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聖地の聖書と聖書の地 《発見そのニ》

バニアスの水源
  ガリラヤ湖に流れ込む川の水源:バニアスの泉

《発見その二》聖書の匂いがする聖地

 書斎の片付けで見つけた手書きの原稿は、2回目のイエスラエル旅行の後、どこかに掲載したり誰かに話したりするつもりもなく、思いつくまま走り書きした感想とも備忘記録ともつかないものだった。しかし、読み返したら、過去に遡って聖地の匂いを嗅ぐような気がしたので、後でまた自分が楽しめるよう、リフォームして清書することにした。
 
 大ざっぱな言い方だが、人はよくギリシャ思想は空間的であり、ヘブライ思想は時間的であると言う。それが妥当かどうかはさておき、ヘブライ思想が時間、つまり歴史の概念を深めたことは確かだろう。ヘブライ思想の代表的文献である聖書は、イスラエルという一民族が担った歴史の中心として、世界と人間が生きてきた過去、今、未来を語るものだからだ。
 ちょっと古いエピソードだが、ソウルオリンピック閉会式の時、ある異色のテレビインタビューがあった。一人のイスラエル人ボクシング選手に対してだった。その青年は試合が土曜日に当たったので、棄権したのだった。土曜日はイスラエル人にとって聖なる安息日だ。インタビューアーはそれを知っての上で尋ねた。
 「なぜ試合に出なかったんですか?」
 すると彼は答えた。
 「私たちにとって、宗教はスポーツより大切なんです。」
 多くの日本人はきっと、「えーっ?わざわざオリンピックに出場してまで… そんなに堅く考えなくてもいいのに」と思うに違いない。しかし、彼らは違った。そこには今も強烈に生きている聖書の流れがあった。流れとは時間に他ならない。2回目の聖地旅行で、私はイエス・キリスト様と聖パウロの足跡をたどるため、イスラエル、トルコ、ギリシャをまわった。長年外国にいた者としては、たかだか2週間ぐらいの駆け足旅行で、あの国がどうの、この国がどうのと言うのは一を知って十を語る愚だとはよくわかっている。しかし、一を知って一を語ることは僭越ではなかろう。ところで、その知った一つに時間の流れというものがあるのだ。
 ヘブライズムの中心地イスラエルとヘレニズムの発祥地ギリシャは、共に古い歴史を持ち、共に遺跡が多くあり、共通のものも少なくない。しかし、何かが非常に違う。それは何だろうかと考えると、時間的継続性にあると思われるのだ。ギリシャだけでなく、トルコやエジプトもかつてはヘレニズム圏だったことがある。しかし、そのどこかでヘレニズムが今も続いているかと問えば、発祥地のギリシャでさえ否だ。ギリシャ語や過去の生活様式などは続いていても、ソクラテスやアリストテレスの思想などは、もう生活の中には皆無のように思えた。それは日本の歴史でも似ていて、奈良、平安、鎌倉、桃山、江戸時代などが過去のもので、その各時代のものの考え方や生き方は、今では歴史や文化遺産としてしか生き残ってはいない。各時代はいわば輪切りになったような形で次の時代と重なっている。
 ところが、イスラエルではそうではない。3千年余も昔のモーセの律法は、ユダヤ教を信奉する人としない人の程度の差こそあれ、今もイスラエル人社会で実践されているからだ。民族としては紀元70年の国滅亡以後、1900年も流浪の民であったのに、その思想、宗教、生き方は連綿として続いて来ているのだ。そして、イエス・キリスト様の福音は今や世界中の多くの人々によって信奉されている。キリスト教は新しく生まれ変わった、ヘブライ思想のもう一つの流れでもあるのだ。
 これを見比べると、他の文化圏では一つの時代と他の時代が切れ、それぞれが輪切り状態に断絶していて、思想や生き方は一貫しては続いていない。ところが、ヘブライ思想は各時代が違っても、それを貫いてずっと流れ続けてきたことがわかる。イスラエルの旅でひしひしと感じたのは、まさにこの一貫した継続性であった。

 しかし、一つの民族は時間的な継続性の中だけでなく、その土地の自然風土、時代の変化、他民族との交渉などの広がりの中で生きる。聖書の民の思想もそういう中で展開されてきた。してみると、歴史を見る目とともに、その舞台となった土地を見る目も聖書の理解には欠かせない。そこで、今度はその土地について感じたことを書いてみる。
 イスラエルの国と言っても、時代によってその広さ、境界は大いに違う。今のイスラエルは四国より少し大きいぐらいの国で、人口は約700万人、国土はきわめて変化に富んでいる。国の中央を山地が走り、その西側には地中海に面した平野が広がる。昔、イスラエル人がここを「約束の地」として住み着いた紀元前1300年頃、この平野部にはクレタ島から来たと言われるペリシテ人たちが住んでいた。今日そこをパレスチナと言うが、それはこの民族の名から付けられた名だ。それが今日では奇妙なことに、ペリシテ人たちがいた地域(パレスチナ)にイスラエル人の大半が住み、イスラエル人が多く住んでいたヨルダン川西岸地域にパレスチナ人が住む状態になっている。
 聖書の地は、北はエズレルの平野を含むガリラヤ地方、中央部の山地、その東側にあるヨルダン川流域(現在のヨルダン西岸地区)、地中海沿いの平野部、南部のユダとネゲブ地域の五つに分けられるだろう。テルアビブは西側の平野にあり、国民人口の三分の一はこの都市に集中していると言われる。事実上イスラエルの心臓部だ。特に経済的にはそうだ。それに対してエルサレムは歴史的かつ精神的な中心都市だと言えよう。
 地中海側はシャロンの野が広がり、地中海性気候でとても住みやすいと言われる。工業は現在この地域で最も発達している。ガリラヤ地方は起伏に富み、一様には語れない。エズレルの平野はイスラエルで一番広く肥沃な地方で、農業が盛んだ。麦、棉、オリーブなどを産出する。その北のガリラヤ湖周辺と湖北に広がる地域も水が豊富で肥沃だが、ここではナツメヤシ、バナナなどの果樹栽培が多い。緑が溢れる土地だ。
 ところが、サマリアからユダヤにかけては、山肌がごつごつと露出した岩山地帯になる。緑は少ない。それに対してヨルダン川の両岸地帯は低地であり、多少の農業や牧畜はあるが、概して荒涼とした印象を与える。そして、ユダ地方と呼ばれる死海の西側の山地からネゲブ砂漠にかけては、生きるのに厳しい荒野がある。ユダヤ教の厳しさはこういう風土から生まれたと言う人もいるが、単純にそうは言えない。しかし、うなずける面もある。

 私の旅程はテルアビブを出発し、地中海沿いに北上して、カイザリア、メギド、ナザレトに至り、ゴラン高原を回ってバニアス、ダン、ハツオルを経てヨルダン川沿いを南下し、エリコ、クムラン、死海南端に至り、エルサレム、ベトレヘムで終わるものだった。このコースを回って感じたことは、こんな小さな国なのに、イスラエルには何と多様な気候風土が並存することかということだった。
 四季はあるが、むしろ季節は乾期と雨期に大きく分けた方がいいくらいだと思う。雨期は十月に始まり、三月に終わる。旧約聖書の雅歌にも、「ごらん、冬は去り、雨の季節は終わった。花は地に咲きいで、小鳥の歌う時が来た。この里にも山鳩の声が聞こえる。いちじくの実は熟し、ぶどうの花は香る」(雅歌2;12)とある通りだ。三月から四月になると、百花が野に咲き乱れ、ジャスミンが匂う。それは岩の多い山地や荒れ野でも同じだ。私の一回目の訪問の時はまさにその春爛漫の季節だった。キブツでの朝は山鳩の声のうるささに、まだ暗いうちから目が覚めてしまった。
 ところが、乾期になるともう雨は降らず、暑さが増すから乾燥し、水分は蒸発してしまう。すると咲き誇った草花は立って咲いたまま、いっぺんにドライフラワーになる。それは奇妙な光景だ。また、荒地の草花は小さく、砂嵐のような風が吹けば消えてしまう。詩編に「人の生涯は草のよう。野の花のように咲く。風がその上に吹けば、消えうせ、生えていた所を知る者もなくなる」(詩103;15-16)とあるのは、そのような風土だからだろう。二度目の旅はちょうどそのような時期だった。
 しかし、同じ夏でもゴラン高原へ行けば、爽やかで、涼風が吹く丘に立つと、ここならいつまでいてもいいなという気分になる。ガリラヤ湖は夏でも適当な暑さであり、楽しく水泳もできる。もっともイエス様の頃は、ヨルダン川では悔い改めの洗礼が行なわれ、水泳場でのんきに泳いだりする雰囲気はなかったと思う。ところが、死海のほとりに至ると、暑さはもう尋常ではない。世界で一番低い窪地で、熱が逃げないからだ。でも、この塩の湖では浮きながら読書ができる楽しみもある。

 そういう気候と地勢では植物もずいぶん違う。イスラエルには七つの主要な実のなる木がある。オリーブ、ざくろ、アーモンド、ナツメヤシ、イチジク、ブドウ、グレープフルーツだ。2回目の時はちょうどナツメヤシが実る時期だった。実は甘い。ルカ15章で放蕩息子が、お腹を満たすために食べようとした豚の餌のイナゴ豆も落ちていた。この二つから学んだことがある。
 旅行前、学生たちの聖書研究会で、「先生、洗礼者ヨハネが食べていたと言われるいなごは、イナゴ豆のことだと聞いたんですが、どちらなんでしょうか?」という質問を受けたので、「そうかも知れないが、原典にはアクリデスとメリ・アグリオンを食べていたとある。アクリスはいなごを意味し、訳もみなそうしている。他方、イナゴ豆はケラティオンだ。だから、イナゴ豆ではなく、いなごだとしか言えないのではないか」というような答えをしていた。
 しかし、聖地でイナゴ豆の実物を見、今日でもそれが下層階級の人たちの食物になっていることを知ると、いなごより、むしろイナゴ豆説の方がもっともそうに思えてしまった。なぜなら、青い草を食べるいなごは、イスラエルでは、緑のある三月から五月ぐらいまでの期間に大量発生して地中に産卵し、草が枯れる乾期には一斉に消えてしまうので、一年中の常食にはならない。それに対して、イナゴ豆なら保存ができるので一年中食べられるし、貧しい人々の食物なので、ヨハネがそれを常食にしていたというのは筋が通るからだった。
 しかし、後で調べてみたら、それはやはり完全に間違いだとわかった。いなごとイナゴ豆は日本語でこそ似ているけれども、原典では全く関係がないからだ。しかし、いなごは短い期間しか食用にならないから、洗礼者ヨハネがそれを常食にしていたというのはおかしいのではないか、という疑問は正しかった。では、いなごの代りに本当は何を食べていたのだろうか?聖地の聖書ヘブライ語訳を見たら、一つのうなずけるヒントがあった。「いなご」ではなく、それを「植物の根」と訳していたからだ。
 その注釈には、アラマイ語ではクモツェと言うが、それには「いなご、木の根、草の根」などの意味がある。ところで、いなごは一年中食べることはできないが、草木の根なら一年中食べられる。従って、この方が納得できるのでこの意味を採用したと書いてあった。つまり、洗礼者ヨハネが食べていたのは、いなごでもイナゴ豆でもなく、植物の根だったのではないかというわけだ。そう訳すとよりよくわかるということが学べたのだ。聖地の聖書に感謝!

 それは蜂蜜についても言える。野生の蜜とはハニーではなく、実はナツメヤシのことだと言うのもうなずけた。なぜか?一方で、原典ギリシャ語の「メリ」とは蜂蜜だけでなく、甘いもの、甘い木の実をも意味するからだ。そして、他方、野生の蜂蜜ならどうかというと、養蜂の蜂蜜ではないから花のある季節に限られ、一年中の食用にはならないからだ。それに、野生の蜜蜂は数も多くないから、たやすくは見つけられない。だから、洗礼者ヨハネが常食にしていたもう一つの食物は、蜂蜜ではなく、甘い木の実のことだったという説は説得力がある。蜜だけでは少なすぎるが、木の実なら十分食事にもなるからだ。
 ところでナツメヤシの実は、乾燥してならいつでも食べられる。欧米や日本で食べるデイツがそれだ。今、イスラエルではそれを栽培して輸出しているほどだから、量的にも十分ある。昔だって、乾燥して保存する方法は知られていたに違いない。その上、彼が活動していたヨルダン川下流のエリコのオアシスには、ナツメヤシが沢山ある。きっと昔もそうだったのだと思う。だとすると、彼が食べていたとされる蜂蜜は、むしろナツメヤシの実だったと解釈する方が筋が通るといえよう。
 もちろん、彼はそのものずばりの蜂蜜もいなごも食べたことだろう。日本でも昔はいなごを貴重な蛋白源とした。私もよく食べた。士師記14;6には、サムソンも蜂蜜を食べたとある。洗礼者ヨハネが蜂蜜やいなごをたべたことを否定するわけではない。しかし、一年中の日々の食物としては、とうてい供給が続かないと思われる。そういう点に疑問を持たないと本当の解釈は出てこないと思う。このことも学ぶことができた。
 ところで、ナツメヤシのことはいいとしても、新約聖書原典はなぜ洗礼者ヨハネの食物の一つを「いなご」としたのだろうか?それは次のようないきさつがあったからではなかろうか。今日、多くの聖書学者は新約聖書の最初の福音書が、アラマイ語で書かれたマタイの福音書であったことを認めている。ところが、それは不幸にも失われてしまった。しかし、幸いにもそれが現存している間に、それを参考にしてマルコの福音書が書かれた。そして、そのマルコ福音書をも参考にしつつ、アラマイ語マタイ福音書を大幅に敷延して、ギリシャ語マタイ福音書も書かれたと言われている。
 そうだとすると、すでに触れたことだが、マルコの福音書およびギリシャ語マタイ福音書記者が、アラマイ語で書かれたクモツェ(Kmotsue:いなご、草の根、木の根)の意味から、一番食用になりやすい物を「いなご」だと理解してしまい、「アクリス」としたのではないだろうか?結論的に言えば、洗礼者ヨハネはいなごや蜂蜜も食べただろうが、実際には木の実と植物の根の方をもっと多く食べていたのではないか。そう考えるとつじつまが合う。

 このような考察は魚や動物にもあてはまる。イスラエルでは家畜として牛、羊、山羊、ロバ、犬猫がいる。ロバは乗り物用でも労働用でもある。イエス様がエルサレムに入城された時も「見よ、お前の王がお前のところにおいでになる。柔和な方で、ろばに乗り、荷を負うはろばの子、子ろばに乗って」(マタイ21;5)と描写されているが、今でもベドウィン人やアラブ人には使われている。
 ヨルダン川沿いに南下していた時だった。バスから山羊の一群が見えた。日本人には珍しいので、皆が「羊飼いだ、羊飼いだ」と騒ぐと、運転手が気をきかして止まってくれた。よく見ると、山羊の群れは4,50頭でばらばらながら列を作って、自動車道路に平行した土ぼこりの道を歩いていくのだが、牧者はその中ほどをロバに乗って進んでいた。だから一段高く抜きん出て見えた。ドルーズ教徒の村でもそうだった。車など使わず、老人がロバにまたがって、上手に走らせていた。
 牛羊山羊は食用や搾乳用だ。だが、豚は食べない。ひづめが割れていても不浄の動物とされているからだ。だから、また放蕩息子の譬だが、彼が豚の餌で空腹を満たそうとしたということは、豚を飼う異邦人の土地にいたことを示唆している。イエス様の譬を聞いた当時のユダヤ人たちは、それがすぐわかったことだろう。ゲラサの悪魔憑きが癒された時、悪魔が入った豚が皆湖水に落ちて死んだ(ルカ8;26-39)出来事も、豚を飼っていたというだけで、そこはイスラエル人の住まない地方だったということがわかる。

 魚もまた聖書をわからせてくれる。イスラエル人は鱗のない魚は食べない。モーセの律法にある食物規定(レビ記11;10)で禁じられているからだ。その律法は今でも守られている。だから、うなぎの蒲焼はイスラエルでは食べられない。この禁止規定を知っていると、次の譬も理解できる。
 「また、天の国は次のようにたとえられる。網が湖に投げ降ろされ、いろいろな魚を集める。網がいっぱいになると、人々は岸に引き上げ、座って、良いものは器に入れ、悪いものは投げ捨てる。世の終わりにもそうなる。」(マタイ13;47-49)
 これは神の国が来るとき、網に入った魚を漁師が選別するように、天使も義人と悪人を選り分けるという裁きの譬だが、日本人なら、良い魚と悪い魚とは変だと思うはずだ。魚は美味いかまずいか、大きいか小さいか、鮮度がいいかどうか、高値で売れるかどうかなどで選別するからだ。魚に善悪は当てはめない。ところが福音書は「良い魚と悪い魚」と言う。なぜか?律法の規定があるからだ。律法で食べてよいと言われる魚が良い魚、禁じられているのが悪い魚ということなのだ。
 ガリラヤ地方に行くとよく食べられるのは、奇跡の漁でペトロの網が破れるほど捕れたというピーターズフィッシュ(ペトロの魚)だ。テラピアという黒スズメダイの一種だと言われるが、この魚は冷水に弱いため、冬季にはタプハ近くにやってくるそうだ。なぜなら、そこはギリシャ語のヘプタゴン(七つの泉)がアラマイ語に訛った地名で、そこにはエン・ヌルなどの鉱泉があり、湖水が暖かいからだ。だから、その辺りは今も良い漁場になっている。奇跡の漁の後、ペトロがイエス様から「今から後、あなたは人間をとる漁師になる」と言われたのもそこだった。そして、主が5個のパンと2匹の魚で、男だけでも5000人余の群衆を満腹させたパンの奇跡(ルカ9;10-17)があったのも、その岸辺からそう遠くない丘であったとされる。その記念のタプハ教会にはパンと魚のモザイクの絵があることはよく知られている。
 この魚には鱗と鰭がある。律法の規定で食べて良い「良い魚」の一つだ。成魚は体長30センチぐらいで、美味しい。ある日、私はレストランで2匹も平らげたことを覚えている。ところで、この魚は雄親が口の中で稚魚を育てるのだが、ある程度育つと稚魚が再び口の中に戻って来ないよう、湖底の小石などを口に入れる面白い習性があるそうだ。魚流の子別れだが、もしそれが本当だとすれば、あの銀貨は誰かが湖に落としたのを、この魚が小石代りに口に入れたのではないかと思えてくる。
 あの銀貨とは、マタイ17;24-27が伝えるエピソードに出てくる銀貨のことだ。ある時、イエス様の一行がカファルナウムに来られた時、徴税人たちがペトロに「あなた方の先生は神殿税を納めないのか」と言った。この町はヘロデ大王の三人の息子のうち、ヘロデ・アンティパスとフィリッポの二人が所領とする領地の境にあった。そういう所では徴税人がいて、以前は使徒マタイもその一人だったが、通行者から税金を徴収していたのだ。そこでイエス様はペトロに、「彼らをつまずかせないようにしよう。湖に行って釣りをしなさい。最初に釣れた魚を取って口を開けると、銀貨が一枚見つかるはずだ。それを取って、わたしとあなたの分として納めなさい」と言われたとある。
 福音書には、言われた通りにするとそうなったという所までは書いてないが、そうなったと解釈されている。その魚が銀貨を口にくわえていたら、釣りをしても餌を食わないのではないかという疑問もあろうが、釣れたことが確かならその疑問は問題にならない。また、銀貨は魚が小石代わりに口に入れていたのだとしたら、奇跡ではなく偶然ではないかという異論もあろう。しかし、それを予知して、実際にそうなったのだとすれば、それはやはり奇跡に違いない。そういう魚の習性からすれば、このエピソードは突飛ではなく、自然界にも根拠があったと言える。しかし、主は神的な予知力でそれを利用なさった。その組み合わせを知ると、この話はより興味深く思えてくるのだ。

 ところで、聖書によってはガリラヤ湖を「海」と訳しているものもある。実際、ギリシャ語原典でもそれをタラッサ(海)と書いている。イスラエルではこれを今日ではヤム・キンネレット(キンネレットの海)と呼んでいる。決して新しい呼称ではなく、むしろモーセ五書の一つ民数記34;11ですでに言及されている古い名前だ。ちなみに死海はヤム・メラハ(塩の海)と呼ばれる。考えてみると、この方が事実に即した名だ。「死海」はDead Seaの訳だが、なぜ「死」なのか意味が曖昧だと思う。
 このガリラヤ湖は私たちに水のことを考えさせる。もうずいぶん前になるが、著者イザヤ・ベンダサンのペンネームで書かれた「日本人とユダヤ人」という、一時大いに話題になった本があった。その中に、日本人は水と安全はただ手に入ると思っているが、ユダヤ人はまったく違う。正反対だというような指摘が書いてあった。事実その通りで、水はイスラエルでは実に貴重なものなのだ。聖書の地をまわるとそれが実感できる。
 彼らのその大切な水の主な供給源こそガリラヤ湖なのだ。イスラエル人にとって、文字通り生命の水の水がめに他ならない。ではそのガリラヤ湖の水はどこから来るかと言うと、流れ込む川の主な流れは北部のレバノン山系から出る渓流だ。バニアスの水源にも行ったが、そこにはこんこんと湧く清流がある。しかし、もしその地域を敵勢力に抑えられ、毒でも流されたら、イスラエル人たちは飲み水を失ってしまう。彼らがゴラン高原のシリア軍やレバノン南部のヒズボラなど、反イスラエル武装勢力に絶対に弱みを見せないのは、そういう死活問題を抱えているからだ。しかし、剣を持って立つ者は剣で倒れる、と主は教えてくださった。水一つとっても、本当の解決は理解し合い、信頼を醸成して、分かち合う方法以外にはないのだろうとは思う。原爆にせよ、自爆テロにせよ、戦うことをやめられない人類の業は深い。
 備忘記録はここで終えていた。ここからは不足分を新たに補うことも一つの選択肢だが、聖書の地について、この程度のページ数で語りつくすことなどどだい無理だし、僭越な話だ。だから、これもまた竜頭蛇尾の終わり方にはなるが、ここでピリオドを打つことにする。この清書を通して、聖地での経験や感想をあらためて味わいなおした。そして、夜のバスの中で、自分が作詞作曲した歌を挨拶代わりにマイクで歌ったことを思い出した。

 神様のことばは 天から降ったパン。 いつの日も心を 養う不思議なパン。
   このパンをいただき みんなで生きて行こう。
 神様のことばは 聖なる水の泉。 いつの日も心を 潤す水の泉。
   この泉に下りて 渇きを癒されよう。
 神様のことばは 世の終わりまで光。 いつの日も心の旅路を照らす光。
   この光を受けて 終わりの日まで歩こう。

 終わりの日まで歩く。そう言えば、聖地を巡って一番心に残ったのは、遺跡でも風物でも人物でもなく、イエス様が歩かれた同じその土の上を、自分もこの足で歩いているという、その足の感覚だった。それは今も残っている。体が覚えた消えない不思議な記憶だ。恵みとはこういうものかと思う。
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聖地の聖書と聖書の地 《発見その一》

 小さな二つの発見をした。一つは、聖地エルサレムで出版されたヘブライ語新約聖書の手紙集の順序が、原典や他の訳書とは違うことを発見したのだ。当然ながら目次も違う。二つ目は、何年かぶりに書斎の処分すべき文書などを片付けていたら、手書きのイエスラエル第2回訪問旅行の感想記が出てきたのだ。すっかり忘れていたから、ほとんど再発見に近かった。というわけで、私だけの興味だとは思うが、偶然にも時を同じくして、聖地の聖書と聖書の地が出遭ったわけだ。そこで、ちょっと気が向いたから書いてみることにした。ただし、長くなりそうなので二分する。 

《発見その一》手紙集の順序の違い
 このヘブライ語新約聖書は、イスラエルのアラマイ語研究協会の編集になる。私は、イエス様が実際にはどんな言葉を使われたのだろうか、と思う時によくこれを開く。ところで、その中にある手紙集の順序が他の新約聖書と違うことを知ったきっかけは、使徒聖パウロのローマの信徒への手紙5章だった。手紙はもともとギリシャ語だからヘブライ語訳は不要と考え、今まで開いたこともなかった。ところが、主日の第二朗読にローマの信徒への手紙が2週も続いて読まれたので、ふとヘブライ語ではどう訳されているのかなと思い、調べてみた。すると、ふつうの新約聖書ならあるべき場所に、何とそれが見つからなかったのだ。
 おやっ?と驚いて捜したら、それはまったく考えてもいなかった場所にあった。この新約聖書訳でも、福音書と使徒言行録の順序は原典や他の新約聖書訳と同じだ。そして、最後がヨハネの黙示録であることには変わりがない。ところが、その中間の手紙集は違ったのだ。普通の新約聖書はパウロの手紙、ヤコブの手紙、ペトロの手紙、ヨハネの手紙、ユダの手紙の順序だ。ところが、ヘブライ語新約聖書ではヤコブの手紙、ケファ(ペトロ)の手紙、ヨハネの手紙、ユダの手紙、パウロの手紙の順なのだ。

 なぜだろうかと考えてみて、まず、むしろこの方が納得できるなと思った点は、聖パウロの手紙を最後に置いたことだ。以前から不思議に思っていたのだが、聖パウロは使徒の頭でも12使徒の一人でもなかった。そんな彼の手紙を、いくら学識豊かで多くの素晴らしいことを書き、福音宣教で大きな成果をあげたとしても、先輩使徒たちを差し置いて一番先に置くのはおかしいのではないか、と疑問を感じていたからだ。彼自身、自分は「使徒の中でも一番小さな者」(一コリント15;9)だと書いた。だから、ヘブライ語訳がその手紙を末席に置いたことは筋が通っていると同感できたのだ。
 それに比べ、ヤコブの手紙を一番先に置いていることは納得できない。もっとも、今まで気にしないで来たが、原典や他の訳でも、パウロの手紙を除けば、やはりヤコブの手紙が一番先にある。ペトロの手紙からユダの手紙までの順序はどの新約聖書でも同じで、それは妥当だと言えるが、ヤコブの手紙を一番先にする正当な理由はあるだろうか?ましてや、その筆者が使徒ヨハネの兄使徒ヤコブ(大ヤコブ)ではないことを知れば、なおさらそう思える。ちなみに、大ヤコブはAD44年にヘロデ・アグリッパ王によって殺され、手紙を残していない。従って、この手紙は彼以外のヤコブが書いたわけだ。だとすれば、使徒団の幹部でもない人の手紙が、なぜ一番先に置かれているのだろうか?この疑問は私の好奇心を刺激した。
 この手紙の筆者であるヤコブについては2説がある。12使徒で、アルファイの子と呼ばれたもう一人のヤコブ(マタイ10;3)だという説と、主の兄弟と言われたヤコブ(マタイ13;55)だという説だ。両者は同一人物だという説もあるが、今日では二人は別人で、ヤコブの手紙の筆者は後者だと考える学者の方が多いようだ。いずれにせよ、彼の手紙が一番先に来るのは納得できる順序とは思えない。どのような経緯があったからかはわからないが、「主の兄弟」と言われたこのヤコブは、エルサレム初代教会の最高指導者になった。AD66年に殉教したそうだが、在任中は初代教会全体に大きな影響力を持っていた。49年にエルサレムであった最初の公会議(使徒言行録15章)でも、ペトロと共に発言している。
 もしこのヤコブが書いた手紙だとしたら、なぜその手紙がペトロの手紙より上座におさまっているのだろうか?いろいろ調べてみたが、貧弱な私の手持ちの書物ではその答えが見つからなかった。その疑問自体が出されていないようだから、答えようとする聖書学者がいないのは当たり前だ。ただ、そのおかげでわかったこともある。ギリシャ正教の聖書では手紙集の順序がヘブライ語訳聖書と同じであること、カトリックの聖書はトレントの公会議で現在の順序が確認されたが、ブルガタ訳聖書(ラテン語)に従ったからであることだ。カトリック教会はラテン語を公用語にしていたから、ブルガタ訳聖書の順序を採用したのだと思われる。
 手持ちの参考文献の中に、なぜ彼の手紙が手紙集の一番先におさまっているのかという疑問への答えがないのなら、何とか自分で見つけるしかない。そう思って、次のような解決を考えてみたが、どうだろうか。
 まず、カトリック教会など西側の教会の聖書がパウロの手紙を一番先にしたのは、彼の福音宣教地域がその教会がある欧州・地中海世界と重なっていたこと、そして彼の手紙が数においても質においても量においても、圧倒的に抜きん出ていたからではなかろうか。つまり、12使徒の一人でもその頭でもなかったのに、その手紙の卓越さと西側教会との関係の深さのゆえに、別格扱いにしたのだと推測する。
 そして、「公的」と呼ばれる手紙集の中で、ヤコブの手紙を一番先にした理由は、筆者の序列に従ったものではなく、筆者がいた教会への敬意または格の上下に従ったからではなかろうか。12使徒の一人ではなかったとしても、このヤコブはエルサレム教会のトップであった。ところで、エルサレムの教会は聖霊降臨で生まれた最初の教会であり、いわば全初代教会の親株のような存在で、最も尊敬を受けていた教会だった。だから、最初の公会議もそこで行なわれたのだった。
 西暦紀元70年にイスラエルが滅亡しても、その存在はかなり長く全教会の敬意を受けていたと思われる。従って、新約聖書の各編が次々と出来ていた時代、聖パウロは別格として、弟子たちの手紙もその筆者のいた教会の格に従って順序がきまって行ったのではないだろうか。これは私の憶測に過ぎないが、もしそうだったとすれば、ヤコブの手紙(エルサレム)、ペトロの手紙(ローマ)、ヨハネの手紙(エフェソ)、ユダの手紙(教会不明)という順序はかなり納得がいく。教会草創期における各教会の敬意の順序にほぼ対応しているからだ。
 こんな終わり方では、竜頭蛇尾どころか、待ち針の頭程度の発見に、針の先ほどの結論をつけたとしか言えない気がする。それでも聖地の聖書の知らなかった部分を発見できて、そこからしばし過ぎ去った世界を探索できたことは知的な悦楽であった。

角を矯めて牛を殺すような

 三位一体の主日は福音がヨハネ16;12-15、第一朗読が箴言8;22-31、第二朗読がローマ5;1-5だ。「洗礼」など、キリスト教から日本語に入ってよく使われる言葉はいくつかあるが、「三位一体」もその一つだろう。学校の運営などで、「教育行政、現場教師、親たちの三位一体」などと応用される。しかし、本来の意味はそんなものではない。神様は本性においては唯一だが、ペルソナにおいては父と子と聖霊の3者であるという教義なのだ。ニケア・コンスタンティノープル信条はそれをこう表現している。それは今日、日本のほとんどの教会で、日曜ミサの説教後に全員が実践している信仰宣言の主要部分だ。
 「わたしは信じます。唯一の神、全能の父、天と地、見えるもの、見えないもの、すべてのものの造り主を。
 私は信じます。唯一の主、イエス・キリストを。主は神のひとり子、すべてに先立って父より生まれ、神よりの神、光よりの光、まことの神よりのまことの神、造られることなく生まれ、父と一体。すべては主によって造られました。主は、わたしたち人類のため、わたしたちの救いのために天からくだり、聖霊によって、おとめマリアよりからだを受け、人となられました。(中略)
 わたしは信じます。主であり、いのちの与え主である聖霊を。聖霊は父と子から出て、父と子とともに礼拝され、栄光を受け、また預言者をとおして語られました。(以下略)」
 もちろん、これは厳密な一神教を奉じるユダヤ教やイスラム教にとっては許しがたい教義であり、三位の同等性を認めないキリスト教諸宗派にとっては、受け入れられない神解釈だろう。そして、無神論者にとっては人間の理性にまったく合わない、奇妙な理屈だと思えるに違いない。しかし、正統派キリスト教信者にとっては、自分たちのアイデンティティがかかった根本的な信仰問題の一つなのだ。

 それなのに、この教義には人知では理解し切れないという難点がある。たしかに、ある程度はわかるが、最終的にはわかり切れない神秘なのだ。ある程度わかるというのは、聖書には三位一体という言葉は書かれていないものの、その内容がちゃんと存在するからだ。この主日に朗読されるヨハネ16;12-15はその一例に当たる。これはイエス様が最後の夜、弟子たちに話された別れの談話第2バージョンの一部分だが、主はそこでこう言われた。
 「言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。…その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。父が持っておられるものはすべて、わたしのものである。だから、わたしは、『その方がわたしのものを受けて、あなたがたに告げる』と言ったのである。」
 この談話には、聖霊が子であるイエス様とも父とも別な「方」であり、その「方」が主の業を継いで、弟子たちを教え導くことが語られている。他方、「父のものは子のもの」だとある。では父なる神の持つ最高のものは何かと言えば、神性に他なるまい。ならば、子はそれを父と共有している。そして、「わたしのものを受けて」とある真理の霊もそれを共有していることになる。従って、ここにはペルソナという言葉はないが、三者は一つだという内容が語られていることがわかる。
 もう一つ重要な個所は、「彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」とあるマタイ28;19-20だ。ここには聖三位の名が揃っていて、それが同等であることを示している。この個所はニケア公会議の後に挿入されたもので信憑性が疑わしいという批判も出たが、それ以前の写本にもあるので、その疑問は今日では消えた。三位の名による洗礼は教会の伝統として初代から確立しており、それは三位一体が理論ではなく、秘跡の実践を通して信じられて来たことを証明していると言えよう。
 内容的に三位一体を語る個所は他にもある。しかし、この教義に関しては、私は「今、あなたがたには理解できない」と言われたお言葉が、世の終わりまで当てはまると思っている。いくらかはわかっても、結局わかり切ることが不可能な神秘だからだ。思うに、もし人知で理解し尽くせて、救いにも必要不可欠の教えだったのならば、イエス様は愛の掟と同様に三位一体をもっとはっきり言われただろうし、聖パウロも復活やご聖体について話したように、きっと口を酸っぱくして教えたに違いない。
 しかし、そうはしなかった。それは三位一体がそういうものではなく、またたとえそれを教えても、私たちには理解しきれないものだからではなかったろうか。私もそれを理解し説明することは、「この三角形が円であることを証明せよ」みたいな、ある意味でどだい無理な問題だと思う。どんなに論議しても、最終的には人知でわかりきれない神秘なら、いつまで論じても仕方がない。従って、私はこの教義そのものについてこれ以上書くことはやめる。
 そうは言っても、よくわからないのにどうして信じられるのかという実際問題は残る。それについてはこう思う。理屈ではわかり切れなくても、教会には聖霊の導きがあるから、その教えに間違いはないと信じ、ニケア信条を素朴に受け入れればいいのではないか、と。神学者ではなく、信者であるためにはそれで十分だからだ。それに、三位一体の教義がよくわかったとて、愛の掟がよりよく実践できるわけではない。教義がよくわからなくても、愛が実践できるなら、それでいいではないか。それが主の弟子である証明であり、人が救われるのは愛によるのだからだ。

 ところが、教会の歴史を見ると、この神秘をあくまでも人知で納得できるようにわかろうとした人々がいた。そういう動きはもう2世紀には出ていた。彼らは父と子と聖霊が同じ神性をもつ神なら、三つの神となってしまうのではないか?そもそも絶対とは一つなのに、三者が絶対の神だというのは矛盾していないか?と疑問を抱いたのだ。キリスト教が理知的なギリシャ文化圏に広がったことも、そういう思弁的議論に拍車をかけたのかも知れない。
 それは4世紀の異端アリウス派と正統派との論争で一つのピークに達した。教会史を読めばわかるので詳述はしないが、そのいきさつを知ると、三位一体の教義そのものについてはある程度で考察を切り上げることをよしとするが、この論争とそれが誘発した出来事ついてはきちんと語らなくてはならないと思えてくる。なぜなら、それらはきわめて非福音的で、その害は今に至るまで及んでいると思われるからだ。それを指摘するために、まず主な人物と出来事に触れてみる。
 アリウス(256-336)はエジプトの大都市アレキサンドリアで司祭だった。当時、「イエス・キリストは神か人か」という議論で、キリストは真の神ではない。神的な権能を持ってはいるが、永遠、無限、全能の神ではないと見る傾向の考え方があった。オリゲネスもその一人だった。アリウスはその考え方を論理的に発展させ、キリストは単なる人ではないが、父と同等の神でもない。一段劣る神性を持つ神人だと主張した。これはキリストが論議の中心だから、キリスト論と言われる。
 この主張がやがて三位一体がらみの大論争を起こした。反アリウスの代表格は聖アタナシウス(295-373)だった。彼は同じアレキサンドリアで大司教に仕える助祭だった。大司教は地域司教会議を招集し、アリウスを破門し、その説を禁じた。ところがアリウスは従わず、パレスチナに行って、セザレアのエウゼビウス司教とニコメディアのエウゼビウス司教の支援を得、その弁舌の巧みさで多くの信奉者を獲得した。だから、対立と論争は益々エスカレートした。
 そこでローマ皇帝コンスタンティヌスは帝国の平和のためとして論争に介入し、紀元325年、ビシニアのニケアに公会議を召集した。この会議には聖アタナシウも大司教に従って出席した。公会議はアリウスの説を異端と宣言し、セザレアのエウゼビウス司教とニコメディアのエウゼビウス司教など、多くのアリウス派司教たちをも破門した。他方、聖アタナシウスは528年にアレキサンドリアの大司教に任命された。
 ところが、同じ年にニコメディアのエウゼビウスが司教に復権すると、アリウス派は巧妙な手を使って反撃に出た。皇帝がニケア正統派の司教たちにとって拒否せざるを得ないような署名を迫るよう仕向け、拒めば反逆者の罪を着せて追放する罠をしかけたのだ。教義論争は政治闘争化したのだった。そして、皇帝の力を利用することで皇帝が教会に介入する口実と機会を増やし、皇帝・王侯が教会を牛耳るセザロパピズムの前例を作ってしまった。
 こうして、皇帝が代る度に、新皇帝がどちらの支持者であるかによって、反対者側が迫害を受けることになった。コンスタンティヌス帝の後継者コンスタンス帝はアリウス派支持だったため、聖アタナシウスや聖ヒラリウスは流刑になった。そして、リミニとセレウキアの司教会議(359)ではアリウス派が勝利し、ニケア正統派は全滅したかに見えた。ところが、その後のユリアヌス帝、ヨビアヌス帝はニケア正統派を支持し、バレンス帝はまたアリウス派に戻るという具合で、聖アタナシウスは合計5回も放逐される苦難を味わったのだった。
 そして、紀元381年にコンスタンチノープルで再度公会議が開かれた。この時活躍したのは聖バジリウス、ニッサの聖グレゴリウス、ナジアンズの聖グレゴリウスなど、カパドキアの司教たちだった。アリウス派はこの会議で異端として決定的に退けられた。現在、私たちが日曜のミサごとに表明する信仰宣言が、《ニケア・コンスタンチノープル信条》と言われるゆえんだ。しかし、アリウス説は蛮族の中で生き残り、ヨーロッパに再び侵入した。そして、現代では奇妙な宗派エホバの証人の中にその片鱗を見せる。イエス・キリストを神と認めず、聖霊を神の活動に過ぎないとしているからだ。

 さて、この論争と出来事を検証すると、いくつかのことがわかってくる。まずよいことから挙げてみると、その一つは、信仰の大先輩たちの努力と悪戦苦闘のおかげで、教会が体系立った信仰箇条を持てたことだ。それは正統派キリスト教の土台、柱、骨組みに当たると言えよう。それによって私たちは父と子と聖霊と教会、そして人の未来を大筋で把握できる。
 二つ目は、どんなに混乱があり、真偽正邪の判別が難しい時代にあっても、聖霊が働き導いていてくださるという信頼がもてることだ。今だからこそ、私たちは客観的にその時代をとやかく言うが、当時の教会は泥沼状態だった。人たちは何をそして誰を信じたらいいのか大いに迷ったに違いない。アリウスの説の方が人知にはわかりやすかったし、大勢の司教たちが異端だと破門されたかと思えば、別の会議では逆の立場になったからだ。もし私自身がその時代に生きていて、そういう状況を見たら、どちらについていただろうか。怪しいものだ。しかし、「真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる」と言われた通り、聖霊は教えかつ導いておられた。
 三つ目からはマイナス面だが、三位一体論争で一番嘆かわしかったと思えることは、彼らが実生活とはかけ離れたそんな神学論争で非難し合い、排除し合い、追放し合い、不幸にし合って、もっと大事なこと、すなわち「愛し合いなさい」という主の掟を犠牲にしたことだ。三位一体の教義は大事だが、愛の実践はもっと大事だ。それなのに、その教義のために愛の掟を忘れ、時に踏みにじったことは、「角を矯めて牛を殺すような」愚だった。
 四つ目は、異端説の主張者が司教や司祭たちだったことだ。世を騒がせた異端には、聖職者や学者が実に多い。庶民は自分が無知で無力だと知っているから大それたことはしないが、権限や知力学識を持つ者は自信があるから、福音から逸脱する誘惑にも陥る。古今を問わず、素晴らしい司教や司祭は数え切れないほどいるが、そうでない人もいて、アリウス派異端もその一例だった。それは、教会にはいつもどこかに傷口があるという現実を再認識させてくれる。 
 五つ目は、この論争が皇帝の介入を許すきっかけになったことだ。以後、教会は世俗権力の干渉とそれとの癒着にどれほど悩まされ、力を消耗したことだろうか。その点、現代の教会は、国々が帝国や王国であった時代よりはるかに間合いがよく取れている。これは幸いなことだ。ただし、現代的なセザロパピズムは残っている。愛国教会を牛耳る共産中国のような世俗権力だ。
 最後の六つ目は、この論争が信仰箇条を信仰のすべてと思い違いさせる傾向を生んだデメリットだ。「義人は信仰によって立つ」(ローマ1;17)と言われるが、では、何を信じるのか?それが問題だ。全能の神を信じることが信仰か?それもある。しかし、それだけではない。私が思うに、信仰の真髄は「愛を信じること」にある。もし神が愛でなかったら、全能の神ほど恐ろしい者は存在しないだろう。だがそうではなく、神は愛だ。だから信じられる。また、聖体への信仰も実に大事だ。ところが、ニケア・コンスタンチノープル信条には神の愛も隣人愛の掟もご聖体も入っていない。
 なぜだろうか?三位一体論争から生まれたので、理論的な教義中心だからだと思う。もちろんそれはそれでいいのだが、それが信仰の全てではない。ニケア・コンスタンチノープル信条はいわば信仰インフラで、喩えれば建物みたいなものだと思う。生活には住む所があるだけでは不十分で、少なくとも衣食住が揃う必要がある。それと同じように、信仰生活においても、「住」に当たる信仰箇条があるだけでは不十分で、それだけでは福音的な喜びに溢れて生きることはできない。
 「人はパンだけでなく、神の口から出る言葉で生きる。」信仰生活の「食」はご聖体と聖書。そして、「衣」に当たるのは魂を包む神様の愛と恵みだろう。それらがあってこそ、人は幸せな信仰生活ができる。それなのに、ニケア・コンスタンチノープル信条には、これが信仰の全てだ。これだけ信じれば足りると思い違いさせかねないリスクもあるのだ。それは教会が歴史を通して伝えてきた宝ではあるが、そういう短所もあることは自覚しておくべきだと思う。

感じてわかる

 思ってもいなかった人からメールをもらった。45年も前に、鎌倉の雪ノ下教会に来ていた人だ。大学生だった彼に、何かためになる本がありませんかと尋ねられたので、「そうだね。聖書は読んで知っているようだから、アッシジの聖フランシスコの「小さき花」なんかどうだね?」と勧めたことを覚えている。その後彼は洗礼を受けた。そして、今もしっかりと信仰に生き、教会で積極的な役割を果たしていることを知った。嬉しい音信だった。
 ところで、そのメールをもらってふと感じたことがあった。今度の日曜日は三位一体の祝日なので、そのことを調べていたところだったが、キリスト教はつくづく理屈っぽ過ぎるなぁと感じたのだ。そもそも三位一体論などというものが生まれたこと自体、イエス様のことを、ギリシャ思想で理屈をこねて解釈したからに他ならない。カナダ留学後、そういう教義神学に違和感を持ち始めていた私が、彼にその本を勧めたのも、そこに単純明快に信じる心と詩心があったからだ。

 キリスト教の理屈っぽさは、神父さんや牧師さんの説教を聞けばわかる。知的なことは良いことだが、何でも言葉で理解し説明しようとすると、ものの匂いや輝きのような大事な何かを失いやすいデメリットがある。それなのに論理に訴え過ぎるのだ。最悪なのは神学者と言われる人たちだろうか。聖書の真理を解明すると称して難解な言葉を使い、かえってわからなくさせ、嫌気を起こさせる。以前こんな川柳があった。「入門書、読んで入門あきらめる。」実に辛辣な反応だ。
 ところが福音書を読むと、解説書や神学書とは大いに違った世界が広がる。イエス様の話には空の鳥があり、野の草、野の花があり、匂いがある。光があり、こんこんと湧く泉があり、湖の魚があり、種蒔があり、風がある。イエス様の行くところには貧しい人々の生活があり、祈りがあり、悩む人、病む人、差別されている人、打ちひしがれている人、反感を持つ人、妬む人、迷っている人、そして信じる人もいる。そこには命がある。
 そういう事象や事柄は、硬くて目の粗い網のような論理では掬いきれない。ところが、それらにこそ大事なエッセンスがあるのだ。一言で言えば詩的なものだろうか?それもある。しかし、それだけではない。喜びであろうか?それもある。だが、それだけでもない。何かもっと、そういうすべてが渾然となった何かだ。イエス様の福音にはそれがある。聖フランシスコの「小さき花」もそうだ。だから人はそこに安らぎと親近感を覚え、魅力を感じる。それに比べると、理屈っぽい書物や説教は、ジュースを搾ってしまった後の野菜の滓のようだ。だからつまらないし、心に響かない。
 たぶんキリスト教はあまりにも知的に理解しようとし、語ろうとし、説明し尽くそうとしがちなのだ。人は知的な存在だから、理性でわかり、わかったことを語ったり説明したりすることはもちろん必要だ。しかし、そういうことが及ばない時や不可能な事柄もある。三位一体もその一つだが、その時は沈黙するしかないのだ。そして沈黙のうちに、言葉ではなく、魂で感得する。それが本当にわかることなのだと思う。私も反省しなくては… そのうち、また「小さき花」を読み直してみようと思う。

アッバ、アビヌー

使徒言行録中東地図
 聖霊降臨の祝日第一朗読は使徒言行録2;1-11、第二朗読はローマ書8;8-17、福音はヨハネ14;15-16、23b-26だ。通常の主日なら聖書朗読の主役は福音だが、この日だけは使徒言行録がそれに代るように思える。なぜなら、聖霊降臨の出来事を語る個所だからだ。というわけで、このことについてはもう何回も書いたが、そのことをまた考察してみようと思う。
 エルサレムにはその日、もともとの住人はもとより、国外に住む多くのイスラエル人巡礼たちもいた。ユダヤ教では過越祭の50日後、つまりシバンの月の6日から一週間、シャブオト祭を祝ったからだ。これはハビクリム祭とも呼ばれ、小麦の初穂を献納し、律法の伝授を祝う祭だ。使徒言行録には「五旬祭」とあるが、それは新約聖書がシャブオト祭をギリシャ語でペンテコステ(50日目の祭)と呼び、日本語訳もそれに従ったからだ。
 すでに使徒たちはイスカリオテのユダの代りにマティアを選出していた。だからまた12人になっていたが、この日も一同が集まっていた。解説書は彼らが使徒言行録1;15に書かれている120人の弟子たちではなく、同1;13に出てくる使徒たちだという点では一致している。もちろん祈っていたのだろう。聖霊が降ったのはその時だった。この後にある聖ペトロの演説(同2;14)を読むと、時刻は朝の9時頃だったことがわかる。聖書はその時の様子をこう描写している。
 「突然、激しい風が吹いてくるような音が天から聞こえて、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現われ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話し出した。」

 それは「激しい風が吹いてくるような音」だったが、風だとは書いてない。音が主語だ。しかし、烈風の出す音のようだったと形容されている。音も風も目には見えない。しかし、耳や肌で感知できる。特に風は聖霊を表現しているから、「激しい風」は単なる形容以上の意味があった。イエス様がニコデモに、「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆その通りである」(ヨハネ3;8)と言われた通りだ。
 その音は天から聞こえてきた。航空機のなかった時代、地上やどこかの家からではなかったということは、人間界からではなかったことを示していた。そして、使徒たちのいる家中に響いた。なぜそんな音を響かせたのだろうか?これは使徒たちのためというより、エルサレムにいた人々に気付かせ、彼らを引き寄せるためだったと思われる。しかし、家の中に現われた「炎のような舌」は、風のような音よりもっと大事なしるしだったと言えよう。なぜなら、それは使徒たちのためだったからだ。
 この日に顕著だったのは聖霊の働きによる強烈な現象と、使徒たちに現われた驚くべき効果だった。では、なぜ炎のような舌の形が見えたのだろうか?炎は魂を燃え上がらせる熱意を、舌は語る賜物を象徴しているからだったと思われる。だから、それが一人一人の上に分かれてとどまると、彼らは聖霊に満たされ、学んでもいなかった異国の言葉で話し出したのだった。それは世界の果てまで福音を宣べ伝える力が与えられたしるしだった。それを受けて、彼らは一変した。
 しかし、ここで小さな疑問が湧く。そこには使徒たち以外の人たちもいたのだろうか?もしいたとしたら、聖霊はその人たちの上にも同じように降ったのだろうか?という疑問だ。私はいたと思う。それまでもマリア様や他の婦人たち、兄弟たちはよく使徒たちと一緒にいた(ルカ24;1-11、徒1;13-14)し、その時だけ排除しなければならなかった理由はなかったからだ。そうだったとしたら、聖霊は彼らにも降ったと思う。もっと後のことになるが、ある日聖ペトロが話していたとき(徒10;46-47)、聖霊の賜物は異邦人にも注がれた。ましてや、マリア様たちにそれが拒まれたとはとても考えられないからだ。

 さて、その物音が聞こえると、大勢の人々が「何だ、何だ」と集まって来た。「エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいた」からだ。五旬祭に巡礼で戻ってきていた人々だ。駆けつけた人々はそこで唖然とした。使徒言行録はその驚きをこう伝える。
 「だれもかれも、自分の故郷の言葉で使徒たちが話しているのを聞いて、あっけにとられてしまった。人々は驚き怪しんで言った。『話しているこの人たちは、皆ガリラヤ人ではないか。どうしてわたしたちは、めいめい生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。』人々は皆驚き、とまどい、『いったい、これはどういうことなのか』と互いに言い合った。」

 この叙述を読むと、使徒たちがいた家はどうやら屋内の様子が、外からまる見えの造りだったようだ。さもなければ、中の話や様子が外の群衆にわかるはずがなかったからだ。しかし、群衆には使徒たちが見え、彼らの話がよく聞こえた。そして、生まれ故郷の言葉を耳にして、「どうして?」とあっけにとられたのだ。ただし、どの日本語訳も「使徒たちが話しているのを聞いて」と訳しているが、原典も諸外国語訳も「使徒たちが…」とは書いていない。「彼らが」としている。彼らとは、使徒以外に他の弟子や婦人もいた場合、その人たちをも含んでいたことになる。
 人々の驚きは会話の形で書かれている。そういう短い会話が群衆のあちこちで起こったことは事実だっただろう。しかし、このままの会話が実際にあったとは思えない。それはルカが多くの証言をまとめて、一種の人工的会話に仕上げたのだと言うべきだろう。彼はどんな人たちが集まってきたか、彼らがどれほど多くの遠い国々から来ていたか、起こった不思議に皆がどれほど驚いたか等を効果的に表現するには、これが一番だと考えて会話形式を選んだのだと思う。
 私がそう推察する根拠は4つある。一つは人々が使徒たちを「この人たちは、皆ガリラヤ人ではないか」と言ったことだ。群衆のほとんどは国外からのユダヤ人だったから、使徒たちは彼らにとっては見ず知らずの人たちだったのに、尋ねもしないで「ガリラヤ人ではないか」などと断定的に言えるわけがなかったからだ。しかし、ルカは使徒たちがガリラヤ人であることを知っていたから、聖霊の賜物で異語を語った驚きを、群衆の口を通してそう表現したのだと解釈してよいと思う。
 二つ目の根拠は列挙された国々の多さだ。お互いにばらばらの国から来ていた人々は、たまたま大きな物音を聞いて、偶然同じ場所に集まって来ただけだった。だから、お互いがどこから来たかなどほとんど知ってはいなかったはずだ。それなのに、こんなに多くの国々の名を列挙することなど、とうていできなかっただろうと思われるからだ。三つ目の根拠は、会話が長すぎることだ。こんな驚きと興奮の状況で、誰がこんな長い会話をしただろうか?誰もしなかっただろうし、しても誰も終わりまで聞かなかったに違いないと思われるからだ。そして最後に、相槌の会話がないからだ。
 しかし、この会話形式の叙述は私たちに多くの情報をもたらしてくれる。そのおかげで、五旬祭のエルサレムが当時はどんな様子だったかがわかる。そこには生粋のユダヤ人も、異教からユダヤ教に改宗した信心深い人たちもいた。そして、その多くが初代教会の信者になったのではないかとも推察できる。おそらくルカはそういう人たちの生き残りから、聖霊降臨の日のことを聞き書きし、使徒言行録の編纂資料にしたのではなかろうか。
 また、この会話から当時の地中海世界と中東地域に、どれほど多くのイスラエル人が散らばっていたかもわかる。それはやがて初代キリスト教が福音を伝播して行った国々や地域でもあったと言えよう。だから今回、私はその地図を作成してみた。それを見ると、聖パウロが合計3回の宣教旅行になぜあのようなルートを選んだかがわかるし、「一方、弟子たちは出かけて行って、いたるところで宣教した」(マルコ15;20)が、使徒たちがどこへ向かったのかを推察することもできる。

 この祝日に読まれる使徒言行録は、人々が驚いて互いに言い合うところまでで、そこで語られるのはメッセージよりも、むしろ聖霊降臨の出来事という事実だ。しかし、含蓄的にはメッセージもある。どんなメッセージかと言うと、この出来事はイエス様の約束の実現だが、そうであるならば、それを信じる人はどうあり、何をしなければならないかを語るからだ。そして、それを明白に教えてくれるのがヨハネによる福音14;15-16、23b-26と、ローマの信徒への手紙8;8-17なのだと思う。
 ヨハネ14;15-26については、すでに先々週「心を騒がせるな」で書いたから、多くは繰り返さない。ただ、若干補足すると、まず聖霊という言葉だが、原典ではギリシャ語でプネウマ・ハギオンと言われる。ハギオンは形容詞ハギオス(聖なる)の中性単数形だ。他方、プネウマは「風、息、霊」等を意味する。ラテン語ではspiritusで、英仏語などのspirit, espritなどはここから来ている。しかし、形容詞ハギオンが付くと、プネウマはもはや単なる息や風ではなく、「聖霊」という特別な意味になる。
 ヨハネの福音書によれば、イエス様は最後の夜、そのことについて弟子たちに諄々とお話になった。かつて洗礼者ヨハネはメシアについて、「その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる」(ルカ3;16)と予言した。しかし、イエス様のご計画は地上にいる時にではなく、父のもとに行かれてからその洗礼を授けることにあった。だから、「実を言うと、わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る。」(ヨハネ16;7)と言われたのだ。
 主はそれを「別の弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊」(ヨハネ14;26)と話され、「わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者」(ヨハネ15;26)とも言われた。父が遣わす聖霊は、主が遣わす弁護者でもあるから、聖霊とは父と子の霊なのだ。そして、ご昇天の直前には弟子たちに、「父の約束されたものを待ちなさい。あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられる」(徒1;5)と言われた。聖霊降臨とはまさにその実現だったのだ。 

 聖パウロは同じローマの信徒への手紙の中でも、聖霊のことをただ「霊」と書いたり「聖霊」(5;5)と言ったりするが、この祝日の朗読個所8;8-17では前者だ。彼はここで聖霊を「神の霊」、「キリストの霊」、「あなたがたの内に宿っているその霊」、「神の子とする霊」など、いろいろな呼び方をする。しかし、私にとってここで一番感動的なのは、「この霊によってわたしたちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです」(同8;15)というくだりだ。原典では“Abba ho pater”と書かれている。
 これはマルコの福音書が残してくれた言葉にそっくりだ。イエス様はご受難の前、ゲッセマネの園で「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取り除けてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行なわれますように」(マルコ14;36)と祈られた。この場合も、原典では“Abba ho pater”と書かれている。しかし、“Abba”はヘブライ語だし、主はユダヤ人だったから、本当はどう言われたのだろうかと思って調べてみた。
 アラマイ・ヘブライ語訳新約聖書のマルコ24;36では、それは両語とも“Abba abi”(アッバ アビ)と訳されている。「アッバ」とはアラマイ語から入ったヘブライ語で、幼児が父親に「お父ちゃん」と言うような時に使う言葉だ。正式なヘブライ語では、父は「アブ」と言われる。それが「私の父」になると、「アビ」に変化する。だから、ゲッセマネの園では、イエス様は一人御自分の父に祈られたので、アッバ アビ(お父ちゃん、わたしの父よ)と言われたのだ。
 原典のギリシャ語だとマルコの福音書でもローマ書でも同じだが、ヘブライ語だと同じではない。ローマ書の訳は“Abba abinu”(アッバ アビヌー)と訳されている。当然のことながら、アッバは同じだが、「アブ」は「ヌー」(私たちの)が付加されると、アビヌー「私たちの父」と変化するのだ。もちろん聖パウロはギリシャ語で手紙を書いたのだから、“Abba ho pater”と表現した。しかし、祈るのは私たち大勢なので、ヘブライ語では「私たちの父」(アビヌー)と訳されたのだ。
 聖パウロがこのヘブライ語訳をみたら、よくぞわが意を汲んでくれたと、それに太鼓判を押したに違いない。わざわざギリシャ語の手紙の中で突然ヘブライ語の「アッバ」を書いたのは、おそらくそれが彼と初代教会の信者たちにとって、心を揺り動かす特別な祈りの表現であり、よく口にしていた祈りの文言だったからではなかろうか。私はそう想像する。事実、「主の祈り」の冒頭にある「(天におられる)わたしたちの父よ」はヘブライ語だと、「アビヌー(シェバシャマイム)」なのだ。
 イエス様は「この霊があなたがたと共におり、これからもあなたがたの内にいる」(ヨハネ14;17)と約束してくださった。そして、聖パウロは私たちが祈るとき、聖霊が「アッバ アビヌー」と呼ばせてくれるのだと教えてくれた。それを読んで気付いた。人はいつも空気を吸っているのに、ついそれがあることを忘れてしまいがちだ。それに似て、私は聖霊がおられ、働いておられることをつい忘れてしまうことが多かった。そして、「栄光は父と子と聖霊に」と栄唱はささげても、聖霊に感謝することがほんどなかった、と。これは一つの過ちの発見だった。父と御子イエス様にはずいぶん感謝するのに、聖霊には感謝を忘れていないか。今回はこの問いを自戒としたい。

主のご昇天と宇宙

 主の昇天の主日は福音がルカ24;46-53、第一朗読が使徒言行録1;1-11、第二朗読がヘブライ人への手紙9;24-28、10;19-23だ。前週と同じく多忙なので、福音と使徒言行録だけを取り上げ、主の御昇天の「天に昇られた」とはどういうことかを問いたい。しかし、その前に聖書学的ないくつかの問題を、地ならしとして考察しておこうと思う。

 聖書を少しでも学んだ人なら誰もが知っているように、ルカは福音書と使徒言行録を書いた。それは彼の2部作で、彼自身は福音書を第一巻と言っている。使徒言行録は第二巻だ。もちろんこの2書は、一つの福音の上・下巻または前編・後編と言ってもよい。呼び方がどうであれ、2書は次のように密接につながっている。福音書はガリラヤからエルサレムに上りながら福音を語る。そのエルサレムは富士山の頂上みたいな形をしたピークだ。そこで主の死と復活および聖霊降臨の三つの大いなる出来事があるからだ。そして、使徒言行録はそのピークから全世界へと下り広がって行く福音を語る。頂点のエルサレムをはさんだ上りと下り。これがルカの基本構想、またはビジョンだと言っていいと思う。
 よく続き物のテレビドラマなどが次回の短い予告を出し、次回では前回の最後を少し再現するが、ルカの福音書はそれに似て、結末で使徒言行録の最初を短く予告し、使徒言行録では福音書の最終場面を再現する。主の御昇天もその重複する一場面だ。それは福音書にとっては閉幕、使徒言行録にとっては開幕に当たる。しかし読み比べると、記述は必ずしも同じではなく、一方にあって他方にない事柄もあり、補い合っていることがわかる。

 ルカによる福音24章46-49節は、時系列的にはご復活の日の夜、弟子たちに話されたことの続きだ。そこには、「聖書には次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。あなたがたはこれらのことの証人となる」と述べてあるが、それはエマオへの2人に話されたこと(ルカ24;25-27)と非常に類似している。その表現は、いわば救いの御業全体のレジュメだと言える。
 ここで一つの疑問が湧いてしまった。イエス様は「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編とに書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである」と言われた後で、「聖書には次のように書いてある」と話されたのだが、「聖書のどこにそう書いてあるのだろうか?」という疑問だ。これは本筋からの脱線になるが、そのままだと気になるので調べてみた。
 「律法と預言者の書と詩編」とは略語でTANAK(Torah, Nebiim, Ketubiim)と言い、全聖書を意味するが、そこにある救い主の出現、その教えと業、死と復活などについて、確かに予言だと思えた個所だけを拾い出すと、次のようなリストになった。ただし、脱線だからその内容には立ち入らず、いつか役立つかも知れないと思い、列挙するにとどめる。
 申命記18;15、詩編22;1、イザヤ7;14、イザヤ9;6、イザヤ42;1、イザヤ53;7、イザヤ61;1、エレミヤ23;5-6、ザカリア9;9、詩編69;21、詩編110、詩編118;22。以上だ。

 ところで、「聖書と典礼」の福音朗読個所にルカ24;45が入っていないのを見て、もう1節前からにしたらよかったのに、と残念に思った。そこにはイエス様が、「聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて」と書いてあるが、これは大事な1節だと思うからだ。エマオの弟子も「すると、二人の目が開け」(24;31)、イエス様が見えたのだった。つまり、真実が見えた。弟子たち全員に現われた復活の日も、彼らの目を開いて言われたのだった。
 では、彼らの目を開くとは何を意味するのだろうか?それは「彼らに息を吹きかけて言われた。聖霊を受けなさい」(ヨハネ20;22)と言われたお言葉に等しく、聖霊をお与えになったからこそ、彼らの目が開かれたのだと思う。ルカでもその時イエス様は罪の赦しを語り、ヨハネでも「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される」と言われているから合致している。ルカではその後で、父が約束された聖霊を送るから、都に留まっていなさいと言われる。「高い所からの力に覆われる」とは、聖霊降臨への言及に他ならない。
 やがて起こる聖霊降臨は教会の誕生であり、聖霊がそこに顕在することの公表だった。それに対してヨハネが伝えた御復活の夜の聖霊授与は、潜在的な聖霊降臨だったと言えよう。だが、それが弟子たちの目を開き、それまでに起こったこと、これからなすべきことを理解させさせたのだ。福音書には書いてないが、使徒言行録を見ると、イエス様は40日にわたって弟子たちに現われ、神の国について話されたり、やがて聖霊による洗礼となる聖霊降臨の日のことを予告されたりして、彼らの最終的な教育をなさった。
 彼らは「主よ、イエスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか?」などと、まだよくわかってないなぁと思わせるような質問もした。しかし、主はそれをあながち否定せず、「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、…地の果てに至るまで、わたしの証人になる」と答えられている。聖霊が来ればわかる、と本当の答えは聖霊に任されたのだ。それは「父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教える」(ヨハネ14;26)と言われたことと重なる。

 ルカの福音書では、イエス様はベタニアの辺りまで弟子たちを連れて行き、祝福なさってから彼らを離れ、天に上げられたとある。このたいへん淡々たる叙述を読むと、ご昇天の事実がそれほど重視されていたという印象は受けない。ところが、他の福音書に比べると決してそうではないことがわかる。なぜなら、ご昇天について言及した他の福音書はマルコだけで、マタイとヨハネは一言もそれには触れていないからだ。
 マルコの福音書は「主イエスは、弟子たちに話した後、天に上げられ、神の右の座に着かれた」(マルコ16;19)とだけ伝える。これはご昇天の事実というより、初代教会の信仰を反映した決まり文句的な表現を使って、その福音書の結びにするためだけに書いたような感じだ。だから、「天に上げられ」とあっても、いつどこでどのように上げられたのか、何ら具体性がないのだと思う。それに「神の右の座に着かれた」と書いたのはマルコだけで、それが現在の信仰宣言の表現にもなっているところを見ると、初代教会の定型的な表現に他ならなかったと思わざるを得ない。
 それらに比べる、使徒言行録は御昇天について詳しく伝えている。その描写はこうだ。
 「こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。イエスが離れ去って行かれるとき、彼らは天を見つめていた。すると白い服を着た二人の人がそばに立って、言った。『ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。』」
 これを読むと、弟子たちは昇天する主をずっと見上げていたが、最後までは見届けられなかったことがわかる。雲がお姿を隠したからだ。雲と聞けば、山上のご変容(ルカ9;28seq.)を想起する人もいるだろう。それでも弟子たちはぽかんと空を見上げていた。すると白い服を着た二人の人がそばに立って彼らに話しかけた。それを読むと、復活の朝、墓で婦人たちに現われた輝く衣の二人(ルカ24;4)を連想する人もいるに違いない。
 このようにルカは、主がいつどこでどのように御昇天になさったかを、最も具体的に描写して残してくれた。そして、それがその後の出来事に連動しているところに、彼の記述の価値がある。二人の人が弟子たちに「なぜ天を見上げて立っているのか」と掛けた声は、主の再臨を示唆している。そして、ここでヨハネの福音書と見事に響き合う。なぜならヨハネの福音書は、主が最後の晩餐の時に語った次のお言葉を伝えているからだ。
 「行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうしてわたしのいる所に、あなたがたもいることになる。」(ヨハネ14;3)「今わたしは、わたしを遣わした方のもとに行こうとしているが、…わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。」(同16;5-7)これは再び来られることだけでなく、聖霊の降臨をも約束なさったお言葉で、ルカの書いたことはその実現であった。

 ヨハネの福音書は主のご昇天の出来事は語らない。しかし、イエス様のお言葉がそれを明かに伝えている。上掲のヨハネ16;5-7もそうだが、御復活後にマグダラのマリアに言われた言葉が最も明瞭だ。主はこう言われた。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」(ヨハネ20;17)
 従って、主の御昇天が初代教会からの信仰だったことは確かだ。しかし、ルカにとってはそれだけでなく、ご昇天の事実をしっかりと書かないわけにはいかない理由があったと思う。それは彼が福音書の続編であり、第二巻である使徒言行録を書く意図をもって、その福音書を書いたからだ。
 つまりそれはこういう意味だ。イエス様は死に打ち勝って復活なさった。だから、2度と死なれることはない。ところが、聖霊と教会の時代が来ても主が地上におられたなら、弟子たちが次々と死んで入れ替わっても、不死の主だけがいつまでもずっとおられることになってしまう。主は霊的には世の終わりまで共におられるが、復活体でいつまでも地上に留まることは、誤解を恐れずに言えば、ルカにとっては困ることだったのだ。それは神様の計画ではなかった。それも一つの方法だったかも知れないが、実際はそうではなく、福音の伝播は聖霊と使徒たちの教会にバトンを渡す方法を取られたからだ。
 では、もはや死ぬことのない主が地上に居残らないようにするためには、どんなふさわしい去り方があっただろうか?それが「天に上げられる」ということだったのだと言えよう。だからルカ福音書にとっては、主のご昇天は必要不可欠な終りであり、使徒言行録にとっては必要不可欠な出発点だったのだ。それが済まないと、聖霊降臨と教会の誕生には進めなかったからだ。まさに、「わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる」(同16;5-7)ことだったのだ。
 だからこそ、すでに聖霊によって心の目を開かれていた弟子たちはそれを理解し、『オリーブ畑』と呼ばれる山からエルサレムに戻って来た。しかもただ戻って来たのではなく、「イエスを伏し拝んだ後、大喜びで」(ルカ24;52)帰って来たのだ。主のご昇天は彼らにとって悲しい永訣ではなく、希望に満たされた別れだったからだ。そして、聖霊降臨の日まで、一緒にいた家や神殿で皆心を合わせて熱心に祈り、神様をほめたたえていたのだった。

 福音書と使徒言行録が語る主の御昇天の出来事は、とりあえず以上のような解釈でいいと思う。しかし、「天に昇られた」とはどういうことだろうか?という、この一番大きな疑問の解明がまだ残っている。何が問題なのかと言うと、天を私たちが住む世界と同じ物理的な次元とする限り、イエス様が天に昇られたということは、コペルニクス以後の宇宙認識に対しては説明が困難なことにある。
 2000年昔の初代教会時代、人々はまだ古代の宇宙観で世界を認識していた。それによれば、天はある半円球型をした蒼穹の上にあり、天体はその蒼穹に散りばめられていた。だから、天に昇るとは蒼穹を突き抜ければよかったのだ。他方、大地は球ではなく、天空の下に広がる平らなものと考えられていた。それだと人が地上から天を仰ぐ時は、皆同じように下から上を見る姿勢になる。この宇宙観なら、イエス様が天に上げられていくのを見ると言う表現は当たり前で、何らの疑問も抱かせなかっただろう。
 現代人でも日常では古くからの習性で、天と言えば空を見上げる。ロケットは天高く上っていくと思う。そして、知識では地球は球体だと知っていても、大地を丸いと実感しては生きていない。だから、主の御昇天についても、裁きの日、人の子が雲に乗って来られるということについても、昔の人たちが信じてきたように、現代の人々もごく当たり前のこととして受け止め、それはおかしいのではないかなどと疑問を抱かないのだと思う

 しかし、少しでも考えてみればわかるが、宇宙の中の地球には上下というものはないのだ。仮に北極を上、南極を下だとしたら、北極圏の人たちは上を向いて立っていることになるが、赤道地域の人たちは真横になって地球に足をつけており、南極圏の人たちは逆さになっていることになる。そして、それぞれの頭上に広がる空の果てが天ならば、イスラエルと南米パタゴニアでは、天が全然違った方向にあることになるのだ。
 それに、天に昇るということが宇宙の中に出て行くことならば、イエス様はどこまで行けばよかったのだろうかという問題にも突き当たる。ビッグバン説によれば、宇宙は180億年経ったと言われる。言い換えれば、宇宙の果てまでは光速でそれだけかかるということだろう。もし天が宇宙の果てにあるとするならば、主はそこまで行かなければなかったことになってしまう。では、宇宙の果てまで行かれたのだろうか?答えに窮する。
 それとも、天の国はそんな遠くにではなく、この宇宙のどこかにあって、昇天された主はそこに到着すればよかったのだろうか?そして、そこで父の右に座られたと言うのだろうか?それは余りにもおとぎ話的で、とうてい現代人の批判に耐えない。そもそも神の国がこの宇宙のどこかにあり、神なる父がそこにおられるという発想自体が聖書とは相容れない。神様は有限な被造物である宇宙を超えた存在だからだ。 
 それでも主の昇天は、特定の場所から限られた人たちの前で行なわれたので、皆が天を仰いで見上げていたという叙述にはおかしいところはない。しかし、主の再臨の方は現代の宇宙観で考えると具合が悪い。福音書にも使徒の手紙にも次のように書いてある。
 「そのとき、地上のすべての民族は悲しみ、人の子が大いなる力と栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見る。人の子は大きなラッパの音を合図にその天使たちを遣わす。天使たちは天の果てから果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める。」(マタイ24;30-31)「大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、主御自身が天から降って来られます。するとキリストに結ばれて死んだ人たちが、…」(一テサ4;16)
 しかし、現代人は大地が平らではなく、球であることを知っている。仮に人の子がイスラエルの地に降って来られるとしたら、どこから来られるかはさておき、四方から人々を呼び集めると言っても、地球の反対側の人には見えないし、聞こえないし、遠すぎて何が起こったかもわからないだろう。すべての民族が見るということにはならないのだ。たとえ主が再臨なさったとわかっても、海があってはとうてい全部は集まれないだろう。仮に行けるとしても、一つの場所に人類60億人が集まるのは無理だと言わざるを得ない。

 要するに、古代の知識を前提に語られたことを、現代の宇宙観に照らして理解しようとしても無理だということがわかる。聖書の伝えを否定したいからではなく、納得がいく解釈を見つけたいから、私はこのような考察をしている。では、そういう解釈は可能なのだろうか?御昇天については可能だと思う。しかし、人の子の来臨については別だ。予言は成就してから、初めてそうだったのかとわかることが多い。おそらく主の再臨でも私たちの知りえないことが、昔の語り口で語られているのだろう。だから、主の再臨があることは確かだと信じてさえいれば、わからないことが多くあってもいいのではなかろうか。
 御昇天については、主が弟子たちの前で大空に昇られたということは不合理ではない。通常の物理法則のもとではあり得ないが、主が神のみ子であることを信じれば、超自然的な出来事は否定できない。ある日、主はガリラヤ湖上を歩行された。そして弟子たちの舟に乗られるや否や、舟はすぐ目的地に着いてしまった(ヨハネ6;16-21)ことがあった。こういう奇跡を認めないなら別だが、それを認めるなら、御昇天も認めるのは理の当然というものだろう。
 しかし、それでは主が宇宙の果てまで行かれたのか、それとも宇宙のどこかで止まられたのかという疑問は解決しない。その答えは何であろうか?私はその問いそのものが間違いだと思う。現代の宇宙観で御昇天を考えるのは、私たち人間の四次元の世界に復活の主を置いていることになる。しかし、復活の主は私たち人間とはもはや違う、復活体であることを示された。戸が閉まっていたのに部屋に入って来られたり、食事の席からすっと姿を消されて、他の場所に現われたりなさったことがそれを証明している。
 そうだとすれば、主の御昇天も私たちと同じ次元で考えてはいけないのだという結論になる。ではどういう次元なのかと言われてもそれはわからないが、主の御昇天は、きっと私たちが生きている宇宙の自然とは違う次元で行なわれたに違いない。それが私の自答だ。ただ、主は使徒たちから去ることをわからせるため、ある高度までは人々に見える姿で昇天された。雲が出て主を隠してしまったというのは、実にいい幕の引き方だったと思う。
 雲が隠した後はきっと神の次元の行動となったに違いない。つまり、もう宇宙空間を移動する必要などはなく、「父よ、今、み前でわたしに栄光を与えてください。世界が造られる前に、わたしがみもとで持っていたあの栄光を」(ヨハネ17;5)と言われた栄光の座に、即座に着かれたのだと考える。神の言は空間や時間の制約を受けない、それらを超越した存在だからだ。ただし、「神の右の座に着かれた」(マルコ16;19)という表現は、あくまでも擬人法に他ならない。神様は人のように座に着かれることはなく、右も左もないからだ。
 さて、これらの考察をした後の教訓は何であろうか?天を見上げていた弟子たちに、二人の人が語ったような言葉ではなかろうかと推察する。すなわち、「余生風よ、なぜ天のことを考えているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、使徒たちがあなたがたに伝えたように、またおいでになる。見ないのに信じる人は幸いである」というお言葉だ。

心を騒がせるな

 復活節第6主日の聖書はヨハネによる福音書14;23-29、使徒言行録15;1-2,22-29、そして黙示録21;10-14,22-23だ。使徒言行録を読んで強く印象に残ったのは、福音で言われたイエス様のお言葉が、教会の歴史で約束通り実現された事実だった。今週と来週は運動ニュース85号の編集、印刷、発送があって時間的な余裕がないから、今回はそれについてだけ書く。
 ヨハネ14;23-29はその直後に「さあ、立て。ここから出よう」とあるから、まさに主が最後の晩餐でなさった別れの挨拶の最終場面だ。主は御自分が去った後の弟子たちのことを案じ、すでに話されたこと、つまり「わたしの言葉を守りなさい。弁護者である聖霊が来られる。わたしは父のもとに行くがまた戻ってくる」ということについて、そこでもう一度まとめてお話しなさった。 
 しかし、聖霊が来られれば、弟子たちに主が教えたことをすべて思い出させてくださるという保証と、世が与えるのとは違う平和を与えるという確約は、ここで初めて言われたことだった。そして、その保証と確約があるから、自分がいなくなっても「心を騒がせるな。おびえるな。」心配するなと言われたのだ。弟子たちが不安でいっぱいだったことを主はよくご存知だった。だから、本来ならこれから死地に向かう自分こそ励まされてしかるべきだったのに、弟子たちを励まされたのだった。

 使徒言行録は初代教会の時代に飛ぶ。それを読むと、私たちはそこで、最後の晩餐で言われたイエス様の上述のお言葉が見事に実現することを知る。時は紀元48-49年、まだ主のご昇天から十数年しか経っていなかった。それなのに、教会内には早や主の福音を無意味にしかねない、嘆かわしい動きが生まれていた。それはエルサレム教会を中心にしたユダヤ人信者たち、とくにファリサイ派から主の福音に改宗した人々から起こった。
 時というものはしばしば最初の熱意や純粋さを失わせ、きまりや習慣に流れさせてしまうものだ。彼らもそうだった。聖霊降臨後しばらくは心を一つにし、福音の喜びに満ち溢れていた(徒2;44-47)が、人を自由にする福音を信じたはずなのに、彼らはまるで先祖返りでもしたかのごとく、「モーセの慣習にしたがって割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」と言い出したのだ。 
 そして、初代教会の一大中心地だったシリアのアンティオキアまで行って、「異邦人にも割礼を受けさせて、モーセの律法を守るように命じるべきだ」と主張し、それに反対するパウロやバルナバと激論を繰り返した。当時はまだユダヤ人が信者の主流であり、ユダヤ的な慣習からも脱却できていなかったから、信者たちはどちらの主張が正しいのかわからずに迷った。それが大問題になったのは、福音を歪め、信者すべてに動揺と混乱を引き起こしたからだった。

 そこで、使徒たちと長老たちはエルサレムに会議を招集した。最初の公会議だった。ところで、その問題がその会議でどう議論されどう解決したかを知ると、私たちは主が最後の晩餐で、「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。」「聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが教えたことをことごとく思い出させてくださる。」「わたしの平和を与えるから、心を騒がせるな。おびえるな」と言われたお言葉が、まさにそこで使徒たちを通して実現されたことを目の当たりにするのだ。
 議論が出尽くしたとき、ペトロは立って言った。第一朗読は彼の発言を飛ばして読まないが、大事なので要約すると、彼はこう言った。神は人々が福音を信じるために使徒たちを選んだ。異邦人にも聖霊を与え、信仰によって清め、何らの差別もなさらない。「それなのに、なぜ今あなたがたは、先祖もわたしたちも負いきれなかったくびきを、あの弟子たちの首に懸けて、神を試みようとするのですか。私たちは、主イエスの恵みによって救われると信じているのですが、これは、彼ら異邦人にも同じことです」と言ったのだ。彼は断を下した。「異邦人に割礼は要らない」と。

 すると、エルサレム教会のトップで、「主の兄弟」と言われたヤコブがペトロの見解に賛同し、会議の結論として具体的指針を提案した。「わたしはこう判断します。神に立ち返る異邦人を悩ませてはなりません。ただ、偶像に備えて汚れた肉と、みだらな行いと、絞め殺した動物の肉と、血とを避けるようにと、手紙に書くべきです。モーセの律法は、昔からどの町にも告げ知らせる人がいて、安息日ごとに会堂で読まれているからです」と言った。
 彼は異邦人にも割礼をすべきだと言い出したエルサレムの信者たちの長だった。だから私は背後に彼がいたのではないかと疑う。彼の提案は旧約の律法に反しないことに関心があり、最後の「モーセの律法」云々は、いかにもまだ律法に未練があるような感じだ。それにもかかわらず、聖霊は彼にも働き、正しい判断をさせた。そして、彼の提案は会議の結論に採択され、手紙に書かれてアンティオキアの教会に届けられたのだった。第二朗読で読まれるのはその個所だ。
 手紙は「聞くところによると、わたしたちのある者がそちらへ行き、わたしたちから何の指示もないのに、いろいろなことを言って、あなたたがたを騒がせ動揺させたとのことです」と、騒ぎを起こした者たちを非難し、「聖霊とわたしたちは、次の必要な事柄以外、一切あなたがたに重荷を負わせないことに決めました」と、簡潔な禁止項目を書いて、「以上を慎めばよいのです。健康を祈ります」と知らせたのだった。教会は正式にパウロとバルナバの主張が正しいと認定した。

 その具体的禁止条項を見ると、「みだらな行いを避けること」は今も有効だが、偶像に献げられた肉や血云々は今日ではもう無用に等しい。現代では偶像に生贄など献げないからだ。時代が変われば問題も変わる。だが皆無にはならない。どの時代にも信仰を揺るがすその時代なりの大問題は必ずあった。これからもあるだろう。しかし、その度に聖霊も働かれた。これからもお導きくださるはずだ。初代教会のエルサレム会議はその最初の一例であり、実りでもあったのだ。
 その時、律法に傾いたキリスト信者たちは、「モーセの慣習にしたがって割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」と主張した。しかし、それはイエス様の言葉を守らない証拠だった。「律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現われた」(ヨハネ1;17)ので、救いは主の死と復活によってもたらされたのだからだ。だからこそ福音と言う。人が救われるのはモーセの律法によるのではないのに、彼らは救いを単なる民族的慣習に帰そうとした。それは明らかに主の福音を否定する主張で、当時としては実に危険な謬説だった。
 ペトロはそれを所信表明で、「私たちは、主イエスの恵みによって救われると信じているのです」と、きっぱり否定した。聖霊降臨の直後も、ユダヤの権威当局に捕らえられた時もそうだったが、彼はもうかつてご受難の時に主を否んだようなペトロではなかった。聖霊が共におられたからだ。聖霊は主が教えてくださった福音を彼に思い出させ、何を言い、どう決断すべきかを悟らせ、彼を導かれた。私たちはこの会議にその好例の一つを見る。
 この会議で初代教会は一つの大問題を解決し、一安心したことだろう。当時、異邦人の改宗者たちはこの問題がどういう結果に終わることかと心配し、きっと心を騒がせたに違いない。しかし、主は「わたしはあなたがたにわたしの平和を与える。心を騒がせるな。おびえるな」と言われていた。聖霊はそれを使徒たちに思い出させたことだろう。世が与えるのとは違うと言われたイエス様の平和は、ご復活の後に現われ、「あなたがたに平和!」と言われたその平和だった。

 それから2000年経った今も、人は主のその言葉を信じるだろうか?信じるからキリスト信者と言うのだと思う。信仰の変質・消滅の大危機はすでに歴史上で何回もあった。2世紀に多発したグノーシス的異端、皇帝・王侯が教会を牛耳ったセザロパピズム、教会自身の腐敗、大離教を招いた宗教改革、聖書に挑戦した近代無神論等だ。そして、現代の危機は教会が時代に取り残され、無用な過去の長物として衰弱死するのではと恐れる危機かも知れない。
 少し前、知り合いがこんな話をしてくれた。彼は今ある教会で仕事をしているので、毎朝ミサに与る幸運を味わっているそうだ。しかし、そこに来る女子修道女たちを見ると気の毒になると言うのだ。志願者は入らず、80過ぎた会員ばかりになり、ある人は病気、ある人は認知症で、もう会としての仕事もできない。これからどうなるのだろうという暗い話だった。要はそれが教会の未来を象徴するようで心配だということに他ならなかった。
 そう言えば、表沙汰になった聖職者の児童性的虐待問題もある。これについては私には批判する資格もないが、他にも不祥事が隠されているのではないかと、最近は人々の教会に対する尊敬と信頼が薄らいでいるような気がする。だから、つい教会は大丈夫なのだろうか?2000年も続いてきたが、遂に朽ちた大木のように倒壊して終焉を迎えるのだろうか?と心配してしまうのも無理はない。
 今日の福音と使徒言行録はこの深刻な疑問に答えて、まさに「心を騒がせるな。怯えるな。わたしの平和を残す」と言われたお言葉を学ばせてくれる。後はそれを信じるかどうかだ。いずれにせよ、ここでわきまえていなくてはならないことが二つあると思う。一つは初代教会の難問も歴史上の諸危機も聖霊の導きで克服できたように、現代の危機も乗り越えられるはずだと信頼すること、もう一つは危機があろうとあるまいと、いずれ一切の終末があることだ。世の終末が来れば、地上の教会も使命を終わるだろう。
 天地は過ぎる。そして、新しい天と地になるだろう。黙示録21章が描いているのはその未来だ。最後の晩餐の最後の最後にイエス様は言われた。「事が起こったときに、あなたがたが信じるようにと、今、その事の起こる前に話しておく。もはや、あなたがたと多くを語るまい。世の支配者が来るからである。だが、彼はわたしをどうすることもできない」と。それはその時から黙示録の未来にまで当てはまると思う。しかし、主がその間ずっと共にいてくださるのなら、私は心配しない。「心を騒がせるな」とのお言葉を信じる。それが主の福音に賭けた生き方だと思う。

栄光についての考察

 復活節第5主日の福音ヨハネ13;31-35にある「新しい掟」についてはすでに述べた。そこで、ここでは後回しにした「栄光」の問題に取り組んでみよと思う。福音書はイエス様が、「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった。神が人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神もご自身によって人の子に栄光をお与えになる。しかも、すぐにお与えになる」と言われたことを伝えている。
 このくだりを読んだとき、私には今まで思ったこともない疑問が湧いてしまった。神様はもともと栄光そのものなのに、なぜなおも栄光が要るのだろうか?という疑問だ。考えてみれば、毎日の朝夕の祈りは、「栄光は父と子と聖霊に、始めのように今もいつも世々に」と祈る栄唱で終わり、毎日曜日のミサでは栄光という言葉が3回も出てくる栄光の賛歌を歌う。神様に栄光を帰することは至極当たり前で、今までそれに疑問を抱いたことはなかった。
 しかし、裏返せば、それは慣れっこになっていて、栄光の意味をよく考えも意識もせず、言葉だけをただ上すべりに口にしていた証拠だと思う。しかし、栄光を神様にささげることが当たり前なら、それはなぜなのか?そもそも聖書における栄光とはいったい何なのだろうか?そういう疑問が浮かんでしまった以上、それを考えるのは福音をもっとよく理解するための好機ではあると思う。その反面、こんなとんでもない疑問を持つことは冒涜ではないかと、われながら困惑を覚えないではない。
 そこで、次のような姿勢で取り組むことにする。疑問があっても、私が栄光を帰すべき方に喜んで栄光を帰することに変わりはない。主の福音を信じているから、それをやめることはない。しかし、栄光について徹底的に考察する。その意味とわけを知り、湧いてしまった疑問を解決したいからだ。ただし、これは私の手には負えない難問だという予感がする。納得のいく自答は得られないかも知れない。だが、調べられるだけのことは調べ、考えられるだけのことは考えてみようと思う。

 ヨハネ13;31-35の文脈はすでに前のブログで書いたが、言及しなかった点がある。それが栄光の問題と関わるので、もう一度文脈を略述する。このくだりはイエス様が最後の晩餐で、弟子たちに話された別れの挨拶の冒頭に当たる。その長い挨拶が始まるタイミングを、ヨハネはこう書いている。イスカリオテのユダは主から「パン切れを受け取ると、すぐ出て行った。夜であった」と。言及しなかった点とは、この「夜であった」の一言だった。
 この一言は実に印象的なのだ。ユダが戸を開けて出た時、外は真っ暗だった。その暗さは使徒ヨハネに、晩年になっても忘れ得ないほど強い印象を残したのだろう。だから、ほとんど無意識にその一言を書き加えてしまったのだと思う。出来事の記述のためなら、それはなくても差し支えない一言だった。しかし、この小さなたった一言があるおかげで、その時の状況は今も、きわめて鮮明かつ対照的に浮かび上がってくる。それは時間的な夜だけでなく、もう一つの闇を象徴している夜でもあったのだ。
 そして、彼が出て行くと、主は「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった」と話し出されたのだった。ここには闇に対する光がある。「光りは暗闇の中に輝いている。暗闇は光りを理解しなかった」(ヨハネ1;5)とあるその光りだ。栄光の一つの特徴は輝きだが、闇はその正反対だ。ユダがその中に消えていった闇の暗さと、イエス様が残った弟子たちに語られた神様と人の子の栄光。それはまさに神秘的なコントラストだ。
 そこには、栄光とは何かについての答えを得る手がかりがありそうだ。栄えと亡び、光と闇があるからだ。栄光とは、繁栄、栄誉、栄達、栄華などを含む「栄え」が、「光」と合体した熟語で、栄え輝き、命溢れる状態を表す。その反対は衰亡、衰退、消滅、暗転だ。そして通常なら、人は前者を望み、後者を嫌う。ここではまだ厳密な定義は要らない。栄光とは大体こう言うものだということがつかめ、人が一般的に何を願わしいものと理解しているかがわかればいい。
 では、聖書でも「栄光」とはそういう意味で使われているのかというと、そうだとは言っていいと思う。しかし、実はそれ以上に広い意味があると言う方がもっと正確だろう。旧約聖書においては、神の栄光はヘブライ語でほとんどの場合カボードと言われるが、それは上掲の日本語の意味などには当てはまらない、神の存在を示す独特な意味があるからだ。いずれにせよ、栄光と言う言葉は新・旧約聖書全体ではあまりにも多く出てくるので、とうてい全部は扱いきれない。だから、ここでは福音書だけに範囲を絞る。

 福音書にでてくる「栄光」、「栄光を受ける」、「栄光を与える」などの言葉は、いつ、どういう場合に、どういう意味で使われているかを調べてみると、大まかに言って、共観3福音書とヨハネの福音書では大きな違いがある。それらはこの後に列挙する実例を見た後で言う方がいいのでまだ書かないが、ヨハネの福音書では「栄光」という言葉が、驚くほど頻繁に出てくることだけは指摘しておいていいだろう。それは「言」(みことば)と共に、この福音書を特徴づける言葉だと思われる。
 福音書原典はギリシャ語(ここではカタカナ表記する)だが、動詞の場合は「栄光を与える」が一様にドクサツォ-(glorificare, glorify, glorifier)で表現され、名詞の場合はドクサ(gloria, glory, gloire)が使われている。ところが、日本語訳は必ずしもそれを「栄光を与える」、「栄光」とは訳しておらず、別の言葉でも表現している。ドクサの意味が多様な証拠だ。それは実例を見ればわかる。以下にそれらを列挙してみる。ただし、原典では「栄光」、「栄光を帰す」等であるのに、そう訳していない場合の日本語訳には、その後にカッコ入りでギリシャ語をつけておく。

《マタイによる福音書から》
4;8「悪魔は・・・世のすべての国々とその繁栄振りを(ドクサン)見せて、」
5;16「あなたがたの天の父をあがめる(ドクサソーシン)ようになるためである。」
6;2「偽善者たちが人からほめられ(ドクサストーシン)ようと会堂や・・・」
6;29「栄華(ドクセイ)を極めたソロモンでさえ・・・」
9;8「群衆は神を賛美した(エドクササン)。」
16;27「人の子は父の栄光に輝いて・・・」
19;28「人の子が栄光の座に座るとき、あなたがたも・・・」
24;30「人の子が大いなる力と栄光を帯びて・・・」

《マルコの福音書から》
2;12「人々は皆驚き・・・神を賛美した(ドクサツェイン)。」
10;37「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、」

《ルカの福音書から》
2;9「主の栄光が周りを照らしたので・・・」
2;14「いと高きところには栄光、神にあれ、」
2;32「あなたの民、イスラエルの誉れ(ドクサン)です。」
4;6「一切の権力と繁栄(ドクサン)とを与えよう。」
4;15「イエスは・・・皆から尊敬(ドクサツォメノス)を受けられた。」
5;26「人々は皆大変驚き、神を賛美(エドクサツォン)し始めた。」
9;31「2人は栄光に包まれて・・・」
9;32「栄光に輝くイエスと、そばに立っている二人の人が見えた。」
13;13「女はたちどころに腰がまっすぐになり、神を賛美した(エドクサツェン)。」
17;15「大声で神を賛美しながら(ドクサツォーン)戻ってきた。」
17;18「神を賛美する(ドクサン)ために戻って来た者はいないのか。」
23;47「百人隊長は・・・神を賛美した(エドクサツェン)。」
24;26「メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」 

《ヨハネの福音書から》
1;14「わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、」
2;11「最初のしるしをガリラヤのカナで行なって、その栄光を現された。」
7;18「自分勝手に話すものは、自分の栄光を求める。しかし、・・・方の栄光を求める者は・・・」
7;39「イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、“霊”がまだ・・・」
8;50「わたしは自分の栄光は求めていない。わたしの栄光を求め・・・」
12;16「イエスが栄光を受けられたとき、それがイエスについて書かれたものであり、」
12;23「人の子が栄光を受ける時が来た。・・・一粒の麦は、地に落ちなければ・・・」
12;28「父よ、御名の栄光を現して下さい。」「わたしはすでに栄光を現した。再び栄光を現そう。」
12;41「イザヤはイエスの栄光を見たので、このように言い、」
13;31「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった。」
13;32「人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神も…人の子に栄光をお与えになる。」
14;13「こうして、父は子によって栄光をお受けになる。」
15;8「それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。」
16;14「その方(聖霊)はわたしに栄光を与える。」
17;1「あなたの子があなたの栄光をあらわすようになるため、子に栄光を与えてください。」
17;4「地上であなたの栄光を現しました。」
17;5「父よ、今、御前でわたしに栄光を与えてください。世界が造られる前に、わたしがみもとで持っていたあの栄光を。」
17;10「わたしは彼らによって栄光を受けました。」
17;22「あなたがくださった栄光を、わたしは彼らに与えました。」
17;24「天地創造の前からわたしを愛して、与えてくださったわたしの栄光を、彼らに見せるため」
21:19「ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスは…」

 さて、これらの実例は漏れなく掲載したわけではないが、ほとんどは拾い上げたつもりだ。対応する原典のギリシャ語も全部照合してみた。こうしたことからわかることは、まず共観3福音書では、名詞の「栄光」(ドクサ、グロリア)は、「繁栄振り、栄華、誉れ、尊敬」等とも訳され、動詞の「栄光を帰す、栄光を与える、栄光を求める」(ドクサツォ-、glorify)は、多様に活用変化した形で、「あがめる、褒める、賛美する」等の意味にも訳されている。つまり、ギリシャ語のドクサとドクサツォ-には、そういういろいろな意味があるということだ。
 面白いのは、例えば「偽善者たちが人からほめられようとして・・・」の場合など、虚栄を求めているときにもドクサツォ-(栄光を求める)が使われていることだ。悪魔がイエス様を誘惑したときは、「世のすべての国々とその繁栄振りを見せて」も、ドクサ(栄光)という言葉で表現されている。良いことや望ましいことばかりに使われるとは限らないのだ。動詞では「賛美する、崇める」の意味で使われる場合の多さも目を惹く。そして、何よりも3福音書では「栄光」の頻度が少ない。
 それに比べると、ヨハネの福音書はずいぶん違う。まず、ヨハネでは、「栄光」、「栄光を与える」、「栄光を受ける」などは、すべてが神様かイエス様にかかわる栄光だ。従って、良くないことや望ましくない物事の表現には使われていない。次に、賛美するという意味では使われていない。「栄光」で一貫している。そして、イエス様の受難と復活という「わたしの時」が近づくにつれ、父と御自分の「栄光」も次第に頻繁になることがわかる。

 これを見ると、ヨハネは「栄光」と言う言葉を、極めて意図的に書いたということが窺える。当然だが、彼は「栄光」に、何らかの特別な意味をもたせたと見なければなるまい。他の3福音書にある「栄光」はある意味では常識的な理解でよく、大雑把な日本語の定義と重なると見ていいと思う。しかし、ヨハネの場合は違う。常識的な「栄光」の概念では理解できない何かがある。そして、ヨハネ13;31-32はまさにそのケースなのだ。では、それはどう理解したらいいのだろうか?
 3福音書でも、マタイ5;16「あなたがたの天の父をあがめる(=父に栄光を帰す、ドクサソーシン)ようになるためである」という箇所の訳は参考になる。なぜなら、「父に栄光を帰す」を「父をあがめる」と訳しているが、それは「神も人の子によって栄光をお受けになる」(ヨハネ13;31)を「子は神に栄光を帰す」と言い直すならば、「子は神をあがめる」とも言えるので、表現しようとしていることが非常に近いからだ。「栄光を受ける」とはあがめられる意味に近いことがこれでわかる。
 もう一つ、ルカ24;26の「メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか」という個所も示唆に富む。ここでは、栄光とは復活した主の立場に他ならない。「イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、…」(同7;39)とはこの意味で解釈できる。だとすれば、ヨハネにおける主の栄光には、御復活の意味が含まれていると見ていい。つまり、「人の子は栄光を受けた」という場合の「栄光」は、ユダの裏切りで受難が確実になったとき、その後で起こる復活をすでに先取りして言われたことを意味する。

 しかし、ヨハネにおける「栄光」にはもっと意味がありそうだ。私は3つの個所をつなげると、それがわかりそうな気がする。それは、①「父よ、今、御前でわたしに栄光を与えてください。世界が造られる前に、わたしがみもとで持っていたあの栄光を。」(ヨハネ17;5)②「天地創造の前からわたしを愛して、与えてくださったわたしの栄光を、彼らに見せるためです。」(同17;24)③「わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、…」(同1;14)という個所だ。
 ①の「世界が造られる前に、わたしがみもとで持っていたあの栄光」と②の「天地創造の前からわたしを愛して、与えてくださったわたしの栄光」は同じだ。それは人となられる前、「初めに言があった。・・・言は神であった」ときに持っておられた「栄光」であって、神性の輝きそのものだと言えよう。私たちはここでやっと、これこそ神の栄光の本質だと言えるものにたどりつけたように思う。ヨハネはそれを感得させようとしたのだ。
 彼は人となられた言にもそれを見ることができると書いた。それが③の「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」という個所だ。この場合、その栄光はイエス・キリスト様の人間性を通しても見えたと言っているのだ。しかし、これはガリラヤにおられた頃の主ではなく、復活し、天に昇って父の右におられる、独り子としての主にある栄光だと見なければなるまい。栄光の賛歌はそれを讃えるものだ。
 しかし、神様の栄光が神性の輝きを表すものだとわかっても、それから先は人知を超えるから、人間には多くのことはわからないと言わざるを得ない。ただ、その栄光の中身を少しだけ示唆する言葉がある。それが「恵みと真理とに満ちていた」という語句だ。神の栄光を器に喩えれば、人間はその外側しか見ていないわけだが、この語句のおかげで器の中も少しだけ窺い知ることができるからだ。「律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して与えられた。」(ヨハネ1;17)ならば、その真理と恵みがどんなものかを知ればいいのだ。

 とは言え、それらもしょせんは人の言葉だ。そのことは常にわきまえている必要がある。人は他者に何かを伝えるとき、伝えたい物事を言葉にする。言葉にしないとわからないからだ。例えば「神のことば」がそうだ。預言者たちは「神がこう告げられた」と神様の託宣を語った。しかし、実際には「神語」というものはない。少なくとも人は知らないし、たとえあってもわからないだろう。聖書は神の言葉を収めていると言われる。しかし、それは神の言語で書かれているわけではない。旧約聖書の原典はヘブライ語、新約聖書の原典はギリシャ語で書かれているが、それらは神の言語ではないのだ。イスラエル人たちとギリシャ人たちが使っていた特定の人間言語に過ぎない。
 神様が語ると言うのも、実は擬人法的な表現なのだ。ある日のこと、イエス様に天からの声がしたとき、人々は「雷が鳴った」「いや、天使たちがこの人に話しかけたのだ」(ヨハネ12;29)と思った。何だかわからなかったからだ。これすら神様の声そのものではなかったのだが、それでもこの方が、人間の言葉を介するよりはまだ神様の声に近かったのかも知れない。聖書にある神様の声も言葉も、実はみな人間的に翻案した擬人法的表現なのだ。
 「初めに言があった」の「言」についてもそうだ。これは実に苦心した末の表現であり訳だと推察するが、これもまた人間の言葉に過ぎない。ヨハネは「神の言は人となった」と書いたが、「人」は独り子イエス・キリスト様だから実体がある。しかし、「言」の方は人間の言葉から取って、類比的に表現した人間的呼称に他ならない。神様は、本当は何とも言えない神秘の存在だ。しかし、人間がわかるためには人間にわかる言葉で言うしかない。だからヨハネは「言」と呼んだ。それをロゴスと言おうとダバールと表現しようと、しょせん人間の言葉には変わりなく、神そのものではないのだ。
 栄光についても同じことが言える。そもそも神様の栄光とは人間社会の栄誉、繁栄、栄華、栄達などとの類比で言われる賞賛だ。本当は何と言っていいかわからないのだが、何とか言わなければわかりようがないので、聖書を書いた人たちはベストと思われる人間の言葉をそれに当てはめ、神性の輝きを神の「栄光」と表現した。「だれが、神の定めを究め尽し、神の道を理解し尽くせよう。」(ロマ11;33)と感嘆した聖パウロの言葉はここにも該当する。

 栄光の意味は以上で一応よしとしよう。では、「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった」とあったが、なぜ御子も神である御父も栄光を受ける必要があったのだろうか?残った疑問だ。栄光についての言及がある福音書の実例一覧が、ここでも考察する際の梃子になりそうだ。ヨハネによる福音書の一覧を見直してみると興味深いことがわかる。5つに分類できるのだ。分類と関係個所を括弧に入れてみると、次のようになる。
1) 神様の本来の栄光 (ヨハネ17;5、17;24)
2) 神性の片鱗としての栄光 (ヨハネ1;14、2;11)
3) 死と復活の意味の栄光 (ヨハネ7;39、12;16、12;16、12;28、12;41、13;31、13;32、14;13、15;8、16;14、17;1
4) 御父の栄光 (7;18、8;50、17;4)
5) 弟子たちに関わる栄光 (17;10、17;22、21:19)

 1)と2)は「栄光とは何か」の問いですでに見た。5)の弟子たちに関わる栄光は、ここの問題とは関わりが薄いので外していいと思う。考察の対象にしなければならないのは、3)の「死と復活の意味の栄光」と4)の「御父の栄光」だ。しかし、4)は3)との関連で出てくるので、3)を考察すればおのずと解決するだろうから、ここでは3)に絞る。ところで、この5分類中、量的に最も多いのがこの3)「死と復活の意味の栄光」の分類だ。どうやらここに答えの鍵があるように思われる。
 ルカの福音書は主の死と復活を「苦しみから栄光へ」(ルカ24;26)と理解したが、ヨハネの福音書では主の「死と復活」が「栄光」とほぼ同義語のようになっている。喩えればそれは貨幣の表裏のようで、二つは一つのことの両面なのだが、ヨハネはほとんどの場合、栄光を表、死と復活を裏として見ていたようだ。だから、「わたしの時」(死と復活)を告げた時、イエス様は3共観福音書では使徒たちに「苦しみを受け、殺され、三日の後に復活する」(マルコ8;31)と語られたのに、ヨハネの福音書ではそういう予告はなく、むしろ御父に「栄光をお与えください」と語られたのだ。
 主にとって、「わたしの時」は「栄光を受ける時」でもあった。ヨハネ福音書を読むと、それは章を追って近づき、やがて実現するに至ることがわかる。7章39節では「イエスはまだ栄光を受けておられなかった」とあるが、12章16節では「人の子が栄光を受ける時が来た。・・・一粒の麦は、地に落ちなければ・・・」と語っておられ、栄光を受ける時と御受難とは一致している。同28節では「父よ、御名の栄光を現して下さい」と言われ、天の声はそれに「わたしはすでに栄光を現した。再び栄光を現そう」と応じている。
 そして、この主日の福音13章31節が来る。最後の晩餐の夜、ついに「わたしの時」に至ったのだ。「わたしの時」とはヨハネの福音書だけでなく、他の福音書にも書かれている。イエス様は弟子たちが過ぎ越しの食事をする家の主人に、「わたしの時が近づいた」(マタイ26;18)と言うよう命じられた。それは明らかに死と復活の「その時」を意味している。そして、「栄光」が実現する時でもあったのだ。
 死と復活によってこそ救いの大いなる業は達成する。それは栄えある成功に他ならない。だからこそ、主は「今や、人の子は栄光を受けた」と言われた。それはまだ戦いの前だったのに、もう勝利宣言を出されたに等しかった。「彼(世の支配者)はわたしをどうすることもできない」(ヨハネ14;29)と見越しておられたように、勝敗はもう決していたからだ。その「栄光」は前倒しで示され復活のビジョンだったと解釈していいと思う。つまり、「栄光」とはここではこれから実現する復活の栄光を意味しているということだ。
 その栄光によって、神なる御父も栄光をお受けになった。なぜなら子を遣わしたのは父であり、父と子は一体なので、子の栄光は父の栄光でもあるからだ。「神が人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神もご自身によって人の子に栄光をお与えになる。しかも、すぐお与えになる」(13;32)と言われたのは、父と子が相互に応じ合っていた証しだ。卑近だが、子が大事な試合に出る前に、親子が声を掛け合って励まし合うのに喩えてもいいだろう。

 しかし、イエス様は「しかも、すぐお与えになる」と言われた。時は迫っていた。福音書は主が「わたしの時」をずっと意識なさっていたことを伝えている。それは近づく死と復活のことが、いつも主の念頭から離れなかったに違いないことを物語る。それでわかった!なぜ御父に向かって、「父よ、御名の栄光を現して下さい」(ヨハネ12;28)、「子に栄光を与えてください」(同17;1)と祈られたかがわかったのだ。受難で身体的な苦しみを受ける前に、心でもう大いなる苦しみを耐えておられたからだ。
 他の福音書はそれを伝えてくれた。マルコ14;36には「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行なわれますように」とある。「できればこの杯をとりのけて」とは、-恐れ多い言い方だが-ある意味で弱音を吐かれた半面だと言えよう。ヘブライ人への手紙5;7に、「キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫びをあげ、涙を流しながら、ご自分を死から救う力のある方に、祈りと願いをささげ」とある言葉も、その筆者が誰かの問題はさておき、それを裏付けていると言えよう。
 しかし、主は「この杯をわたしから取りのけてください」という願いはすぐ取り下げて、「御心に適うことが行なわれますように」と言われた。それは「救いを実現し、栄光をあらわしてください」と言うことと同じ意味だ。ヨハネの福音書は死を恐れた弱音には触れず、父の御心を行おうとする健気な子心だけを前面に出した。それが「父よ、御名の栄光を現して下さい」、「子に栄光を与えてください」という祈りだった。それは「受難の苦しみを受け入れます。復活によって子に栄光を与え、御名の栄光を現して下さい」という意味だったと解釈できる。
 ヨハネの福音書17章はイエス様の長い祈りを伝えているが、その中に次の一節がある。「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください。…わたしは、行なうようにとあなたが与えてくださった業をなしとげて、地上であなたの栄光を現しました。父よ、今、御前でわたしに栄光を与えてください。世界が造られる前に、わたしがみもとで持っていたあの栄光を」(17;1-5)という一節だ。
 これが私にとっては一つの結論だ。主はいわゆる栄光が欲しくてそう願われたのではない。そういう疑問は私の人間的な低次元の勘ぐりだった。主がお与えくださいと願った栄光はそういうものではなく、むしろ予知できた苦難は胸のうちにしまい、健気にも救いの業が成し遂げられることを確認した祈りだったのだ。栄光とはその表明の言葉だった。しかし、その半面には、貨幣に裏面があるように、苦しみと死の受容があり、それに耐えられる力付けへの願いがあったのだ。
 聖パウロはそれをこう理解した。「キリストは神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じものになられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました」(フィリッピ2;6)と。まさに御父は子に栄光を与えになったのだ。私はそれに納得し、そう信じる。

 最後にもう一つ片付けたい疑問がある。そもそも神様は栄光そのものなのに、なぜさらに栄光をお受けになるのかという疑問だ。単純に考えよう。人は誰でも愛する者には良かれと願い、良いものを贈る。イエス様が「あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか」(マタイ7;9,10)と言われた通りだ。ところで、御父と御子は互いを愛し、神様と信じる者たちは父と子の間柄にある。故に良いものを与え合い、良かれと願うはずだ。
 では、栄光と衰亡ではどちらが良いものであろうか?もちろん世の中には変わり者はいる。しかし、普通の感覚では栄光の方をよしとし、衰亡や暗転は望ましくない悪とすると思う。だから、御子は御父に栄光を帰された。それに倣って、私たちも父と子と聖霊に栄光を帰して賛美する。それはさらに栄光を追加することではなく、栄光の主を讃え続けることにほかならない。人は時間の中にいる存在だからだ。私はこれを自答とする。納得できる答えが見つけられるだろうかと危ぶんだが、これで納得した。栄光は父と子と聖霊に、初めのように今もいつも、世々に!

付記
 考察を通して、疑問の扱いについて考えた。信仰についての疑問は避けられない。どうしても起きる。それは罪ではない。むしろ起きる方が自然で、起きない方がおかしい。しかし、神様の存在への疑問、福音の信憑性についての疑問、永遠の命への疑問などの重大な疑問は、放し飼いにしたら危険すぎる凶暴な犬のようなものだと思えた。そういう犬は鎖でつないでおく必要があるように、今回の疑問で、危険な疑問には信仰の首輪をつけ、鎖で希望につなぎ、その間に解決を探す必要があることを学んだ。神のみ言は恵みと真理に満ちている。疑問の答えも、「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。」
プロフィール

余生風

Author:余生風
「聖書温故知新」
「思いつくまま、気の向くまま」
折にふれ「水彩画」も紹介してまいります。

「手を貸す運動」創始者
社会福祉法人「地の星」理事
元玉川大学教授

佐藤正明(余生風)ホームページ
「絵画と心」

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