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新しい掟と言われるわけ

 復活節第5主日の福音はヨハネ13;31-33a,34-35、第一朗読は使徒言行録14;21b-27、第二朗読は黙示録21;1-5aだ。福音書はイエス様が、「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった。」「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい」と言われたことを伝える。しかし、神なる父と子になぜ栄光が必要なのだろうか?そして、すでに隣人愛を教えられているのに、なぜ互いに愛し合うことが新しいのか?という疑問が湧く。黙示録は感動的な新生未来の啓示だ。だがそれにも、信じるに足ることなのかという疑問が湧かないではない。
 これら全ての疑問に自答してみたいが、栄光の問題は重すぎる難問だ。仮にもし私がミサで説教をする立場だったら、間違いなく「あなたがたも互いに愛し合いなさい」と言われた「新しい掟」を選ぶだろう。この方が扱い易いし、実践的でもあるからだ。もちろん、言うは易く行なうは至難なのが愛だ、ということはわかっている。しかし、論じ易いことは確かだ。そこで、今は教える立場にはない私も、まずこのテーマを取り上げ、他は時間があれば後で考えてみようと思う。 

 この主日の福音は、イエス様が最後の晩餐で弟子たちになさったお別れの挨拶が文脈だ。朗読個所はその冒頭に当たる。イスカリオテのユダは主からパン切れを受け取ると、すぐ出て行った。主が彼に、「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」と言われたので、弟子たちは「何か必要なものを買いなさい」と言われたのだと理解した。彼が会計係だったからだ。しかし、行く先は大祭司のところだった。主を売るためだった。
 彼が出てゆくとすぐ、イエス様は栄光を受ける時が来たと打ち明けられた。時とは、「わたしの時はまだ来ていません」(ヨハネ2;4)、「わたしの時はまだ来ていない」(同7;6,8)と語っておられた「その時」のことだ。しかし、「この世から父のもとへ移る御自分の時がきたことを悟り」(同13;1)とあるように、この夜はその時が来ていたのだ。そこで、主は栄光を受ける時、つまり受難の時が来たので、弟子たちともしばしお別れだということを告げられた。
 そしてその直後に、「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる」と言われたのだった。これはまさに主の遺言だったが、真っ先に話されたこと自体、それがいかに大事だったかを示している。

 ところで、主は「新しい掟を与える」と言われたが、そのどこがなぜ新しいのだろうか?これが問いだ。こんな疑問が湧くわけは、「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」(レビ記19;18)という掟がすでに与えられているからだ。それは新しくはない。イエス様もファリサイ人たちから律法の中で何が一番大切な掟かと尋ねられたとき、それを確認なさっておられる(マタイ22;34-40)。また、愛は一方的な場合も相互的な場合もあるが、実践できるかできないかは別として、「相互に愛し合う」という点でも新しくはないからだ。
 その隣人愛の実践では、イエス様は「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」(マタイ7;12)とお教えになった。このように人を愛することを、すでに弟子たちに教えておられたのだから、人がそれを実践さえすれば、おのずと互いに愛し合うことになる。それでもう十分だったのではないか?それなのに、なぜ最後の夜、「新しい掟」と言われて、それをお命じになったのだろうか?調べた限りでは、満足できる答えを書いた解説書は一冊もなかった。

 私はこう考える。それはやはり新しい。主がそれを「新しい」と言われたのは、愛する基準が新しいからだ。愛せよという掟はすでにあったから、これは新しくはない。しかし、掟はあっても人々は不十分にしか実践できなかった。なぜか?それまでは「自分がひとにしてもらいたい」という自分の願望や思いに基準があった。しかし、自分の願望や思いは人それぞれに違いかつ不完全だ。不完全でばらばらなものを基準にしていたからこそ、愛も不完全にしか実践できなかったのだ。
 ところが、主はその基準を完全なものに変えられた。どう変えられたかと言うと、ご自分が実践された愛そのものを新基準となさったのだ。「わたしがあなたがたを愛したように」と言われたのは、そのことなのだ。私はここに「新しい」と言われたわけがあると思う。もはや愛する基準は「自分がしてもらいたい」と思う願望ではない。ましてや現世的な損得ではありえない。イエス様がなさった完璧な愛の実践が基準だ。相互愛の関係は同じでも、愛する基準が違えば愛のレベルまで違って、新しくなる。
 そうわかると、その実践は主が弟子たち、病気の人々、貧しい人々、苦しむ人々、悩む人々、罪人、固陋な人々、権力者たち、危害を加えた人々等、すべてにどう対応なさったかを学べばよいことになる。それがわかればどう愛すればいいかの答えが出る。主は福音を伝える時も、慰め癒す時も、非難する時も、すべてを愛からなされた。そこに「新しい掟」の基準がある。それを実践すればいいのだ。マザーテレサや聖人たちはそうした。しかし、多くの人が愛の掟を知りながらも十分に実践できないのは、十分に新しい基準に従っていないからに他なるまい。

 しかし、これで問題が解消したわけではない。解説書の多くはこの新しい掟が一般的な隣人愛の掟とは違い、弟子たちに限定されたものだと説いているからだ。つまり、弟子たちを広い意味で主を信じるすべての人たちと解釈するとしても、信仰のない人たちは「互いに愛し合う」対象にはなっていないと言うのだ。しかし、もしそれが仲間同士愛し合うだけの愛の掟だとしたら、たとえ新しくても大して価値はないのではいかという疑問が湧く。
 人が福音的な愛に感動するのは、自分を憎むものまでも赦す愛だ。身内だけを大切にする愛ではない。イエス様ご自身が「自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあろうか。罪人でも、自分を愛してくれる人を愛している」(ルカ6;32)と言っておられる。もし「新しい愛の掟」が信じる者のだけで互いに愛し合うことなら、それと矛盾することになる。それでは福音的愛の後退といわざるを得なくなってしまう。
 私はそのような解釈には同意しない。はっきり言って間違っていると思う。そのような解釈はそこに書かれた言葉だけから導き出した結論であって、福音書全体のメッセージと相容れないからだ。確かにこの時、その場でこの新しい掟を受けたのは弟子たちだけだった。「互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる」と言われたのも彼らだったことは確かだ。従って、「互いに愛し合いなさい」とは、弟子たちに言われたことだとは言える。
 しかし、弟子たち言われたことは彼らだけに言われたことと言えるだろうか。違う。主はすべての人に福音を伝えるためにこそ、弟子たちを選ばれたのだ。弟子たちに教えられたのは、今度は彼らが信じる者すべてにも教えるためであり、ひいてはすべての人のためだったのだ。「主の祈り」(マタイ6;7-13)もその一例だ。イエス様は弟子たちが「教えてください」と願ったので教えられたが、それは彼らのためだけに教えられたのではない。すべての人のためだったのだ。新しい愛の掟も同じで、万民に教え、万民が互いに愛し合うための福音だった。私はそう理解すべきだと考える。

 確かに、「でも、信者でない人は除外されているのではないか?」という異論は成り立つだろう。無神論者や悪人たちとは、「互いに愛し合う」と理想を言っても、実際は不可能に近いからだ。そんなことはわかっている。しかし、それにもかかわらず、主は「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(マタイ5;43-44)と教えられた。これを知れば、「互いに愛し合う」新しい掟が、信者間だけの愛で、非・未信者は除外されているなどとは言えまい。それはすべての人を含むはずだ。
 主イエス様の思いはどうだったのであろうか?互いに愛し合いなさいと、新しい掟をお与えになったとき、主はどういう状況におられたかと言うと、まさに「私の時が来た」、つまりご受難が目前に迫っていたのだった。では、何のためのご受難だったのか?信じる人たちのためだけではなく、すべての人の救いのためであった。「わたしは羊のために命を捨てる。わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる」(ヨハネ10;15-16)とあるとおりだ。
 教会はこの聖書のメッセージをゆるぎなく教えてきた。そこから導き出せる結論は明らかだ。主イエス・キリスト様がすべての人々を救うために命を捨て、復活なさったのなら、すべての人々は罪人も悪人もその愛の対象だということだ。裁きが決定的に終わるまでは、何人といえども救いからは除外されない。救いから除外されないならば、すべての人は神様の愛からも除外されていないはずだ。ならば、互いに愛し合いなさいという掟からも除外されてはいないと見るべきであろう。
 もし、信じない者は互いに愛し合う掟には関係ないとするならば、救いのみ業の否定になる。主がそんな考えをお喜びになるだろうか?それではファリサイ人たちと変わらないと思う。もちろんこの新しい掟はまず弟子たちが実践しなければなるまい。さもないと、他の人に伝えても説得力がない。次に、弟子たちに続いて、信じる者たちも当然実践する義務がある。掟だからだ。しかし、その恩恵はすべての信じない者にも広がると見るべきだと思う。たとえ彼らが実践しなくても、いつでもその愛に加われるよう招きを受けているからだ。だからこそ福音なのだ。
 よく、テルトゥリアヌスの「見よ、いかに彼らが互いに愛しているか、いかに他人のために自分の生命をささげて惜しまないかを」という言葉を聞く。もしこの「他人のために」が身内だけでなく、すべての人々を意味するなら、それはこの新しい掟をよく形容していると思う。しかし、信者たち身内だけの愛を語っているのなら、私は大して魅力を感じない。仲間内で愛し合うだけの教会はそのようなものだ。そして、仲間内すら互いに愛し合えないような教会なら、何をか言わんやとなる。
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拒む人たち、信じる人たち

 C年復活節第4主日の福音はヨハネ10;27-30、第一朗読は使徒言行録13;14,43-52、第二朗読は黙示録7;9,14b-17だ。共通しているのは、神から救いを約束されていた神の民ユダヤ人が約束から外れ、埒外にあった異邦人がその約束に与るという救いの展開だ。

 ヨハネ10;27-30はイエス様がユダヤ人たちになさった話の一部だが、短いから転記する。
「(そのとき、イエスは言われた。)わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。わたしの父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大であり、だれも父の手から奪うことはできない。わたしと父とは一つである。」

 しかし、これだけだとどんな文脈で言われたのかわからないので、少し前の10章22節まで遡ってみると、それは神殿奉献記念祭の折の話だったことがわかる。この祭はハヌカと言われ、紀元前2世紀にマカベ一族がユダヤから異教文化を追い出し、汚された神殿を清めたことが起源で、キスレブの月(11-12月)の25日から8日間祝われる。だから福音書には「冬であった」と書いてあるのだ。祭の時にイエス様がエルサレムに来られたのは、ヨハネ福音書ではこれで4回目だ。
 この時、「イエスは、神殿の境内でソロモンの回廊を歩いておられた」と書いてある。神殿の境内とは、昨年11月14日のブログ「心を見ておられる」に添えた図を見ればわかるが、その一番外側の広い場所を「異邦人の庭」と言い、ソロモンの回廊はその庭の東側に、境内に沿って造られていた。従って、そこはネゲブ砂漠方面から吹く冬の寒風が避けられたから、人々に話しをするのにはうってつけの場所だった。
 案の定、その日も人々がやってきて主を取り囲んだ。だが、彼らは必ずしも好意的ではなく、むしろ疑いを持っていて、もしも聞き捨てならないことを主が口にしたら捕らえ、場合によっては殺すことも辞さない腹積りで集まって来ていた。そこで彼らは言った。「いつまで、わたしたちに気をもませるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい」と。イエス様がメシアであるかないかは、彼らにとって非常に気になる大問題だった。でも、この人がメシアであってはほしくないとも思っていたことは、言葉のはしばしから窺える。主の教えと行いは彼らのメシア像とは相容れなかったのだ。
 イエス様はお答えになった。「わたしは言ったが、あなたたちは信じない。わたしが父の名によって行なう業が、わたしについて証しをしている。しかし、あなたたちは信じない。わたしの羊ではないからである」(ヨハネ10;25-26)と。この状況でのこのやり取りが、この主日の福音の文脈なのだ。ちなみに、そこには「わたしの羊」という比喩があるが、それはヨハネ10;1-18の「良い羊飼いとその羊」のたとえの続きではない、ということは知っていてよいと思う。テーマは同じだ。しかし、ヨハネ10;1-18の話は仮庵祭でなさったのだが、こちらは神殿奉献記念祭でなさった話だからだ。

 ところでヨハネ10;24には、「ユダヤ人たちがイエスを取り囲んで」とあるが、同福音書ではこの「ユダヤ人」という呼び方が頻繁に現われる。他の3福音書は、「イスラエル」、「民」、「群衆」、「ファリサイ派」、「サドカイ派」などの名で呼ぶが、「ユダヤ人」という呼び名は「ユダヤ人の王」という場合とマタイ28;15でしか使わない。それに比べ、ヨハネの福音書ではファリサイ派の名は出るが、サドカイ派は一度も出ず、「ユダヤ人」という呼び方が圧倒的に多いのだ。なぜだろうか?
 おそらくこの福音書が一世紀末に書かれ、読者もイスラエル人以外を想定していたからだと思う。それが書かれた頃、国としてのイスラエルは紀元70年に滅亡していてすでになく、民族は離散していた。滅亡前のユダヤはイスラエルの中心地域であり、ユダ族は多数派部族だったから、イスラエル人とユダヤ人はほぼイコールだった。そこでヨハネは、イエス様を拒絶した国亡き後の人々を「ユダヤ人」と一括りにした。多少誤解の恐れがあっても、キリスト教徒と対立する勢力の構図としてはわかりやすかったので、その呼び名を使ったのだと思う。ちなみに、使徒たちや多くの信者もユダヤ人ではあったが、主を信じた人はこの「ユダヤ人」という範疇には入っていないのだ。
 ヨハネの福音書にサドカイ派が出てこないのは、この派の多数が祭司階級とレビ族だったからで、大祭司、祭司長たちやその下役に言及すれば、サドカイ派に言及したと同じだったからだと思う。また、読者がイスラエル人以外の人々、あるいはイスラエル民族の子孫であっても、国外に離散してすでに母国語が読めなくなっていた人々だったことは、ヘブライ語の意味を何箇所か(例えば、ヨハネ1;42、9;7、19;19,17等)で、ギリシャ語に訳していることでもわかる。

 さて、イエス様はユダヤ人たちに、「わたしは言ったが、あなたたちは信じない」と答えられたが、いつそういうことがあったのかを調べたところ、何度もあったことが確認できた。列挙してみる。
①ヨハネ5;16-47:ある祭の時、ベトザタ(正確にはベトヒスダ。「慈悲の家」の意味)での問答で。
②同6;29-47:ガリラヤで命のパンのことを話された時。信じられないと、皆立ち去った。
③同7;25-31:仮庵祭の際、メシアについての問答で。人々は主を捕らえようとしたが、失敗した。
④同8;12-20:同じ祭で、「わたしは世の光り」と宣言された話のとき。
⑤同8;25-30:彼らは「あなたはいったいどなたですか」と問うた。この時は多くの人が信じた。
⑥同8;39-59:同じ祭で、真理とアブラハムの業についての問答の時、主が「アブラハムが生まれる前から、『わたしはある』」と言われた問答で。彼らは主を石殺しにしようとした。
⑦同10;1-21:同じ祭で羊の囲いと良い羊飼いについて話された時、彼らは賛否両論に分裂した。
 すでにこれだけの経緯があったのだ。だからこそ、神殿奉献記念祭でも、羊と羊飼いのテーマを再び取り上げ、彼らの不信感あらわな問いに、「わたしは言ったが、あなたたちは信じない。わたしが父の名によって行なう業が、わたしについて証しをしている。しかし、あなたたちは信じない。わたしの羊ではないからである」(ヨハネ10;25-26)と言われたのだ。その続きのヨハネ10;27-30はこの拒む人たちに対して、信じる人たちはこうだと話された啓示に他ならない。

 イエス様は「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う」と言われた。では、羊はほんとうに飼い主の声を聞き分けるのだろうか?肯定的に答えていいと思う。動物には不思議な能力がある。私がいつも感嘆するのはペンギンなどの親鳥が、数千数万羽もの仲間でごった返すコロニーで、自分の雛を見つけ出しては食べ物を与えるのを、テレビ映像などで見る時だ。どうして見つけ出せるのか?人には超不思議だが、親鳥と雛は固有の鳴き声で親子が識別できるかららしい。放牧の牛馬も給餌を知らせる飼い主の声に集まってくると聞く。羊もおそらく同じような本能的能力を持っているのだと思う。
 それに、羊はユダヤ人にとって非常に身近な家畜だった。だから、イエス様はそれを例にとって彼らに話されたのだ。羊は自己防衛では非力だが、愚かな動物ではない。自分を守り養ってくれるのが飼い主であることを知っている。だから見慣れない者には警戒し、飼い主には近寄る。イエス様は幼少時から農民たちや牧者たちに接しておられたので、作物や自然界のことと同じく、迷った羊や井戸に落ちた牛の譬など、生活密着の話ができた。「わたしは彼ら(自分の羊たち)を知っており、彼らはわたしに従う」と言われたのも、ユダヤ人なら誰でも知っているそういう常識に訴えられたのだ。
 しかし、主は牧畜の話しをなさったわけではない。羊と飼い主に喩えて、福音を拒む人たちと信じる人たちの話をされたのだ。「わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない」と言われたのが何よりの証拠だ。単なる家畜の羊なら、永遠の命を与えたりするはずがないからだ。しかし、永遠の命を与えるとは、人間にとっても当然のことではなく、実は測り知れないほど不相応な恵みなのだ。
 では、どうしてそれを与えることができるのか?イエス様が父なる神様から遣わされ、全権を任された者だからだ。ここにご自分が誰だと答えておられたかの示唆があった。主は、父から遣われた子が永遠の命を与えるのだから、彼らは決して滅びないのだ。そして、誰もその御手から彼らを奪うことはできないのだと言われた。それは主がご自分を神の御子だと証明していることに他ならなかった。聖書に通じているユダヤ人たちなら、それがわからないはずはなかった。

 しかし、主は彼らが誤解なく去就を決断できるよう、御自分が誰かをもっとはっきりと言われた。「わたしと父とは一つである」と言われたのだ。これは実に驚くべき断言だった。これを聞いたユダヤ人たちは衝撃で息が止まるほどだっただろう。彼らはすでにイエス様が神は父であるというのは聞いていたが、その言葉には表向き糾弾すべき理由はなかった。しかし、この時はその神なる父と自分が一体だと言われたからだ。それは神である父と自分を同格としたことによって、自分を神であると断言したに等しかった。 
 もう我慢の堰が切れた。ユダヤ人たちはいきり立ち、たぶん冒涜だと叫んで、主を石で打ち殺そうとした。唯一の神を信じる彼らにとって、この神以外には何者も神ではあり得ない。それをこの若い教師は民衆の前で、神である父と自分が一つだと公言した。絶対に許せない。死罪に当たると見なしたからだ。日本語訳には「また石を取り上げた」とあるが、なぜ「また」なのか?それは真理とアブラハムの業についての問答の後(ヨハネ8; 59)、彼らが取った行動の再現だったからだ。

 ヨハネ10;29は、その断言をわからせるための布石として言われたのだと見るが、新共同訳はどうも誤訳ではないかと思えてならない。それは「わたしの父がくださったものは、すべてのものより偉大であり、だれも父の手から奪うことはできない」と訳している。「だれも父の手から奪うことはできない」という部分の訳は問題ない。しかし、「わたしの父がくださったものは、すべてのものより偉大であり」という所は、どうも意味がよく通らないのだ。
 それを説明してみる。「わたしの父がくださったもの」とは、これだけだと「イエス様の権限」とも「わたしの羊」とも取れるが、多くの解説書はそれを後者だとしている。文脈からしてもそれで間違いはあるまい。だとすれば「わたしの羊」が比較されるのは「すべてのもの」に対してだ。しかし、「すべてのもの」なら「わたしの羊」をも含んでいないだろうか?含んでいる。だとすれば、「わたしの羊」が「すべてのもの」より偉大であるということはあり得ない。逆にもし含んでいないとすれば、「すべてのもの」とは言えなくなる。どちらにしても論理的に成り立たないのだ。
 これは訳に間違いがあるからではないか?その疑いが湧いたので、原典と諸訳を調べてみた。その結果、そもそもの原典に、(1)新共同訳のような「わたしの父がくださったものは」と訳せる写本と、(2)「彼らをわたしにくださった父は」と訳せる写本の2通りがあることを知った。訳が違う根源はそこにあったのだ。比較参考するために(1)と(2)を類別して、原典と諸訳を列挙してみると次のようになる。

(1) 「彼らをわたしにくださった父はすべてのものより偉大であり、…」と理解するグループ
原典:ho pater mou ho dedohken moi pantohn meizon estin, kai(ギリシャ文字がうまく記載できないのでローマ字表記とした)
ラテン語ブルガタ訳:Pater meus quod dedit mihi maius omnibus est, et
フランス語エルサレムの聖書訳:Le Père qui me les a données est plus grand que tous et  
英訳:My Father who has given them to me, is greater than all, and
ドイツ語訳:Der Fater, der sie mir gegeben hat, ist größer als alle, und
スペイン語:El Padre, que me las ha dado, es más grande que todos, y
ヘブライ語訳:, כי אבי אשר נתן לי גדול הוא מכל
日本語ラゲ訳:之を我に賜いたる我父は、一切に優れて大いに在し、
(2) 「わたしの父がくださったものは、すべてのものより偉大であり、…」と理解するグループ
日本語日本聖書協会訳:わたしの父がわたしに下さったものは、すべてにまさるものである。
日本語バルバローデル訳:父がわたしにくださったものは、なにものにもまさって尊いもので、
日本語新共同訳:「わたしの父がくださったものは、すべてのものより偉大であり、
*原典:(この意味の写本による原典を私は持ち合わせていない)

 これらを見ると、(2)のグループは圧倒的な少数派であり、日本語だけだ。バルバローデルは「偉大」ではなく「尊い」と訳しているので、論理的な矛盾は免れるが、新共同訳は感心できない。私は(1)の解釈を選びたい。しかし、この解釈上の相違はそれほど大きな問題ではない。ここで最も重要なことは、イエス様のメッセージに対してユダヤ人たちがどうしたかを知った後、現代の私たちがどうするか、つまり、信じるかそれともノーと言うか、その応答の再確認と実践にある。
 第一朗読の使徒言行録13;14,43-52は、ほぼ2000年前に拒んだ人々と信じた人々の一例を教えてくれる。パウロとバルナバはピシディアのアンティオキアで会堂に入り、会堂長から請われて会衆に話した。その旧約史のレジュメは見事だ。話の後半で、彼らはイエス・キリスト様の受難と復活を伝え、この方によってのみ救いがある。だから信じてくださいと勧めた。しかし、町の多くの人たちが主の教えを歓迎したのに、ユダヤ人たちは妬んで罵り、パウロたちに反対した。
 そこで2人は彼らに、「神の言葉は、まずあなたがたに語られるはずでした。だがあなたがたはそれを拒み、自分自身を永遠の命を得るに値しない者にしている。見なさい、わたしたちは異邦人の方に行く」と言ったのだった。神の民だったユダヤ人たちは、主の福音を拒んだがゆえに使徒たちから見放され、恵みに与るチャンスを自ら潰した。立ち去るとき、2人は主が言われたとおり(マルコ6;11)、彼らに対して足の塵を払い落とした。もって戒めにせよという過去の一コマだと思う。

 それとは反対に、第二朗読の黙示録7;9,14b-17は信じた人々の未来を予言する。主を拒んだ過去の人々はここには出てこない。ここではまず、イスラエルの12族で主を信じた人々が数えあげられる。彼らは皆、額に生ける神の刻印を押された人々だ。そして、その後に異邦人から神の民に加わった人たちが登場する。それはイスラエル民族以外のあらゆる国民の中から集まった大群衆だ。それこそイエス様が「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない」(ヨハネ10;16)と言われたことの実現だと思える。
 黙示録の幻には大天使、天使たち、長老たち、玉座などが出てきて、古代の宮廷文化を思わせる金ぴかの感じがある。そのイメージは私の好みにはいささか合わないが、今日の個所の最終節を読むと、その違和感は相殺される。そこにはこう書いてあるからだ。「彼らは、もはや飢えることも渇くこともなく、太陽も、どのような暑さも、彼らを襲うことはない。…神が彼らの目から涙をことごとくぬぐわれるからである」と。これは信じてみることに賭ける有効なインセンティブになる。
 そうは言っても、はるか昔に語られた聖書にこだわっている自分に気づくと、私はいったい何をしているのだ。時代からも現実からも遊離した無意味なことに没頭しているのではないか、という疑問に襲われることがある。しかし、いつもすぐに、いや、福音書のメッセージは過去のことではない。それは人がいかに価値ある生き方ができるかの根本問題を、今も問いかけているのだと考え直す。この主日の聖書もそうだ。それは拒む人になるか、それとも信じる者であり続けるかを問う。これは私が生きている限り、繰り返し舞い戻ってくる問いだと思う。

ご復活後の弟子たち

 4月18日の復活節第3主日は、ミサの第一朗読が使徒言行録5;27b-41、福音がヨハネ21;1-19だ。この福音の個所はもう3年前にも取り上げているから、似たようなことは書きたくない。ところで、福音はガリラヤに帰った使徒たちが復活の主に再会する場面であり、使徒言行録は最高法院で尋問された使徒たちの話で、どちらにも弟子たちが多く出てくる。そこで今回の考察は、主のご復活後の弟子たちに焦点をしぼってみようと思う。

 ヨハネによる福音21;1-19は主のご復活後、使徒たちが故郷のガリラヤに戻ったことを伝えている。使徒ペトロはある日ガリラヤ湖にいた。「ガリラヤに戻りなさい。そこで主に会える」と言われたし、エルサレムにいては経済的にも無理だったからだと思うが、彼は故郷に帰って来ていた。復活なさった主には3度も会っていたから、もう主の復活についての疑いは皆無だっただろう。しかし、これから何をどうしたらいいのかについては、この時点では、まだ皆目わかっていなかったに違いない。でも、とにかくその日の生活の糧は何とかしなければならない。
 そこで彼は言った。「わたしは漁に行く」と。彼にできたことと言えば、以前に生業としていた漁しかなかったからだろう。ところが、今日の福音はそこに興味深いことを書いている。以前なら兄弟のアンドレだけだったはずなのに、この時は「わたしたちも一緒に行こう」と言った者が6人もいたのだ。トマス、ナタナエル、ヤコブとヨハネ兄弟、その他の2人だった。他の2人とは、おそらくペトロの兄弟アンドレとナタナエルの親友フィリッポだったと思われる。これがなぜ興味深いかと言うと、主がおいでにならなくなっても、使徒たちが集団で生活していたらしいことが、これでわかるからだ。
 収税人だったマタイは漁の経験がなかったので、同行しなかったのだろうか。他の3人も何らかの理由で漁に行かなかったのだろうが、そうだとすれば、11使徒たちは結束を保っていたことになる。使徒以外の弟子たちや、主に従っていた婦人たちも一緒にいたのかどうかはわからないが、おそらくゆるい結びつきを保って行動を共にしていたのではなかろうか。聖霊降臨の時まで、それぞれの仕方で生活しながら、離散はせずにまとまっていたのだと思う。彼らは主のご受難とご復活を目撃したという、忘れがたい体験を共有している人たちだったからだ。
 ところで、ペトロと共に漁に出た一人ナタナエルは、ヨハネの福音書では2回登場する。ここでは使徒たちと一緒だが、他の3福音書には全然出ない名だ。彼も使徒だったのだろうか?今まで気にもしていなかったが、おやっと思えたので調べたら、3福音書に出てくる使徒バルトロマイのことだった。バルトロマイとはトロマイの息子という意味で、名前がナタナエルだったのだ。ペトロはシモン・バルヨナと呼ばれたが、これがヨナの息子シモンというのと同じだ。ちなみにペトロとは主がつけたあだ名で、パウロはケファと呼んでいた。これはヘブライ語で、この方が本来なのだ。 

 私たちは使徒たちがやがて五旬祭前に、エルサレムに上ることを知っている。そこで主のご昇天と聖霊降臨があった。この主日の第一朗読である使徒言行録5;27b-41はすでに聖霊降臨後のことで、使徒たちが聖霊に満たされ、ユダヤ全土で福音を宣教し始めていた頃の出来事だ。特に司祭階級とその仲間のサドカイ派は、「ガリラヤから始まった新しい一派」を目の敵にしていた。彼らは使徒たちを捕らえ投獄した。ところが天使が彼らを助けると、使徒たちは逃げずに、あろうことか祭司たちの根城であった神殿の庭で主の福音を教えた。
 司祭長たちは彼らを再び捕らえ、最高法院に立たせて尋問した。この主日の朗読はその続きだが、彼らの命令が面白い。「あの名によって教えてはならないと、厳しく命じておいたではないか。それなのに、お前たちはエルサレム中に自分の教えを広め、あの男の血を流した責任を我々に負わせようとしている」と言っている。イエス様を十字架につけたことを相当気にしていたようだ。そして、主の死で万事終わった、これで騒ぎも静まると思っていたのに、弟子たちがなぜか勇敢になって教えを広め、民衆がどんどんそちらについていく状況になった。司祭たちが手を焼いていた様子がよくわかる。
 使徒たちは厳しく脅されてもひるまなかった。ペトロとほかの使徒たちは、「人間に従うよりも、神に従わなければなりません」と答えたとある。実に腹の据わった見事な言葉だ。そして堂々とイエス様の死と復活を証し、「わたしたちの先祖の神は、あなたがたが木につけて殺したイエスを復活させられました。神はイスラエルを悔い改めさせ、その罪を赦すために、この方を導き手とし、救い主として、ご自分の右に上げられました。私たちはこの事実の証人であり、また、神がご自分に従う人々にお与えになった聖霊も、このことを証ししておられます」と語っている。「ほかの使徒たち」とあるから、彼らはまだ分かれ分かれになってはいなかったのだ。

 ところが、彼らの中にある面白い変化が見られる。ペトロとヨハネがペアになって行動することが増えているのだ。ご受難前はペトロ、ヤコブ、ヨハネの3人がイエス様の最側近だった。しかし、ヤコブとヨハネは兄弟だけあって、しばしばペアで言動を共にしていた。それが、聖霊降臨後になると、ヨハネがペトロと組む行動が目立ち、ヤコブの名はまるで消えてしまったかのように、使徒言行録12;2までは出てこないのだ。
 ヨハネはいつ頃から兄ヤコブと距離を置くようになり、むしろペトロと一緒に行動するようになったのだろうか?あれこれ考えてみると、どうもイエス様が捕らえられた時が境目だったように思われる。「シモン・ペトロともう一人の弟子は、イエスに従った。この弟子は大祭司の知り合いだったので、イエスと一緒に大祭司の屋敷の中庭に入ったが…」(ヨハネ18;15)と書いてあるが、もう一人の弟子とはヨハネ自身のことに他ならない。
 ヨハネは自分を主に愛された弟子(ヨハネ21;20)と書いているが、主への愛情では他に引けをとらない賢い若者だった。そんな彼は、兄と行動を共にしては主からお叱りを受ける(ルカ9;55、マルコ10;35-38)経験を繰り返した。だから、兄とつるんでいてはだめだと薄々感じていたところ、ご受難で兄が何もしなったのを見た。それに対してペトロは、結果的には主を否んでしまったが、主への純粋な心と勇気を示した。そんな彼を見て、この時以来、兄よりも彼の方を尊敬するに至ったのではあるまいか。
 この新しい2人組はご復活の朝の行動ではっきりした。主が墓から取り去られたという知らせに、ペトロはすぐ墓に走ったが、ヨハネも続いて走ったからだ。そして、若いヨハネは先に着いても墓には入らず、ペトロの到着を待った。尊敬していた証拠だ。聖霊降臨後、2人が行動を共にした記録は使徒言行録3;1、同3;11、同4;1に見られる。この日の福音ヨハネ21;20-21でも2人は呼応している。奇跡の漁の直後、岸辺の人を「主だ!」とペトロに教えたのは他ならぬヨハネだった。

 弟子たちにも相性があったことは想像に難くない。ペトロとヨハネは相性もよかったようだ。フィリポはバルトロマイと仲良しだった(ヨハネ1;43-46)が、アンデレとも気心が合っていた(ヨハネ12;21-22)ようだ。他方、ヨハネはイスカリオテのユダには好感をもっていなかったようだ。ベタニアでマリアが主に香油を注いだとき、ユダはなぜそのお金を貧者に施さなかったのかと彼女を非難した。だが、それに対してヨハネは会計の彼がお金を使い込んでいたからそう言ったのだと、不快感あらわなユダ評を残した。ずっと疑いの目で見ていたから、おそらく仲は良くなかったのだろう。
 今では皆聖人として尊ばれているが、ペトロとパウロもそれほど気が合っていたようには思えない。自分を使徒の中で最も小さい者(一コリ15;9)と言っていたパウロは、ペトロを使徒の頭として尊敬していた。回心して宣教を始める前、彼が訪問し共に過ごしたのはペトロのもと(ガラ1;18)だった。しかし、後年アンティオキアにユダヤ人が来た時、ペトロが彼らに気兼ねして、異邦人の信者と食事していたのに隠そうとしたのを見て(同2;11-15)、パウロは彼を厳しく非難した。
 もちろんその時はペトロに落ち度があったのだが、2人の性格と育ちの差もあったと思われる。パウロは今のトルコ領内にある町タルソ生まれで、ローマの市民権も持っていたユダヤ人であり、高名なファリサイ人の教師ガマリエルの教えを受け、徹底して筋を通す性格の知的エリートだった。他方、ペトロはガリラヤのベッサイダ出身の漁師で、イエス様が見込んだだけあって優れた人間的資質、純粋な心を持った熱血漢だった。しかし、高い教養はなかった。これでは合わない。それにパウロは自分に信服する人たちには情が深かったが、そうでない人にはきつかった気がする。
 回心した最初の頃、彼はバルナバとは仲が良かった。使徒たちから警戒されていたパウロを、信じてもらえるように取り持ったのがバルナバだったからだ。2人はユダヤ国外への第1回宣教旅行を一緒にした。ところが第2回宣教旅行の前、パウロはバルナバが同伴させようとしたマルコを拒否した。マルコが第1回の時、途中で帰ってしまった(徒13;13)からだった。それで、バルナバはマルコを連れてキプロス島へ、パウロはシラスを連れてシリア方面へ宣教に出た(15;36-41)。宣教のためだったが、意見が合わず、2人は決別したのだった。聖人たちでも仲違いはするのだ。
 私はこれを面白くて参考になることだと思う。信仰は同じ、目指す神の国も同じでも、人はさまざまだ。聖人たちといえどもその例外ではない。ましてや凡人、俗人、変人、罪人の集まりである教会では尚更だ。意見が合わない、フィーリングが違う、性格が相容れないからと言って、その度に袂を分かっていたら、共同体は分裂に分裂を重ねる。その嘆かわしい歴史の例が破門や教会分裂だ。これは、お互いを認め合い我慢し合って、連帯の中に留まれるにはどうしたらいいかを示唆してくれる。
 現実の教会では、本当に素晴らしい教導職は滅多にいない。だから、主任司祭と相性がよくなくて悩む信者も少なからずいると思う。これが現実だから、教会は聖徒の集まりだなどと買いかぶらない方がいいのだが、私も若い時はそれが見えなかった。しかし、今は思う。卑近な例だが、「ご飯が食べたくても、それがなければうどんで我慢し、うどんもなければ、サツマ芋でよしとしよう。無いよりはましだ」と。そもそも私たちの最高の導き手は主イエス・キリスト様なのだから、弟子たちがベストでなくてもよしとするのだ。共同体に留まれるもう一つの知恵は、相性の悪い兄弟たちとは距離を置くことだと思う。「我父の家に住所多し」(ヨハネ14;19)なのだからだ。

 ところで、ヨハネの福音書は20;30-31に最初の結語が書いてあるので、本来はここで終わりなのだ。だから、21章は追加された付録なのだが、これは貴重な追加で、れっきとしたヨハネ福音書の一部だ。従って、この福音書は主のご復活についての叙述が2章もある。これに対し、マタイとマルコの福音書ではご復活については短い1章しかない。ルカの福音書はエマオへの弟子たちの話を含む長い記録を残しているが、やはり一章しかない。これで見ると、イエス様のご復活後については、ヨハネが一番多く書いたように思える。
 ところが、福音書としてはそうであっても、実際に主のご受難とご復活について、最も多く書いたのはルカなのだ。なぜなら、使徒言行録を書いたからだ。弟子たちはまさにその中で、主の死と復活を告げている。その12章までは12使徒の活躍が書かれていて、使徒ペトロの言動が顕著だ。ところが13章からはパウロが主役で、15章のエルサレム使徒会議では使徒たちとパウロが重なるが、16章10節の「わたしたちは」という1人称複数で叙述されるところからは、完全にパウロの言行録みたいになる。パウロに同伴したルカは、おそらく丹念に旅行メモをとっていたのではあるまいか。さもないとこれほどの地名や人名を思い出せるとはとうてい思えないからだ。

 では、使徒たちがその中でどのくらい主の死と復活を告げでいるかというと、次のような個所が列挙できる。
使徒言行録1;3-11:復活された主が40日間弟子たちに現われ、ご昇天されたことを伝えている。
同2;22-36:聖霊降臨の直後、ペトロは力強い説教の中で、主のご受難と復活を民衆に証言した。
同3;6-26:ペトロは人々に主の死と復活を語り、その名で足の不自由な男が癒えたことを告げた。
同4;1-12:捕らえられたペトロとヨハネは議会で尋問され、即席で主の死と復活を堂々と述べた。
同5;29-32:ここはこの復活節第3主日の第一朗読の個所に当たる。ペトロは最高法院で大祭司に堂々と反論し、十字架で死んだ主が復活し、神の右にあげられたと言明した。
同10;34-43:ペトロは百人隊長コルネリウスの家で、主の福音と死と復活について説教した。
同13;16-41:パウロはピシディアの会堂で旧約の要約と、主の死と復活について話した。
同17;3:パウロはテサロニケの会堂でメシアは苦しみを受け、復活したと論証した。
同17;18-32:パウロはアテネで民衆に死者の中から復活した方のことに触れた。
同25;19:ローマ総督フェストゥスはアグリッパ王に、「死んでしまったイエスが生きているとパウロは主張している」と語った。パウロが信念をまったく曲げなかったことを証ししている。
同26;23:パウロはアグリッパ王の面前で、メシアが苦しみを受け、死から復活すると言われた預言を語った。

 これらを見ると、あらためてその頻度に驚かされる。その一つ一つはもう一度じっくりと読ななくてはならないが、それを読めば、キリスト教とは何かがわかる。祭式の美とか宗教的な習慣・規則とかは枝葉末節に過ぎない。福音の根幹は主の死と復活にある。使徒たちは命を賭してそれを伝えた。使徒言行録とはまさに聖霊の福音書であり、それは使徒たちの口と足によって、救い主イエス・キリスト様の死と復活を告げ、その福音が全世界に広がりはじめたことを伝えたのだ。私たちはその延長線上にいる。

「ご復活の朝の経過」の見なおし

 4月3日に書いた「ご復活の朝」のブログで、人々がどう行動し、何を話したか、その納得できる経過の整合を試みてみた。4福音書はそれらについて必ずしも一致していない。それが気になっていたからだ。しかし、これでよしと思えた経過の順序や仮説に疑問が生じ、その一部分に我ながら納得できなくなった。それで、見直しをしてみる気になった。そのために、すでに書いた経過をまずここに再度掲載する。ただし説明は簡略にし、各項は作業をしやすくするため番号で示す。

 「ご復活の朝」に書いた経過試案は次のようなものであった。
① まずマグダラのマリアと他の女性たち数人が墓に行った。それは確かだ。彼女たちは墓が開いているのに驚き、中に入ってみたら主のご遺体が見当たらなかった。
② これを見たマグダラのマリアはとっさに、「だれかが主を運び去った」(ヨハネ20;2、15)と思った。彼女の早とちりだったと思うが、そう思うや否や、彼女は一人だけ弟子たちに知らせるに帰った。
③ 他の女性たちも帰ろうとしたが、何か腑に落ちなかったから、もう一度墓に入りなおした。
④ すると2人の輝く衣を着た人(実は天使)が現われ、弟子たちへのメッセージを伝えた。
⑤ 彼女たちは怖れたが、「恐れながらも大いに喜んで、急いで墓を立ち去」(マタイ28;8)った。
⑥ 私はここで婦人たちが何らかの理由で2手に分かれ、別々の道を通って帰ったと仮定する。そうしないと、帰る途中で主に出会った婦人たち(マタイ28;9)と、墓から帰っても怖くて「誰にも何も言わなかった」(マルコ16;8)婦人たちの事実がうまく説明ができないからだ。
⑦ 他方、一人走り戻ったマグダラのマリアは墓が空であることを弟子たちに知らせた。だが、誰も信じず、動こうともしなかった。ヨハネの福音書が伝えるのは実質的にはここからだと言える。
⑧ やがて婦人たちの一組が帰って、弟子たちに天使の出現と、主が甦られ、先にガリラヤに行っていると言われたメッセージを伝えた。弟子たちはやはり信じなかった。しかし、それはマグダラのマリアの知らせよりもずっと驚くべき情報だったから、ペトロとヨハネは確認のため墓に走った。
⑨ マグダラのマリアも2使徒を追ってもう一度墓に行った。しかし、彼らはもう一組の婦人たちとは途中で出遭わなかった。彼女たちが違った道で帰ったから行き違ったのだと思われる。
⑩ 2使徒は天使にも主にも会わず、空の墓を見届けただけで帰った。(ヨハネ20;1-10)
⑪ 2使徒が墓を去った後、マグダラのマリアは墓の外に一人居残って泣いていた。
⑫ 他方、別の道を通った婦人たちの1組は帰る途中で主に出会った。主は「恐れることはない」(マタイ28;8)と言われたが、気が動転して恐ろしくもあり、皆のところに帰った後、彼女たちはそれをすぐには誰にも話せないで(マルコ16;8)いた。
⑬ エマオへの2弟子はそれらのことを見聞きした後で出発した。
⑭ マグダラのマリアが一人墓で泣いていると、まず2位の天使が現われた。次いで主が出現なさって話され(ヨハネ20;11-17)、弟子たちへの伝言を託された。そこで、彼女は帰って、「わたしは主を見ました」(ヨハネ20;18)と言った。もう涙はなく、きっと満面喜色だった。
⑮ 皆はすでに空の墓のこと、天使からの伝言は聞いたが、「主を見ました」などとはとても信じられないと、まだ懐疑的だったと思われる。
⑯ 弟子たちのそのふがいなさを見て、後から帰って来た婦人たちの1組みがやっと、「実は私たちも道で主に会いました。主が生きておられるのは本当です」と、打ち明けたのではないだろうか。だから、マタイは道での御出現のことを書いた。そして、マグダラのマリアと彼女たちの証言が合流したおかげで、主の復活の事実は弟子たちにとって急に現実味を帯びた感じに変わった。
⑰ そこで、ペトロはもう一度墓に行った可能性がある。エマオへの2人が帰って来たとき、エルサレムの弟子たちは、「本当に主は復活して、シモンに現われた」(ルカ24;34)と言っていたからだ。
⑱ トマスも夕方どこかへ外出していた。そして、彼の不在中に主が皆の前に出現された。

 さて、こんな経過なら筋が通り、ほぼ納得できると思ったのだが、やはり不満足だった。①~⑤は見直す必要はないと考えるが、一番の問題は⑥だ。他の困難もほとんどそこに端を発している。私はそこで、婦人たちが何らかの理由により2手に分かれ、別々の道を通って帰ったと仮定した。福音書にはないそんな仮説を立てたのは、そうでもしない限り、マタイ28;9-10にある婦人たちへの主のご出現とマルコ16;8にある「誰にも何も言わなかった」という記事が説明できないと考えたからだ。
 しかし、婦人たちが2手に分かれて帰る仮説はやはり問題だし、それによってもやはり根本的な解決がない以上、私はそういう仮説の⑥は放棄する方がよいと考えた。では、福音書の矛盾する記述はそのままにするのかというと、それでいいとは思わない。ちなみに、マタイの注解書を何冊か読んでみたが、みな書かれたままを認め、それでよしとしていて、他の福音書との矛盾を真剣に検討した痕跡はほとんどなかった。私はそういう曖昧な姿勢は好まない。
 ところで、初代教会には主のご復活についての伝承が複数あったようだ。そうだとすれば、いくつかの、それもかなり深刻な食い違いがあってもやむを得ないだろう。すべての福音書が細部まで合致することは不可能だ。しかし、ご復活の朝に関するマタイとマルコの問題の記述は、その解釈次第で、整合性の困難をある程度は克服できるだろうと思う。そこで、私はその「解釈次第」の方法で見直しを試みてみる。つまり、これまでと違う解釈による見直しだ。

 まずマタイ28;8-11にある問題だが、その個所はこう伝える。
 「婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。すると、イエスが行く手に立っていて、『おはよう』と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前に平伏した。イエスは言われた。『恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。』 婦人たちが行き着かないうちに、数人の番兵は都に帰り、この出来事をすべて祭司長たちに報告した。」
 そこでこれをどう解釈するかだが、私は婦人たちが墓から帰る動きと主との出会いを一連の継続した流れではなく、つながってない別々の二つの出来事だったとしてみる。どうしてそんな解釈をするかは後で述べるが、まずこのくだりからイエス様ご出現の記事を取り外したとしたらどうなるだろうか?思うに、それは「…知らせるために走って行った。婦人たちが行き着かないうちに、数人の番兵は」となり、婦人たちの動きがとても自然につながる。
 他方、主との出会いをそのまま一連の継続した出来事としてみると、「すると、イエスが行く手に…」という接続はかなり唐突だ。しかも、出会いがどこでどういう状況のもとに行なわれたかの説明がなく、彼女たちが家に帰着後、弟子たちにそれを報告した形跡が全然書かれていてない。話が首尾一貫せず、かなり不自然だ。しかも記述はそれほど重要ではないユダヤ人たちの噂の話へと移ってしまい、急に弟子たちの全世界への派遣で終わってしまう。
 これを見ると、イエス様のご出現は別の時の話で、必ずしも婦人たちの帰り道で起こったことと解釈しなくてもよいように思われる。マタイは山上の説教でも、本来は一緒に話されなかった話題を、あたかもその時に主が一気に続けて話されたように書いた。彼は説教も奇跡も治癒も題材ごとにまとめて書く傾向があったのだ。このご復活の記事もそうだとしたら、彼は持っていた復活の主のご出現伝承資料を、婦人たちの墓からの帰路に挿入し、あたかもその時そこで起こったように書いたのではないかと解釈できる。
 もしそうだったならば、このご出現は「墓から帰る婦人たちの動き」という記述の本筋から切り離してよく、何としてもこの場所に入れなくてはならないものではないと考えてよいと思うのだ。そして、それを切り離せば、婦人たちが天使のメッセージを弟子たちに走って伝えたというルカの記述とぴったり合致するし、帰ったが怖くて話せなかったというマルコの記述とは「伝えなかった」という点では相違するが、主のご出現はなく、若者から伝言を託されて帰ったという点では一致する。
 では、その場合、婦人たちへのこのご出現はどう位置づけたらいいのだろうか?そもそもマタイでは婦人たちはマグダのマリアともう一人のマリアの2人だけだ。マグダラのマリアの方は、ヨハネでは墓の前で泣いていた時に主に会う。そこでは主が「すがりつくのはやめなさい」と言っておられるが、足を抱こうとした動きはマタイ28;9と似ている。マタイはそれを2人の墓からの帰路にしたが、本当はヨハネ20;11にある墓の前でのご出現の場合のことだったのではないかと私は思うのだ。
 しかし、ではなぜヨハネではマグダラのマリアだけで、もう一人のマリア(ヤコブの母)がいないのかという疑問がわくが、もともとヨハネは他の婦人たちを省いているから、彼女への言及もないのだと考えればよい。マタイには興味深い記述がある。主を墓に葬った後、他の人たちが立ち去っても、2人のマリアは「墓の方を向いて座っていた」(マタイ27;61)とあるのだ。それがまさにこの朝の同じ2人だった。2人は仲良しで、行動を共にしていたように思える。だとしたら、マグダのマリアがもう一度墓に行ったとき、彼女もまた一緒に行ったのではなかろうか。そうすれば疑問が解ける。

 他方、マルコ16;8はこう伝える。「婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである」と。これはマタイの「恐れながらも大いに喜び」という雰囲気とはまったく違い、恐怖心でガチガチになっていた感じの描写だ。しかし、それはよいとして、問題は何も言わなかった点だ。何も言わなかったのなら、知らせたという他の福音書と相容れないからだ。
 では、彼女たちは本当に何も言わなかったのか?その答えはマルコ福音書の結末を検証すると見つかりそうに思う。そもそもこの福音書はこの16章8節をもって終了となっている。翻訳聖書にはマルコ16;9以降も載せてあるが、それは後から追加されたものだ。しかし、そうだとすると奇妙なのだ。エルサレムの聖書も注釈で指摘しているが、「だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである」という終わり方が、余りにも唐突な感じで、普通ならこんな終わり方はしないものだからだ。
 ある写本にはマルコ16;8の続きを書いたものがあるそうだ。それが信憑性のある内容がどうかは別として、そこからは、16章8節の後にまだ何か書き残されたことがあったのだろうと推察できる。つまり、実際は失われてしまったので確かなことは何も言えないのだが、おそらくマルコ福音書記者はその後に、結局は婦人たちが弟子たちに若者からのメッセージを伝えた、と書いたのではないかということが推測できるのだ。その仮説に立てば、「何も言わなかった」という唐突な結末の疑問は解け、他の福音書との矛盾する点も解消する。

 もしもマタイ28;9-10とマルコ16;8が上記のような解釈でいいとすれば、当然のことながら婦人たちを2手に分けて墓から帰す仮説は不要になる。従って、⑧ で婦人たちの一組が帰ってくること、⑨ でマグダラのマリアと2使徒とがもう一組の婦人たちとは行き違いになること、⑫ で彼女たちが帰る途中で主に出会うこと、⑯ で後から帰った一組の婦人たちが、「実は私たちも道で主に会いました」と打ち明けることなど、すべて必要がなくなり、話の筋はずっと単純になる。
 他方、ヨハネの福音書20;1-10の記述は実質的には、⑦の時点から書いてあると見てよいことがわかる。ヨハネはマグダラのマリア一人が墓に行ったように書いているが、知らせに帰ったのが彼女だけだったから彼は彼女だけに言及し、他の婦人たちを省略したのだろう。「まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った」とあるが、彼女だけでとは言っていない。それは他の婦人たちの存在を否定するものではなく、実際は彼女たちと一緒だったとする方が妥当だと思われる。
 マグダラのマリアの知らせは墓から主のご遺体がなくなっているということだけで、天使が現われて主のご復活を告げたことに何も触れていない。彼女が天使の出現前に走り帰ってきてしまった何よりの証拠だ。ここで注意すべきことは、多分もう一人のマリアも彼女と行動を共にしただろうということだ。最初に墓から帰った時は、マグダラのマリア一人だけだったかも知れないが、墓にまた戻って主にお会いした時と、「わたしは主を見ました」と2度目の知らせをもたらした時は、2人が一緒だったと考えれば筋が通る。

 このように見直すと、①~⑤まではそのままとして、それ以後は次のように訂正する方が適切だと思う。
⑦ 他方、一人走り戻ったマグダラのマリアは墓が空であることを弟子たちに知らせた。あるいはもう一人のマリアも一緒だった可能性はある。だが、その知らせを誰も信じず、動こうともしなかった。
⑧ やがて他の婦人たちが帰って、弟子たちに天使の出現と、主が甦られ、先にガリラヤに行っていると言われたメッセージを伝えた。弟子たちはやはり信じなかった。しかし、それはマグダラのマリアの知らせよりもずっと驚くべき情報だったから、ペトロとヨハネは確認のため墓に走った。
⑨ マグダラのマリアともう一人のマリアも2使徒を追ってもう一度墓に行った。
⑩ 2使徒は天使にも主にも会わず、空の墓を見届けただけで帰った。(ヨハネ20;1-10)
⑪ 2使徒が墓を去った後、2人のマリアは主を葬った時と同じように墓の外に座っていた。一人は泣いていた。
⑬ エマオへの2弟子はそれらのことを見聞きした後で出発した。
⑭ 2人のマリアが墓にいると、まず2位の天使が現われ、次いで主が出現なさって話され、弟子たちへの伝言を託された。そこで彼女たちは帰って弟子たちに、「主を見ました」と伝えた。もう涙はなく、きっと満面喜色だった。
⑮ 皆は2人のマリアの「主を見ました」という証言を聞いてもまだ懐疑的な者がいたが、ある弟子たちにとっては主の復活が事実ではないかと、急に現実味を帯びたものに変わった。
⑰ そこでペトロはもう一度墓に行き、そこで主に出会った可能性が強い。エマオへの2人にエルサレムの弟子たちが、「本当に主は復活して、シモンに現われた」(ルカ24;34)と言ったのはそれだ。
⑱ トマスは夕方どこかへ外出していた。そして、彼の不在中に主が皆の前に出現された。
 おそらくご復活の一日はこのような経過をたどって終わったのではないかと思う。これならもっと納得がいく。

見て信じた人と、見ないのに信じる人

 復活節第2主日の福音はヨハネ20;19-31で、主の2度のご出現を伝えている。主のご復活はその日だけのことではなく、その後の一連の出来事と一体だから、今年はまず復活祭日中ミサの福音にあった「見て、信じた」(ヨハネ20;8)という表現を再検証し、その後で復活節第2主日ミサの福音にある「見ないのに信じる人は幸い」(ヨハネ20;29)という一句を考察することにしたい。

 ヨハネの福音書では「見る」と「信じる」がペアになって9回使われている。例えばヨハネ2;23、4;48などだ。これから再検証する「もう一人の弟子も入って来て、見て、信じた」というヨハネ20;8もその一例なのだが、この一句で決着をつけたいのはその意味だ。これは使徒ヨハネが主のご復活の朝、使徒ペトロと共に墓に行った時の行為を表わしているが、いったい彼は何を見て、何を信じたのか?
 その意味に決着をつけたいとは、以前にもこれを論じたが、中途半端だったからで、今年はとことん再考し直してみたいということだ。昨年も私は4月19日のコラム「聖書反芻」で、彼が信じたのは主の復活ではなく、「マグダラのマリアが言った通り、墓は空だ」ということを信じたに過ぎないと書いた。ところが私の知る限りでは、ほとんどの聖書学者はそれを「主の復活を信じた」と理解し、私の見解とは相容れなかった。例を挙げる。
 F・バルバロ師:「布などが整えられているのを見ただけで、かれ(ヨハネ)の心は光りにみたされて、信じた。かれは主の預言を思い出し、復活を信じたのである。」(聖ヨハネ福音書注解p.339)
 J.シュルツ:「愛弟子の方も墓に入り、一切を見、復活の主を自分の目で見ることなしに信仰に到達し、沈黙する。墓が空になっていることは明らかに、イエスが死人の中から復活したことの証拠である。」(NTD新約聖書注解・ヨハネによる福音書p.464)。
 松永希久夫氏:「屍体を包んであった布が残っているのを見ただけで(主の復活を)信じた、と福音書記者は言いたいのである。」(ヨハネによる福音書講解p.470)
 オリエンス宗教研究所:2006年、同じような見解で、聖書と典礼の後記に「イエスの愛された弟子が最初に主の復活を信じます」と書いた。おかしいのではないかと問い合わせたところ、雨宮神父もそう言う見解だから、それで正しいはずという返事だった。
 カトリック聖書学の重鎮だったラグランジュ神父までそのような見解であると知れば、やはり私が間違っているのかなぁ、という思いになるのは当然だ。そこで再考してみた。その結果、ヨハネの福音書だけに依拠するなら、やはり彼らのような解釈は成り立たない。しかし、他の福音書と合わせ読むなら、彼らのような解釈はある意味で成り立つ。この場合は、私の方が今までの自説を修正しなければならない。そういう結論に達した。

 では、どうしてそういう結論に達したか。まず、ヨハネの福音書だけに依拠した場合を述べてみる。
 なぜ私が彼らの解釈を否定するかというと、ヨハネを買いかぶっていると見るからだ。間違った解釈の源はそこにある。その時の使徒ヨハネは、知的にも霊的にもまだ高いレベルにはなく、未熟な若者だった。3度目のご受難予告の直後だったというのに、彼は兄ヤコブと共に厚かましくも、「栄光をお受けになるとき主の右と左に座らせてください」(マルコ10;37)と願った。エルサレムに上る直前には、不愉快なサマリアの村を「天からの火で焼き払いましょうか」(ルカ954)と口走って主から叱責された。彼がいかに未熟だったかは歴然としている。
 そんな若者が主のご死去後、急に変化したと言えるだろうか?多少の変化はあったにせよ、主とずっと一緒にいた間もなかった変化が、急に起こったとは考えられない。ましてやその時は、ペトロをはじめ、誰もが「主は死んでしまった」と思い込んで落胆し、とてつもない喪失感の中で茫然自失、不安と悲嘆に打ちひしがれていた。どうしてヨハネだけがそんなにシャンとした精神で、空の墓を見たとたんに主の復活を信じたと言えるのだろうか?それはあり得なかったと見るべきだろう。多くの聖書学者たちは後の聖ヨハネを見る目でこの時のヨハネを見、高く評価し過ぎている。
 だから、「布などが整えられているのを見ただけで、かれの心は光りにみたされて、信じた」という見方になってしまうのだ。布などが整えられていれば、「なぜ?」と疑問は抱くだろうが、それで光りに満たされて信じるというのは論理の飛躍だ。そのようにヨハネを高尚な精神の人だったと見なす解釈は、彼が後に聖霊の助けで悟ったことを、あたかももう墓で悟ったように前倒ししてしまうことで、適切とは思えない。事実とは違うと思う。
 「復活の主を自分の目で見ることなしに信仰に到達し、沈黙する」というシュルツの理屈は根拠不在だ。ヨハネがまだそんなレベルの人でなかったことはすでに指摘したが、これは度が過ぎた買いかぶりだ。それに、そんな信仰に到達したのなら、なぜ婦人たちのように「主は復活なさった」と声を出さなかったのか。沈黙していたのでは、たとえ彼が主の復活を信じたとしても、誰にもわからなかっただろう。なのに、どうして信じたと断言できるのか。 
 シュルツの「墓が空になっていることは明らかに、イエスが死人の中から復活したことの証拠である」と言う論述に至っては更に粗雑だ。もしそれが「明らか」復活の証拠だったのなら、どうしてペトロや女性たちにはそれがわからなかったのか。彼らがよほど愚鈍で、ヨハネだけが聡明だったと言うのだろうか。彼らは大差なかったはずだ。実際は、「明らか」ではなく、むしろ謎だったからこそ、彼らはどういうことだろうかと首をかしげ、マグダラのマリアは主が取り去られたと思い込んだのだ。そう理解すべきだと思う。
 従って、「布が残っているのを見ただけで(主の復活を)信じた、と福音書記者は言いたいのである」という解釈も的外れの忖度だと言わざるを得ない。もしそう言いたいのなら、なぜヨハネはそんな大事なことをその福音書に書かなかったのか。復活が残され布を見ただけで信じられることだったら、ペトロも女性たちも容易に信じられていたはずだ。しかし、そうではなかった。ということは、布を見ただけで信じることはできなかったことを意味する。主のご復活はまだ誰一人思ってもいなかったことだったのだ。
 松永氏は「イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、2人はまだ理解していなかったからである」(ヨハネ20;9)という一節を、これはト書きに等しいから、ヨハネが復活を信じなかったことの証拠にはならないと言う。しかし、逆の解釈も可能だ。ヨハネは後でその時のことを振り返ったからこそ、その状況説明のためにこの一節を入れた。その意図は、使徒2人にとって主の復活がまだ明白ではなかったことを示すことにあった。これが妥当な理解だろう。

 彼らの解釈の一番の弱点は、もしヨハネ(だけ)が墓ですでに主の復活を信じたのなら、なぜそれを他の使徒たちに言わなかったのか、それを証明できないことにある。事実、「それから、この弟子たちは家に帰って行った」(ヨハネ20;10)とあるだけで、ヨハネの名も言葉もその後の20章では2度と出ない。ルカも弟子たち(複数)が墓へ行った(ルカ24; 24)とは書いている。しかし、婦人たちの知らせを受けて墓へ走った弟子はペトロ(ルカ24;12)しか名ざししていない。ルカからすれば、ヨハネの名は省略してもさして影響のないものだったからだろう。
 もちろんヨハネの福音書では、ヨハネは自分の立場から書いたから、ペトロと自分の名をちゃんと書いた。ところで、彼はトマスが主のご出現の後に弟子たちとやり合った会話を十分に記録している。大事な話題だったからだろう。ならば、もし自分が墓で主のご復活に気付いたのだとしたら、それも実に重要なことだったのだから、それについてもただ「見て、信じた」ではなく、主を見なかったのになぜ復活されたと信じられたかを、必ずもっと詳しく書いたはずだろう。だが、彼は何も書かなかった。なぜか?「主を見なかったがご復活を信じた」という事実がなかったからだ、と答えるしかあるまい。
 ルカも同様だ。彼は婦人たちのこと、ペトロのこと、エマオへの2人のことについては書いた。もし、ヨハネが墓から帰って、「主には会わなかったが、復活なさったことは確かだ」と発言していたなら、資料を丹念に調べて福音書を書いたルカのことだ。そんな大事なことを書き漏らしたはずがない。だが、ヨハネについては何も言及していないのだ。なぜか?ヨハネが墓で主の復活を信じたと記録すべき事実がなかったからだ、と推定するしかないと思う。

 ここまではヨハネの福音書20;1-10だけに依拠して論じれば、と言う条件で考えてきたが、ここでまとめてみる。実際この個所に従うと、墓に行ったのはマグダラのマリアだけで、彼女の最初の急報内容は主が墓から取り去られて、ご遺体がどこにあるのかわからないということだった。天使の出現も伝言もない。問題になっていたのは主のご遺体とその置き場所のことだけであり、2人の使徒が走ったのもその確認のためだったとしか読み取れない。頭にはご遺体のことしかなかったのだ。
 そして墓に着いて見ると、すべては知らせの通りだった。使徒2人には主の復活を告げる天使も現われなかった。その時ヨハネが主の受難と復活の予告を思い出したと考える聖書学者もいるが、その時の彼らにはそんなゆとりは到底なかったと思う。布がたたんであることには疑問を持っただろうが、もしや主が復活したのでは?とヨハネが気付いたのなら、最後の晩餐の時(ヨハネ13;24)のように、彼はひそひそとペトロに耳打ちしたはずだ。
 ところが、そういうことはなかった。してみると、「見て、信じた」という意味は、ヨハネの福音書だけで解釈する限り、検証の前に述べたような結論にならざるを得ないのだ。すなわち、ヨハネ20;8の「見て、信じた」の意味は、使徒2人が「確かに墓は空で、主のご遺体がない」という事実を「見て」、マグダラのマリアが知らせた通りだと「信じた」という意味だ。しかし、布だけが2箇所に分けて置いてあったのは奇妙だという疑念は残っただろう。だから2人は黙って考えながら帰ったのだ。
 従って、「ヨハネが空の墓と布を見て、主の復活を信じた」という解釈は間違いで、ヨハネを買いかぶった想像に過ぎないと言わざるを得ないのだ。しかし、どうせ想像で言うのなら、最初に主の復活を信じた人は聖母マリア様に違いないと私は言いたい。それは聖書に書いてないではないかと言われたら、「見ないで信じたお手本は聖母をおいて他にいないからだ。お告げの時からそうだったではないか」と私は答える。

 ところで、ヨハネの福音書だけに依拠して論じればここまでのようになるが、他の福音書、特にルカの福音書と突き合わせて考察すると、結論は変わってくる。私は先週のブログで、錯綜したご復活の朝の人の動きや言葉を整理し、納得のいく経過の仮説を立ててみた。その中に2使徒が墓に走ったタイミングがある。もしそれが正しいとすれば、「見て、信じた」は、「主の復活を信じた」の意味に取れる可能性があるということだ。その場合、私は先ほどの結論を訂正しなければならなくなる。いや、実際にはもう見直して、以下を今現在の見解としている。
 では、復活の朝を整理した仮説の一部分を掲載する。
◆まずマグダラのマリアと他の女性たち数人が墓に行った。彼女たちは墓が開いていたので中に入り、主のご遺体がないことに気付く。
◆これを見たマグダラのマリアはとっさに、「だれかが主を運び去った」と早とちりして、一人だけ走り帰って弟子たちに知らせた。まだ天使の出現前だったので、彼女の最初の知らせには天使のことは何も出なかった。ヨハネ20;1は他の婦人たちを省略し、ここから書き始めたと見るべきだろう。
◆残った女性たちも遺体がないので、仕方なく帰ろうとしたが、何か納得がいかないので、もう一度見直そうと墓に入りなおした。
◆すると2人の輝く衣を着た人(実は天使)が婦人たちに現われ、「あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ」と知らせて、弟子たちへの伝言を彼女たちに託した。
◆婦人たちは帰って弟子たちに天使の出現と主の復活を伝えた。彼らは信じなかったが、それはマグダラのマリアの知らせよりもずっと驚くべき知らせだったので、ペトロとヨハネは確認のため墓に走った。

 ルカはマグダラのマリア単独の知らせは伝えず、婦人たちの行動と報告は皆でまとまってしたものとして書いている。それは詳細を省き、一括して語る述べ方だったと解釈できる。もし、そうだったとして、実際は上記の仮説のような経過であったとしたら、ヨハネの福音書の場合と違い、ペトロもヨハネも天使の伝言によって、墓に走った時はご遺体のことだけではなく、もう主のご復活のことを聞いていたことになる。
 つまり、ヨハネの福音書からは、彼らがマグダラのマリアの知らせを受けて、すぐ墓に走ったような印象を受けるが、実際はそうではなく、すぐには動かなかったのだ。しかし、他の婦人たちも帰って、今度は「主は復活された」という天使の言葉を伝えた。それでも多くの弟子たちはそれを「たわごと」だと思ったが、2使徒だけは真偽を確かめるため墓に走った。この場合は、「見て、信じた」という意味が、「墓が空で、亜麻布がたたんで置いてあるのを見て、主の復活は本当かも…と信じた」という意味にとれる。
 ただ、彼らは天使から直接主のご復活を聞いたわけではなく、主ご自身に会えたわけでもなかったから、「主の復活を信じた」といっても、まだ確信ではなかったと思う。だから、言葉少なに家に帰ったのだと解釈できる。ルカから見れば、墓に行ったのはあくまでもペトロが主で、若いヨハネは従だった。シュルツや松永氏のように、ヨハネが墓ですでに主の復活をはっきり信じたと、あたかも彼を信仰の模範であるかのように評価するのは疑問だ。そういう条件下でなら、ペトロもヨハネと同じように信じることができただろう。

 さて、ヨハネ20章19-31節には「見て、信じる」という用例が2つもある。一つは、トマスが「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れて見なければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」(同20;25)と言った言葉、もう一つはイエス様が、トマスに「わたしを見たから信じたのか」と言われたお言葉の中だ。この場合は、ヨハネ20;8の時と違って、両方とも意味ははっきりしている。
 ご復活の日の夜のことだった。弟子たちから復活した主が現われたと聞いたトマスは、主の傷跡に指と手で触れてみない限り、復活した主の出現など絶対信じられないと言ったのだ。それに対して、ちょうど一週間後、復活されたイエス様は、今度はトマスもいる時にまた現われて、彼に言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と。
 Contra factum nihil valet.(事実に敵うものはない)トマスは大きな口をたたいてすみませんでしたとも、見たから信じますとも言えず、ただただ感極まって、「主よ、わたしの神よ」と言うだけだった。弟子たちはイエス様を「主、先生、メシア」とは呼んでいたが、「わたしの神」とはそれまで誰一人口にしたことがなかった。唯一の神しか認めないユダヤ人にとって、人である誰かを神と崇めることは大それたことだったのだ。しかし、彼はそう叫んだ。
 トマスはそれまで、「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」(ヨハネ11;16)とか、「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちにはわかりません」(同14;5)などと、よくイエス様につっかかるような、試すような言動を弄していた。そのトマスがイエス様を「わたしの神」と呼んだことは、心底から疑いを捨て、イエス様が神から遣わされたメシアであるばかりか、神そのものであることを信じると宣言したことで、実に驚くべき信仰宣言だったのだ。
 しかし、イエス様は彼にお答えになった。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」と。主は見ても信じない人の不信を嘆き、難じられた。トマスは見て信じたのだから、ある意味ではほめられてしかるべきだっただろう。でも、主は大いには賞賛なさらなかった。見ないで信じていたらもっとよかったからだ。しかし後世の私たちとすれば、よくぞ疑い深くあってくれたと彼に感謝しなければなるまい。おかげで「見ないのに信じる人は、幸いである」という主のお言葉を聞けたからだ。

 後世の人たちはもはや地上で復活の主を見ることはできない。だから、見なければ信じないか、見ないで信じるかのどちらかだ。では、どうするか。その答えは、復活祭の日中ミサ第一朗読だった使徒言行録10;40-42にある。それは使徒ペトロのこういう言葉だ。
 「神はこのイエスを三日目に復活させ、人々の前に現してくださいました。しかし、それは民全体に対してではなく、前もって神に選ばれた証人、つまり、イエスが死者の中から復活した後、御一緒に食事をしたわたしたちに対してです。そしてイエスは、御自分が生きている者と死んだ者との審判者として神から定められた者であることを、民に宣べ伝え、力強く証しするようにと、わたしたちにお命じになりました」と。
 ご昇天以後は、目撃証人を通して信じるしかない。しかし、まさに見ないで信じることにこそ、信仰の信仰たるゆえんがある。このくだりはそれをわからせてくれる。これを読むと、教会は典礼を通して、何とすばらしいことを教えてくれているのかと思う。そして、使徒言行録を書いたルカは誰よりも多くかつ適切に、主の復活について書いてくれたんだとつくづく思う。また、見ないで信じる人は幸いと書き残してくれたヨハネにも、心からお礼を言いたい。

復活の朝

et valde mane
 御復活徹夜祭の福音はルカ24;1-12、日中のミサの福音はヨハネ20;1-9だ。私は朝のミサに行くが、今年はルカによる福音書を中心に考察してみたい。その前半はこう書いてある。 

 「(婦人たちは)週の初めの日の明け方早く、準備しておいた香料を持って墓に行った。見ると、石が墓のわきに転がしてあり、中に入っても、主イエスの遺体が見当たらなかった。そのため途方に暮れていると、輝く衣を着た二人の人がそばに現われた。婦人たちが恐れて地に顔を伏せると、二人は言った。『なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方はここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。』そこで、婦人たちはイエスの言葉を思い出した。」(24;1-8)

 週の初めの日とは現在の日曜日に当たる。ユダヤ人の安息日は土曜日で、彼らは次の日を週の第1日、第2日…と6日を順々に数字で表した。だから、女性たちが主の墓に行った週の初めの日とは、週の第1日目のことだった。日本では太陽にちなんでその日を日曜日と言うが、キリスト教では主が復活なさった日にちなみ、その日を「主日」と呼ぶようになった。それがキリスト教の安息日だが、ユダヤ教の安息日が週の終わりであるのに対し、それは週が始まる日でもある。
 ユダヤ人は律法の定めによって、安息日は決められた距離以外は移動できなかった。女性たちは明け方早く出かけたとあるが、この「朝早く」という一言で、彼女たちがいかばかり夜明けを待っていたかがわかる。その1節を読むと、私はいつも、昔グレゴリアン聖歌のミサにあった聖体拝領唱を思い出す。“Et valde mane una sabatorum veniunt ad monumentum, orto iam sole, alleluia”. (週の初めの日の朝早く、彼女たちは墓に行った。もう日は昇っていた。アレルヤ)という、冒頭に掲げた歌だ。
 これを口ずさむと、私は青年時代に戻ったような気分になり、心がいくらか高ぶるのを覚える。復活の朝は、信仰の原点であった若き日の信仰の朝を思い起こさせるからだ。私も怖れ、捜し求め、走り、迷い、そして信じた。ましてや彼女たちは言い難い喪失感と嘆きと、命の危険さえある状況にいた。生涯けっして忘れ得なかった特別な朝になったことは間違いない。

 これから起きることが何かをまだ知らなかった彼女たちには、出かけた時にある心配と恐れがあった。前々日、主を墓に安置したとき、入り口は男性たちが大きな石で塞いでくれた。しかし、それを女の力でどけられるかどうか心配だった。そして、司祭長の番兵が見張っているはずだから、それが恐ろしかったのだ。当時のユダヤの墓は岩をくり抜き、入り口にそれを塞ぐに十分な大きさの円形の大石を置いた。それを溝に沿って押し転がし、穴の入り口を開閉したのだった。
 ルカとマルコによれば、彼女たちは準備した香料を持っていた。しかし、ここで一つの疑問が湧く。もしヨハネの福音書が正しいとすれば、ニコデモは香料を百リトラほど主の遺体に施したとあるから、彼女たちがまた香料を準備する必要があったのだろうかと思われるからだ。百リトラとは約50キロに相当するからすごい量だ。実際、ヨハネの福音書では、マグダラのマリアが香料を携えて行った形跡はない。必要なかったから言及しなかったのではあるまいか。
 答えは2つ可能だと思う。一つは、金曜日はもう安息日に入る日没が迫っていたため、主を大急ぎで仮埋葬したに過ぎなかった。しかし、ニコデモを書かないルカでは、正式にちゃんと葬りなおすためには、彼女たちが香料を持って行ったと書く必要があったという解釈だ。もう一つは、普通の遺体と違い、主の場合はニコデモが主を包んだ布に入れた香料は、たくさんの血を吸ってしまっていたことだろう。だから、ちゃんと葬り直すには、香料も新しいのと取り替える必要があったので、彼女たちは持って行ったのだろうという解釈だ。この解釈の方がいいかも知れない。

 墓に着くと、彼女たちを待っていたのは思ってもいなかった事態だった。番兵はおらず、どうしてどけようかと心配していた入り口の石はわきに転がっていて、墓が空になっていたからだ。彼女たちは中に入って確かめた。ところが、イエス様のご遺体が見当たらなかったのだ。彼女たちは途方に暮れていた。すると輝く衣を着た二人の人が出現した。彼女たちは怖れて顔を地に伏せた。マルコはそれを一人の若者と言い、マタイは一位の天使と書いている。これはエマオへの旅人の話(ルカ24;23)やマグダらのマリアへの出現(ヨハネ20;12)から、天使だったと言ってよい。
 ルカによれば、その二人は婦人たちに言った。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方はここにはおられない。復活なさったのだ」と。彼らはイエス様を「生きておられる方」と言った。生きておられるのだから、死者の中に捜しても見つかるはずはなく、もう墓にもおられない。では、なぜ生きておられるのか?復活なさったからだ、と彼らは彼女たちにわからせたのだ。ここにポイントがある。
 そして、ガリラヤで主が予告された死と復活の言葉を言った。たしかにルカの福音書では、主の死と復活がガリラヤでの宣教中に3回予告されている。ちなみに、2人は婦人たちに「復活」という言葉を2回使ったが、原典では2つの用語は同じではない。初めの「復活なさった」は動詞「エゲイロ」(目覚める、起き上がる、死人が生き返る)の過去形だが、二つ目の「復活する」は動詞「アニステミ」(立ち上がる、起きる、甦る)の接続法現在形だ。しかし、意味に大差はない。だからドイツ語以外では、ラテン、英、仏、西、ヘブライ語の諸訳は同じ用語で訳している。
 他方、ヨハネの福音書20;1-10では天使は現われない。だから弟子たちへの伝言もない。そもそも墓に行った女性がマグダラのマリアだけになっているから、描写も違っている。彼女は墓から石がどけてあるのを見て、てっきり主の遺体が取り去られたと思い、弟子たちに急報した。それを聞いて弟子2人が墓に走り、空っぽの墓と、たたんで置かれていた布を自分の目で見届けて帰った。人間の慌しい動きだけで、不思議な現象は何もない。しかし、ルカの福音書は他のどの福音書よりもヨハネの福音書と重なるところがある。それはこう続く。

 「そして、墓から帰って、十一人とほかの人皆に一部始終を知らせた。それは、マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア、そして一緒にいた他の婦人たちであった。婦人たちはこれらのことを使徒たちに話したが、使徒たちは、この話がたわごとのように思われたので、婦人たちを信じなかった。しかし、ペトロは立ち上がって墓へ走り、身をかがめて中をのぞくと、亜麻布しかなかったので、この出来事に驚きながら帰った。」

 ルカはここで墓に行った婦人たちが誰だったかを書いている。それはマグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア、そして一緒にいた他の婦人たちだった。これを見ると、少なくとも5人以上はいたことになり、ずいぶん大勢だったのだなと少々驚かされる。ところがこれを他の福音書と比べると、全部は一致しない。大した問題ではないが、どれが本当なのだろうとかと戸惑う人はいるかも知れないから、ちょっと検証しよう。
 マルコはマグダラのマリア、サロメ、ヤコブの母マリアの3人だったと書き、マタイはマグダラのマリアともう一人のマリアの2人だけの名を挙げ、ヨハネの福音書はマグダラのマリアだけだ。もっともこの場合は、彼女が使徒に知らせたとき、「どこに置かれているのか、わたしたちにはわかりません」(ヨハネ20;2)と複数で言っているから、複数の婦人を示唆してはいる。
 いずれにせよ、マグダラのマリアだけはどの福音書も伝えているから確実だ。その他は不同だが、マルコの挙げたサロメはルカにある「他の婦人たち」の一人だっただろうと思えば済む。私はこのことではルカの記述が一番事実に近いのではないかと思う。他の福音書が挙げた婦人名はルカのリストにすべて含まれているし、彼らが書き漏らした名前は追加されているとからだ。それにしても思うことは、出来事も数十年経てば、細かい点では記憶にも違いが出てくるということだ。むしろそれが当たり前で、それを心得ておくことは聖書を学ぶ時に役立つと思う。

 婦人たちは天使たちに言われて、イエス様の言葉を思い出した。そこで引き返すと、見聞きしたことを全部11使徒に知らせた。ところが、彼らはそれを「たわ言のように」思ったとある。原典の「レーロス」という言葉は「冗談、馬鹿げた話」を意味する。正気の沙汰じゃないと、彼らは取り合わなかったのだ。その反応は、エマオへの二人の言葉に再現されている。彼らは婦人たちの話しを聞いた後で旅に出たようだが、その途上で会った人が復活された主だとは気付かずにこう話した。
 「わたしたちはあの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう三日目になります。ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、遺体を見つけずに戻ってきました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言った通りで、あの方は見当たりませんでした。」(ルカ24;21-24)
 これは婦人たちの行動や言葉を証言している。使徒たちは婦人たちの話しをまじめに受け止めなかった。しかし、さすがにペトロだけは違った。彼は「立ち上がって墓へ走り、身をかがめて中をのぞくと、亜麻布しかなかったので、この出来事に驚きながら帰った」のだ。この記述はヨハネ20;1-9と合致する。ここには、ヨハネも共に墓へ走り、中に入ったとは書いてないが、中を覗いて、亜麻布しかないことを確認して家に帰ったことは明記してある。
 ルカはペトロだけが墓に走ったように書いているが、ヨハネでは2人だから一致しない。しかし、エマオへの2人の話しには、「仲間の何人かが墓へ行って見たのですが…」というくだりがある。では、「仲間の何人か」とは誰だったのかと問えば、ペトロとヨハネしかないだろう。ルカ24;12はヨハネを省略したのだと見ると、ヨハネの書いたことと一致し、欠けた点を補い合うことがわかる。

 それにしてもこの朝のことは、人の動きや言葉が福音書によってかなり違い、錯綜している。従って、本当は何がどういう順序で経過したのかわかりづらい。整理したら、それはもう少しすっきりわかるものだろうか?かつてそれを「イエスが行く」Ⅲ巻9章45節で試みたことがあるが、今回は少し訂正を加え、もう一度やってみようと思う。それは次のように経過したのではなかろうか。
 ・まずマグダラのマリアと他の女性たち数人が墓に行った。それは確かだ。彼女たちは墓が開いているのに驚き、中に入ってみたら主のご遺体が見当たらなかった。
 ・これを見たマグダラのマリアはとっさに、「だれかが主を運び去った」(ヨハネ20;2、15)と思った。思いつめていた彼女の早とちりだったと思うのだが、そう思うや否や、彼女は一人だけ弟子たちに事の次第を知らせるために走り帰った。その時はまだ天使の出現前だった。だから、彼女の最初の知らせには天使の知らせがなかったのだ。
 ・残った女性たちも遺体がないので、仕方なく帰ろうとしたが、もう一度見直そうと墓に入りなおした。主の遺体を取り去っても何の得もないし、仮にそうだったとしたら、包んだ亜麻布ごと運び去るだろうに、それが残されているとは変だ、何か腑に落ちないと思ったからだろう。
 ・するとそこに2人の輝く衣を着た人が現われた。それが実は天使たちだったことは、他の個所からわかる。2人はマグダラのマリア以外の婦人たちに弟子たちへのメッセージを伝えた。
 ・彼女たちは怖れた。しかし、「恐れながらも大いに喜んで、急いで墓を立ち去り…」(マタイ28;8)と言うのが真実だったと思われる。

 ・私はここで婦人たちが何らかの理由で2手に分かれ、別々の道を通って帰ったと仮定する。そうしないと、帰る途中で主に出会った婦人たち(マタイ28;9)と、墓から帰っても怖くて「誰にも何も言わなかった」(マルコ16;8)婦人たちの事実がうまく説明ができないからだ。
 ・他方、一人走り戻ったマグダラのマリアは墓が空であることを弟子たちに知らせた。だが、誰も信じず、動こうともしなかった。
 ・やがて、婦人たちの一組が帰り着いた。そして、天使の出現と、主が甦られたこと、先にガリラヤに行っていると言われた伝言を弟子たちに報告した。ほとんどの弟子たちはやはり信じなかった。しかし、それはマグダラのマリアの知らせ以上に驚くべき情報だったから、さすがにペトロはひょっとして!と胸が騒ぎ、墓に走った。ヨハネも走った。(ルカ24;12、24、ヨハネ20;3-6)
 ・マグダラのマリアも2使徒を追ってもう一度墓に行った。しかし、彼らはもう一組の婦人たちとは途中で出遭わなかった。彼女たちが違った道で帰ったから行き違ったのだ。
 ・2使徒はヨハネ20;1-10にある通り、天使にも主にも会わず、空の墓を見届けただけだった。
 ・やがて2使徒は墓を後にしたが、マグダラのマリアは墓の外に一人居残って泣いていた。
 ・他方、別の道を通った婦人たちの1組は帰る途中で主に出会った。主は「恐れることはない」(マタイ28;8)と言われたが、気が動転して恐ろしくもあり、皆のところに帰った後、彼女たちはそれをすぐには誰にも話せないで(マルコ16;8)いた。 
 ・エマオへの2弟子はそれらのことを見聞きした後で出発した。安息日が過ぎたので歩けるから、エルサレム以外にいる仲間たちに、主のご死去を知らせるためではなかったろうか。 
 ・マグダラのマリアが一人墓で泣いていると、まず2位の天使が現われた。次いで主が出現なさって話され(ヨハネ20;11-17)、弟子たちへの伝言を託された。そこで、彼女は帰って、「わたしは主を見ました」(ヨハネ20;18)と言った。もう涙はなく、きっと満面喜色だった。

 ・皆は空の墓のこと、天使からの伝言は聞いたが、「主を見ました」なんてとても信じられないと、まだトマス的な疑いに支配されていたに違いない。3人の最側近の一人だったヤコブの名が全然出てこないのは不思議だ。彼も懐疑派の一人で、マグダラのマリアの証言にも否定的な反応をしていたのかも知れない。ペトロもまだ迷っていたのだろう。
 ・そこで、弟子たちのふがいなさを見て、後から帰って来た婦人たちの1組みがやっと、「実は私たちも道で主に会いました。主が生きておられるのは本当です」と、打ち明けたのではないだろうか。だから、マタイは道での御出現のことを書いた。そして、マグダラのマリアと彼女たちの証言が合流したおかげで、主の復活の事実は弟子たちにとって急に現実味を帯びた感じに変わった。  
 ・そこで、ペトロはもう一度墓に行った可能性がある。エマオへの2人が主の出現に驚いて、急いで引き返して来たとき、エルサレムに残っていた弟子たちは、「本当に主は復活して、シモンに現われた」(ルカ24;34)と言っていたからだ。しかし、その出現の時と場所は定かではない。
 ・トマスも疑ってか、あるいは何かの用事があったからかはわからないが、夕方どこかへ外出していた。墓に行ったのかも知れない。そして、彼の不在中に主が皆の前に出現された。(ルカ24;36-49、ヨハネ20;19-25)
 ご復活の一日はこんな経過をたどったのではなかろうか。この仮説なら話の筋が通り、ほぼ納得できるのではなかろうか。

 さて一週間後、トマスもいたとき、主はまた皆の前にお現われになった。その時に、主が「信じない者ではなく、信じる者になりなさい。…見ないのに信じる人は、幸いである」と言われた有名なお言葉は、ヨハネ20;26-29が伝えている。弟子たちはその後でガリラヤに戻った。マタイもマルコも、「先にガリラヤに行かれる。」「そこでお目にかかれる。」「兄弟たちにガリラヤに行くように言いなさい」などと書き、ヨハネはガリラヤでの再会を伝えているから、そう解釈するのが妥当だと思う。
 ところが、ルカでは天使たちの伝言にも「ガリラヤに行く」という言葉がない。彼の福音伝播のビジョンは「ガリラヤからエルサレムへ、エルサレムから世界へ」だった。「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた父の約束されたものを待ちなさい」(使徒言行録1;4)というお言葉を出す以上、ガリラヤに戻っては整合性がなくなる。だから、「ガリラヤに行く」という言葉をパスしたのだろう。しかし、一度ガリラヤに戻っても、ビジョンがそれほど損なわれるわけではなかったはずだから、無理して整合性を保とうとしなくてもよかったのにとは思う。実際は、一度は皆ガリラヤに戻ったはずだ。豊でもなかったガリラヤ人たちが何十人も、5旬祭まで50日間近くも都エルサレムに居続けることは、資金面でも居住面でも困難だったと思われるからだ。

 今から約2000年前、こんな復活の朝があった。今もそれを昨日のことのように思い返し続ける人たちがいることを、世間は時代から取り残された人たちだと思うかもしれない。しかし、それは歴史上の一出来事ではあったが、「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は復活なさったのだ」という、その朝の問いと断言は今もそのまま生きている。3つの態度が可能だ。復活などは無関係と無関心で生きるか、心が現代の墓穴のように復活の主不在のまま懐疑に留まるか、それとも墓の外で主に会えたマグダラのマリアのように信じるか、だ。
 復活の主に会えた人は数百人に過ぎない。しかし、それ以来無数の人たちは復活の主を見ないで信じた。聖パウロは「キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。…しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました」(一コリ15;14-20)と断言したが、信じた人々は主と復活の主に会った人たちの証言に賭けたのだ。私も信じるほうに賭けている。そして、日中のミサの続唱をグレゴリアン聖歌で口ずさむ。 
  Victimae Pascali laudes immolent Christiani.
  Agnus redemit oves: Christus innocens Patri reconciliavit peccatores.
  Dic nobis, Maria, quid vidisti in via?
  Sepulcrum Christi viventis et gloriam vidi resurgentis.
  Angelicos testes, sudarium, et vestes.
  Surrexit Christus spes mea: praecedit suos in Galilaeam.
  Scimus Christumu surrexisse a morutuis vere:
  tu nobis, victor Rex., miserere. Amen. Alleluia.
    私訳するとこうなる。
  「キリスト信者たちは過ぎ越しの犠牲に賛美をささげます。
  小羊はその群れを贖い、罪なきキリストは罪人を天父と和解させました。
  マリアよ、道で何を見たか話してください。
  生きておられるキリストの墓、復活された方の栄光を見ました。
  天使と頭の覆いと布が証言しています。
  キリストはまことに復活され、彼らより先にガリラヤに行かれました。
  キリストが死者の中から甦ったことを私たちは知っています。
  あなたは勝利の王、私たちに慈しみを。アーメン。神をたたえよう。」
プロフィール

余生風

Author:余生風
「聖書温故知新」
「思いつくまま、気の向くまま」
折にふれ「水彩画」も紹介してまいります。

「手を貸す運動」創始者
社会福祉法人「地の星」理事
元玉川大学教授

佐藤正明(余生風)ホームページ
「絵画と心」

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