しかし、もう一つ疑問が残る。「友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちも呼んではならない」というのは、禁止だろうかそれとも、招待しない方がいいという勧告だろうか?という問題だ。私は再来週、発起人として親しい人たちと会食する予定がある。もしそういう会食はやめるべきだと禁止されたのなら、私たちがそれを行なうことは、主の教えに背くことになるだろう。しかし、勧告なら、そういう人たちとの会食もいいが、できるだけ貧しい人たち等も招きなさいという解釈になる。 バルバロ訳も「招んではいけない」と禁止命令的に聞こえる。しかし、聖書協会訳は「呼ばぬがよい」だ。これだと推奨で、禁止ではない。英語は “Do not invite”(招くな)で、“Do not have to invite”(招いてはならない)ではなく、仏訳も “Ne convie pas”(招くな)で、“Il ne faut pas convier”(招いてはならない)ではない。原典のギリシャ語も “Meh phonei”(招くな)だ。これらから見ると、禁止ではあるが、強制的な禁止ではなく、勧告的な禁止だと言えよう。しかし「呼ばぬがよい」よりは強いと思う。 イエス様は他のファリサイ人にも食事に招かれたことがあった。また、カナでは婚礼の席に招かれて奇跡もなさった。しかし、その時のホストに友人や親戚や有名人たちではなく、貧乏人や社会的弱者を招きなさい、と彼らの招待者人選に異を唱えられてはおられず、その招待を受けておられる。それから考えると、そういう招待はよくない、やめよと禁止なさったのだとは思えない。だから、常識的には「呼ばぬがよい」の訳が妥当だろう。 主を招待したそのファリサイ派の議員に、そしてひいては私たちすべてに、主がわからせたかったことは、お返しできるような人たちを招く食事会などはよくないということではなく、お返しのできない人たちに目を向けなさい。自分達だけ楽しんでいてはいけない。彼らを心にかけるならば、天の父はそれをご覧になっておられる。そして、彼らに代わって復活の時に、お返しとして報いてくださる。だから、あなたがたは幸だと明かしてくださったのだ。 食事に招くことが重要なのではない。それはたまたま食事の席だったから例に挙げられたに過ぎず、その心は「わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれた」(マタイ25;35-36)と同じなのだ。だから、「わたしが見下されて誰からも招かれなかったときに招いてくれた」とも追加できよう。要は「お返しのできない人たち」と人並みにつきあい、彼らを大切にすることにある。そして、その手本はすでに神様がお示しになった。なぜなら、貧しい人、悲しむ人、迫害されている人は幸いだ。天の国はその人のものであると、そういう人たちを神の国に招いてくださるからだ。 それにくらべ、その福音を伝えるべき教会はどうだろうか?貧者、病者、障害者、ホームレスなどの社会的弱者とかかわっている人もたくさんいる。が、その半面、今日の都会の教会は貧しい人や社会的身分の低い人が、いささかお呼びではない場所になっていないだろうか。片や私は、シエラレオネの子たちの給食援助をしている人たちをたくさん知っているが、これも主の勧めに従った一つの形だと思う。日本とシエラレオネは地球の裏表ほど離れているが、「お返しのできない人たち」を招けと言われた主のお勧めは、そこですでに27年間実践されてきた。ただし彼らは招き主ではなく、会食の下働きのようだ。黙々と支援を続けている彼らに、深い敬意を覚える。
マリア様の挨拶を聞くと、エリサベトの胎内で子がおどった。すると彼女は声高らかに言った。「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子様も祝福されています」と。実にこれこそ無数の人が祈り、何人もの音楽家が曲をつけたかの「アヴェマリア」の祈り、天使祝詞の大事な一部分になった言葉だった。この祈りの冒頭は、大天使ガブリエルがマリア様に聖霊による懐胎を伝えた時、「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」(ルカ1;28)と言った挨拶だ。エリサベトの挨拶はその後に続く。 アヴェマリアとは、“Ave, Maria, gratia plena, Dominus tecum.”というラテン語の一句の出だしであり、エリサベトの言葉は“Benedicta tu inter mulieres, et benedictus fructus ventris tui.”(ヴルガタ訳)となる。この訳は公式のアヴェマリアの祈りとは少し違うが、いずれにせよ、それはラテン語訳に過ぎない。天使の言葉はギリシャ語だと、ローマ字で書けば、 “Kaire, kekaritomeneh, ho kurios meta sou.”だが、原典のギリシャ語といえども、聖母やエリサベトの話した言語ではなかった。特にエリサベトはユダヤ人で祭司の妻だったから、おそらく生粋のヘブライ語を話していたことだろう。 では天使とエリサベトは、本当はどんな風に言ったのだろうか?それに興味を覚えたのでヘブライ語訳福音書を読んでみた。エリサベトは声高らかにこう叫んだのだった。ローマ字で書くと、“Meboreket at ba-nashim, u-meborak ha-peri asher bu-bitneck..”だ。 ちなみに、天使のお告げアヴェマリアは、“Shalom lack, meleat hen. Adoneinu itack.” だ。もちろん天使の本来の言語はヘブライ語でもなく、何語でもなく、天国語のはずだろうが、天使とマリア様、エリサベトと聖母の間では、実際は上記のような言葉が交わされたに違いない。