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富の活かし方

 年間第18主日の聖書はコヘレト1;2、2;21-23、コロサイ3;15、9-11、ルカ12;13-21だ。
 旧約聖書のコヘレトは「すべては空しい」というキーワードで、「知恵と知識と才能を尽くして労苦した結果を、まったく労苦しなかった者に遺産として与えなければならないのか。これもまた空しく大いに不幸なことだ」と書いた。福音書はイエス様が富についてのメッセージを語られる個所だが、コヘレトの呟きは主が話された譬の中で、「愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前の用意した物は、いったい誰のものになるのか」と言われた神様の声に呼応するものだ。
 他方、聖パウロはコロサイの信徒たちに、「あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい」と諭した。それは「自分のために富を積んでも、神の前に豊にならない者はこのとおりだ。…擦り切れることのない財布を作り、尽きることのない富を天に積みなさい」(ルカ12;33)と教えてくださったイエス様の教えに呼応している。
 富に対する福音のメッセージを中心に、コヘレトは富の空しく否定的な面をクローズアップさせ、使徒の手紙は対照的に福音的で肯定的な面を強調する。そうだとすれば、聖書のこの3個所に共通するテーマは富だと言ってよかろう。そこから典礼の意図も見えてくる。教会はこの日、私たちに富のことを考えさせようとしているのだ。だが、そうとわかっても、この暑さだ。思考力も体力もバテ気味だから、今回も考察は福音書だけに限る。

 さて、そのルカによる福音12;13-15はこう伝える。
 「群衆の一人が言った。『先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください。』イエスはその人に言われた。『だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか。』そして、一同に言われた。『どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。』」

 まずこのやりとりを見てみる。「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか」という反問は興味深い。そこにはイエス様の少し怒気を含んだ不快感も読み取れる。興味深いと思うのは、当時のイスラエルには裁判官や調停人もいたことがわかるからだ。裁判官とはヘブライ語でシュポティームと言う。旧約聖書の士師記という一巻は、イスラエル民族がカナンの地を征服したばかりの頃の記録だが、その「士師」がまさにシュポティームだった。従って裁判官はもうはるか昔からいたわけだ。
 もう一つ興味深いのは、遺産分配を兄弟に言ってくださいと頼んだ声だ。昔も今も遺産をめぐる兄弟争いは同じなのだと思うと、コヘレトではないが、「かつて起こったことは、これからも起こる。太陽の下、新しいものは何もない」(コヘ1;9)と呟やき、ニヤリとしたくなる。もしこの男の言い分が真実だったのなら、彼は親の死後何らかの理由で、兄弟から遺産分配を拒否されていたのだろう。それに比べると、ルカ15章の放蕩息子はすんなりと自分の取り分の遺産をもらっている。とにかくこれらの話からは、遺産が封建時代の日本では惣領たる長男によって全部相続されていたのと違い、当時のイスラエルでは兄弟に分配されていたことがわかって興味深いのだ。
 それにしても、なぜ主はその男の頼みを不快に思われたのだろうか?私の単なる推測に過ぎないが、― そして、そんな推測が聖書の考察では面白いのだが、― 一つにはその人が主の使命を勘違いして、俗事の裁定を願ったからだろうと思う。イエス様の使命は天父のご意志を全うすることにあった。後に「わたしの国は、この世には属していない」(ヨハネ18;36)と言われた通りで、病人を癒し、飢えた人を養うことなどならまだしも、商売や相続などの単なる俗事は関わりのない事柄だったのだ。
 しかし、主の不快感はそれだけではなく、その頼みにどうやら主を試そうとする意図を感じ取られたからではなかろうか。前段で「男の言い分が真実だったのなら」と書いたが、それはその頼みが嘘で、主の力量を試すための作り話だった疑いもあるからだ。ふつう人は家族のごたごたなどの恥を人前にはさらさない。それに、群衆の中から言ったというのもひっかかる。大事なお願いなら、ふつうそんな頼み方はしない。前に進み出て願うはずなのに、そうしておらず、切実さに欠ける。これらを総合すると、どうもその男は主を試そうとして叫んだ可能性があると思えるのだ。
 しかし、イエス様は彼の願いは斥けられたものの、その機会を利用して、その場にいた人々に富の危険と限界をお話しになった。それが「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである」と言われたお言葉だ。それは富を否定なさったのではない。貪欲に警戒を促がされたのだ。そして、富頼みがどんなに間違った信頼であるかを教えられた。確かに富には力はあるが、限界もあるからだ。そして、一同がその真理をもっとはっきりとわかるように、次のような譬をお話しになった。

 「ある金持ちの畑が豊作だった。金持ちは、『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』と思い巡らしたが、やがて言った。『こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、こう自分に言ってやるのだ。《さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と。》しかし神は、『愚かな者よ、今夜お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。自分のために富を積んでも、神の前に豊にならない者はこのとおりだ。」

 コンパクトだが、実に見事な譬だ。ストーリもメッセージも解説が不要なほどわかりやすい。だがあえて少しコメントしてみる。主人公は当時の社会にいた典型的な富者の一例だ。イエス様の時代、富は主として農作物、家畜、金銀財宝、土地などの所有だった。富の形態は現代の複雑さとは違って実にシンプルだった。この譬の金持ちはどのタイプだったかというと、農作物の収穫で富を得ていた大地主だった。豊作だった作物はおそらく保存のきく麦などの穀物だっただろう。 
 彼は倉庫を建て直して、そこに豊作の収穫物と財宝をしまうことを考え、その計画に満足して、「さあこれで向こう数年間は安泰だ。楽に生きていけるぞ」と自分に言った。私にはその気持ちが少しわかる。子どもの頃、秋の収穫後に米俵が土間に積まれると、私もああこれで一年間は大丈夫だと思った記憶があるからだ。父は貧しい小作農だった。子どもも一緒に働いたから、地主への年貢が○俵、売り分が○俵、残る○○俵を年12ヶ月で割ると、これで家族は生きていけると計算できたのだ。当時の農家は自給自足だったからだ。
 では、イエス様は譬の金持ちに対する神様の声を通して、人が蓄えや収入見込みをあてにし、少なくともあと○年は生きていけると安心することを、愚かだと否定されたのだろうか?いや、そうではあるまい。もしそうなら、年金がもらえるようになったとホッとすることも、景気が上向いて発注が増えた。これで何とか生きていけると希望を持つことも、愚かだと言われることになりかねないからだ。しかし、それはあり得ない。譬で金持ちが愚かだと言われたのは別の理由からなのだ。
 ならば、その金持ちはなぜ愚かだと言われたのだろうか?それは「自分のために富を積んでも、神の前に豊にならない者はこのとおりだ」という言葉にある。彼が愚かだと言われたのは金持ちだったからではない。3つの間違いを犯していたからだ。第一は、人の死期を知るのは神様だけだということに思い至らなかったこと。第二は、富さえあれば大丈夫、人はずっと安泰だと思い込んで、それに命を託すほどの信頼を置いたこと、つまり神様ではなく富を信じたことだ。そして第三は、地上に富を積んでも、神様の前には富を積まなかったことだ。

 金持ちの第一の間違いほぼ自明だから、解説はしなくていいと思う。だが、第二の間違いは少し論じる方がよさそうだ。私は朝日新聞7月26日夕刊の「人脈記」で、大正末期に添田唖然蝉坊という演歌師がいたのを知った。いろいろな問題を歌でアピールした人だ。記事はこう紹介していた。「一押しなのが『金々節』だ。『金だ、金々、金々、金だ。金だ、金々、この世は金だ。金だ、金だよ、誰が何と言おうと、金だ、金々、黄金万歳。金だ、力だ。力だ、金だ。金だ、金々、その金ほしや。欲しや欲しやの顔色目色。見やれ血眼、くまたか眼。』こんな調子で『学者議員も政治も金だ』『神も仏も坊主も金だ』『金だ、教育、学校も金だ』などと拝金主義に染まった輩を、これでもか、これでもか、と21番まで歌う」と。
 その歌は富への信仰を一種の「ほめ殺し」で、完膚なきまでに揶揄している。所有する富が多いか少ないかの差はあっても、人間はお金、作物、土地、財宝などに代表される富をいかばかり頼りにしていることか。それは古今東西を問わないようだ。金が全て、金さえあれば何でもできる、金は力、金は働く目的という拝金主義は、金を「全能者」のように見る最も普及した宗教であり、富はその最大の偶像だと言えるのではなかろうか。
 しかし、主は富そのものを悪だとも軽蔑せよとも言われてはいない。神様ではなく、富に信を置くことを愚かだと言われたのだ。悪は富にではなく、富を受け止める人間の歪んだ考え方にある。だから、「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである」と言われた。そして、人の命は神様の御手にあるのに、それを完全に思い違いしていたから、かの金持ちは「愚かな者よ、今夜お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか」と言われたのだ。

 金持ちの第三の間違いは地上に富を積んでも、神様の前に積まなかったことだと書いたが、そのことで私が連想するのは現代世界の大富豪の一人、ジョージ・ソロスだ。私が彼を知ったのは、1997年にアジア諸国が急激な通貨下落で金融危機に見舞われ、経済が急速に悪化した時だ。当時のマレーシア首相マハティール氏は彼を激しく非難した。危機は米国のヘッジファンドなど機関投資家による通貨の空売りが原因で引き起こされたが、その主犯格がまさに彼だったからだ。
 彼はハンガリー生れのユダヤ系アメリカ人で、ヘッジファンドの帝王、ウオール街の投機王、現代版錬金術師、国際金融の黒幕などと呼ばれる。しかし、そんな彼も最初から金持ちだったわけではない。彼の養父はかつてナチスの強制収容所にいた。ただし、囚人ではなく、収容された同胞を監視する側だった。ソロスはそこで貧しい少年時代を過ごしたのだが、成長すると苦労を重ねた末、経済と金融に関する天才的な洞察と先見性によって、莫大な富を手にしたのだった。
 ところで、私が彼を連想したのは2003年のある日、朝日新聞で読んだ彼の一言を忘れずにいたからだ。そこには彼が、「私は貧しく生まれたが、貧しくは死なない」と言ったと書いてあった。「えっ、貧しくは死なない?」そう呟いた私は、こう質問したことも覚えている。「ソロスさん、確かにあなたは貧しくは死なないでしょう。しかし、富豪のまま天の国に入れると思いますか?この世の富はすべてこの世に残さなければならないのですよ。天の国に富を蓄えておかれましたか?」と。
 もっともその後、彼の伝記を読んだら、彼が哲学者でもあり、慈善家でもあることを知った。彼はソロス慈善基金で、かつては東欧共産主義諸国内の反体制運動を支援し、今は科学者への援助、東欧の諸大学への援助、世界規模のドラッグ禁止法への援助等に、巨額の資金を出しているという。私は2003年のコラムで、彼をただの強欲な投機家として書いたことがあった。その点は訂正したい。そして、彼が天に富を積んだかどうかを否定的に尋ねたことも謝りたいと思う。
 とは言え、彼がその強欲ビジネスで、「慈善」の何倍にもなる害と苦痛を、多くの人々に与えたことは否定できない。金儲けが不得手だからひがんで言うのではないが、彼の「慈善」そのものも何か政治的で、何のためなのかに疑念が残る。それに彼は無神論者だ。神も天国も信じないで、天に富を蓄えられるだろうか?そういう人にとっては、富は生きている間しか意味がないはずで、「私は貧しくは死なない」と言うこと自体が無意味ではないかと思う。「貧しくは死なない?でも、それがどうした。それでその後はどうなると言うのかね?」と問いたくなる。

 しかし、富は悪ではない。善用すれば素晴らしいものだ。それなしに生活は成り立たない。「富を自分自身のために蓄え、神の前に富まない者はそれと同じである」とは、富の有益性を肯定したお言葉でもある。いけないのは貪欲と「自分のためだけに稼ぎ、神の前に富まないこと」なのだ。玉川学園の創設者小原國芳は「右手に聖書、左手にソロバン」という名言を残した。ソロバンは富を稼ぐシンボルであり、聖書は富を活かす指標だ。富は稼ぐだけではなく、どう活かすかが大切なのだ。
 拝金主義を非難したり揶揄したりするだけではだめだ。富では人の命をどうすることもできないと悟るだけでもまだ足りない。天に積むように活かしてこそ、富は最大の価値を発揮する。量の多寡は問題ではない。大事なのは福音的な活かし方だ。貧しい人々のために使うもよし、病む人々のために活かすもよし、福音宣教に役立てるもよし、教会の建設にあてるもよし。活かし方は無数だが、メッセージは一つ。富は自分のためだけに使わず、神の国に蓄えよということだ。
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ルカ版主の祈り考

 梅雨が明けるや猛暑に見舞われ、汗かきの身はアンダーシャツを日に二枚も替え、昼寝を二回もする日々だ。やはり年齢のせいだろうか、こたえる。というわけで、年間第17主日の聖書朗読は創世記18;20-32、コロサイの信徒への手紙2;12-14、ルカ11;1-13だが、今週はとりあえず福音だけを取り上げることにする。

 ルカによる福音書11;1-13は祈りについて教えている。わけても主の祈りは、信者が最も頻繁に唱える大切な公的祈りだ。ところがルカ版主の祈りは、教会で通常使うマタイ版主の祈りとはかなり違う。読んで誰もがまず気付くのはその点だろう。しかし、主の祈りの内容そのものは教会の説教でも解説されるだろうから、私は自分の興味充足とボケ防止訓練のため、主の祈りが2通りあることから起こる疑問の解明に挑んでみようと思う。 
 だが、その2つがなぜ違うのかを探るには、まずどんな違いがあるかを掴んでおかなければならないから、それを明らかにすることから始めよう。字句などの細かい相違は無視しても許されると思うが、ルカ版主の祈りとマタイのそれとの間には、少なくとも3つの無視できない大きな違いがある。
 その第一は、ルカ版主の祈りの長さだ。マタイ版主の祈りは7句で成っていて長いが、ルカ版主の祈りは5句しかなくて短い。具体的には、マタイ版主の祈りにある冒頭の「天におられるわたしたちの」という修飾句、「御心が行なわれますように、天におけるように地の上にも。」「悪い者から救ってください。」という祈願の部分が、ルカ版にはないのだ。
 第二は、教えられたきっかけの違いだ。ルカでは弟子の一人が「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください」と言ったのがきっかけで、イエス様は「祈る時には、こう言いなさい」と教えられたと書いてある。教えられたのは弟子に頼まれたからだ。ところが、マタイでは異邦人のようにくどくど言うな。天の父は願う前からあなたがたに必要なものを知っているから、こう祈りなさいと、主ご自身の方からお教えになっている。
 第三にタイミングと場所が違う。ルカではイエス様が受難のためエルサレムに向かった途上でのこととされている。つまりガリラヤにおける福音宣教が終わり、受難と復活が近づく後半期での出来事になるのだ。ところが、マタイでは山上での説教の中で教えられている。この説教はまさに福音的生き方の大憲章だから、当然のことながら主の宣教活動の初めに位置づけられている。従って、その説教の一部分である主の祈りも、初期段階で教えられたことになっているのだ。一方は主の公生活の後半、他方はその最初になるから、大きく食い違う。

 では、第一の長さだが、なぜ一方は長く、他方は短いのか?通信手段が未発達だった当時だから、イエス様はある町で話した教えを、別の町でも話されたりしたことが多かったはずだ。その場合は、同じ教えや説話に多少の相違が出ても不思議ではない。私は福音書間のいくつかの相違をそういう見方で解決できると主張してきた。だがそれは、主の祈りには通用しないと認めざるをえない。教えられたのが弟子たちだから、2度3度と同じことをなさったとは思えないからだ。 
 だとすると、これは一度だけ教えられた一つの祈りだったと言わなければならない。ところが、実際は二つのバージョンがあって、それに相違があるとなると、どちらも正しいと言うわけにはいかない。マタイの方が正しく、ルカが2句を省略したのか、それともルカの方が正しく、マタイが2句を書き加えたのかということになる。解説書を2,3調べたが、残念ながらそれへの明確な答えは見つからなかった。ただ、バルバロ訳の註だけが「ルカの方が省略したらしい」と付記していた。
 この見解には、それを裏付ける訳が一つだけ見つかった。ルカ版主の祈りは手元の原典でも各国語訳でも全て5句だが、ヘブライ語訳だけにはマタイ版と同じ7句があるのだ。そういう訳はそれ相応の底本があるからこそできたわけで、同訳はその底本をペッシータと呼ばれるシリア語版写本だと記している。7句あるルカ版主の祈りを伝える写本もあるということだ。それがマタイ版と同じところを見ると、2句を省略したのは通常のルカ版主の祈りの方らしい、という見方は否定できない。
 もちろん逆の説もある。写本はいくつかの系列になって伝わっており、どれが元々の形かはルカ自身に聞かないとわからないことだが、彼自身が書いたオリジナルがもはや存在しない以上、最終的には真偽のほどはわからない。ただはっきりしていることは、教会ではマタイ版主の祈りがずっと公式に使われてきたことだ。読む機会がなかったので伝聞だが、最古の信仰入門書であるディダケもマタイ版主の祈りを用いていると言われる。これらを総合すると、どうやら元々の主の祈りは、マタイが伝えた方に近いと言ってよいように思われる。

 第二点は主がそれを弟子たちに教えられたきっかけだが、こちらはルカの方が真実だったように思われる。マタイの場合は山上の説教の一部分として教えられているが、そこでは一度に余りにも多くのことが語られている。まだ弟子になったばかりの12使徒たちには、そんなに大量の教えはとうてい理解し切れなかっただろう。山上の説教はある程度の関連性をもって語られた教えの集成だった。教説集だから史実性は乏しいと見るべきだろう。
 それに比べると、弟子の一人に「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください」と言われたのがきっかけでお教えになった、というのは説得力がある。当時のラビたちは弟子に祈りを教えるのが普通だったと言われる。もともとアンデレとヨハネは洗礼者ヨハネの弟子だったし、彼の弟子たちとイエス様の弟子たちとの間に若干の軋轢もあった(ヨハネ3;26)ようだから、祈りを教わっていないことに引け目や対抗心を覚えて、なぜ私たちの先生は教えてくれないのかと不満があったのかも知れない。
 そんなきっかけで祈りが教えられたことは注目に値すると思う。なぜなら押し付けや詰め込みではなく、意欲が出たときに教えてこそ、学習は効果があるからだ。それにしても、主はそれまでは一人で祈っておられたわけで、これは実に印象的だ。主は弟子たちに祈る意欲が湧くのを待っておられたのだろう。だが救いの歴史を聖書で読むとわかる。神様はずっとそういう「待ちの教育」をなさって来られたのだった。この時も、弟子たちがやっとその気になったからこそ、初めて主は教えられたのだ。教会でもそうで、押し付けて祈らせても、祈りは本物にはならないものだ。

 第三点目だが、主の祈りが教えられた時と場所については、ルカもマタイもそれを史実として伝えてはいないと思われる。マタイ版についてはすでに若干言及したが、弟子になってまだ日も浅い者たちに、山上であれほど多くの内容を一度に話されただろうか。少なくとも主の祈りが教えられたタイミングとしては早すぎると思えてならない。山上の説教が史実だったとしても、「説教」はモーセがシナイ山で授かった律法と対比するように書かれ、「山上」はそれをまとめて宣布する舞台として設定された面がある。だとすれば、主の祈りが実際に語られたのはもっと後で、山上の説教にあるのは前倒しの記述と見てよかろう。
 では、ルカ版ではどうかと言うと、こちらも疑問符がつく。それはご受難のため都に向かっていた途上でのこととして書かれているが、それでは場所も時期も妥当とは言えないからだ。それだとイエス様のガリラヤにおける福音宣教が終わった後になるが、果たして主はそんなに月日が経ってしまうまで、弟子たちに祈りを教えないでおられただろうか?とてもそうは思えない。祈りは大事な行いだから、もっと早くに教えられていたはずだと考える方が妥当ではなかろうか。 
 もしこの推論が間違っていないとすれば、教えられた場所はエルサレムへの途上ではなく、時はむしろガリラヤでの福音宣教中だった可能性の方が高い。すでに述べたように、ルカは都への道行きを多くの教えや説話を語る舞台として設定した。従って、ルカ版主の祈りはその途上で教えられたことになってはいるが、史実的には必ずしもそうだったとは限らないのだ。では、実際はいつどこで教えられたのだろうか?史実はマタイでもルカでも不明だというのが答えだろう。
 ただ、それがいつどこで教えられたのかを、ルカの福音書をもとに推理するとすれば、ある程度は推定できる。私は時期的にはある子どもを悪霊から癒された(ルカ9;37sq.)後かなと思うのだ。その少し前、弟子たちはイエス様を訪ねて来た洗礼者ヨハネの弟子たちと接触(ルカ7;18sq.)している。そして、その少し後にあった悪魔祓いの折は、なぜ自分たちは追い出せなかったのですかと尋ね、主が「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできない」(マルコ9;29)と教えてもらっている。この二つの出来事が、彼らに祈りを学びたいという気持ちを起こさせたのではなかろうか。私はそう推理するのだ。もしそうだったとすれば、主の祈りを教わった時はご変容の直後(ルカ9;28sq.)で、場所はエルサレムに向かう前にいた、ガリラヤのどこかだろう。

 さて、ここまでは実はルカ版主の祈りの周辺的な問題だった。より大切なのは中身で、本来ならそこに踏み込むべきなのだろうが、何せ暑くて気力が続かない。だから、なぜルカが、「御心が行なわれますように、天におけるように地の上にも」の一節を省いたのかという疑問の解決も、3年後に先延ばししようと思う。もしまだ生きていられたならの宿題だが… そして、この後は少しばかり気がついたことを書き足して終わりにする。 

 マタイ版主の祈りの後には、兄弟を赦さないなら天の父も赦してはくださらないというお言葉がある。これは「わたしたちの負い目を赦してください」という祈りの敷衍でありコメントでもある。それに対して、ルカ版主の祈りの後には祈ることへの励ましの譬と格言っぽい3句がある。ところが、ルカ版主の祈りには気落ちするのを励まさなければならないような要素はない。してみると、この励ましの譬と3句は主の祈りの敷衍でもコメントでもなく、ついでに祈り一般について話されたことだと見てよいと思う。
 真夜中にパンを借りに来た友人の譬の意味は明快だ。そのメッセージは、彼のようにしつこく頼めば、人でも根負けして結局は聞き入れざるを得なくなる。ましてや天の父はなおさらだ。だから諦めずに祈りなさいということにある。そして、続く「求めなさい。そうすれば与えられる。捜しなさい。そうすれば、見つかる。門を叩きなさい。そうすれば開かれる」という格言的な3句は、それを聞いた人の脳裏にそのメッセージを刻み付け、励ますのだ。特に三番目の「門をたたきなさい」という句は、真夜中に門を叩いた友人の喩えにひっかけた表現だと思う。
 非常に興味深いのは、他の譬でもそうだが、そこには庶民の生活が生き生きと語られていることだ。当時の中東の人々は、部屋仕切りのない土間で雑魚寝していたそうだ。夜は山羊や鶏などの家畜も家に入れたと言う。だから、夜遅くの来訪者は迷惑至極だったのだ。子どもだけでなく家畜も起こしてしまうからだ。勘弁してくれと、断りたい事情は誰にもわかる。こういう譬はおそらくイエス様ご自身が体験なさったからこそ話せたのだと思う。ちなみに、私はこういう譬などから、ほとんど知られていない主の幼少年期の生活がどんなものだったかを想像し、多少は窺い知ることができるのではないかと思っている。

 格言的な3句の後にある、魚をほしがる子に蛇を与える父親はない。卵の代りにサソリを与える父親もない、という比喩もまた興味深い。ふつう子に食べ物を与えるのは母親だろうに、ルカは父親にしている。おそらく天の父と類比させるため、意図的に父と書いたのだろう。当時のイスラエルでは蛇やさそりも身近な生き物だった。しかし、嫌な生物として描かれている。また卵も食べられていたことがわかる。
 しかし、この比喩で最も大事なのは、天父の心が明かされることにある。これは人の親さえそうなら、ましてや天の父が祈りを聞いてくださらないはずがあろうかというメッセージの再確認だ。しかし、「では求めれば必ず与えられ、探せば必ず見つけ、門を叩けば必ず開けてもらえるのか?私は求めたが与えられず、探したが見つからず、門を叩いたが開けてもらえなかった。祈れば必ず叶えられるなんて嘘だ」と、異を唱える人がいるかも知れない。
 そういう現実は否定できない。その人が何を求め、何を探し、何のために門を叩いたのかは知らないが、現実には祈っても叶えられない時は多々あるだろう。それが何故なのかは、当の神様にしか答えられない。まさに神様の秘密、神秘なのだ。しかし、はっきり言えることが二つあると確信する。一つは、求めなければ与えられず、探さなければ見つけられず、叩かなければ門が開けられないということ、二つ目は、祈り求めるなら、聖霊は必ず与えられるということだ。
 ルカはイエス様が「まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」と断言なさったことを伝えている。なぜ聖霊なら与えてくださるのか?それは、それこそ天の父が与えたいと望んでおられる究極で最良の賜物だからだろう。この賜物をいただくならば、人はおそらくその光のおかげで、なぜ求めても与えられず、探しても見つけられず、門を叩いても開けてもらえないことが多いのかを、薄々ながらでも理解するに至れるのではなかろうか。そんなふうに思う。

 ともあれ、もしここにアクセスしてくださる方がいたら、暑中お見舞い申し上げる。
 どうぞ熱中症にご用心を!

必要なことは一つだけ?

遊牧民の天幕
     エルサレムとエリコの間で見た遊牧民の天幕

 7月11日の日曜日、M教会の早朝ミサに与った後、T神父様が玄関外でタバコを吸っていたので、「神父様、今日はいいお説教でした」と挨拶したら、「いやぁ、サマリア人の譬のところは、皆さんがよく知っているのでやりにくいよねぇ」と洩らされた。その気持ちは十分わかる。神父様と違って、私には話したり書いたりする義務はない。だからいつでもパスできて気楽だが、それでもやはり、何回も扱う話題は何となく気分が乗らない。
 年間第16主日の福音ルカ10;38-42もまた同じではないかと思う。そこで語られるマルタとマリア姉妹のエピソードもけっこう有名だからだ。しかし、気分に左右されないでしっかりと考察すれば、必ず何かそれまで見えていなかった物事を発見できる。これもまた今までの経験からわかっている真実だ。だから、そのような新しい発見を楽しみにして、今回も考察をしてみようと思う。¡Animo!

 さて、ルカによる福音書はこう伝える。
 「一行が歩いていくうち、イエスはある村にお入りになった。するとマルタという女が、イエスを家に迎え入れた。彼女にはマリアという姉妹がいた。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。『主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。』…」

 イエス様の一行は相変わらずエルサレムに向かっていたが、途中マルタとマリアの住む村に立ち寄った。この姉妹は兄弟ラザロと共に、ヨハネによる福音書11、12章にも出てくる。ヨハネによれば、その村はエルサレムから遠くないベタニアだった。もしそれが正しかったとすれば、ルカは一行の立ち寄りを前倒ししたことになる。なぜなら、その村はエリコの町を過ぎた後に通るはずだったからだ。従ってこのエピソードは、本来なら徴税人ザーカイの話(ルカ19章)とエルサレム入城の中間に置かれてもよかった。でも、ルカは何らかの理由でそれを早めに語ったようだ。ただ、その理由が何だったかについては、ここでは取り上げないことにする。
 一行が到着すると、イエス様を家に迎え入れたのはマルタだった。彼女がいかにホスピタリティ豊かな女性だったかはこれだけでもわかる。他方、マリアは主が家に入ると、その足もとに座って話に聞き入った。この振る舞いから、このマリアをマグダラのマリアと誤解した解釈もあったが、大瀬神父様が7月11日のカトリック新聞「聖人伝」にタイミングよく書いているように、それは間違いだ。彼女は別のマリアで、おそらくルカ7;36sq.に出てくる罪深い女とも違う。
 ルカの記述には兄弟ラザロは出て来ないが、この兄弟姉妹がイエス様と親しかったことは、ヨハネによる福音書をよむとよくわかる。ラザロが病気だった時、姉妹は人をやって、「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」(ヨハネ11;3)と言わせている。だが性格となると、二人の姉妹はかなり違っていたようだ。姉のマルタは働き者でしっかり者、妹のマリアは愛情こまやかだが甘えん坊で、やや要領がいい印象を与える。この日もそれが出たようだ。

 マルタがイエス様に不満を言ったのも無理はない。その時の状況を少しでも想像すればわかる。イエス様の一行は12使徒以外に72人の弟子がいたことは確かだ。その他にガリラヤからついてきた婦人たちやその他の人々もいたはずだ。総勢100人は越えただろう。当時の習慣では、イスラエルの人々は客が来れば足を洗う水を出し、頭に香油を塗って迎え、食事をふるまった。それだけの人数なら、当時のことだから、足を洗う水を汲んで出すだけでも大仕事だっただろう。
 立ち寄ることは事前に知らせがあったのだろうが、それだけの人数ともなればすべてが半端ではない。今のように店舗が並んでいる時代ではなかった。冷蔵庫もない時代だったから、大量の食材と飲み物の用意は並大抵ではなかっただろう。それを料理するだけではない。それには薪も食器もたくさん要った。そして、たぶん泊りだっただろうから、その場所も考えないといけなかった。一行の婦人たちも手伝っただろうが、それなら尚のこと、ホストの一人であるはずの妹が、何もしないで主の話に聞き入っていたのでは面目丸つぶれだ。もうてんやわんやだった。マルタの苛立ちは至極当然だったのだ。

 ところが、イエス様の対応は意外で、こうお答えになった。
 「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」と。

 これを読むと、つい、イエス様、それはちょっと酷な言い方で、マリアをかばい過ぎはないですか?と異を唱えたくなるかも知れない。だが実は、それはもてなしで一番大切なのは何かということと、主がその時どんな心境でおられたかということを見落とした異論なのだ。主はマルタが一生懸命、たぶん汗だくで働いているのは認めておられ、感謝してもおられた。それは間違いない。それにもかかわらず、彼女を信頼しておられたからこそ、言うべき大切なことはずばりと言われたのだ。
 主は「マリアはその良い方を選んだ」と言われた。選んだのだから、選ばなかった他のものもあったわけだ。だから、「必要なことはただ一つだけ」を「必要なことは少ない。いや、むしろ一つだけだ」とする訳もある。多くない必要事の中には、洗足の接待や食事の準備もあっただろう。しかし、無理してよい食事を作ろうとか、来客への対応に没頭し過ぎたりするとかは「必要なこと」には当たらない。マルタはそういう不必要なことまで、多くのことを必要不可欠と考え、それを全部しようとして頭がいっぱいだった。それに比べ、マリアが選んだのは主の話しを聞くという単純な一事だった。
 「それを取り上げてはならない」とは、直訳すれば「それは彼女から取り上げられないだろう」となる。彼女のしていることを要らないことのように見なして、それをやめさせてはいけないという意味だ。それはマリアをかばったというより、彼女のしていたことを高く評価し、対照的に多くのことを必要だとしていたマルタの思い込みと、そう信じるがゆえに多くのことに忙殺され、心のゆとりを失っていた彼女の行動を諭し、ある意味では否定したお言葉だった。

 かつてはこのマルタの思いと行いを活動主義、マリアのそれを観想主義の典型と見て、活動と観想の優劣が論じられ、信仰生活においては観想は活動に優り、唯一必要なことは主を通して神の言葉を聞くことにあるというような霊性指導があった。しかし、その解釈はすぐに矛盾が露呈し、間違っていることがわかる。信仰生活においては神様への愛も信仰も、祈りも隣人への愛の実践も必要だからで、必要なことは一つだけではないからだ。
 では、イエス様は間違った断定をなさったのだろうか?そうではない。主のお言葉に対する解釈が間違いがちだったのだ。主がマルタに「必要なことはただ一つだけ」と言われたのは、信仰生活についてでも修道生活についてでもなかった。では、何についてだったのか?それは「もてなし」についてだった。人をもてなすのに必要なことは多くない。いや、一つだけだと言われたのだ。特に主がその時どんな心境にあったかを想像すれば、そう言われた意味ははっきりする。
 実際、人をもてなす時に必要なことは通常でもそう多くはない。もてなしを受けて嬉しいのはご馳走の多さや食器の豪華さ、お世辞にはない。食事は質素でもいいし、特別な飾り付けがなくてもいい。普通、おもてなしで一番嬉しいのは心からの歓待だ。何もなくても心があれば足りる。昔、北条時頼が身分を隠して世を回った時、極貧の侍、佐野源左衛門尉常世が時頼をもてなすために、薪がないので鉢の木を囲炉裏にくべて暖め、もてなしたという故事がある。鉢の木しかなくても、そのもてなしは執権の心を打った。それがもてなしの真髄というものなのだ。 
 ましてやイエス様はこの時ご受難への途上にあった。それはもう間近に迫っていた。しかし、その心中を誰が察していただろうか?最側近の3使徒さえまだ師を理解するどころか、情けない有様だった。ペトロは主が死と復活の予告をした時にそれを諌めて叱られたばかりだったし、ヤコブとヨハネ兄弟はサマリアの村を天からの火で亡ぼしましょうかなどと、とんでもないことを言うレベルだった。他の弟子たちは推して知るべしで、師弟のギャップは余りにも大きかった。
 天の父との交わりがあったし、聖母も一行の中におられただろうが、大勢いてもわかってくれる者が皆無に近い中では、人間的に言って、イエス様は深い孤独を感じておられたのではあるまいか。そんな時、マリアは主の傍に来て話を聞いた。それはどんなご馳走にも優り、心休まるもてなしだったに違いない。他に要るものはなかった。マルタは精いっぱい接待した。それはそれで良かった。しかし、その時の主に必要だったのは、理解者が一緒にいてくれることだった。主にとっても「必要なことは一つだけ」だったのだ。より良い方とはそのもてなしのことだった。そして、「それを取り上げてはならない」とは、取り上げないでほしいという主の望みでもあったと思う。

 こう解釈すると、マルタとマリアのしたことを、活動か観想かのような議論にしてしまうことがいかに的外れかわかる。また、必要なことは一つだけということが、信仰や愛の実践や希望など不可欠なことと矛盾しないこともわかる。一つだけとは、もてなしについてだけのことだからだ。マルタを諭したお言葉には、活動に没頭する余り、心を失ってはいけないという一般論的な戒めもあるとは思う。しかし、人をもてなす行為の価値を否定なさったのではない。この主日の第一、第二朗読はそれを証言する。
 第一朗読は創世記18;1-10aで、天使か男かはわからないが、主が送ったミステリアスな3人をアブラハムが天幕から走り出て歓迎し、もてなす場面だ。たぶん、写真のような天幕だったのだろう。BC1800年頃だったが、アブラハムは遊牧民の族長だった。この個所を読むと、通りがかりの人を彼がいかに心から迎え、大いに散財してまで接待したことがわかる。彼は水で3人に足を洗わせ、妻のサラにパン菓子を作らせ、子牛を一頭屠って食事を出し、自ら給仕した。同19章に出てくるソドムの人たちの対応とは違いすぎるほど違う。
 ところでこの個所は、主なる神様がアブラハムの歓待に報いて、とうに閉経した老齢のサラに男の子が授かるようにするということが主題なのだ。だから、話の見どころは天幕の陰で3人の予言を聞いたサラが、「自分はこんなに年老いているのに」とひそかに笑ったところからだ。主は3人の口を通してアブラハムに、「なぜサラは笑ったのか。…主に不可能なことがあろうか。来年の今ごろ、サラには必ず男の子が生まれる」と断言なさった。
 そこからの言い合いが面白い。「サラは恐ろしくなり、打ち消して言った。『わたしは笑いませんでした。』主は言われた。『いや、あなたは確かに笑った。』」とある。ちなみにこの「笑っていません。」「いや笑った」の「笑う」という言葉が、やがて生まれる男の子イサクの名になった。正確にはヘブライ語では「イツハク」で、それはツァハカー(笑う)の3人称単数未来形だが、旧約聖書では過去形になって「笑った」という意味だ。創世記18;1-15はこのイサク誕生を予告するために書かれた個所だ。
 それなのにこの主日の典礼はそれを1-10a節に限定して、肝心なイサクの誕生については朗読個所から外している。明らかにアブラハムが3人にした接待の部分だけを読ませようとしていることがわかる。それは教会が人々に尽くすことの素晴らしさを認定し、マルタの献身的な働きも大いに価値のある行為だったことを、信者にわからせたいからだと解釈できる。だから、彼女のしたことが無駄だったなどと誤解してはなるまい。多くのことに思い煩い、心を乱してはいけないが、潜心と心のゆとりとを保ちながらであったなら、彼女の活動は称賛されるべきものだったのだ。
 第二朗読はコロサイ1;24-28だが、それも働くことの素晴らしさでは共通している。聖パウロはそこで「わたしは教会に仕える者となりました」と書いている。「仕える者」(ディアコノス)とはもともと世話人、給仕人の意味だ。ミサでもそうだ。それが主の食卓なら、司祭や聖体奉仕者は給仕する人で、マルタと同じ役割だ。典礼作法などに汲々としてその精神を忘れたら、彼女のように諭されてしかるべきだが、その意味をわきまえて仕えるなら、価値ある行為なのだ。

 さて、最後はマリアに目を向けてみよう。マリアは「主の足もとに座って、その話に聞き入っていた」とあるが、いったいイエス様はどんな話をなさっていたのだろうか?今までこの点には気付かなかったが、彼女が台所の手伝もすっかり忘れて聞き入っていたのだから、きっと非常に興味深いお話だったのだと思う。しかし、残念ながらそれは福音書に書かれていない。従って今となっては、この話だったろうかあの話だろうかと、想像を逞しくする他はない。
 ルカの福音書を少し遡ってみると、72人の宣教活動、死と復活の予告、山上でのご変容、5000人にパンを食べさせた奇跡、ヤイロの娘の蘇生などがある。でも山上のご変容は、3使徒に見たことを誰にも話すなと口止めされたのだから、これは話されなかっただろう。パンの奇跡やヤイロの娘の蘇生も、ご自分からは言い出しにくい類の話題ではなかったかと思われる。だとすると種まく人の譬(ルカ8;4-15)や十人の乙女の譬(マタイ25;1-13)を話されたのだろうか。
 いや、一番考えられるのは律法の専門家との問答と、サマリア人の譬だろう。これは単なる私の想像に過ぎないが、もしそうだったとして、それを話し終わった頃合にマルタが不満を言いに来たのだったとしたら、イエス様はマリアにこう言われたかも知れない。「マリア、さあ行って、あなたもマルタと同じようにしなさい」と。人々に仕えて働くこともまた必要なことだからだ。ただし、彼女は多くのことに思い悩んだり心を乱したりせず、姉の手伝いをしたのではないかと思う。

ブーメラン効果の問答

 年間第15主日の聖書は申命記30;10-14、コロサイの信徒への手紙1;15-20、ルカによる福音書10;25-37だ。福音書の個所にはかの有名なサマリア人の譬がある。それはイエス様が、ある大切なことをわからせるためにお話しになったものだ。そのいきさつをルカはこう伝えている。
 「すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。『先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。』イエスが、『律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか』と言われると、彼は答えた。『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。イエスは言われた。『正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。』しかし、彼は自分を正当化しようとして、『では、隣人とは誰ですか』と言った。そこでイエスはお答えになった。『ある人がエルサレムからエリコへ下っていく途中、追い剥ぎに襲われて…』…」と。
 ある大切なこととは「何をしたら、永遠の命を得られるか」という問題だった。そして、『ある人がエルサレムからエリコへ下っていく途中、追い剥ぎに襲われて…』以下が、その大切なことの後半をわからせるために語られた、サマリア人の譬なのだ。興味深いことは、そこで交わされたイエス様と律法の専門家とのやりとりが、双方にブーメランのように舞い戻っては、後世の私たちにまで大影響を及ぼしている良い効果を生んだことだ。

 しかし、考察はまずその時の状況を検証することから始めよう。ルカはこの出来事を、「すると」という言葉で書き始めている。「すると」とは、その前に主が弟子たちに話された事柄と次の話とをつなぐ接続詞だ。従って、ある律法の専門家が主に質問したのは、時系列的には宣教に出た72人の弟子たちが戻って間もなくのことで、場所は相変わらずエルサレムへの道のどこかであり、弟子たちや人々が大勢いた時のことになる。しかし、そうだとすると、一つの疑問が湧く。
 マタイ22;34-40とマルコ12;28-34でも、ある律法の学者がイエス様を試みるために、律法の中でどの掟が最も重要かと質問する場面があるが、対話の場所が違っているからだ。マタイとマルコでは主が答え、ルカでは主が学者に答えさせる点で違いがあるものの、答えそのものは同じ「神への愛と隣人への愛」だ。従って、これは同じ出来事だったと思われる。ところが、その場所はルカではエルサレムへの途上とされるのに、他の2福音書ではエルサレム入城後の市内となっている。そうなると、どちらが本当だったのだろうかという疑問が起こっても当然なのだ。
 これには二つの見解が考えられる。一つはこれをどちらかが正しく、どちらかが間違っているという問題ではなく、どちらも事実だったとする見方だ。つまり、それはエルサレムへの途上でもあったが、エルサレムの市内でもあった。二つの別の出来事だったとする解釈だ。そんな重要な事柄なら、イエス様が2度3度お話しになったとしても何ら不思議ではない。律法の学者の質問も一方は、何をしたら永遠の命を得られるかにあったが、他方は何が律法で最も重要な掟かを知るにあった。答えは同じになったが、質問の違いは違う場所での似た出来事だったと言えなくはない。
 もう一つの解釈は、その場所を史実的に見ず、その話題を語るための舞台設定だとする見方だ。イエス様がその問題で、律法の学者と対話をなさったことは事実だったろう。しかし、それがどこで行なわれたかが確かではなかったとしよう。その場合、福音史家はそれをどう扱っただろうか?思うに、その話題を伝えるに最もふさわしい場所を探しただろう。その結果マタイとマルコは、律法学者の多いエルサレムが最適だと思ってエルサレム入城後とし、ルカは都に上る途上が一番よいと見てそこを選んだ。そのどちらでもよかったし、実際はどちらでもなかったとも言える。場所はその話題を伝えるために設定した舞台に過ぎなかったというわけだ。
 では、二つの解釈うちどちらを取るかと聞かれれば、私は後者にしたい。その方がルカの福音書の構成からして説得力があるからだ。それはこの出来事がエルサレムへの途上であったことを否定はしないが、必ずしも実際にそこであったとも断定しない見方だ。彼はその福音書の約半分の内容を、この都への途上であったかのように書いている。そこに多くを詰め込んだという感じだ。この過度の分量を見れば、エルサレムへの道行きは実際の旅路であったと同時に、ルカにとっては、多くの教えや出来事を語るための一つの舞台設定でもあった。そう解釈するとずっと納得が行く。

 さて、本筋に入ろう。ルカは律法の専門家が、イエス様を「試そうとして」質問したと書いている。今噂の若い教師がペテン師なら化けの皮をはがせるかも・・・少なくともどれほどの学識を持った人物か見届けてやろう。そう考えての質問だったのだろう。論争は挑まず、表向きは永遠の命を得る手段について謙虚に尋ねた。ファリサイ派の人たちは死者の復活を信じていたから、彼も同派の一人だったと思われる。その質問自体はある意味で、きわめてまじめな良い問いだった。
 ところが、イエス様は彼がご自分を試そうとしていた意図を察知なさり、すぐ答えるのではなく、むしろ反問して、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか?」と言われた。彼の質問はブーメランのように彼に舞い戻ったのだ。彼は律法の専門家だったから、答えられないと衆人環視の中で大恥をかくことになる。だから、もちろん彼はすぐさま答えた。それは申命記6;4-5とレビ記19;18にある言葉を引用しての答えだった。
 申命記6;4-5は、モーセがイスラエルの民に命じた戒めをこう書いている。「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」と。だから、ユダヤ人男性はそれを守るため、続く同6;6-9の戒めに従って、今でも朝の祈りの時、この聖句が入ったテフィリンという小箱を額と左腕に付けるのだ。そして、この年間第15主日の第一朗読申命記30;10-14は、モーセが死の直前にこの「聞け、イスラエルよ」の命令を、もう一度念を押してイスラエルの民に語った遺言だったのだ。 
 これに対しレビ記19;18は、「自分を愛するように隣人を愛しなさい」と隣人への愛を命じているくだりだ。その前後には父母を敬え、盗むな、嘘をつくな、隣人を虐げるななどと、モーセの十戒の別バージョンがある。聖パウロはまさにそれを引用して、「律法全体は『隣人を自分のように愛しなさい』という一句によって全うされる」(ガラテヤ5;14)と教え、ローマの信徒への手紙13;10には「愛は律法を全うする」と書いた。
 律法の専門家はさすがだった。庶民だったら神への愛は思い浮かんでも、隣人への愛までは言えなかっただろう。彼の答えは完璧だった。だからイエス様は彼を褒めて励まし、「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる」と言われたのだ。

 ところがルカは、彼が「自分を正当化しようとして、『では、隣人とは誰ですか?』と言った」と書いている。なぜ彼は自分を正当化しようとしたのだろうか?思うに、イエス様から「正しい答えだ」と褒められたが、でも「それを実行しなさい」とも言われた。つまり「知っているだけではだめだ。実行がなければ、永遠の命は得られない」と、暗に実践の無さを批判されたと思ったからだろう。
 そのせいだろうか、「隣人とは誰ですか」と言った質問には、やや意趣返し的なニュアンスが感じられる。なぜなら、同じレビ記19章には、隣人とは父母をはじめ、貧者、雇い人、病人などを含む同胞や寄留者だとの例が列挙されているから、律法の専門家ならそれを知らないはずはなかったのに、知らないふりをして尋ねたからだ。教えてもらいたかったからと言うより、主がそれを知っているかどうかを試したのだ。主が答えられなければやり返せる、と踏んだのだろう。
 それを察知なさったからか、イエス様は隣人とはこういうものだというような定義はなさらず、「ある人がエルサレムからエリコへ下っていく途中、追い剥ぎに襲われて…」と、一つの譬を話された。それが有名なサマリア人の譬だ。「追い剥ぎに襲われて…」の続きは、大筋では次のような話だ。
 襲われたのはあるユダヤ人だったが、彼は半殺しにされて倒れていた。そこへある祭司が通りかかった。だが、彼は見て見ぬふりをして、道の反対側を通り過ぎた。次に来たのはレビ人だった。だが彼も同じように、知らん顔で通り過ぎて行った。さて、三番目に来たのはユダヤ人とは犬猿の仲のサマリア人だった。ところが彼は倒れている旅人を見ると、憐れに思って近寄り、手当てをしてやると、自分のロバに乗せて宿屋に運んだ。そして、そこでも介抱してやり、翌朝は宿屋の主人に銀貨2デナリオンを渡すと、足りない分は帰りの時に払うからと約束し、旅人の世話を頼んで旅立って行った。
 こういう話だった。譬の場所はエルサレムへ向かう一行がやがて通る道筋にあった。それが出てくる譬だったから、聞いていた人々にとってはきっと実話のように思えたことだろう。もちろん律法の専門家も聞き入ってしまったに違いない。
 譬を話し終えると、イエス様は彼にお尋ねになった。「さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか」と。律法の専門家は「その人を助けた人です」と答えた。そう答えるしかなかったのだろうが、素直な正しい答えだった。この時点では、彼はもう主に心服していたと思う。そこで、主は言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい」と。

 彼の質問はまたもや舞い戻って、ブーメラン効果を生んだのだ。しかもこれは決定打だった。彼がその勧めを謙虚に受け止め、その後の人生で実践したかどうかは誰も知らない。でも、私はたぶんそうしたのではないだろうかと好意的に想像する。いずれにせよ、これは彼だけにではなく、私たちすべてに言われたお言葉なのだ。だから、それをもう少し考えてみよう。
 隣人とは単純に言うと身近な人のことだ。しかし、近さには身体的な近さだけでなく、心の近さもある。心にある他者との距離だ。例えば体がすぐ近くにいても、心が遠く離れていれば隣人にはなれない。無関心なら、隣人どころか、その他者はいないに等しい。逆に遠くにいても、心ではある人の傍にいるとすれば、その人は隣人だ。混んだ電車で周囲の人を隣人と感じないのは、体が近いだけだからだ。逆に遠いシエラレオネの人たちが私にとって隣人であるのは、心ではすぐ傍にいるからだ。
 心というものは近づこうとしなければ、近くなれない。他者に心を向けて近づけば、身近な時は体も近づく。それこそサマリア人がしたことだった。原典のgegonenaiは「なった」という意味だ。それまで縁もゆかりもなく隣人でもなかったかった旅人に、彼は憐れみによって、心と体で近づいた。だから隣人になれたのだ。隣人とはなるもの。大切なのは、誰が隣人かと論じるよりも、自分から隣人になることにある。イエス様は彼にそう諭し、彼を通して私たちにもそう教えてくださったのだ。

 欧米社会では、困ったり苦しんだりしている人を、善意から自発的に無償で助ける人を、しばしば「善きサマリア人」(Un bon Samaritain、A good Samaritan)と言う。もちろんその由来はこの譬だ。この譬そのものについはHPのコラムや本などで何べんも解説し、私としてはもう語り尽くしてしまった感がある。だから、今回はその代わりに自分の経験を書いてみようと思う。私も何回か遭遇したピンチで、何人もの「善きサマリア人」に出会って助けられたが、ロス氏はその一人だった。
 もう54年も前だが、1956年3月末、私はカナダに留学のため、貨客船で横浜港から旅立った。大学を出たとは言え、英語は読み書きはいくらかできても、会話はほとんどダメ、フランス語もちょっとしかできなかった。デニ修道士が一緒だったが、彼はフランス語系カナダ人で、何と英語は全然話せなかった。でも船にいる限り、迷子になる心配はない。まだ戦後日本の貧しかった学生にとって、船で出る食事の特大ビーフステーキなどは食べたこともないご馳走だった。だから、アリューシャン列島沿いの航路を楽しく過ごした。そして、14日目の朝、船はシアトル港に入った。
 ところが、困惑が待ち構えていた。私たちはカナダのバンクーバーに行く予定で乗船したのだった。ところが、乗客が皆ぞろぞろ下船してしまうではないか。英語のアナウンスがわからなかった私たち二人は取り残された。船員に聞いたら、「船はここが終点だ。だから皆降りるんだよ」と言われた。えーっ!話が違うじゃないか。じゃ、私たちはここからどうすればいいんだ。船底の荷物はどうなる?だが、米国のワシントン州では英語だから、デニ修道士は頼りにならない。困った。
 とにかく船からは降りた。しかし、立ち去る乗客たちを眺めながら、私たち二人は埠頭に立ったまま途方に暮れるばかりだった。でも私は、ここは英語が少しできる私が何とかしなければと、思った。そして空を見上げたら、「俺は地上にいる。地球から出ることはないんだから心配はない」という考えが湧いて、度胸が据わった。そこで、港湾の職員らしい人に尋ねた。「港湾事務所はどこですか?」「あそこだ」と教えてくれたので、そこへ行き、事務所長とか何とか言う英語は知らなかったから、思い切って、「このオフィスのボスは誰ですか?」と聞いた。すると一人の背の高い立派な男性が出てきて、「どうしましたか」と聞いてくれた。それがロバート・ロス氏だった。 
 私は自分たちが置かれた状況を何とか説明した。すると彼は、「わかった。心配するな。私が全部アレンジしてあげる」と言ってくれた。尋ねてよかったと、安堵した。そして、タクシーを拾って駅まで行こうとしたときだった。彼が「シアトルの市内を見てみたいか?」と言ったのだ。びっくりしたが、「ええ、もちろん」と答えると、「じゃ、来なさい。ちょうど昼食に自宅へ帰るところだから」と言って、大きな乗用車に乗せてくれた。今でこそ車など珍しくも何ともないが、当時は外車に乗るなど夢みたいなことだったのだ。
 市内を見せてもらって、着いたのは氏の自宅だった。そこでは奥さんが私たちの昼食を用意して待っていたのでまた驚いた。ところが驚きはそれだけではなかった。食事の後、氏は事務所に戻る途中、駅まで送ってくれた上、バンクーまでの切符を二人分買ってくれたのだ。それは見も知らぬ外国人にしてくれた、至れり尽くせりの親切だった。ちなみに、地図で見ればシアトルとバンクーバーはごく近そうだが、実際は米国とカナダの国境をまたいで、汽車で5時間もかかる距離だった。
 今思うに、あの昼食と切符はまさにかのサマリア人が出発の朝、襲われた旅人の世話を頼むと、宿屋の主人に渡した2デナリオンに重なるものだった。名刺を貰ったので、私はケベック州のサンタンドボープレに着いた後、彼に礼状を書いた。だが返事は来なかった。その後も同じだった。しかし、私は彼の親切を今も忘れてはいない。私は彼から、人に親切をするとはどういうことかを学んだ。そして、世の中には必ず「善きサマリア人」がいるということも確信した。 

 サマリア人の話は譬だ。しかし、それには最高の実在のモデルがいた。それがイエス・キリスト様だ。イエス様ほど病人を癒し、悩み苦しむ人を助け励まされた方はいないからだ。だから、主に倣う人たちは皆、「あなたも同じようにしなさい」と言われた言葉を実践してきたし、今も実践している。聖マザーテレサはそういう人たちの中の、現代における顕著な一人だ。ささやかな実践に過ぎないが、手を貸す運動もそのお言葉を原点としている。
 ただ、勘違いしてはいけない。この譬は「隣人とは誰か」という問いへの答えだった。だがそれは「何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるか」という、根本問題から派生したものだった。根本的なの問いへの答えは神への愛と隣人への愛の実践にある。サマリア人の譬はその隣人への愛を明らかにしたもので、単なる愛他主義(Philanthropy)とは違うのだ。神なき愛他主義で永遠の命が得られるとは言われてない。神様と隣人への愛は不可分なのだ。それにしても、今どれほどの教会で、ブーメラン効果を生むような問答が行なわれているだろうか? 

福音の伝え方、昔と今

 年間第14主日の第一朗読はイザヤ66;10-14c、第二朗読はガラテヤ6;14-18、福音はルカ10;1-12、17-20だ。教会はどんな意図をもって、この日の典礼にこれらを読ませるのだろうか?それは一見つながりがないように見えるが、一読して、どうやら接点は福音の伝え方にあるのかなと思った。ルカ10;1-12、17-20がそれについて語っていることは明らかだ。しかし、イザヤ書とガラテヤの信徒への手紙もそうなのかどうか。それらを確かめてみようと思う。

 ルカによる福音書10;1-12はイエス様が、「ほかに七十二人を任命し、ご自分が行くつもりのすべての町や村に二人ずつ先に遣わされた」と伝えている。彼らを宣教活動に出されたのだ。そして、同書10; 17-20はその後半で、彼らがそれを果たして帰って来た時のことを語る。福音の伝え方を端的に語っているのは前半だ。そこで、その前半について自問する。主はいったいどんな意図で彼らをその活動に出されたのだろうか?それはどんなレベルのどんな形のものだったのだろうか?

 まず字句の解釈だが、「ほかに」とは12使徒以外にという意味だろう。12使徒の福音宣教派遣は、すでにルカでは9章1-6にあり、他の2共観福音書も書いている。しかし、72人の派遣を伝えているのはルカだけだ。そんなに多くの弟子たちがいたという事実は興味深い。それによって、イエス様の一行がすでにかなりの大集団だったことがわかるし、パンの奇跡の時は彼らも手伝っただろうとか、エルサレム入城の時は、群衆がホサンナと叫ぶのを盛り上げただろうとか推察できるからだ。
 人数は72人ではなく、70人だとする翻訳もある。手元にある聖書では72人とする訳が多数派だが、英訳とヘブライ語訳では70人だ。ギリシャ語原典は70人の後に括弧付きで2を加えていて、どちらともとれる。いずれにせよ、それはイスラエルではある程度意味のある数だった。モーセは神の山ホレブに登る前に70人の長老を選んだし、ユダヤの最高法院(サンヘドリン)のメンバーは71人だった。そして、ギリシャ語旧約聖書70人訳は72人が訳したのだった。
 ところで、これはエルサレムに上る途中での宣教だったから、「行くつもりの町や村」とは、ヨルダン川沿いの道筋にあった町々や村々だったと思われる。イエス様は彼らを二人ずつ派遣なさった。ボーイスカウトはそれを真似たのだと思うが、この二人一組のシステムをバディ(Buddy:相棒)と言い、ハイキングなどで実践している。事故や急病などの緊急時には助け合えるし、迷ったり気落ちしたりした時は相談し合い励まし合えるなど、とても心強く役立つからだ。半面、サボりの相互監視もできる。未熟な弟子たちを見知らぬ町や村に行かせるのだから、いざと言う場合のために備えられたのだと思う。次に続く言葉はその配慮を裏付ける。

 主はこう言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。行きなさい。わたしはあなたがたを遣わす。それは狼の群れに小羊を送り込むようなものだ。財布も袋も履物も持って行くな。途中で誰にも挨拶をするな。どこかの家に入ったら、まず、『この家に平和があるように』と言いなさい。平和の子がそこにいるなら、あなたがたの願う平和はその人にとどまる。いなければ、その平和はあなたがたに戻ってくる。その家に泊って、そこで出される物を食べ、また飲みなさい。働く者が報酬を受けるのは当然だからである。家から家へと渡り歩くな。」

 「収穫は多いが、働き手が少ない」とか、「狼の群れに小羊を送り込むようなもの」とかいうくだりは、弟子たちに自分たちの状況と使命、弱さと危険を自覚させるためだったと解釈できる。「収穫は多いが…」という表現はマタイでは違う文脈(マタイ9;36-38)で伝えられ、ヨハネではよく似た言葉がサマリアの女との会話の後(ヨハネ4;35-38)にある。それらから考えると、ルカはそれがここにふさわしいと考えて入れたのだろうが、必ずしもここで語られたとは限らないと言えよう。イエス様はあちこちでこのことを話され、初代教会でもそれがよく口にされたのだろうと推察できる。 
 続いて言われた弟子たちへの具体的な指針は、「~してはならない」という禁止と「~しなければならない」という実行の両面を持つ命令だった。彼らを遣わすには賢明な用心が必要だったから、主はまず禁止命令をお授けになった。財布、袋、履物の不所持、途中で挨拶しないなどだ。これは12使徒を派遣した時(ルカ9;3、マタイ10;9、マルコ6;8)と大同小異だから、すべてを言われたのではなく、例示だったと解釈すべきだろう。
 読む人は、でもなぜ履物を持って行ってはいけないのか?という疑問を持つかも知れない。逆にマルコでは、「ただ履物は履くように」(マルコ6;9)とある。日本でも昔の旅人は替えのわらじを持って行った。当時のユダヤでも同様だっただろうが、これは予備を持つなという意味だった。町や村を去る時に履き替えれば、汚れた町や村だったからそうしたと誤解される恐れがあったからかも知れないし、替えの履物が要るほど長い宣教期間ではないというサインだったのかも知れない。
 しかし、もっと説得力のある理由もある。タルムードには「神殿に行くときには、杖、靴、財布を持っていってはならない」と書いてあるそうだ。「そうだ」と伝聞で書くわけは、教わって知ったからで、私もエルサレム・タルムード全36巻を持っているが、恥ずかしいかな全部を読んでいないため、そう書いてある個所を知らなからだ。 その記述からわかることは、それらの不所持が商売や俗事を離れた、無欲な行為の見える証しだったことだ。当時のユダヤ人にとってそれは好感の持てる清純のメッセージになった。だからこそイエス様はそういう指針を与えられたのだと思う。「ただ履物は履くように」と言われたのは、神殿ではなく、町や村に行くのだったからだろう。
 途中で挨拶するなとは、行きずりの人にかかわって横道に逸れないため、ある家に入ったら平和の挨拶をして、好意的だったらそこにとどまり、家から家に渡り歩くなという指示は、何かを貰い歩く乞食と誤解されないためだったのだろう。だから袋を持って行くなと言われた。福音に耳を傾けそうな家ではじっくり伝え、出される食物をいただけと言われたのは、食事はいただいてもお金は受け取るなという意味だったと思う。財布も持って行くなと言われたのはそのためだった。要するにそれは、「何も持たずに行きなさい」ということだった。
 それにもかかわらず、「働く者が報酬を受けるのは当然」と言われたのは、弟子たちが食事だけは後ろめたく思わずにいただけるためだったと思う。この表現はテモテへの最初の手紙5;18にも書いてある。聖パウロはそれが聖書(申命記25;4)に基づくとし、コリントの信徒への第一の手紙9;3-12にはその権利の正当性を縷々述べている。ただ、彼の場合は福音の妨げにならないようそれを用いず、もともとテント職人だった(徒18;3)から自分の手で生活の糧を稼いだ(一コリ4;11、徒20;34)。食事は最小限の報酬だったのだ。おそらくこれは初代教会での常識だったのだろう。

 イエス様の言葉は続く。「どこかの町に入り、迎え入れられたら、出される物を食べ、その町の病人を癒し、また『神の国はあなたがたに近づいた』と言いなさい。しかし、町には入っても、迎え入れられなければ、広場に出てこう言いなさい。『足についたこの町の埃さえも払い落として、あなたがたに返す。しかし、神の国が近づいたことを知れ』と。言っておくが、かの日には、その町よりまだソドムの方が軽い罰で済む。」

 財布も袋も履物も持つな、家に入ったら平和の挨拶をし、出される物を食べなさいなどという指針は、すべてが福音を伝えるための手段に過ぎず、病人を癒し、福音を告げるのが目的だった。だからイエス様は彼らに病人を癒し悪霊に勝つ力をお与えになった。福音宣教では告げることと愛の実践は車の両輪なのだ。しかし、活動の後、喜色満面で帰って来た彼らの報告(ルカ10;17)を読むと、どうやら彼らには、病人や悪魔つきを癒したりした実践の方が、神の国が近いと伝えることよりもずっと満足感を与えたようだ。
 足についた埃まで払い落として返すと言うのは、何一つ負い目を残さず決別するという意味のゼスチュアで、使徒言行録13;51は、ピシディア州のアンティオキアでユダヤ人たちが福音を拒み、聖パウロと聖バルナバを追い出した時に、「二人は彼らに対して足の塵を払い」と、この実践を伝えている。最後の夜、イエス様が弟子たちの足を洗い、聖ペトロに「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい」と言われたのもそれとつながる。足は最後に残る部分なのだ。
 面白いと思うのは、足の埃さえも払って返せと命じながらも、イエス様が「神の国が近づいたことを知れ」と言うように勧めておられることだ。転んでもただでは起きないしたたかさがある。かの日とは最後の審判の日のことであり、ソドムとは創世記18、19章に出てくる町だ。ゴモラの町と共に死海のほとりにあったが、罪悪のあまりのひどさに、アブラハムの祈りも空しく、神様が天から降らせた硫黄の火で亡ぼしてしまったという故事がある。
 他方、この時に彼らが告げた福音はまだ本格的なものではなく、予行演習みたいなものだっただろう。それは「神の国が近づいた」と伝えるところまでのレベルだった。神の国は救い主の死と復活によって実現する。だがこの時はまだそれが成し遂げられる前で、そのためにこそ一行はエルサレムに向かっていた。その時点では、12使徒さえまだ救いの神秘を理解していなかった。それは叱られたペトロ(マタイ16;23)を見ればわかる。ましてや72弟子においておやで、彼らが救いの良い知らせを、十全な意味で人々に語れたとはとうてい思えない。
 それにもからわらず、「神の国が近づいた」と告げることは意味があった。それは神の国の到来を待ち焦がれていた人々にとっては福音だったし、弟子たちにとっては最高の訓練だったからだ。聖アウグスチヌスが言ったように、人は教えることによって、聞くだけよりももっとよく学べる。イエス様はそういう理由でも彼らを宣教に出さたれたに違いない。しかし、彼らがその時に告げた福音の内容はまだ不完全だったから、それを知っても今の私たちにはあまり参考にはならないと思う。

 それに対して、福音の伝え方は現代の私たちにとっても示唆するところが少なくない。もちろん、それはイエス様の時代の福音の伝え方だった。今とは多くの点で非常に違うから、そのままでは現代には通用しない。例えば、イスラエル民族独特の考え方や習慣から来る表現とか行動は見習えないし、見習わなくてもよい。足についた埃さえも払い落として返すような動作は、当時のユダヤ人社会だったからこそ強いメッセージになったが、現代の私たちには何の意味もない。
 しかし彼らが人々に、「神の国は近づいた」と伝えた単純素朴さは、現代が見習うべき点だと思う。私を含めてだが、カトリック教会の教えは膨大な思想体系になり過ぎてしまった感がある。従って、多くの説明が要り、簡単にはつかめない。だから、しんどいことは好まない庶民はそれを避けてしまう。「神の国は近づいた」と伝えるような宣言はケーリュグマと呼ばれ、福音の中心思想だけを単純明快に語る伝え方だ。福音を言葉で告げるのなら、そういうアプローチが必要だ。学問と福音宣教を混同してはいけない。
 しかし、言葉ではなかなか人々に福音をわからせることができず、信用してもらえなくても、良い行いの実践は瞬時に人々の信頼をかちとり、福音の真髄をわからせる説得力がある。イエス様が「その町の病人を癒す」ことを、弟子たちの宣教活動の一大使命となさったのはそのためだったと思う。言葉だけではだめなのだ。病人を助け、貧しい人、苦しむ人たちの味方になり、正義と平和のために働くような良い行為の実践が欠かせない。それは言葉によらない福音宣教なのだ。逆に口で説いても、行いが伴わない宣教は “Preacher, practice what you preach.”(説教者よ、汝の説くことを実践せよ)と、冷笑を招く。逆効果だ。この点は昔も今も変わらない。
 財布も袋も履物も持って行くなという指針も示唆に富む。それらは旅には欠かせないもので、本質的には今日でも同じだが、それを持たないということは、身一つで当たれということに他ならなかった。しかし、何も持たないとき、人は時にかえってとても強いのだ。それは福音的清貧と言われるが、弟子たちへの指針はそれだった。病者や貧者に対する善行と共に、これも見習うべきことで、言葉で言わなくても、それは福音の伝達者が欲得で働いていないことの証しになる。
 狐には穴があり空の鳥には巣があったが、人の子イエス・キリスト様は眠る家もなく野宿なさった。そして、弟子たちは何も持たずに宣教に出かけた。ところが、その後継者である教会はどうであろうか?贅沢すぎる聖堂を建て、冷暖房の効いた部屋に寝起きし、潤沢な資金を持っていないか?福音書の描く弟子たちとはあまりにも違う。かつてアッシジの聖フランシスコはそれを否定して、清貧に徹した。だからこそ、人々を感動させ、主の福音に親近感をもたせ得たのだ。

 さて、第一、第二朗読はイザヤ書とガラテヤの信徒への手紙だが、それらは福音の伝え方とどうつながるのだろうか?実は大いにつながるのだ。イザヤ書は旧約時代、ガラテヤ書は新約時代だが、共に書かれた言葉をもって福音を伝えたからだ。今日では出版物やインターネットでも宣教が行なわれているが、聖書はそうした福音の伝え方の草分けであり、原型に他ならない。昔は口で伝えるのが主流だったが、今は口頭の説教より、むしろ書物、印刷メディア、インターネットの方がずっと大きい影響力を持つ。
 口頭では近くの少人数に限られるが、文明の伝達手段を使うと何百万、何億の人に対して、福音を世界の果てまで伝えることができる。これは素晴らしいことだ。しかし、考えてみると、聖書はもうそれを何千年にもわたって果たしてきた、驚異的メッセンジャーだったことに気付く。そして、イエス様の福音を伝えるために、書いたもの、すなわち手紙を最大限に活用したのが聖パウロだったのだ。彼はこの分野でも先駆者だった。

 ところで第二朗読のイザヤ66;12-13は第二イザヤ書の最終章で、バビロン捕囚という罰を受けたイスラエルの民が、後に解放と自由を味わい、都エルサレムがどれほど神の慈しみを受けるかを語る個所だ。それはまさに旧約時代の福音だったが、そこには「あなたたちは乳房に養われ、抱いて運ばれ、膝の上であやされる。母がその子を慰めるように、わたしはあなたたちを慰める」という言葉がある。それを読んだとき、私の脳裏に浮かんだのは幼きイエズスの聖テレジア(1873-1897)だった。 
 若くしてカルメル会修道女になった彼女はこのくだりを読んで、神様の愛情の細やかさと深さに感動した。そして、人は幼子のように自分を神に委ねればいいのだと、聖性に至る「幼子の道」を発見したのだった。その彼女は世間に一歩も出ない観想修道女だったのに、そのような神の愛をすべての人に伝えたいと熱望し、福音のために働く宣教師たちのために自分をささげた。特にジャン・テオファンヌ・ヴェナール(Jean-Théophane Vénard 1829-1861)が残した手紙を読んで、「彼と私は考えが同じだ。私たちの魂は似ている」と書いたほど彼の生涯に共感し、彼を深く尊敬した。
 そのジャン・テオファンヌ・ヴェナールはパリ外国ミッションに入会すると、宣教師として24歳でインドシナに派遣され、トンキン地方に潜入した。ハノイはその中心都市だった。当時ベトナムは禁教下にあったが、彼は大胆に宣教を試み、多くの人たちにイエス様の福音を伝えた。しかし、遂に捕らえられ、1861年に斬首されて殉教した。その働きはフランスで大いに反響を呼び、教会は1879年に列福調査を開始している。だから聖テレジアは彼の生涯を知ることができたのだった。
 ヴェナールは1908年に列福され、1988年に教皇ヨハネパウロ2世によって列聖された。他方、彼を尊敬してやまなかった幼きイエズスの聖テレジアは、一足先の1925年に教皇ピオ11世によって聖人位に上げられた。そればかりか、修道院から一歩も外に出たことも説教もしたこともなく、わずか24歳で世を去ったのに、何と彼女は同教皇によって宣教師の保護者とされたのだった。これは非常に示唆に富むと思う。
 福音は語ったり書いたりすることによってだけではなく、福祉や教育などの実践によっても伝えられることはすでに見てきた。だが、そればかりではなかった。幼きイエズスの聖テレジアのように、犠牲と祈りによっても福音を伝えることに参加できるからだ。そのような福音の伝え方なら、子育て中の母親も世の中で働く男性も学生たちでもできる。それが信徒の使徒職なのだ。
 最近はiPadのような新しい情報手段が次々に現われている。こういう日進月歩の現代では、福音の伝え方も常に新しい困難に直面せざるをえない。少なくとも本などの出版による宣教は大いに打撃を受けるだろう。しかし、それがまた大きな好機を作り出さないとも限らない。問題は絶えず新たに生まれてくるから、福音を伝えるチャレンジも終わらない。それははっきりしているが、聖霊がそのすべてにおいて働いておられることもまた確かだ。
プロフィール

余生風

Author:余生風
「聖書温故知新」
「思いつくまま、気の向くまま」
折にふれ「水彩画」も紹介してまいります。

「手を貸す運動」創始者
社会福祉法人「地の星」理事
元玉川大学教授

佐藤正明(余生風)ホームページ
「絵画と心」

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