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群衆の中の人々と自分

 今年の枝の主日は、ルカの福音書19;28-40と23;1-49が読まれる。それはイエス様のエルサレム入城時の出来事と、捕らえられて裁判にかけられ、十字架上でお亡くなりになったご受難の大半に当たる。まともにそれと取り組んだら、おそらくたいへんな考察になってしまうだろう。しかし、幸いにも読めばほとんどはわかるから、今回は主の御受難の黙想に少しばかり心の準備ができるよう、気になる点だけを整理しておくにとどめたい。その時に気を散らさなくてもいいように…

 気になることの一つに、群衆が前面に出る2つの場面がある。一つは「ホサナ!」とイエス様を迎えた時、もう一つは「十字架につけろ!」と怒号した時だ。それを叫んだ群衆はいったい同じ人々の群衆だったのだろうか、それとも別の群衆だったのだろうか?私の自答は、群衆としては同じだったが、叫んだ人々は同じではなかった、と言うことにある。その論拠はこうだ。
 まず「ホサナ!」と叫んだ群衆だが、ルカはイエス様がエルサレムに入城されたとき、人々が「主の名によって来られる方、王に、祝福があるように」と賛美したと伝えている。他の3福音書が「ホサナ、主の名によって来られる方」と書いているのに、ルカだけは「ホサナ」の言葉を省いた。彼はこれがヘブライ語なので、イスラエル人ではない読者にとっては不要だと判断したのだろう。しかし、内容的には民衆が「ホサナ」と叫んでいたと理解してしかるべきなのだ。
 ちなみに、ホサナとは正しくはホシャンナと発音し、ホーシーア(救う)という動詞の単数命令形ホーセアから出来た言葉だ。ナは「どうか」みたいなニュアンスで、よく命令形の後につけられる接尾辞だ。従って、元は「どうか救って」の意味だった。しかし、歓呼の叫びとして使われていくうちに、「バンザイ」の意味に変わったらしい。日本人が万歳を元々は「万年の長寿を」の意味だなどとは考えず、「勝った!」「やった!」の感じで叫ぶのと同じだ。ここで大事なことは、民衆がイエス様を称えて喜び迎えた事実にある。 

 ところが、裁判の時は様相が一変する。ルカ23;1-49はイエス様が捕らえられ、最高法院で尋問された後、ローマ総督ピラトのもとに連行されたところから始まる。夜が明けて集まったのは、長老、祭司長、律法学者たち最高法院のメンバーだった。最高法院(サンヘドリン)とは紀元前2世紀、マカベの時代に出来たユダヤの共同体組織で、司祭長、長老、律法学者の3者からの代表71人で構成され、ローマの支配下ながら、民族の宗教、行政、裁判の自治権限を持っていた。
 彼らはイエス様を裁判の場に立たせると、偽証人を何人か呼び、彼らの証言をもとに尋問した。そして、死刑の判決をくだした。ところが問題があった。死刑は宣告しても、執行ができなかったのだ。当時、死刑を決定し執行する権限はローマ総督にあったからだ。そこで、彼らは不本意ながら、主をピラトのところに連れて行かざるを得なかったのだった。告訴を受けて、ピラトは主を尋問したが、結果は無罪認定だった。
 しかし、それは彼らにとっては絶対に承服し難いことだった。そもそも訴因がまったく違っていた。大祭司のもとでの裁判は、イエス様が自分を神の子とし、律法も破っても良いと教えたと認定したから死刑を宣告したのだが、ピラトの裁判には、社会の治安を乱した、自分を皇帝と並ぶ王だと詐称したと訴えたのだ。ピラトは調べたが、本当の訴因が妬みと憎しみにあり、主に何の咎もないことを見抜いた。そこで、罪なしとしたのだった。だが、それでは収まらなかった。彼らが何としてもイエス様を抹殺しようとしていたからだ。
 司祭長、長老、律法学者たちは群衆を手なずけ、ピラトに圧力をかけた。彼はユダヤの権力者と民衆とが結託して暴動になることを恐れた。そのため妥協を探り、過ぎ越し祭の頃、囚人の一人を放免する慣例があったので、イエス様と殺人犯のバラバのどちらかを赦そうと提案した。この弱腰を見抜いた彼らは、つけ入って叫んだ。「バラバを釈放しろ」と。そして、ピラトが主を釈放しようと呼びかけたら、彼らは「十字架につけろ、十字架につけろ」と傘にかかって叫んだのだった。その結末はイエス様の十字架刑確定だった。ピラトは責任を放棄し、彼らに譲歩してしまった。

 ところで、問題はこの群衆が「ホサナ」と称えた群衆と同じかということにあったが、もし同じ群衆がエルサレム入城数日後の御受難の時には豹変して、「十字架につけろ」と叫んだのだと考えるとしたら、そのような思い込みは、群衆が雑多な人々の混じった人の群れだ、という現実を見落としているから起こるのだ。それは間違った理解だと思う。実際は、人数の増減や変化はあったにせよ、群衆は同じだった。しかし、その中には「ホサンナ」と迎えた人々と、「十字架に付けろ」と叫んだ人々の両方が混じっていたのだ。
 だから、群衆としては同じだったが、その中で叫んだ人々は別だったと言えるのだ。そもそもイエス様の後を追った群衆の中には、イエス様を信奉する人たちと共に、反感や敵意を持つ人々も紛れ込んでいた。ヨハネ11;45-53はその一例になる。送り込まれたスパイまがいの人々もいたのだ。エルサレム入城の時も、裁判の時も、その群衆の中にはイエス様の信奉者と反対者、両サイドの人々が混在していたと見るべきだろう。そうだとわかれば、なるほどと納得できると思う。
 イエス様に反感を持っていた人々は、群衆の中の多くの人がホサンナと叫んでも同調しなかった。彼らのある者たち苦々しく思って、「先生、お弟子たちを叱ってください」(ルカ19;39)と一応抗議した。しかしこの時は、主が「もしこの人たちが黙っていれば、石が叫び出す」(ルカ19;40)と答えて、取り合わなかったから、反対者たちは信奉者たちの「ホサナ」に圧倒されて、しかたなく黙って群衆の中にいるしかなかったのだった。 
 ところが、時と所が変って裁判の場では、「十字架に付けろ」と叫ぶ人々が主導権を握っていた。主を捕らえに行ったのは大祭司の下役たちと群衆だったが、その群衆とはイエス様の反対者たちだけだっただろう。「祭司長たちや下役たちは、イエスを見ると、『十字架につけろ。十字架につけろ』と叫んだ」(ヨハネ19;6)とあるように、司祭長らから言い含められて、彼らは裁判の場では十字架に付けろと声を大にして叫んだ。その時、彼らは権力を後ろ盾にした多数派だったのだ。
 しかし、イエス様の信奉者たちもその場にはいたに違いない。しかし、反対派の声の大きさに圧倒されて、「十字架に反対!」などとはとうてい言えなかっただろう。主が十字架につけられた時、「イエスを知っていたすべての人たちと、ガリラヤから従って来た婦人たちとは、遠くに立って、このことを見ていた」(ルカ23;49)とあるが、おそらくピラトの裁判の場でも同じように、彼らは群衆の一部として、「十字架につけろ」と叫ぶ人々の後から、成り行きを見守るしかなかったのだろう。
 このように、この出来事での群衆はだいたい同じだったが、時と場所が変わると多数派と少数派が入れ替わり、言動も正反対になったと見るのが自然だと思う。つまり、ほぼ同じ群衆がイエス様の行くところに応じて動いて行ったのであって、その中には「ホサナ」と叫んだ人々と、「十字架につけろ」と叫んだ人々が混在していたのだ。

 そうだとわかると、次は枝の主日の福音朗読の仕方が気になる。この日、多くの教会では司祭がイエス・キリスト役、一人がナレーター役、一人が祭司やピラト役、会衆が群衆役に役割分担して、オラトリオ形式の朗読をする。御受難を追体験するには効果的に見えるが、私にはどうしてもそれに違和感がある。いったい、イエス様役にふさわしい司祭がいるのかどうかはさておき、信者全員が群衆になり代わって、なぜ「十字架につけろ」と言わなければならないのかと思うからだ。
 「ホサンナ」となら喜んで叫ぶが、「十字架につけろ」と叫ぶことなど、思っても願ってもいないのに、そう言わされることには抵抗を感じる。自分を罪人、悪人だと思って言えばよいではないか、と説得する人がいるかも知れない。しかし、罪人や悪人であっても、イエス様を十字架につけることを願わない人はいるではないか。信者の人々は役割なので仕方なく言うが、心理的に無理があるからか、「十字架につけろ」の声は全然迫力がない。こんな朗読スタイルはよくないと思う。
 そこで私は昨年と同じように、今年も、「十字架につけろ」と叫ぶ群衆の中で、イエス様を助けられずに口をつぐんでいた人たちを真似ようと思う。つまり、皆さんが「十字架につけろ」と言っても私は言わない。かつて、ピラトの裁判の場では皆に同調しない人たちがいた。虚偽の告訴で一人の義人を死に追いやる暴挙を嘆き、何にもできない自分を何と情けないと悲しんだ人たちがいた。現在の教会でも、それを真似た方が真実に近いのではないかと私には思えるのだ。 

 さて、そのことは私にヨセフとニコデモのことを考えさせる。二人は確実に最高法院での裁判でその場にいたし、ピラトの裁判の時も皆に混じっていただろう。二人はイエス様に対する不当な判決を阻止はできなかった。だが皆には同調せず、「十字架につけろ」とも言わなかったはずだ。しかし、私がここで関心を持つのは、そんな二人だったからこそ後に改宗し、余人には知りえなかったイエス様に対する裁判の内幕を、後世に証言してくれたのではないだろうかという点だ。これは気になることのもう一つだ。 
 アリマタヤのヨゼフという人は金持ちで、最高法院の議員でもあった。4福音書は揃って彼のことに言及していて、「この人もイエスの弟子であった」(マタイ27;57)が、「イエスの弟子でありながら、ユダヤ人たちを恐れて、そのことを隠していた」(ヨハネ19;38)。しかし、「善良な正しい人で、同僚の決議や行動には同意しなかった。…神の国を待ち望んでいたのである」(ルカ23;50-53)などと、彼のことを伝えている。
 他方、ニコデモのことはヨハネの福音書しか書いていない。なぜ他の福音で言及がないのかはわからないが、ヨハネの福音書3;1-21は、彼がある夜イエス様に教えを乞いに来たことを伝えている。彼はファリサイ派に所属する長老で、最高法院の議員でもあり、正しい人であった。祭司長たちやファリサイ派の人々がイエス様を処罰しようと企てていた時、彼は反対して、「我々の律法によれば、まず本人から事情を聞き、何をしたかを確かめたうえでなければ、判決をくだしてはいけないことになっているではないか」(ヨハネ7;51)と言った。イエス様を堂々と弁護したのだ。
 この二人はイエス様が十字架上から降ろされた後、婦人たちといっしょに主を墓に葬っている。ヨセフは勇気を出して、ピラトに主の亡骸を引き取らせてほしと許可を願いに行き、金持ちだったので自分の新しい墓をイエス様のために提供した。ニコデモは没薬と香を混ぜた物を持ってきて、遺体を亜麻布に包む時にそれを入れた。この時も勇気があったのは女性たちだったようだが、ヨセフとニコデモは勇気を出して彼女たちを助けた男たちだった。

 ところで、この二人の存在は私たちに次の重要なことを示唆していると思われる。最後の晩餐とご受難はたった2日の出来事だったのに、どの福音書でもその記事が全体の6-10%を占めている。とても大きな部分であることは明白だ。ところが、大祭司の邸でのイエス様に対する出来事、最高法院での取調べや判決などは、外側にいた弟子たちや婦人たちにはわからなかったはずだ。では、どうしてそれがわかったのか?この二人がいたからだと思う。だから重要だと言えるのだ。
 彼らは最高法院の議院として内側にいた。だからそこで行なわれた裁判の様子、尋問、下役の振る舞いなど一部始終を知る立場にあった。彼らの言動からして、彼らが聖霊降臨後に改宗し、初代キリスト教の信者になった可能性は大きい。だとすれば、二人は使徒たちや他の信者たちに自分たちが知リ得たことを語っただろう。内側にいたヨセフとニコデモの証言があったからこそ、御受難の時に内部で何があったかが後世に伝えられたのだ。さもなければ、わからずじまいだったかも知れない。
 もう一人、内側であったことを証言してくれた人がいたと思う。百人隊長だ。ピラトの裁判では、ユダヤ人たちは過越し祭を汚れなく祝うために、総督の邸内には入らなかった。従って、そこの内部であったことを知りえたのはピラト自身と百人隊長と兵卒だけだった。しかし、その中で後に改宗した可能性のあるのは百人隊長だけだ。彼は主が息を引き取られた時、思わず呟いた。「本当に、この人は神の子だった」(マルコ15;39)と。
 そんな彼だったから、キリスト教信者になったことは大いにありうる。そして、使徒ヨハネに一部始終を語ったとすれば、なぜピラトの裁判の内側がその福音書にそんなにも詳しく書かれているのか、その謎が解ける。このように、ご受難の時、外側にいた弟子たちや婦人たちには、内側でどんなことが進行していたかを知ることはできなかったが、後に改宗した三人のおかげで、-もしそうだったならばだが-それらを知ることができたのだ。感謝しなければならないと思う。

 そもそも福音書はどのようにできたかと考えるとき、私は雪だるまのようにできたのではないかと想像している。雪だるまは初めに核になる玉を作り、それを転がしてだんだん大きくする。福音書もそんな経過をたどったのではないかと思えるのだ。ところで、雪だるまの核になる玉に当たる内容こそ御受難と御復活の出来事だった。それは聖霊降臨の時のペトロの説教でわかる。彼は「ナザレのイエスこそ神から遣わされた方だった。それをあなた方は十字架につけて殺してしまった。しかし、神はこのイエスを復活させられた」(使徒言行録2;22-24)と話した。これは初代教会信仰のエッセンスだったのだ。
 しかし、そのような救い主の死と復活を信じれば、当然のことながら信者たちは主が教えられたことと行なわれたことを知りたくなる。そして、更にどのように生まれ、どのように育ったかも知りたくなる。こうして、初代教会の信仰は主の死と復活から始まり、雪だるまのように福音宣教の時期の教えや事跡、生誕のことへと増幅されて行った。つまり、終わりから初めへと遡ったのだ。そして、それが40年ほどした頃、記述されて福音書となった。
 このような仮説が当たっているとすれば、私たちが福音書を通して主の御受難と御復活を知ることができるのは、ニコデモやアリマタヤのヨセフ、そして百人隊長のおかげでもあるが、御受難の出来事はそれだけがすべてではなかった。「ホサナ」と称えた入城時のこと、ゲッセマネの園で捕らえられた時のこと、大祭司の庭での出来事、ゴルゴタの丘に引き立てられて行った時のこと、十字架につけられて息を引き取られるまでのことなど、他にもたくさんのことがあるからだ。それらのことを伝えてくれた人々も気になる。
 では、それらは誰が伝えてくれたのかと言うと、それは弟子たち、特にペトロとヨハネ、そして泣きながら十字架の道を主について行った婦人たち、十字架を代わりに背負ったキレネのシモンたちだった。ルカだけはこの時、主が女性たちにかけた言葉を伝えている。「エルサレムの娘たち、わたしのために泣くな。むしろ自分と自分の子供たちのために泣け。…生の木さえこうされるのなら、枯れた木はいったいどうなるであろうか」と。こうした彼らや彼女たちがその一部始終を記憶に焼付け、後で語り継いでくれたおかげだと思う。
 主が十字架につけられた時、「婦人たちも遠くから見守っていた。その中には、マグダラのマリア、小ヤコブとヨセの母マリア、そしてサロメがいた。この婦人たちは、イエスがガリラヤにおれられたとき、イエスに従って来て、世話をしていた人々である。なおそのほかにも、イエスと共にエルサレムへ上って来た婦人たちが大勢いた。」(マルコ15;40-41)
 彼らは主がエルサレムに入城されたときは、群衆の中でホサンナと叫んだことだろう。しかし、十字架の下ではおそらく出す声もなく、呆然と遠まきに立ち尽くしていた。十字架の近くを取り巻いていたのは、主を罵り嘲笑う人々だった。主は十字架上で、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と言われた。今もそれに該当する人々がいないだろうか。ほんとうに自分が何をしているかわかっていない人たちが十字架を称える。最後はそれが気になる。
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姦通した女の居場所

 四旬節第5主日の福音は姦通の現場で捕まった女の話(ヨハネ8;1-11)だが、この個所の在り場所については一応知的に考察したから、今度はそのストーリーそのものについて、情のこもった考察をしてみたいと思う。その出来事は次のように始まる。

 「イエスはオリーブ山へ行かれた。朝早く、再び神殿の境内に入られると、民衆が皆、ご自分のところにやって来たので、座って教え始められた。そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、イエスに言った。『先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。』イエスを試して、訴える口実を得るために、こういったのである。」(ヨハネ8;2-6a)

 ヨハネの福音書によれば、この時は仮庵祭の折で、イエス様は隠密裡にエルサレムへ来ておられたのだった。行動パターンは、昼間は神殿の境内などで群衆に話し、夕になるとオリーブ山に行って野宿された。長い衣は毛布代わりのためだったと聞くが、それを思うと、自分が暖かい家に住んでいながら聖書のことを書いていて、申し訳ない気がする。とにかく、主は朝になるとまた神殿に戻る、という日々を繰り返しておられた。その事件が起きたのは、そんなある日の朝だった。
 いつものように境内で話しておられたとき、律法学者たちやファリサイ人たちが一人の女性を連れて来て、群衆の真ん中に立たせ、主に質問を投げかけたのだ。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか」と。群衆は驚き、その女とイエス様を注視し、主がどんな答えをなさるだろうかと、固唾を呑んで見守ったに違いない。状景は想像に難くない。

 しかし、主はすぐにはお答えにならなかった。沈黙があった。だから、その間にある疑問を解いておこうと思う。いったいその女はどうして姦通の現場で捕らえられたのだろうか?という疑問だ。ほとんどの学者はこの疑問に触れていないが、バルバロ師の注解書は触れている。ただそれによれば、姦通の現場を捕らえることは難しいから、彼ら自身が現場で捕まえたのではなく、すでにそういう罪で捕まっていた女を裁判に連行するところだったのではないかという推理だ。
 しかし、私はそうではないと思う。この話の後半を先取りすることになるが、彼らはイエス様の答えを聞くと、一人去り二人去りして誰もいなくなってしまう。しかし、もし役柄かまたは委託を受けて彼女を裁判所に連行する途中だったのなら、そんなふうに裁判前の罪人を置き去りにして行くわけにはいかなかったはずだからだ。それに、彼らのような民間人に罪人の連行を任せたというのも疑問だ。もしそういう連行だったのなら、警吏か役人が引っ立てていたはずだからだ。
 だとすると、すでに捕らえられていた罪人ではなく、その朝、現場を押さえられた女だったという方が妥当だと思う。では、どうして彼らはそういう現場に居合わせることができたのだろうか?私は前からこれを陰謀だったと推理している。何とかしてイエス様を罠にはめようとしていた人々が一計を案じたのだ。ある男に金をつかませて、誘惑に乗りそうな女をひっかけて情事をさせる。あらかじめ場所と時刻を打ち合わせておき、「皆が踏み込んだらお前は逃がしてやる。女を捨てて逃げろ」と身の安全を保証してやる。金が入り、身も安全なら、そんな悪事を引き受ける男もいただろう。弱みのある男に強いてやらせたかも知れない。とにかくこんな手はずで、皆で姦通の現場に踏み込み、女を捕らえる。そして、イエス様に突き出して難問を吹っかけるという企みだ。
 当時のイスラエルではモーセの律法が生きていた。姦通は石殺しにされるリスクのある罪悪だった。普通なら、そんな危険な情事をすぐ人に見つかるような場所でやるわけがない。やるとすれば、誰にもわからない時と場所で、用心の上にも用心して、密かにやったはずだ。だから、朝早くに皆で見つけることなど不可能だっただろう。見つかったとしても、たまたま運悪く誰かに見つかるくらいだったはずだ。そんな場合は発見者が皆に通報に行く間に、逃げられてしまったと思う。また、そういう事件が露見したからと言って、朝早くから皆をすぐ集められるものではない。
 しかし、あらかじめ示し合わせてある企みなら、それは可能だ。何がどこで何時頃行われるのかわかっているのだから、頃合をみて踏み込める。それも皆で揃って行ける。発見を誰かが知らせて回る必要もないし、皆で集まる必要もない。謀議に加わった者たちが、それぞれの自宅から現場に直行すればいいのだ。こう考えると、それが仕組まれた企みだったとすれば、なぜそうも都合よく姦通の現場を押さえられたのか、そしてなぜ女だけが捕まり、男がいないのか、よく説明がつく。その後の彼らとイエス様のやりとりを読むと、この仮説はさらに説得力を増すように思えるだろう。では、この出来事はどんな経過をたどったのか、また福音書の言葉を読んでみよう。

 「イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。『あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。』そして、また身をかがめて地面に書き続けられた。これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。イエスは身を起こして言われた。『婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。』女が、『主よ、だれも』と言うと、イエスは言われた。『わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯しては成らない。』」(ヨハネ8; 6b-11)

 イエス様は黙ったまま地面に何かを書いておられた。何を書いておられたのだろうか?聖アウグスチヌスから現代まで、多くの学者がこの疑問に答えようと見解を述べている。しかし、これぞという答えはない。何を地面に書かれていたのかはわからないが、少なくとも主がその女にではなく、地面に目を落としておられたのは思いやりからだったとは言えると思う。その時、その女は衆目から身を隠すすべもなく、恥辱にさらされてどんなに耐え難く、石打ちの恐怖に怯えて、どれほどわなわなと震えていたことだろうか。彼女の居場所はそこしかなかった。おそらく生活の場にも良い居場所がなくて、誘惑にはまった不幸な女だったのではなかろうか。罪を犯したとは言え、そんな不幸な女を見るに忍びず、主はきっと深く不憫に思われて、目を地面に落としておられたのだと思う。
 J.C.ライルはイエス様が地面に何か書き、しばし答えられなかったのは、自分は裁判官ではないから、判決を言う気はないという意思表示だったと解釈している。それも一理ある。しかし、主は質問者たちの意図を見抜いておられたから、そういう卑劣な問いには答える価値もないことをわからせるために、しばし無言でおられたのだと思う。同時にそんな陰謀に憐れな女を巻き込んだ無神経さに、怒りも感じておられたに違いない。だから、ひょっとしたら、地面にはそういう気持ちを書いておられたのかも知れない。

 ところで、彼らは「モーセの律法はそんな女を石で打ち殺せと命じている」と言ったが、それはレビ記20;10と申命記22;22-29に書いてある。より詳しい申命記で見ると、4つのケースが挙げられている。1)男が人妻と姦通した場合、男女とも死刑。2)婚約している娘が婚約者以外の男と町中で助けを求めず通じた場合、男女とも死刑。3)婚約している娘が野で強姦された場合、男だけ死刑。娘は助けを求めても助けてもらえないのだから無罪。4)男が未婚の娘を強姦する場合、男は娘の父親に50シェケルを支払い、娘を妻にして生涯離婚できない義務も負う。この4つだ。
 しかし、「そんな女を石で打ち殺せ」とは書いてない。罰は男女両方に与えることになっている。どちらかと言えばむしろ男に厳しく、女には理解がある罰則だ。それなのに、彼らが女だけを捕らえてきたことは、片手落ちのそしりを免れない扱いだったのだ。なのに、あえて連れて来たところに、彼らの標的がイエス様であって、女は単なるその目的達成の道具だったことがわかる。そこにも悪がある。いずれにせよ、3)と4)のケースは、この女の場合には該当しない。
 1)のケースもほぼ該当しない。もし人妻なら、夫が告訴人になっていて、イエス様が「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」と言われても、いきり立って耳をかさず、本当に石を投げていたかも知れない。でも主はそうではないことをご存知だったから、あのように言われたのだと思う。それに人妻だったら、夫がいて厄介だから、ファリサイ人たちもそういう人妻を利用しなかっただろうし、人妻もそんなリスクは犯さなかったに違いない。
 だとすると残るは2)だが、なぜ婚約者の男がその場にいなかったのか疑問が湧く。早朝だったし、いると女を利用するには邪魔になるから、彼らは婚約者の男には知らさなかったのだろう。しかし、女からすれば、仮に言い逃れようとして、町中だったが助けを求める前に襲われて、力ずくで犯されたと弁解したとしても、相手の男が逃げてしまっていてはそれを立証できない。彼女のそんな弱みにつけ込み、彼らは彼女を姦通の女として、連行することができたのだと思う。

 彼らの質問は巧妙だった。イエス様がモーセの律法に従わなくてもよいと答えたら、彼らは律法への反逆者として主を告訴できるし、モーセの律法通り石打ちにして殺してよいと答えれば、隣人を愛せよ、人を赦せと教えていた福音と相容れなくなって、人々の信頼を失う。もう一つ、もっと深刻なのは、当時死刑の権限がローマ総督府にしかなかったことだ。主の裁判で、人々が「わたしたちには、人を死刑にする権限がありません」(ヨハネ18;31)と抗議したように、イエスラエル人の律法では石打ちで殺せと命じられていても、殺すことはできなかった。それなのに主が石打ちしてよいと許可すれば、それはローマ皇帝の権限を侵すことになり、こちらも反逆で告訴されるリスクがあった。だから、その質問はどちらに転んでも脱出できない罠だったのだ。
 主が地面に何か書いてなかなか答えないので、彼らは勝ち誇ってしつこく答えを催促した。そこでついに主は身を起こして言われた。「あなたがたの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」と。これは彼らにとってまったく想定外の答えだったに違いない。彼らは意表を突かれて、凄い衝撃を受けたと思う。誰も言い返せなかった。もちろん、石打ちの行動にも出られなかった。そして、年寄りから始めて一人去り二人去り、ついに誰もいなくなったのだった。

 J.C.ライルは「罪のない者」について、多くの学者はそれを罪全般だと解釈しているが、自分は女と同じモーセの7戒に反する罪を犯した者だと考える。なぜなら、罪全般を指すなら、罪のない人は誰もいないから、裁判ができる人もいなくなってしまうからだ、と書いている。それも一理あるが、しかし、すべての人が姦通の罪を犯しているわけではないから、もしその意味だったら、その女を連行してきた人たちの中にそういう人がいた場合、石打ちを許してしまうことになっただろう。それはあり得ないから、イエス様はそう言われたのだ。だから、やはりこれは罪全般を指すと解釈すべきだと思う。裁判官が人を裁けるのは自分が完璧だからではなく、役目だからだ。
 しかし、罪の中でも人を陥れる罪、隣人を苦しめる罪は重い。ところで、「あなたがたの中で罪を犯したことのない者が」と言われたとき、彼らが一番先に思い当たったのはその2つの罪だったのではなかろうか。そもそもイエス様を陥れようとして仕組んだ、その企み自体にやましい思いがあっただろう。そして、その悪意ある計画のため一人の女を酷い目にあわせた良心の呵責もあっただろう。罪全体を思い出せなくても、今行なっているアンフェアな2つの罪の自覚があったからこそ、彼らは強く思い当たることがあって、こそこそと退散したのではなかろうか。
 彼らが立去った理由はもう一つあったと思う。律法に通じていた彼らは、「罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を…」という主のお答えですぐ思い出したに違いない。申命記17;5-7には、「死刑に処せられるには、二人ないし三人の証言を必要とする。…死刑の執行に当たっては、まず証人が手を下し、次に民が全員手を下す」と書いてあるからだ。だから、自分たちが証人になるなら、真っ先に石を投げなければ成らない。しかし、証人となれば、「裁判人は詳しく調査し、もしその証人が…偽証したということになれば、彼が同胞に対してたくらんだ事を彼自身に報い…」(申命記19;18,19)ともあるから、もし詳しく調査されて陰謀がばれたら、それこそ自分たちが危ない。そう気付いたからでもあると思う。謀略の仮説で推理すると、彼らの去った意味もよく納得できる。

 彼らが去った後も、主の話しを聞いていた人たちは、どうなることやらと成り行きを見守っていたからその場に残っていた。しかし、「イエスひとりと、真ん中にいた女が残った」という一言は、私に「あ、その女性がいたんだ」と、もう一度彼女に目を向けさせ、ある種の不思議な印象を与える。ということは、律法学者やファリサイ派の人々とイエス様のやりとりがクローズアップしてしまっていて、彼女の存在が一時わきに押しやられていた感じだからだ。
 でも彼女はずっとそこに立っていた。そして、主の答えの一言で、自分を捕らえて来た人たちが一人去り二人去るのを見ていた。その時、彼女の心の中には、死の恐怖に慄いていた状態から、主のおかげで救われていくという安堵と感謝の状態へ、静かな変化が起こっていたのではなかろうか。彼女にとって信じられないことが起こったのだが、それは恵みの時であった。彼女の立っていた大地はもう死しかない居場所ではなかった。そんな瞬間に交わされた主と女の短い会話は、私に深い感動を与える。
 「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」
 「主よ、だれも。」
 こんなにいたわりのこもった言葉が他にあっただろうか。少なくとも彼女はそれがわかって、胸が詰まり、「主よ、だれも」以上は言えなかったのだろうと思う。そこには女の心の傷を癒す神様の手があった。傷は手当てするというが、まさに恥辱と後悔と恐怖で深い傷を負った女の心に、イエス様は神様の手を当てて癒された。おそらく、主はこの出来事で、彼女の救いを一番心にかけておられたと思う。それが、「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯しては成らない」という励ましと戒めのお言葉ににじみ出ている。
 J.C.ライルはこの点について、「ただ主はこう言われただけである。『わたしはあなたを罰しない。さばくことや判決を言い渡すことは、わたしの領分や職分ではないのである。』また主は、彼女がその名誉に傷や汚点をつけることなしに立ち去ってもよい、と言われたのでもなかった。その反対に、主は彼女が罪を犯し、有罪であることをほのめかされたのである。しかし、証人がいないからには、彼女は刑罰なしに立去ってもよいのである。」(福音書購解2巻282ページ)と書いている。
 これには教えられるところもあるが、名誉に傷や汚点は残ったままだとか、有罪だが証人がいないから罰を決められないので去ってよいとか、法律的な解釈のニュアンスが強すぎる。これではイエス様の本当の心を解釈してはいないと思う。そんな理解だったら、女は救われた上に癒されたとは感じることができなかっただろう。確かに彼女は「罪を赦してください」とは言わなかった。だから、主も「あなたの罪は赦された。安心して行きなさい」とは言われなかった。
 でも、あの場合の女は、そんなことを言えないほどのショックを受けた後だった。だから、消え入るような声でたった一言、「主よ、だれも」と答えた。イエス様はそれだけで、彼女が罪を悔いていることをおわかりになったのだと思う。「あなたの信仰があなたを救った」というケースではなかったが、主は彼女をただ罰されずに去ってよいとだけ言われたのではない。彼女の罪を赦し、魂を癒して去らせたのだ。主は救いのために来られたのだからだ。「行きなさい。これからは罪を犯してはならない」とは、神の恵みの中に新しい生き方をしなさいという励ましだった。私はそう解釈する。

 この個所の解説書を読むと、総じてそれがもともとヨハネの福音書にあるものかという聖書学的問題や、イエス様の「罪のない者が・・・」というお答えなどにばかり注目し、その女のその後をあまり気にかけていない気がする。それは主を罠にはめるために彼女を利用した律法学者やファリサイ派の人々とは逆だが共通してもいる。イエス様の素晴らしさがわかれば、女はどうでもよいという受け止め方だからだ。しかし、主が本当に心にかけたのはその女性のことだったと思う。
 では、その後の彼女はどうなったのであろうか?それは想像するしかなく、誰にもわからないが、この個所がもともとヨハネの福音書にはなかったものだとしたら、そこに彼女のその後を知るヒントがあるかも知れない。バルバロ師はこの個所をルカ的だが、ルカでもヨハネでもない人が書いたのかも知れないと言っている。いずれにせよ、この出来事がこんなにリアルに書き残されたことは、誰かの証言があったからこそではないだろうか。では誰がそれを証言したのだろうか?
 使徒たちもこの場面を目撃していたから、もちろん使徒ヨハネが書いた可能性はある。しかし、ルカか他の人が書いたのなら、それは誰かから聞いたのだろう。私はその誰かがこの女性だったと想像する。彼女は後に初代キリスト教会に改宗し、罪を償い、主の恵みを讃えるために、自分の恥ずかしい過去を告白した。だからこのエピソードが伝わったのではないだろうか。当人が話したのなら、それほど確かなことはない。実際、当事者でなければ語れない臨場感のあるその時の会話が、一生忘れないその日の事実を裏付けていると思う。
 私は彼女が主の福音を信じ、その後は見事に人生を生き切ったと信じたい。主は多く赦された人は多く愛するといわれたが、彼女もそうだったと思うからだ。あの日の彼女は、一度は死んだのも同然だった。そこを主に救っていただき、生きることができた。その恩恵を彼女は生涯忘れなかっただろう。そして、決して人を裁かなかっただろうとも思う。かつて彼女の居場所は死の恐怖を伝える足下の土の上しかなかった。しかし、その後は神の愛が彼女の居場所になったに違いない。

「姦通した女」のエピソードのあり場所

 四旬節第5主日の福音はヨハネ8;1-11で、姦通の現場で捕まったという女性の話だが、この個所ももう何回か取り上げたことがある。しかし、話の内容とは別に、福音書の中で最も大きな聖書学的難問がある個所だということを思い出したので、久しぶりに手元の注釈書を何冊か読みくらべてみた。
 難問とは、この個所はもともとヨハネの福音書にはなかったのではないかという疑問と、そこから派生するいくつかの疑問群のことだ。派生する疑問には、もしそうだとすれば元はどこにあったのか?福音史家ヨハネが書いたものではないとすれば誰が書いたのか?真正な福音書の一部としての信憑性はあるのか?教会はそれについてどういう指針を出しているのか?等がある。知的な訓練にいいから、ここでもう一度簡単に、それを整理しなおしておこうと思う。

 この個所がもともとヨハネの福音書にあったものではないと考える学者は少なくない。シュルツなどはそれを明白な事実のように断定している。ある学者はもっと慎重だ。おそらくそれはルカの福音書に入るべきものが、福音書編纂の過程で何らかの手違いにより、ヨハネの福音書に紛れ込んだか、あるいはどこに入れていいか決めがたい資料だったので、現在の場所が適当かと判断し、意図的にそこに入れたのかも知れない。彼らはそういう可能性を否定できないと考える。
 それを前提にすると、当然それはヨハネが書いたものではないということになる。だから、内容から見てルカが書いたのではないかという学者もいれば、ヨハネでもルカでもない、他の誰かが書き残した資料を福音書に入れたのではないかという学者もいる。そして、もし福音史家でない誰かが書いたのだとすれば、その場合は信用に足る真正の福音書の一部分と言えるのか、つまり信憑性があるのかという問題になるが、この点では否定的な見解の学者はいないようだ。
 それに対し他の学者たちは、いや、ヨハネがこの個所を書いたことを疑うに足る十分な理由はないと考える。当然のこととして、この個所がヨハネ福音書の現在の場所にあることは妥当だと擁護し、信憑性も疑問視する理由はないと見る。ジョン・C・ライルなどはその一人だ。彼は疑問派と擁護派の教父や学者たちのリストを挙げているが、そういうすべてを調べる時間も力もない者にとっては便利でありがたい。そのリストを見ると、どちらかといえば、有力な教父を初め、学者の数でもまさり、教会のお墨付きがある擁護派の方に分があるようだ。
 そもそもこの問題は重要な古い写本の多くに、この個所が欠けていることから始まった。そういう貴重な写本聖書にアクセスできない身としては、解説書を信用するしかないが、たとえば、バルバロ師の注解によれば、最も古いギリシャ語のシナイ写本、シリア語、エジプト語、アルメニア語の古い翻訳写本にもないそうだ。それに、テルトゥリアヌスや聖チプリアヌスなど、初期の教父たちがこのエピソードに触れてないとことも、この疑念を強めている。彼らが言及していないことが、ただちに福音書に欠落していたという証明にはならないが、もともとなかったから触れなかったのだという理屈も成り立つからだ。
 その文書スタイル、テーマ、用語がヨハネのものらしくないことも、そもそもヨハネの福音書にあるべき記事ではないのではないかという疑問に拍車をかけている。例えばテーマでは、このエピソードが皇帝への納税は是か非かの議論(ルカ20;20-26)や、死後の7人兄弟とその嫁の問題(ルカ20;27-40)などと似通っていて、ヨハネ的ではないことが挙げられる。また、「律法学者たちやファリサイ派の人々」という言い方はヨハネが使わない用語なのに、ヨハネの福音書でたった一度だけここに出てくる。それは本来ヨハネのものではないことの証拠ではないかというのだ。
 しかし、そういう見方に対する反論は、この個所が載っていない写本もあれば載っている写本も同じくらい多くあること、聖アンブロジウス、聖アウグスチヌス、聖ヒエロニムスなどの有力な教父が著作でこのエピソードに言及していること、多くの現代聖書学者たちもその見解を支持していることなどを挙げる。バルバロ師はこの個所がヨハネによるものではないという見方には同調するが、それがヨハネの福音書の欠かせない一部分であり、霊感を持って書かれたことを宣言したトリエント公会議の決定には従うべきだと勧めている。これは妥当な見解だと思う。
 聖書学者の末席にも価しない者だが、私もこの個所はルカ的で、聖書編纂の時にまぎれ込んだ結果ではないかと思っている。しかし、その真偽は結局証明できない事柄だから、エンドレスに議論しても無意味だ。それに比べ、この個所が元はルカ21節38節に続いていた可能性があるという指摘は興味深く、もう少し目を近づけて調べてみる価値がある。少なくとも、それをつき合わせると、ヨハネとルカの両福音書がよりよく理解でき、イエス様のエルサレムにおける行動パターンもはっきりわかる。それだけでも意味があるから、以下その点を具体的に見てみる。

 ルカ21章37-38節にはこう書いてある。「それからイエスは、日中は神殿の境内で教え、夜は出て行って「オリーブ畑」と呼ばれる山で過ごされた。民衆は皆、話しを聞こうとして、神殿の境内にいるイエスのもとに朝早くから集まって来た」と。ところで、これは過越祭のすぐ前の記述だ。イエス様はすでにエルサレムに入城し、日中は都の中心にあった神殿の境内で教え、夜は城外のオリーブ山へ行って、野宿するという生活を繰り返しておられたわけだ。民衆はそれを知っていたから、朝早くから神殿の境内に集まって待っていたのだった。
 そこで、これを「人々はおのおの家へ帰って行った。イエスはオリーブ山へ行かれた。朝早く、再び神殿の境内に入られると、民衆が皆、ご自分のところにやって来たので、座って教え始められた」(ヨハネ7;53-8;2)とあるのとつき合わせて見ると、どうなるだろうか?ルカはエルサレム入城後のイエス様の行動パターンを描写したのだが、ヨハネはそういう日々の中のある日、姦通の女が連れて来られた前日の夕と、当日の朝のことを書いたのだと言えるだろう。
 つまり、その前日もイエス様はいつものように夕暮れになるとオリーブ山に行かれ、民衆もそれぞれの家に帰って行った。そして、翌朝早く、イエス様がまた神殿の境内に行かれると、民衆がもう待っていたので、主はいつも通り教え始められたのだ。だから、ルカ21;38の後にヨハネ8;2-11をつなげると、ストーリーが実によく合うことがわかるというわけだ。それは、すでに述べたように、おそらくそれが元の姿だったのだろうということを推定させる。
 他方、ヨハネの福音書7章は、イエス様が仮庵祭の折にエルサレムへ隠密裡に上り、神殿の境内で話されたことを伝えている。8章はその続きで、ご自分が「生きた水」、「世の光」、「人を自由にする真理」であることなどを話された。そこに「姦通の女」の出来事が割って入っても別に違和感はないが、テーマから見るとやはり質的に異なっていると思えなくはない。
 他方、雰囲気はずいぶん違う。仮庵祭では、祭司長やファリサイ派の人々は下役を派遣して、イエス様を捕らえようと企てたし、話の最後でもまた石殺しにしようとした事実がある。相当露骨に、力ずくの方法でイエス様を捕らえようとし、殺気立ってもいたことがわかる。ところが、「姦通の女」のエピソードではそんなに険悪な雰囲気ではなく、力ずくの方法にも訴えていない。陥れようとはしているが、議論によって告訴の言質を得ようとしていた。前後が暴力的なのに、中間のこの話の時だけ、それも表面的にはかなり紳士的に、議論で挑んだと言うのはやはり整合性が欠けると言わざるを得ない。ところが、それを一方は仮庵祭の時のことであったが、「姦通の女」の話の方は過越祭の時のことであったと区別すれば、雰囲気や対抗方法の違いはかなりよく説明がつく。
 結論として、「姦通の女」のエピソードのあり場所は、こうまとめられるのではなかろうか。仮にヨハネの8章からこのエピソードを抜いて、ルカ21節38節の後に移しても、多くの人はそれほど大きな穴が開いたとは感じないのではないか。ある意味では、このエピソードで中断されない方が、ヨハネ福音書における仮庵祭の時のレベルの高い議論が、むしろ一貫するように思えなくもない。逆に、もしこの話がルカ21;38の後に続いたとしても、私たちは何ら違和感もなく読んでしまうのではないだろうか。
 だから、あくまでも仮定の話しではあるが、もしそうなるなら、それでもいいとは思える。しかし、現行の福音書はそれとは違って、このエピソードはヨハネの福音書の8章にある。では、それでは何か不都合があるかと言うと、そんなことは何もない。だからそれに不満を言う信者もいない。今のままでいい。そして、それが霊感を受けて書かれた真正の福音の話であることにも何ら変わりはない。
 それは「姦通の女」のエピソードの在り場所の問題で、「姦通の女」の居場所の問題ではない。このエピソードは私たちに解決し尽くせない聖書学的問題を提示するが、それ以上に、きわめ尽くせない神の慈しみの深さを伝え続ける記憶なのだ。

放蕩息子の一言の波紋

 四旬節第4主日の福音はルカ15章にある放蕩息子の譬えだ。これは全福音書の中でも5指に入る見事な譬だと思う。ルカの文才によるところも大きいが、何よりも内容そのものが卓越しているからだ。それはまさに全聖書に現われた神様の心と救いの業、そして、それに対する人間側の対応を要約している感がある。譬の中の父親は父である神様、弟は罪を悔いて神様に戻る罪人、兄は神様のもとに留まっていた表向き「正しい」人を表している。
 この譬が話されたきっかけは、ファリサイ人や律法の学者たちの不満にあった。彼らはある日、イエス様が徴税人や罪人たちを快く迎え、食事まで共にするのを見て、不満と不快のあまり文句を言った。こんなダメ人間どもをなぜ厚遇するのかと思ったのだ。そこで主は3つの譬を話してお答えになった。「見失った羊の譬」、「なくした銀貨の譬」、「放蕩息子の譬」だ。いずれも神様がいかに罪人の改心を望み、彼らが戻って来ることをどんなに喜ぶかをわからせる譬だった。

 この主日の福音で読まれるのは放蕩息子の譬だけだ。しかし、それはもうたいていの人にはよく知られている。私自身ももう何度それについて書いたり語ったりしてきたことか。だから、もう飽きたというわけではないが、今回は話の大筋や注釈は省き、その中から私の注意を惹いた一言だけを抜き出して、それが起こす波紋をあれこれ考察してみたいと思う。
 では、その一言とはどれかというと、「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました」(ルカ15;18)という言葉の後半、「お父さんに対しても罪を犯しました」という一言だ。なぜこれが注意を惹いたかと言うと、天(神様)に対してだけでなく、人である父に謝っているからだ。こう言うと、そんなことは当たり前じゃないか。自分の非に気づいたら謝るのは当然。そのどこが注目に値するのかと異論を唱える人がいるかも知れない。
 ところが、実はそれは必ずしも当たり前ではないのだ。もちろん日本の社会では、悪いことをしたり自分に非があったりしたら、謝るのは常識だ。最近で記憶に新しいのは、トヨタの豊田章男社長が車のリコール問題で、米議会の公聴会に出席し、弁明とともに謝罪した出来事だ。日本では公的な責任を追及されて、公式な謝罪をするケースが少なくない。数人が揃って深々と頭を下げる光景は情けない感じのする時もあるが、とにかく謝罪会見はよくある。しかし、キリスト教世界では、どうも人に謝ることは当たり前とは言い難いと思えるふしがあるのだ。
 それで私は、キリスト教信者とはひょっとして、謝りたがらない人種なのだろうかと疑問を抱いた。もちろん、ちゃんと謝れる人もいる。教皇パウロ6世やヨハネパウロ2世は、ユダヤ教徒やプロテスタント教会に対して、カトリック教会が非寛容であったことや、ナチスの暴虐を黙認したことなどを詫びた。これは非常に勇気の要ったことで、実行した教皇様たちは偉かったと私は誇りに思っている。しかし、個々の司教区や小教区となると、不祥事が起こっても謝ることが少なく、むしろ隠蔽したがる。司祭が信者たちの抗議を受けて実質的に転任を余儀なくされても、過ちを詫びて去ることはないし、抗議者たちを抑えた役員たちが兄弟たちを苦しめて悪かったと詫びることもない。
 そこで数ヶ月前だが、どうしてそうなのか、ひょっとすると聖書の教えがこの点で不十分だからだろうかと疑問を持ち、少しばかり調べてみた。そしたら、人に謝ることは聖書においては十分に書かれていない事実がわかった。ショックだった。ところが、そんな中で、この譬の父に詫びる一言は、人に対する謝罪の純粋で稀な一例に数えられる。だから私の注意を惹いたのだ。
 
 私が聖書を調べた目的は、「悪を行なったら人にも詫びよ」という教えや、「人に赦しを乞う」実例が、どのくらいあるかを探し出すことだった。だが、全聖書を短期間に読破することは不可能だから、聖書語彙辞典に当たる英語と日本語のコンコルダンスで調べる方法を取った。その結果、聖書には人が神様に赦しを乞う例や言葉が、枚挙に暇のないほどあること、神様が人を赦す場合も同様で非常に多いこと、また、「人が人を赦す」という教えと例も、「人の過ちを赦すならば」(マタイ6;14)とか、「七回どころか、七の七十倍までも赦しなさい」(マタイ18;21)のように、非常に多いことなどが確認できた。ところが、人が人に赦しを乞う例と教えは、あまりにも僅かしかなかったのだ。それが次の驚くべき結果だ。
 日本語のコンコルダンスでは、「あやまる」、「赦しを乞う」、「謝罪する」、「ごめんなさい」を調べてみた。すると、何と「あやまる」は項目自体が存在しなかったのだ!「あやまち」はあるが、4つの例は「人への謝罪」に該当しないものばかりだった。「謝罪する」も項目がなかった。「赦しを乞う」では、「ゆるせ」の項目にたった一箇所、太祖ヤコブがヨゼフに「どうか兄たちの咎と罪を赦してやってほしい」(創世記50;17)と言った言葉が該当した。その他は皆無だった。
 ただ、コンコルダンスでは見つけられなかったが、私が暗記していた該当個所は三つあった。一つは創世記33;3にある弟ヤコブと兄エサウが再会した場面だ。ヤコブは兄のもとに着くまでに七度地に平伏したとある。長子の権利を盗んだ負い目があったからだ。言葉はないが、これは行動で赦しを願った例だと言えよう。二つ目は、「兄弟が自分に反感を持っているのを思い出したなら、その時は供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし…」(マタイ5;23-25)という個所だ。謝らなければ仲直りはできないだろうから、これは含蓄的に「赦しを乞う」ことを教えられたと解釈していいだろう。そして、もう一つはまさにこの主日の福音ルカ15章の放蕩息子の一言だ。
 日本語のコンコルダンスは不完全なので、英語のコンコルダンスでも調べてみた。対象の見出しは、Apologize, Apology, Pardon, Forgiveだった。Apologizeはトヨタ社長も米議会の公聴会で使った言葉で、謝意が一番強いと聞いていたから期待したが、開いてみたら、何とこの言葉それ自体が存在しなかった!これは大きな驚きだった。Apologyもなかった。Pardonでは該当個所がたった1ヶ所、サム上15;25にあった。そこでは、サウル王がサムエルに「わたしの罪を赦し」(Pardon my sin)と言っている。
 Forgiveでは、日本語コンコルダンスで挙げた例の他に、該当する2ヶ所が見つかった。一つは出エジプト記10;17で、ファラオがモーセたちに「あなたたち対しても、わたしは過ちを犯した。どうか、もう一度だけ過ちを赦して…」という個所、もう一つはルカ17;3で、「もし兄弟が…一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい」という個所だ。

 以上はざっと調べた結果だが、これだけ見ても、人に詫びる例がいかに少ないかが十分わかる。そこから引き出せる結論は何かと言うと、聖書とキリスト教の教えでは、罪悪は何よりも神様に対する背反だから、犯したら神様に赦しを願わなければならないこと、神様は慈しみ深いから赦しを与えること、そして特に新約では、神様が赦してくださるように、人も他人の罪や過ちを赦してやらなければならないこと、等が強調されていることだ。ところが、人に謝ることの当然さや必要性はほんの僅かしか書かれていない。だからその意識も薄い。そういう結論になる。 
 詩編51はその好例だと思う。その6節には「あなたに、あなたのみにわたしは罪を犯し、御目に悪事と見られることをしました」とある。これはダビデ王が人妻バトシェバを奪い、その夫ウリヤをわざと激戦地で死なせた後、預言者ナタンにその罪を責められて初めて気付き、口にしたという詩の一節だ。彼は神様に罪の赦しを願った。しかし、神様にだけ罪を犯したと言っている。死なせたウリヤには一言の謝罪もないのだ。
 ヨセフへのヤコブの遺言、サウル王の謝罪、エサウの前に平伏した弟ヤコブ等の事例は僅かにあったが、それらもよく見ると罪や悪を心から詫びたと言うよりは、自分の不利にならないためとか、復讐を避けるためとかの損得勘定で詫びていた感が強い。少なくとも、旧約時代は人に心から謝るというメンタリティが非常に希薄だったように思われる。詫びることは弱みを見せることだから、出来る限り謝ろうとしなかったのだろう。そう言えば、アダムとエバも神様に対してさえ素直に謝らず、罪を他者になすりつけようとした。
 イスラエル人は「かたくなな民」(出33;3)だった。神様にさえ首を縦に振らない強情な人々が、他人にそうやすやすと頭をさげるはずがない。日本人とは違う。だから、旧約時代の神様は彼らをしつけるために、人を赦すことや人に詫びることはさておき、まず、せめて神様に赦しを乞うことを学ばせたのだろうと思う。新約になっても弟子たちや民衆はその気質を受け継いでいたから、イエス様は人を赦すことはたくさん教えられたのに、それに比べて人に謝ることはあまり強調なさらなかったのかも知れない。あるいは、けっこう話されたが、福音史家が記録しなかった可能性もある。その結果、キリスト教もその信者たちも、人には謝らない傾向が強いのだろう…と思えた時、私は大変なことに気付いてしまったと思った。

 ある集まりの折にそのことを話したら、キリスト教信者でない一人の方が言った。「簡単に赦してしまうからですよ」と。なるほど、謝らなくても赦すから、甘く見て謝らないのだという論理には一理あると思った。しかし、当のキリスト教信者たちは誰も反論しなかった。ジレンマがあったからだろうか。赦せとはイエス様の大事な教えだが、自分たちは赦せていない。だから、敵までも赦さなければならない。赦しすぎることはないのだと反論したくても、自分は敵どころか、信仰における兄弟すら赦せないでいるから反論できないというジレンマだ。
 しかし、よくよく考えてみると、福音書には人に謝ることは少ししか書かれていないが、実際は、イエス様の教えにはもうそれがちゃんと入っていたことがわかる。なぜなら、主の教えでは、神様に罪の赦しを願うことは人への謝罪も含むことになるからだ。例えば主の祈りで、「私たちの罪をお赦しください。私たちも人を赦します」と祈るとき、赦してもらうことと赦すこととはペアになっている。赦しを人に願う気もないなら、人を赦せるはずもない。人を赦せる人とは、「神様が赦してくださるように、あなたも私を赦してください。私も赦しますから」と含蓄的に言っているに等しいのだ。
 従って、イエス様は「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈れ」(マタイ5;43,44)、「人を赦しなさい。もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない」(マタイ6;15)、と教えられたが、この優れた教えの裏側には「だから罪を犯したら、人にも赦しを乞いなさい」という勧めが込められていると理解すべきだろう。人にごめんなさいと言えないのは、簡単に赦してしまうからというより、イエス様の勧めをちゃんと受け止めていないからだと思う。
 それを理解したからこそ教会はミサの始めに回心の祈りを置き、私たちはその中で「全能の神と、兄弟の皆さんに告白します」と表明するのだ。これは放蕩息子が「天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました」と詫びようとしたのと同じだ。私たちはここで神様だけにではなく、人にも詫びる。ところが、私たちは常々それをあまり意識せず、暗記した言葉をすらすら唱えるだけで済ませてしまっていないだろうか。問題は私たちの意識にある。
 「簡単に赦してしまうからですよ」という言葉で、もう一つ考えさせられたことがある。この場合は当たっている。キリスト教信者は神様の前で罪を告白し、赦しの秘跡で赦しをいただく。それは素晴らしい恵みだ。問題は、神様から赦しをいただくと、もうそれで済んだ。赦されたのだからもう人に負い目はない。自分は教会に留まっているまっとうな信者だと思ってしまいがちなことだ。それだと、帰って来た放蕩息子の弟に父の財産を食いつぶした奴めと、拒絶反応を示した兄のようになる。自分たちは正しい、と思い込んでいたファリサイ人たちはまさにそれだった。
 いわゆる「よい信者」は一歩まかりまちがうと、彼らのような偽善者―というよりも「善魔」―になりかねない。もし意に沿わない信者を白眼視したり、異論を言う信者を除け者にしたりする教会があるとすれば、そこの「よい信者たち」や司祭は、ファリサイ人たちや律法学者たちに似てしまうことになる。なぜなら、イエス様は放蕩息子の譬を話されたとき、罪人や徴税人たちをかばって彼らの側に立っておられたのに、そういう人々は、罪人や徴税人を差別したファリサイ人たちや、律法学者たちと同じ見方に立っていることになるからだ。

 では、非があったり悪を犯したりしてしまった場合、人はどうしたら詫びることができるのだろうか?爺婆馬鹿と言われるかも知れないが、家内が幼稚園では今孫娘の発案した「ごめんなさい」語がはやっている、という面白いエピソードを話してくれた。どんなことかと聞いたら、時々園児の間で喧嘩や意地悪が起きるので、仲直りさせるために孫娘が一計を案じたらしい。それは「1,2,3,4で5めんなさい!」という言い回しだそうだ。ところがそれが受けて、「今評判なんだよ!」ということだった。
 聞いてなるほど、名案だ。これなら喧嘩が遊びに変身して、みんなで笑って仲直りできる。幼児は偉い!と感心した。しかし、大人の世界はそう単純にはいかない。そこに難しさがある。だからこそイエス様は、「子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」(ルカ18;17)と言われたのではあるまいか。となると、赦し赦されることも、幼子の心を持つことが鍵なのだろう。しかし、謝る気持ちを口に出して言うことが難しいのなら、、せめて心の中で、「1,2,3,4でごめんなさい」ぐらいは言えるのではないかと思う。
 放蕩息子が「天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました」と言おうと決心できたのも、子供心を取り戻せたからかではないかと想像する。金の切れ目が縁の切れ目で皆に見捨てられ、どん底の窮状にあったとき、彼には子供のころ父親に遊んでもらい、慈しんでもらった数々の思い出が蘇ったのではあるまいか。愛されていた幸せな記憶があったればこそ、彼は父のいる故郷へ帰ろう、そして父に謝ろうという気になれたのだと思う。教会でも愛された記憶がなければ、離れた信者は戻らない。回心して戻るには、かつて愛されていた記憶、今も愛されているという信頼が欠かせないのだ。

神様の御名は?

 モーセは神に尋ねた。「わたしは、今、イスラエルの人々のところへ参ります。彼らに、『あなたたちの先祖の神が、わたしをここに遣わされたのです』と言えば、彼らは、『その名はいったい何か』と問うにちがいありません。彼らに何と答えるべきでしょうか。」 
 神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしを遣わされたのだと。」 
 神は、更に続けてモーセに命じられた。「イスラエルの人々にこう言うがよい。あなたたちの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である主がわたしをあなたたちのもとに遣わされた。これこそ、とこしえにわたしの名。これこそ、世々にわたしの呼び名。」

 四旬節第3主日の第二朗読は出エジプト記3;1-15だが、上掲の言葉はその13-15節に当たる。この個所は何度読んでも知的好奇心を刺激する。とりわけ三つのことが興味を引く。燃えても燃え尽きない柴の神秘、エジプトへの派遣について交わされたモーセと神様の駆け引き、そして神様が明かしてくださった自らの御名の三つだ。しかし全部を取り上げるのは無理だから、ここでは神様の御名だけに絞り、ボケ防止の知的訓練として、楽しみながら考察してみようと思う。

 私たちキリスト者が、神様の御名という言葉に触れる機会は、少なくとも2つはある。一つは主の祈りで、「御名が聖とされますように」と祈る時だ。これはずいぶん頻繁に口にする。もう一つはたまにかも知れないが、モーセの十戒で「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない」という戒めを思ったり、告解前に糾明したりする時だ。その他にも「ハレルヤ。賛美せよ、主の御名を」(詩135;1)のように、この言葉には聖書の中でしばしばお目にかかる。
 ところで、その御名が初めて明かされたのが、まさにこの出エジプト記3章なのだ。それは学問的探究の結果や、宗教的修行の到達点として見出されたのではなく、羊飼いモーセが、ある具体的な生活状況の中ではからずも体験した、神様の打ち明けによるものだった。そこに聖書における神様の御名の啓示の大きな特徴がある。そこで、それがどんな状況の中でなされたのかを理解しておくために、とりあえずその前後関係を要約しておこう。

 そこに登場するのは聖書の神様とモーセだけだ。後に偉大な預言者となるモーセはイスラエル人だったが、奇しくも赤子の時からエジプトのファラオの娘のもとで育てられた。しかし、長じてからのある日、彼は同胞を虐待しているエジプト人を打ち殺してしまった。その追及を恐れた彼はシナイ半島に逃げた。そして、そこで縁あって土地の族長の娘と結婚すると、子までもうけ、長い年月を単なる羊飼いとして平穏に暮らしていたのだった。
 ところがある日、羊の群れを追って神の山ホレブまで行ったとき、彼は一叢の低潅木が燃え上がっているのに、いつまでも燃え尽きないでいる不思議な光景を見た。どうしてだろうと思って近づいたとき、彼は自分を呼ぶ声を聞いた。その声は、ここは聖なる場所だから履物を脱げと命じ、続けて「わたしはあなたの父の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」と言ったのだった。モーセは恐れて顔を覆った。彼らは神を見ると死ぬと信じていたからだ。
 すると声は、エジプトで苦しむわたしの民を救うために、「あなたをファラオのもとに遣わす」と言った。モーセはとっさにその役目から逃れようとして、あれこれと支障の口実を並べ立てた。しかし、声の主が彼の言い訳をみんな潰してしまうので、彼は嫌でも引き受けざるを得ない羽目に追い込まれた。もう言い訳が尽きたかに見えたとき、彼は冒頭に掲載したように、しばし服従の姿勢を示し、「わたしは、今、イスラエルの人々のところへ参ります」と言ったのだった。

 だが彼はなかなかしたたかだった。実はこの時まだ、使命から逃げることを諦めてはいなかったのだ。彼は声の主に言った。「彼ら(エジプトにいるイスラエル人たち)は、『その名はいったい何か』と問うにちがいありません。彼らに何と答えるべきでしょうか」と。それは、「彼らにそう聞かれても、私はあなたの名を知らないのですから、答えようがありません。答えなければ彼らは私を信用しないでしょうから、使命は果たせません。使命が果たせないのなら行っても無駄でしょう?だから行くのは勘弁してください」という論法だった。 
 そう言えば神様が、「なるほど、お前の言うことももっともだ。わかった。この話はなかったことにしよう」と言ってくれるのではないかと期待したのだろう。古代社会では、名を知るということはその名のついたものを把握すること、つまりその上に支配権を持つことだとされていた。だから、モーセはよもや神が自分の名を教えることはあるまい、と思ったのではあるまいか。名を教えてもらえなければ使命は果たせないのだから、エジプトに行かなくても済むと踏んだのだと思う。
 ところが、神様は名を明かされた。「わたしはある。わたしはあるという者だ」と。モーセは期待が外れた上に、どんなに驚いたことだろうか。しかし、ここに初めて神様の御名が啓示されたのだ。それは聖書の中で屈指の出来事だった。ところが、その時はそんな重大なことの証人になっているとも気付かず、モーセはまだ逆らって(出4;1-13)、私は口下手だからとか、誰か他の人を見つけてくださいとか、何とかして役目から逃がれようと悪あがきしていた。しかし、ついに神様の声が怒気を帯びてきたとき、彼もやっと観念して使命を受け入れたのだった。
 彼のこの一連の言動を読むと、実に人間的で面白い。預言者たちには神の呼び出しに進んで応じた者と、使命を嫌がって逃げまくった者の2つのタイプが見られるが、モーセはまさに後者の典型的な元祖だった。これも知的好奇心をそそる話題だが、今私の一番の関心事は神様の御名だから、他の話題にはこれ以上立ち入らず、御名が啓示された文脈の要約もここまででよしとしよう。

 ここからは神様の御名についての考察だが、聖書には出エジプト記の前の創世記にも「神は天と地を創造された」(創1;1)などと、「神」という言葉がいっぱい出てくる。それを見て、神はもうちゃんと名があるのではないのか、と疑問を持つ人がいるかも知れない。しかし、まずここで、「神」という言葉は神様の名ではないのだ、ということを確認しておかねばなるまい。例えば、私は人だが、「人」という普通名詞は私の名ではない。それと同じように、「神」という普通名詞は神様の名ではないのだ。
 私が人だという場合、「人」とは私を動物や植物等々から区別するための普通名詞にすぎない。私は余生風佐藤という名の人であり、「名前」は私を山田さんや川口さんなどの他の人から区別する固有名詞なのだ。神様の場合も同じで、「神」とは人、動物、山川草木、日月星等々から区別する普通名詞であって、名ではない。他方、日本では神々がいると信じられているが、神の名とはその神々につけられた固有名詞を言う。例えば、ある神の名は天照大神、ある神は毘沙門天、ある神は恵比寿などと呼ばれる。 
 西洋でも、ギリシャ・ローマ神話は日本の八百万の神々に似て多いから、神の名も神々の数だけある。ある神はゼウス、ある神はアポロ、ある神はポセイドンなどと言う名であり、エジプトの太陽神の名はラーだった。旧約聖書にはモロクという偶像神の名があるし、新約聖書では使徒言行録19章に、大騒動が起こる元となったエフェソの女神アルテミスの名がある。神の名とはそういう固有名詞のことだ。このように「神」と「神の名」は同じではなく、神々には古今東西を問わず名がある。
 同様に、聖書の神様にも名がある。「わたしはある」という御名だ。だが、それは人がつけたのではなく、御自分がつけて人に教えたところに一つの特徴がある。実にユニークな名である点はもう一つの特徴だ。この点については後で考察するが、その前に解消しておきたい疑問がある。その御名がこの時初めてモーセに明かされたのだとすれば、では、それ以前のイスラエル人たちは、それまで神様の御名を知らずにいたのだろうか?という疑問だ。
 そうだ、彼らは知らなかった、と言うのが答えになる。すなわち彼らは神様を、アブラハムの神とか先祖の神とか呼んでいたのだ。この事実は出エジプト記自体の中にはっきりした証言がある。それは6章;2-3節の「神はモーセに仰せになった。『わたしは主である。わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに全能の神として現われたが、主という私の名を知らせなかった』」というくだりだ。

 しかしこう言うと、聖書を知っている人は次のような疑問を呈するに違いない。モーセがまだ生まれてもいなかった創世記には、「主なる神が地と天を造られたとき」(創2;4)とか、「アブラムは尋ねた。わが神、主よ」(創15;8)とか、「主」という言葉がもういっぱい出てくる。ところで、「主」とはまさに聖書の神様の御名だ。だとしたら、モーセが生まれるずっと前に使われていたことになる。それなのに、モーセの時に初めて御名が啓示されたというのはおかしいのではないか?と。
 もっともな疑問ではあると思う。この後で考察するつもりだが、聖書の神様の御名は確かに日本語訳で「主」と訳されている「ヤーヴェ」(*イスラエル人はこれをアドナイと読む)のことで、それは創世記の2章以後にたくさん使われている。だから、出エジプト記の3章が初めてだというのはおかしいと言う異論はある意味で筋が通っている。しかし、それは聖書がどう成立したかを検証すれば解消し、むしろなるほどと納得できることだと思う。
 その検証には、福音書にある主の御変容(ルカ9;2seq.)を思い出すと参考になると思う。それについてはこのシリーズNo.17「黙っていた出来事」で書いたが、実際は主が御復活なさるまで、3人の使徒以外には誰もご変容の出来事を知らなかった。それなのに、3福音書にはまるでその時点からもう皆によく知られていた事実であるかのように、御復活前の出来事として堂々と記述されている。なぜか?主の御復活後に語られて、皆の周知する事実になっていたからだ。だから、3,40年後にできた福音書の中では、ご復活を待たずに時系列の順に従って書かれているのだ。
 モーセに啓示された神様の御名の場合もそれと似ている。その啓示は紀元前1300年ほど前の出来事だったが、創世記が書き始められたのはずっと後の紀元前8世紀ぐらいで、完成されたのは前6世紀頃だと推定されるからだ。つまりそれが書かれた頃、イスラエルにはもう、モーセに啓示された神様の御名を知らない人はいなかった。だから、彼らは礼拝ではその御名を賛美し、その御業と言葉を記述する時は何の躊躇もなくその御名を書いた。こうして、神様の御名が未知だったはずの創世記に、もっと後でわかったその御名が使われることになったのだ。言い換えれば、モーセへの御名の啓示は、もう創世記の創造説話から出てくる神様の御名の由来話なのだ。
 しかし、創世記の中では、神様はいつもその御名で表現されているわけでもない。御名で出てくるのは2章4節以後で、例えば1章では出てこない。そこでは、「始めに神は天地を創造された」(創1;1)と書いてあるだけで、御名に当たる「主なる」という言葉はないのだ。これは福音書と違って、創世記が一人の人の著作ではなく、3つの伝承が200年ぐらいかけて混じり合い、多くの手で次第に記述されていった経緯があるからだ。まずヤヴィスト伝承とエロイスト伝承と言う2つの口頭伝承が合流して文書化されていき、その後に司祭伝承が加わったのだ。
 ところで、神様の御名を「主」(ヤーヴェ)と呼ぶのはヤヴィスト伝承だけだ。だからヤヴィストの名がつけられたのだが、実際はこの伝承が圧倒的に多いから、創世記ではほとんどの場合、神様はヤーヴェ・エロヘイヌー(われらの神である「主」)のように「御名」で表現されている。しかし、エロイスト伝承と司祭伝承ではそうは言わない。だから、創世記1章にはただエロヒーム(神)としか書いてないのだ。これは、創世記では2章4節以後が先に書かれ、後発の司祭伝承による1章-2章3節がずっと後で書き加えられたことをも意味する。

 3つの疑問が済んだから、ここからは御名そのものの考察に入る。神様はモーセに言われた。「わたしはある。わたしはあるという者だ。…イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしを遣わされたのだ、と。…これこそ、とこしえにわたしの名。これこそ、世々にわたしの呼び名」だと。
 この打ち明けで、神様はご自分の名が以後ずっと「わたしはある」と呼ばれると言われた。その点は明白だが、実に奇妙なわかりにくい名である点には疑義が残る。それがもともと謎めいている上にわかりにくいのは、日本語訳のせいもある。日本語訳には弱点が二つある。一つは日本語には関係代名詞がないので、原典の表現構造を反映できていない点だ。「わたしはある。わたしはあるという者だ」」は、原典のヘブライ語をローマ字で書くと、“Ehieh asher ehieh”だ。英語ならEhieh=I am、asher=whoだから、“I am who I am”と翻訳できる。しかし、日本語には whoに当たる関係代名詞がないから、それができない。「わたしはある」みたいになる。これでは、外国語で読んだ方がずっとわかりやすい、ということになってしまう。
 弱点の二つ目は、「ある」と「いる」の使い方を曖昧にしたまま訳してあることだ。日本語では人や動物には、「人がいる。虫がいる」のように、「いる」を使う。しかし、生き物でも植物には「桜の木がある」のように、物体と同じく「ある」を使う。ただし繋辞としてなら、「私は人である。この犬は利口である」のように、人や動物にも「ある」を使う。ところで、関係代名詞で括られた副文 who I am の中のEhieh (I am)は「存在する、いる」の意味で言われている。繋辞ではない。だから、「わたしはいる」の意味だと思われるが、日本語訳はそれを「わたしはある」と訳した。これでは日本語として変だと言うより、これでいいのかと思える。もともと謎めいている御名だが、これではもっとわからなくなる。では、どういう訳がいいのか?私の案は「わたしはいるという者だ」か「わたしはわたしだ」のどちらかだ。だが、それは後で扱う。 
 ちなみに諸国語の訳を見ると、仏語は “Je suis celui qui suis.”となっている。独語は “Ich bin der Ich-bin-da”、スペイン語は “Yo soy el que soy.”、ヴルガタ訳は “Ego sum qui sum.”、ギリシャ語70人訳はローマ字表記すると、“Ego eimi ho on.”だ。新共同訳以外の手元の日本語訳では、日本聖書協会訳が「わたしは有って有る者だ」、バルバロ訳は「わたしは在るものである」と訳している。

 しかし、もともと謎めいた御名だから、どんなに訳を工夫しても、謎めいたもやもやが雲散霧消するわけがない。やはり肝心なのは“Ehieh (I am)”が何を意味する名前なのか、それを探り当てることにある。それをクリアしない限り、根本的な謎は謎のまま残ってしまうだろう。では、ここで、正面からそれを問うことにしよう。 “Ehieh asher ehieh” (“I am who I am”)とは、いったい何を意味しているのだろうか?と。これは重要な問いだ。
 それは短い一文だ。しかし、深さは測り知れない。解釈には諸説があり、中世の神学者達はそこにギリシャの古代哲学が到達した、絶対的な存在者との合致を見た。それには聖書の「私はいるという者である」という訳が好都合だった。哲学者達は考察した。すべての被造物は必ず何かのおかげで存在する「~による相対的な存在」だが、それを辿れば最終的には他の何者にもよらずに存在する、絶対的な何者かに到達せざるを得ない。それは自己充足的で、絶対の存在者だ、と。特にアリストテレスは思索の末にそういう結論にたどり着いた。
 神学者達はこの哲学の究極的結論が、モーセに啓示された神様の言葉と合致すると見た。つまり「私はいる」とは、天地万物の創造主が絶対者で、自らは何者にもよらずに存在する者を意味する。だから、それは人が知性でも知り得たその絶対的存在者を啓示しているのだという解釈だ。そこには人知の粋が聖書の啓示をバックアップし、聖書の啓示が人知の粋を認証する相互支持がある。そういう理解も可能だから、私はあながちそれを否定はしない。だが、こういう解釈は今日の聖書学ではあまり支持されていないようだ。

 “Ehieh asher ehieh” (“I am who I am”)という啓示が、御名を人に明かしていると同時に、人にわかりきられることを拒否した神様の答えでもあった、という解釈もある。私はこの解釈には共感する。それによれば、モーセに答えられた神様の御名“I am who I am”は、「わたしはあるという者だ」ではなく、「わたしはわたしであるという者だ」と訳す方がよいように思われる。これが私のよりましな訳の提案だが、平たく言えば、「私は私だ」と言うことだ。その方がベターだと思うから、ここからは新共同訳は棚上げし、「わたしはわたしだ」と言う余生風訳で通す。
 ではどんな時に、人は「私は私だ」と言うかと言うと、他人からうるさく自分の過去や社会的身分を詮索されたり、意に反する考えや計画を押し付けられたりする時、あるいはつべこべ言うなと相手の発言を抑える時などに言う。そういう時、人は自分と相手との間に見えないバリアーを設け、相手の質問や提言をはねつける。「私だ」と言っている以上、逃げ隠れはしていない。しかし、それ以上のことは受け付けない。そういう時に使う。
 モーセに明かされた神様の御名は、まさにこれではなかったかと思われる。“I am who I am”を「わたしはわたしだ」と訳すなら、神様が少なくともご自分を「わたしだ。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神であるわたしだ」と確認なさったことは明らかだ。父祖の神を名乗ることで、そこにはすぐに信頼関係が生まれだろう。しかし、そういう神様だということはわかっても、それ以上はわからせない。「わたしはわたしだ」にはそういう「捕まえさせない」という拒絶があることも確かなのだ。
 そもそも限りある人知で神様をわかり尽くすことは無理なのだが、モーセへの啓示では、「わたしだ」という神ご自身の確認以外には、少しのことしかわからなかった。しかし、名前の啓示にはそれで足りた。アブラハムの神が罪を嫌い、正義を愛し、生きとしいけるものを慈しみ恵む方だとはすでにわかっていたし、エジプトにいる同胞の救いを話してくださったからだ。そのような神様であることがわかっていれば、イスラエルの民にはもう「わたしだ」だけで十分だったのだ。 
 「つかまえさせない」という拒否のもう一つの理由は、少し前にも触れたが、名前をつけることがその対象を捉えかつ支配することを意味したから、そうさせないためでもあったと思われる。聖書の神様はご自分の名をわかり尽くさせることによって、人間に捕捉され、その欲望達成の手段にされることを拒否なさったということだ。これはイエス様の荒れ野の誘惑でも書いたが、実際人類は神々を崇めつつも、本当は自分の願いを叶えさせたり、健康や財産を守らせたりするために利用してきた。それが偶像宗教の真相だが、聖書の神様はそれを徹底的に拒否し、捕まえられない存在としてのご自分を示された。それが「わたしはわたしだ」の一面だったと思う。
 従って、「『わたしはある』という方がわたしを遣わされたと言いなさい」という1節は、私ならその代わりに、「『わたしだ』という方がわたしを遣わされたと言いなさい」と訳す。「わたしはある」という表現は生活感のない、ふわふわした感じだが、「わたしだ」なら、「私だよ、私だよ、わかるだろ?」と声を掛けられているようで、聞けば声の主が誰かピンとくるイメージで、ずっと実感がある。 
 イザヤの預言書65;1には、「わたしは、わたしの名を呼ばない民にも、わたしはここにいる、ここにいると言った」という言葉がある。親がよちよち歩きの幼子を「おいでおいで」と誘うように、神様が異邦の民に自分の存在を教える感動的な1節だ。これをモーセへの言葉と合わせて見ると面白い。「わたしはある。わたしはここにいる、ここにいる」では様にならないが、「わたしだ。わたしはここにいる、ここにいる」なら、メッセージが実感をもって、実によく伝わることがわかる。
 
 さて、残る疑問の一つは、Ehieh (=I am) がなぜ「主」と訳されているのかという問題だ。“I am”は「わたしだ」であるはずなのに、「主」と訳すとは実に奇妙なことではあるまいか。結論から言えば、それはモーセの十戒に「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない」(出20;7)という戒めがあるがゆえに、それに違反しないようにと、イスラエル人たちがヤーヴェをアドナイ(主)という言葉に替えて言うようになった結果だ、というのが答えになる。すでに述べたように、聖書の神様の御名はヤーヴェだ。ヘブライ語ではיהוהと書き、それは神聖四文字と言って、ローマ字で書けば、YHVHとなる。ただし、ヘブライ語は右から左へ読むが、欧米語は逆なので、このローマ字書き神聖四文字は逆に並び替えてある。
 通常のヘブライ語は母音のない白文だ。空港などで荷札にニューヨークをNYK、東京やジャパンをTKYとかJPNと書くのと同じだ。イスラエル人はそれですらすら読む。が、私たちはそうはいかない。聖書も皆が読み間違えないように、母音になる記号がつけてある。例えば、モーセは白文ならMshだが、子音のどこかにMosheと読める母音記号がつけてある。おかげで私も読めるわけだ。さもないと、Mashaとか Mushoとか Meshiとかに読めてしまう。神聖四文字YHVHにも同じようにヤーヴェと母音記号がふってあれば読めるわけだ。
 ところが、神聖四文字יהוה(YHVH)にはそう読めるようにふってないのだ。ここに鍵がある。“Ehieh asher ehieh”:“I am who I am”:“わたしはわたしだ”のEhieh(I am)は、היה(ハイア=ある、いる)という動詞の1人称単数未来形だ。聖書のヘブライ語は独特で、真理などは現在を未来形で表現するが、これはそのケースだ。それが “Say this to the people of Israel, ‘I AM has sent me to you’.”(イスラエルの人々に、『わたしだ』という方がわたしを遣わされたと言うがよい)とある1節では、英語では “I AM” だが、ヘブライ語では1人称単数未来形の“Ehieh”(אהוה)ではなく、3人称単数男性未来形 “yhvh”(יהוה) に変わっている。まさに、これが「ヤーヴェ」の綴りだ。
 ところが、イスラエル人らしい発想をもって、彼らはここで言葉の入れ替えをしたのだ。実はヘブライ語にはアドーン(Adon:主人、~様)という言葉がある。これにaiをつけると、アドナイ(Adonai:主、主なる神)の意味になる。そこで彼らは、「主の名をみだりに唱えてはならない」というモーセの戒めを破らないために、文字はヤーヴェと書いたまま、それをアドナイと読むことにしたのだ。母音記号もまたそこにアドナイ(神なる主)のものをつけた。こうした理由で、文字はヤーヴェ(「わたしだ」の3人称形)のままなのに、発音と意味は「主」(アドナイ)と訳されるに至ったのだ。 
 この奇妙な言葉替えは、日本の戸籍の名前と比べるとわかりやすいと思う。最近は子どもに奇抜な名前をつける親がいるが、漢字は認められたものしか使えないから、許された範囲内で選ぶ。だが、読みは自由だから、とっぴな読みとか、尋ねない限り読めない読みとかをつけるのだ。例えば大空と書いて「ユメアリ」と読ませたりするといった調子だ。イスラエル人たちの場合もそれに似ている。彼らは文字はヤーヴェだが、読みはアドナイにしたのだ。これを漢字で書けば、「弥亜部」と書いた名を「アドナイ」と読ませるに等しい。ちなみに正しい発音はヤーヴェだが、それをアドナイの母音記号で読んだから、そこからエホバという間違った発音が生まれたのだった。
 モーセの十戒が「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない」と禁じているのは「神の名」であって、神とか主とか言う言葉ではない。しかも「みだりに」であって、祈ったり、朗読や学問をしたりするときもだめと禁じているわけではない。してみると、この言い換えはいささか形式主義的で、偽善的な臭いがしないでもない。しかし、人の嫌がることをしないためだろうか、カトリック教会当局は、確か昨年からだったと記憶するが、神様の名をヤーヴェと呼ばないように決めた。そう呼ぶことを避けて、今もアドナイと祈るユダヤ教に、敬意を払うためではないかと推察した。

 ヘブライ語では名はシェムと言い、その持ち主を表すと考えられている。聖書の神様の御名(ハシェム)はヤーヴェで、聖書の民はそれを聖なるものとして敬ってきた。モーセに語った声がそれを「これこそ、とこしえにわたしの名。これこそ、世々にわたしの呼び名」だと言ったからだ。では、イエス様が主の祈りの中で、「御名が聖とされますように」と祈るよう教えてくださった御名は、モーセに明かされた御名と同じなのだろうか?
 いや、同じではない。変わった。まず、「主」の意味が変わったからだ。旧約では、「主」とは本来の御名ヤーヴェの代わりに発音され、意味までその代役をつとめたアドナイのことだった。しかし、新約ではもはやその代役の必要はなくなった。そして、「主」とは約束の救い主、神の独り子イエス・キリスト様の特別な称号となったのだ。次に、主の祈りでいう御名は御父の名を指しているからだ。それは「天におられる私たちの父よ」と呼びかけた後に、「御名が聖とされますように」と続くのを見れば明らかだ。ちなみに、日本語訳では「あなたの」が抜けているが、正確には「あなたの御名が聖とされますように」というのが本来の文言だ。
 では、神様がモーセに、「これこそ、とこしえにわたしの名。これこそ、世々にわたしの呼び名」と言われた言葉は、新約になって廃止されたのだろうか?いや、そうではない。イエス様はかつて律法について、「わたしが来たのは廃止するためではなく、完成するためだ」(マタイ5;17)と言われた。それはここにも当てはまる。神様の御名ヤーヴェが廃止されることはない。しかし、主は父と聖霊を教えてくださった。新約においては、父と子と聖霊である神様の御名となったのだ。
 「わたしだ」と語りかけた方、「わたしは戸口に立って、たたいている」(ヨハネの黙示録3;20)、「見よ、わたしはすぐに来る。わたしは、報いを携えて来て、それぞれの行いに応じて報いる。わたしはアルファであり、オメガである。最初の者にして、最後の者、初めであり、終わりである」(22;12,13)と語られた声の主の御名だ。

待ちの神様

 四旬節第3主日の福音はルカ13;1-9だ。その前半には悔い改めの必要、後半には実がならないいちじくの木の譬えが語られている。まず前半だが、イエス様は、当時起こったある二つの社会的出来事をきっかけに、誰もが悔い改めなければならないと、改心の喫緊性を喚起された。
 その出来事の一つはローマ総督ピラトがかんだ事件だった。当時エルサレムには水の供給をもっと増やす必要があった。そこでピラトは水道建設を考え、神殿の金をそれに使おうとした。だが、それに怒ったユダヤ人たちは武装蜂起した。するとピラトは鎮圧に兵を派遣し、反乱者たちを虐殺したのだった。ところで、殺された者の中にはガリラヤ人が多かったらしく、そこから、「ピラトが神殿での犠牲の動物の血に彼らの血を混ぜた」と言う噂が広まったようだ。ルカはその事件を、「何人かの人が来てイエス様に伝えた」と書いている。だがその史実は明らかではない。証明する資料がないのだ。
 もう一つはその水道工事の際にシロアムの塔が倒れ、18人が死んだという事故だ。これはイエス様の方から言い出されたように書いてあるが、おそらくガリラヤ人虐殺事件を知らせた人たちが、それとの関連で主に伝えたのだと思う。だが、これも史実は明らかではない。ただ、立証資料がないからと言って、その史実がなかったとは断定できないことも確かだ。貴重な羊皮紙やパピルスに羽ペンでものを書いていた時代だ。大事件でもない限り記録されなかったことは十分あり得る。
 計算してみると、ルカの福音書ができたのは、主のご昇天後40年近くたってからだった。では、40年前のことを知る人たちは当時もういなかったかと言うと、そうではない。弟子たちや婦人たちなどがまだかなり生きていたはずだ。そんな彼らはルカに、「主はある日、当時この事件のことを聞いて、こうお話しなさったんだよ」と教えたのではないだろうか。ルカはそれを文字にして残してくれたのだと思う。
 では、人は40年前の出来事などをよく覚えているものかどうか?それを確かめるために、私は自分の場合、何も見ないでどのくらいのことを思い出せるだろうかと振り返ってみた。すると、40年前どころか、戦争中のことも、60年近く前の佐藤栄作幹事長に対する昭電疑獄の指揮権発動、朝鮮戦争、洞爺丸の海難事故までもすらすら思い出せた。50年ぐらい前では東京オリンピック、東洋の魔女達の活躍、吉展ちゃん誘拐事件、八時半の男“巨人の宮田投手”の活躍、40年ぐらい前となると、中国の文化大革命、「帰って来た酔っ払い」の歌、浅間山荘事件、ロッキード事件等々を思い出せた。
 これらの例は、70歳以上の日本人ならほとんどが覚えているはずの社会的出来事だが、私的なことなら思い出せる事柄はまだ無数にある。これから推して考えると、主のご昇天後40年そこそこの当時なら、主のなさったことや語られたことを鮮明に覚えていた人たちが、まだまだ大勢いたことは明らかだ。本や新聞、インターネットなどで記憶を補える現代人に比べ、それがなかった昔の人は記憶力がずっとよかったに違いないから尚更だ。してみると、この2つの事件は実際に起こって、当時のユダヤではかなり話題になった出来事なのだろう、と推定してもいいのではなかろうか。

 史実はそれでよしとして、やって来た人々はいったいどういうつもりでその話題をイエス様に伝え、聞いた人々は主のどんな答えを待ったのだろうか?察するに多様な思惑が混じっていたことだろう。他人の不幸を興味本位に話したいだけの人々もいたに違いない。犠牲者達は何か悪いことをした因果応報で災難に遭ったのだ、と受け止めた人たちは、主が自分たちの伝統的な考え方に賛同してくれるかもと、期待していたかも知れない。反ローマの機運を盛り上げたい熱心党系の人々と、逆に主を陥れる言質を狙っていた敵の回し者たちは、それぞれの思惑から、主がピラトの残酷さを非難し、その勢いでローマ批判もしてくれないかと願っていたことだろう。
 ところが、その知らせを聞いたイエス様は答えられた。「そのガリラヤ人たちがそうような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。またシロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいたほかのどの人々よりも、罪深い者だったと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる」と。
 それは人々が予想していなかった答えであり、実に厳しい警告でもあった。興味本位の人たちは相手にせず、回し者や民族主義者が待っていたピラト批判は一切なさらなかった。しかし、伝統的な応報説で人を裁く考え方の人々には、犠牲者達が他の人たちより罪深かったから災難に遭ったわけではないとお答えになった。災難が罪の結果受けた報いではなく、犠牲者が他の人々より罪深いわけではなかったという指摘は、暗に応報説的な考え方を否定したのに等しかったのだ。

 ちなみに応報説とは、恵まれて幸福な人は、善を行っているからその報いで恵まれて幸福なのであり、罰を受けて不幸な人は、悪を行っているからその報いで罰を受けて不幸なのだ、というユダヤ人たちの考え方だった。神様が善を行なう者を恵みをもって報い、悪事をなす者を罰で報いるということは聖書の教えで、間違ってはいない。しかし、旧約時代の応報説では、その報いはこの世の富、健康、家族の幸せなど、生きている間だけに限られていた。だから、聖書のまだ不完全なレベルにおける教えでしかなかった。
 事実、それには矛盾があると、聖書自体の中にそれに異を唱える書が現われた。ヨブ記だ。ヨブは義人だったのに、あらゆる不幸に見舞われた。彼は苦悩の中で叫んだ。善人は幸福で、不幸な人は悪を行ったから不幸なのだというのは嘘だ。正しく生きても不幸ばかりで死ぬ人もいれば、悪人なのに一生栄耀栄華を享受する人がいるではないか。なぜだ。もしそんな不条理を許しているとすれば、神は間違っている、と。それは伝統的な応報説に対する大いなる異議申し立てだった。
 しかし、ヨブの疑問はイエス様の福音を待たなければ答えがなかった。死後の命または復活がない限り、その矛盾は解決できなかったからだ。善を行なって生きたのに、この世では不幸のまま死ぬ人がいても、神の裁きと永遠の命における報い、そして復活があれば、不幸のままということはなくなって解消するし、悪を行なったのに、生涯この世で幸福を享受した人がいても、神の裁き、死後の罰があるならば、ヨブが叫んだ不条理もなくなって解決する。
 イエス様の福音でも神様は善に報い悪を罰するから、応報はある。しかし、それは現世においてではない。裁きの後、「こうして、この者どもは永遠の罰を受け、正しい人たちは永遠の命にあずかる」(マタイ25;46)という意味の応報なのだ。だから、今恵まれている人は必ずしも神に祝福されているからではなく、今不幸に泣いている人は必ずしも神に罰せられているわけではない。イエス様の復活と裁きについての福音は、旧約的な応報説の破棄に近い大訂正だったのだ。
 ところが聖霊降臨までは、弟子たちにも旧約の応報説的な思考が染み付いていた。よい一例がある。ある日、彼らはある盲人を見てイエス様に尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも両親ですか」と。日本風に言えば、「誰のせいでバチが当たったのですか?」ということだ。主は答えて、「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業が現われるためである」(ヨハネ9;2-3)と言われ、盲人を治癒なさった。そしてこの時は、真正面からそういう応報説をきっぱりと否定なさった。そういう考え方は、福音を受け入れる上で決してプラスにはならないと思われたからに違いない。

 しかし、この2事件に関しては、主は古い応報説的考え方の是非には立ち入られなかった。もしそれについての議論だったら、「被害者たちが災難に遭ったのは、彼らが罪人だったからではない」と言われていただろうが、そうは言われなかった。この時は目的が人々を悔い改めさせることにあったからだと思う。だから、人々が犠牲者たちを古い応報説で見ているなら、しばしその是非は問わず、むしろそのままに思わせておき、「仮に百歩譲って、たとえ彼らが罪の報いで災難にあったとしても、ではあなた方はどうなのか?」と、彼らが自らを振り返るように問われたのだ。
 「あなた方はあの虐殺されたガリラヤ人たちや、シロアムの塔の下敷きになって事故死した18人よりも罪深くないのか?そうではあるまい。あなた方は彼らが罰で死んだと思っているようだが、ならば彼らよりも罪深いかも知れないあなたがたは、もっと恐るべき災難に遭ってもおかしくはないのではないか。なのに、罰を受けないでいられるのはなぜか?神様が改心を待ってくださっているからではないか。ならば、死んだ人たちのことよりも、自分を振り返って悔い改めなさい。さもないとあなたがたも皆滅びる。」イエス様はそうおっしゃりたかったのだと思う。
 そうなると、「あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる」という言葉が最も大事になってくる。2事件の後にまったく同じ表現が繰り返されていることは、主が念を押して言われたことを意味する。「あなたがたも」という言葉は、話しを聞いていた人々に、「あなたがたは死んだ犠牲者たちを人事のように思っているが、そうではない。これはあなた方自身が問われている事柄なのだ」と気付かせ、視点を第三者から自分に転じさせる招きだった。
 他方、「悔い改めなければ」の悔い改めとは、原典のギリシャ語では「メタノエーテ」とあり、原形はメタノエオで、その意味は「考え直す、心を変える、悔い改める」などだ。福音書における「悔い改める」という行為は、心の向きを一転させて神に向き、罪を去り、福音的な生き方を選び取ることを意味する。名詞の改心はメタノイアと言い、それまでの考え方、生き方などを捨てて、向きを転じることだから回心とも書く。では、心の向きを転じる先の福音的生き方とはどんなものかというと、それこそ新約聖書のすべてが告げている生き方に他ならない。この主日の第二朗読、一コリント10;1-12もその一例であって、その意味でこの日の福音とつながっていることがわかる。

 さて、2つの事件に対する考察の中で、「なのに、罰を受けないでいられるのはなぜか?神様が改心を待ってくださっているからではないか」と書いたが、この日の福音の後半にあるイチジクの木の譬えは、まさにその「待ちの神様」を語っていると言っていいだろう。この譬えにある肥やしのやり方などを読むと、私はイエス様が果樹栽培のことを何とよく観察なさっておられたことかと感心する。あるいはそれを書いたルカがよく知っていたのかも知れない。
 この譬えでは、ある人がぶどう園にイチジクの木を植えたと書いてある。ぶどう園にイチジクを混ぜて植えるだろうかと疑問に思う人もいるだろうが、イスラエルは痩せた土地が多いから、フランスのブドウ畑のようにブドウ一種類だけではなく、他の果物も畑の端などに植えたのだ。民数記13;23には「エシュコルの谷に着くと、彼らは一房のブドウの枝を切り取り、棒に下げ、二人で担いだ。また、ざくろやいちじくも取った」と書いてある。エジプトから脱出した時、モーセがネゲブからヘブロンへ偵察に出した者たちが持ち帰った果物だ。その中にブドウとイチジクもあった。イスラエルでは、古来二つは代表的な馴染み深い果物なのだ。

 ところで、そのぶどう園の主人は、植えてからもう3年も経つのに、まだ実をつけないイチジクに痺れを切らして、「切り倒せ。なぜ土地をふさがせておくのか」と言った。もちろん実話ではなく、譬えの物語だが、園丁はイチジクをかばった。そして、「ご主人様、今年もこのままにしておいてください。木の回りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかも知れません。もしそれでもだめなら、切り倒してください」と答えたとある。
 待つのは一年の猶予を願う園丁ばかりでない。主人ももう3年待ったのだ。その忍耐深い「待ちの心」にこそ、この譬えの真髄とメッセージがあると言っていい。イチジクの話題はマタイとマルコにもあるが、そちらは実をつけていなかったので、主が「今からいつまでも、お前には実がならないように」(マタイ21;19)と言われると、たちまち木が枯れてしまったという、厳しくも恐ろしい実話だ。それに比べ、ルカが語ったイチジクの譬えは神の慈しみがにじみ出ている。毒麦の譬え(マタイ13;24-30)にある主人と同じように、「待ってくださる神様」なのだ。
 もうこれで譬えのイチジク、主人、園丁、「実」が何を意味するかは明らかだと思う。ぶどう園の主人は天の父である神様、園丁は私たちをかばってくださる救い主イエス・キリスト様、そして、3年経っても実をつけないイチジクは、霊的に貧弱なままの私たちのことであり、実とはかつて洗礼者ヨハネが「悔い改めにふさわしい実を結べ」(ルカ3;8)と言った、象徴的な意味の実だ。すなわち、その初歩は悪を避け、善を行い、正しい生活を送ることだが、もっと充実した良い実はイエス様の福音に従い、信仰、希望、愛に満ちた生き方をすることにある、と私は思う。
 前半の2事件では、「悔い改めなければ」と、悪い面を否定し去ることが強調されて、悔い改めた後の生き方にはあまり触れられていない。しかし、後半の譬えでは、悔い改めることと悔い改めた後のよい実を結ぶ生き方の両面が語られている。しかしこの譬えは、イチジクがいつまでも実をつけないならば、いつかは「切り倒される時」が来ることをも示唆している。「待ちの神様」の忍耐も無限ではないから、「悔い改めなければ皆滅びる」という御言葉が、現実となることもありうることを示唆しているのだ。ただし、そういう現実を迎えるかどうかは、ひとえに個々人の「悔い改め」にかかっている。
プロフィール

余生風

Author:余生風
「聖書温故知新」
「思いつくまま、気の向くまま」
折にふれ「水彩画」も紹介してまいります。

「手を貸す運動」創始者
社会福祉法人「地の星」理事
元玉川大学教授

佐藤正明(余生風)ホームページ
「絵画と心」

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