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どんでん返しと神的な磁場

 11月1日の主日は諸聖人の祝日だ。そのためこの日の福音はマルコの続きではなく、マタイ5;1-12だ。一見単純なようだが、実際はそうでもないので、今週の考察はマタイ5;3-10節だけに絞ることにする。それは有名な山上の垂訓の冒頭に当たり、次のように8つのメッセージを格調高く伝える。

「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。
悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。
柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。
義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。
憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。
心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。
平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる。
義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」

 そのどれにも「・・・は幸いである」という言葉があるから、人はこれを真福八端と呼ぶ。非常に簡潔だが、むしろそうだからこそそのメッセージには強烈なインパクトがある。私も初めて福音書を読んだとき、この8つのメッセージに深い感銘を受けたことを覚えている。もうこれだけで、イエス・キリスト様の福音がどんなものかを予感できたような思いだった。それは恵みの音信、すなわち幸福な知らせだから、以後人はそれを福音と呼ぶようになった。その良い音信(おとずれ)は、同時に人々が長く待ちわびていた神の恵みの訪れでもあったのだ。
 ところで少し注意して見ると、8つのメッセージはその特徴から2つにグループ分けできる。一方には「心の貧しい人々」、「悲しむ人々」、「義に飢え渇く人々」、「義のために迫害されている人々」で始まるメッセージ、他方には「柔和な人々」、「憐れみ深い人々」、「心の清い人々」、「平和を実現する人々」で始まるメッセージが入る。私は一方を「神様のどんでん返し」、他方を「神様の磁場」という見方で考えると理解しやすいと思っている。

 第一グループの人々に共通するのは、何かが無い、マイナスの現状にいるという特徴だ。貧しい人々には富が無く、悲しむ人々には笑いが無く、義に飢え渇く人々には義がまだ実現されて無く、迫害される人々には平穏と安心が無い。ところが、イエス様はそういう人たちを幸せだと高らかに断言されたのだ。まずそれが聞いていた群集の度肝を抜いたに違いない。世の中の常識とはまったく逆だったからだ。
 折りも折、今日の朝日新聞朝刊コラム「ひと」には、「幸福学」の第一人者、ルート・ビーンホベン氏が取り上げられていた。氏の研究は幸福の度合いを、その国に住む人の「人生への満足度」で測ることにあるそうだが、「幸福の条件はまず、富、民主主義、良い政府」なのだそうだ。学問の形はとっているが、何のことはない、これも富や満足が「幸せ」の不可欠な基準になっている。
 イエス様の時代も、世の常識では、貧しい人、悲しむ人、飢えている人、迫害される人等は不幸、反対に豊かな人、笑い楽しむ人、満ち足りている人、安穏に過ごせる人等は幸せだと考えられていた。おそらく現代でもほとんどの人はそう思っているに違いない。だが、イエス様はそれを逆転して、貧しい人、悲しむ人、飢えた人、苦しめられる人こそ幸せだと言われた。それは世の価値観の全否定だった。ある人々はそれを聞いて衝撃を受け、他の人々はそのお言葉にどれほど感激したことだろうか。
 
 ところで、最初に「一見単純なようだが、実際はそうでもない」と書いたように、私たちはここで「心の貧しい人々」と「義に飢え渇く人々」の意味で問題にぶつかる。マタイはそう書いたが、ルカは違って、そのものずばりの「貧しい人々」、「今飢えている人々」と書いたからだ。そうなると、いったいイエス様は本当はどちらの言葉を使われたのだろうか?という疑問が湧く。私はルカが伝えた方だったのではないかと思う方に傾いている。だが、マタイの書いた意味でそう言われたのだとも思うのだ。
 推察だが、マタイが福音書を書いた時代になると、教会内には、「果たして物質的に貧しい人だけが幸いなのだろうか?貧しくても心は強欲な人もいるではないか。また、飢え渇きは食べ物や飲み物だけではなく、魂にもある。むしろこの方が大切なのではないか」などという異論が起こっていたのではないかと思う。そこでマタイはそういう問題にも応えようと、単に「貧しい」ではなく、「心の貧しい」、単に「飢え渇く」ではなく、「義に飢え渇く」という表現を選んだのではなかろうか。
 貧しい人の場合、「心の貧しい人々」と表現すれば、それは物的にも貧しく心も富に執着しない貧者にはもちろん当てはまる。しかし同時に、富んでいても心は富に執着しない(心では貧しい)富者も含むことになる。逆に物的に貧しくても心が欲の皮で突っ張った貧者は心が貧しくはないし、物心両面で強欲な金満家ならもちろん「心の貧しい人」ではない。ただ私の経験から言うと、アフリカの子達のための献金などでも、一般的に貧しい人たちは乏しい中から快く出してくれるのに、金持ちはそうでもない。もちろん、富に執着しない金持ちもいることは事実だが、貧しい人には心の貧しい人も多い。マタイもそういう現実を考慮して、暗に物心両方の貧しさを示唆しながら、どちらかと言えば「心の貧しさ」の方に軸足を置いたのではないか。私はそう考えるのだ。
 「心の貧しい人」という表現ではもう一つ、「心の豊かな人」との対立を解きほぐしておく必要があるだろう。教育などではよく豊かな心を育てると言う。そこで、キリスト教が心の貧しい人を目指しては困るではないか、と言うような誤解が起きるのだ。しかし、福音書が言う心の貧しさと教育で言う心の豊かさとは見かけの対立に過ぎない。福音書が言う心の貧しい人とは、世の富や地位等に執着せず、神様の前に心を空しくして、スポンジが水を吸い込むように福音を受け入れる人のことだ。心がそうなっていなくて、傲慢と欲望で満杯だったら、神の恵みは入る余地がない。心が貧しいとは神様の前に無になった姿勢であって、人間から見れば実は豊かな心なのだ。心の貧しさは神の恵みで豊になるためだからだ。
 「義に飢え渇く人々」という表現も、「心の貧しい人々」と同じ考え方で理解すればいいと思う。つまり、人は体だけでなく魂でも飢え渇く。ところで、最も深刻な飢えは「主の言葉を聞くことのできぬ飢え」(アモス8;11)だから、ここにも物心両面の飢えの意味が込められていると見てよい。当然、お腹の飢えが満たされる意味もあるが、それよりもっと切実なのは魂の飢えが満たされることで、福音はそれへの答えだったのだ。当時の人々にとって魂の飢えとは神の国が来て、御心が地にも行なわれることだった。義とはまさにそのことだったのだ。狭い正義の意味ではない。だから、マタイは飢えの最も鮮明な表現として「義に飢え渇く」と書いた。私はそう理解する。

 さて、説明の道草を食い過ぎたから、本筋に戻って問題の核心に入る。だれもが気付いていると思うが、もし物心共に貧しい人々、悲しむ人々、義に飢え渇く人々、迫害される人々等が、いつまでもそういう状況のままでいるのなら、とうてい幸せだとは言えない。不幸なのに幸せと強弁するのでは事実に反する。では、なぜイエス様は今幸せでない人々を幸せだと断言なさったのだろうか?各メッセージの後半に、その肝心な問いへの答えがある。それは彼らが今はそうであっても、やがて神の国が実現するとき、神様がその状況をどんでん返しなさるからなのだ。
 この4つのメッセージでは、神様のこのどんでん返しが鍵になる。つまり、その時が来れば、貧者はもちろんたとえ富者であっても、心の貧しい人は天の国に招かれ、悲しむ人々は慰められ、食物に飢える人々も義に飢え渇く人々も満たされ、迫害される人々は天の国で苦しみから癒される、とイエス様は断言されたのだ。そして、主がそのような希望に溢れたメッセージを告げられていること自体が、その驚くべきどんでん返しの時が来たことの証し、「福音」と言われるゆえんのよい知らせに他ならなかった。

 他方、二つ目のグループの「柔和な人々」、「憐れみ深い人々」、「心の清い人々」、「平和を実現する人々」へのメッセージも、これまた人の意表を突く。だが、そこにあるのは逆転の衝撃ではなく、柔和な人々は地を受け継ぎ、憐れみ深い人々は憐れみを受けるという、むしろ順当な報いの対応だ。そもそもここに挙げられている人々は、一つ目のグループの人々とは違い、何かが無い、マイナスの状況にはなく、むしろ有る、プラスの状態にある。普通よりも純粋で恵まれた心の状態だ。
 彼らがそのように生きかつ行なえるのは、単なる人徳の高さや魂の良質さによるのではなく、福音を受け入れて、その神的な磁場の中に生き始めたからのように思える。その磁場に入る者は、世の価値観とは違う価値観で未来に視線を向け、神的磁場から出る恵みのエネルギーを受けて生きる。何と願わしい状態であることか!これらのメッセージは必ずしもその人々がすでに柔和、憐れみ、心の清さ、平和への貢献を立派に行なっているから幸せだと言っているのではない。むしろ、福音の磁場に入ればそういう生き方ができる。これからそう生きるならば幸せになれる。そして、それに応じた報いを得るだろうと、励ましてもいるのだと思う。

 第一グループと同様、ここにも意味のわかりにくい問題がいくつかある。「柔和な人々は、・・・地を受け継ぐ」はその一つだろう。柔和な人とは、イエス様が「私は柔和で謙遜な者だから、・・・わたしに学びなさい」(マタイ11;29)と言われているから、主のような人を指すと思えばいいが、わかりにくいのは「地を受け継ぐ」という意味の方だ。ただ、これも単純に先祖からの土地に住める、居場所がもらえると理解すればいいのではないかと思う。柔和でなくて、怒りっぽく戦う者は「剣で滅びる」(マタイ26;52)が、柔和な者はそうではないからだ。
 それにこの5節は3節の「心の貧しい人々は・・・」の敷衍で、2つの節は補い合う1つのメッセージだという学者もいる。そうなると真福七端になってしまうが、もしそうだとすれば、なるほどと合点できるところもある。なぜなら、「心の貧しい人々」が受けるのは天の国だが、「柔和な人々」が受けるのは地なので、両方合わせると天と地を受けることになるからだ。イスラエル人にとって、天と地はワンセットになった概念だ。つまり、心が貧しく柔和な人々は、地上でも天の国でも幸せな居場所を得られるという意味になる。
 「平和を実現する人々は・・・神の子と呼ばれる」というメッセージでも、意味がよくわからないと感じる人がいるかも知れない。「平和を実現する人々」が、なぜそれで「神の子と呼ばれる」のかという点だ。私はこれには穿った意味を探す必要はないと思っている。聖書には「その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた」(ヨハネ1;12)とも、「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです」(ロマ8;14)とも書いてある。人は神の子になれるのだ。とりわけ平和に尽くす人は「神の子」と言われるにふさわしい、と理解すればいい。実際イエス様は「平和の君」(イザヤ9;5)と呼ばれ、その福音は「神がイエス・キリストによって平和を告げ知らせた」(使徒行録10;36)賜物だった。平和は神様の賜物だから、それに貢献する人が神の子と呼ばれることに不思議はない。
 もう一つは「心の清い人々は神を見る」というメッセージだ。「神は見えないのに、見るとはどういうことか?」と疑問に思う人がいるかも知れないが、私はこれも単純な解釈が一番いいと思う。讃美歌30番には「かがやくとこ世のあした、・・・あおぎみん神のみかお」とあるが、そう受け止めれば、それでよいのではないか。神の国で永遠の命をいただけば、どのように見えるのかはわからないが、いずれ神様を見ることができる。それが信仰だからだ。
 「心の清い人だなんて、そんな青臭いことを言っていては、世の中は渡れない。水清ければ魚棲まず。信者だって、清濁併せ呑まなきゃ」などと、わかった風なことを言う人もいるだろう。だが、水清ければ云々の諺は間違いで、本当は「水清からずば魚棲まず」と言うべきなのだ。かつてドブ川になった東京都内の川からは魚が消えた。しかし、近年水質浄化のおかげで戻ってきた。信仰ではなおさらで、心清からずば目も澄まず。神を見奉ることはできない。

 ところで、主は「…は幸いである」と言われたが、その反対側には「…は不幸である」に該当する人々がいる。ルカ6;24-26は、それを「幸いである」と言われた人々の対極にある人々として、「今富んでいるあなたがた、今満ち足りているあなたがた、今笑っているあなたがた、今ほめられているあなたがた」という言い方で伝えている。もちろんこの4例以外に、少なくとも柔和でない人々、義に無頓着な人々、憐れみのない人々、心の濁った人々、平和をだめにする人々などが「不幸である」人々として数え挙げられるだろう。しかし、ここで大事なのはそれらの列挙ではない。
 ルカは「あなたがたは不幸だ」と書いた。「あなたがた」と聞いてハッとし、あ、これは自分のことなのだと、私たちが自己に目を向けることが大事なのだ。イエス様の8つのメッセージは2000年前の人々に対してと同様、現代の私たちも問いかけている。自分は「…は幸いだ」と言われるに価する生き方をしているか?福音的磁場の中にいるか?「…は幸いだ」と言われたメッセージの対極にはいないか?そう自己検証してみなければ、福音を学んでも何にもならない。
 では、私は本気で、「貧しい人は幸い」、「悲しむ人は幸い」だと信じているか?そう自問すると、イエス様の教えよりも世の常識の方に寄っている気がする。それでは福音を語る資格などないと、内心忸怩たるものがある。私はそうだが、今の時代、本気で真福八端を信じかつ実践している信者はいったいどのくらいいるのだろうか?もし富んでいる人や満ち足りている人は幸いと思っているのなら、イエス様のメッセージを信じてはいないのだから、洗礼名簿上は信者でも、信者とは言いがたくなる。
 だが、主のメッセージを生涯かけて証しした人たちがいる。それがこの主日に祝う諸聖人だ。彼らはまさに真福八端を生き抜いた人たちだ。もちろん、「あなたがたは選ばれた民、王の系統を引く司祭、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたたがたが広く伝えるためなのです」(一ペトロ2;9)とあるとおり、列聖された人たちだけが聖人なのではなく、知られざる聖人も大勢いるに違いない。彼らに倣って、福音の磁場の中で生き抜きたいものだ。
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見えるようになりたい

 共観福音書には同じ話題がいくつもある。年間第30主日の福音マルコ10;46-52が伝える、盲人バルティマイの治癒もその一つだ。ところが、3福音書を読み比べて見ると、細部にはいくつかの違いがある。まずストーリーを見てみよう。そのあと、相違点を指摘しながら解釈を試み、できれば何らかのメッセージを引き出せたらいいと思う。

 イエス様がエリコの町から出ようとされたとき、ティマイの子でバルティマイという盲人の物乞いが道端に座っていた。通るのがナザレのイエスだと聞くと、彼は「ダビデの子、イエスよ、わたしを憐れんでください」叫び始めた。人々が黙らせようと叱ってもが、彼は同じことをますます大声で叫び続けた。するとイエス様は立ち止まり、「あの男を呼んできなさい」と言われた。人々が盲人に、「主がお呼びだ」と伝えると、彼は上着を脱ぎ捨て、踊りあがってイエス様のところに来た。主が「何をしてほしいのか」と言われると、「先生、目が見えるようになりたいのです」と答えた。そこで、主は「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」と言われた。すると盲人はすぐ見えるようになり、イエス様に従って行った。
 これがストーリーだが、相違点は冒頭から現れる。マルコとマタイではエリコを出る時なのに、ルカはでそこに近づいた時になっている。また、マルコとルカでは盲人は一人なのに、マタイでは二人だ。そして、マタイとルカでは名前はないが、マルコだけは盲人の名を明記している。盲人バルティマイのバルとはアラマイ語で息子の意味だ。だから、ティマイの子の「息子ティマイ」という変な言い方になるが、「息子ティマイ」とは、さしずめ「ティマイ・ジュニアー」とでも理解しておけばよいだろう。
 
 通行人に物乞いをしていた盲人バルティマイは、ただならぬ人々の足音を聞いた。ルカだけには、「これは、いったい何事ですか」、「ナザレのイエスのお通りだ」という彼と群集の会話がある。そうでないと彼が主のお通りを知ることはできなかったはずだからだ。さすが筋道の通る書き方をしたルカだけある。バルティマイはイエス様だと知るや、主まで聞こえる大声で、「ダビデの子、イエスよ、わたしを憐れんでください」と叫び出した。
 しかし、「ナザレのイエスだ」と教えてもらったのに、どうして彼は「ダビデの子、イエスよ」と呼べたのだろうか?おそらく彼はもう人づてに、主が多くの病人を癒やしたり、奇跡をなさったりした話を聞いていて、それが来るべき救い主メシアだということ、メシアはダビデの子孫でなければならないことを知っていたからではなかろうか。主の名声はもうそれほど知れわたっていた。
 原典を読むと、ここには昔のグレゴリアン聖歌のミサを知る人には懐かしい一語が出てくる。キリエ エレイソン(主よ、憐れみたまえ)のエレイソンだ。盲人は「エレイソン メ」(わたしを憐れみたまえ)と叫んだのだ。ところが、群集は彼を黙らせようとした。文脈を見ればわかるが、その時イエス様はエルサレム入城の少し前だった。ふくれあがっていた群集には、勝利に向かうメシアに従うという高揚感があったに違いない。だから、盲目の物乞いなどは目障りで、おそらく引っ込んでいてもらいたかったのだろう。

 ところがイエス様は立ち止まって、彼を呼ぶようにと言われた。人々が彼に「安心しなさい。立ちなさい。主がお呼びだ」と言うと、彼は「躍り上がってイエスのところに来た」とある。でも盲人なのに、どうして躍り上がって行けたのだろうか?ルカは、「イエスは立ち止まって、盲人をそばに連れてくるように命じられた」と書いている。これだと筋が通る。なぜなら盲人だから、誰かが手を引いてやるか何かしてやらなかったら、自力では主のところまで行けなかっただろうと想像できるからだ。躍り上がって近づいたとマルコが書いたのは、むしろ盲人の喜びようを現しただけだと言えよう。
 では、誰が彼を主のところまで連れて行ってやったのだろうか?どの福音書もそれには言及しない。しかし、これは皆が傍観者だったのではなく、誰か盲人の手引きをした人がいたことを示唆している。小さな親切の実践だ。ここに小さなメッセージがある。現代でも何らかの理由で、主のところに近づきたいが近づけない人がいる。そういう人に出会ったら、その人を主のところまで手引きしてやること。それが信徒の使徒職ではなかろうか。

 盲人がそばに来たとき、イエス様は何をしてほしいのかとお尋ねになった。彼は目が見えるようになりたいと答えた。マルコとルカの福音書によれば、そこで主は言われた。「行きなさい。あなたの信仰があなたと救った」と。マタイはそれと違って、「イエスが深く憐れんで、その目に触れられると、…」と伝えている。そのどちらが事実だったのかはさておき、盲人はすぐ見えるようになったという結果では共通している。
 では、なぜイエス様は彼の目をすぐ見えるようになさったのだろうか?理由は3つ考えられる。まず、マタイが書いたように主が深く憐れまれたからだ。マタイでは例のエスプランクニソマイが複数形で使われている。それはパンの奇跡やナインの寡婦の一人息子の蘇生など、しばしば主が奇跡をなさった時の動機だった。次にその盲人がイエス様なら癒すことが出きると、止められても叫び続けるほど強く信じていたからだ。「あなたの信仰があなたと救った」という表現は、出血の女(マルコ5;34)や主の足に接吻した罪深い女(ルカ7;50)などでも使われている。
 そして、3つ目の理由はこの治癒がメシア到来の証明にもなったからだと思う。それはこの時、主が救い主メシアとして、エルサレム入城の少し前だったということを思い出せば合点がいく。それはこの主日の第一朗読エレミヤの預言書31;7-9にもあるように、救いが実現する日、地の果てから呼び集められる神の民の中には「目の見えない人も、歩けない人も」いるが、「そのとき、見えない人の眼が開き、聞こえない人の耳が開く」(イザヤ35;5,ルカ7;22)からだ。盲人の目が開くことはメシア到来の一つの証しだったのだ。

 この福音の箇所を読むと、道端の盲人などには目もくれず、それが声を上げればうるさいと叱る一般民衆と、助けを求める声に立ち止まって治癒なさったイエス様の差が鮮明に出ていて、あらためてイエス様の憐れみ深さを再確認できる。しかし、この奇跡で、私たちにとってそれ以上に有益なメッセージは、私たち自身を盲人の立場に重ねることではなかろうか。
 私たちは多くが肉眼では健常でも、心の目ではそうではなく、自分では見えていると思っていても、本当は見えていない盲人かも知れない。いや、たぶんそれが真実だろう。少なくとも心の目はしばしば曇っている。もしそうだと自覚するならば、盲人だったバルティマイのように、「主よ、憐れんでください。キリエ、エレイソン メ、目が見えるようにしてください!」と願うことだ。
 自戒すべきは、逆に自分たちが何でもよく見えていると思いあがることだろう。イエス様はある盲人の治癒の後、ファリサイ派の人々が「我々も見えないと言うことか」と詰め寄ったとき、「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る」(ヨハネ9;41)と言われた。それが彼らの悲劇だった。だから、せめて「心の盲人なのに、私たちが自分たちをそうでないと思い違いしているなら、主よ、それが見えるようにしてください」と祈らなければなるまい。

上に立つ者の心がけ

 「ゼベダイの子ヤコブとヨハネが進み出て、イエスに言った。『先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが。』イエスが、『何をしてほしいのか』と言われると、二人は言った。『栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。』
 これは年間第29主日の福音、マルコ10;35-45の初めの3節だ。この箇所の前半はこの2人の願いとイエス様の答え、そして他の使徒たちの憤慨した反応を伝えている。そこには使徒たちの人間的な姿がさらけ出されていて、実におもしろい。聖霊を受ける前は、彼らもこんなにダメだったんだということがよくわかる。後半では、上に立つ者の心がけが語られる。それを実践できた人は今日まで稀にしかいない。そのレベルの高さと弟子たちの志の低さとの落差は対照的だ。

 ヤコブとヨハネ兄弟は元漁師で、網の手入れをしていたときにイエス様に呼ばれ、父も舟も網もその場に残して弟子になった。主はペトロとこの2人を最側近の3弟子となさり、いくつかの場面では彼らだけに同伴を許可なさった。ヤイロの娘の蘇生(マルコ6;37)、ご変容(同9;2)、ゲッセマネの園の祈り(同14;33)などの場面がその例だ。
 そういういきさつから、2人には自分たちが重んじられているという意識があったに違いない。それに主は福音のために家、親兄弟、財産などを捨てたものは百倍の報いを受ける(マルコ10;29-31)と約束されたばかりだった。それならば、神の王国が実現するとき、自分たちは重要なポストに就けてもらえるはずだ。ところが、王の左右にある大臣の座は2つだから、ペトロと3人で争えば1人が外れるはめになる。兄弟2人がそれを得るためには、どうしてもライバルのペトロを外す必要があった。ここは先手を打つに限る。
 そこで、ふだんは短気で怒りっぽい彼らだったのに、この時はつつましげに願い出た。『先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが・・・』と。おそらく2人で相談し、主の心証を害してまた叱られないよう、作戦を練った上での言い回しだったのだろう。マタイ20;20によれば、これには2人の母親も噛んでいたようだ。しかし、言葉は控えめでも、魂胆は実に厚かましい陳情だった。それは猟官運動で、将来の役職の予約依頼だったのだ。 
 それにしても、彼らはいつ「栄光をお受けになるとき」という言葉を覚えたのだろうか?調べてみると、主は受難と復活を初めて予告されたとき、「人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るとき」(マルコ8;38)とお話になっている。しかし、2回目(同9;31)と3回目(10;33-34)の予告では触れておられない。それなのに栄光の一語は2人の記憶に強く刷り込まれたらしい。その反面、3回も予告されたご受難のことはほとんど念頭になかったようだ。都合のいいことしか覚えていなかったのだろう。

 それにしても、この願いが3回目の受難予告の直後だったことを思うと、それは厚かましかっただけではなく、無神経だった。主の心中も考えないその陳情を、イエス様はおそらく情けないと感じられたのではなかろうか。だからこそ、「あなたがたは、自分が何を願っているか、わかっていない。このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼(バプテスマ)を受けることができるか」と言われたのだ。そこには若干悲しみの響きがある。
 しかし、2人は主の杯を飲み、主の洗礼を受けるとは何のことか、実際にはその意味もその重大性も、まだわかっていなかった。それなのに、即座に「できます」と答えた。将来を約束してもらいたい一心だったからだろう。そこでイエス様は「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることになる」と言われた。主は最後の夜、ゲッセマネの園で血の汗を流して苦しみ、「父よ、この杯をわたしから取りのけてください」(マルコ14;36)と祈られた。主が飲む杯とは捕らえられて不正な裁きを受けること、主が受ける洗礼とは救いのために命をささげることだった。
 2人はまだそれを知らなかった。彼らがそのとき思い描いたのは、主がローマなどの支配者を追い払った後、勝利の救世主としてイスラエルに神の王国を再建し、栄光の王座につくこと、そして自分たち兄弟が最高位の重臣として用いられる時の美酒だったかも知れない。しかし、イエス様の言う神の国はこの世のものではなく(ヨハネ18;36)、勝利とはサタンに対する勝利、悪と罪からの解放は十字架の死と復活によって成し遂げられ、世の終わりに最終決着がつく神秘だった。
 だがその時点では、それらは彼らの想像をはるかに超えていた。やがて主のご受難とご復活を目撃し、聖霊を受けるとき、彼らもやっと、主の杯を飲み、主の洗礼を受けるとは何を意味するか、自分たちはなぜ弟子に選ばれたのかを悟るに至る。主はそれをご存知だった。だから、「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることになる」と言われたのだ。
 事実、その予言どおり、兄ヤコブは紀元44年にヘロデ・アグリッパ王によって捕らえられ、エルサレムで斬首されて殉教した。弟ヨハネは聖パウロの死後、エフェソの司教を務めたが、ローマ皇帝ドミチアヌスの時に捕らえられてローマに連行され、煮えたぎる油の鍋に投げ込まれた。しかし、死ななかったので、パトモス島に放逐された。後に釈放されたが、高齢で帰天するまで異端グノーシス派との戦いに辛苦を味わった。共に主に倣って、苦難の道を歩んだのだ。

 しかし、それは後のことで、その時点の彼らには噛んで含めるように、事の理非を話してやる必要があった。そこで主は言われた。「わたしの右や左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは定められた人々に許されるのだ」と。あなたたち2人の願いはわかったが、それは見当外れだ。それに、そういうことを決めるのは私ではない。天の父がなさることだ。だから、私にそういうことを頼んでも無駄だ。願いはかなえてはやれないと言う意味だ。2人は納得したと思う。
 ところが、その場にいた10人の使徒はおさまらなかった。福音書は彼らが2人に対して「腹を立て始めた」と書いている。おそらく2人を取り囲み、「あんな願いをするなんて、みんなを出し抜く気だったんだな。ずるい兄弟だ。そもそも我々のトップはシモンじゃないのか?なのに、お前たち2人を主の左右に座らせてくださいだと?いったいお前たち兄弟はどんな資格があって、俺たちの上に立とうと言うのか。ふざけるな!」などと、なじったのではなかろうか。

 イエス様は弟子たちの争いをご覧になった。そこで彼らを呼び寄せ、こうお諭しになった。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分をささげるために来たのである。」
 この説諭は憤慨した10人の使徒に対してだけではなく、願いをした2人のためでもあった。むしろ、この戒めで2人の願いがいかに見当違いであるかをわからせ、その逆を願うべきであることを示唆なさったのだ。つまり、主の右と左に座して仕えられる立場になるよりも、むしろ人々に仕える僕となることを願うことを勧められた。もちろん、2人への答えは10人にも当てはまった。なぜなら、彼らが怒ったのも、裏返せば彼らとて同じ願望を持っていたからで、それなのに先を越されたから憤慨したのだと言えなくもないからだ。
 ところで、当時はイスラエル社会でも、王や司祭長などの権力者は威張っていた。それなのに、イエス様はなぜ人たちの上に権力を振るう支配者として、異邦人だけを例に挙げられたのだろうか?思うに、主はイスラエル社会でも権力者が威張り、下の者が仕えている現実はよくご存知だったはずだ。しかし、当時の異邦人の代名詞だったローマ帝国には、典型的な支配者と被支配者のイメージがあったからではなかろうか。
 事実、当時のユダヤでは、世俗的権力は王にあり、宗教的権力は司祭階級にあった。両者ともそれなりの配下はいたが、彼らの上には占領者ローマの総督がいて、権限は多くが制限されていた。それに対し、強大なローマ帝国にはトップに皇帝がおり、支配地には総督、その下には軍隊と市民、最下位には奴隷がいた。上下、主従の隷属関係は極めてはっきりしていて、下は上に仕えるものと決っていた。だから、非常にわかりやすい反面教師として、例になさったのだと思う。
 そこで、イエス様は弟子たちに、「しかし、あなたがたの間では、そうではない」と言われた。これは原典のままだから誤訳ではないが、逆にも取られかねない訳ではある。「あなたがたは異邦人とは違うから、それでよい」と、弟子たちの現状を肯定した意味ではない。主が言われようとしたのはその反対で、弟子たちが権力欲に取り付かれないよう、異邦人のようではだめだとたしなめられたのだ。従って、「しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない」と訳すべきところだ。

 これは使徒のみならず、上に立つ者全てに言われたと理解すべきだろう。ではどうあるべきか?「偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕に」ならなければならない。主はそう諭されたのだ。それは既存社会における上下関係の常識を覆す教えだった。それを理解するには長い説明は要らない。難しいのはその実践だ。
 だから、やがてその時が来たとき、弟子たちが実践しやすいように、主はその模範を示し、「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分をささげるために来たのである」と言われたのだ。主は疲れても無償で病人を癒し、罪人や社会で蔑まれる人たちを勇気付け、貧しい人々を助けられた。それはまさにすべて人々に仕えた実践だった。
 そして、最後の晩餐の夜は弟子たちの足を洗われた。その時は、「主であり、師であるわたしがあなたたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである」(ヨハネ13;14-15)と言われた。だから、聖パウロは「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえってご自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました」(フィリッピ2;6-7)と書いた。
 
 しかし、その実践は難しい。実際2000年この方、福音の共同体である教会でも、「上に立つものは仕える」という理想が十分に実現したことはなかった。イエズス会神父であり、精神分析学者だったマルク・オレゾンは著書“Apprenti Sorcier”(訳:現代文明はどこへ行くか:玉川大学出版部)にこう書いている。「イエスの出現によって開始された歴史の内部にすら、帝国主義化のプロセスはすぐ忍び入ったのであった。たとえば、人々は、最初に使徒ペトロがしていたあのキリスト者たちのまとめ役という役の継承者を、西洋の異教的皇帝に当たる法王-最高の支配者(Souvrain Pontif; Pontifex Maximus)と呼ぶ」(199-200頁)と。つまり、教会は異邦人の支配者を模倣しだしたと言う意味だ。
 例えば、教皇や高位聖職者の服装は、地位役職の識別には必要だとわかってはいる。だが、質素だった主イエス様としもべたちの華麗さを見比べると、その余りの違いに、私は何か変だという思いを禁じ得ない。もちろん、聖地を訪ね、大地に接吻したパウロ6世の教皇姿には感動した。また、シエラレオネのビグッシ司教様は内戦中、司教服でシスターたちや信徒たちを懸命に助けた。まさに仕える人の姿だった。そういう方がいることは知っている。使徒の精神は生きている。見かけで判断してはいけないこともわかっている。しかし、服装が自分を特別な存在と思い込ませ、特別な者は奉られ仕えられて当り前、と考えるに至らせやすいことも事実だ。そこに上に立つ者の陥りやすい罠がある。

 「上に立つものは仕える者、すべての人の僕に」という理想は、せめて教会の中だけでも実現できればよいという考えがある。しかし、それは内向きの論理だ。イエス様が福音を万民に伝えよと言われたのなら、この理想も万民に及ぼすべきものだと言わねばなるまい。キリスト教社会では、それを「公僕」という考え方で表現している。政治や行政、医療や介護でも、上に立てば立つほど人々に仕えるという奉仕の精神と実践だ。こう言えば、必ず「それは理想だよ。現実は違う」と言う異論が出るだろう。しかし、現実が進歩を実現したことはない。進歩は理想によってこそ現実になる。それが真実なのだ。

なつめの実顛末記

なつめの実顛末記
《なつめの実は、さくさくとりんごの味。
食べるなら、熟れる前のやや固い方がよく、
眺めるなら、やや熟れて色づいた方がいい。》


 パン屋に行った妻がなつめの枝を数本持って戻って来た。10月4日(日)だった。奈良上地区の農家が枝を落としていて、ほしいと言えばくれるとパン屋の近くで聞き、もらいに行ったのだ。帰宅後、いつもよくやることだが、彼女は「加茂春丸のお仲間たち」に、「この実が何かわかりますか?」と、なつめの写真添付でクイズ風のメールを送ったそうだ。加茂春丸とは、今から四十数年前、彼らが米国やカナダに留学したとき、一緒に乗った船の名だ。そして、その時偶然乗り合わせた数人が、今でも羨ましいくらい仲良く連絡し合っている、「加茂春丸のお仲間たち」なのだ。 
 彼らの回答を待つ間に、妻は教会や手を貸す運動の仲間にもクイズを広げて、「この実、何の実? 気になる実」と、メールを送りまくったようだ。やがて、わからないという返事や「わかりました!」という正解などが次々と到着するわけだが、傍らからその交流に参加させてもらった私は、こんな小さななつめの実をめぐって、とても多様な情報が行き交うのに立ち会うことになり、実に興味深いと感じた。
 それは日本史の百余年も前の話題に遡り、広がりは中国にまで及んだし、何よりもメールによる交流がなつめの実相互のつながりに似ていると思えたからだ。つまり、別々に垂れた細い枝のなつめの実は離れ離れだが、一段太い枝を介しては結局みんなつながっている。それに似て、加茂春丸のお仲間たちや教会や手を貸す運動の仲間たちも、お互い同士は知らないのに、わが家のパソコンを介しては皆がネットでつながった。そこが似ていたのだ。
 交流の結果には思ってもいなかった面白さがあった。そこで、私は皆さんからのメールを使わせてもらいながら、なつめの実の顛末記を書いてみる気になった。しかし、プライバシーの問題もあるから、まずお名前はローマ字のイニシアルにする。次に、メールの転載は本来ならご本人の承諾が必要なのだとは思うが、そうしなくても多分許していただけるだろうと横着に解釈し、差し障りがないと判断できる範囲でだけ利用させていただくことにした。みなさんご了承を。そして、もし不愉快な思いをさせるようなことがあったら、ご寛恕を。

 まずわが家だが、妻が持ち帰ったとき、私は一目ですぐそれがなつめだとわかった。子どものころ、私が生まれた家の近所に、なつめの木が一本ある屋敷があった。その木は小川越しに枝を垂れていたので、お腹をすかした私たち子供たちは、通りすがりに垂れた枝先の実をちょっと失敬しては食べたものだった。だからよく知っていたのだ。
 でも、妻が持ち帰ったなつめの実はほとんど赤褐色に熟れていた。食べ頃はオリーブの実ほどの大きさになり、黄緑色かやや茶色の斑が入るぐらいの時だ。歯ざわりはサクサクして、味はりんごに近いが、酸味は薄い。しかし、赤褐色になると柔らかくなり、味も食感もよくなくなる。比較的固いのを選んで噛んでみたが、案の定もうそれほど美味しくはなかった。農家のおじさんが、「こんなものを食うの?」と聞いたそうだが、おそらくもう食べ頃を過ぎてしまっていたからだと思う。
 食べるには向いてないとわかったので、妻はもいだ実の大部分をリキュールにつけて果樹酒にし、その他は煎じ薬にすると言って天日乾燥を始めた。私の方は久々に見たなつめの実が懐かしくて、急に描いてみようかなという気になった。そう言えば、この3年間ほど、私はほとんど絵筆を握らなかった。心が晴れない理由があって、絵を描く気が失せていたのだ。でも、ふと描きたくなったのは、懐かしさが心の癒しになったからかも知れない。そこで、一枝をもらって花瓶に挿した。
 10月6日、どうしても優先的に済ますべき仕事が終わると、葉が萎れるのを恐れて、急いで絵にとりかかった。水彩だが、長らく使ってなかったので、絵の具の蓋はいくつかが回らなくなっていた。腕前も落ちていた。それは本人にはよくわかった。でも楽しみながら、何とか数時間で仕上げた。それがご覧の絵。さっそくスキャンして絵はがきも作り、絵の下にキャプションをつけた。

 ところで、絵を描いている時、私はよくあれこれのことを考えたり思い出したりする。この時は子どもの頃に歌った軍歌っぽい、「水師営の会見」の歌を思い出してしまった-というより、ひとりでにそれが脳裏に浮かんでしまったのだ。その2番に、「庭に一本なつめの木、・・・」という歌詞があったから、連想が起こったのだろう。口ずさんでみたら、何と1~6番がすらすらと出てきた。かつて1年余海軍少年兵だったから、戦争にまつわる歌など今では考えたくも歌いたくもないのに、子供の頃の古い記憶とは恐ろしいもので、思いがけなくも、かつ意に反して甦るものなのだと、少なからず驚かされてしまった。
  
 そんな感想と出来上がった絵を妻にメールで送って、加茂春丸のお仲間たちに「水師営の会見」の歌の1,2番を、ヒントとして教えて上げたらどうかとアドバイスしてみた。彼らの多くがその実を何だか当てあぐねていると聞いたからだが、そのヒントがあれば、少なくとも70歳以上の人なら正解が出せるのではないか思えたからだ。妻はさっそくそれを実行した。
 他方、私の方はM教会のT.S.さんが妻に宛てたメールを読ませてもらって、彼女のお誕生日が翌日であることを知った。そこで10月7日、花束ではないが、描き立てのなつめの絵をプレゼント代わりに添付して、次のような誕生日おめでとうの言葉を送った。

 《Sさん、お誕生日おめでとうございます。昨日、家内があなたのメールを転送してくれたので、お誕生日を知ることができました。お元気で、M教会にもなじんできておいでと聞き、喜んでいます。たくさんの知り合いや友達を作って、そのうちSさんの持ち味を発揮してください。
 一昨日3年ぶりで、元のスタイルのスケッチをしました。たいした絵ではありませんが、お誕生日にお花代わりに添付で送ります。(なつめの)味はさくさくとりんごのよう。食べるなら熟れる前の固い時がよく、眺めるならやや熟れた後の方がいい実です。子どもの頃、小学校で習った「水師営の会見」という歌の2番に、「庭に一本棗の木、弾丸跡もいちじるく、崩れ残れる民屋に、今ぞ会い見る二将軍」という歌詞がありました。それをすらすらと1,2番歌ったら、家内が「子ども時代の記憶って恐ろしいわね」と気味悪がっていました。これは70歳以上の日本人でなければ知らない歌詞でしょう。80歳になった私だからこそ、描きながら口ずさんでしまったのですね。でも、まだボケきっていないことを感謝しなければなりません。また、いつかみんなでお会いしたいものです。どうか、元気で、幸せにお暮らしください。 余生風佐藤》

 すると翌、10月8日、返事が届いてびっくりした。次のようなことが書いてあったからだ。

《余生風佐藤先生、 
 爽快にしなだれる、かわいい実をつけた棗の木、何よりの誕生日の花束を頂戴いたしました。有り難うございます。心からお礼を申し上げます。先生が描かれた美しい絵、大切にいたします。
 実は今年6月、主人と大連・旅順を旅し、203高地とともに水師営の「崩れ残りし民屋」の庭の片隅にたたずむ「棗の木」を見て参りました。昭和13年生まれの主人は、明治33年生まれの母が台所仕事をしながら何時も歌っていたという尋常小学校唱歌を思い出したかのように口ずさみます。特に「水師営の会見」(旅順開城約なりて 敵の将軍ステッセル 乃木大将と会見の所は何処水師営)(庭に一本棗の木・・・)や「青葉の笛」、「桜井の別れ」など、小さい主人は聞き覚えで知らず知らずの内に暗記したそうです。私もいつしかそれらの歌に親しみを覚えて、義母をしのぶ縁になっています。先生からいただいた棗の木のメール、主人も喜びました。
 また皆で元気に会えますように・・・先生のご健康を祈ります。 T. S.》

 偶然にしてはでき過ぎていたので、こんなこともあるんだね!と妻と顔を見合わせて驚き合ったのだった。

 翌10月9日、今度は手を貸す運動のY. K..さんから、ユーモラスな「大当たり」メールが妻に届いた。これは半世紀余り前の南多摩地方の田舎ぶりを彷彿とさせ、これまた実に興味深かった。

《C子様
 送っていただいた写真の実、いなか育ちの私は知ってますよ。『ナツメ』です。ちょうど食べごろ! おいしそ~! 初めて食べるのはラッキーでした。あと少しすると木になったまましなびたり、落果してきますから、良い時に通りかかりましたね。 
 じつは、実家に大きな木があり、秋になり実が色づいてくると近所の子ども達が群がってやってきては木に登り、むさぼり食べて散っていくのです。みんなが帰ったあとには種や木の葉が、あたり一面にいっぱい散らばっていて・・・ その様子をみながら何も言わない父母。私はいつも、“わたしとこの木なのに・・・”と、実を盗られたうえに庭を汚されて腹が立ち、くやしくてたまりませんでした。 いくら採っても盗られても食べきれないほどなっているんだから・・・と思えるようになったのは、大分おおきくなってからのこと。なぜかこの実を見ると、小さい頃の切ない気持ちがよみがえるのです。
 佐藤先生も、おやつに食べたとおっしゃるように、子ども達はおやつがわりに食べに来たのでしょう。禅寺丸柿の産地にあって、リンゴのようなナツメの味は、子ども達には魅力的だったのでしょうね。もう60年も前の話です。今では実家の庭のナツメを食べに来る人もなく、その味も知られずですが、今でも毎年実をつけているようです。先日食べごろに出会い、ジャンプして老木から2枝(2葉というべきか?)ばかりとって食べたばかりです。昔はもっともっとおいしかったと感じたのは、物がなかった時代だったからでしょうか・・・ 送っていただいた写真、すっごく新鮮! 余生風氏の絵のモデルになれそうな・・・ ありがとうございました。 昔のことを思い出したY. K. 》

 そうこうするうちに、好奇心を持った妻がインターネットで「水師営の会見」の歌を見つけ、「ビックリ、全部で9番までもある小学唱歌だったのね」と教えてくれた。作詞は佐々木信綱、作曲は岡野貞一で、昭和7年新訂の尋常小学唱歌第五学年用だったのだ。

1 旅順開城約成(やくな)りて、 敵の将軍ステッセル
  乃木大将と会見の 所はいづこ、水師営(すゐしえい)。
2 庭に一本(ひともと)なつめの木、 弾丸あともいちじるく、
  くづれ残れる民屋(みんおく)に、 いまぞ相見る二将軍。
3 乃木大将はおごそかに、 御めぐみ深き大君(おほぎみ)の
  大みことのりつたふれば、 彼かしこみて謝しまつる。
4 昨日の敵は今日の友、 語る言葉もうちとけて、 
  我はたたへつ彼(か)の防備、 彼(かれ)はたたへつ我が武勇。
5 かたち正していひ(言い)出でぬ、 『此の方面の戦闘に
  二子(にし)を失ひ給ひつる  閣下の心如何にぞ。』 と。
6 『二人の我が子それぞれに、 死所を得たるを喜べり。
  これぞ武門の面目』 と、 大将答へ力あり。
7 両将昼食(ひるげ)共にして、 なほも尽きせぬ物語。
  『我に愛する良馬あり。  今日の記念に献ずべし。』 
8 『厚意謝するに余りあり。  軍のおきてにしたがひて、
  他日我が手に受領せば、  長くいたはり養はん。』
9 『さらば。』 と、握手ねんごろに、 別れて行くや右左。
  砲音(つつおと)絶えし砲台に  ひらめき立てり、日の御旗(みはた)。

 ちなみにインターネットの水師営を検索すると、ユーチューブで、旅順攻防の映画(モノクロ)を見ることができる。その画面には戦闘や会見の場面に沿ってこの歌が流されている。

 同じ10月9日、F教会のY.O.さんからも、次のような「大当たり」メールが着信した。

《正解の秘密。それが偶然なのですよ。主人が先月23日からおとといまで中国に行っていました。昨日キッチンで何か洗っているのでどうしたのと聞いたら、中国で知り合いが木の枝からとってくれたと、木の実を見せてくれたのです。ちょっと気味悪い模様の果物だと思いましたが、一つ食べました。自然の甘みの、かりっと食べられる木の実。名前だけ知っていた棗でした。というわけなのです。初めて木の実を見た日に、見たすぐ後にメールが来たという偶然にびっくりです。Y.O.》
        
 まさに偶然の連続だと思ったが、横浜市青葉区奈良上地区の農家にあったなつめの枝が、中国とつながるなんておもしろいものだと、グーグルマップで調べてみたら、水師営街は遼東半島の突端、大連市の旅順港から市街を北へ5キロぐらいの所にあるらしい。そして、旅順の203高地は1904-1905年の日露戦争では最大の激戦地だった。

 同じ日、手を貸す運動のY.K..さんから再びメールが来た。聞きたださなかったが、妻が絵を送り、「自分たちの世代がなつめで連想する歌は、『あの子はだーれ』だが、それを知ってる?」みたいなことを書いたかららしい。

《C子様へ、
 思ったとおりでした。ナツメちゃんたち、やっぱり画伯のモデルになっていたのですね。素晴らしい絵にしてもらって・・・ぜひ絵葉書にしてください。どんなコメントが添えられるかも楽しみです。思わずもいで食べたくなるような艶やかなズームの写真と、3年ぶりに絵筆を持たれたという余生風氏のナツメの絵。良い目の保養をさせていただきました。
 そしてまた、ナツメが昔を思い出させる木の実だったとは・・・乃木将軍の歌までさかのぼったとは、すごいことですね。どんなメロディ・どんなリズムの歌か見当もつきませんが、頭の中の引き出しが開き、突如流れ出てきたように唱歌を歌っている先生の姿が浮かんできました。私も “なんなんナツメの花のした~” の時代です。レコードを聴きながらよく歌ったものです。でも今までその歌さえ忘れていました。
 「棗」の字も、覚えました。 こんな字があったとは・・・ ちょっとかしこくなったY.K. 》

 10月10日はF教会のY.K..さんから「降参メール」が届いた。でも素直さ、好感度では正解に優るとも劣らない、こんな内容だった。

《C子様へ
この実、何の実、気(木)になる実? ♪~! ナツメでしたか!難しかったです。解るはずないですね。絵、ものすごーく素敵です。お茶の時のお道具と一緒だとは、又驚きですね。そういえば先生の絵は、その形をしていますね。是非絵葉書にして下さいとお伝え下さい。 「あの子はだあれ」一番の歌詞だけ覚えています。作詞、作曲まで覚えていらっしゃるなんて又尊敬します。 K..Y. 》

 同じ日、加茂春丸のお仲間の一人で、牧師さんのA.N.さんが、シカゴからメールを送ってきた。

《C子様、
 「正解」をお知らせいただき、ほっといたしました。実は戦争中北京にいたときに、なつめの実といってもらって食べたことがありますが、5センチぐらいの赤いキウイの実のような形でした。もちろん野生でしたが、どんぐりよりはずっと大きかったので、まさか同じなつめとは思いませんでした。あるいは、くれた人が間違ったものをくれて、「なつめ」といったのかもしれませんね。いつもこのようにプラントを通して楽しませて(なやませて?)くださいますことを、感謝しております。
 「水師営の会見」の歌は加茂春丸の最年長者ですので、今でも歌えます。このごろではこのような軍国に関係のある歌は歌われていないことでしょう。懐かしく、子供時代を偲ぶよすがとなりました。「あの子はだあれ」は知りません。かわいい歌ですね。之は若い方がたにおまかせしましょう。
 佐藤先生がC子さんの持ってこられた、一枝のなつめをすぐに絵にされたのを、私たちが一番初めに見る光栄を与えられ、之も感謝です。ありがとうございました。 A.N. 》

 これを読ませてもらって、「そうだなぁ、私も『あの子はだあれ』は知らない。ここには何か世代差以上のギャップがあるな」と思った。子どもが育つ時代環境の差を地層の違いに喩えれば、「水師営の会見」と「あの子はだあれ」を口ずさめる世代の間には、年齢差以上に戦前と戦後という、教育・成育環境の地層的な差異がくっきりと存在するということだと思う。なつめ関連の歌もその一つの証言だったのだ。

 翌10月11日、妻からF.T.先生のメールを紹介されて、「えーっ!そんな関係者が身近にいたの?!」と、またまたびっくりさせられた。こう書いてあったからだ。

《 さて「日露戦争のとき、乃木大将とステッセル将軍が会見した水師営にあったナツメの木」は日本人の一部にはとても有名な存在でした。私の親父は、そのナツメの木の種を日本に持ち帰り自宅の庭に植えていました。ナツメは、佐藤さんの絵のような実を毎年たくさんつけます。そのままにしておくと、庭はナツメの木の若芽で大変なことになります。ナツメはトゲがあり目でもさしたら大変危険なのです。
 ところで数年(六年ぐらい)前に私の姪が大蓮を旅行したついでに、水師営を訪ねたら「ナツメの木」は倒されて存在しなかったそうです。中国人にすると何の役にもたたない単なるトゲのある木で邪魔であったのでしょう。我が家も昨年きれいに処分しましたので、水師営由来のナツメの木もなくなりました。 F.T. 》

 確かに棗にはかなり長い棘がある。危ない。私もスケッチのため枝の形を整えた時、うっかり棘に触れ、思わず「痛!」と叫んだ体験者だ。でも、実のつく細い枝にはなく、黒褐色のやや太い枝にだけある。そう言えば、詩人リルケはバラの棘が指に刺さったのが原因で死んだ。棗に限らず、おいしいとか美しいものにはご用心あれ! そういうものにはえてして棘がある。

 10月11日にはM.T.さんから、降参メールにも等しい正解発表感謝メールが届いた。

《 C子さま、
 正解発表有り難うございました。ナツメの実とは思いませんでした。先生の絵、素晴らしいできばえです。きれいに描かれていて、見入ってしまいました。どこにでも出せますね。
 あの子はだーれの歌、懐かしく歌いました。一番の歌詞はみなくてもすらすら出てきて、一人で歌いました。二番以下は記憶にありませんでしたけれど、こんな歌詞だったんですね。
 主人は台湾でなつめと言われて食べたことがあるそうです。それはリンゴの小さい形をしたような実で、まだ青かったと言っております。熟す前にとってしまうのではないでしょうか。なつめと言われて、なつめやしを想像し、一生懸命ネットで調べてみたらなつめと全然違う実だということもわかったそうで、色々知識を与えていただき有り難うございましたとお伝え下さいと言っております。
 C子さんはこの実を召し上がったんでしたっけ。どんお味がするのでしょう。先生の絵を拝見し、美味しそうでちょっと食べて見たくなりました。 M.T. 》

 M.T.さんのように、まだこの実を食べたことのない人には、いつか賞味するチャンスを提供したい。幸い、手を貸す運動のY.K.さんのご実家にはまだ棗の大木があるらしいから、来年は-まだ生きていたらだが-、食べ頃になったらもらえるよう頼んでみる。Y.K..さん、その時はよろしくね。

 さて、以上がなつめの実顛末記だが、こうして皆さんの情報や知識やフィーリングが集まったら、全体では実に興味深いなつめプチ・シンフォニーみたいになった感じだ。知らない人たちがつながった点では棗の実たちと似ているが、その結果は大違いだった。なぜなら、なつめの実たちはいくつあっても似たりよったりだが、なつめをきっかけにつながった方たちは同じ人など一人もなく、オーケストラの各楽器以上にそれぞれが実に多様で、生い立ちも、個性も、考えも、経験も、夢も、今の生き方も、すべてが違うからだ。でもそれが一つにつながった。ブラボー!と拍手したい。

 ただ、疑問が一つ残った。F.T.先生の姪御さんが数年前に水師営を訪ねたら、件のナツメの木は倒されてなかったそうだ。ところが、T.S.さんは今年の6月、ご主人と一緒にそれを見て来たばかりだと言っておられる。そうなると、その棗の木は切り倒されてもうないのか、それとも今もまだあるのかということになる。そこで私はこんな可能性を考えてみた。
 ①F.T.先生の姪御さんが6年前に切り倒されたと聞かされたのは、件の棗の木ではなかった。②その棗の木は切り倒されたことは切り倒されたが、有名な戦跡なので日本の観光客のことを考え、その後別の棗の木が植えられた。T.S.さんが見たのはそれだ。③件の棗の木は105年前にもう古木だったようだから、とうに枯死していた。従って、数年(6年)前に切られたと聞いた木も、今年見ることができた木も、いずれにせよ2将軍会見の時の棗の木ではなかった。つまり、切られたり植え直されたりした。でも、これは頭で考えただけだから、実証による解決にはならない。
 そこで妻とインターネットで調べてみた。水師営で検索するといろいろの説明や旅行記がある。とくに日露戦争100周年記念の2005年に撮影された日本訪中代表団の写真は参考になる。いくつかの説明によれば、現在ある水師営の会見の民家は1996年に復元されたもので、訪中団がその時撮影した棗の木は3代目だと言われている。それももう枯れていた。これらを総合すると、どうやら私の仮説③が当たっていたようだ。従って、水師営のなつめの木は切られたと言う証言も間違いではないし、今もそこにあると言うのも正しい。これを結論としていいと思う。

 「水師営の会見」の歌で、最も人口に膾炙するようになった言葉は、「昨日の敵は今日の友」ではなかろうか。太平洋戦争後の日本とアメリカ合衆国もその一例で、昨日の敵が今日の友になった。自分の身近でも昨日の敵が今日の友に変われたら、それは何と望ましいことだろうか。
 しかし、何よりも願わしいのは、昨日の友は今日も友であり続けられることだと思う。ところで絵のなつめは、葉は萎れず実もしなびない。絵だからいつまでも変わらないからだ。そこで、これが皆さんの変わらない友情の記念になればいいな、と願いつつ顛末記を終える次第だ。

まだ足りないもの

 先週は、手を貸す運動の2010会計年度の事業計画や、それを支える予算案作りに大半を費やした。その上、火曜日は久々に絵を描いてしまった。そして、日曜日は孫娘の幼稚園最後の運動会であった。そのため年間第28主日のミサには土曜日の夜、町田教会へ行った。というわけで、聖書についてのブログを日曜日前には書けなかった。事後になるので、今回は福音だけをとりあげる。

 マルコによる福音書10;17-30はまずこう伝える。「イエスが旅に出ようとされると、ある人が走りよってきて、ひざまずいて尋ねた。『善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。』イエスは言われた。『なぜ、わたしを《よい》と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない』」と。
 それはエルサレムに向かう旅の初めだった。22節を読むと、その人は金持ちだったことがわかる。しかし、富裕であっても驕ってふんぞり返る人ではなく、むしろ謙虚な人に見えた。そして、主を大いに尊敬していたからこそ、「善い先生、」と言ったように思われた。ところが、主はその賛辞に不快感を示され、「なぜわたしを《善い》というのか」と詰問なさった。主の思いがけないこの反応に、その人は唖然としたのではなかろうか。現代の私たちも、「いったいなぜ善い先生と言ったことがいけなかったのだろうか?主は善い先生でなないの?と疑問を抱いてしまう。
 ある聖書解説者はこの疑問に答えて、イエス様はその人が主を立派な教師として見ていたので、むしろ目を神様に上げることを促すため、そう言われたのだと言う。この主日の「聖書と典礼」も同様のコメントを出していた。他の解説はこう言う。ユダヤでは「善いものは律法のみ」というのが常識だったから、ラビ(教師)を「善い」と呼ぶことはけっしてなかった。イエス様もユダヤ人だったから、善い先生と言われたとき、「何と言うことを言うのだ。教師を善いなどと呼んではいけない」と、その賛辞を斥け、善い者は律法の与え主、神のみだと答えられたのだ、と。そういう解釈にもある程度の説得力はある。しかし、まだなるほどと膝を叩いて納得するほどではない。
 もう少し得心のいく説明はできないのだろうか。私は次のように推理する。私たちは純粋な贈物は受け取るが、何か魂胆のある贈物は突き返す。私はこの問題がそれに似ていると思うのだ。イエス様は善い先生であることを否定なさったのではない。その証拠に、主は最後の夜、弟子たちに「あなたがたは、わたしを『先生』とか『主』とか呼ぶ。そのように呼ぶのは正しい。わたしはそうである」(ヨハネ13;13)と言われたが、悪くも無意味でもない先生であるなら、暗黙裡に善いと言っていることになるからだ。しかし、その人が「善い先生」と呼んだときは、その動機に問題があると見抜かれたので、その賛辞を突き返されたのではなかろうか。
 では、その人の動機にはどんな問題があったのだろうか?主はその賛辞にへつらいを感じ取られた。彼の質問は人々にはまともに思えたが、主はごまかされなかった。へつらいのある心には何かが隠されていると疑わなくてはなるまい。そう思うと、彼が走り寄って来てひざまずいたのも、ややパフォーマンスがかっていると見えなくもない。では、彼がへつらって得ようとしたものは何だったのだろうか?それは自分にとって好ましい答えを主から頂いて、安心を得ることだったと思う。
 そのために、ユダヤ人なら教師に決してつけない「善い」という賛辞をつけて主のご機嫌をとり、「永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」と尋ね、自分がどう生きてきたかを知ってもらった後、「それなら今のままでよい」という主のお墨付きを期待したのではないか。私はそう勘ぐる。もしそうなら、この世では金持ちのままよい生活をし、死後は永遠の命も得られるからだ。だが、主はそれを見抜かれた。だからこそ賛辞を斥け、やがて話の終わりには彼の期待とは正反対の、彼の願望を打ち砕く決断を要求なさったのだ。「善い先生」の拒否はその布石だった。

 この拒絶的なお言葉の後、主は彼に「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ」と言われた。これを守っているかと問われたのだ。それはいわゆるモーセの十戒だが、ここで注目したい点が二つある。第一は神様についての戒律に言及がない点だ。なぜだろうか?ユダヤ人にとって唯一の神を信じず、安息日も守らない人が永遠の生命を得ることなどは論外だからだったと思う。第二は人に対する戒律で最初に来る「父母を敬え」という勧告の戒めが、イエス様の問いでは最後になり、5つの禁止の戒めが先に置かれている点だ。この順序の置き換えは興味深い。
 なぜ主は禁止命令を先に置かれたのだろうか?殺すな、姦淫するな、盗むな、等のネガティヴな戒めもけっして易しいとは言えないが、普通の人なら何とか守れる。しかし、悪をしないのは何かをしないだけで、積極的に善を行なうわけではない。人として最低限の倫理ラインだ。これすら守らずに永遠の生命を得ようというのは虫がよすぎる。だから主はまずそれを確かめられたのだ。それに対して、「父母を敬え」という戒めは何かを積極的に行なうことだ。従って、何かをしない戒めより難しい。一ランク上の実践だ。だから主はそれを意識させるためにわざと順序を変え、それもできているかと、禁止の戒律の後に確かめられたのだと思う。

 すると彼は、「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と言った。主はそう答えた彼を「見つめ、慈しんで言われた」とある。モーセの律法をずっと守ってきたという彼を好ましく感じ、一瞬期待なさったのだと思う。そこで言われた。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば天に富を積むことになる。それから私に従いなさい」と。
 しかし、そうは言われたものの、主はへつらって質問した彼の心をすでに見通されており、やはりこの人にはできないだろうとはわかっておられたに違いない。なぜなら、彼は嘘をつくつもりで「子供の時から守ってきました」と言ったのではいとは思うが、実際はその言葉には偽りがあったからだ。マタイ19;10を読むと、彼の答えがうわべだけのものだったことがわかくる。
 マルコにはないが、マタイには「父母を敬え」の後に、「また、隣人を自分のように愛しなさい」の一言がある。イエス様は最も重要な掟はどれかと尋ねられた時、それは神への愛と隣人への愛で、「律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている」(マタイ22;37-40)と指摘なさった。この一句はその隣人愛の掟だ。父母への愛もこの普遍的な隣人愛の一形態に他ならない。ところがこの人は、父母は大切にしていたかも知れないが、その他の隣人を愛していた形跡がなかった。
 案の定、「行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい」と言われて、彼はがっくりした。それは持ち物を失うことがショックだっただけではなく、今まで富を抱え込んだまま、人に施すことなどしたことがなかった証拠だと見ていいだろう。「ええ?!私の富を貧しい人に施す…」彼は予想外の主の勧めにうろたえたに違いない。彼は律法の最も大切な掟を実践していなかった。それなのに十戒を狭く解釈して、自分は律法を守っていると思い込んでいたのだ。
 「行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば天に富を積むことになる」とのお言葉は、彼が本当に律法を実践していたかどうかを明らかにする試金石だった。主は彼の思い違いに気付かせ、律法の真髄を実践しなければ、永遠の命は危うい。しかし、勇気を出して実践するなら、天に宝を積めると言われたのだ。「それから、わたしに従いなさい」とは、その勇断ができるなら見込みのある人だから、弟子となって従いなさいと招かれたのだと解釈できる。あるいは、福音に従って生きなさいという意味だったととってもいいと思う。

 だが福音は、彼が「この言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産をもっていたからである」と、結末を伝える。立ち去るその人を見てイエス様は、「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。…金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」と言われた。主もがっかりなさったのだと思う。
 さて、ここからは富と神の国の話題だが、イエス様は本当に「らくだが針の穴を通る方が…」と言われたのだろうか?単なる知的好奇心からだが、ちょっと検討してみよう。ある解釈はらくだではなく針の穴に注目して、それを人がやっと通れたエルサレムの狭い門の名だったと言う。しかし、この説は根拠がない。そんな門は実際にも資料にもないからだ。それに、喩えでは喩えられる物がよく知られていないと話しにならないのに、弟子たちはエルサレムのことには疎いガリラヤ人たちだった。主がそんな彼らに、よく知られてもいないそんな門を前提にした喩えを話したとは思えない。 
 バークレイは興味深い説として、らくだの方に焦点を当て、ギリシャ語の「カメロス」が舟のとも綱の「カミロギ」と混同されたのかも知れないと言っている。確かに舟のとも綱なら、不可能なことの喩えとして、ガリラヤの漁師にはよく理解できただろう。針に通すのは糸だが、とも綱は糸の何万倍も太くてとても通らないからだ。私もその結論には納得する。しかし、根拠はギリシャ語の混同にはなく、イエス様が使っておられたアラマイ語をギリシャ語にしたときに、誤訳が起きたという説をとる。その方がずっと説得力があるからだ。
 ヘブライ語訳新約聖書(1986年エルサレム聖書協会版)の付録には、マタイ19;24の注釈として、「アラマイ語の『ガムラー』という語彙には、ヘブライ語の①らくだ、②舟の綱、③大蟻、④梁の4語の意味がある」と書いてある。それなのに、ギリシャ語福音記者はその一つに過ぎなかった「らくだ」の意味を拙速に選んでしまった。そこで誤訳が発生したと疑われるわけだ。だから、ヘブライ語訳は「らくだ」を「綱」に修正して、「綱が針の穴を通る方がまだ易しい」と訳している。針対糸と綱なら、比較する喩えとしては筋が通るし、根拠も確かだ。だから私はこの解釈を支持している。

 でも、それは大問題ではない。大事なのは富と神の国の問題だ。イエス様のお言葉を聞くと、貧しい人はいいが、富んだ人は心配になるかも知れない。「なぜ金持ちが神の国に入るのはそんなに困難なのだろうか?私も永遠の命を得たければ、財産を売り払って貧者に施さなければならないのだろうか?その場合、全財産を売り払わなければならないのだろうか?」と。
 ユダヤ人にとって、富は子宝と共に神からの祝福だった。ところが、イエス様は富を神の国に入る妨げのように言われた。これは弟子たちにとってショックだったと思う。しかし、イエス様は不正な管理人の譬え(ルカ16;1-11)で富の善用を教えておられる。だから、必ずしも富を全否定なさったわけではない。そうは言っても、繰り返し富の危険を警告されたことも確かだ。そして、むしろ「富は、天に積みなさい」(マタイ6;20)、「今富んでいるあなたがたは、不幸である」(ルカ6;24)と教えられた。そこに富に対する福音の基本的スタンスがある。
 富はなぜ危険か?心がそれに執着し、その魔力に囚われてしまいかねないからだ。そうなると、富はその人の心を支配し、その人の“神”になる。だからイエス様は、「あなたがたは神と富とに兼ね仕えることはできない」(ルカ16;13)と言われたのだ。人にとって富が救いの力、最大の頼りになるとき、それはもうその人の“神”または偶像に等しく、主の福音とは相容れなくなる。ところが人に永遠の命を与えられるのは主なる愛の神のみで、富という“神”ではない。だから主は「神おひとりのほかに、善い者はだれもいない」と言われたのだ。

 では、永遠の命を得たければ、人は誰もが財産を売り払って、貧者に施さなければならないのだろうか?いや、そうではない。もちろん、貧しい人にまったく無関心でいていいということはあり得ない。福音を信じるなら、誰もが持てる富の範囲内で人を助けなければならないことは明らかだ。しかしこの日、主がその人に、「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい」と言われたのは、彼が金持ちだからこそであった。福音を完全に生きるには、富と言う“神” と決別することが、彼にとって不可欠だったからだ。
 初めに「善い先生」と言って尋ねた時、金持ちの彼にはこの世の心配はなかった。だが、永遠の命は気がかりだった。だから、主から「あなたは大丈夫」という保証を期待したのだろう。ある意味でかなり身勝手な永遠の生命願望だった。しかし、主から自分に欠けているものを言われて、神の国に入るためには、本当は何が必要なのかを理解した。しかし、理解できても、その場では答えが出せずに立ち去った。悲しいかな、富への執着が強く、富に呪縛されてもいたからだった。
 もし金持ちではない他の人だったら、その人に「まだ欠けているもの」として、主は地位とか家族とかへの愛着を捨てよと言われたかも知れない。「まだ欠けているもの」は人によって違う。だがどれも、人の覚悟の本気度を試すものであることには変わりない。だから逆に、財産を売り払って貧者に施したからと言って、それだけで誰もが永遠の生命に入れるわけでもないのだ。清貧と施しは福音をより完全に生きる一つの実践だ。しかし、全てではない。大事なことはそれぞれが、「私にとってまだ欠けているものが一つあるとすれば、それは何か」と自問することにあると思う。

 そうであれば、必ずしも全財産を売り払う必要はないのだ。ルカは富に対して厳しいから、この金持ちの場合にも「すべて売り払い」(ルカ18;22)と書いた。しかし、マルコもマタイも「すべて」とは書いていない。何よりも「すべて」と言ってもすべてでない場合がある。例えば、この話の終わりにペトロは「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました」と言っている。ところが、主のご復活後に彼は、「わたしは漁に行く」(ヨハネ21;3)と言って舟に乗っている。まさか他人の舟ではあるまい。舟はイエス様の宣教の時も用立てて、捨てていなかった証拠だと思う。
 また、アナニアとサフィラの事件からも学べる。聖霊降臨後、信者たちは財産や持ち物を売り払い、共有して分け合っていた。ところが、アナニア夫婦は土地を売った代金の一部を全てだと言って差し出した。ペトロはそれを咎め、「なぜあなたはサタンに心を奪われ、聖霊を欺いて、土地の代金をごまかしたのか。売らないでおけば、あなたの物だったし、また、売っても、その代金は自分の思い通りになったのではないか」(徒4;3-4)と断罪した。それを聞くとアナニアはその場で絶命し、妻も後で死ぬのだが、使徒の言葉は誰もが全てを売って差し出す義務はないことを明言している。してはいけないのは誠実さを欠き、嘘をついて聖霊を欺くことなのだ。

 そうは言っても、福音を信じる者なら、いくらかは富を犠牲にして、善用しなければならないことも確かだ。犠牲をすれば懐は痛む。大きな犠牲なら心も痛むだろう。今年、ある老婦人が「貧しい人達に使ってください」と、ぽんと300万円を私に託して来た。お金のある方なのだろうが、それを預かって感動すると同時に思った。「私にはとてもそこまでできそうにないな」と。しかし、人はそれぞれなのだ。富をどれだけどう使うかは、主の教えに照らして各自が誠実に判断すればいい。ただ、痛みもない犠牲なら価値も無いとは言えよう。「心の貧しい人は幸い」とは、無い中からも犠牲をして痛みを引き受けられる人、多くの富があっても何も持たないかの如く、物への執着から心が自由になった人だと思う。
 使徒たちは譬えで、金持ちが神の国に入ることがどんなに難しいかを聞いたとき、「それではだれが救われるのだろうか」と言い合った。一応律法を守っていた標準的なユダヤ人のその金持ちさえ、むしろ財産を売り払わなければならないがゆえにつまずくのなら、ほとんどの人は神の国には入れまい。絶望的だ、と彼らはますます驚いたのだ。しかし、主は「人間にはできることではないが、神にはできる」と答えられた。ここに全ての答えがある。
 そもそも人が救われるのは己が功徳によるのではなく、神の恩恵による。だから、主は先週の福音で、「子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」(マルコ10;15)と言われた。主が金持ちに財産を売り払って施せと言われたのは、富よりも神に全幅の信頼を置けるかどうか、つまり幼子の道を選べるかどうかのテストだったのだ。それは富から神へと心の向きを180度変える、回心への福音的招きだった。
 彼は応えられずに去って行った。だが、私たちの誰が彼を情けない人だと裁くことができようか。神と富とに兼ね仕えることはできないのに、彼は両方に仕える道はないかと、どっちつかずの判断中止に逃げていた。しかし、私たちもある程度の妥協的信仰生活でよしとしている。彼と五十歩百歩ではないだろうか。それに、彼はその後回心して、富よりも神を選ぶ決断をしたかも知れない。いや、私はそう思いたい。なぜなら、神にはできないことはないからだ。

難きがゆえに尊し・補遺

 一昨日、「難きがゆえに尊し」の題名で、年間第27主日の福音マルコ10;2-12を考察したが、あることが気になっていた。それは第二朗読ヘブライ人への手紙2;9-11との接点が見えなかったことだ。第一朗読の創世記2:18-24とのつながりは明白だった。イエス様がそこにある言葉を使って、「だから、二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」とおっしゃったからだ。
 そのメインテーマは人の結婚についてであって、イエス様はその理想例に最初の男と女とを挙げ、結婚のベストのあり方と最悪の在り方をお示しになった。それは理解できた。ところが、ヘブライ人への手紙2;9-11はそれとどうつながるのか、それがよく見えなかったのだ。神の子イエス様についての叙述が、人間の結婚・離縁問題と接点があるとは思えなかった。だから、私はそれには一切触れなかった。でも、なぜそれが第二朗読とされているのだろうかという疑問が残っていたのだ。

 ところが、久しぶりに藤が丘教会のミサに行き、その箇所の朗読を耳で聞きながら目で文面を追っていたとき、私はある一節に注目した。「人を聖なる者となさる方も、聖なる者とされる人たちも、すべて一つの源から出ているのです。それで、イエスは彼らを兄弟と呼ぶことを恥とされないのです」とある11節だ。そして、はたと思った。「接点はここにあった」と。
 結婚がメインテーマであっても、イエス様が語られた理想の結婚像は、品格のある男女の結びつきだった。それは二人が男と女である前に、まず品格のある人間であることを前提とする。ところで、ヘブライ人への手紙は救いに与った人が、まさにそういう人間にされたと言っていることに他ならない。「人を聖なる者となさる方」とは救い主を、「聖なる者とされる人たち」とは私たちを意味するからだ。主はそういう人たちの結婚を語られた。だから、そこに接点がある。

 そうわかると、この日の聖書の3箇所には、どれにも「人間の品格」という背景色があるように見えた。ところで世の中には、よく知らない人でも何となく品格のある人がいるかと思えば、どうひいき目に見ても品性下劣な人物がいる。では人間のその品格はどこから生まれるのだろうか?そう簡単に言えることではないが、聖書で考えると、少なくとも上からと下からの根源があるように思える。 
 イエス様は「天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった」(マルコ10;6)と言われたが、それは創世記の「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された」(創1;27)とある言葉に対応している。男も女も同じ人間であり、神の似姿を持っている。つまり、人間には「神から性」があるということなのだ。人間の品格はここに一つの根源があると言えよう。上から来る品格だ。
 ところで、創世記にあるもう一つの人間創造説話では、「主なる神は、土の塵で人を形づくり、その鼻に息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」(創2;7)とある。陶工が粘土で物を造るように、神様は土から人を造り出されたという。実に素朴な説話だが、そこに注目すべき点がある。土から造られたのは人間だけではなく、他の鳥獣も同様だという事実だ。そこには「神から性」に対して「土から性」がある。人間は自然界の一存在としては、他の生物と共通な「土から性」を持ち、自然に依存している。それが人間の品格のもう一つの根源だと言えよう。
 主は結婚を、「それゆえ人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる」と言われたが、男女は人間だから、「土から性」だけの存在ではない。「土から性」では他の動物と同じく雌雄と言えるが、ただそれだけのペアではない。「神から性」を持つ人間でもあるのだ。「神から性」だけの天使でもなく、「土から性」だけの獣でもなく、その両方をもつ人間として結ばれるところにこそ、人の結婚たるゆえんがある。

 創世記1,2章は人間の品格のそういう二面性を示唆している。それに対し、ヘブライ人への手紙2;11は、「すべて一つの源から出ているのです」と、聖とされた者の高められた「神から性」を語っているのだと思う。「天使たちよりも、わずかの間、低い者とされた」イエス様は、その受難によって「栄光と栄誉の冠を授けられた。」(ヘブ2;9)その結果、私たちを兄弟と呼ぶことを恥じないとは、「神から性」を受けた私たちが、主と同じように聖化されたことを意味する。それはすごいことだと思う。
 他方「土から性」においては、人間も他の動物の雌雄と同じように自然法則に服し、自然界の物を食べ、子孫を残し、いずれ死んで土に返る。それ自体は厳然たる事実以外の何ものでもなく、卑しくもなければ崇高でもない。しかし、人間にあっては、もし誰かが「土から性」にばかり強くつき動かされて生きるならば、その人の品格は「神から性」が薄らいで、下からの品格が強まり、下劣になる。だから、物欲、金銭欲、肉欲、支配欲などが満ちた人には、そういう臭いや雰囲気が漂ってしまう。人とは案外そういうものを直感で察知するものなのだ。
 イエス様は、「妻を離縁して他の女を妻にする者は、妻に対して姦通の罪を犯すことになる。夫を離縁して他の男を夫にする者も、姦通の罪を犯すことになる」(マルコ10;11-12)と警告なさった。結婚生活でも、「神から性」を忘れると、そういう過ちに陥る。だから、聖アウグスチヌスは言ったのだと思う。「精神まで肉的にならないためには、人は肉まで精神的にならなければならない」と。
 逆に聖人とは、「肉体に至るまで精神的になって」、神から性がその人を支配している人だと言えよう。歴史上の聖人は多少美化して語られ、絵や写真は虚像を作るから、必ずしも全面的には信用できない。しかし、聖人とは言われなくても、実際には非常にすばらしい人に私は出会った。それは人生でとても幸せなことだった。そういう人には品格があり、徳の雰囲気がにじみ出ている。尊敬できる人とはそういう人だと思う。

難きがゆえに尊し

 年間第27主日の福音はマルコ10;2-16だ。それは前半が「結婚と離婚の問題」、後半が「子どもと神の国」の2テーマに分かれている。これを見たとき、前半のテーマは厄介で難しそうだなぁと思った。すると突然、「難きがゆえに尊し」という、哲学者スピノザの言葉が、私の脳裏に浮かんでしまったのだ。そうか、困難だからこそやりがいがあるのか。「子どもと神の国」のテーマはすでに取り上げたことがあるから、もういい。ならばその難しい方のテーマに挑んでみるか。あえてそう自分を追い込んで、今回は「結婚と離婚の問題」に絞って、考えてみることにした。

 話はこう始まる。「群集が集まって来たので、イエスはいつものように教えておられた。ファリサイ派の人々が近寄ってきて、『夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか』と尋ねた。イエスを試そうとしたのである。イエスは『モーセはあなたたちに何と命じたか』と問い返された。彼らは『モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました』と言った。」
 ファリサイ派の人々のこの質問には罠が仕掛けられていた。彼らとイエス様との間にはすでに対立が生まれていたが、もし主がモーセを否定するような答えをすれば、律法への反逆者として断罪できたからだ。そして、もし答えがモーセの教えに沿っていた場合は、その考えがシャンマイ派とヒルレル派のどちらに近いのかを見定める利点があった。当時、両学派はファリサイを二分し、離婚について論争していたので、自派の有利になるよう、イエス様をそれに巻き込めると企んだからだ。
 申命記24章は再婚についてのきまりを事細かに決めているが、そこには「妻に何か恥ずべきことを見出し、気に入らなくなったときは、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせる」(申24;1)という一節がある。では、その「何か恥ずべきこと」とは何なのか?これについて両派は論争していたのだ。シャンマイ派はそれを淫行だとし、それ以外の理由では離縁できないと主張した。しかし、ヒルレル派はそれ以外にも、料理下手、身だしなみの悪さ、夫の両親への無礼などが離婚の理由になるとした。いずれにせよ、旧約では離婚の権利は圧倒的に夫にあったから、男側の乱用が目立ち、女性は不利を強いられるのが実情だった。

 「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」という質問には、そういう背景があったのだ。だからイエス様は「モーセはあなたたちに何と命じたか」と問い返され、彼らは申命記24章の内容を要約して答えたのだった。ところが主は彼らがびっくりするような答えを言われた。「あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ」と。
 事実、イスラエル民族は「首の固い民」だった。預言者たちは、「お前が頑固で、鉄の首筋をもち」(イザヤ48;4)だとか、「彼らはうなじを固くして、聞き従わず」(エレミヤ17;23)と非難したが、まさにその通りだった。救いの歴史で、神の民と言われた彼らほど、神様の特別な恩恵を受けた民族はいないが、同時に彼らほど神様に反逆し、忘恩で裏切りを繰り返した民族も他に例がないだろう。
 イエス様は彼らのその長い反抗の歴史を思い出させて、「あなたたちの心が頑固なので」と言われたのだ。つまり、モーセが離縁状に言及したのは本意ではなく、やむを得ない現実を見ての譲歩だった。人間は弱く不完全で、永久にと誓っても、半年すらそれを守れないダメな存在だ。だから、より大きな不幸と混乱を避けるために、どうしても致し方ない時は離縁もできると書き残した、という意味だった。しかし、考え違いをしてはいけない。それは掟でも命令でもなく、本当は無い方がいいことなのだと、イエス様はまずそうお答えになったのだ。

 そして続いて、その対極にある夫婦のベストのあり方を、彼らにはっきり言われたのだった。「天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。それゆえ人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから、二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」と。それは結婚に伴うマイナスの問題に注目しすぎて、理想のあり方を忘れてはいけない、ということを私たちに気付かせてくれる。
 イエス様は結婚の理想を天地創造の最初の男女に遡って語られ、そこから新しい原則を示された。それは当時のユダヤ人の結婚観と異性観を刷新したと言うより、覆したほどの革命的な意識変革を求めるもので、まさに聖書温故知新に価することだった。なぜなら、その言明には結婚についての理想の復権、一夫一婦制、男女同等、両性の意志の尊重などが宣言されていたからだ。
 今日の先進諸国では、理想の復権についてはさて置き、これらの諸原則は当然のこととされ、現代の日本人である私たちもその恩恵を享受している。しかし、それは昔から当たり前ではなかったし、今日でもそれがない国々がある。それを思うと、イエス様のこの言明は画期的で、後世に絶大な影響を与えたことがわかる。これは歴史的にも非常に重要な点だ。
 実際、聖書には「こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる」(創世記2;24)と書かれていたのに、ユダヤではイエス様の時代までは一夫多妻が行なわれ、妻は夫の所有物視されていた。女性はしばしば自分ではなく、親の意志などで嫁がされた。離婚は男が圧倒的に有利で、夫は意志があればできたが、妻はほとんどできなかった。要するに不平等であり、女性の尊厳は貶められていた。イスラム世界は今日でもそれに近く、日本でも戦前はそれと似た結婚観や離縁観がまかり通っていた。今でさえその名残がある所もある。
 イエス様が明言なさった結婚観は、キリスト教社会だけでなく、今では非キリスト教社会でも普通になった。もはや普遍的だと言ってよいと思う。結婚では男女は同等かつ同権であり、主従でもなく、一方が他方の所有物でもない。結婚は一人の男性と女性が自由な意志で結ばれることで、理想は二人が助け合い、忠実に末永く愛し合い、子孫に恵まれることだ、という受け止め方だ。

 西洋には、「結婚前は両目でよく見よ。しかし、結婚後は片目をつぶれ」という諺がある。しかしそうは言っても、人間は弱いし、欠点は誰にもある。それに、困ったことだが人は悪い方にも変わり得る。夫婦間に許容限度を超える相性の悪さや結婚前は想定しなかった欠点が現れたり、結婚生活の継続が不可能になる事態も生じたりする。辛いことだが、現実的にはそれに目をつむることはできない。イエス様が示してくださった理想と原則は抑えつつ、どうしてもそういう現実に対応する必要もある。
 申命記24章はまさにそういう問題を見越して、旧約時代のイスラエル民族のために、離縁と再婚の規定を与えたのだった。現代の一般社会では民法や民事訴訟法などがそれを扱うが、教会では教会法と倫理神学がそのような場合の指針となる。ちなみに、A・ジンマーマンの倫理神学概論を開いてみたら、結婚には約250ページも割かれていた。いかに大問題であるかがわかる。
 他方、離婚と別居を含む離別の論議には約35ページが割かれていた。それには、非カトリック受洗者と非受洗者の婚姻の解消、免除を得て結んだ異宗婚の解消、パウロの特権による婚姻の解消などが書いてあった。パウロの特権とは何かと言うと、非受洗者同士が適法に結婚していても、一方が洗礼を受けたとき、信仰を守るためにどうしても必要なら、教会が結婚を解消させることができるという権限だ。その他にもいろいろなケースがあり、その難しさがつくづくわかる。
 だから、ただ法的な見方だけではなく、離別によって傷ついたり落ち込んだりする心があることも忘れてはならないのだ。ただ、教会は秘跡として成立した信者同士の完了婚については、別居は別として、離婚は頑として認めてこなかった。それは「神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」という主のお言葉があるからだ。結婚の成立必須条件は両性の自由意志の合意だが、それを合わせるのが神様であってみれば、何人もそれを離せないのは当然なのだ。

 マルコ10;11-12には、「妻を離縁して他の女を妻にする者は、妻に対して姦通の罪を犯すことになる。夫を離縁して他の男を夫にする者も、姦通の罪を犯すことになる」というお言葉がある。これは、一見非常に厳しく思える。しかし、それは当時起こっていた安易な離婚風潮への警告だった。カトリックの結婚式の式文には、中心に「順境にあっても逆境にあっても、病気の時も健康の時も、生涯愛と忠実を尽くすことを誓います」という言葉がある。裏返せば、主のこのお言葉はそれへの励ましに他ならない。私はそう理解すべきだと思う。
 もう一つ大事なことがある。それは、ひょっとしたら気付いていない信者が多いかも知れないが、カトリック教会にある7つの秘跡のうち、婚姻だけが当人たちによって成り立つ秘跡だということだ。結婚は両性の自由な意志の合意によってのみ成り立つ秘跡だからそうなのだ。叙階と堅信の秘跡は司教、悔悛と病者の秘跡は司教か司祭、洗礼と聖体は場合によっては一般信者もできるが、原則は司教か司祭が授ける。しかし、婚姻の秘跡だけは本人達が授ける。結婚式で司祭は司式するが、婚姻を成り立たせるのは司祭ではなく、本人達の意志による誓いなのだ。
 イエス様と同じように聖パウロも、創世記2;24の「人はその父と母を離れて…」を引用し、「この神秘は偉大です」(エフェソ5;32)と言った。彼はそれを「私はキリストと教会について述べているのです」と説明してはいるが、たとえそうであっても、キリストと教会の結びつきに喩えられる夫婦のきずなとは、やはり「この神秘は偉大」と言われるに価するほどのものなのだ。ある意味で恐ろしいほど厳しい主のお言葉は、それを想起しなさいという招きでもあると思う。
 最初はこの問題を扱いが難しそうだなぁと感じて、「「難きがゆえに尊し」を思い出したのだったが、ここまで来て気がつくことは、それが別の意味にも解釈できることだ。人は幸せを願って結婚するが、しばしばそれはとても大きな困難を伴う。だから、結婚生活の幸せは、その困難を乗り越えてこそ実現するものなのだ。つまり、困難があるからこそ結婚生活は尊い。「難きがゆえに尊し」にはそういう意味もあると思う。
プロフィール

余生風

Author:余生風
「聖書温故知新」
「思いつくまま、気の向くまま」
折にふれ「水彩画」も紹介してまいります。

「手を貸す運動」創始者
社会福祉法人「地の星」理事
元玉川大学教授

佐藤正明(余生風)ホームページ
「絵画と心」

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