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黙っていた出来事

 「イエスは、ペトロ、ヨハネ、およびヤコブを連れて、祈るために山に登られた。祈っておられるうちに、イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた。見ると、二人の人がイエスと語り合っていた。モーセとエリヤである。二人は栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた。
 ペトロと仲間はひどく眠かったが、じっとこらえていると、栄光に輝くイエスと、そばに立っている二人の人が見えた。その二人がイエスを離れようとしたとき、ペトロがイエスに言った。『先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。』ペトロは、自分でも何を言っているのか、わからなかったのである。
 ペトロがこう言っていると、雲が現れて彼らを覆った。彼らが雲の中に包まれていくので、弟子たちは恐れた。すると、『これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け』という声が雲の中から聞こえた。その声がしたとき、そこにはイエスだけがおられた。弟子たちは沈黙を守り、見たことを当時だれにも話さなかった。」
 
 これは四旬節第2主日の福音、ルカ9;28b-36の全文で、いわゆる主イエス様のご変容の出来事を伝えている。何が語られているかは一読すればわかるが、読み返したら、解釈は意外と難しそうに思えた。だから、何はともあれ、はっきりしていることの確認から始める。
 まず疑うべくもないことは、主のご変容が出来事だったことだ。それは例え話や説話など、人が作り上げる頭と口の産物ではなく、実際に起こったこととして語られている。これは大事な点だ。しかもそれは尋常ではない現象を伴った特異な出来事だった。奇跡とも言えるが、いつもなら奇跡を行なうのはイエス様なのに、この時は違った。主は祈っておられただけで、むしろ主ご自身に奇跡的な現象が起こったのだった。似たような特異な出来事は、聖誕の時と洗礼の時に見られた。それはすべて、天の父が御子のためになさったことだった。 
 この出来事が一つの大事な転換点で起こったということもはっきりしている。少なくとも共観福音書では、主の活動の期間はガリラヤにおける宣教とエルサレムにおける受難・復活の二つに大別される。ご変容はその期間に挟まれた時点で起こった。だから、まさに主の公的生活を二分する転換点だった。特にルカの展望ではその特徴が強く出ていて、主のご変容の出来事はその福音書前半の終着点であり、後半のスタート点となっている。
 はっきりしている三つ目のことは、これが主のご復活後まで、3弟子以外には知られていなかったことだ。ルカでは、「弟子たちは沈黙を守り、見たことを当時だれにも話さなかった」としか書いてないが、マタイとマルコは3使徒が沈黙を守った理由を、「一同が山を下りるとき、イエスは『人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない』と弟子たちに命じられた」からだと伝えている。3人は口止めされたから黙っていたのだ。当然、他の人たちは主がご復活なさるまで、その事実を知らずにいた。では、主はなぜ口止めされたのだろうか?そこにこの出来事を理解する糸口がありそうな気がして、実に興味深いが、それは後で考察しようと思う。

 さて、イエス様は祈る時、よく山に登られたが、この時もそうだった。マタイやマルコが「高い山」としたからか、それはヘルモン山だとかタボル山だとかいう説があるが、どれも根拠はない。ご変容は、主がエルサレムへ向かう決意(ルカ9;51)を固め、サマリアに入る少し前の出来事だったから、おそらくガリラヤ南部のどこか小高い山だったのではなかろうか。
 ところで、お供をしたのは3使徒だったが、「ペトロと仲間はひどく眠かった」とある。そこで、もしやこれは夜の出来事だったのだろうかと、好奇心に駆られて調べてみた。下山後の記述を読むと、マルコとマタイでは昼間の出来事だったという印象だ。ところが、ルカは「翌日、一同が山を下りると」(ルカ9;37)と書いている。だとすると、山上で一泊したとも解釈できる。もしそうだったとして、ご変容が夜のことであったのなら、3使徒が眠たがっていたことの説明はつく。他方、主のご変容や2預言者の栄光の輝きなどは、レンブラントの絵のような闇と光りのコントラストになり、昼とはまったく違う印象の情景になるだろう。ただ、こんな想像を取り上げている解説書はない。そして、昼間だったかどうかは結局はわからない…

 いずれにせよ、「祈っておられるうちに、イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた」のだった。衣服の輝きには、主ご自身も気付かれたことだろう。しかし、ご自分の顔は見えないのだから、その変化にまで気付かれたかどうか… むしろ、ご変容に気付いて驚いたのは傍にいたペトロたちだったに違いない。ただ、衣服は真っ白に輝いたとあるが、主のお顔はどのように変わったのだろうか?そして、それにはどんな意味があったのだろうか?
 そもそも主は祈るために山に登られたのだったが、察するに心中は苦悩に満ちていたと思う。なぜならその少し前に、ご自分の死と復活を予告なさったばかりだし、現れた2預言者との会話も「エルサレムで遂げようとしておられる最期」のことだった。そして、下山の後またすぐ同じ予告をなさるおつもりだったからだ。心弾むわけがなかった。まだゲッセマネの園の時ほど緊迫した状況にはなかったものの、近づく十字架の時が、心を重く圧迫していたことは想像に難くない。
 そういう精神状態の中、イエス様は救いの業の新段階に踏み出そうとしておられた。天父はそういう御子を力づけ、エルサレムで成し遂げられる業が御心に適うことを再確認するため、2人の預言者を遣わされたのだった。ゲッセマネの園の時は天使が現れてイエス様を力づけた(ルカ22;43)が、この時はモーセとエリヤが励まし役を仰せつかって来た。それには意味があったのだ。 
 2人は旧約を代表する2大人物で、共にシナイ山上で「神の示現」(epiphania=出33;18-23、列上19;11-15)を体験していた。モーセはイスラエルの民をエジプトから救出して、シナイ山で神から律法を授かり、民を約束の国に導いた大指導者だったし、エリヤは真の神への信仰を守るため、500人の偶像崇拝の預言者たちと対決し、勝ったものの、奸悪な女王イゼベルの刺客を逃れて、40日40夜ホレブ山(シナイ山)まで歩いた神の人だった。特に彼は、約束の救い主が来る前に現れる、と信じられていた預言者だった。ルカは2人の預言者を「栄光に包まれて現れ」と書いたが、「栄光」(カボード)とは神の居場所を示すもので、彼らが天の父からの使命を帯びて来たことを示している。彼らはその経歴からして、イエス様のなさろうとしていた偉大な業を最もよく理解し、最も話が合い、最もよく力づけられる使者だった。
 ところで、主の「服が真っ白に輝いたのは」、服そのものが変色したのではなく、預言者2人が神の栄光を帯びて近づいたから、その輝きを反映して真っ白に見えたのだと解釈していいだろう。しかし、イエス様のご変容は彼らの輝きを反映したからだけではない。主ご自身から出た変化だった。顔が変わると言っても、暗く、悲しげに、喜色満面になど、変わり方はいろいろある。では、イエス様の場合はどうだったのかと言うと、ルカは「栄光に輝くイエス」(ルカ9;32)と描写している。
 それは復活体を思わせるような神々しい面持ちだったと想像できる。マタイはそれを「顔は太陽のように輝き」(マタイ17;2)と形容した。これは「そのとき、正しい人々はその父の国で太陽のように輝く」(マタイ13;43)という表現とそっくりだ。それは何を意味したのだろうか?ご変容とは、やがて復活された時の主のお姿を一瞬見せた出来事、つまり復活の予兆だったことを意味していた。
 後にイエス様は、「メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか」(ルカ24;26)と言われたが、そうだとわかっていても受難は大いなる苦しみだった。それはゲッセマネの園の祈りでわかる。しかし、苦しみの後はこういう復活の姿になると一瞬でも知っておけば、それはどんなに大きな力付けになることだろうか。だから、天の父は主が山上で祈っていたとき、2人の預言者を遣わし、死の苦しみが来る前に復活後の輝く体を主に体験させ、励ましをお与えになったのだ。私はそこにご変容の意味があり、それがその第の一目的だったのではないかと考える。

 しかし、預言者2人が派遣されたのには、もう一つ大事な役目と意味があった。旧約と新約の引継ぎだ。律法の新旧交代はすでに山上の説教で公布された。しかし、旧約に代る新約の犠牲はまだだった。だから、主がエルサレムで成し遂げようとしておられた最期は、まさに十字架によってご自分を捧げる新約の犠牲の実現にあった。そして、その実現の始点がご変容の出来事だったという意味で、それは旧約の代表2人の立会いによる、新旧の引継ぎをも意味していたのだと思う。
 福音書は、預言者2人が去ろうとすると雲が現われて彼らを覆ったと伝える。聖書の中で、雲はしばしば神の臨在の象徴だったが、とりわけこの場合の雲は、シナイ山に登ったモーセに現われた雲(出34;5)と重なる。神はその時、雲の中からモーセに語り、律法を授けたが、ご変容の時も雲の中から、「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」と語られたのだった。それはヨハネの洗礼の時に天から聞こえた声と同じだった。従って、これはその時の再確認でもあった。
 ところで、「これはわたしの子、選ばれた者」とはイエス様を指していたことは明らかだ。そうなると、「これに聞け」という言葉は、そこにいた主以外の人皆に対する命令だったから、それは3使徒だけにではなく、預言者2人にも言われたことを意味する。つまり、3使徒には「これからは主の福音に従って生きよ」ということであり、2預言者には「旧約の時は終わった。今より『わたしの子、選ばれた者』による新約の時代が始まる。その新旧交代の証人になれ」ということだったと思う。

 さて、ご変容の意味はそれでいいとしても、預言者2人については疑問が残る。その一つだが、ペトロたちはどうして2人がモーセとエリヤだとわかったのだろうか?当時は写真も映像もなかった時代だ。従って、彼らはモーセとエリヤの写真や似顔絵を見たことはなかっただろうし、時代が大いに違ったから会ったこともなかったはずだ。顔を知っていなかったのに、どうしてそうだとわかったのだろうか?もし預言者2人がイエス様と話した時、自己紹介していたとしたら、答えは簡単だ。弟子たちはその名乗りを聞いたからわかったのだ。
 ところが、もう一つの疑問は厄介な気がする。それは預言者2人が物理的な身体をもって出現したのか、それとも幻として現われたのか?という疑問だ。3福音書はこぞって預言者2人の出現を伝えているから、そのこと抜きでご変容の出来事は語れない。しかし、物理的な身体をもっての出現だとすると、常識にも論理にも合わない事実を説明しなければならなくなる。なぜなら、モーセは当時から遡ること約1300年前、エリヤは約850年前に死んだ人だからだ。そんな2人が肉体を持った人として現れたとすれば、はるか過去から生き返って来たという荒唐無稽な話になる。
 神には不可能なことはないから、それが絶対にあり得ないとは否定しないが、常識的に考えれば、そんな昔に死んだ人が一時的に肉体を得て出現することはあり得まい。もしそういうことがあったのなら、彼らがその後どこに帰って行ったかも説明できなくてはならない。さもないと、単なる作り話と言われても仕方ない。他方、派遣されたのは2人の霊魂だという仮説も、事実に合っていないと言わざるを得ない。なぜなら、霊は見えないのに、2人はちゃんとした人の姿で現れているし、ペトロたちは確かに2人を目撃しているからだ。
 だとすると、預言者2人は幻だったと見るのが妥当なのではないかと私は考える。幻は幻覚とは違う。幻覚なら個人の錯覚だから、ペトロに見えても他のものには見えず、同じ物が皆に見えることはなかったはずだ。しかしご変容の出来事では、2人はイエス様にも3使徒にも見えていたのだから幻覚ではなく、共通に見えた幻だったと言えよう。聖書にはイザヤの見た幻(イザヤ6;1-4)、ペトロの見た幻(徒10;9-17)、パウロの見た幻(16;9-10)など、幻がかなり出てくる。
 では、モーセとエリヤの幻は可能だったのか?そもそも天使は霊だから見えないが、神は人に遣わすとき、天使だとわかるよう見える姿になさる。お告げの時(ルカ1;26-38)、ペトロを牢から救った時(徒12;7-10)等はみなそうだった。預言者も霊としては存在するから、神は天使になさったように彼らの霊も見える姿の幻にして、変容の時に派遣された。そう考えると説明がつくのではないか。神は全能なのだから、無神論者は別として、聖書を信じる人ならそれを否定しないと思う。ちなみに、調べた限りではこの問題で疑問を持った学者は一人しかいなかったが、彼も幻説をとっていた。

 残った疑問がまだ3つある。3使徒が沈黙を守って、復活するまでは見たことを誰にも話さなかったのは、主が口止めされたからだということはすでに述べた。だが、なぜ主はそんな口止めをなさり、復活後ならよしとそれを解除なさったのだろうか?まずはその疑問だ。
 口止めの理由は2つあったと思われる。1つはこのご変容の主目的がイエス様を励まし力づけるためで、皆にすぐ知らせるべき事柄ではなかったからだろう。2つ目の理由は、その時点でその出来事が知られて広まると、例えばパンの奇跡の時のように、未熟な民衆が主を王にしようと熱狂したり、弟子たちの間に嫉妬や不和が生じたり、救いの計画に支障を来たす恐れがあったからではないだろうか。しばらくは有害無益だったのだ。実際、下山の時の話(マルコ9;10)を読むと、3人すらまだ何も理解できていなかったことがわかる。そんな状態でご変容のことを皆に話せば、どんなことになっていたかは想像に難くない。
 口止め解除の理由は、主が復活した後でなら、それを明かすことは有益だとわかっていたからではあるまいか。3使徒にとっては「ああそうか、あの時あのようなお姿になったのは、復活後のお体をわからせるためだったのか。あれは復活の予兆だったのだ」と確信を強める一助になり、他の弟子たちや信者たちにとっては、「そうか、そんなことがあったのか。神様のなさることはまさに計りがたい!」と、信仰の励みとなる。だから復活後、3使徒はその出来事を皆に打ち明け、福音史家たちは福音書に書き留めたのだ。

 次は、もっと大勢の弟子たちを連れて行っていれば、目撃者も大勢できてよかったのに、なぜ3人しか連れて行かれなかったのだろうか?という疑問だ。主がこの3人だけを伴われたことは他にも何回かあった。ヤイロの娘の治癒の時(ルカ8;51)、ゲッセマネの園で祈られた時(マルコ14;33)などで、それは主のやり方だった。なぜこの3人を最側近とされたのかはわからないが、おそらく彼らに最も重要な役割を期待なさっていたからだと思う。
 主が3人しか連れて行かなかった他の理由は、なぜ復活前は誰にも言うなと命じられたのかという前の疑問と関連している。主は奇跡などでも何回か、言いふらすなと命じられている。ヤイロの娘の時もそうだった。ところで大勢の口に戸を立てることは不可能だから、噂を抑えるには目撃者や知る人を少なくするに限る。だから、ご変容の時も3使徒しか伴われなかったのだ。復活までは知られないことを望まれたからだ。しかし、この出来事が復活後に伝えられためにはやはり証人は必要だった。だから、彼らを伴われた。3人に絞ったのは信頼できたからだけではないと思う。人は目撃者が大勢いた方がよいと思いがちだが、実際は大勢いれば証言がばらついて矛盾しやすい。それに尾ひれがついて広まれば尚更だ。何が真実か曖昧になれば、証言の信憑性は失墜する。だから、主は3人だけを選ばれたのだと思う。
 もう一つの大事な理由は信仰のモデルを定めるためだったと思う。ご変容の秘密は主のご復活後まで、他の弟子たちには知らされなかった。3人以外はその場にいなかったのだから、主なき後、彼らは3人の証言を信じるしかなかった。3人の証言を信じられないのなら、証人が12使徒全員であろうと、70人の弟子たちであろうと、信仰は成り立たない。このことをわからせ、信じる訓練を積ませるために、主は3人の弟子だけを選ばれたのではなかろうか。今日の私たちは誰もが信じる側にいる。信じるしかない。だが、私たちには信じる模範がある。3人以外の弟子たち8人だ。そういう信じ方を最初に実行してくれたのが彼らだったのだと私は思う。3人の弟子は証人のモデルとして選ばれ、他の8人は信じる者のモデルとなるために残された。後者もある意味で選びだったのだ。

 そして最後の疑問だ。ヨハネは3人の一人だったのに、なぜその福音書にご変容のことを書かなかったのだろうか?私はそういう疑問を持ったが、考えてみると、その理由の一つは、ヨハネの福音書が出たとき、もう他の3福音書があって、すでにそれが書いてあったからではないかと思う。もちろんヨハネから聞いたのではないから、断言はできないが、他の福音史家が書かなかったことを多く書き残したヨハネは、周知の事実であったご変容の出来事を、重複して書いても意味はないと考えたのではなかろうか。
 ヨハネの福音書の構成もそれを書かなかった理由の一つだったかも知れない。実際ルカの福音書では、主の行程は一直線で、ガリラヤでの活動の後エルサレムに上ると、2度とガリラヤには戻られない。それに対しヨハネの福音書では、主は少なくとも3年間ガリラヤとエルサレムを何回も往復される。ルカはご変容をガリラヤでの活動とエルサレムでの活動を分ける転換点としたが、ヨハネではその重要性がなかった。だから、あえて書く必要もないと判断したのではないだろうか。
 しかし、もし強いてヨハネの福音書のどこかに、主のご変容の記事を入れるとすれば、私は7章ではないかと思うのだ。そこには主がエルサレムへ「人目を避け、隠れるようにして上って行かれた」(ヨハネ7;10)こと、ユダヤ人たちが「あの男はどこにいるのか」(同7;11)とイエス様を探していたことが書いてある。それはマルコの「一行はそこを去って、ガリラヤを通って行った。しかし、イエスは人に気付かれるのを好まれなかった」(マルコ9;30)と符合すると思う。それに、それは仮庵祭の頃だったが、ペトロが何を言っていいのかもわからず、「仮小屋を3つ建てましょう」と口走ったのは、この祭が頭にあったからのようにも思えるのだ。
 そして、そこに書いてあるユダヤ人たちの反感や敵意、兄弟たちまで主を信じなかった不信や無理解、主に対する賛否両論が渦巻いていた状況などを読むと、主が3使徒に見たことを誰にも言うなと口止めなさった理由が、ルカの福音書を読んだだけよりももっとリアルにわかる。そんな状況の渦中に、モーセとエリヤも巻き込んだご変容の話や雲の中からの声などを伝えたら、それこそエルサレム中が大騒ぎになりかねなかっただろう。ご自分だけなら身を隠せ(ヨハネ8;59)るが、使徒3人が狂信的な者たちに命を狙われかねないと、イエス様は危惧なさったのではなかろうか。まだ時は来ていなかった。復活するまでは話すなと言われたことに、なるほどと納得する。
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三つの誘惑

エリコからみた荒野
エリコの背後に連なるユダの山地と麓の荒野 余生風スケッチ

 「さて、イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。そして、荒れ野の中を、“霊”によって引き回され、四十日間、悪魔から誘惑を受けられた。」(ルカ4;1-13)

 四旬節第1主日の福音はこう始まる。イエス様は荒野で悪魔の誘惑を受けられた。共観3福音書はどれもそれを伝えるが、マルコの記述はきわめて短く、マタイとルカは詳しく伝えるが、若干違う。だが、その違いは説教等の場合と違い、一回だけの出来事だったから、福音書記者個人の差だと考えるのが妥当だと思う。
 イエス様はヨルダン川からお帰りになったが、ガリラヤに戻られたのではなかったはずだ。なぜならこの荒野の誘惑後、主は「“霊”の力に満ちてガリラヤに帰られた」(ルカ4;14)とあるからだ。その時帰られた所はおそらく洗礼を受けたベタニアからさほど遠くなく、2人の弟子に「来なさい。そうすればわかる」(ヨハネ1;39)と言われた場所ではなかったかと思う。エリコの背後には、いかにも魔の山という感じのユダの山地が連なり、麓には石礫のごろごろした荒野がある。主はヨハネの洗礼を受ける前後、隠遁して黙想するために近くの洞窟か何かを選んで、しばしそこにおられたのではないだろうか。 
 では、なぜイエス様は荒野を選ばれたのだろうか?荒野には人の手が及ばない。夜は満天に星が輝く。だから、余人を交えず天の父と向き合うことができたからだと思う。しかし、それだけではなかった。かつて、イスラエルの民は神のおかげでエジプトから脱出できたのに、荒野でエジプトの食べ物を懐かしみ、来なければよかったと不平を言って、ことあるごとに反抗した。だから荒野の四十年は彼らの罰となった。
 主はまさにその正反対をなさろうとして、荒野を選ばれたのではないかと私は推測する。つまり、荒野の40年の旅を40日40夜でやり直し、断食と祈りによって、飢えても先祖のようには父に背かず、心に刻む新約の律法を思い巡らそうとなさったのだと。他方、40日間は由緒ある聖書的表現で、長い日数を意味する。エリヤもホレブ山に向かって40日40夜歩き、モーセも民を滅ぼさないよう40日間平伏して神に祈った。そして、イエス様はご復活からご昇天まで、40日間弟子たちにお現われになった。

 さて、「悪魔の誘惑を受けられた」とあるから、ここで悪魔について考察しておこう。悪魔とはいったい何者なのか?はたしてそんな者が本当にいるのか?その存在については、興味本位で信じる人もいるが、現代では悪魔などいないと笑い飛ばす人の方が多いと思う。しかし、それは悪魔を戯画化されたイメージで考えているからではなかろうか。邪悪な謎の黒幕は存在し得るし、それを笑い飛ばしたとて何のメリットもないから、私はその存在を信じる側にいる。それに洗礼の時、「悪魔とその業を捨てますか?」という問いに、「はい」と答えている以上、その存在を否定したらカトリック信者ではなくなるからでもある。
 では、悪魔とは何者なのか?聖書と教会の教えは、それを神に敵対し人類を陥れようとする、悪意ある霊的な存在としている。しかし聖書を読んでも、旧約聖書だけではほとんどわからない。実は、ルカ福音書のこの個所を読んだとき、ひょっとしたらという疑問が脳裏をよぎった。悪魔は旧約時代には稀にしか出てこないのに、新約時代に入ると俄然頻繁に登場する印象が強いが、その通りかという疑問だ。そこで調べてみたら、「やっぱり!」だった。この事実は私を少なからず驚かせた。
 もう少し詳しく言うと、天使については、旧約聖書にも新約聖書にも非常に多くの記述がある。ところが、悪魔についてとなると、旧約聖書には極めて言及が少ないのだ。悪魔の存在がまるで意識されていなかったような感さえある。旧約聖書原典のヘブライ語では、悪魔はサタンかシェディームという名で出てくる。サタンは歴代史上21;1でダビデ王を唆した者として一度だけ言及されるが、名前だけで端役同然だ。唯一多く登場するのはヨブ記だが、これは宗教文学書だからフィクションに過ぎない。他方、シェディームの名で出てくる悪魔は、些末な場面でしか出番がないのだ。
 こう書くと、でも、エデンの園でエバをたぶらかした蛇は悪魔ではないのか?と反問されるかも知れない。確かに、「悪魔でもサタンでもある、年を経たあの蛇、つまり竜を取り押さえ、千年の間縛っておき」(黙示録20;2)とあるように、新約聖書と教会の教えはその蛇が実は悪魔だったと解釈している。口の利けないはずの蛇が驚くほど見事な話術を駆使しているのだから、確かにそれは蛇の姿をした狡猾な何者かだった、と言うほかはない。 
 しかし、創世記3章には、蛇は生き物の中で一番狡猾なものだったと書いてあるだけで、悪魔だとはどこにも書かれてない。だから、新約聖書の解釈なしに、この個所だけから悪魔の存在を語ることには無理があるのだ。旧約時代のイスラエル民族にとって、敵はエジプト、フィリスティン、アッシリア、バビロニア、ローマなどの異民族であり、悪魔が一番の敵だという意識はなかった。だから彼らは人祖が原罪に陥った楽園の出来事を、その後ほとんど問題にしなかったのだと思う。だが、それは旧約聖書で唯一悪魔が前面に現われ、蛇の姿ではあったが最重要な役割を演じた場面だった。そしてその後、世に罪悪が増加する事実によって、悪魔はその存在を窺わせつつも、聖書の表舞台にほとんど姿を見せなくなっていたのだ。救い主が現れるその時まで…
 ところが、新約聖書になると様子は一変する。福音書原典のギリシャ語では、悪魔はディアボロスと言われているが、そこでは人間の真の敵はもはや人々や国々ではなく、悪魔だ。そして、救いとは主イエス・キリスト様の死と復活によって、人類が悪魔のくびきから解放され、罪から清められ、神の子として新たに生まれることを意味する。当然、福音書も使徒たちの書簡も、戦うべき相手の悪魔について枚挙に暇のないほど頻繁に、譬え話、悪霊追放の奇跡、警告などの表現で言及する。だからそれらを読めば、悪魔がどんな者であるかがわかる。そして、まさにこの荒野の誘惑こそは、新約における悪魔の最初の出没で、最も目立つ言動があった時だ。それは人祖の誘惑以来ずっと見え隠れしかしていなかった者が、再び全貌を現わした出来事だったのだ。

 では、悪魔はイエス様に対して、荒野でどんな誘惑をしたのか?おもなものは三だった。一番目の誘惑は「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ」というものだった。これに対してイエス様は、「人はパンだけで生きるものではない」とお答えになった。マタイではそれに「神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」という続きの一句が加えられている。イエス様は申命記8;3を引用して誘惑を撃退されたのだった。 
 第二の誘惑では、悪魔は主を高く引き上げ、一瞬のうちに世界のすべての国々を見せて言った。「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。だから、もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる」と。イエス様は「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」と書いてある、とお答えになって、この誘惑も撃退なさった。これも申命記6;13にある言葉の引用だった。
 第三の誘惑では、悪魔はイエス様をエルサレムの神殿の屋根に立たせて言った。「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。というのはこう書いてあるからだ。『神はあなたのために天使たちに命じて、あなたの足をしっかり守らせる。』また『あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える』と。」すると、イエス様は「『あなたの神である主を試してはならない』と言われている」と答えて、この誘惑も撃退なさった。これも同じく申命記6;16の引用だった。
 これらの誘惑をイエス様の内面に起こった心理的な葛藤だと解釈する学者もいる。その場合は、悪魔は実在する者ではなく、主の内面に生まれた幻想ということになる。この誘惑の場面だけを切り取って考えれば、そういう解釈も成り立たないことはない。しかし、この後の福音宣教における説教や悪霊追放の奇跡、弟子たちへの訓戒などが、すべて悪魔の現存を前提にしたものであるところを見ると、三つの誘惑の時だけ現存の悪魔ではなかったという解釈は整合性に欠ける。だから、これはやはり実存の悪魔の誘惑だったと見るべきだろう。

 この三つの誘惑は人間の執念のような根本的欲望、すなわち食べて生きる欲望、他者支配の欲望、神を操る欲望の三つにつけ込んだものだった。最初の誘惑は生への執着に着眼したものだ。生きるためには食べなければならない。それは生物共通の関心事だが、人類の歴史は食糧確保の苦闘でもあったと言える。そのためにどれほど苦労し、不安に慄き、争ってきたことだろうか。今でこそ先進国の人々は人間的品位を保った食生活をしているが、それは食物の需給が安定しているからだ。しかし、ひとたび食糧危機が訪れれば、そうはしていられない。
 聖書には、あるひどい飢饉のとき、激しい飢えに耐えかねてわが子を食べた母親の恐ろしいエピソード(王下6;29)がある。太平洋戦争中のペリリュー島玉砕記は、日本兵が死んだ戦友の腕を食べたことを伝えている。そこまでではないが、戦後の食糧難時代、焼け跡の人々は品位などに構ってはいられなかった。飢えれば人は餓鬼になり、食物を奪い合う。イエス様は40日40夜の断食で飢えた極限の状態にあった。だから、普通なら食べたい一心で、理性の歯止めはきかないはずだった。悪魔はそこを狙った。だが、イエス様は聖書の言葉で、その誘惑を見事に斥けられたのだった。
 2番目の誘惑では、悪魔は全世界を見せて権力と繁栄を約束した。しかし、その代わりに彼を拝むことを求めた。拝むとはその相手を神と認める行為に他ならない。その代わり、その見返りに与える権力は他者を支配させ、繁栄による富はその権力を磐石にする。これは単に生きるだけではなく、人よりも勝れ、他者を支配下に置いて、己が生存をより確かにし、享楽と満足を追及できることを意味する。どれほどの権力者達がこの欲望に駆られ、多くの他者を踏みつけて不幸にしたことであろうか。そして、自分もまた不幸な末路を辿ったことであろうか。
 権力も富もそれだけで人を幸せにはしない。だから、やがてイエス様は、「富んでいるあなた方は不幸である」と教えられる。悪魔は「全世界は自分に任されている」と言ったが、それは嘘だった。彼は一時的な支配者ではあったろうが、与奪の権限はなかったからだ。主は後に、「悪魔が偽りを言うときは、その本性から言っている。自分が偽り者であり、その父だからである」(ヨハネ8;44)と教えられた。嘘を見抜いておられたのだ。だから、「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」というとりわけ重大な命令をもって答え、支配欲、所有欲の誘惑も撃退なさったのだった。 
 3番目の誘惑は神を利用して思い通りにしようとする誘惑だったと思う。神殿の屋根の端から飛び降りても大丈夫という根拠は神の支えにあった。神は守ってくれるに違いない。自分は信頼しお願いしているのだから、そうしてくれなければ神ではない。こう一方的に思って、神がそうしてくれるかどうかやってみる。つまり神を試すのだ。そして、思ったとおり願った通りにならないと、神は祈り聞いてくれない。もう信じないと食ってかかる。実は、人はしばしばそういう祈り方をしている。それなのに、それが神を試みていることだとは気付かない。
 しかし、これは自分の願望や欲望を成し遂げるために神を利用して働かせ、神を操ろうとすることに等しいのだ。ちなみに、神社等でご利益を願う祈りはこの類だ。仮に1万円を賽銭箱に入れたとしよう。ずいぶん気前よく見えるが、それで1年間無病息災に守ってくれというのだったら、それは日当約28円でご本尊をボディーガードに雇うようなものだ。こんな自己中で虫のいい祈りはない。これはご本尊を愛しているからではなく、利用価値があるから拝んでいることなのだ。 
 祈ることはいい。しかし、本当の祈りは主がゲッセマネの園で言われたように、願いや希望は申し上げても、「御心のままに行なってください」(ルカ22;42)と最後は神様に委ねることなのだ。祈りが本物かどうかは、聞き入れられなかった時が試金石になる。こんなに祈ったのに叶えてくれなかった。だから、もう信じないと恨む時、その祈りは間違っていたか不完全だったと言えよう。そういう祈りをする時、人は神を試している。驚くべきことはこの誘惑で、悪魔が聖書(詩編91;11-12)を使ったことだ。聖書を使う者、必ずしも神から来た者ではなく、祈る者、必ずしも真の信仰者とは限らないのだ。

 では、悪魔はなぜ主を誘惑したのだろうか?目的は二つあったと思われる。一つはイエス様が本当に神の子かどうかを確かめるためだっただろう。「神の子なら」と2回挑発したのが何よりの証明だ。他の1回は逆に「神の子でないなら」と言ったに等しく、だから「わたしを拝め」と要求したのだが、これも一つの証明になる。ちなみに、イエス様は「神の子なら」という挑発をもう一度受けられたことがある。十字架上の主に、群衆が「神の子なら、自分を救ってみろ」(マタイ27;40)と言った時だ。
 二つ目の目的は、楽園で人祖を堕罪させたように、もしこの誘惑に成功したら、神の救いの計画を頓挫させることができると考えたからだろう。預言者たちの予告、救い主の聖誕、ヨハネの洗礼の時に聞こえた「これはわたしの愛する子」という天からの声などから、悪魔は人類の救いが始まったことを察知していたに違いない。だから、誘惑に成功すれば、ひょっとしたら神に勝てるかもしれないと、ここで乾坤一擲の大勝負に出たのだと思う。
 ところで、荒野の誘惑と人祖が受けた楽園の誘惑とを比べると、その相似が興味深い。両方とも食べ物から始まった。しかし、エバは木の実がおいしそうだったからだけの理由で食べたのではなく、蛇が「食べると、神のように善悪を知るものになる」、「食べても決して死ぬことはない」とそそのかしたからだった。善悪を知るとは、富の中の富である知的富の支配権を握ることで、荒野の第二の誘惑に通じる。そして、神が「食べたら死ぬ」と言ったのに、「蛇の言うとおり、食べても死なないだろう」と考えて、一線を越えたことは神を試みることだった。二つの誘惑はある意味で似ている。
 だが、結末はまったく違った。アダムとエバは誘惑に負け、イエス様は勝った。これを見ると、主は荒野の40日40夜によって、荒野で神に背き続けたイスラエルの民の40年間を、御心に適うものにやり直し、荒野での誘惑に勝って、人祖が負けた楽園の誘惑を帳消しになさったのだと思えてくる。だからこそ聖パウロは、「アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです」(一コリ15;22)と書いたのだと思う。 

 荒野の誘惑は次の一句で終わる。「悪魔はあらゆる誘惑を終えて、時が来るまでイエスを離れた」と。では、福音書の中で、その後の消息はどうなっただろうか?少し後、カファルナウムの会堂で、ある男が「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか」(ルカ4;34)と叫んだ。イエス様がお叱りになると、悪霊は彼から出て行った。まるで負け犬だった。ゲラサの悪魔つきの場合(ルカ8;26-39)は、イエス様に追い出されると、住みついていた多くの悪霊が豚の群れに入り、崖から湖水になだれ込んで溺死したとある。
 荒野の誘惑の後、主は悪魔についてしばしば語り、弟子たちに警戒を促された。主の祈りには、「わたしたちを誘惑に陥らせず、悪から救ってください」という2句をお入れになった。そこには荒野の誘惑の体験が反映されているようにも思える。「悪魔は…時が来るまでイエスを離れた」とあるが、対決のその時への進行は、大よそ次のようであった。 
 エルサレムへの途上で、弟子たちが「主よ、お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します」と報告したとき、主はこう言われた。「わたしは、サタンが稲妻のように天から落ちるのを見ていた」(ルカ10;18)と。
 ご受難の少し前、エルサレムに入城された後、天からの声がしたときは、「今こそ、この世が裁かれる時。今、この世の支配者が追放される」(ヨハネ12;31)と言われた。
 最後の晩餐の時は、「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰がなくならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」(ルカ22;31-32)と言われた。
 その時は、またこうも言われた。「もはや、あなたがたと多くを語るまい。夜の支配者が来るからである。だが、彼はわたしをどうすることもできない」(ヨハネ14;30)と。
 そして、シモン・ペトロは最後の晩餐の時に言われた主のお言葉を忘れず、後にこう書いた。「身を慎んで目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるライオンのように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。信仰にしっかり踏みとどまって、悪魔に抵抗しなさい」(一ペトロ5;8)と。
 さて最後に一つブラックジョークを。もし悪魔などいないとせせら笑う人がいるとすれば、悪魔はにやりとほくそ笑むに違いない。なぜ?なぜって、いないと思われていれば警戒されずに動けるから、それほど都合のいい状況はないので…

山麓の説教

 「イエスは山から下りて、平らな所にお立ちになった。大勢の弟子とおびただしい民衆が、ユダヤ全土とエルサレムから、また、ティルスやシドンの海岸地方から、イエスの教えを聞くため、また病気を癒していただくために来ていた。」

 これは年間第6主日の福音、ルカ6;17,20-26の最初の1節だ。イエスが山から下りて、平らな所に立たれたのならば、その前は山の上におられたわけだ。果たしてそうだったのかと思って少し前を読んだら、ルカ6;12には、「イエスは山に行き、神に祈って夜を明かされた」とあった。確かに山に登り、そこで一夜を過ごされた後、下山されたのだ。文脈から見ると、それはごく自然につながっている。話の筋が通るように、ルカがそういう場面設定にしたと考えられなくもないが、主が実際にそうなさったことを疑う理由もない。だから、ここではそれを素直に事実と信じて考察を進めたい。
 麓には大勢の弟子とおびただしい民衆が待っていた。山上では弟子たちの中から十二人が使徒に選ばれたのだから、山に登った弟子たちはかなりいたはずだ。しかし、「大勢の弟子とおびただしい民衆」とあるところを見ると、下で待っていた弟子たちもいたのだろう。群衆はユダヤだけでなく、フェニキアの町々からも押しかけて来ていた。彼らは神の言葉を聞き、病を癒してもらいたくて来ていた。しかしルカ6;6-11を読むと、エルサレムからの人たちの中には、イエス様のあら探しに来ていた批判者も相当混じっていたことが窺われる。

 福音は次のように続く。
 「さて、イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた。
 『貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたたがのものである。
 今飢えている人々は、幸いである、あなたがたは満たされる。
 今泣いている人々は、幸いである、あなたがたは笑うようになる。
 人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである。その日には、喜び踊りなさい。天には大きな報いがある。この人々の先祖も、預言者たちに同じことをしたのである』
 しかし、富んでいるあなたがたは、不幸である、あなたがたはもう慰めを受けている。
 今満腹している人々、あなたがたは、不幸である、あなたがたは飢えるようになる。
 今笑っている人々は、不幸である、あなたがたは悲しみ泣くようになる。
 すべての人にほめられるとき、あなたがたは不幸である。この人々の先祖も、偽預言者たちに同じことをしたのである。』」

 これを読むと、聖書に慣れ親しんでいる人なら、すぐ、マタイ福音書5;1-12にある真福八端を連想するだろう。有名な「山上の説教」の序章に当たる8か条だ。それは真に「幸いな人」とは誰かを高らかに宣言している。ルカでも同じで、それは重要な説教の序章になっている。ただマタイでは序章も説教本体も山の上で語られたが、ルカでは山の下の平地で行なわれた。だから、山上の説教に対して、それは「山麓の説教」と言っていいと思う。
 ところで、この2つの序章はよく似ていると同時に、相違点も少なくない。まず似ているところだが、2つとも、どんな人たちが福音的な新しい生き方にふさわしいかを明言している。貧しい人々、泣く人々、飢える人々、迫害を受ける人々が登場する点も共通だ。「幸いである」という断言と、意表をつく逆転の理由もまたよく似ている。そして両方とも、弟子たちに対して話されている点が同じだ。この点は私自身今まで見落として来たが、「イエスは目を上げ、弟子たちを見て言われた」のであって、群衆に直接話されたのではなかったのだ。 
 しかし、相違点も少なくない。まずマタイでは山の上、ルカでは平地で話された点が違う。内容では、マタイでは全部が「幸い」なのに対し、ルカでは4つの「幸い」と4つの「不幸」がペアで語られている。一方にあって他方にない内容があるという点でも違いがある。マタイでは心の貧しい人、義に飢える人だが、ルカでは端的に貧しい人、飢える人だ。マタイでは、幸いな人は3人称の「彼ら」だが、ルカでは2人称の「あなたがた」だ。そして、「天の国」と「神の国」いう言葉の違いもある。

 そこで疑問が湧く。イエス様の同じ説教なのに、なぜこうも違って伝えられたのかという疑問だ。多くの解説書はあれこれの理由をあげてその答えを出そうとしてきた。その一つは、2人の福音史家が違ったテーマと構想で福音書を書いたからだという解釈で、その解明を試みる。確かにそれは無駄ではない。なぜなら、そのおかげで、なぜマタイが説教を山上にし、なぜ「天の国」という言葉などを使ったのか、なぜルカはそうしなかったのかなどが、あるていど明らかになるからだ。
 事実、マタイはユダヤ人向けに、イエス・キリスト様こそ預言された約束のメシアだという根本理解で福音書を書いた。ところで、旧約の律法はモーセによってシナイ山で授けられのだから、新約の律法に当たる福音の新しい掟と生き方の大憲章もそれに対応して、山上からでなければならなかった。そこでマタイは、福音宣教スタートの大説教とその序章を、山上から発布するという構想で書いたと考えられる。ところがルカは、イエス・キリスト様が人類を罪と苦しみから救うために来られた救い主だという理解で、異邦人向けに福音書を書いた。だから、主が民衆の中に入り、彼らと同じ目線の平地で説教する形を選んだ、という解釈だ。確かにそれは説得力がなくはない。 
 でも、それには弱点がある。マタイとルカが、それぞれの福音理解やビジョンに基づいて福音書を構想したとことは、それはそれでいい。だが、自分の構想に合わせて説教を山の上にしたり下にしたりしていいのか、と言う問題が残るからだ。そんな多分に恣意的な選択で書いたのだとしたら、本当の事実はどうなのか信用できなくなる。それに、それでは山の上だったのか下だったのかと言う疑問への答えにはなっておらず、結局どちらだったかが曖昧のままに終わるからでもある。

 字句の相違は、想定していた読者の違い、福音史家の生まれや個性などで説明できる。例えば、マタイは「天の国」という言葉を使ったが、それは旧約聖書の文化で育ったユダヤ人にとってはなじみのある用語だったからだろう。それに対し、ルカは異邦人向けに書いたから、ユダヤ的な用語は避け、「神の国」にしたのだと解釈できる。主の祈りでもルカは「父よ」だけで、「天におられる」は省いた。しかし、天の国も神の国も実質は同じだから、どちらが正しいかの問題ではない。
 また、マタイは「心の貧しい人々は幸いである」、「義に飢え渇く人は幸いである」と書いた。義とはきわめてユダヤ的な概念で、義人は彼らの理想像であった。義に飢えるとはそういう人になりたいという願いを表している。心の貧しさとは、ファリサイ人たちのように自分は立派だと思い上がっている心の反対で、心を空にして神の教えを待つ状態を言う。だから、自分もユダヤ人であったマタイが、こういう表現にしたことは納得できる。もっとも、「心の貧しい人」という言い方は、「心の豊かな人」を目指す日本の教育などでは、誤解されやすいから注意が要る。
 対するに、ルカは異邦人の生まれで、医者でもあった。だから、彼は貧しい人、虐げられている人、病む人などに関心と同情を持っていた。そういう出自や性格があったからこそ、彼は貧しい人を端的に貧困の人、飢えている人を端的に食べ物のない人として表現した。そして、そういう人々は幸いだ、なぜなら神の国に入れるし、食べて満たされるのはあなたたちだからだと書いたのだ。反対に、富める者等には厳しい口調で、「あなたがたは不幸である」と来るべき禍を予告した。こういう説明は説得力があるし、細かい疑問への答えにはなっている。 

 しかし、こうした解釈や説明で、問題がすっきり片付いたかというと、そうでもない。その一番の原因は、山上の説教と麓の説教を同じものだと見なしていることにあるのではないか。私はそう思うのだ。2つがもともと同じ説教だという前提で考える限り、上述のようにある程度説明できても、結局は満足には答えられないままで終わる。ところが、そうではなく、2つの説教を別のものだと見なせば、答えは全く違ってくる。別の時、別の場所で行なわれた別の説教なら、違いはあって当然だ。そこで問題はいっぺんに解決する。なぜどの解説書もそういう見方をしないのか、不思議でならない。
 この見方を前提にすれば、説教があったのは山の上か、それとも麓かという問いは愚問に近くなる。なぜなら、説教はたった1回だけでも同じものでもなく、山上でもされただろうし、山麓でも行なわれただろうと考えていいからだ。問題はむしろなぜ2つが似ているかの方になるが、その答えは簡単だ。話した人が同じだからだ。同じ人が話せば、説教は当然似たような内容になる。それは私もずいぶん経験していることだ。しかし同じ人が同じことを話しても、時と場所が違えば、違いも少しずつは生じる。これまた当たり前だということになる。

 ところで、同じ説教が山の上でも、山の麓でも、湖上でも、神殿の庭でも、何回も行なわれたに違いないという見方は、2000年前の世界を考えると、実はとても自然なことだったことがわかる。一回しか話されなかったように考える方がむしろ不自然なのだ。なぜなら、当時は今日とは大違いだったからだ。つまり、現代なら言ったことや書いたことは、インターネットや各種メディアによってすぐ世界中に伝わるから、何回も言ったり書いたりする必要がない。一度で済む。しかし、当時はそうではなかった。むしろ同じことを何回も話さなければならなかったのだ。
 イエス様は教えを本に書かれたわけでもなく、パンフレットにして配っておられたわけでもない。口頭でこちらの村、あちらの町へと福音を伝え歩いておられた。町や村の間には発達した交通網も通信伝達のメディアもなかったから、噂などで伝わることはあっても、ある町で話した教えがそのままでちゃんと他の町々村々に知られることはなかった。従って、ある教えはこの町で話したからと言って、もう他の町々村々ではしなくても済むというわけにはいかなかった。ある所で話しても、同じ教えを次の場所、そのまた次の場所でも、繰り返し話さなければならなかったのだ。
 山上の説教もそうだったと言えよう。そこで話されたことを他の場所の人たちはまだ知らなかった。だから、他の場所に新しい聴衆が集まれば、イエス様はそこでもまた同じことを繰り返して話されたに違いない。しかし、教えは同じでも、場所や日時が違えば、内容に多少の違いが出る。私はそれが山上と山麓の説教の間にある相似と相違を、最もよく解明してくれる説明ではないかと思う。ちなみに、マタイとルカにある主の祈りの違いも、同じ見方で考えると、すんなり納得できる。
 もしこの解明が妥当だとすれば、マタイの山上の説教は、どちらかと言えば実際に語られた時や場所から切り離されて、人為的に3つの章に総集されたものだと思えてくる。本当はイエス様が、こんなに多くのことを一度に話されたことはなかったのではなかろうか。その意味では、ルカが6章の山麓の説教を短くし、マタイの山上の説教にある他のテーマを、ルカ11、12、13、14、16章のいずれかの、よりふさわしいと思われる文脈の中に分散・収録したのは、より事実に近づけた書き方だったと思う。ここには彼が福音書序文で、「順序正しく書いた」と言ったことの実践が見られる。

 さて、ここまでは知的好奇心を満足させる考察で、霊的にはあまり益にならない自学だったが、一番大事なことはイエス様のメッセージをどう心で受け止めるかにある。主は「目を上げて弟子たちを見て言われた」とあるが、弟子たちは主が一句を口から発せられる度に、それを伝令ゲームのような形で、四方を取り囲んでいた民衆に伝えたのではなかろうか。なぜなら、野外では生の声はそんなに遠くまで通らないからだ。そして、その言葉は今、現代の私たちにまで達している。
 その一句一句は、聞く人にとっては嬉しい言葉であり、気になり、恐ろしくもあるお言葉だっただろう。「貧しい人々は、幸いである」と聞いたとき、貧しい人々は貧しいがゆえに自分達を不幸だと思い込んでいたのに、この方の言われることは逆だと驚いたに違いない。反対に富める人々は、心中、何を馬鹿なことをと思ったかも知れない。しかし、「神の国はあなたがたのものである」と、その理由を聞いたとき、貧しい人々はどんなに喜んだことだろうか。逆に、富める人々は渋い顔をしただろうと想像できる。神の国が来る時、事態は逆転する。重要な点はそこにある。
 「今、飢えている人々は、幸いである」と言われたときも同じような反応が起こったことだろう。飢えているあなた方は、今、飢えているから幸いなのではない。神の国が来れば満たされるから幸いだという吉報なのだ。今、泣いている人々も同じで、神の国が来れば、笑えるようになる。「聖書の中の笑い」についてはかつてブログに書いたが、聖書には笑いが少ない。それだけ人類には悲苦の方が多いということなのだろうが、この1節は「心から笑う笑い」が語られる珍しい個所だ。
 マタイと違い、ルカの場合は「不幸である」が「幸いである」のペアで出てくる。これは禍の宣告だが、むしろ嘆きに近い。どんな人々が不幸かというと、富んでいる人たち、満腹している人たち、今、笑っている人たちだ。そういう人々を待つのは逆転した状態だ。思い当たる人々はドキッとしたに違いない。富める人々は神の国から除外され、満腹の人々は飢え、笑っている人々は泣くようになる。聞いた人々は、おのおの自分はどれに該当するかと自問せざるを得なかったことだろう。

 では、私自身はどうかと自問するに、思い当たることがなくはない。富める中には入らないと思うが、貧しい人とも言えない。そんなに飽食はしていないつもりだが、飢えてもいない。心に辛いことは抱えているが、かなりよく笑う。そんな私は「幸いである」人と「不幸である」人のどちらに該当するのだろうか?どうもどちらにも当てはまらないような気がする。では、そういう者はどうしたらいいのだろうか?まず、「不幸である」と宣告された人々のようにはならないように努力するとして、貧しい人、飢える人、泣く人になる必要があるのだろうか?
 いや、その必要はないと思う。イエス様は目の前の群衆にそういう人たちが多かったから、そう話された。ルカは同情心からそれを強調したが、もし幸せであるためには、そういう人と同じでなければならないと受け止めるなら、それは間違った理解だと思う。主は貧しさ、飢え、泣くこと、迫害などを善いものとして祝福されたわけではない。むしろ、それらは逆転の時に捨て去られるべき悪なのだ。だから、「幸いである」人になるために、貧しくなり、飢え、泣き、迫害を求めるなら、それは本末転倒になる。
 イエス様が「幸いである」として、貧しい人など4例を挙げたのは、一つには神様がそういう人々を特別に心にかけてくださるからであり、二つ目には神様にしか頼れなかった当時のそういう人々が、人一倍神様に希望を置き、神の国を熱望していたからだ。それに対し、富者や満ち足りている人たちには、神を必要とせず神の国も望まない者が多かったから、イエス様はショッキングな表現で警告なさったのだ。しかし、貧しくても、神の国を望まず、できれば金持ちになりたいと心が欲でいっぱいの欲張り貧者もいる。そういう貧者は逆転の報いを得ることはない。逆に、物的に貧しくなくても、慾に縛られず、福音を受け入れるため心を空にする人もいる。そういう人は神の国に入れていただけるだろう。マタイが「心の貧しい人」と言ったのはそういう人のことだ。
 「今、笑う人は不幸である」と言うのも誤解を招きそうだ。笑いは悪ではない。むしろ、生活を健全にするものだ。笑う門には福来る。それがなぜ禍みたいに言われたのだろうか?当時は今とは違ったからだ。悲惨に泣く貧民が溢れていたのに、宮殿の王や、乞食のラザロを見殺しにした富者(ルカ16章)のような者たちは、そんな庶民のことなど眼中になく、自分たちだけがウハウハと笑って飽食し、楽しんでいた。だから、イエス様はそういう人たちの反福音的な今の笑いが、やがて逆転の憂き目を見ると言われたのだ。罰されるのは笑いではない。

 さて、では、今の自分にできることは何かと考えると、まず心の貧しい人になることだろうか。富は持っていても持たないかのように、食物はある物で満足し、贅沢を言わず、より貧しい人々や飢えている人々がいたら、犠牲をして助ける。悲しむ人、泣く人がいたら、共に悲しみ泣ければと願う。そして、喜び笑う人がいたら、共に喜び合って笑いたい。その笑いは禍だと言われた笑いではなく、神の国で実現するはずの笑いの前倒しで、祝福された笑いだと思う。 
 主イエス様は、私たちが人々に憎まれ、迫害され、ののしられ、汚名を着せられるときは幸いだと言われた。そのわけは、信仰の先人たちも預言者たちもそうされたが、天に大きな報いがあるからだ。逆に人から褒めそやされる時は不幸だ。偽預言者たちもそうだったからだとも言われた。現代ではそういう激しいことはあまりないが、それでも教会内でさえ誤解や誹謗は起こる。そんな当事者になった時は、「喜び踊りなさい」を実践し、褒められる時は自戒したい。

聖パウロの証言

 今日、年間第5主日の第二朗読には、コリントの信徒への第一の手紙15;1-11が読まれた。この個所はキリスト教信仰の根幹について語っている。それは当時のコリントの信者たちにとって、どうしても欠かせない励ましであり証言でもあったのだろう。それを読むと、彼ら以上にそれを必要とする現代の私たちは、信じた福音が間違いないものだとの確信を新たにし、感銘を受ける。

 聖パウロは書いた。「兄弟たち、わたしがあなたがたに告げ知らせた福音を、ここでもう一度知らせます」と。彼がコリントに初めて主イエス・キリスト様の福音をもたらし、そこに信仰の共同体をつくったのは西暦50-52年頃だった。そして、この手紙を書いたのは西暦57年頃だと言われる。そうだとすれば、彼が去ってから5年ほどしか経っていなかったことになる。それなのに、「もう一度知らせます」と、わざわざ書かなければならなかったということは、信徒たちの間にもう信仰のぐらつきが起こっていたからだった。
 そんなにも早くそうなったことに、私はいささかの驚きを覚える。しかし、同時に人とはそんなものだとも思う。弱いからだ。ましてや私たちはそれから2000年も経った21世紀に、キリスト教発祥の地からはるかに離れた、文化も歴史もまるで異質な日本に生きている。それを思えば、私たちに福音に対する疑問が起きたり、信仰がぐらついたりしても、それほど驚くには当たらない。むしろ当然だ。しかし、だからこそ、聖パウロが断言してくれる証言は心強いのだ。それは私たちの疑念を晴らし、ぐらつきかかる信仰を持ち直させてくれるからだ。 

 では、聖パウロは何を証言しているのかと言うと、彼はこう書いている。「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、・・・キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また聖書に書いてあるとおり、三日目に復活したこと」だと。これが彼の証言の要点だ。そして、それはまさに私たちが主日ごとに唱える信仰宣言の根幹的部分と重なる。言い換えれば、それは信仰宣言が初代教会における信仰と変っていない、ということを意味する。これはすごいことだ。
 信仰宣言には、「わたしは信じます。唯一の神、全能の父、天と地、見えるもの、見えないもの、すべてのものの造り主を。わたしは信じます。唯一の主イエス・キリストを。…主は、わたしたち人類のためわたしたちの救いのために天からくだり、聖霊によって、おとめマリアよりからだを受け、人となられました。ポンティオ・ピラトのもとで、わたしたちのために十字架につけられ、苦しみを受け、葬られ、聖書にあるとおり三日目に復活し、…」とある。そして、その後に主の再臨、聖霊、教会、体の復活、永遠の生命などの信仰箇条が続く。
 その各部分を見ると、「唯一の神、天と地、見えるもの、見えないものの造り主」を信じる部分は、キリスト教独自の信仰ではなく、ユダヤ教やイスラム教徒と変わらない。しかし、全能の父、唯一の主イエス・キリストを信じるのはキリスト教だけの信仰となる。そして、「主は、…わたしたちのために十字架につけられ、苦しみを受け、葬られ、聖書にあるとおり三日目に復活した」ことを信じるのは、まさに信仰箇条の根幹だ。この部分がなければキリスト教ではなく、それを前提としなければ、主の再臨、聖霊、教会、永遠の生命などのことは皆、意味を失う。聖パウロがコリントの信者たちに語り、念を押したのは、それが信仰の根幹だったからなのだ。だから、彼は断言した。「あなたがたはこの福音によって救われます。さもないと、あなたがたが信じたこと自体が、無駄になってしまうでしょう」(一コリ15;2)と。

 彼が特に重視したのはイエス様の復活だった。だから、手紙の15;12ではこう書いて叱責した。「キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたのある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか」と。そう言いふらす信者がいたからだ。そして、「キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。…キリストが復活しなかったのなら、…わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者です」とも書いたのだ。
 彼は主の復活が真実だったことを確信させるため、復活の主に出会った証人を数多く列挙している。まずケファと呼ばれた使徒の頭ペトロだが、それはルカの福音書24;34に該当する事実だと思われる。他の10使徒への出現は全福音書が伝えている。500人以上の兄弟に同時に現れたというのは、福音書にも使徒言行録にも言及はないが、考えられるのはご昇天(徒1;6-11)の時だろう。「次いでヤコブに現れ」という記述も福音書や使徒言行録には該当記録がない。しかし、その出現はあったのかも知れない。その半面、聖パウロはマグダラのマリアや他の婦人たち、そしてエマオへの弟子たちへの出現には触れていない。 
 興味深いのは500人以上の兄弟たちに現れたことで、「そのうちの何人かは既に眠りについたにしろ、大部分は今なお生き残っています」と書いている点だ。彼がこの手紙を書いた時は、主がご昇天されてからすでに約25年が経っていた。従って、その時20歳前後だった者は45歳前後になっていただろう。でも、確かにまだ大勢が存命中だったことは容易に推察できる。大勢の目撃証人が存命中なら、作り事や嘘はまかり通らない。それは証言の信憑性を裏付ける一根拠になる。要するに、重要なことは多くの証人がいるということだった。

 でも、一つの疑問が湧く。聖パウロは、「あなたがたはこの福音によって救われます」と言ったが、では、それを信じたら、それだけで人は救われるのだろうか?私の自答は、その通り、確かにこの福音を信じなければ救われない。しかし、それを信じただけでは救われない、ということだ。根拠は、聖パウロ自身が「たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ無に等しい」(一コリ13;2)と教えてくれたことにある。人は信仰がなければ救われないが、信仰だけでも救われない。愛がなければならないのだ。ちなみに、信じるだけで救われると主張したルターの致命的誤りはそこにあった。
 私は福音における信仰の真髄は教義にはなく、「愛を信じ、愛を行なうこと」にあると確信している。信じることの究極は愛を信じることであり、愛を生きることが福音の真髄なのだ、と。この確信は、イエス様自らが最も重要なことは神様と隣人への愛だ(マルコ12;28-34、マタイ22;34-40、ルカ10;25-28と教えてくださり、人が裁きの時に問われるのは愛だ(マタイ25;31-46)と明かしてくださったからだ。信仰があるだけではだめだということは忘れてはならないと思う。

 では、信仰は救いのためにどんな役割を果たすのだろうか?ここは理屈で説明するよりも喩えで言うと、信仰と愛を人体に喩えるならば、愛は心に当たり、信仰は体に相当すると言えのではなかろうか。そして、信仰箇条とは体の主要部分に当たると思う。心がなく、体だけなら人とは言えないが、心だけあって、体がない人間もありえない。身体がなければ、心は存在する場所がないからだ。両方があってこそ人は人でありうる。愛と信仰の関係もそれに似ている。愛は信仰を生かし、信仰は愛に居場所を与え、それを支える。
 身体の中にはいろいろな部分がある。爪や毛髪のように切って捨てていい物もあれば、頭、胴体、目口耳鼻、手足、血管など、必要不可欠な部分もある。信仰宣言の内容は信仰箇条と言われ、身体で言えばさしずめその必要不可欠な部分に当たる。聖パウロが言った「キリストがわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また聖書に書いてあるとおり、三日目に復活したこと」は、まさにその必要不可欠な信仰箇条のエッセンスなのだ。
 何よりも大切なのは神と隣人への愛で、それがない信仰は無に等しい。これは確かだ。しかし、信仰がないと神と隣人への愛を学べない。それは、信じない神をどうして愛せるだろうかと問えば、誰にもわかることだ。神と人を真に愛するには福音的信仰が不可欠なのだ。その愛は福音を受け入れた信仰の中で育つ。その信仰は愛を支え育み、逆に愛は信仰を生かす。だから、聖パウロはコリントの信徒たちに、そのことをこんこんと教えたのだ。そのおかげで、現代に生きる私たちはその恩恵にあずかることができる。彼の手紙は理屈っぽいからさほど感動的とは言えないが、私たちにまちがいなく強固な確信を与えてくれる。実にありがたい。彼に感謝しよう。
 ただ、残念なことが一つある。彼は「わたしは、神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中でもいちばん小さな者であり、使徒と呼ばれる値打ちのない者です」と言いながら、「わたしに与えられた神の恵みは無駄にならず、わたしは他のすべての使徒よりずっと多く働きました」と書いた。こんな誇り方をするパウロは好きではない。この後半は書かない方がよかった。使徒も人間だった。不完全なところがあったのだなと思う。
 

聖なるものへの感性

 
人間をとる漁師
人間をとる漁師 

 「イエスがゲネサレト湖畔に立っておられると、神の言葉を聞こうとして、群衆がその周りに押し寄せてきた。イエスは二そうの舟が岸にあるのをご覧になった。漁師たちは舟から上がって網を洗っていた。そこでイエスは、そのうちの一そうであるシモンの持ち舟に乗り、岸から少し漕ぎ出すようにお頼みになった。そして、腰を下ろして舟から群衆に教え始められた。話し終わったとき、シモンに、『沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい』と言われた。シモンは、『先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう』と答えた。」 

 これは年間第5主日の福音、ルカ5;1-12の前半だ。今回は小さなものも含め、湧いてくる自問にできるだけ逐一自答していくやり方で、この個所を理解してみようと思う。
 まず、この出来事はいつどこであったことなのだろうか?何月何日かはわからないが、まだガリラヤでの福音宣教の初期だったことは確かだ。時間は網を洗っていたシモンが「夜通し苦労した」と言っているところを見ると、どうやら早朝だったようだ。
 他方、場所がゲネサレト湖畔だったことはわかっている。だが、それはどこの湖畔だったのだろうか?ゲネサレト湖とはガリラヤ湖の別名で、現地ではギノサル湖と発音されている。かつて、その名のついたキブツ・ギノサルの水泳場で泳いだことがあるが、そこは浜辺と言った方がいい水辺で、岩場ではない。泳げる範囲内はそんなに深くはなかった。ところで、シモンとはペトロのことだが、彼はベトサイダの人だ。だから、イエス様がおられた場所はおそらく湖の北西部にあるベトサイダだったと思う。そこの湖畔もギノサルと同じように小石混じりの砂浜だ。

 群衆はそこにイエス様がおられることを知り、神の言葉を聞こうと押しかけてきた。でも、どうしてそんな早朝に、主がそこにおられることを知ることができたのだろうか?その答えは「群衆はイエスを捜し回って…」(ルカ4;42)という一句にあると思う。これはこの湖畔に来る前の叙述だが、どこでも同じような現象が起こっていた。群衆はイエス様から離れまいとし、見失えば捜し回り、見つければついて回っていたのだ。従って、たとえどんな早朝でも主の動静を見過ごすことはなく、誰かが気付いて後を追えば、皆もすぐ続いた。だから、そこに押しかけることができたのだ。
 それにしても、群衆がそんなに朝早くからイエス様の言葉を聞こうとして出て来たとは、たとえ病気の治癒やこの世的なご利益目当ての動機があったとしても、やはり感心させられることだ。彼らの多くはきっと神の言葉にそれほど飢えていたのだろう。それを思うと、私たちはどうだろうかと反省しなければならないような気がする。教会に行く信者たちは彼らほど神の言葉に飢えているだろうか?豊になり過ぎて、神様や福音などなくても生きられると、無意識に思っていないだろうか?

 舟は二そうあった。一そうはペトロの持ち舟だったが、もう一そうは誰の舟だったのだろうか?もっと後の9節を読むと、それはヤコブとヨハネ兄弟のものだったことがわかる。この2人も漁師で、マルコ1;16-20とマタイ4;18-22によれば、シモン・ペトロとほぼ同じ場所でイエス様に「ついて来なさい」と呼ばれたのだった。ただ、ルカは舟から上がって網を洗っていたと書いているが、マタイとマルコは彼らが漁の最中だっとしている。どうでもいいことだが、わずかに時間のずれがある。
 では、なぜイエス様はシモンに、舟を湖上に出すようお頼みになったのだろうか?仏語訳は“Or, un jour que, pressé par la foule qui écoutait la parole de Dieu, il se tenait sur les bords du lac de Gennésareth.”(さて、ある日、神の言葉を聞いていた群衆に押し迫られて、彼(イエス)はゲネサレト湖の水際に立っていた)としている。この訳だと、なるほど、群衆がそんな身近まで押し寄せていたのか。背後は水際でもうそれ以上下がれなかったのだなと、イエス様の立ち位置がよく想像できる。そして、だから舟に乗り、少し岸から離すようにと頼まれたんだと納得できる。
 ちょっと気になる点があった。新共同訳では湖畔に群衆が押し寄せてきたから、イエス様は舟に乗り、そこから「教え始められた」と訳されているが、仏語訳では群衆は浜辺ですでに神の言葉を聞いていたことになっている。だから、主は舟に乗って教え始められたのではなく、教え続けられたと訳されている。どちらが正しい訳なのか?調べたところ、ギリシャ語原典はじめ他のほとんどの訳も「教えられた」と書いてあるだけだ。「教え始められた」とは書いてない。それらから判断すると、これは新共同訳の勇み足的な誤訳のように思われる。
 もうひとつ。新共同訳のこの箇所には、「漁師を弟子にする」というコメントがある。これを読む人は、主とペトロがこの時初めて出会ったのだと受け取るかも知れない。事実、カトリック新聞の日曜説教「キリストの光り、光りのキリスト」の担当神父様もそのような解釈をされている。しかし、揚げ足をとるようで気が引けるが、実際はそうではなかった。2人はもう以前に出会っていたのだ。これも些細なことだが、勘違いしてはいけないから証明しよう。
 ヨハネの福音書を信じれば、最初の出会いは主がヨルダン川で洗礼を受けられた直後だった。その時は弟のアンデレがシモンを主の所に連れて行き、主から「あなたはヨハネの子シモンであるが、ケファ-『岩』という意味-と呼ぶことにする」(ヨハネ1;42)と言われている。次は主がガリラヤに帰られた後シモンの家を訪れ、しゅうとめの病を治された時(ルカ4;38)だ。少なくとももう2回以上は会っていた。このように、すでに知り合った間柄だったからこそ、主はシモン・ペトロの舟に乗り込み、湖上に出してくれと頼めたのだ。

 さて、舟が湖上に出ると、イエス様は腰を下ろして舟から群衆に教え続けられた。それができたということは、この朝のゲネサレト湖は凪だったと推察できる。そんな浜辺の澄んだ空気の中に、きっと主の声は凛と響き渡ったことであろう。福音書の中で、湖上からの説教はここしかない。ではこの時、主はいったいどんな話しをなさったのだろうか?残念ながらそれはわからない。しかし、想像をたくましくして推察するならば、「平地での説教」(ルカ6;20-49)のような内容や天国のたとえ(マタイ13;44-50)のような話ではなかっただろうか。特にこの後者には、網と湖、良い魚と悪い魚のたとえがあるからだ。
 話し終わると、主はシモンに、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われた。この言葉にシモンは「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えた。これは「先生、お言葉ですが、私たちはプロの漁師です。いつどこの穴場にどう網を降ろしたら魚が獲れるかぐらい知り尽くしています。そんな私たちが夜通し苦労しても何一つ獲れなかったんですよ。そこへいくと、先生は素人じゃありませんか。でも、いいです。せっかく先生がおっしゃるのですから、網を降ろしてみましょう」という意味合いだった。
 ところで、好奇心からの自問だが、ペトロたちはどんな網を使っていたのだろうか?定置網、底引き網、まき網、地引網、刺網、投網、すくい網? この時代の舟がたった一そうで、湖のあまり深くない場所で試みた漁だったことを考えると、消去法で割り出せるのは刺網の一種か投網しかないと思うのだが、どうだろうか。いずれにせよ、ペトロがほとんど期待しないまま降ろした網に、何と予想もしなかったことが起こっていたのだった。福音書はそれをこう続ける。

 「そして、漁師たちがその通りにすると、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった。そこで、もう一そうの舟にいる仲間に合図して、来て手を貸してくれるように頼んだ。彼らは来て、二そうの舟を魚でいっぱいにしたので、舟は沈みそうになった。」

 「漁師たちが」とあるから、舟にはイエス様とペトロ以外にもう1人以上の漁師がいたことがわかる。ここまでも、ペトロは「わたしたちは、夜通し苦労し」などと、一人称複数で話している。漁師は舟の上に複数いたのだ。では、それは誰だったのだろうか?間違いなく弟のアンドレだっただろう。ところで、彼はここでどうでもよい存在だったのではない。なぜなら、舟が少し沖に出れば、もう声は群衆には届かないのに、もし舟にいたのがイエス様とシモンだけだったならば、舟の上であった主とペトロの会話を証言できた第三者が誰もいなかったことになるからだ。しかしアンドレがいた。そのおかげで、他の弟子たちはペトロの証言も信用できたのだと思う。
 舟では驚くべきことが起こった。網にはペトロも仰天するほどの魚がかかっていたのだ。そこで、もう一そうの舟の仲間に手助けを求めた。二そうの舟は魚がいっぱい過ぎて、沈みそうになったとある。この描写は実にリアルだ。でも、どうしてそれほどたくさんの魚が捕れたのだろうか?それは主が奇跡を行なわれたからじゃないか、と言われればそれまでだが、どのようにしてその奇跡がなされたのだろうか、と興味を持つことは許されるだろう。
 イエス様には魚群の居場所がわかったからだろうか?「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われたから、そうだったのかも知れない。しかし、私が以前子どもたちのためにした説明も面白いのではないかなと思う。それは魚たちの立場から感じ取ったこの奇跡の理解だ。私はガリラヤ湖の魚たちにこんなふうに語らせてみた。
 「あの日、先祖たちは不思議な力でそこにたくさん集められたんだ。『かわいそう』なんて言わないでくれよな。主も救いのために亡くなられた。僕らだって鳥に食われたり病気で死んだりするより、主のお役に立って死ぬ方がずっと幸せなんだ。この大漁のおかげでペトロは人間をとる漁師になったし、網の中の仲間たちは神の国に入る人々のシンボルになれた。これはぼくら魚の誇りさ!魚冥利に尽きるよ。」と。つまり魚たちが自分たちの方から、ペトロの舟にどんどん集まって来たという見方だ。
 ガリラヤ湖近辺のレストランに行くと、この奇跡に由来する「ペトロの魚」の料理がある。ティラピア(カワスズメ科)の一種だと言われるが、食べるとおいしい。それはタプハの教会ではパンと魚のモザイクで描かれ、シェンキィエヴィッチの小説「クオバディス」では、ローマ時代の迫害下で、キリスト教徒がお互い同志を確かめ合う暗号に使われている。魚はギリシャ語でΙΧΘΥΣ(イクトゥス)だが、それはIesous CHristos THeou Uios Soter (イエス・キリストは神の子、救い主)の頭文字が魚という字になるからだった。大漁の奇跡には、魚が福音と結びつく豊かな象徴的要素がある。

 福音書は続いて伝える。「これを見たシモン・ペトロは、イエスの足もとにひれ伏して、『主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深いものなのです』と言った。とれた魚にシモンも一緒にいた者も皆驚いたからである。シモンの仲間、ゼベダイの子のヤコブもヨハネも同様だった。すると、イエスはシモンに言われた。『恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。』そこで、彼らは舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った。」

 ここで非常に興味深いのはシモンの言動だ。想像するに、信じがたい大漁を見た瞬間、彼の全身を電撃のような何かが走り、「この方はやはりただ者ではない!」と彼は直感したに違いない。それなのに、それまで平気で主の側にいた自分に気づいた時、彼は驚愕と畏怖に身震いしたのだと思う。そして、とっさに平伏して口走った。「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深いものなのです」と。私はここに、彼の聖なるものに対するずば抜けた感性があると見る。そして、それこそがこの個所で最も学ぶに価する事柄だと思う。
 聖書の神は「聖なる(カドーシュ)」方と言われ、信仰の優れた先人たちはそれへの鋭敏な感性で共通していた。モーセもそうだった。彼はホレブの山麓で燃えつきない柴を見た時、「履物を脱ぎなさい。あなたの立っている場所は聖なる土地だからだ」(出3;5)と言う声を聞いて、地面にひれ伏し顔を覆った。この主日の第一朗読イザヤ6;1-8もそうだ。イザヤは天使たちが「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主」と歌うのを聞いて、「災いだ。…わたしは汚れた唇の者」とおののいた。
 神の無限の聖性と自分の罪深さを鋭く感知するセンスは、宗教的に優れた人の特徴だが、ペトロもそれを持っていた一人だった。仲間がまだ大漁の魚に気を取られていた時、彼はいち早くイエス様に目を転じた。それは彼が聖に対する感度のいいアンテナを持っていた証拠だ。彼はイスラエル民族の宗教的伝統から、最も良質な部分を受け継いでいたのだ。それを知ると、イエス様がなぜ彼を見込んで使徒の頭になさったかがわかる。それは私たちにも言える。聖なるものへの感性が鈍ければ、神の招きがあっても、それを受信することは難しい。

 ここでまた疑問が湧く。「シモンも一緒にいた者も皆驚いたからである。シモンの仲間、ゼベダイの子のヤコブもヨハネも同様だった」とあるが、「同様だった」とは、彼らもひれ伏してペトロと同じことを言ったのだろうか?という疑問だ。私にはどうもそうは思えない。大漁には驚嘆したが、彼らはペトロと同じような言動はしなかったと私は解釈する。その証拠はその後に言われたイエス様のお言葉だ。もし他の3人もペトロのようにひれ伏して言っていたのなら、主は4人に「恐れることはない」と言われたはずだ。しかし、原典ではMeh fobou(恐れるな)と2人称単数命令形で書かれている。つまり、シモンに対してだけ言われたことが明らかだからだ。
 イエス様の「恐れることはない」というお言葉は、マリア様もお告げの時、天使から言われた言葉だ。それは聖なるものを畏れることは正しい心がけだが、尻込みするのではなく、聖なるものにはむしろ近づき、自分の使命を果たそうと思いなさい。それこそが真に主を畏れることなのだと暗に教えて心を安堵させ、これから言われる言葉を前向きに受け止めさせるためだったのだ。

 だから、その後で主は言われた。「今から後、あなたは人間をとる漁師になる」と。それはペトロの人生を変えただけでなく、その後の世界史にも大きく影響した、最短だが最重要な言葉だった。では、それを聞いたとき、ペトロはすぐその意味がわかったのだろうか?ある程度漠然とはわかっただろう。なぜなら、イエス様は漁師にピンと来る比喩的言葉で、「人間をとる漁師」と言われたからだ。しかし、言われた瞬間はよくはわからなかったし、実感は皆無だっただろうと想像する。
 だが、主と行動を共にするうちに、理解はだんだん進んで行ったに違いない。そして、ガリラヤでの福音宣教の中盤に、「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」(マタイ16;18)と言われた後は、さらに意識するようになったのではなかろうか。最後の晩餐の時は、主から「あなたは立ち直ったら、兄弟たちを助けてやりなさい」(ルカ22;32)と言われた。その時はむきになって忠誠を誓い、空回りしていたはいたものの、彼の自覚は更に強まっていたと思う。
 しかし、「あなたは人間をとる漁師になる」と言われた主の予言を、彼がこれ以上ないほど劇的に実感したのは、おそらく聖霊降臨の日ではなかっただろうか。その日、激しい風のような音が聞こえ、使徒たちの上に聖霊が降った。ペトロはその音に驚いて集まった群衆に向かって立ち上がり、霊と力に満ち満ちた説教をした。心を打たれた人々は「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と尋ねた。
 すると彼は「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい」と勧めた。その言葉を受け入れた人々は、その日三千人もが洗礼を受けた。魚たちが不思議な力でペトロの舟に集まってきたように、人々は聖霊の不思議な力で、発足初日の教会に集まってきたのだった。これは彼が「人間をとる漁師」になって体験した、最初の大漁だった。おそらくその日、彼は主が言われたお言葉を初めて十二分にわかったに違いない。あの大漁の魚はやがて世界中に増えていく信者たちの、そして網は教会の象徴であったことを。

エレミヤ書の錯綜チェック

 もう過ぎたことだが、年間第4主日の第一朗読はエレミヤの預言1;4-5,17-19だった。それが読まれたのは、エレミヤの出生について、「母の胎から生まれる前に、わたしはあなたを聖別し、諸国民の預言者として立てた」と語る主なる神の言葉が、ナザレトの会堂で宣言されたイエス・キリスト様ご自身の使命と重なっているからに違いない。しかし、その他の点にはそれほど関心がなかったので、ミサ中の朗読では漠然と聞いていた。
 だが後になって、ふと、そうだ、エレミヤ書はヘブライ語原典とギリシャ語70人訳との間に編集上の大きな違いがあったな、と思い出した。そして、それに興味を覚えた。それというのも、まともな聖書学者ならだれでも知っていることなのに、私は怠けて、この問題はアバウトな知識のままにほったらかしにしていたからだ。そこで帰宅後、原典と70人訳間の錯綜している章節について、この際しっかりチェックし直して、確かな知識を持っておこうと思い立ち、調べてみた。

 この問題は章節の順序が不一致だということにある。以前、そのことをうっかり忘れて、エレミヤの言葉の引用をギリシャ語で確かめようとしたら、該当するはずの章節に全然違うことが書いてあって、あれっ、どうしてだ?と面食らったことがある。あ、そうか、問題のエレミヤ書だったんだ、と思い出したから、確かめるべき個所は見つけることができたものの、もしそれを知っていなかったら、見つけられなかっただろう。喩えてみればそれは、いるはずだと思ってある人を尋ねたら、その家にいたのは別人だったみたいな話しに似ている。
 だから、見直しは無駄ではないと考えて、確かめてみたのだが、まず手元にある70人訳以外の各国語訳(ラテン語、日本語、仏語、英語、スペイン語、独語)を比較してみた。その結果、すべてがヘブライ語を基準にしていることが再確認できた。ということは、章節の不一致はヘブライ語原典とギリシャ語70人訳の間だけの問題であることがはっきりした。最重要な訳の一つ、ラテン語ブルガタ訳も基本的にはヘブライ語原典を基準にしている。
 ラテン語訳の偉業を成し遂げた聖ヒエロニムスは、この問題できっと悩んだのではなかろうか。なぜなら、70人訳はギリシャ語訳だと言っても、初代キリスト教会にとってはヘブライ語原典以上に愛用され、権威ある聖書と見なされていたからだ。現代語訳とは重みが全然違う。しかし、彼はこの問題に関しては70人訳ではなく、ヘブライ語原典を基準にすることを選択したのだった。それは彼に原典尊重の信念と深い見識があったからだろう。

 そういうわけで、章節の順不同が問題になるのは、ヘブライ語原典と70人訳の間だけだ。しかし、1章から25章13aまでは合致していて特段の問題はない。エレミヤ書全体が52章で終わることにも相違はない。問題の不一致が現れるのは25章13節b以降なのだ。では、それらの章節ではどこがどう合致しないのだろうか?それがここでの問題だ。
 そこで、それを一目でわかるように、ヘブライ語原典とギリシャ語70人訳の章節を並べて、比較照合してみる。後でも言及するが、実はヘブライ語原典の順序がすべて正しいかと言うと、必ずしもそうとは言えないのだ。しかし、ほとんどの訳が原典の順序を尊重している事実を重く見て、比較の基準はヘブライ語原典に置いた。その上で、それに対して70人訳の章節がどう対応しているかを照合してみると、次のようになる。

ヘブライ語原典  ギリシャ語70人訳
章:節       章:節         題材
1-25:13a    1:1-25:13a
25:13b-38   32:13b-18    杯の幻
26         33           エレミヤの説教
27         34           くびきの預言
28         35           預言者ハナンヤとの対決
29         36           琉謫者への手紙その他のテーマ
30:1-31:22 37:1-38:22   北イスラエルの回復の約束     
31:23-40   38:23-40     ユダの回復の約束その他のテーマ          
32         39           土地の購入はユダの未来の担保   
33         40           もう一つの復興の約束          
34         41           セデキヤの末路              
35         42           レカビット族の例
36         43           預言の巻物
37         44           エレミヤの逮捕その他のテーマ
38         45:1-28      水溜の中のエレミヤ
39         45:28-46:18  エルサレムの陥落
40:1-6     47:1-6       エレミヤの運命
40:7-41:18  47:7-48:18   総督ゴドリアスの暗殺
42:1-22    49:1-22      エジプトへの逃避
43:1-7     50:1-7       続き
43:8-13    50:8-14      ナブコドノソルのエジプト侵攻予言
44         51:1-30      エレミヤの最後の仕事
45         51:31-35     バルクへの慰めの言葉
46         26           エジプトに対する託宣
47         29:1-7       フィリスチンに対する託宣
48         31           モアブに対する託宣
49:1-6     30:17-21     アンモンに対する託宣
49:7-22    30:1-16      エドムに対する託宣
49:23-27   30:29-33     シリアの町々に対する託宣
49:28-33   30:23-28     アラブの部族に対する託宣
49:34-39   25:14-20     エラムに対する託宣
50         27           バビロンに対する託宣その他
51         28           バビロンに対する神の怒り
52         52           エルサレムの崩壊

 この対比を見ると、その錯綜の甚だしさに今更ながら驚かされる。それが特に顕著なのは40-43章と49章だ。42,43章は個所が前後し、乱雑を極めきわめている。全体的には、ヘブライ語原典を基準にしたからギリシャ語訳の方が前後に乱れている感じを与えるが、実際はそうではない。ギリシャ語訳を基準に照合すれば、その章節のオーダーはすっきりと整うから、乱れはむしろヘブライ語原典のせいだと言えなくもない。
 その好例が42章と43章にある。ここにはヘブライ語原典と70人訳間の章節の相違だけではなく、原典の章節順序に従う諸翻訳聖書間に42章と43章の文脈についての見解の相違もあるからだ。ヘブライ語原典の42:1-22、43:1-7は70人訳の49:1-22、50:1-7に相当する。ところが、それとは別な問題として、いくつかの現代言語訳(仏語、独語、バルバロ訳等)は順序を42:1-18、43:1-3、42:19-22、43:1-7に直している。つまり、42章の間に43章の一部が入り込んだ順序になっている問題があるのだ。
 なぜこんな順序にしたかと推察するに、そうする方がより説得力のある文脈になるからだと思われる。つまり、それは原典が何らかの原因(例えば、羊皮紙の資料が前後に入れ替わったとか)で、間違って編纂され、そのままになってしまった。そのためにやや意味が通りにくくなっていたと想定しての修正だ。つまり、文脈を元々あったと思われるものに復元した。その結果、42:1-18、43:1-3、42:19-22、43:1-7という順序にしたのだ。日本語では新共同訳が原典の順序のままだから、バルバロ訳と比べると、その相違がはっきりとわかる。

 前3世紀にアレキサンドリアにいたユダヤ人達は、もうほとんどがヘブライを話せなくなっていた。そこで、彼らの共同体は聖書のギリシャ語翻訳を思い立った。しかしその時、エレミヤ書原典の内容が錯綜していることに気付いた。彼らはそれをどうしようかと考えた末、おそらくこの方が本当は正しいのではないかと思われた順序に、章節を並べ直したのだと推察される。ざっと言えば、彼らは原典46-51章にある諸民族に対する託宣を25章13節の後にそっくり移動させた。それは大胆な入れ替えだったが、彼らなりの試みだった。時間的推移やいくつかの観点から見れば、あるいはこの方が妥当なのかも知れない。 
 他方、聖ヒエロニムスはヘブライ語を基準にラテン語訳を試みた。旧約聖書全体を考える時、やはり原典こそ尊重されなければならないからだが、原典を基準にする以上、エレミヤ書だけをギリシャ語訳に沿って訳すわけにはいかなかったから、これもヘブライ語原典の章節を基準にすることにしたのだろうと推察する。そして、おそらくその影響で、それ以後の諸国語への翻訳も原典を基準にしたのだろう。その結果、エレミヤ書における章節の大きな不一致はギリシャ語70人訳だけにとどまったのではないかと思われる。
 いずれにせよ、このような比較照合がたったの2日ぐらいでできるわけがない。それを成し遂げるには、長い時間と忍耐強い探究が要求されるからだ。エレミヤ書は52章もあるが、少なくともそれをヘブライ語とギリシャ語で2回以上は読まないと、どこに何が書いてあるかさえわからないだろう。私にはそんなことをする能力も時間もないからとても無理だった。だからLa Bible de Jerusalemにあった研究成果をぱくらせてもらった。つまり、楽をして、いいとこ取りをさせてもらったわけだ。それにしても、誰がこんな成果を出してくれたのかは知らないが、こうした学問の先人には大いに感謝!
 さて、こんな考察はウエッブログにはなじまないかも知れないが、これもまたわが日々のしるし、主日の聖書を学んだ証しだから掲載しておくことにする。またまた楽しい自学だった。
プロフィール

余生風

Author:余生風
「聖書温故知新」
「思いつくまま、気の向くまま」
折にふれ「水彩画」も紹介してまいります。

「手を貸す運動」創始者
社会福祉法人「地の星」理事
元玉川大学教授

佐藤正明(余生風)ホームページ
「絵画と心」

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