させるのを見たが、人の中に蓄積された知恵までは破壊できないことも見た。同じように、父なる神に信頼を置く人の魂は迫害でも終末の恐れでも壊せない。それをイエス様はこう言われた。
 「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。二羽の雀は一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。あなたがたの髪の毛までも、一本残らず数えられている。だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている」(マタイ10;28-31)と。
 この時も主は髪の毛一本を例にとって教えられたが、「髪の毛の一本も決してなくならない」とは、福音を信じて生きる者は神の御手にあり、たとえ試練や苦難に遭うとも、守られているということを意味する。主は終末の時に想像を絶するような恐ろしいことが起こると予言なさった。しかし、そういう破壊と変化が起こるのは、救われる人たちのために、神様が御子によってすべてを一新なさるためなのだ。典礼暦年の終わりの福音はそれを教える。
 かつて復活節の間の多数殉教者のミサでは、奉献の祈りに知恵の書3;1-3が使われた。“Iustorum animae in manu Dei sunt, et non tanget illos tormentum malitiae: visi sunt oculis insipientium mori: illi autem sunt in pace.”(神に従う人の魂は神の手に守られ、もはやいかなる責め苦も受けることはない。愚かな者たちの目には彼らは死んだ者と映るが、彼らは平和のうちにいる。)これは「人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである。その日には喜び踊りなさい」というお言葉に通じる。

人の復活はあるのかないのか

 今週は年間第31主日を祝うのかと思ったら違った。諸聖人の祝日がそれにとって代わり、いつもの聖書と典礼のパンフレットがなかった。だから、次の年間第32主日の聖書がどこかは定かでないが、今までのサイクルで行くなら福音はルカ20;27-40ではないかと思う。そうだろうという前提で、その個所を考察してみる。
 イエス様はそこでサドカイ派の人々と議論なさっている。彼らが現れたというだけで、人は、おや、主はもうエルサレムにおられるんだということに気付くと思う。ファリサイ派と違って、彼らは司祭階級に所属し、ほとんどがエルサレムやその近辺に住んでいたからだ。ルカの福音書を少し戻って調べてみると、案の定、主の一行はすでに都に入っており(ルカ19;28seq.)、主は神殿の境内で毎日人々に教えておられた。だからサドカイ派の人々が出て来た(同20;1)のだった。

 この派は自分たちをダビド王が任命した大祭司ツァドクの後裔だと主張していたが、その起源は確かではない。しかし、西暦紀元前2世紀の中頃、ハスモン王朝のヨナタンが政治権力に加えて最高司祭職まで手中に収めると、それに対抗して結集したのがサドカイ派だということはわかっている。イエス様の時代には、彼らはファリサイ派とともに最高法院の一大勢力を誇っていた。ただ、彼らの根拠地は神殿だったので、主がガリラヤで福音宣教をなさっていた頃は、接触がほとんどなかったのだ。
 人は彼らが司祭を中核とした派閥だったのなら、非常に宗教的だっただろうと想像するだろう。だが実際はそうではなく、神殿の祭儀はもちろん彼らの主たる活動だったが、彼らはむしろ政治的で、占領者ローマやヘロデ王と妥協しようとしていた。ファリサイ派の人々がイエス様を宗教的対立者と見なしたのに対して、彼らは主を政治的な意味で危険な人物と考えた。だから、主を抹殺する謀議を主導したのだった。主を殺した主犯はファリサイ派ではなく、サドカイ派の司祭たちだったのだ。
 宗教的な観点からすると、彼らはある意味で物質主義的だった。モーセの律法に従って、神殿で神への祭儀を行い、モーセ五書の戒めは守っていたが、預言者の教えに従わず、ファリサイ派が死者の復活を認め、天使のような霊的存在を認めていたのに対し、彼らはそれらを否定していた。だから民衆にはファリサイ派ほどの影響力がなく、西暦紀元70年にユダヤが滅亡し、神殿が消滅すると、ファリサイ派が諸国に離散したユダヤ人たちと共に生き残ったのに対し、彼らは歴史から姿を消したのだった。

 さて、この日の福音では、主が神殿で教えておられると、彼らの何人かがイエス様に質問したことを伝えている。彼らは尋ねた。
 「先生、モーセはわたしたちのために書いています。『ある人の兄が妻をめとり、子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』と。ところで、七人の兄弟がいました。長男が妻を迎えましたが、子がないまま死にました。次男、三男と次々にこの女を妻にしましたが、七人とも同じように子供を残さないで死にました。最後にその女も死にました。すると復活のとき、その女はだれの妻になるのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのです」と。 
 モーセが書いたと言うそのきまりは、申命記25;5-10にある。もし、死んだ夫の兄弟が誰一人妻だった自分を娶らないならば、彼女は町の長老たちに、兄弟たちが義務を果たさないと訴えを起こすことができたのだった。今日ではそんな習慣はないが、私が子供だったとき、近所で弟が兄の死後、その妻をめとった例があった。弟は嫌がって逃げ回ったが、親族に強いられて、結局は心ならずも夫婦になった。この日の福音を読むとそのことを思い出す。
 シエラレオネでもそんな例に出合った。1991年だったが、シスター根岸と小学校の教頭を訪ねた時、彼がシスターに、「弟が死んだので、親族が私に彼の妻をもらえと言っています。ここではそれが義務なんですが、引き受けてもいいでしょうか?」と相談したのだ。もちろんシスターは、「とんでもない!あなたには奥さんがいるじゃありませんか。キリスト教徒にはそんなことは許されません」と厳しく叱ったが、私はイスラムの国ではまだこんなことがあるんだと思ったものだ。

 イエス様の話を聞きに来ていた人々は、サドカイ派の人々の質問を耳にしたとき、「これはやっかいな難問を持ち出されたものだ。先生はどう答えるのだろうか?」と、主がどう返答するかに興味津々だっただろう。確かに、答えにくい問題だった。しかし、サドカイ派は人の復活を否定していたのに、「復活のとき、その女はだれの妻になるのでしょうか」と、なぜあたかも復活を是認したような質問をしたのだろうか?教えてもらいたかったからではなく、ある魂胆があったからだ。
 彼らは考えたに違いない。もし復活がなければ、モーセの掟に従って7人兄弟が同じ女を妻にしても、問題はない。前夫だった兄弟たちは皆死んで終わりだからだ。しかし、復活があると主張すれば、復活の時にその女がだれの妻になるかという難問が生じる。復活がないからこそモーセはこの掟を与えたのに、復活があるなどと言うから、そういう矛盾が生じるのだ。この論法でいけば、復活が反モーセ的であるばかりか、復活を否定する方が正しいことも立証できるだろう、と。
 そればかりではない。もし、イエス様がモーセのそういう掟を知らなかったら、それこそ赤恥をかかせることができるし、知っていたとしても、この難問にうまく回答できないで立ち往生すれば、群衆の面前で先生としての信用を一気に失墜させることができる。この若いラビだけでなく、復活を信じるファリサイ派の連中もギャフンと言わせられるとしたら、まさに一石五鳥の効果が期待できる。彼らは何と良い問題を考え出せたことかと、自信満々で質問をぶつけたに違いない。

 ところが、イエス様はお答えになったのだった。「この世の子らはめとったり嫁いだりするが、次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない。この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである。死者が復活することは、モーセも『柴』の個所で、主をアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と呼んで、示している。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである」と。
 おそらくそれは、サドカイ派の人々が予期していなかった答えだったに違いない。彼らは信じてもいないのに、信じたような口ぶりで復活を前提にした質問をした。孫子の戦法に、敵を知れば百戦危うからずというのがあるそうだが、彼らは復活の何たるかをよく知らずに、論敵の土俵に乗った。彼らは復活する人を現生の人々と同一視していたから、イエス様にそこを突かれてあえなく論破されたのだ。主のお答えは明快で見事だった。
 主は彼らの間違いを指摘して、復活の時、人々は今とはまったく違って、結婚したり、子を生んだり、死んだりはしないと断言された。つまり、死すべき人がしている生きる営みを、その時はもう一切しないと明言することによって、彼らの浅薄な復活理解を否定なさったのだ。では、復活の時、人はどうなるのか?その時、人は「天使に等しい者」になる、と主はお答えになっている。「神の子」だからだ、と。
 それは人の復活があるのかないのかという問いへ明確なお答えであった。人は復活する。しかし、このお答はそれだけではなく、復活する人がどういう姿になるかをもわからせてくださった。きわめて重要な啓示だ。復活する人はもはや死者ではなく生者だ。だから、「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ」と言われたのだ。それなのにサドカイ派は復活後もこの世と同じだと考えて質問をした。そこで主は、「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、思い違いをしている」(マタイ22;29)と一喝されたのだった。このお言葉はルカにはないが、マタイとマルコには書き残されている。

 聴衆にははっきりわかった。議論はサドカイ派の完敗だった。そこで、律法学者の中には、「先生、立派なお答えです」と言う者もいた。律法学者はファリサイ派のエリートだが、彼らは復活を主張していたので、この議論の帰趨には重大な関心を持っていたに違いない。ところが、イエス様が見事にサドカイ派を論破なさった。だから、珍しくイエス様を称賛したのだ。しかし、そのためだけではなかっただろう。イエス様がモーセの「柴の個所」を引用して話されたからでもあったと思う。
 モーセの「柴の個所」とは、出エジプト記3;15を指す。神様はシナイ山の麓でモーセに、イスラエルの民を救いにエジプトへ行くことを命じられたが、神の名を尋ねた彼にご自分の名をヤーヴェだと啓示すると、その後で「あなたたちの先祖の神、アブラハムの神、イサク、ヤコブの神である主」だと言われた。主はイスラエル民族の出発点である、この重要な個所を根拠に出されたのだ。律法学者たちはこの論じ方に一種の敬意と好感を持ったのではなかろうか。
 だが、すぐ後にあった主の御受難では、残念ながら彼らのほとんどはやはり主の敵に回ってしまった。復活等の問題におけるサドカイ派との対立よりも、唯一の神やモーセの律法等におけるイエス様との対立点の方がより大きく深刻だったのだろう。いずれにせよ、サドカイ派の人々とイエス様との間にあった復活論争や、ファリサイ派との関わり等はもう過去のことだ。しかし、人の復活があるのかないのかの問いは、キリスト者にとっては今も大きな問題として残っている。

 このブログを書き始めたとき、すぐ下の弟が急死した。カトリックで死者の日とされている11月2日だった。風邪から肺炎になり、昭和医大北部病院に入院してたった4日後だった。でも、キリスト教は嫌だと言っていたから、弟が「復活するのにふさわしい人々」(ルカ20;35)の数に入るかどうかはわからない。私はいつ死んでもおかしくない年齢に達したという理由で、手を貸す運動代表をやめたばかりだから、霊安室の弟を見ながら、まるで自分の死に顔を別の自分が眺めているような錯覚にとらわれた。常々よく似ている兄弟だと言われてもいたからだ。
 その日は葬儀や墓地のことなど、家族の相談に乗って一日を費やし、翌日は約束だったから、世田谷の桜新町修道院であった宣教クララ会総長の修道誓願50周年記念の祝いに出席、昨日は弟の自宅で通夜、今日は葬式で5時ごろ帰宅した。そんな中で復活のことを考えたのも一つの巡り合わせだろうか。葬儀は浄土真宗本願寺派の僧侶がとり行ったが、読経の間脳裏に去来したのは成仏などではなく、死んだ弟は無に帰したのかどうかということであった。
 キリスト教の信仰では、人には復活がある。復活とは信者にとって何かと言えば、福音の最重要な信仰箇条だ。ところが驚くべきことに、使徒聖パウロの手紙を読むと、何と初代教会においてすら復活を疑う人たちがいたことがわかる。彼はコリント教会に、「キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか」(一コリ15;12)と書いた。信者だったのに、サドカイ派の人々と何ら変わらない人々がいたのだ。そして、それは今日まで続いている。
 では、私はどうすべきであろうか。聖パウロの言葉を聞けばいいと思う。彼は続けて書いた。「死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストが復活しなかったのなら、私たちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。…死者が復活しないのなら、…キリストを信じて眠りについた人々も滅んでしまったわけです。この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者です」と。
 「しかし、」と彼はさらに続ける。「実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました」と。それが真実なら、キリストの復活を信じ、自らの復活を希望する者は、「すべての人の中で最も惨めな者」の正反対で、最も幸いな者であることがわかる。使徒はそれを言いたかったのだ。彼は人がどのように復活するかについても、次のように教えた。それはイエス様が話されたことを敷衍した説明に他ならなかった。
 「死者の復活もこれと同じです。蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれるときには卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活するのです。つまり、自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです。」(一コリ15;42-44)彼は主の復活を信じ、それに賭けた。信仰とは畢竟賭けなのだ。私も主イエス・キリスト様の証言に賭けた。それが受洗だった。今、自分の生涯も終わりに近いと感じながら、私はもう一度その賭けを確認する。
プロフィール

余生風

Author:余生風
「聖書温故知新」
「思いつくまま、気の向くまま」
折にふれ「水彩画」も紹介してまいります。

「手を貸す運動」創始者
社会福祉法人「地の星」理事
元玉川大学教授

佐藤正明(余生風)ホームページ
「絵画と心」

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