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そのとき何を話されたか

 年間第4主日の福音ルカ4;22-30は、イエス様がナザレトの会堂でイザヤの書61章1-2節を読み終え、「この聖書の言葉は、今日あなたたちが耳にしたとき、実現した」(ルカ4;21)と話された後、何が起こったかを伝えている。
 まず聴衆の反応だが、「皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて、『この人はヨセフの子ではないか』と言った」のだった。この「驚いて」という反応は、話の内容があまりにも素晴らしかったから、最初は感動の混じった「驚嘆」だったと思う。しかしそれはすぐ、たかが大工ヨセフの子なのに、どうしてあんなことが話せるのかという、侮蔑的偏見の混じった「疑念の驚き」に変質したように見える。
 ところが、ここでひとつの疑問が湧く。イエス様が「この聖書の言葉は、今日あなたたちが耳にしたとき、実現した」と宣言されただけで、聴衆が皆イエス様をほめ、その言葉に驚いただろうかという疑問だ。答えはノーだと思う。なぜなら、その宣言の意味がよくわからなければ、ほめることも驚くこともなかったはずだが、その宣言だけではとうてい意味がよくわかったとは考えられないからだ。それなのに、もしそれだけで褒めたり驚いたりしたとすれば、反応はあまりにも唐突で筋が通らない。
 では、どうして聴衆は褒めかつ驚いたのだろうか?その答えはルカ4;21の最後に、「…と話し始められた」と書いてある一語にあると思う。「話し始められた」のなら、その続きがあったはずだ、と気付くことが鍵だ。つまり、イエス様はイザヤの預言が、この日どう実現したのかについてコメントをなさった。それもかなり長い解説だった可能性がある。そう仮定すると、聴衆がなぜイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いたか、はじめて納得がいく。その十分な解説を聞いたからこそ、彼らは褒めかつ驚いたのだ。そして、「この人はこんなことをすべて、いったいどこから得たのだろう」(マタイ13;56)と言い合った理由もそれでわかる。

 聴衆の反応から推察すると、そのコメントは、皆が称賛し驚いたというのだから、きっと聞く者の心を高揚させ、神をたたえずにはいられなくなるようなすばらしい話、まさに恵み深い言葉だったに違いない。しかしながら、残念なことにルカはその内容を伝えてはくれなかった。そこで、次の疑問が湧く。では、聴衆の間にそんな反応を呼び起こした解説とは、いったいどんな内容だったのだろうか?という疑問だ。これは興味をそそる。
 とは言え、その問いに対する答えは直接には書き残されていないから、聖書の中を探して、こんな解説ではなかったのだろうかなぁと想像するしかない。私はかつて、ボーイスカウトのスタンツ(野外劇)ために書いた本「イエスが行く」1巻で、それを試みたことがある。今読み返してみても、この時に書いた以上の答えは今のところ見つけられそうにないので、今日はそれをここに繰り返すことでよしとしようと思う。スタンツ用だから解説的ではなく、シナリオ形式だ。

会堂司 では、みなの衆、お座りください。今日はここで、預言者イザヤの巻物を朗読していただきます。
人1   今日は誰が読むのかな?
人2   さあ、誰かな?
会堂司 今日はこの村から出て、お戻りになったヨセフの子イエスさんにお願いしましょう。
      (イエスが前に出て行く。すると人々はざわつく)
人3   おい、イエスだってよ!
人4   あのイエスが来ていたのか?
人3   そうだ。あんたも知っていたのか?
人4   もちろんさ!今、たいそうな評判なんだぜ。知らないわけがないだろう?荒れ野で修行を積み、神の力を身につけて帰ってきたそうだぜ。
人2   身につけて来ただけじゃない。もう、カファルナウムや湖のあちこちの町で教えを広め、病人を治したり、たくさんの奇跡をしたりしているっていう噂だ。
人1  しっ!読み始めるぞ! 
      (イエス、会堂司から巻物を受け取ると開く)
イエス 「主の霊は私に宿っている。貧しい人々に福音を宣べ伝えさせるために、私を聖別してくださったからである。主はわたしを遣わして、囚われ人が解放され、目の見えない人の目が開かれることを告げ知らせ、打ちひしがれている者に自由を得させ、主の恵みの年を告げ知らせるのである」
      (イエスはここまで読むと静かに巻物を巻いて会堂司に返し、コメントの席に着く。一同はイエスにじっと注目する)
人4   なかなか話し出さないねぇ。
人3   うん。どんなことを言うんだろうな?
人1   しっ!静かに。
イエス みなさん、この聖書の言葉はみなさんが耳にした今日この日に実現しました。(沈黙)

会堂司 (小声で) もう少し説明してください。
イエス  イザヤは「慰めよ、ねんごろにわが民を慰めよ」と語り、来るべき良きおとずれの日を告げ知らせました。それは神の支持するしもべによって到来する時代のことでした。そのしもべについて聖書は言う。
 「わたしの支持するしもべ、わたしの心を喜ばせる選ばれた者、わたしは彼の上にわたしの霊を置き、異国に公正を宣言させる。彼は叫ばず、声を立てず、広場で声を聞かせない。彼は折れかけた葦を折らず、弱い炎の灯心を消さず、忠実に公正を告げ知らせる。主なる神はこう言われる。主であるわたしは正義のうちにあなたを呼び、あなたの手を取ってあなたを形造り、民の契約と定め、異国の光りとした。
 あなたは見えない人の目を開き、囚人を牢から出し、闇に住む者を囚われの家から出す。わたしは主である。それがわたしの名である。わたしはわたしの光栄を他の者に譲らず、わたしの名誉を偶像に与えない。昔の出来事はすでに実現した。未来のことも実現するであろう。わたしはそれが現れる前に、あらかじめそれをあなた方に告げ知らせる」(イザヤ40;1~42;9)と。
 そこでよくお聞きなさい。ここに預言されたことは今実現されている。目の見えない人は見え、耳の聞こえない人は聞こえ、死人は甦り、貧しい人々は福音を聞かされる(マタイ11;5)。人は罪から解放されて自由となり、暗闇に座っていた者は立ち上がり、まことの光りに照らされ始めている。もしそうなら、これは主の恵みの元年、神の大赦の時が到来したしるしなのです。誰であれ、わたしについてつまずかない人は幸いです。

人1  驚いたなぁ、おい。たしかにあれが大工ヨセフの子なのか?
人2  確かだ。でも、いったいどこであんなことを学んで来たんだろう?
人3  でも、あれは大それたことを言ってるんだぜ。あんたら、わかったのか?
人4  わかったとも。でも、もしもあのイエスが約束のキリストなら、この故郷でも奇跡をしてくれなくちゃ。でなけりゃ、どうしてそんなことが信じられるかね? (ガヤガヤ騒ぐ)

 イエス様はおそらくこのような内容の話をなさったのではあるまいか。これがわかれば、今日の問題はほとんど解決したも同然だが、私はその前半をイザヤの預言書から推察した。預言なら神の言葉だから、勝手に私が想像した言葉とはならないと考えたのだ。特にイザヤ42;9の言葉には注目すべきだと思った。新共同訳とは少し違うが、要するに「かつて予言されたことは成就した。だから、これから成就する新しいことを、それが起こる前に告げる」という予告だ。ところで、イエス様の福音宣教と共にそれは実現され始めていた。
 その証明となる「目の見えない人は見え…」というくだりは、マタイ11;5にあるイエス様ご自身の言葉だ。これは洗礼者ヨハネが牢獄から、「来るべき方はあなたでしょうか」と尋ねさせるために、弟子たちを遣わした時に言われたお返事だ。もっとも、それはルカではナザレト訪問後の7章で言われたことになっているが、マタイの順序に従えば筋は通る。なぜならマタイでは、イエス様がその言葉を洗礼者ヨハネの弟子たちに言われたのは11章で、ナザレトへ行かれたのはその後の13章になっているからだ。ナザレト訪問が少なくとも2回あって、会堂で聖書を朗読された訪問が2回目だったとしたら、このことに関する限り、私はマタイの順序の方が正確ではないかと思っている。いずれにせよ、もしそういう解説を聞いたのだとしたら、聴衆は聞き終わった直後きっと感動していたに違いない。

 ところが、ナザレトの会堂にいた聴衆の純粋な感嘆の気持ちは、またたく間に変質してしまったようだ。ルカはその変質の証拠を、「この人はヨセフの子ではないか」としか書かなかったが、マタイとマルコはもう少し詳しく、「このような知恵と奇跡を行なう力をどこから得たのだろう。この人は大工の息子ではないか。母親はマリアといい、兄弟はヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。姉妹たちはみな、我々と一緒に住んでいるではないか。この人はこんなことをすべて、いったいどこから得たのだろう」と言い合ったと書いている。
 ナザレトの人たちは幼少からのイエス様を知っていた。その家族もみんな知っていた。その当時、ファリサイ派にはシェンマイ派とヒレル派があったが、イエスがそんな学派に入って学んだとは聞いていない。つい先頃まで我々の中で働いていたではないか。それがいつどこで、短期間にこんな大変身を遂げたのだ?人々の驚きは無学だったはずなのに、信じられないような聖書の知識と奇跡も行う力を、どこでどう得たのかというその驚きに変質してしまったのだ。
 むしろそれまであまりにも身近だったから、イエス様が油を注がれた者メシアだとはとても信じられず、つまずいたのだった。ひょっとしたら、シナリオの人4のように誰かが、「もしもあんたが約束のメシアなら、この故郷でも奇跡をしてほしい。でないと、信じられません」と叫んだかも知れない。だから、イエス様は「きっと、あなたがたは、『医者よ、自分自身を治せ』ということわざを引いて、『カファルナウムでいろいろなことをしたと聞いたが、郷里のここでもしてくれ』というに違いない」と言われたのではなかろうか。
 そして言われた。「預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ」と。これは4福音書がすべて記録を残している。マルコの福音書の内容はマタイの2回目訪問とほとんど同じだ。ただ、マルコも1回のナザレト訪問しか伝えないが、その代わり興味深い言及をしている。「そこでは、ごくわずかの病人に手を置いて癒されただけで、そのほかは何も奇跡をおこなうことがおできにならなかった。そして、人々の不信仰に驚かれた」(マルコ6;5-6)という一節だ。驚いたのは聴衆だけではなく、イエス様も驚かれたのだ。ただし、不信仰に驚かれたのだった。

 ルカではその後、イエス様がサレプタの女の話(列王記上17章)とシリアの将軍ナアマンの話(列王記下5章)をなさったことになっている。それは「あなたたちの信仰は、預言者エリアを信じたあの貧しい寡婦や、皮膚病患者だった異邦人の将軍に比べても劣る」という意味だったから、会堂内の人たちは侮辱されたと思って騒然と総立ちになり、激高して大それたことを仕出かそうとした。イエス様を町の端にある崖から突き落とそうとしたのだ。
 しかし、マタイもマルコもその事件のことには触れていない。これをどう解釈したらいいのだろうか?3福音書が同じ訪問のことを書いているのは確かだし、ルカが実際にはなかったことを書いたとも思えないから、解答の一つはマタイとマルコがその事件を知らなかったので書かなかったか、あるいは知っていても省いたという仮説だ。しかし、この訪問そのものを知っていたなら、その事件もいっしょに語らなかったということは考えにくい。片や、知っていたなら、省かなかっただろう。「人々の不信仰に驚かれた」と書いたくらいだから、知っていたらその事件も書いたに違いない。
 そこでもう1つの仮説が浮上する。実はナザレト訪問は3回あって、これはその時のことをルカが1つの訪問にまとめてしまったからではないかという仮説だ。もし3回目のことだったとすれば、それはヨハネ4;43-45のことではないかと私は推理するのだ。そこには主の一行がサマリアを通ってガリラヤに行かれたことが書いてあるが、なぜかそこに「イエスは自ら、『預言者は自分の故郷では敬われないものだ』とはっきり言われたことがある」と書いてある。ルカの言葉と同じだが、過去形で記憶されているところが違う。しかし、それが他の福音書にあるナザレト訪問を指していることは確かだ。
 ヨハネは彼らがナザレトに行ったとは書いてないが、43節に「ガリラヤに行かれた」と書いたばかりなのに、46節では「イエスは再びガリラヤに行かれた」と書いている。そして、この時はぶどう酒の奇跡のことを想起しながら、カナの町とカファルナウムに行ったと言及している。だとすると、地名はあげなかったが、43節の「ガリラヤに行かれた」はナザレトだった可能性がある。
 「預言者は自分の故郷では敬われない」という言葉があること自体、訪問があった形跡を示唆する。なぜなら、もし関係もないのにこの言葉をここにポンと入れたのなら、なぜそうしたのかその理由がないからだ。ただ、この時は彼らも祭に行って、イエス様がエルサレムでなさったことを目撃した後だったので、主を歓迎したと書いてある。しかし、歓迎しても厳しいことを言われて激高し、とんでもないことを仕出かしたことはあり得る。ただこの仮説の難点は、もしそんなことがあったのなら、パンの奇跡の後同様、ヨハネは書いただろうに、実際は町名も事件も書かれていないことだ。
 いずれにせよ、ルカだけが「これを聞いた会堂内の人々は皆憤慨し、総立ちになって、イエスを町の外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうとした。しかし、イエスは人々の間を通り抜けて立ち去られた」と書き残した。人々のこの豹変は、「ホサナ、ホサナ」と迎えたのに間もなく「十字架につけよ、十字架につけよ」と叫んだ民衆の豹変を連想させる。また、崖から突き落とそうとした殺意は、主が神殿で「アブラハムが生まれる前からわたしはある」(ヨハネ8;58)と言われた時に、ユダヤ人たちが石打ちにしようとした殺意と重なる。そして、イエス様が人々の間をすり抜けて立ち去られた様子は、ユダヤ人が石を投げたとき、「イエスは身を隠して、神殿の境内から出て行かれた」(ヨハネ8;59)という後姿を思わせる。 
 それらの時、イエス様は憤激する人々の間をすり抜けて去られた。「まだ時が来ていなかった」(ルカ2;4)からだ。しかしゲッセマネの園で、祭司長の兵士たちがユダに案内されて捕縛に来たときは、彼らの手からすり抜けて立ち去られることはなかった。「時が来た」(マルコ14;41)からであった。ナザレトの会堂での話の後にルカが書き残した、この神の子殺しの試みは実現しなかった。しかし、それはすでに受難の時を予感させるものだ。ナザレトの訪問は神の恵みの素晴らしい公表だったと同時に、人々の罪深さが顕在化した機会でもあった。「しかし、罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ち溢れました。」(ロマ5;20)それを誰よりもよくご存知だったのは、他ならぬ主イエス様だった。
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すべてにおいて愛

 聖パウロのコリントの信徒への手紙12;4-27については、先週、とげ抜きの体験から始めて、キリストの神秘体のことを書いたが、年間第4主日の第2朗読はその続きの12章31節-13章13節だ。異邦人の使徒はそこで、「わたしはあなたがたに最高の道を教えます」と前置きしている。これがキーワードだ。そして最後に、有名な「信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である」という愛の頌栄を書いた。

 しかし、それはその前に語られた事柄を踏まえて論じられるからこそ、鮮明にわかるのだ。では、その前に何が語られたかと言うと、要約すれば、教会はイエス・キリスト様を頭とする神秘体で、信じる者たち一人ひとりはそれを形づくる部分である。部分である信者はそれぞれの働きによって神秘体全体のために尽くし、全体は小さな弱い信者をも自らのかけがえのない部分として大事にし、心にかけなければならないということだった。
 聖パウロは「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです」(一コリ12;26)と言って、働きや能力などで信者の上下優劣を論じてはいけないと戒めた。「神は教会の中にいろいろな人をお立てになりました。第一に使徒、第二に預言者、第三に教師、次に奇跡を行う者、その次に病気を癒す賜物を持つ者、援助する者、管理する者、異言を語る者などです。皆が使徒であろうか。皆が預言者であろうか。皆が教師であろうか。」(同12;28-31)いや、皆が使徒になったら教会は成り立たない。それぞれはみな素晴らしい賜物なのだ。それで優劣を言い合ったり分裂したりするのは愚かだ。だから、それぞれ頂いた賜物を生かして働きなさいと書いた。
 しかし、と彼は続ける。「あなたがたは、もっと大きな賜物を受けるよう、熱心に努めなさい」と。そこで最初にあげた、「わたしはあなたがたに最高の道を教えます」という言葉が出てくる。そう、ここまでに話した使徒職も預言、教育、奉仕、管理等々の使命はすべて素晴らしいが、それらすべてに優って、しかも万人が共通にいただける最高の賜物がある。それが愛なのだ、と。
 そこで前に語られた事柄が引き合いに出されて愛が語られる。天使の異言を語り、預言ができ、霊によってあらゆる知恵に通じ、山を動かすほどの信仰があっても、愛がなければ無と同然だ。全財産を貧者に施して善行をしても、殉教をしても、愛がなければ無益だ、と。それは善行とか殉教とかも、それ自体が愛なのではない、愛のない慈善も愛のない殉教もあり得るということを意味する。聖パウロはいろいろな良い活動、優れた能力、意味のある仕事等はすばらしいが、愛がなかったら空しいと喝破したのだ。これは活動や業績や能力を優先させ過ぎる現代の傾向を反省させる。

 このことは「では、愛とは何なのか?」という問いを呼び覚ます。よくギリシャ語では愛はエロス(情的な愛)、フィリア(情的でないが求める愛)、アガペ(慈しみの愛)の三つがあると、その区別から説き起こす人々がいる。フィリアはフィロソフィー(哲学)やフィラデルフィアと同語源だ。哲学とは「知恵を求める愛」という意味で、フィラデルフィアとは「兄弟を愛する町」の意味だ。しかし、彼らはキリスト教が説く愛はアガペだと言う。その説明は有益だ。確かに聖書の教える愛はアガペという愛だからだ。しかし、それを概念から定義するのは不毛だと思う。実際は逆で、これこれの行為や思いや事柄があるが、それらを一つに括ったものを愛という概念で表現したのだからだ。
 聖パウロが「愛は忍耐強い。愛は情け深い。…」(一コリ13;4)と列挙している例はまさにそれだと言えよう。ねたまない。自慢しない。高ぶらない。非礼をしない。自分の利益を求めない。恨みを抱かない。不義を喜ばない。真実を喜ぶ。忍ぶべきことはすべてを忍ぶ。信ずべきことはすべて信じる。望むべきことはすべて望む。耐えるべき事はすべて耐える。そういうすべてのものを含む心のあり方を、人はアガペの意味の愛と呼ぶのだ。
 でも、聖パウロの列挙ではすべてが言い尽くされたわけではない。むしろそれはまだマージナルな属性だと言ってもいい。もう少しその愛の核心に近いものに、例えば「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」(ヨハネ3;16)、「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(同15;13)などがある、最も大切なものを、誰かのために喜んで与えることはその愛に当たる。そこから私たちは愛とはどんなものかを感得できるのだ。

 聖パウロは愛の属性を例示した後で、「愛は決して滅びない。預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう」と、今度はその優越性を述べている。預言も能力も知識も職務も福音宣教すらもいつか要らなくなる時が来る。しかし、愛が要らなくなることはない。だから、彼は最後のまとめで、「信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である」と断言したのだ。
 その通り、信仰も希望も、信じたこと希望したことが実現すれば要らなくなる。当然の成り行きだ。しかし、愛が要らなくなることはない。むしろ、「もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものが過ぎ去ったからである」(黙示録21;4)という時が実現し、「神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる」(同21;3)時になったら、神の国において、愛は単に残るだけではなく、絶対になくてはならないものなのだ。

 ところで、キリスト教の説く愛はアガペの意味の愛だと言われるが、では聖パウロもコリントの信徒への手紙のこの個所で、その言葉を使っているのだろうか?そういう疑問が湧いたので、調べてみた。その結果、この個所には愛という語彙が合計9回出て来るが、すべてアガペで表現されていることが確認できた。では、聖書の他の個所ではどうだろうか?そういう疑問も湧いたので興味を覚え、思い当たる主だった個所を調べてみた。旧約聖書の場合はもちろんヘブライ語だ。
 ヨハネ3;16「神は、その独り子を…ほどに、世を愛された。」ここでは確かにアガペが使われている。
 同13;1「弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。」 2語ともアガペで書かれている。
 同13;34「あなたがたも互いに愛し合いなさい。」ここもアガペが使われている。もちろん動詞でだが…
 同15;13「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」アガペで表現されている。
 マルコ12;30(=マタイ22;37-39、ルカ10;27)「イエスはお答えになった。『第一の掟はこれである。心を尽くし、精神を尽くし、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の掟はこれである。『隣人を自分のように愛しなさい。』」これは旧約からの引用だが、2語ともアガペの動詞命令形になっている。
では引用先の70人訳ギリシャ語旧約聖書はどうか?申命記とレビ記に分かれるが:
 申命記6;4「あなたの神である主を愛しなさい。」 間違いなく、アガペで表現されている。
 レビ記19;18「隣人を自分のように愛しなさい。」 これも間違いなく、アガペが使われている。
 では、70人訳の原典ヘブライ語ではどうか?アガペに相当するヘブライ語はアハバ(愛)、アハブ(愛する)だが、上記の申命記6;42でもレビ記19;18でも、アハブタ(アハブの男性単数命令形:愛せよ)で表現されている。ちなみに、アガペはラテン語ではcaritas、仏語ではcharitéだ。
 ホセア14;5「わたしは背く彼らを癒し、喜んで彼らを愛する。」ここでもアハブが使われている。
 しかし、アガペではなく、それに近い語彙が使われることもある。例えばホセアの預言2;21、12;7などでは、「慈しみ憐れむ」、「愛と正義」など、ヘセド(慈しみ)やラハミーム(憐れみ)がよく出てくる。ヘセドは、実際は好意と憐れみを一緒にしたような愛で、善きサマリア人が抱いた気持ちに近い。他方、ラハミームはリヘム(憐れむ)というヘブライ語から出た名詞で、ラテン語のmisericordia, 仏語のmiséricordeに当たるが、ギリシャ語ならエレオン(憐れみ)だ。カトリック信者ならよく知っているミサのキリエ・エレイソン(主よ、憐れみたまえ)のエレイソンと同根で、エレーオ(憐れむ)からの言葉だ。有名な聖句には出エジプト記33;19「わたしは…憐れもうとする者を憐れむ」がある。そこでもこの言葉が使われているが、これらはしばしばアガペと同義語かそれに近いことが多い。

 さて、聖パウロはいつまでも残り、最も大いなるものは愛だと教えてくれたが、ではその他のものは価値が低いと軽視してもいいのだろうか?いや、そんなことはない。ましてや、今の世はまだ過ぎ去っていないのだから、愛だけでは済まない。預言も、福音宣教も、労働も、病気を癒すことも、奉仕も、隣人への援助もみな必要なのだ。だから、それらの真価を知るには、聖パウロの言葉を逆にして、「もし愛があれば…」と言い直して見ればいい。そうすると、すべての意味が生き返り、価値が輝きを放ち、それらが神秘体と各人にとってとれほど益になるかがむしろよくわかる。
 もし愛があれば、天使たちの異言を語れることは天上の楽の音に等しい。預言の賜物、あらゆる神秘と物事に通じた知識、山を動かすほどの信仰は、もし愛があれば大いなる宝になる。もし愛があれば、全財産を貧しい人のために使い尽くす人や殉教する人は、神の国に迎え入れていただける。「わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受けなさい」なぜなら、「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたこと」(マタイ2534-40)だからだ、と。神様の前で問われるのは愛なのだ。

 愛がなければ、神様の前ではすべては価値が色あせる。しかし、愛があれば、すべては生きる。聖パウロのメッセージは、愛によって生きることこそ最高の道だと悟らせることにあった。かつて虹を架けるコミュニティというホームページを立ち上げた時、私は標語として「必要なことでは一致、疑義のあることでは自由。だが、すべてにおいて愛」(In necessariis unitas, in dubiis libertas, sed in omnibus caritas.)という短文を掲げた。聖アウグスチヌスの名言だが、一致するにせよ、議論するにせよ、何事においても必要なのは愛だという意味で、それは聖パウロの教えの系譜に属している。
 もう一つ付け加える。一昨年出版した本「あの笑顔が甦った」のエピローグに、私は聖ヴィアンネの次の言葉を引用した。“S’il n’y a rien après la mort, je serai bien attrapé. Mais je ne regretterai pas d’avoir cru à l’amour. ” (死後何もないとしたら、私はまったくいっぱい喰わされたことになろう。でも、私は愛を信じたことを後悔はしないだろうね。) しかし、これはマルク・オレゾンの本 “Apprenti Sorcier”p.147からの借用だったので、本当に聖ヴィアンネがそう言ったかどうか気になっていた。
 ところが3年ほど前、たまたま同聖人の生地に近いグルノーブルの知人から、Bernard Nodet編Le Curé d’Ars(アルスの主任司祭)という本をもらった。聖人と同時代の人43人の証言集だ。それを読んでいたら、非常に似た個所を188頁に見つけた。アルスの教会に通った常連オリオルと言う人の証言だが、皆が聖ヴィアンネの働き過ぎを心配して、数日休みをとってくださいと勧めた時、彼は聖人が次のように言うのを聞いたと言う。
 “Je me reposerai au paradis. Je connais quelqu’un qui serait bien attrapé s’il n’y avait point de paradis.” (私は天国で休みますよ。もし天国がないとしたら、まったく1杯喰わされることになる誰かさんのことは知っていますけどね。) この証言には、「愛を信じたことを後悔はしないだろう」と言う一句はないが、おそらく証言にはバリエーションがあるからだろうと思う。いずれにせよ、私はそれを読んで、マルク・オレゾンの本にある言葉は正真正銘のものだと確信した。フランス人でイエズス会神父でもある人が聖人の言葉を間違えて引用をするはずはないし、2書の表現が実に酷似しているからだ。ここにも聖パウロが教えた「最高の道」のエコーがある。

かつてあったことは今

聖書の巻物 ミニチュア
(写真はユダヤ教で使われる聖書の巻物のミニチュア)

 進歩と変化の激しいこの現代にいるというのに、2,450年も前、中東やイスラエルの地であったことなどを考察して何になるのか。時代から浮いた、あらずもがなの暇つぶしではないかと言われても仕方ないが、ネヘミヤ書とエズラ書を読み返してみた。年間第3主日の第1朗読がネヘミヤ8;2-12だと知って、それがイエス様のナザレト訪問(ルカ4;16 -21)とどうつながるのか?典礼はなぜ私たちにそこを読ませるのか?という疑問を持ったからだ。 

 ネヘミヤとエズラの書は、部族の家系や人口調査の叙述では辟易させられるが、イスラエルの民がバビロンの捕囚から帰国した頃のことを興味深く伝える。そこには、その時代を生きた者でなければ書けない場面がふんだんにある。イラク、イラン、イスラエルは湾岸戦争やイラク戦争で現代の私たちにも無縁ではないが、2書の舞台はまさにその3つの国にまたがる、紀元前5世紀の歴史物語なのだ。イラクは当時バビロニアまたはカルディアと呼ばれ、イランはペルシャと言われた。ところで、その2書を読み返してみて、ルカ福音書4;16 -21とネヘミヤ8;2-12の接点は、聖書の朗読、神の民の解放、イザヤの預言、という3点にあると思えた。
 まず聖書の朗読だが、ルカの福音書ではイエス様がナザレトの会堂で聖書の巻物をお読みになった。他方、ネヘミヤ書8章1-8では祭司で書記官でもあったエズラが聖書を読み上げ、民衆はそれに耳を傾けた。そこが相似している。しかし、もちろん違いもある。ナザレトの会堂で読まれたのはイザヤの書であり、エズラが読んだのはモーセの律法の書だった。そして、一番大きい違いは聖書朗読の後に見せた聴衆の反応だった。イエス様の話しを聞いたナザレトの人々は、最初は感動したものの、やがて反感を抱き、最後は暴挙で終わった。ところが、それより450年前のバビロンからの帰還者たちは、エズラの朗読を聞いて、「アーメン、アーメンと唱和し、ひざまずき、顔を地に伏せて、主を礼拝し」(ネヘ8;6)、「皆、律法の言葉を聞いて泣いた」(同8;9)のだった。
 次に、神の民の解放という点では、ネヘミヤとエズラは神様がその民をバビロンの捕囚から解放し、祖国に帰してくれたことを感謝して聖書を民に聞かせたが、ナザレトの会堂ではイエス様が、約束された救いの時、解放と自由、神の恵みの年が実現したことを宣言なさった。そこに接点がある。しかし、違いもある。ネヘミヤたちの場合、神様の救いの業はすでに成し遂げられていた。しかし、イエス様が宣言された救いの業は始まったばかり、これから成し遂げられなければならないことであった。
 3番目に、ともにその知らせがイザヤの預言で告げられたという点でつながっている。イスラエルの民のバビロンからの解放はイザヤ40章で告げられ、新約の民への福音はイザヤ61章で予告されたからだ。しかし、この点でも違いはある。バビロンからの帰還は確かにすばらしい神様の救いの業、約束の実現ではあったが、彼らが期待していたよりもずっと小規模のもの、地上の国の事柄に過ぎなかった。だが、イエス様の宣言された福音は壮大な人類規模の、地上の国の事柄とは次元が違う、新約の神の国の実現だった。そこが一番違った。

 では、典礼はそのような共通点を学ばせるために、ネヘミヤ8;2-12を朗読させるのだろうか?いや、そこからもう少し違う何かを学ばせるためではないだろうか?では、それは何だろうか?それを知るために、ネヘミヤとエズラがどんな人だったのか、その時代はどんな時代だったのかを確認しておこう。
 ネヘミヤは紀元前5世紀の中頃に生まれた人で、捕囚のユダヤ人の子孫だったが、ペルシャのアルテクセルクス王と酒も酌み交わせるほどの地位にいて、信頼と厚遇も得ていた。だから、彼はエルサレムが未だに荒れたままであると聞いて心を痛め、王に願って、行政長官という役職でユダヤに赴任させてもらった。他方、エズラは祭司であり書記官でもあって、エルサレムの人々をまとめる中心的人物だった。彼はネヘミヤと協力し、近隣の敵対民族に対抗しながら、エルサレムの城壁を完成させた。彼らが槍を片手に工事を進めた描写は臨場感に溢れていて、2450年も昔のこととは思えないくらい生々しい。
 ソロモン王が造営した第一神殿はバビロニア王ネブカドネツァルによって灰燼に帰していたが、第二神殿はバビロンから帰国した第一陣のイスラエル人たちによって、すでに前6世紀に完成されていた。前539年にペルシャがバビロニアを滅ぼし、他民族の宗教に寛大だったキュロス王が解放の勅令を出したので、バビロン捕囚のイスラエル人たちも帰国がかなったのだ。そして、帰国するやすぐ神殿を再建したのだった。詩編126はそれを歌っている。「主がシオンの捕われ人を連れて帰られると聞いて、わたしたちは夢を見ている人のようになった。…涙と共に種を蒔く人は、喜びの歌と共に刈り入れる」と。ネヘミヤは帰国第一陣から遅れること約100年後の帰国者だった。しかし、国はまだ衰退したままで、近隣の国々から侮られていた。そこで彼らの大仕事は城壁の構築だったのだ。

 では、バビロン捕囚からの帰還は彼らにとってどういう意味を持っていたかと言うと、エジプトからの脱出と解放に重ねられたことだろう。それは神が彼らに示した大いなる慈しみの業、子々孫々に至るまで感謝し続けるべき民族の記憶であった。ところが、出エジプトと出バビロンを比べてみると興味深いことがわかる。エズラ書にもネヘミヤ書にも、最初に帰国した人たちの名簿と人口調査が載っていて、その総勢は42,360人だったとある。ところが、出エジプト記は「イスラエルの人々は…壮年男子だけでおよそ六十万人であった」(出12;37)と書いている。大きな差があるのだ。
 そして、国土も出エジプト後はダビデ王の黄金時代になると、現在のイスラエルとヨルダン王国の半分を含むほど広がっていたのに、捕囚後の居住地はちっぽけで、エルサレムを取り囲むかつてのユダ王国の一部に過ぎなかった。神殿も第一神殿は豪華だったが、第二神殿は見劣りがした。神殿の中の調度品でも前者はふんだんに金が使われ、後者は銅であった。2つを比べると、出エジプトはあらゆる面でメジャーだったが、出バビロンはマイナーだった。
 この現実は彼らに何を思わせただろうか?かつて出エジプトでおこったことは今我々にも起こった。しかし、これは完結ではなく、始まりに過ぎない。スケールが小さすぎるからだ。いつかきっと霊の力に満ちた指導者、モーセに優るとも劣らない油を塗られた王が現れ、神様が王であり統治者である大いなる国を実現してくれる。今はその始まりだから、かつて先祖が犯したような過ちの轍を踏んではならず、律法を忠実に守って生きなければならない。そう考えたのではなかろうか。だから、彼らは神殿で犠牲をささげ、集会では熱心に聖書の言葉を聞いたのだと思う。
 その精神はやがて前2世紀に敬虔な宗教集団ハッシディムを形成させ、さらにそれが律法に忠実なファリサイ派につながって行った。イエス様の御昇天前だったと言うのに、使徒たちが「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」(徒1;6)と尋ねたのもその考え方の延長線上にあったと言えよう。確かに、イエス・キリスト様は彼らが何世紀もの間待ち望んだように、全人類を何かから脱出させて大いなる救いを成就し、恵みの年をもたらされた。
 しかし、それは先行した2つの脱出と解放とは次元の違うものだった。ある意味で、出エジプト、出バビロンは三段跳びのホップ、ステップに喩えられるだろう。そして、ジャンプはイエス・キリスト様による脱出と解放、救いと恵みの大いなる御業だった。だが、それは出エジプトのような圧制からの救いでもなく、脱バビロンのような罰の捕囚からの救いでもなく、聖パウロ流の言い方をすれば、それは「罪の支配からの脱出、古い人からの解放、真理と恵みに満ちた神の国への移住」なのだ。
 だから、ヨハネは「律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れた」(ヨハネ1;17)と断言した。そして、イエス様がナザレトの会堂で読まれたイザヤの書はまさにそれを予告していたのだ。そう思って読みなおすと、「主の霊はわたしの上にある。・・・主の恵みの年を告げるためである」という言葉は、まったく違って響いてくるはずだ。
 バビロンから帰ったユダヤ人たちが、かつてあったことが今われわれにも起こった。しかし、もっと大きなことが起こるだろうと思ったように、私たちもかつて彼らにホップ、ステップとして起こったことが、2000年前にジャンプとして起こったことを知らなければなるまい。ただ、捕囚から帰った人たちと違って、ナザレトの人々はそれを理解し損なった。では、わたしたちはどうか?イザヤの預言を通して宣言された、イエス・キリスト様による解放と恵みの年は、まだ完結したわけではなく、実現の途中だと理解できているだろうか。しかし、やがて完結の時、主の再臨の日が来る。かつてあったことから、この大きな救いの歴史の中で今を悟り、未来への見通しを再確認すること、典礼が私たちにわからせたい最終意図はそこにあるのではなかろうか。

 ところで最後に、気付いたこと3つに言及しておこう。
 その1:ネヘミヤ8;2-12は原典で読んでみたが、新共同訳には物足りない点があった。9節の「ネヘミヤと、祭司であり書記官であるエズラは…民全員に言った。『今日は、あなたたちの神、主にささげられた聖なる日だ。嘆いたり、泣いたりしてはならない。』民は皆、律法の言葉を聞いて泣いていた」と言う個所だ。ネヘミヤが「泣いたりしてはならない」と言ったのに、「民は皆泣いていた」と言うのは筋が通らない。変だと思って調べたら、なぜならとい理由が抜けていた。本当は、この1節は「なぜなら、民は皆…、律法の言葉を聞いて泣いていたからである」と訳されるべきだった。「泣いたりしてはならない」と言ったのは、民が泣いていたからなのだ。
 その2:バビロンからの第一陣帰国者のリーダー11名(エズラ2;2)の中には、イエシュアという名前があった。言い慣れた言い方で普通に言えばイエスという名だ。この名はそれほど珍しくはなかったから、主が福音を宣教し始めた時、人々は他のイエスと区別するためにナザレトのイエス(ヨハネ18;7)と呼んだのだった。悪魔まで「ナザレのイエス、かまわないでくれ」(マルコ1;24)と叫んだ。しかし、やがてナザレトのイエスよりも、イエス・キリストまたはキリスト・イエスと呼ばれることが圧倒的に多くなった。それは他のイエス(イエシュア)とは全く違う、「油を注がれた者」、すなわちメシア(正確なヘブライ語ではマーシアーハ)、ギリシャ語ではキリスト(正確にはクリストス)となられたからだ。Mashahha (マーシャッハ)とはヘブライ語で「油を塗る」という動詞だ。そして、その言葉はまさにイザヤの預言61;18に出てきて、イエス様だけに冠されるようになった名なのだ。
 その3:再びネヘミヤ8;2-12だが、この個所には、民衆が広場に集まると、祭司エズラがモーセの律法の書を、「夜明けから正午までそれを読み上げた。民は皆、その律法に耳を傾けた」と書いてある。これを読んで心を打たれた。夜明けから正午までと言えば、約6時間になる。何とそんなに長時間、聖書の朗読に耳を傾けたとは!その真摯さが伝わってきて実に感動的だ。
 かつて預言者アモスは背徳のイスラエルの民に向かって、神様に見捨てられることを、「それはパンに飢えることでもなく、水に渇くことでもなく、主の言葉を聞くことのできぬ飢えと渇きだ」(アモ8;11)と警告した。罰せられて50年間バビロンにいた人々はその飢えを体験したのであろう。だからこれほど真剣だったのだと推察される。かつてあったことに比べ、今の私たちはどうだろうか?緊張を欠いていないだろうか?もし主の言葉に飢えていないとすれば、世の楽しみで満腹してしまっているからかも知れない。

ナザレト訪問の意味

ナザレト訪問の意味

 年間第3主日の福音ルカ4;14-21は、イエス様が故郷のナザレトを訪問なさった時の出来事を伝える。マタイもマルコもこのことを記述しているが、ルカはどうもその訪問に、単なる出来事以上の意味を見ていたように思える。あるいはその福音書を構想したビジョンの中で、その訪問に単なる出来事以上の意味を持たせるために、彼独自の伝え方をしたのかも知れない。なぜならマタイやマルコは、ナザレトの人たちがイエス様につまずき、受け入れなかった事実と結果だけを伝えるが、ルカはこの訪問を3部分からなる出来事として語っているからだ。1)神の救いの時が来たことの宣言、2)ナザレトの人たちの反応、3)主の応答とナザレトの人たちの暴挙、の3部分だ。

 この日の福音はその第1部分に当たる。残りの部分は次の主日に読まれるので、ここでは第1部分だけに焦点を絞り、まず、イエス様がナザレトに帰郷なさったのは、この時が初めてで最後だったのか?という問題を自学してみたい。ルカの福音書では記録上は一度しか言及されていない。ところがマタイを読むと、主が少なくとも2度はナザレトに帰郷されたことが書いてある。そこで上記の疑問が湧くわけだ。
 マタイによれば、1回目の帰郷は荒野の誘惑の後だ。「イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた。そして、ナザレを離れ、…カファルナウムに来て」(マタイ4; 12-13)とあるから、どのくらいそこに滞在し、何をなされたかは書いてないが、故郷に行かれたことは確かだ。2回目の帰郷はナザレトの人たちが、「この人は大工の子ではないか」(同13;53-58)とつまずき、主も「預言者が敬われないのはその故郷…」とその不信仰に呆れて、あまり奇跡をなさらなかった時だ。
 ところで、ヨハネの福音書はイエス様が洗礼後一度ガリラヤに戻り、カナの婚礼等の後、次の過越し祭前またエルサレムに上り、ついでに弟子たちがヨルダン川で洗礼を授けたので、洗礼者ヨハネの弟子たちとの間に不和が生じた(ヨハネ3;22-28)ことを記録している。そこで主はユダヤを去り、またガリラヤに戻られた(同4;1-4)。サマリアの女との出会いがあったのはその途中だが、その後の記録が実に興味深い。「イエスはそこを出発して、ガリラヤに行かれた。イエスは自ら、『預言者は自分の故郷では敬われないものだ』とはっきり言われたことがある。ガリラヤにお着きに成ると、ガリラヤの人たちはイエスを歓迎した」(同4;43-45)とあり、続いて、「イエスは、再びガリラヤのカナに行かれた」(同4;46)と書いてあるからだ。
 「預言者は自分の故郷では敬われない」という言葉は、4福音書がそろって書き残している。これはちょっとした驚きだ。しかし、「はっきり言われたことがある」というヨハネの記憶は、この時点ではなく、以前にそういうことがあったことを意味していると思う。ならば、それはおそらくマタイ13;53-58が語る2回目の故郷訪問時のことだろう。ところで、ヨハネの福音書はそういう言葉は残したが、イエス様がガリラヤに戻り、カナにも行ったというのに、ナザレトに行ったとは書いていない。なぜかそこは避けられたようだ。その理由はルカが伝える去り際のショッキングな出来事を思えば納得できる。ナザレトは居心地の悪い町になっていたのだと思う。
 これらを総合すると、公生活中の主が少なくとも2度は故郷へ行かれたということは確かなようだ。1回目は福音宣教の早い時期に、2回目以後はそれからかなり経ってからだった。ところが、ルカはそれらを一緒にして1回だけにまとめ、時期は福音宣教の初めに合わせた。言い換えれば、彼は2回目以後の訪問のことも書いたのだが、それは1回目の訪問の中に併合させてしまったのだと思われる。
 ただ、訪問は3回あったのではないかという説もある。それによれば、ルカ4;16-22は1回目、ルカ4;23-24は2回目、そしてルカ4;25-30は3回目を示すという。確かにマルコとマタイでは「預言者が敬われないのは…」と不信仰に驚かれたが、険悪な雰囲気になって別れてはおられない。ところが、ルカ4;25-30では会衆は殺気立っている。もしそのようなことがマルコとマタイで知られていたら、彼らも穏便な立ち去り方をしたようには書かなかっただろう。そう推理すると、関係が決裂した3回目の訪問があったのではないかという仮説もあながち否定できない。いずれにせよ、イエス様はその後ナザレトには決して行かれなかった。

 さて、イエス様は「いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった」とある。ユダヤ教の安息日は土曜日だから、「いつものとおり安息日に」とは、主が毎週土曜日に会堂へ行かれていたことを物語る。では、大工の子と見なされていた主が、どうして聖書を朗読し、会衆に話すことを許されたのだろうか?
 その答えを見つける前に、会堂と安息日と聖書朗読のことを確認しておこう。この3つはイスラエル民族にとってバビロン捕囚で得た宝だった。捕囚以前の宗教的な中心は神殿であり、司祭がささげる犠牲だった。しかし、国が敗れ、神殿のないバビロンに連れて行かれた結果、彼らは7日ごとに集って聖書を読み、それで民族のアイデンティティを堅固にした。それが安息日と会堂と聖書なのだ。捕囚の地から解放されて祖国に戻ると、神殿は再建され犠牲の祭儀は再開されたが、異国で50年以上も培われた安息日と会堂と聖書朗読はより強く生活に根付いていった。
 神殿はエルサレムにしかなかったが、会堂はイスラエルのあらゆる町々村々に建てられた。人々は年に1度の過越し祭、五旬祭、仮庵祭には都に上り、神殿で犠牲もささげたが、その他の時は毎週会堂に行って祈り、聖書を学んだ。後者の方がずっと生活に密着していたのだ。ちなみにイエス様の時代、ファリサイ派と律法学者(ラビ)が権威を誇っていたのは、会堂を中心として聖書を解釈する熱心グループであり専門家だったからだ。神殿は犠牲のためだったが、会堂は聖書の教えのためだったのだ。
 しかし、イエス様もそこで朗読し話す権利はもらえた。会堂の礼拝は祈り、聖書朗読、説教の3部分で成っていた。朗読はトーラ(モーセ5書)に関しては、1年周期と3年半で読み終える周期があるようだが、いずれにせよその日の朗読は読まれた後すぐ、アラマイ語や場所によってはギリシャ語にも通訳されたそうだ。多くがもうヘブライ語がわからなくなっていたからだった。そして、説教では特に教導職が定められていなかった。会堂司は巻物の取り扱い、安息日の知らせ、集会の司会などが役目で、教導職ではなかった。だから、説教は著名な人とかを招いて話してもらった。イエス様はまさにその一人だったのだ。だから朗読し話せたのだ。

 イエス様は「聖書を朗読しようとしてお立ちになった。預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。」(ルカ4;16b-17)ユダヤの会堂では今でも巻物が使われるが、目に留まった個所はイザヤ61章だった。そこにはこう書いてあった。
   <主の霊がわたしの上におられる。
   貧しい人に福音を告げ知らせるために、
   主がわたしに油を注がれたからである。
   主がわたしを遣わされたのは、
   捕われている人に解放を、
   目の見えない人に視力の回復を告げ、
   圧迫されている人を自由にし、
   主の恵の年を告げるためである。>
 ルカはイザヤ61;1-2をこう書いたが、それは忠実な引用だったのだろうか?そういう疑問を覚えたので、ルカの引用した日本語訳イザヤ61;1-2を元本の旧約聖書日本語訳イザヤ61;1-2と比較してみた。まず、ルカの新共同訳がギリシャ語原典に忠実かどうか確かめてみたら、忠実な訳だった。ところが、それを元本の旧約聖書日本語訳と比べるとかなり違う。これはルカがヘブライ語原典ではなく、ギリシャ語訳から引用したからではないかとの仮説を立て、ヘブライ語原典とギリシャ語70人訳(Septuaginta)を調べてみた。その上でルカのギリシャ語原典の引用と比較してみた。
 ヘブライ語原典のイザヤ61;1-2は次のように訳せた。(ついでに言うが、新共同訳の訳は正しい訳だと思うが、比較には適してない訳し方なので、ここでは外すことにする。)
   <主の霊がわたしの上におられる。
   貧しい人たちに吉報を知らせるために、
   主がわたしに油を注がれたからである。
   主は打ち砕かれた人たちの心を包み、
   捕われている人たちに解放を
   つながれている人たちに自由を告げるために
   私を遣わされた。
   主の恵の年、わたしたちの神の報復の日を告げるために…>
 他方、ギリシャ語70人訳(Septuaginta)は次のように訳せる。
   <主の霊がわたしの上におられる。
   わたしに油を注ぐために。
   主がわたしを遣わされたのは
   貧しい人たちに吉報を知らせ、 
   打ち砕かれた人たちの心を包み、
   捕われている人たちに解放を知らせ、
   目の見えない人の視力を回復させ、
   主の恵の年、報いに満ちた日を告げるためである。>
 これらを比較してみたら、次のことがわかった。
1.ルカの引用したイザヤの言葉は元の旧約聖書にあるのとは、過不足があって微妙に違う。
2.イザヤの言葉はルカの引用でも元の旧約聖書ギリシャ語訳でも、ヘブライ語原典とは違う。
3.しかし、ルカの引用したイザヤの言葉は、どちらかと言えばヘブライ語原典よりもギリシャ語70人訳の方に近い。特に「目の見えない人に視力を回復」という個所が共通する。
4.こう見比べると、ルカはギリシャ語70人訳を元本にして引用したのだと思われる。
5.しかし、それでも相違点があるのは、ギリシャ語訳旧約聖書が傍になくて、少し不正確なメモを使ったか、それとも相違が生まれていた90人訳の写本を使ったからかも知れない。いずれにせよ、イザヤの言葉は本筋でも細部でもほとんどは忠実に引用されていると結論できる。

 「イエスは巻物を置き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。そこでイエスは、『この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した』と話し始められた。」
 主は座られた。終わったということではなく、むしろそれがこれから朗読した聖書について話しますという仕草だった。だから、会堂はしーんと静まり返って、何を言い出すかと、皆の目がイエス様にじーっと注がれたのだった。ほとんどのユダヤ人はこのイザヤの言葉を知っていたと思う。その預言はかつてバビロンから解放された時にいくらか実現したことだった。だが、その時の解放は待ち望んだほどのことではなかったから、彼らには油を注がれた偉大な指導者が出現すれば、その時こそもっと真の解放と独立と自由が実現するという待望があった。だから興味津々だったのだ。
 するとイエス様は言われた。「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と。これはすごい一言だった。なぜなら、開口一番、この預言はこの私についてであって、今日、ここであなたがたの耳に聞こえたときに成就した、という宣言だったからだ。それを聞いた会衆はえーっ!と驚きざわめいたことだろう。
 イザヤの預言は、いつかモーシェやダビデに勝るとも劣らない偉大な指導者が現れるとき、神なる主が彼に油を注ぐ。油で聖別された指導者だから、主の霊が彼と共にあって彼をバックアップすると予見し、その指導者が自ら表明する語り口で、「主の霊がわたしの上にある」と預言した。油を注がれた者とはヘブライ語ではマーシアーハ(メシア)、ギリシャ語ではキリストのことだ。よい知らせとは、苦難と屈辱からの解放と自由、背反の罪の赦し、盲目という言葉で表された不幸やお先真っ暗な絶望から光りが見えた希望、そのような救いの時が来たという嬉しい吉報を意味した。 
 「主の恵の年」とはイスラエルの民に神様が命じたヨベルの年を思わせる。ヨベルの年とは聖書に規定されている50年ごとの特別な恩典の年だった。その年が来ると、角笛(ヨベル)を吹き鳴らして人々に知らせた。この角笛の名からついた名称だが、それが現代のJubilee(ジュビレ:50年祭、金婚記念等)の語源であり、カトリック教会では50年ごとの聖年の形を取り、その年に指定された場所に巡礼すれば贖宥が得られる、という恩典でヨベルの精神が生かされている。
 レビ記25章は全てのイスラエル人が50年ごとに土地を休め、各自の所有地を元の所有者に返却することを命じた。それはいわば所有を振り出しに戻させることだった。だから、土地を買う時は次のヨベルの年から逆算して値段がだんだん安くなるように決めた。この返却の根拠は、「土地はわたし(神)のものであり、あなたたちはわたしの土地に寄留し、滞在する者に過ぎない」(レビ25;23)という思想にあり、その目的は所有の公平と正義を保つためだった。しかし、多少は実行されたようだが、実際は難しいので、バビロンからの帰還以後は事実上廃止同然になった。
 しかし、それは王が何かの祝いに当たって罪人に恩赦を与えるように、神様が人々の積年の罪過や背反を気前よく帳消しにしてくださり、元のように恵を戻し慈しんでくださる象徴として残った。イエス様が預言者イザヤの書を読んで、「主の恵の年を告げるためである」のところで止められたのは、そこに大きな意味があることをわからせるためではなかったろうか。なぜなら、イエス様が告げ始めておられた福音こそは、主の恵の年の中身だったからだ。
 事実、イエス様の上には主の霊があった。聖霊によって乙女マリアから生れ、洗礼の時は聖霊が鳩のように上に降り、ヨルダンから帰った時も荒れ野に行った時も聖霊が共にあり、霊の力に満ちてガリラヤに帰られた。そして、洗礼者ヨハネの弟子たちに、「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、らい病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである」(マタイ11;4-6)と言われたとおり、病を癒し、貧しい人々には希望と喜びを、心が罪に縛られている人々には解放の赦しと自由を与えられた。それはまさにイザヤの預言の実現だった。

 「話し始められた」(ルカ4;21)とあるから、話は「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」で終わったわけではなく、もっと続いたはずだ。さもないと、「皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて」(同4;22)という反応が説明できない。「この聖書の言葉は、今日…」という一言だけで、会衆がそんな評価と反応をしたとは考えられないからだ。しかし、ルカはそこから先、主が何を話されたかについては何一つ伝えていない。だから知りたければ、想像するしかない。それにルカ4;22-30は年間第4主日の福音だから、その考察は来週のお楽しみにしよう。
 初めの方で、ルカはこのナザレト訪問に単なる出来事以上の意味を見ていたようだと書いたが、その意味を探り出してこの考察のまとめとしたい。ルカがこの訪問の記事を福音宣教の初めに位置づけたのは、それを福音開始宣言にする意図があったからだと思う。そして、彼がそれに1)神の救いの時到来の宣言、2)ナザレトの人たちの不信仰、3)関係の決裂とナザレト住民の暴挙の3つの事柄を一緒にまとめて入れたのは、それが単なる時間的経過の中の出来事ではなく、神様の恵みによって人が新たにされる救いの時の到来と、それに抗う人間の傲慢な拒否の応答が同時に見られる象徴だと見たからだろう。この恵みと拒否のドラマはこの後の福音宣教と救いの業の実現の中で益々激しく繰り広げられていく。ルカはそれを初めに示したのだと思う。

ルカによる福音書序文考察

 今年の年間第3三主日の福音はルカ1;1-4と4;14-21だ。これは通常と違う。1;1-4は同福音書の序文であり、4;14-21はイエス様が故郷の町ナザレトを訪問なさった時の出来事だ。2つはかなり離れた章に書かれ、内容も別だ。霊的な糧には後者だけでも十分なのに、なぜ話題の違う2箇所を読ませるのだろうか?あえてそうする以上、教会は信者達に両方から何かを学ばせたい、あるいはもう一度黙想させ信仰を深めさせたいと願っているからなのだろう。そう理解したので、まず序文の方を考察してみることにした。

 手始めに、共同訳と仏訳と原典で読み直してみた。ある解説書はルカのギリシャ語を4福音書中で一番よいと評し、わけてもこの序文を実に優れていると絶賛していた。しかし、まあまあの読解力しかない私にはそんな良さはわからなかった。ただ、それが長いたった一つのつながった文であることには気付いた。関係代名詞のない日本語訳は全体を3つの文に切っているが、仏訳も原典と同じく、すべてを一つにつながった文にしている。そうは言っても、それは分解すれば次のような5つの文にはなる。

1<最初から目撃して御言葉のために働いた人々は、わたしたちの間で実現した事柄を、わたしたちに伝えました。>
2<その事柄についての物語を、伝えられたとおりに書き連ねようと、多くの人々が既に手を着けています。> 
3<そこで、わたしもすべてのことを初めから詳しく調べていますので、順序正しく書いてみます。> 
4<敬愛するテオフィロさま、それをあなたに献呈するのがよいと思いました。> 
5<それはお受けになった教えが確実なものであることを、よくわかっていただきたいからです。>
 
 この4番目の文が序文の中の主文で、ここに献呈の意向が表明されている。しかし、ルカがこの福音を書いた実質的な目的は5番目の文にある。彼は教えを間違いなくわかってもらうために書いたのだ。そして、現代の教会が典礼を通して、わたしたちにこの箇所を読ませようとしているのも、またそれと同じ意図なのではあるまいかと思う。すなわち、このルカの言葉を通して、私たちにも自分たちが信じているこの教えが真実で、最も価値の豊かな福音であることを確信させることにある。おそらくこれがこの序文の一番大事な点で、それに無関心なまま、ただ学究的に考察するだけではあまり意味がないと私は思う。このことを踏まえた上で個々の言葉の解釈や自問の解明に移る。

 まず、最初に出てくる「わたしたちの間で実現した事柄」とは、口伝の福音に当たり、ルカがこれから書こうとしていた題材を指している。つまり、イエス・キリスト様が宣べ伝えた福音と行った業、とくに受難と復活による救いの実現を指している。連想するのは聖霊降臨の日に聖ペトロが行った説教の中の一節だ。彼は言った。「ナザレのイエスこそ、神から遣わされた方です。神は、イエスを通してあなたがたの間で行なわれた奇跡と、不思議なわざと、しるしとによって、そのことをあなたがたに証明なさいました」(徒2;22)と。これはルカの言葉と響き合う。おそらくこれは初代教会で好んで使われた表現なのだろうと思う。イエス様がなされたことを「わたしたちの間で実現した」と捉える表現は、その時代を生きた人たちならではの実感があって、とても味わいが深い。
 「最初から目撃して御言葉のために働いた人々」とは、主の話しや行いを自分の耳で聞き、自分の目で見た人たちを指し、ガリラヤ時代から聖霊降臨後の教会誕生を経て、福音書が書かれ出した時代まで働いてきた人たちのことだ。代表的なのは最後の晩餐の時、「あなたがたも、初めからわたしといっしょにいたのだから、証しをするのである」(ヨハネ15;27)と言われた12使徒やその他の弟子たち、そして主に従った女性たちだ。聖霊降臨の日に洗礼を受けた3千人の人々をはじめ、その後の30年間ぐらいに信仰者となった代表的な人たちもそれに入るだろう。彼らは初代教会における第1世代の人々と呼べるのではあるまいか。
 ところが、「わたしたちの間で実現した事柄」の口伝は、紀元50年を過ぎると文書化され始めた。この時代からの人々は初代教会の第2世代と呼んでいいだろう。この頃になると、イエス様と共に生きた経験者や聖霊降臨後の熱気と活気に溢れた時代の空気を知る人が少なくなり、伝え聞いたことを信じるしかなくなった。しかし、口伝えだけではいつまで確かに伝承できるか心もとない。そこで、目撃者や体験者がまだ生存している間に、口伝を何とか文書にしておこうという動きが起こったのだと推測できる。「伝えられたとおりに書き連ねようと、多くの人々が既に手を着けています」という一節は、そうした状況や時代背景を伝えるものだ。
 続く「わたしもすべてのことを初めから詳しく調べていますので、順序正しく書いて」という一節は、ルカが優れた情報と独自性をもって書こうとしていた執筆理由を示し、自負心も窺える。ただ、彼も「物語に書き連ねようと」した他の人々のように書こうとしたので、「福音書を書く」とは言っていない。福音書という名称は、マルコの福音書が冒頭に「神の子イエス・キリストの福音の初め」と書いてあるところから始まったらしいが、福音書ができ始めた最初からあったわけではないのだ。ルカはこの後で使徒言行録も書いたが、これにも序文にテオフィロへの献呈の辞がある。しかし、使徒言行録という名称も彼がつけたものではない。これも後世の命名だ。ルカはイエス様の使命がエルサレムで完成されるまでを第1巻の「物語」とし、聖霊降臨後その教えがエルサレムから世界に広がる次第を第2巻の「物語」として書いた。ガリラヤからエルサレムに上り、エルサレムから世界へ。これが彼のビジョンだった。

 さて、次は疑問だが、「多くの人々が既に手を着けています」という一節の「多くの人々」は、原典ではポッロイと書かれている。これは大勢を意味するから少しオーバーな表現で、実際は「何人か」だったのではあるまいか。いずれにせよ、同時代の人たちにはどんな人たちが既に手をつけていたかがわかっていたから、ルカはそう書いたのだろうが、後世の私たちにはそれではわからない。いったいどんな人々が既に物語の記述に手を着けていたのだろうか?
 今日では、それを知りたければ、共観福音書の成り立ちを探らざるをえなくなる。まず、ルカより後で書いた人はこの「多くの人々」から消去していいだろう。ヨハネの福音書記者はそうだ。福音書と言われても偽福音書(アポクリファ)に他ならない文書の筆者たちも然りだ。12使徒の福音書、ペトロの福音書、マチアスの福音書、フィリッポの福音書、ニコデモの福音書、ヤコブの福音書、ヘブライ人の福音書などだが、これらはすべて2世紀になってできたものだからだ。
 だとすると、ルカが書く前かあるいは同時期に福音書を書いた人には、どんな人がいるのだろうか?誰しもが公認福音書を書いたマルコとマタイを思い浮かべるだろう。しかし、それでは「多くの人々」とは言えない。では、他にどんな人たちがいたのだろうか?共観福音書には共通点が非常に多いのに違いも大きいのはなぜかという問題があって、現存する3共観福音書がどのように書かれたかを探っていくと、そこには現存の共観福音書に先行して物語を書いたらしい存在が何人か浮かび上がってくる。
 現代聖書学の仮説は大きく2つに分かれ、一つは三重の相互関係から共通点と相違点を説明する学説、もう一つは2つの源泉資料(Q資料)から説明する学説だ。前者はラグランジュ、ブノワ、セルフォーなどカトリック学者が多く、彼らは最初に書かれた福音書をアラマイ語マタイ福音書(M)だと見る。失われて今はないが、その存在は教会史家エウセビウスの証言で知られている。単に口伝を記述しただけのものだっただろうと推定されているが、誰か書いた人がいたことは確かだ。
 学者達は、何人かがそれを元に、現存の公認マタイ福音書とは別のギリシャ語マタイ福音書(Mg)を書いたと推定する。そこでマルコはそういうMg福音書の一つと、依然として存続していた口伝をもとに、聖ペトロの教えを加味してマルコの福音書(Mc)を書いたと考える。他方、ある人がMc福音書とM福音書をもとに、もう一つのギリシャ語マタイ福音書を書いた。それが現存する公認マタイ福音書だが、そこへ、「多くの人々が既に手を着けています」と言って加わったのがルカだったのではないか。彼はMc福音書とMg福音書の一つを参考にし、他の独自資料も駆使してルカの福音書を書いた、と学者達は推定する。もし共観福音書がそのような経緯でできたとすれば、ルカ以前に福音書を書いた人が少なくとも数人はいたことが確かになる。
 他方、2つの源泉から説明する学者はプロテスタントに多いようだ。彼らは初めには叙述的な元祖マルコ福音書と物語資料集(Q資料)があったという仮説を立てる。元祖マルコ福音書は失われたが、それを元に現在あるマルコ福音書が書かれた。その後マタイはマルコ福音書とQ資料を使って、現在のマタイ福音書を書いた。他方、ルカもマルコ福音書とQ資料を使ったが、彼は独自の資料も加えた。そして、ルカとマタイの間では相互影響はなかったと考える。いずれにせよ、Q資料をまとめた人をも文書化を試みた人々と見なすならば、この説によってもルカが福音書を書く前に、「多くの人々が既に手を着けて」いたことは証明される。しかし、それほど大勢いたとは思えない。そして、何人かいたとしても、現存の福音史家意外は名前がわからないことも事実だ。

 次は、「そこで、わたしもすべてのことを初めから詳しく調べていますので、…」と書かれているが、この「わたし」はたして本当にルカなのであろうか?という疑問だ。筆者は、献呈する相手の名は「テオフィロさま」だと明示しているが、この「わたし」がルカであるとはどこにも書いていない。しかし、文献を調べてみたところ、答えはやはり「然り」だった。その根拠は2つ挙げられていた。
 一つは教会の古くからの伝承が3番目の福音書をルカによるものだと証言しているからだ。例えば、1世紀末から2世紀中ごろまでの殉教者であり護教論家でもあった聖ユスチヌスや聖イレネウス、そしてムラトリのカノン聖書リストなどだ。もう一つの根拠は聖書内からのものだ。ルカの福音書および使徒言行録を聖パウロの手紙を比べると、両者の間には他のどの福音書よりも顕著に用語や思想の一致が見られる。例えば最後の晩餐における聖体の制定(ルカ22;17sqと一コリ11;23sq)はその一つだ。これはルカが聖パウロの親しい弟子であったからこそで、それは3番目の福音がルカによるものである証拠だと言う論法だ。
 しかし、私はもう一つもっと論理的に証明できる次のような根拠があると思う。この福音書と使徒言行録の著者が同じ人であることは確かだ。ところで、使徒言行録の著者は同書の16章10節から40節まで、27章1節から28章最後まで、主語を「わたしたち」にして叙述している。それは聖パウロが第2回宣教旅行でマケドニアのフィィッピにいた間と、ローマに囚人として旅した間のことだ。ルカはその時聖パウロに同道していた。自分が一行の中にいたからこそ、その部分は「わたしたち」を主語にして語ったのだ。ローマでは忠実にずっといっしょにいた。だから聖パウロはテモテへの第二の手紙4;11では、「ルカだけがわたしのところにいます」と書いたのだ。だとすれば、「わたしたち」の中にルカがいたことは確実だ。すなわち、使徒言行録の著者であることが証明される。そして、使徒言行録の著者であるなら、3番目の福音の著者でもあることがわかる。こんな証明だ。

 3つ目は「すべての事を初めから詳しく調べています…」と書いているが、ルカにはそんなに十分な資料があったのだろうか?どのように資料に接することができたのだろうか?という疑問だ。今とは違い、当時、本は写して一冊ずつを写本にする時代だった。容易に手に入るものではない。それに通信も交通も遅々たる時代だったから、どこにどういう本があるかを知るのは至難で、知ってもおいそれと取りにはいけなかっただろう。マルコの福音書が書かれたと知っても、写本には時間もかかるし、ギリシャ語マタイができたと聞いても、読ませてもらうのは実に難しかっただろう。
 彼はパウロの弟子でも、改宗者で元は異邦人だっのだから、ギリシャ語旧約聖書は持っていなかったのではないか。しかし、彼の福音書にはイザヤの予言からの引用がある。他の福音書にはない良いサマリア人とか放蕩息子の譬えとか、素晴らしい物語もいっぱい収録されている。いったいどのように資料を集め、詳しく調べたのだろうか?想像に過ぎないが、福音書も使徒言行録も西暦65年前後に書かれたとすれば、聖パウロといっしょにローマにいた時期だから、使徒から本を借りたのではなかろうか?
 ローマにいた聖パウロは、エフェソにいた弟子のテモテに興味深い頼み事をしている。「あなたが来るときには、…また書物、特に羊皮紙のものを持ってきてください」(ニテモ4;13)とあるからだ。使徒パウロはローマでは数年過ごした。書物が必要だったのだろう。でも、彼は学者だったからそれを持っていたのだと思う。聖パウロならいろいろな情報も入っただろうから、ルカは聖パウロを通して、新しく書かれた福音書や物語集(Q資料)などを誰が持っているかを知り、何とかその写本を入手するとか借りるとかして読んだのでもあろう。きっと記憶力は抜群だったのだろうが、読む時は写本に近いほど丹念にメモを取ったのではなかろうか。また、口伝の話しを聖母や初期の人たちから聞き書きして回ったのではないかとも思う。羊皮紙に羽ペンで、夜の明かりは灯心だったのに、よく調べよく書いたものだ。考えると、現代の私たちはやわだ。
 ちなみに、ルカとマルコの接点はかなりあった。例えば、聖パウロはローマからテモテに「ルカだけがわたしのところにいます」と書いたとき、続けて「マルコを連れて来てください。彼はわたしの務めをよく助けてくれるからです」(一テモ4;11)と書いている。かつて、聖パウロは第2回宣教旅行から外すなど、一時信頼しなかったが、この頃はもう許していたらしい。いずれにせよ、マルコがローマに着けば、ルカとも合流していたはずだ。またフィレモンへの手紙では「マルコ、アリスタルコス、デマス、ルカからもよろしくとのことです」(フィレ24)と書いている。これで2人に交流があったことはわかる。ひょっとしたら、それぞれの福音書を貸し合ったかも知れない。

 最後に、ルカは「すべての事を初めから詳しく調べていますので、順序正しく書いて」と言っているが、果たしてすべて順序正しく書けたのだろうか?という疑問がある。彼のこの言葉には先行したいくつかの福音書物語に対する不満が感じられ、自分はもっとしっかりした、納得できるものを書くという自負心が窺える。でも、本当にすべてが順序正しく書けたか、それが問われている。思うに、彼はすばらしい福音書を書いた。だが、100%の順序正しさはない。それが答えだと思う。
 主の祈りや「…は幸いである」の説教などの小さな不一致は横におくとして、私にはどうしても気になる2つの事実がある。1つはイエス様が御復活後ガリラヤに戻らず、ずっとエルサレムにおられたように書いたこと、もう1つは主の公生活が1年にしかならないような書き方をしたことだ。彼は自分の考える神の救いのビジョンに合わせてそう書いたようだが、これは事実と違っていたと思う。
 他の3福音書は主が御復活後一時ガリラヤに戻られ、そこで弟子たちと再会されたことを伝えている。ところが、ルカだけは主がエルサレムに留まったままだったように書いた。ガリラヤへの一時帰郷を否定したわけではないが、意図的にそれについては語らなかったのだと思う。理由は、ガリラヤに戻ることは彼のビジョンにとって不都合だったからではなかろうか。
 これは公生活が1年にしかならない書き方とも関連する。ルカはイエス・キリスト様による救いの大業の達成をガリラヤで始まり、エルサレムで完成し、そこから全世界に広がるというビジョンに沿ってその福音書を構想した。だから、ガリラヤでの福音宣教期間が終わると、主が一路エルサレムに上られたように書いた。ヨハネの福音書のように、何回もガリラヤとエルサレム間を往復させるのはビジョンと合わない。再びガリラヤに戻ると整合性が綻びる。だから、一度エルサレムに上ったらそのまま都に留まったように書いた。そして、当然のことながら、それは一回限りだから、主の公生活もルカの福音書によれば1年だけになってしまうわけだ。だが、それは順序正しかったとは言えない書き方だったと言わざるを得まい。
 しかし、そのことはルカの大いなる貢献の光沢を何ら鈍らすものではない。いや、彼が詳しく調べ、順序を見直して書いてくれた福音書は、私たちにかけがえのない不滅な霊的遺産となった。特に、主イエス・キリスト様の聖誕やその前後の物語および主の少年時代を伝える最初の2章、そしてエマオへの弟子たちに出現された出来事を語る最終章は、他の福音史家が誰も書いてくれなかったことだ。それに、10章から18章までの間に散りばめられた数多くの譬えもルカ独自の内容で、語り口も見事な珠玉の物語だ。
 これらすべてを思い起こせば、彼が「詳しく調べて、順序正しく書く」とテオフィロに書いた献呈の辞はほぼうなずける。そして、聖パウロの福音宣教の手伝いをする傍ら、チャンスがあれば足を棒にしても資料集めの聞き取りに歩きまわり、借りた書物の写し書きに励んだ彼の姿が想像できる。こんな素晴らしい「信仰の遺産」を残してくれたことには、どれほど感謝してもし切れない。ありがとう!と言おう。そう言えば、私が洗礼前、ノートに全部書き写したのもラゲ訳のルカ福音書だった。あれは私の「写経」だったと言える。
 
 感想。ルカ福音書の序文だけでは、考察することがあまりないだろうかと思ったが、取り組んでみたら予想した以上にいろいろなことが出てきた。まだ問いは残っているが、今日はここまでとする。考察は今日も実に楽しかった。

とげ抜きの体験でわかった

 年末のことだった。ゴミ回収に出すため椅子を分解したとき、右手薬指のつけ根にとげがささった。初めは気付かなかったのだが、物を握るとそこがやや痛いような違和感を覚えたので、どうもここらだなと思える辺りをよ~く見た。そうしたら、極めて微小ながら、とげらしき物が皮膚の中に見えた。古椅子だったから、木材部分を手で擦った際、縦にささくれた木片の先端が突き刺さったらしかった。
 子どもの頃からの常で、私はとげを針で取り出す。皮膚の下に潜ったとげは特にそうで、とげ抜きでは抜けないからだ。待針の尖端を蝋燭の火で殺菌し、ほじり出すのだ。乱暴だと思う人もいるだろうが、少しだけ痛みを我慢すればいいのだ。私はいつもこのやり方でとげを抜いてきた。ところが、この時はやや勝手が違った。右手が使えればすぐ抜ける程度のとげだったのだが、ささっていたのが当の右手だったので、利き手ではない左手を使わなければならなかったからだ。 
 案の定てこずった。不器用な左手では、針の尖端をとげのある位置になかなか正確に持っていけない。それができても、今度はとげを皮膚の下からほじり出すこと自体が難しい。力を入れ過ぎれば針が肉まで達して痛いし、力が弱すぎればとげまで届かない、と言った具合だったのだ。でも諦めなかった。少々脂汗をかきながらも、全神経をとげのささった皮膚のところに集中して、針の先を動かした。そしてようやくほじり出せた。「取れたぁ!ああ、よかった」と安堵して、手のひらの上で確かめたら、何とそれは長さ1ミリにも満たないゴミ状の木片だった。
 傷口をマキュロンで消毒し、とげが抜けたわが手を見ながら思った。「体全体に比べれば、何百億、いや何千億分の一さえもなさそうなこの極小のとげに、何百億、何千億倍も大きい私が悩まされたのかぁ。でも同時に、私全体の何百億分の一にもならない薬指の付け根という部分のため、何百億倍もある私全体が全神経をそこに集中して、全力をあげて痛みの元凶を除去しようとしたことも確かだ。そして、とげが抜けたとき、『取れたぁ!ああ、よかった』と、私の全存在がこの小さな部分のために喜んだ。人って、体全体が部分のためこんなにも全力を尽くすものなんだなぁ!」と。

 さて、なぜこんな体験話から始めたかと言うと、聖パウロがコリントの信徒たちに宛てた第一の手紙12;4-11をどう受け止めたらいいかについて、それが良いヒントになると思えたからだ。実はこの箇所が年間第2主日の第2朗読だと知ったので、事前にそこを読んでみた。聖パウロは分裂気味だったコリントの信徒たちに、教会にはいろいろな人がいて、いろいろな賜物や務めや能力を与えられ、いろいろな働きをしているが、それはすべて同じ神の“霊”による。一人一人に“霊”の働きが現れるのは、全体の益となるためだ、とその箇所を通して諭している。
 しかしそれだけだと、「わかるけれども、それだけ?」と問いたくなるような物足りなさ感があった。そこで、もう少し先までその手紙の続きを読んでみた。そうしたら、この手紙はできれば12章4-11節で区切らず、27節まで続けて読んだ方がいい、いやそこまで読むべきだと思った。この12章の中核は、「体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である」(一コリ12;12)「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です」(同12;27)という思想にある。ところが、4-11節はその前半の説明に過ぎず、そこだけでは聖パウロの思いが半分も伝わらないからだ。
 その前半は、「部分は全体のため」という一面を強調している。つまり、体にはいろいろな部分があって、それらが体全体のために働くように、教会の部分である信徒たちもいろいろな役目や能力を与えられているが、それは教会全体のために働くよう召されているからだという論旨だ。では、それが全てかと言うと、そうではない。後半は逆に「全体は部分を大切にする」という他の一面を強調している。全体と部分はまさにこの両面があってこそ生かし生かされる。12章の前半を読んだだけでは半分しかわからないと言うのはその意味なのだ。
 ではその後半は何をどう語っているかと言うと、こうだ。「だから、多くの部分があっても、一つの体なのです。目が手に向かって『お前は要らない』とは言えず、また、頭が足に向かって『お前たちは要らない』とも言えません。それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです」(同12; 20-22)と語り、「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです」(同12; 26)とも書いている。これは実に含蓄に富んだ言葉で、私のとげ抜き体験の感想とも重なる。。

 誰もが知るように、体には耳目鼻口頭手足指など、よく目立ちかつ重要な役割を果たす主だった部分がある。しかし、それだけでなく、目には見えないが最も重要な働きをする頭脳、内臓諸器官、血管、筋肉などもあるし、ふだんはほとんど意識されない無数の細胞や、目に見えるところにあっても気付かれず、無視されがちな部分もある。薬指の付け根などはさしずめその一つだろう。その上、体には傷つき弱った部分や疾患部もあることを忘れてはなるまい。体とはそういう全てがあってこそ現実の体なのだ。
 ところで、体はいったん自分のどこかが病気だとわかれば、すべての部分を総動員し、頭脳も手足も目も口も耳も、すべてがその治癒のために動く。極小の棘に対してさえ、体は全神経を集中して頭脳も目も手も指もその除去に尽くす。私はそれを体験したのだった。逆に、もし病んでいる部分があっても、体がそれに無反応であるとか、とげがささっても痛みを感じないとかということになれば、体はどうなるだろうか?大変な結果を招く。何の手も打たず放置するに違いないからだ。
 苦痛というものは体のある部分が体全体に向かって、「何とかして!」と発信する救援要請信号に等しい。だから、例えばとげの場合、体がその存在にさえ気付かないなら、心配なのはとげのささった場所よりも、むしろ痛みを感じない体全体の方だ。とげぐらいならいいが、重篤な疾患なら、それがあっても感じられないことは間違いなく体全体にはね返り、命をも危険にさらすからだ。
 
 キリストの神秘体と言われる教会もそれに似ている。主が「互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13;34)と言われたのはそれに通じる。キリストの神秘体にも人体と同じく、病む部分もあれば傷もある。あり過ぎるほどあると言っていいくらいだ。コリントの教会にもあった。だから、聖パウロは手紙に書いたのだ。歴史を調べ、現代の世界を見回さなくても、ほとんどの信者は身近でそれを見聞し体験しているに違いない。そして、どうしたらいいかを考えるとき、自分の無力さを知って悩み、祈るしかないと溜息をつくのだと思う。
 体に傷病が生じるように、教会にも傷病に相当する堕落、腐敗、背信、分裂、派閥、対立などが起きる。だから、イエス様も「つまずきは避けられない。だが、それをもたらす者は不幸である」(ルカ17;1)と言われた。しかし、体のどこかにとげが刺さったら痛みで気付くように、小さな誰かが苦しんでいるとき、あるいは罪悪と言う疾病が発生したとき、それに気付いて対応しようとするなら、教会はまだ健康である証拠だと思う。反対に、そういう人がいても全体がまったく気にもせず、心痛も感じないなら、その時は苦しむ小さな人もさることながら、気にならず心痛も感じない全体も心配になる。隣人愛への感覚麻痺という病の徴候だからだ。 
 もしキリストの神秘体がそのようになったら、それはただならぬ事態だと言えよう。私は現代の教会がそんな状態だとはまったく思っていない。むしろほとんどの部分は健全だと思う。ほとんどの部分が健全だということは、全体もほぼ健全だということだ。聖マザーテレサや聖コルベが存在したことでもそれはわかる。しかし、聖パウロのコリントの信徒への手紙12; 26とは反対に、一つの部分が苦しんでも、共に苦しまず、一つの部分が尊ばれても、共に喜ばない現実もないとは言えない。だから彼はそれを警告し諭したのだが、とげ抜きの経験はそのメッセージを類比的によくわからせてくれたのだ。

 この主日の福音はヨハネ2章にあるカナの婚宴だが、最初はそれと聖パウロの手紙とのつながりはよく見えなかった。しかし、彼の考えを学んだ後で福音をもう一度読み直すと、それはある人が共同体の中で問題をかかえて困っているとき、無関心、無作為でいていいのか、それとも何とかしようと努めるべきかという問題に、具体的なヒントを与えてくれる出来事でもあったことがわかる。
 小さな地域共同体の中の婚礼という一場面ではあったが、聖母マリアはぶどう酒の不足という事態に直面した花婿の困惑を気遣い、イエス様に「なんとかしてやって」と頼み、イエス様はその要請に表向きはそっけなかったけれども、実際は水をぶどう酒に変えるという驚くべき「しるし」を行い、さりげなく宴会のピンチをお救いになった。これは一つの見事なモデルで、聖パウロが書いた「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです」とは、まさにこういうことだったのだ。

ありえないことが起こった

あり得ないことが起こった
 福音史家ヨハネは天地開闢以来の深遠な救いの神秘を伝えたが、それがイエス・キリスト様のご生涯を通してどう現われたかを、ドラマティックに語られたいくつかの出来事によって証明した。カナの婚礼で主が水をぶどう酒に変えられたという出来事もその一つで、年間第2主日の福音ではそれが読まれる。ヨハネ2;1-11だ。 

 それは、「三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、イエスの母がそこにいた。イエスも、その弟子たちと婚礼に招かれた」という導入で始まる。これを読むと、もうそれだけでいくつかの疑問が湧いてくる。「三日目に」とあるが、それは何あるいはいつを基点にして3日目だったのだろうか?カナはどこにあるのか?「イエスの母」マリア様はなぜそこにおられたのだろうか?そして、イエス様はなぜ招かれたのだろうか?連れの弟子たちは何人ぐらいいたのだろうか?などだ。
 まず「三日目に」だが、それはナタナエルが主と出会った後(ヨハネ1;47)とするのが妥当のようだ。「その翌日、イエスは、ガリラヤへ行こうとしたときに、フィリッポに出会い」(ヨハネ1;43)とあり、そのすぐ後でナタナエルと会ったのだが、主がガリラヤに行こうとしていたことが確かだからだ。「ベタニアでの出来事」(同1;28)はみな、「その翌日」(同1;29、1;35、1;43)と書かれている。同一地域でのできごとだから「翌日」でよかったのだが、死海からガリラヤまでは歩いて約3日かかる。だから「三日目に」としたのではなかろうか。これは厳密に問うほどのことではないと思う。他方、ガリラヤのカナはナザレトから7,8キロのところにある現在のカフル・カンナ(Kafr Kanna)だろうと言われている。写真はスライドフィルムからスキャンしたので不鮮明だが、1988年に撮った“カナ”だ。

 では、マリア様はなぜその場におられたのだろうか?その答えを探すには次の箇所を先に読んでおいた方がいい。ヨハネの福音書はこう続く。
 「ぶどう酒がたりなくなったので、母がイエスに、『ぶどう酒がなくなりました』と言った。イエスは母に言われた。『婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。』しかし、母は召使たちに、『この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください』と言った。」(ヨハネ2;3-5)
 この行動と言葉からすると、マリア様は単なる招待客だったとはとても思えない。台所に入らない一般客なら、ぶどう酒の不足に気付くとかそれを心配したりするとかということはなかったはずだし、ましてや召使に、イエス様の言いつけることはその通りにしなさいなどと、指図できるわけがなかったからだ。おそらく聖母は手伝いも兼ねた客として、客席と台所を出たり入ったりできる立場にあったのだと思う。そう考えるのが自然だ。もしそうだったのなら、聖母が花婿の親戚だったからだという説はうなずける。そして、なぜイエス様が招かれたのかもわかる。それに弟子のナタナエルはカナの出身だったそうだから、それで弟子たちもおおぜい一緒に行っていたのだろう。
 ところで、ぶどう酒が足りなくなりそうな事態に最初に気付いたのは聖母ではなかったと思う。私はことの発端を次のように想像する。たぶん、次々と出す料理や飲み物があった台所には、召し使いたちを束ねる配膳頭みたいな者がいて、彼が最初に気付いたのではなかろうか。昔は、婚宴の差配と責任は花婿にあって、世話役は司会役だったようだから、配膳頭は花婿にピンチの事態を知らせ、「このままだと赤っ恥をかくことになります。どうしますか?」と指示を仰いだのだと思う。花婿は「やっぱりそうか。十分用意したつもりだったんだが、客が予想よりずっと増えてしまったからな。特に、イエスさんを招いたらお弟子さんも大勢ついて来て…あの人たちよく飲むから、それで狂ってしまったんだ。困ったな。どうしよう」とぼやき、配膳頭と相談した。でも、良策は浮かばなかった。
 そんな所へ宴席の方にいた聖母が来て、「何かあったんですか?花婿さんがなかなか席に戻らないので、少し心配になって来てみたんですけれど」と尋ねた。そこで2人は事情を話した。すると聖母は「そうなんですか。そう言えば、イエスの弟子たちもあんなに来てしまって、そのせいもあるんでしょ?わかりました。私が何とかしましょう。ですから、花婿さんは宴席に戻ってくださいな。婚礼の主役が長々と席を外していては、いぶかしく思われるでしょ?配膳頭さんは料理の方を見てください」と言い、召使には「イエスをそっと呼んできてくださらない」と頼んだ。「ぶどう酒がなくなりました」と言ったのは、イエス様が台所に入られた時だったのだ。私はそんなふうに想像する。

 ではその時、弟子たちはいったい何人ぐらい来ていたのだろうか?ヨハネの福音書によれば、ペトロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネ、フィリッポ、ナタナエルの6人は確かだ。しかし、もっといたのではないか。いずれにせよ、弟子のペトロとヨハネ、少なくともヨハネは、イエス様が台所のマリア様のところへ呼ばれて行ったとき、主について行ったのではなかろうか。これは私の単なる想像だが、そうでないと、この婚宴での出来事の一部始終を目撃し、後になって福音書に書き残すことはできなかったと思われるからだ。 
 聖母はイエス様に「ぶどう酒がなくなりました」と言った。それは「このままでは花婿さんが気の毒でしょ?それであなたにお願いしたいの。何とかしてあげてくれない?」と言いたかったのだが、そこまで言わなくてもわかってもらえると思ったから、簡潔な一言しか言わなかったのだと思う。しかし、台所にいた人々は固唾を呑んでイエス様の答えを待ったに違いない。ところが、その返答は「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません」と、実に素っ気なかった。これには、母親に向かって何と冷たい言い方をするのか、とつまずく人がいるかも知れない。
 ちなみに、この「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです」という訳は不出来だと思う。原典の言い回しを尊重しようとしたのだろうが、これではまともな日本語とは言えない。それに「わたしとどんなかかわり」ではなく、「わたしとあなたにどんなかかわり」とすべきだった。「あなた」が脱落している。原典は “Ti emoi kai soi”だからだ。これはセム系言語でよく使われる拒否表現で、直訳すれば「私とあなたにとって何なのだ」となる。だが、日本語らしく訳すなら、「私とあなたに関係ないでしょう?」とでもした方がよかったと思う。
 それにしても、イエス様はなぜ母親を「婦人よ」(女よ)などと呼んだのだろうか?一つは私的立場と公的立場を区別なさりたかったからではないかと忖度する。主は後に、「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない」(マタイ10;37)と言われたが、そんな厳しい要求をなさるのだから、ご自分も肉親の絆に対して、敢えて突き放したスタンスを取られたのではないだろうか。「私の母、わたしの兄弟とは、神の言葉を聞いて行なう人たちのこと」(ルカ8;21)と言われた時もそうだった。
 しかし、「婦人よ」(女よ)という呼び方は必ずしもよそよそしいだけとは言えないのだ。それは十字架の上からヨハネを見て、聖母に「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」と言われたことでわかる。むしろ、この時は最も深い愛情がこもった言葉だった。だからモラ神父のように、そこに創世記3;15,20とのつながりを見る学者もいる。つまりそれは聖母が新約のエバであるゆえの呼称だというのだ。いずれにせよ、言葉はそれが語られる前後関係の中で受け止められなければならない。主は「婦人よ」と言われたが、聖母の願いは叶えた。そこに冷淡ではなかった証拠がある。
 それでは、「わたしの時はまだ来ていません」とはどんな意味なのだろうか?アウグスチヌスやイレネウスはそれを「父の光栄に入ってからのことを指し、その時になったら母の願いは聞き入れるが、今はまだだめ」という意味で理解したらしい。うなずける解釈だが、少し深読みし過ぎの感はある。私は、「この婚宴はまだ公的に自分を現す機会ではない。それはもう少し後です」くらいの解釈でいいのではないかと思う。例えば、主はエルサレム神殿での商人追放や説教、多くの病人の治癒、パンの奇跡などを、ご自分を世に示すタイミングと考えておられたのかも知れない。
 聖母は聖母で、「婦人よ」と言われても気を悪くされたようには見えない。そして、息子のことがわかっていたから、言葉では断られても、もうイエスが引き受けてくれたことを確信したような口調で、「あの方があなた方に言いつけることは、何であってもその通りにしてくださいね」と召し使いたちに言いつけたのだ。そして、宴席の方に戻ってしまったのだと思う。

 その後、イエス様が何をなさり、何が起こったかを福音書は続けてこう伝える。
「そこにはユダヤ人が清めに用いる石の水がめが六つ置いてあった。いずれも二ないし三メトレテス入りのものであった。イエスが、『水がめに水をいっぱい入れなさい』と言われると、召し使いたちは、かめの縁まで水を満たした。イエスは、『さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい』と言われた。召し使いたちは運んで行った。」(ヨハネ2;6-8)
 イエス様は表向きは聖母の頼みを断ったが、彼女がその場からいなくなるとすぐ、請われたことを実現するために行動を起こされたのだった。それはある意味で主が「わたしの時」を前倒しなさったのだとも言える。決ったことは変えないと杓子定規に通すのではなく、柔軟に融通をきかされたのだ。そして、配膳頭と召し使いたちに、「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われたのだった。
 ユダヤの家には、手足等を清めるため石造の水がめが常時用意してあった。ヨハネはその花婿の家には6つあったと書いている。1メトレテスは45.1リットル相当だから、1つに90-130リットルも入る大甕だった。常時使う上に、この時は婚礼だったから尚更で、いくつかのかめにはもう水が入っていたはずだ。しかし、「水をいっぱい入れなさい」と言われたのだから、どれかはまだ空だったわけだ。召し使いたちはもちろんその水がめに水を入れた。それも「縁まで」なみなみと満たしたのだった。
 では、彼らはいくつのかめに水を入れたのだろうか?もちろん6つの水がめ全部にではなかった。もうすでに水が入っていた水がめには入れる必要がないからだ。私は空の1つにだけ入れたのではないかと考える。その理由は、イエス様がなさろうとしていたことのためには、リットル入りペットボトル約100本分にもなる水があれば、もうそれだけで十分だったと思われるからだ。
 しかし、すでに水の入った水がめがあったのなら、なぜイエス様はそれを使わず、わざわざ空の水がめに水を入れさせたのだろうか?それはそこにいた人たちが「入れられたのは確かに水だ。(ぶどう酒ではない)」とわかるためだったのではなかろうか。
 では、それはすでに水が入っている水がめの水を汲んで、空の水がめの方に移し入れさせただけだったのだろうか?たぶんそうではなかったと思う。もしそうだったのなら、「水を移し入れなさい」と言われただろうからだ。水を井戸から汲んで来るのは一仕事だったが、空の水がめに水を入れなさいということは、水源から水を運んできて水がめに入れることを意味した。だから、井戸までの往復などにかなり時間がかかっただろうが、召し使いたちはそうしたと思う。
 そうは言っても、「なぜ水を入れるのか?」と、召し使いたちはきっとそれが理解できなかったに違いない。おそらく、「水ならもうあの水がめにあるのに…今必要なのはぶどう酒なのに…」と内心では思いながらも、聖母から「言うとおりにしなさい」と言われていたので、彼らは命じられるままに従ったのだろうと想像する。しかし、イエス様はそんな疑問にはおかまいなく、「さあ、それを汲んで、宴会の世話役のところへ持って行きなさい」と言われたのだった。彼らは言われるままに、水がめから手ごろな器に汲んだ水を宴席の方に運んだ。しかし、「水なんか持って行って、大目玉を食らうのではないか」と、内心不安だったのではなかろうか。

 ところが、そこであり得ないことが起こっていたのだ。福音書は続きをこう伝える。
 「世話役はぶどう酒に変った水の味見をした。このぶどう酒がどこからきたのか、水を汲んだ召し使いたちは知っていたが、世話役は知らなかったので、花婿を呼んで言った。『だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今までとっておかれました。』」(ヨハネ2;9-10)
 世話役はぶどう酒が足りなくなっていた事態をまったく知らなかった。だから、水から変ったぶどう酒を味わってみて驚き呆れ、世話役としての面目を潰された思いで、花婿に不満をぶつけた。しかし、花婿もぶどう酒が不足しかかっていた事態は心配していたが、その後のことは知らなかったのだ。だから面食らい、福音書には書いてないが、世話役とこんな会話を交わしたのではなかろうか。
花婿  「どのぶどう酒のことですか?」
世話役 「とぼけないでくださいよ。これは何ですか!」
花婿  「それがどうかしたんですか?」
世話役 「召し使いがこれを持ってきたのでなめてみたらどうです、極上のぶどう酒じゃありませんか。え?どんな人も普通は初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころ、悪いのを出すものなのに、あなたは何で今までこんなに良い酒をとっておいたんですか?まったくお人が悪いですよ。」
花婿  「いや、私はそんなの知りませんよ。あなたは私が隠していたと思って、怒っておいでのようだが、私はとっておいたりしちゃいません。私も今聞いて驚いているんです。いったいどうなっているんですか?」
 そんな時、配膳頭が言ったのではなかろうか。
配膳頭 「あのー、口をは差し挟むようですが、私たち台所の者が一部始終を知っています。」
世話役 「一部始終?いったいどんなことなんですか?」
配膳頭 「実は、ぶどう酒が足りなくなって、花婿さんに相談しましたが、その後マリアさんがあのイエスという方の言うとおりにしなさいと言われたのです。だから私たちは、あの方が水がめに水を満たしなさいと言われた時、その通りにしました。するとそれを汲んで世話役に持っていきなさいと言われたので、そうしたのです。それをあなたが味見なさった。だが、それがぶどう酒になっていたんですね! これには私も驚いています。信じられないけど、それが一部始終なんです。」 
 しかし、宴席にいたほとんどの人たちは何が起こったのか気付かずにいたのではなかろうか。イエス様は何事もなかったように席に戻っておられただろうし、花婿も世話役もそのぶどう酒の出所が皆に知られることはやや不都合だったから、黙っていただろうと思われるからだ。でも、マリア様は事の次第がよくわかっておられたに違いない。そして、そこにいた弟子たちも一部始終を目撃していた。だから、ヨハネはこの出来事をこう結んだのだ。
 「イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行なって、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた」(ヨハネ2;11)と。

 そこで、最後に3つの疑問に対して自学し、自答して終わることにする。
 疑問1:水は甕に入った時ぶどう酒になったのだろうか、それとも宴席に運ばれる途中で変ったのだろうか?つまり、水がめの中の水は全部ぶどう酒になったのか、それとも器に汲まれて運ばれた水だけがぶどう酒に変ったのかという疑問だ。こういう問題提起をした解説書にはお目にかからなかったから、当然答えもない。従って単なる私見だが、私はぶどう酒になったのは器に汲まれた水だけだったのではないかと思う。何やら御聖体の秘跡の聖変化に類比できるからだ。水がめの中の水がただの水にすぎないように、聖別する前のパンやぶどう酒は物としてのパンやぶどう酒だ。しかし、司祭によって聖別されればそれらは御聖体と御血に変る。そのように、この時は水がめの水も、そこから汲み出されて区別された水だけがぶどう酒に変化したのではないか。
 疑問2:イエス様は聖母の頼みを断ったのに、なぜ結局それに応じられたのか?理由は3つ考えられる。ただ宴会のためだけだったら水をぶどう酒になどなさらなかっただろう。しかし、一つには新郎新婦が大恥をかかないよう隣人愛のため、二つには聖母の願いだったからだろう。だから聖アルフォンソ・リゴリオは聖母により頼むなら、救いの願いは必ずとりなしてもらえると教えたのだ。そして、三つ目の理由は何よりもその奇跡が、やがて実現される聖体の秘跡の象徴だったからだと思う。主は最後の晩餐に御聖体を定められたが、水をぶどう酒に変えた奇跡は、パンが御体にぶどう酒が御血に変わることをも信じさせる根拠になる。あの時もありえないことが起こったのだから、今もありえないことは起こりうる。ご聖体はそれだ、と人は信じることができるのだ。このことを見越して、イエス様は水をぶどう酒に変えるカナでのしるしをなさった。私はそう思う。
 最後の疑問:出来事の結びに「イエスは…その栄光を現された」とあるが、栄光とは何か? ルイ・ブイエはその著La Bible et l’Evangileの中で、栄光とはヘブライ語でカボードと言われるが、それは神の居場所を示すものだと言っている。喩えば、皆既日食のとき太陽は見えないが、太陽のありかを示す黒い円があり、その周りを輝く光の輪が取り巻く。栄光とはこの光の輪のようなもので、それがとりまく黒い円のところに太陽がすっぽり隠れているように、神も隠れて見えないが、その栄光によってどこに神がおられるかがわかる。だから、栄光とは神の居場所を示すものなのだ。
 それはカナの婚礼での出来事に類比できる。イエス様はそこで水をぶどう酒に変えられた。それは人間世界ではあり得ないことが起こったことを意味する。あり得ないことの実現は、神のお力が顕現したからだ。それが神の栄光といわれるものなのだ。神様は見えない。人の子の神性も人の目には見えない。しかし、その驚くべき力の顕現と業を見れば、そこに神様がおられることがわかる。弟子たちはそれをガリラヤのカナで目撃し体験した。だから彼らはイエスを信じることができたのだった。この方には神まします、と。
 
 ヨハネ福音書は5章46節に、「イエスは、再びガリラヤのカナに行かれた。そこは、前にイエスが水をぶどう酒に変えられた所である」と記録している。これによって、この「最初のしるし」(ヨハネ2;11)が福音史家ヨハネにとって、どれほど鮮明に記憶に残る出来事であったかがよくがわかる。 
 

青空を見て、ふと思ったこと

哲学者は物事の根本問題について問い、真実を探究する。
何か、なぜか、何のためか、と。
しかし、必ずしも答えを見つけ出せるとは限らない。いや、むしろ多くの場合、見つからない。
でも問い続ける。
問うこと、そこに哲学者の真骨頂がある。

宗教者は物事の根本問題について答えを与える。
これがそうだ、なぜならこうだからだ、これのためあれのためだと。
しかし、その答えは必ずしも真かつ善とは限らない。いや、むしろしばしば間違っている。
でも改めない。間違っているのに信じているからだ。
そこに宗教者の危うさがある。

だから哲学者は宗教をも検証する。真と善の探究者だからだ。
宗教は理性の光の検証に耐えるものでなければならない。
哲学者は真と善に従い、美に感じ、聖の前に跪ける人でなければならない。

良い知らせの使者

Consoamini

 主の洗礼の主日第一朗読は何だろうかと見たら、第二イザヤ書の有名な40章1-11節なので興味を覚え、読み返してみた。それはこういう呼びかけで始まる。
 「慰めよ、わたしの民を慰めよと
 あなたたちの神は言われる。」

 そして3節からは、次のような言葉が続く。
 「呼びかける声がある。
 主のために、荒れ野に道を備え
 わたしたちの神のために、荒れ野に広い道を通せ。
 谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。
 険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ。
 主の栄光がこうして現れるのを、肉なる者は共に見る」

 「高い山に登れ
 良い知らせをシオンに伝える者よ。
 力を振るって声をあげよ。」

 実に見事な詩文の預言だ。しかし、主イエス・キリストの洗礼の祝日なのに、それは主のことにも洗礼のことにも触れていない。それがなぜ朗読されるのだろうか?それは神が旧約の民に、バビロン虜囚からの解放と慰めを告げる預言だが、それが新約の福音の前ぶれでもあり、その良い知らせをシオン、つまりエルサレムに伝える使者が、洗礼者ヨハネと重なるからであろう。
 事実、彼は「悔い改めよ、天の国は近づいた」(マタイ3;2)と民衆に悔い改めの洗礼を授け、イエス様の洗礼に重要な役目を果たして、主の福音開始の露払いを演じた。だから先駆者と言われるのだが、イザヤ書40章の「呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備えよ。良い知らせをシオンに伝える者よ」という言葉は、彼にもぴったり当てはまるのだ。

 イザヤ40章のこれらの言葉は、それまでのイザヤの預言とは調子が非常に異なる。それまではイスラエルの民に対する罪悪の告発や罰の予告などが基調で暗かったが、ここでは打って変って、赦しと解放の喜ばしい知らせが伝えられ、慰めと励ましが満ち溢れている。ところが、読み返しているうちに一つ疑問が生じた。
 「慰めよ」の言葉についてだ。読んでいてConsaolamini, consolamini populum meum (慰めよ、わたしの民を慰めよ)というラテン語ヴルガタ訳が、自然に脳裏に浮かんでしまったのだが、それで「おやっ?」と思ったのだ。複数形だからだ。それが間違いないとすれば、「慰めよ」は複数の人に言われたことになるが、日本語訳では単数か複数かはわからない。では、これは誰か一人に言われたことなのか、それとも複数の人に言われた言葉なのか?そういう疑問だ。
 「慰めよ」という言葉は神様の呼びかけだ。それは誰かに誰かを慰めなさいと言っている。ところで、慰められるのは「わが民」だから、イスラエルの民であることは明らかで、民は慰め手ではない。しかし、「慰めよとあなたたちの神は言われる」のだから、神様も直接の慰め手ではない。そうなると、慰め手は「慰めなさい」と命じられた誰かだということになる。では、それは誰か?日本語訳だと、第二イザヤ書の筆者が民を慰めなさいと言われているようにとれる。そうだとすると、慰め手は単数になってしまう。
 ところがラテン語訳のConsaolaminiは複数だ。慰め手は一人ではなく、数人ということになる。どちらが正しいのかと思って、確かめるために仏語を参照したら、それもConsolezだった。複数の方が正しいのだ。そこで、では原典に当たってみようと、それを開いた。旧約の原典だからギリシャ語ではなくヘブライ語だが、そこには「ナはムー」とあった。(ヘブライ文字は煩わしいので、カナ表記する。「は」はハとは違う喉の奥で出す「は」音。) そうか、原典でも「慰める」はやはり複数で、その男性命令形なのだ、と確認できた。日本語訳は単数か複数かわからないから、読む人はつい預言書の筆者だと解釈しそうになるが、そうではないことはこれではっきりした。
 でも、では複数だとしたら、いったい神様は誰に「わが民を慰めよ」と言われたのだろうか?参考文献を見ないで考えるのだから自己流解釈だが、私の考えでは特定の誰かではなく、おそらくイスラエルの民の罪過を告発し糾弾してきた預言者たちや、民の指導者たちに対して言われたのではあるまいか。「あなたたちの神」とはイスラエルの民とその指導者たちの神を指す。その神様は慰めを直接民に伝えず、誰かに伝えさせるのだが、その役割を任せるとすれば、イザヤ預言書の筆者を含む預言者たちや指導者たちしかいない。つまり、民に責任を持つ者たちの全てがそのお告げを託されたのだ、と解釈するのが妥当だと思うのだ。

 原典を開いたので興味がわき、その箇所を全部読んでみた。ラルースの仏ヘブライ語辞書のお世話になりながら、まるで中学生が英語を読むようなもので、結局40;1-11節の間に、どうしてもわからない言葉が2つもあった。未熟さが情けなかったが、それでも原典で学べることは何と至福の一時であることかと思った。
 ところで、40章3節の「呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え…」は原典に即した訳だが、福音書ではすべて「荒れ野で叫ぶ者の声がする」となっている。これは似ているが違う。原典は「荒れ野で叫ぶ者の声」ではなく、「荒れ野に道を備えよと叫ぶ声」なのだ。福音書では声の主は荒れ野にいる。まさに洗礼者ヨハネにふさわしい表現だ。だからそれを引用したのだろうが、原典は違って、声の主は荒れ野にはいない。バビロニアからパレスチナまでにある荒れ野に道を用意せよと叫んでいるだけだ。
 福音史家は揃いもそろって原典を写し間違えたのだろうか?興味を覚えて食い違ったわけを探ってみたら、どうも原因はギリシャ語の70人訳にあるようだ。ラテン語訳も他の近代語訳も日本語訳同様、原典を忠実に訳しているのに、70人訳だけは「フォネー ボーオントス エン テイ エレモイ。 エトイマサテ…」(荒れ野に叫ぶ者の声がする。備えよ…)と訳しているからだ。
 このギリシャ語訳は紀元前3世紀に、当時の中東・地中海世界に離散していたギリシャ語を話すユダヤ人のために、アレキサンドリアで完成した。ところで旧約聖書に関しては、初代キリスト教会はヘブライ語原典よりも、むしろこのギリシャ語訳を使っていたと言われる。従って当然のことながら、福音書をギリシャ語で書いた福音史家たちもこの訳を引用したのだろう。だからヘブライ語原典との相違が生じたのだ、と結論づけることができる。
 でも、なぜギリシャ語訳はそんな誤訳をしてしまったのだろうか?「兄弟イエス」(Mon frère Jésus)の著者ベン・シャロームの指摘によれば、70人訳の訳者は原典の聖書ヘブライ語にある分離符を見落とした。だから、区切るべき場所を間違えてしまったからだ。本当にそうかと原典を調べたら、確かに「コール コーレー」(呼びかける声がする)の「レ」の上にザケフ・カタンという分離符がある。そこと次とは切らなければならなかったのだ。でも72人の訳者たちの誰もそれに気づかなかったから、そのままになってしまったわけだ。しかし、ラテン語訳を成し遂げた聖ヒエロニムスは原典のとおりに訳した。ヘブライ語に堪能だったから、ギリシャ語訳の間違いに気付いたのだろう。そして、現代諸国語の訳も間違いを免れた。彼のおかげだと思う。

 ところで、「呼びかける声」とはいったい誰の声なのだろうか?「慰めよ」と言う声の主は、「あなたたちの神は言われる」と書かれているから、言っているのは神様であることがわかる。しかし、「呼びかける声」は違うようだ。「主のために、荒れ野に道を備え」と言っているから神様ではない。では、誰の声か?それが擬人化された何者かの声であり、神様によってどこかから起こされた声であることは明らかだ。つまり神様に敵意を持ったり、人間に害を及ぼそうとしたりする者かの声ではない。だが、それ以上はわからない。預言者か、天使か、聖霊か、あるいは姿の見えない「誰か」か、そのいずれかだと思う。しかし、第二イザヤ書は詩の形を通して告げられた預言だから、あまり厳密に詮議すべきものではないのだろう。とにかくここは、神様のみ心に適う「誰か」の声としておこう。
 呼びかける声は荒れ野に主の道を準備せよと言う。もちろん、神様は人ではないから地上を歩かない。だから理屈で言えば、谷を埋め、山をならし、荒れ野に平らな道を作る必要はないのだ。しかし、これは詩であるし、赦しと慰めを得て祖国に戻る民を導いて進む神様の比喩なのだ。だから、理詰めで解釈することは慎むべきだろう。主なる神様がその準備された道を行く比喩は、11節では「主は羊飼いとして群れを養い、み腕をもって集め、小羊をふところに抱き、その母(母羊)を導いて行かれる」という比喩に敷衍される。
 では、荒れ野に道を準備するよう呼びかけられているのは誰か?それは預言を聞く人たちだ。荒地も山も谷も狭い道も、すべて人間の心を意味している。その声は聞く人すべてに呼びかけている。そして、荒れ野に道を備え、険しい道を平らにし、狭い道を広くするのは人間自身なのだ。人は自分の心をそのように準備しなければならない。それが改心だ。それによってこそ主はそこに来てくださる。そして人は神の栄光を見ることができるのだ。

 9節の「高い山に登れ、良い知らせをシオンに伝える者よ」と言う呼びかけも、同じ声が呼びかけていると理解していいのだと思う。しかし、「高い山に登れ」と言われた者は、「呼びかける声」とは別の存在だと言わなければなるまい。「登れ」と言ったのは「呼びかける声」で、「伝える者」は言われて登る方だからだ。
 ところで、「慰める者」は複数だったが、ここの「伝える者」は単数なのだろうか、それとも複数なのだろうか?原典を見ると「メバセレット」となっている。だから単数だ。でも、女性形であることに注目すべきだろう。だから仏訳では messagèreとなっているのだ。だとすると、どうやらそれは人間ではなく、擬人化された何かを指しているのだと思われる。なぜなら、たった1人の女性を高い山に登らせ、大声で叫んで伝えよというのは、男性社会だった旧約のイスラエルにあっては考えられないことだからだ。
 ならば、それは何なのだろうか?確信はないが、私はそれを吉報そのものの擬人化ではないかと考える。「メバセレット」は「メバセル」の女性形だが、語源は「ビセル」(ニュースを伝える、吉報をもたらす)という動詞だ。そこから出た名詞に「ブソラー」があるが、それは「便り、吉報」等の意味で、「伝える者、使者」(メバセル、メバセレット)と語源が同じだ。ちなみにキリスト教の福音書は、ヘブライ語では「ブソラー・ハコデッシュ」(聖なる良いおとずれ)と言われる。私は吉報そのものが「伝える者、使者」を意味するのではないかと思う。 
 しかし、何よりも大切なのはそれが伝えようとしているメッセージにある。イザヤ40;1-11の伝えるメッセージは旧約の神の民の解放と、大いなる慰めと喜びの吉報だった。それを知らせる使者はこの箇所の主役だ。それは神の民の前途に主の光栄が現れ、人々はそれを見ると予告する。だが、イスラエルの民が祖国パレスチナに戻ってから、果たしてその予告は実現しただろうか?そういう光栄を見ることができただろうか?否、旧約のその後の歴史にはそういう実現はなかった。
 だからこそ人々は、預言された神の光栄が現れる時を、すなわち救い主が出現する時を待ち望んでいたのだった。そして、それはイエス・キリスト様の洗礼の日に実現の端緒を見せた。「天が開け、聖霊が鳩のような目に見える姿でイエスの上に降って来た」(ルカ3;21-22)からだ。それを福音史家ヨハネはこう書いた。「私たちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵と真理とに満ちていた」(ヨハネ1;14)と。
 さて、今日も考察と自学はとても楽しかった。学ぶことは楽しいものである。

天からの声

浸水の洗礼

 主の洗礼を祝う主日の福音は前半がルカ3;15-16で、後半が3;21-22だ。前半は洗礼者ヨハネの活動を伝える一場面で、ルカはそれを、「民衆はメシアを待ち望んでいて、ヨハネについて、もしかしたら彼がメシアではないかと、皆心の中で考えていた。そこでヨハネは皆に向かって言った。『わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、私よりも優れた方が来られ、わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる』」と伝えている。ここはもう何遍も読んだことのある箇所ではあるが、それでも注意して読み返してみたら、やはり問い直してみたい点や、どういう意味だろうかと一瞬立ち止まらざるを得ない言葉があった。それを自学してみる。

 問い直して見たい点の一つに「民衆はメシアを待ち望んでいて」というくだりがある。まず民衆だが、どんな人々がそこに来ていたのだろうか?4福音書を読み比べると、あらゆる人々が来ていたようだ。ほとんどはイスラエル人だっただろうが、老若何女が混じり、女性がいたのであればおそらく子どももいたのではないか。社会的な身分や職業の面から見ると、徴税人や兵士たち(ルカ3;12-14)、祭司やレビ人(ヨハネ1;19)も来ていたことがわかる。
 宗派的にはファリサイ派やサドカイ派の人々(マタイ3;7、ヨハネ1;24)が言及されている。ルカは彼らを特定せずに、洗礼者ヨハネが民衆に「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などという考えを起こすな」と、実に強烈な言葉を投げかけたことを伝えているが、マタイを参照すると、これは民衆の中に混じっていたファリサイ派やサドカイ派の司祭たちに対してだったと思われる。彼らは回心のためというより、洗礼者ヨハネの言動を探るためにエルサレムから遣われたスパイだったからだ。
 民衆の中にはその土地の一般人たちや「地の民」と言われた貧しい人たちもいたことだろう。エッセネ派の人々もいたのではないか。洗礼者ヨハネはこの宗派に属していたと言われる。だから、名指しされなかったのかも知れない。「では、わたしたちはどうすればよいのですか」(ルカ3;10)と尋ねたのはおそらく群衆の中のこうした人たちだったのだろう。だから、洗礼者ヨハネの答えも「蝮の子らよ」と非難した言葉に比べ、ずっと優しく親身なのではないか、と私には思える。
 一言で「民衆」と括っても、それはいろいろな人々の混合だった。しかし、彼らには一つ共通するものがあった。それは「メシアが来られること」への関心だった。ただ、思い描くメシア像とそれへの期待や思惑は、宗派や立場によってこれまたそれぞれ違った。貧しい民衆は自分たちを苦境から救ってくれる救世主を、ファリサイ派の人々は先祖伝来の律法と神の国を復興させるメシアを、ある人たちは占領者ローマ勢を追い出して、イスラエルの独立を達成してくれる政治的指導者である王を期待していた。サドカイ派も独立は願っていたが、どちらかと言えば自分達司祭の立場が守れる現状維持をよしとし、改革的な救世主は望ましくないと思っていた。だから、洗礼者ヨハネの言動を把握しようとしたのだ。そして、領主ヘロデはもちろんメシア出現を望んでいなかった。

 したがって、「もしかしたら彼がメシアではないかと、皆心の中で考えていた」と書いてあっても、皆がそうであってくれればいいと願って、そう思っていたわけではない。後ろ向きの人たちもいたわけだ。しかし、そういうさまざまな期待や思惑がどうであれ、それらを察知した洗礼者ヨハネは、民衆に思い違いされることだけは避けなければいけないと考えて、自分はメシアではないと公表したのだった。
 そのわけを明らかにした彼の言葉は、「私よりも優れた方が来られ、わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない」と言った謙遜さにもかかわらず、むしろ彼の偉さを物語っている。イエス様は「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」(ルカ14;11)と教えてくださり、聖パウロは「互いに相手を自分より優れた者と考え」(フィリッピ2;3)なさいと勧めたが、洗礼者ヨハネはこの点でも先駆者だったのだ。
 ところで、彼が自分はメシアではないと公言した根拠の一つとして洗礼の違いを挙げた。「わたしは水で洗礼を授けるが、その方は聖霊と火で洗礼をお授けになる」と。水による洗礼はわかる。当時の洗礼は浸水礼で、川とか貯水場に衣服を着たまま入れ、頭まで沈めるやり方だった。みんなそれを受けにヨルダン川に来ていたのだ。しかし、霊と火による洗礼とはどんなものなのか、おそらく洗礼者ヨハネのこの説明を聞いた民衆はそれが理解できず、ましてやイメージは持てなかったのではないか。今日の私たちとて、あるていど考察しない限り、それは五十歩百歩だろうと思う。

 では、聖霊と火による洗礼とは何を意味するのだろうか?私はこの言葉をほんとうに洗礼者ヨハネが口にしたのかどうか、むしろ初代教会が洗礼者ヨハネについての伝承の中で、彼の洗礼とキリスト教の洗礼の違いを彼の口を通して言わせたのではないか、とそんな疑いを多少もっている。しかし、もし彼が本当にそう言ったのだとしても、おそらくその真価を十分わかって言ったのではないように思う。12使徒さえも聖霊降臨まではよくわかっていなかったからだ。
 イエス様は特に最後の晩餐の時、聖霊の派遣を弟子たちに約束され、聖霊が来られれば主の教えを全て思い起こさせてわからせ、彼らを力づけて励まし、導いてくださる。だから心配するなとお教えになった。そしてその約束どおり、ご復活後の五旬祭の日、聖霊は降臨なさった。使徒言行録2章はそれを証言する。それは「激しい風」が吹くような音で天から降った。原典では霊とはまさにプネウマで、その語源は「風」なのだ。そして、それは炎のような舌の形で現れ、弟子たち一人ひとりの上に止まった。すると一同は聖霊にみたされたのだった。
 これこそ霊と火による洗礼だったと言えよう。その火はその時のペトロが証明した。ご受難の時、主を裏切った彼が、立ち上がって実に力強く見事な説教をしたのだ。そこに満ち満ちていた勇気と愛こそ「火」に他ならない。イエス様は「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである」(ルカ12;49)と言われたことがある。「聖霊と火による洗礼」の火は、そういう熱意と愛を生むエネルギーなのだろうと思う。ただし、4福音書を調べてみると、「聖霊と火」のことを伝えているのはマタイとルカだけで、マルコとヨハネは「火」については言及していない。これを見ると、「聖霊による洗礼」がメインであって、「火」はその付属的な現れまたは外的に現れる働きに過ぎないと見ていいのではなかろうか。
  洗礼者ヨハネの洗礼が罪の赦しを得させるしるしとして、地上の水によるだけの洗礼だったが対し、イエス様がもたらされた洗礼は天からの霊と火が働き、罪を清めるだけでなく、それを受ける人を神の子となる恵で満たし、その人を一新するものだった。ではなぜ水を使うかというと、それは聖霊と火の洗礼が実現することのしるしとなるからだ。だから洗礼では、「父と子と聖霊の名によってあなたを洗う」と言うのだ。見える体には水を使っても、魂は聖霊と火で洗うのだ。そこに大きな違いがあり、洗礼者ヨハネはそれを言っていたのだと思う。
 ただし、「洗礼を授けていたのは、イエス御自身ではなく、弟子たちである」(ヨハネ4;2)という事実を見落としてはなるまい。おそらく洗礼者ヨハネの水の洗礼の継続と誤解されないよう、イエス様ご自身は水による洗礼を授けなかったのではなかろうか。主は聖霊降臨の時に聖霊による洗礼が実現するのを待っておられたのだろうと思う。「聖霊と火による」洗礼が水を使って始まったのは、まさに初代教会がスタートしたその聖霊降臨の時だった。
 使徒言行録10章44-48節には興味深い記事がある。ペトロが話していた時、ユダヤ教から改宗した人たちは、異邦人たちにも聖霊の賜物が注がれるのを見て、大いに驚いたのだ。そして、そこでペトロは言った。「わたしたちと同様に聖霊を受けたこの人たちが、水で洗礼を受けるのを、いったい誰が妨げることができますか」と。そして、彼らに洗礼を授けることを命じたのだった。ここにキリスト教における洗礼の真理がある。教会では今も洗礼を水で行うが、つまり、それは水が罪を洗い流す象徴であるばかりでなく、それを通して受洗者に霊の賜物と火が与えられるからだ。霊は父と子と聖霊のお働きそのものであり、火とは福音的な愛の熱意だと言えよう。キリスト教における「聖霊と火による洗礼」は単なる比喩ではなく、洗礼の中身そのものだったのだ。

 さて、後半のルカ3;21-22はこう伝える。「群衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた」と。
 ルカは洗礼者ヨハネが「ヨルダン川沿いの地方一帯に行って」(ルカ3;3)洗礼を授けていたと書いているが、イエス様の洗礼場所には言及していない。では、そこは特定できるのだろうか?ヨハネの記述が正しいとすればできる。彼はイエス様の洗礼の時のことを、「ヨルダン川の向こう側、ベタニアでの出来事であった」(ヨハネ1;28)と書き残してくれたからだ。これはマルタとマリア姉妹がいたベタニアとは違うベタニアで、死海に近いヨルダン川東岸にあった。
 では、洗礼者ヨハネはすんなりとイエス様に洗礼をさずけたのだろうか? ルカは簡単にしか書いていないが、マタイやヨハネを読むと、彼が主に洗礼を授けるのは恐れ多いと言って、一度は押しとどめようとしたことがわかる。しかし、イエス様から、今はそうしてほしい。「正しいことをすべておこなうのは、我々にふさわしいことです」(マタイ3;15)と言われて、洗礼を授けることに同意したのだった。
 ただ、ここでちょっと気になることがある。主の洗礼の主日には読まれないが、ルカ3;19-20には「領主ヘロデは…洗礼者ヨハネを牢に閉じ込めた」と書かれていることだ。もし彼がイエス様の洗礼の前に投獄されてしまったのであれば、主に洗礼は授けられなかったのではないか?と思われかねないからだ。しかし、実際はそれが時間的に前後することを承知の上で、ルカは洗礼者ヨハネのことを語ったついでに、主の洗礼後に起こった彼の投獄事件のいきさつをここに付け加えたに過ぎななかったのだと思う。ルカの福音書で洗礼者ヨハネが次に登場するのは、牢獄からイエス様に弟子たちを遣わす場面(ルカ7;18sq.)しか残されていなかったからだ。

 ところで記述の内容だが、「天が開け」とはどういうことなのだろうか。聖ステファノも殉教したとき、「天が開いて、人の子が…」(徒7;56)と言った。いったいどういう状態をそう表現するのだろうか?今の天文学的知識からすれば、曇天の時に雲が開くことはあっても、空が割れるように開くことは考えられない。だから、それは物理的な変化ではなく、見る人にとって大空の一角が何らかのめくれるような変化を起こしたことを意味したのではなかろうか。救い主の登場だったから、そういう特別な現象が起きたのだろうと解釈するのが妥当だと思う。
 「聖霊が鳩のように目に見える姿」というのは、見える人には見えるようにと、神様が形作られた象徴的な出現なので、問題にしてもしかたないと思う。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声も、聞く人には聞こえるようにと神様が特別に働きかけられたからで、当事者にそう聞こえたのが事実なら、それはそれでよく、私にとっては何らひっかかる事柄ではない。
 しかし、天から聞こえたという声は、いったいそこにいた群衆全部に聞こえたのか、あるいはイエス様と洗礼者ヨハネの2人にだけ聞こえたのか、それともイエス様だけに聞こえたのか?これは私にとってかなり気になる疑問点だ。
 答えを探すために他の福音書を読んでみた。マタイでは鳩のように聖霊が降って来るのがイエス様だけに見えたような叙述になっているから、続く言葉も主だけに聞こえたように受け取れなくもない。マルコも似たような表現をしている。ところが、ヨハネは「わたしをお遣わしになった方が、『霊が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた。わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証しした」(ヨハネ1;33-34)と書いている。これを見ると洗礼者ヨハネは霊が降るのを見たのだから、天からの言葉を聞いたのも、洗礼者ヨハネとイエス様ご本人だろうと推理できる。
 では、その他の人たちには聞こえなかったのであろうか?私はたぶん群衆にも聞こえたのではないか、でもその意味を理解することはできなかったのだろうと想像する。なぜなら、イエス様と洗礼者ヨハネだけにわからせるのだったら、「天が開け…」のような奇跡的現象を起こす必要はなかったと思うからだ。イエス様がメシアであることの認証として、天が開けて聖霊が降り、天からの声がしたのなら、それは人々がそれを目撃し、主に注目するためだったからだ。
 ルカの福音書は、「民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、…」と書いてあり、ある意味で民衆と主が行動を共にしている。したがって、「天が開け…」以下のことも共に体験したことと解釈できるように思うのだ。つまりこの出来事を目撃し、天からの声を聞いたのは、その場にいた人々すべてであった。私はそう理解する。初めは洗礼者ヨハネの弟子だったが、後にイエス様の弟子となった使徒アンデレやヨハネもそこにいたはずだ。だとすると、もしその天からの声がその場にいた人たちすべてに聞こえたのだったら、2人はその貴重な証人でもあったわけだ。
 そのヨハネは後にイエス様と共に山に登って、主の驚くべき変容の場に居合わせた3人の1人だが、その時、主の洗礼の場で聞いたあの「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」(マタイ17;5)という天からの声を、もう一度聞くことになる。この時は「これに聞け」というもう一言が付け加えられたが… ただしこの時は下山の途中、主から「人の子が死者のうちから復活するまでは誰にも話すな」と口止めされた。でも、だからこそ、むしろ彼はこの声を忘れることがなかったのではなかろうか。その結果、それは後に他の弟子たちと共有され、福音書を通して私たちにまで伝えられたのだ。
 この自学はこれで終わる。今日の感想も「楽しかったぁ!」である。

ヨゼフ様はどこに?

 1月3日のカトリック新聞日曜説教欄で、寺西英夫神父様は主の聖誕について、「マタイはルカと違って、イエス誕生の詳細には触れず、そのことが引き起こした波紋について語る」と書いていた。たいへん良い指摘だと思う。ところで3人の占星術の学者が礼拝に来たのもその波紋の一つだった。それを祝うのが御公現(epiphania)の主日だが、この日のミサではマタイ2;1-12が朗読される。もう済んだ祝日の福音ではあるが、今日はこの箇所を行間伝いに自問し、考察し、自学してみたい。
 それはこう始まる。「イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、言った。『ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。』これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。」

 現代の聖書学では、これは史実ではなく物語だと言われる。それに反対ではない。だが、すべてが歴史的に根拠のない作り話なのだろうか?確かに伝説物語的要素が多いけれども、全部が全部そうかと言うと、そうとも言えない。例えばイエス様が「ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった」ことや、ヘロデがユダヤの王であったことは史実だ。彼は紀元前37-4年の33年間王位にいた。ちなみに、イエス様が彼の存命中に誕生なさったのが事実であるならば、誕生年はそれを基点とする西暦0年よりも4年以上は前にずらさないといけなくなる。ヘロデ王の死後にお生まれになったのでは、この物語の筋が合わなくなるからだ。
 ルカはヘロデ王には言及せず、主の聖誕がアウグスト皇帝治下、キリニウスがシリア州の総督だったとしている。アウグストのローマ皇帝在位は紀元前30-紀元14年だったから、ヘロデ王の在位とかなり重なっている。それも史実の補強になる。しかし、その時の住民登録はどうも紀元前7,8年前だったようだから、もしそうだったとすれば、主の誕生年は7,8年も前に遡らせなければならなくなる。いずれにせよ、重要なことはこの物語が、事実に基づく歴史的文脈の中で語られていることだ。
 この時代、ユダヤ人たちが救世主を待ち望んでいたことは間違いないが、近隣の国々にも偉大な指導者出現への期待があったと言われる。この史実は歴史家スエトニウス、ヨゼフスなどの文献からわかる。占星術の学者がいたのも史実で、原典にはマゴイとあるが、メディア人の彼らは天文を学び、司祭職を兼ねる知識階級だった。メディアとは現在のイラク北部、イラン西北部にまたがった地域で、現在のクルド地方と重なる。ペルシャ人に敗れたメディア人は、知恵で支配者に仕え、共存していたのだった。

 しかし、占星術の学者達とヘロデ王との会話や、それに続くストーリーは伝説によるものだろう。おそらく福音史家ギリシャ語マタイの創作ではなく、彼が誰かから得た話を肉付けしたのではないだろうか。では誰から?イエス様からでないことは確かだ。ルカの聖誕秘話とは違うから、マリア様からでもあるまい。私の仮説だが、物語の原型はすでに初代教会のどこかで生まれていたのではなかろうか。それを知った福音史家マタイは、救い主の系譜と生まれを証明するためのメッセージとなるよう、それを自分なりに手直しして用いたのではないかと思う。
 そもそも人は偉大な人がどのように生まれたかに大きな関心を持つものだ。共通の原本だったアラマイ語マタイ福音書は失われてしまってもう幻だが、おそらくそれはイエス・キリスト様の教えとご受難だけを語っていたに違いない。だからそれをモデルにしたマルコには聖誕物語がないのだと思う。しかし、ギリシャ語マタイは信者達が教えと受難物語だけでは満足せず、主がどう生まれたかも知りたがっていることを忖度し、イエス様が約束のメシアであることを証明する絶好の題材と見て、福音の核心である教えと受難に加え、聖誕物語をも書いて伝えた。私はそう推測する。
 しかし、伝説のストーリーだからと言って、占星術の学者たちの訪問がまったくの作り話だったとも言いきれない。彼らが実在したこと、そして、その時代には近隣の国々でも偉大な王出現の期待が高まっていたことを思えば、特別な星の出現とともに、占星術の答えに従ってユダヤを訪問したことはあり得ないことではなかった。だから、それが単なる美しい伝説に過ぎないとは言い切れないのだ。

 ここからはこの聖誕物語を、伝説だけれども実際にあり得た話として考察してみよう。
 占星術の学者たち(マゴイ)はいったい全部で何人いたのだろか?よく3王、3博士などと言われるのは、贈物が黄金、乳香、没薬の3種類だったからだ。マゴイはマゴスの複数だが、福音書には3人とは書いてない。日曜説教でF教会の主任司祭は、砂漠は3人ぐらいでは渡れないから、隊商みたいに60人ぐらいの隊列で来たのではないかと話した。面白い説だが、私の意見は違う。
 イスラエルは古来、人々がメソポタミアとエジプト間を往来する時に回廊の役割を果たしていた。だから、メディア(今のイラク・イラン地方)から来た占星術の学者たちも、シリアを通ってエルサレムに行ったはずだ。東の国からと言っても、彼らはアラビアのロレンスみたいに砂漠をよぎる必要はなかったのだ。それにそんな遠方から見知らぬ土地に数十人も連れて行けば、食事の調達、宿泊場所の確保、供をしてくれる人たちへの謝礼金など膨大な出費だっただろう。そんな資金を占星術の学者たちがひねり出せたとも思えない。
 それよりも私が興味をもったのは、いかにして占星術の学者たちがヘロデ王に面会できたかということだ。占星術の学者たちだと名乗っても、素性の知れない外国人たちを、そう易々と城に入れてくれるわけがない。普通なら門前払いのはずだ。ここに後世の人々が彼らを3王と考えた理由があったのではないか。彼らが3王だったなら、王と王の付き合いになるから、ヘロデ王も会わないわけにはいかなかっただろうと考えられるからだ。占星術の学者たちは王ではなかったが、東の国では王に仕えていた。だから、王(または王たち)の代理と名乗り、信任状みたいな物を携えていたのではないか。これも私の仮説だが、これだと説明がつく。

 では、なぜ彼らは王に会って、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか」と尋ねたのだろうか?9節に「王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み」とあるところを見ると、エルサレムに着いたとき、彼らがしばし星を見失ったからではないかとも考えられる。しかし何よりも、「ユダヤ人の王の子なら、王のもとに行けば拝めるはずだ」と思ったからではないか。そこは彼らも常識で考えたのだろう。
 ところがその子は王城にはいなかった。そして、占星術の学者たちの挨拶は大きな波紋を起こした。まずヘロデ王がそれをきいて不安を抱いた。なぜだったのだろうか?そんな子のことはまったく初耳で、自分の子ではないから、それが自分の王位を脅かす存在だと直感させたのであろう。ヘロデは純粋なユダヤ人ではなく、エドム人の血をひいていたから尚更恐怖を感じたのだと思う。
 でも、なぜエルサレムの人々も同様に不安を覚えたのだろうか?それはヘロデ王に近い人々だったからでもあったろうが、もう一つはその子がわかったら、彼が必ず殺すだろうと思ったからでもあろう。ヘロデは有能な王で、神殿を建造し、民が困窮した時は免税し、飢饉の時は難民に穀物を与えるなどの善政を敷いた。しかし、猜疑心が年とともに非常に深くなり、自分の権力を脅かす者には容赦なく、妻、その母、2人の息子までも殺したほどだった。人々はそれを知っていたから不安を抱いたのだろう。
 王は祭司長たちや律法学者たちを集めて、メシアはどこに生まれることになっているかを問いただした。彼らはミカの預言書5;1を引用して、ベトレヘムだと答えた。ここからは考察をスキップしよう。王は占星術の学者達に、その子が「見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言って彼らを送り出した。だが、それは殺すつもりの陰謀を隠した、実にまことしやかな依頼だった。

 その後、物語は次のように推移する。「彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者達はその星を見て喜びにあふれた。家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈物として献げた」と。

 ここでまず湧く疑問は、「家に入って見ると」の箇所だ。主が生まれた場所は家畜の小屋で、よく岩穴だったと説明される。しかし、マタイは「家に入って」と書いた。動物がいたとも何とも書いてない。これだと立派な宿屋ではないが、どうやら普通の家のように思える。では、いったいそこはそういう家だったのか、それとも家畜の小屋、または岩穴だったのか?
 家畜小屋という解釈はルカの福音書からきている。しかしルカをよく読むと、小屋のことも家のことも書いていない。ただ、幼子を「布にくるんで飼い葉桶の中に寝かせた」(ルカ2;7)と書いているだけだ。飼い葉桶があるのなら、それは家畜の小屋だろう。そういう推測から、イエス様は馬小屋で生まれたという通説になったのだが、それは福音書にある言葉ではない。他方、小屋ではなく、実際は家畜を休ませたり雨風を避けさせたりした岩穴だという説は、2世紀の殉教者聖ユスチヌスの証言による。彼はベトレヘムの生まれだったので、実際は小屋などはなく、その地方に多い石灰岩の洞窟だったと書いた。確かに、この地方では木材は家畜のためには貴重すぎたから、岩穴を利用したのだと言う説は説得力がある。

 「幼子は母マリアと共におられた」 とあるが、では、ヨセフ様はどこにおられたのだろうか?という疑問も湧く。ひょっとして、どこかに行っておられたのだろうか?それはあり得なかっただろう。昼間なら食べ物飲み物を手に入れるためなどに出かけることはあっただろうが、その時は不思議な星が輝いた夜だった。街頭などない当時の町外れはそれこそ真っ暗で、とても出歩く時間ではなかっただろう。だから、聖母子を守って家にいたに違いない。ならばどうして福音書にはその名が書かれていないのだろうか?
 正解はわからないが、あれこれ理由を想像してみることはできるし、それは楽しいことだ。私は「イエスが行く」Ⅰ巻では、ヨゼフ様が学者たちを出迎えたことにしているが、産後のマリア様にはその役目は果たせなかっただろうと推理したからだ。当然のことながら、ヨゼフ様は彼らを家に入れる前に、彼らが何者なのか、何のために訪ねて来たのかを聞いただろう。そういう会話のシナリオにした。
 ヨゼフ様が彼らを案内して聖母と赤子に会わせたのなら、彼はきっと占星術の学者たちと並んで立っていただろう。当然、学者たちの視線の先には聖母と赤子しか見えなかった。だから、マタイは「幼子は母マリアと共におられた」と書いたのではなかろうか。それはヨゼフ様もその場にいたことを否定するものではない。では、学者たちが赤子を礼拝している間、彼はどこにいたのだろうか?彼らの横で、少し引き下がった暗がりから見守っていたのではないかと思う。それこそがヨゼフ様らしいスタンスだと思うからだ。
 ヨゼフ様のことだけではない。読み返すと、おやっと思うことはまだある。マタイの聖誕物語では最初に「イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった」とあるが、その後の紙面はヘロデ王と占星術の学者たちの話に割かれて、実際に幼子と母マリアが出てくるのは、彼らが家に入った時が初めてだ。これには少しびっくりする。学者達が来たとき、聖家族はもうそこにいた。でも、聖家族が何のために、いつからそこにいたのかについては何も書かれていない。だから、おやっと思ってしまう。その欠けたところを補ってくれているのがルカによる福音書の聖誕物語なのだ。

 「彼らはひれ伏して幼子を拝み・・・」とあるが、なぜ学者たちはまだ物も言えない赤子を礼拝したのだろうか?もちろんユダヤ人の王としてお生まれになった方だったからだが、それ以上に、不思議な星の下に出現した、並々ならぬ人になると確信していたからであろう。さもなければ、偉大になるかも知れないが、大悪人になる可能性もある赤子を伏し拝むなど、馬鹿らしくてできまい。彼らは赤子の未来を確信したからこそひれ伏して拝んだ。
 彼らの確信を私たちも是認するかどうかは別として、彼らが「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか」と尋ねた言葉には、彼らも思い及ばなかった意味があった。私はそこにこそ、この福音の箇所の一番大事なメッセージがあると思う。なぜなら、マタイはイエス・キリスト様が預言者を通して約束されたメシア、すなわち聖なる油を注がれた王であることを伝える目的でその福音書を書いたのだが、まさにこの一言にそれが凝縮されているからだ。 
 その「ユダヤ人の王」という言葉は主の御受難の時、人々の前に再び現れる。ヨハネは裁判の時の会話を伝えている。「すると、あなた王か?」と尋ねたピラトに、主は「あなたの言うとおり、わたしは王である」(バルバロ訳、ヨハネ18;37)とお答えになった。そして、十字架上には「これはユダヤ人の王イエスである」(マタイ27;37)と罪状書きが掲げられた。イエス様の誕生と死には「ユダヤ人の王」という言葉が付いて回ったのだ。ただ、十字架の時は伏し拝まれるためではなく、嘲り蔑まれるためであった。しかし、それこそがイザヤによって預言されたように、真のメシアの証明だった。それによってこそ、救いが成就したからだ。 

 王たちは赤子を伏し拝んだ後、宝の箱を開けて、三つの品物を贈物として献げた。それは王に献げるのに最もふさわしい贈物であったが、神様が人類にくださったのは、それとは比較にならないほど無限の価値がある贈物だった。神の独り子その人だったからだ。生まれたばかりの赤子は、占星術の学者たちの献上物をまだ見ることもできなかったことだろう。だが、訪問した人々は神様の無上の贈物である赤子を見て、誰もが覗き込んだことであろう。それは天使も覗き込むほど清らかな寝顔だったに違いない。
 そこには「万物がそれによって成った」(ヨハネ1;3)神のみ言葉なのに、何も話せない赤子になったみ言葉のお姿があった。ここに聖パウロが「キリストは神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました」(フィリッピ2;6-7)と言った神秘がある。
 占星術の学者たちがヘロデのところに戻ることなく国に帰ったことは、誰もが知るとおりだ。説明は要らない。さて、書き終えての感想は、自学することは何と楽しいことよということだ。まだそれができることに感謝!

新年あいさつ考

 年が明けて2010年となった。昔の田舎とちがって、新興住宅地のわが家の近辺では、近所に年始の挨拶まわりをすることなどはないが、それでも道で出会った人たちや教会の方々とは新年のあいさつを交わした。そんな中で、今日1月3日、主の御公現のミサの折、イザヤ預言書の朗読を聞いて、ふと新年のあいさつのことをあれこれ思いめぐらしてみた。

 言わずもがなだが、口頭でのあいさつではよく「新年おめでとうございます」と、「明けましておめでとうございます」が使われる。ところが、この二つは似ているようでいて、同じではない。「新年おめでとう」の方は英語のHappy New Year! と共通していて、そこでは相手に「良い年であれ」と願うのは自分(または自分達)だ。つまり省略されてはいるが、自分(または自分達)が主語になっている。だから英訳しやすい。
 ところが「明けましておめでとう」はそうではない。このあいさつはとても日本的な味わいのある言い回しである上に、成り立ちを考察すると、「ほほう!」と思ってしまう面白い表現なのだ。どういうことかと言うと、「明けまして」とは「開ける」でも「空ける」でもなく、「明ける」という言葉からだが、年が明ける、夜が明けるなどは大自然の「時」(正確には時間的推移)の現象だ。だから、大自然の「時」が主語なのだ。人間は「開け」たり「空け」たりはできるが、「明ける」ことはできない。従って「明けまして」の主語ではないし、主語にはなりえない。意外な面白さはそこにある。
 でも、“明けまして”とは丁寧語だが、「時」は人ではないから、仮に物を言うことができたとしても、丁寧語は使わないだろう。“明けて”と言うはずだ。それなのにあいさつでは、なぜ“明けまして”と丁寧語で言われるのだろうか?それは表現者が大自然の「時」ではなく、日本語を話す私たちだからだ。それは日本人である私たちが新しい年に畏敬の念と希望を抱き、その感情を移入して、物が言えない「時」になり代り、“年が明けました”と確認することを意味する。だから、“明けて”ではなく、“明けまして”になる。
 それに祝意の「おめでとう」を加えるから、「明けましておめでとう」という表現になるのだが、「おめでとう」の主語は私たち人である。だが、“明けまして”の部分では「時」が主役であり、私たちは脇役を演じているにすぎない。もっとも、そんなことを意識していちいちこのあいさつをする人はまずいないだろうとは思う。ただこの考察からは、このあいさつには人間同士だけではなく、大自然の「時」も加わっているんだということがわかる。だからその背後には天地万物の気配を感じる。
 そこにこの表現の見事さがある。このあいさつを英語にしたら、Just the New Year has come. So we congratulate ourselves on it. とでも訳せばいいのだろうか。でも、それでは“明けまして”の味わいも響きの良さも台無しになる気がする。俳句や短歌同様、これもほぼ翻訳不可能な表現の一つなのかも知れない。
 では、なぜ年が明けたら、めでたいのだろうか?その答えは、年の暮れが重い押し迫ったものだからだろう。いったいいつ頃から日本人はこんな表現で新年を祝い始めたのかは知らないが、かなり昔からだったとは想像できる。その昔は年を越せるかどうかは大問題だった。今でもそういうせっぱつまった人たちがいることはいるが、昔はみんながとても貧窮していた。だから、新年を迎えられる朝は、生き延びられたことが実感できる感謝の日でもあったのだ。私も子どもの頃は、霜を踏んで早朝に鎮守の神社に初詣したものだが、それは生き延びられたことを感謝し、また一年を息災に過ごせるようにと願うことでもあったのだろう。子どもの時はそんなことは何一つ考えず、新調してもらったシャツや下駄が嬉しくて、はしゃいで出かけただけだったが…

 さて、今日ミサの第一朗読でイザヤの預言を聞いた時、新年の祝いを考えていた私は、それをイスラエルの大きな新年のように感じた。彼らはバビロンに虜囚だったが、50年後に解放されて帰国した。この預言はその喜びを告げたのもので、そこにはこう書いてある。「エルサレムよ、起きよ、光を放て。あなたを照らす光は昇り、主の栄光はあなたの上に輝く。見よ、闇は地を覆い、暗黒が国々を包んでいる。しかし、あなたの上には主が輝き出で、主の栄光があなたの上に現れる」(イザヤ60;1-2)と。それはまさに民族にとって、新年の明るい夜明けだったのだ。
 しかし、イスラエル民族は回心して新たにされたのに、やがて信仰から遠ざかり、次第に年末の押し詰まったような重く暗い状態に陥って行った。ところが、そこに比類なく素晴らしい時代の新年が明けたのだ。それが救い主の降誕であった。それはもはやイスラエル一民族だけではなく、全人類の大いなる新年だった。やがてイエス様はそれを故郷のナザレトの会堂で、イザヤの預言書を通して宣言なされた。
 「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕われている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵の年を告げるためである」(ルカ4;18-19)と。「主の恵の年」とは、まさに新しい時代の新しい年のことであった。父なる神が人類の罪に大恩赦を与える年という意味だ。
 でも、その時のイスラエルの人たちはその新年に気付かず、神様のお年玉が何であるかを理解できなかった。むしろイエス様の宣言に腹を立て、主を町のはずれの崖から突き落とそうとしたのだった。大それたことをしようとしたものだ。しかし、そんな抵抗にはおかまいなく、大いなる救いの計画の新年は始まっていた。そして、主の死と復活が成就すると、聖霊は弟子たちに降臨なさった。それが教会元年の元日だった。

 「明けましておめでとう!」という新年のあいさつに、私はミサでの朗読からそんな歴史上の大いなる新年を重ね合わせ、そこに想いを馳せてみた。暦の新年は毎年繰り返される。しかし、歴史にはそれらの年々を大きく括る壮大な時代の新年もある。だが、そこに共通しているのは明るい始まりと希望だ。今年は、「明けましておめでとう!」というあいさつから、未来に希望を託すだけでなく、生きて年を越せたことを感謝し、「主の恵の年」以後に生きられる幸いを学んだ。それはこの年になって頂いた、神様からの小さなお年玉だと思う。
 自分のためにだけ書くウエッブログだから、言う必要はないのかも知れないが、かくなる上はあらためて新年に希望を託し感謝をこめて、心の中で言おう。「人間の皆さん、天地の万物の君たち、そして神様、明けましておめでとうございます!」
プロフィール

余生風

Author:余生風
「聖書温故知新」
「思いつくまま、気の向くまま」
折にふれ「水彩画」も紹介してまいります。

「手を貸す運動」創始者
社会福祉法人「地の星」理事
元玉川大学教授

佐藤正明(余生風)ホームページ
「絵画と心」

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