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寛大さと厳しさ

Millstone at Cafarnaum
 年間第26主日の福音はマルコ9;38-48だが、新共同訳はこの部分を、「逆らわない者は味方」と、「罪への誘惑」という二つのテーマでくくっている。しかし、よく読むと、すべてを「人への見方」というテーマでくくることもできる。つまり、(1)イエス様の名前を使って奇跡をする人への見方(38-40節)、(2)弟子に親切な人への見方(40-41節)、(3)小さな者を躓かせる人への見方(42-43節)、そして、(4)人を躓かせる場合の自分自身への見方(43-48節)だ。

 その観点から今日の福音を読むと、(1)のイエス様の名前を使って奇跡をする人への見方には、そういうことをする他者には寛大でありなさいというメッセージがある。使徒ヤコブとヨハネ兄弟には「雷の子」というあだ名(マルコ3;17)があった。怒りっぽく排他的な気質だったからだ。実際、サマリア人たちがイエスさまを歓迎しなかった時、2人は「主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか」(ルカ9;54)ととんでもないことを言って、主に戒められたことがあった。
 今日の福音ではヨハネだけだが、彼は「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました」と、やや得意げに言った。すると、イエス様は「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。わたしに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである」とお答えになられたのだった。
 そんな教えがあったにもかかわらず、バチカン公会議以前のキリスト教は各教派がお互いを認め合わず、いがみ合っていた。カトリックはプロテスタントを異端者、裏切り者と見なし、彼らに長所があっても褒めず、むしろ無視する態度だった。プロテスタントも負けず劣らずで、カトリックを聖書も読まず形式的で、イエス様の教えから逸脱していると考え、500年も昔のことを今でも堕落した教会だと批判し、自分たちこそ本物のクリスチャンだと言い張って、カトリックを拒絶して来た。
 ある時、そんな実際を体験した。キリスト教学校連盟の教育研修会に参加した時だった。自己紹介で私が玉川大学の宗教担当であり、カトリックだと発言したら、みんな呆気にとられた顔でシ-ンとなってしまった。この学校連盟はプロテスタント系で、出席者はほとんどが牧師さんだった。だから、なぜカトリックの教授がプロテスタント系の玉川大学で宗教担当なのか、理解できないと言わんばかりで、異質な者の同席で生じた違和感が会場に波及したのだと思う。
 その際、日本基督教史のある本が紹介された。ところが、それには明治維新前後からのプロテスタント教会のことしか書いてなかった。では、聖フランシスコ・ザビエルが伝えたキリシタンの教えは何だったのかと、疑問を持たざるを得ない歴史の扱いだった。これらはみな、「わたしに逆らわない者は、わたしたちの味方」という寛容さではなく、排除の論理に従っていたからに他なるまい。しかし、今はずいぶん変わった。教派間相互の交流も理解も協力も生まれている。主の教えが真に理解されてきた証拠で、とても喜ばしいことだと思う。

 その意味で手を貸す運動は、初めから「わたしに逆らわない者は、わたしたちの味方」の教えを基本にして来た。私の最初の協力者はルーテル派の人だった。私たちは、学びたくても学べない子らに教育のチャンスを、飢えている子らに食事を、水のない人たちに井戸を、貧しい人たちに助けの手をと協力してもらっている。その支援はイエス様が最後の裁き(マタイ25;31seq.)について話題になさった行いと同じだ。
 しかし、支援者には、キリスト教学校の子ども達だから嫌だ、と言う仏教の信徒さんたちや無宗教の方々はいない。シスターたちがカトリックだから支援したくない、というプロテスタントの信者さんたちもいない。もちろん、仏教信徒や無宗教者やプロスタント信者とは一緒にやりたくない、というカトリックの人たちもいない。私が感銘を受けるのは、むしろプロテスタント信者の中に、カトリック信者に優るとも劣らないほどシスター達の働きに深く共感している方々がいることだ。そこには排除の論理ではなく、寛容と共生の論理が働いている。これこそイエス様が望まれていたことだと思う。
 そして、それは(2)の弟子に親切な人への見方(40-41節)にも当てはまると言えよう。主は「キリストの弟子だと言う理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける」と約束された。無宗教や仏教徒の方々は、「キリストの弟子だと言う理由」で子ども達やシスターたちを支援しているのではない、少なくともそう思って支援しているのではない場合がほとんどだと推察する。しかし、神様はそういう隣人愛を「キリストの弟子だと言う理由」でやったと同じに見なされるに違いない。私はそう思っている。もちろんキリスト者の場合は、その御言葉が十分当てはまるだろう。シスターたちは主の弟子だからだ。

 さて、42節からは寛大さと対照的に、厳しさが語られている。「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい」と。ここには神様の厳しさがある。誰に対して言われたのかというと、他者をつまずかせ得る人のすべてに対してだと理解すべきだろう。
 ここで一見わからないのは、「これらの小さい者の一人を」とあるが、「これらの」が誰を指すかだ。しかし、ここを読んだだけではわからないが、37節には「わたしの名のためにこのような子どもの一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである」とあったから、その続きで語られていると思えば、誰を指すかがわかってくる。「これらの」とは、世の中で大物として重んじられている人々ではなく、小さく、取るに足りない、軽んじられている人々のことだと見ていいだろう。
 「つまずかせる」とは、日本語だと道に邪魔物を置いて人を転ばせることだが、ギリシャ語原典のエスカンダリソは「罠にはめる、迷わせる」の意味だ。そして、海とは新約聖書ではたいていガリラヤ湖を指す。この場合もそうだといっていいだろう。石臼とは麦をひいたりする時に使ったもので(余生風撮影の写真参照)、穀物を入れる器状の石とその上を回って穀物を潰す石の大小二つでできている。上を回る方の石には真ん中に穴があり、そこに通した棒をロバなどに結わえて回させた。イエス様が話された石臼はそれだろうと思う。縄を通す穴があるからだ。私はカファルナウムの遺跡で見たが、小さい方の石も直径70センチぐらいはあって、男一人ではとうてい持ち上げられないほど大きく重いものだ。
 つまずかせるくらいなら、それを首に懸けられて湖水に投げ込まれてしまう方がまだましだ、と主は言われた。石臼は重く大きくて、本当は首に懸けるのは無理だ。首がもたない。実際は首の方が縄で石臼に結び付けられ、一人では持ち上げて立つこともできないから、数人が石臼ごと担いで湖に投げ込むというイメージになる。何と恐ろしいことを言われたものだと思うが、それでも人をつまずかせるよりはまだましだと言えるほど、躓きは罪深い所業なのだと主は教えられたのだ。
 現代の教会でも思い当たるケースがないわけではない。しかし、今回は人様のことを言うのはよそうと思う。むしろ、自分を省みたい。つまずかせるとは本来罠にはめること、迷わせることだと指摘したが、40年前の私はそうだった。振り返ってみて、どんなに多くの人を迷わせてしまったことかと思うと慙愧に耐えない。石を首に懸けられて海に沈められない代りに、今は海外の貧しい子どもたちなどを助け、その苦労を自分の重い石臼として首に懸け続ける決意を新たにする。

 主は言われた。「もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両手がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあずかる方がよい。もし片方の足があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両足がそろったままで地獄に投げ込まれるよりは、片足になっても命にあずかる方がよい。もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出しなさい。両目がそろったまま地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても神の国に入る方がよい」と。
 これは(4)人を躓かせる場合の自分自身への見方(43-48節)だが、こんな厳しいことを要求した師が他にいただろうか?その表現は実に鮮烈で、あまりにもインパクトが強いから、誰の脳裏にもきっと印象深く刻み込まれるに違いない。私も18歳の時に読んだ文語のまま覚えていて、今でもそれを暗誦できる。「あなたをつまずかせるなら」とあるから、これは私自身に言われている教えで、自分自身に対する厳しさの問題なのだと言うことは確かだ。
 ところがよく読むと、はっきりしているようで、案外わからなくなる点があるのではないかと思うのだ。まず、片方の手が自分をつまずかせるって、いったいどういうことだろうか?手でつまずきを起こす場合、人はふつう両手を使う。盗みでも、傷害でも、器物損壊でもそうだ。それなのに、なぜ片方の手なのか?片方の手だけがつまずきの原因となるのは、どんな場合なのだろうか?
 片足もそうだ。確かに人を蹴る時は片足を使うだろう。しかし、もう一方の足が体を支えないと、その片足で人を蹴ることはできない。つまり両足は共犯だ。誘拐、暴力、強盗を働く時も、片足だけでケンケンして行く人はいない。両足で悪事を働きに行く。片足だけでつまずきになることをする場合とは、はたしてあるのだろうか?私にはほとんど具体例が思い浮かばないのだ。
 目に付いても同じだ。確かに誰かを誘惑するためにウインクする場合は、片目がつまずきを起こしたことになろう。しかし、誘惑する相手を見たのは片目ではなく、両目だろう。盗みの家を物色するのも、人を嫌悪した目で見るのも、他人の物を羨望するのも片目ではなく、両目で行なう。そうなると、もしあなたの足や目があなたをつまずかせるなら、両足を切断し、両目をえぐって捨てよ、と言った方が妥当だと言わざるを得なくなる。

 では、イエス様は理屈に合わないことを言われたのだろうか?そうではない。私たちが片手、片足、片目を文字通りに受け止め、インパクトが強いためそこに注目しすぎるから間違った解釈をしやすいのだ。ここで一番重要なのは、「片手になっても…片足になっても…一つの目になっても、神の国に入る方がよい」という価値判断だ。そこに中心がある。両手、両足、両目がそろったままでいても、地獄に投げ込まれたら、何になるだろか。全部失われるではないか。それより、五体満足でなくても、神の国に入れて永遠の命を得る方がまさっているという意味だ。
 そのためには、必要なら自分にとって痛い犠牲もする覚悟が必要だという喩えとして、主は手足目を例に挙げられた。「もし片方の手が・・・」と言われたように、「もし」とは仮定の話で、実際に片手、片足、片目を取り去れということを意味しない。もしそうだったなら、それらよりもっとつまずきの原因になる口と、主犯である心を見落としては筋が通らない。すべてのつまずきは心から出るからだ。しかし、片方の口とか片方の心とか言うわけにはいかないから、例としては不適当だ。だから、主は喩えに使われなかった。
 つまずきは自分を地獄に導く。だとすれば、それを惹き起こすものは、たとえ自分にとって大きな痛手でも切り捨てなさい。その結果この世では不自由を味わっても、それで「地獄に投げ込まれる」ことなく、神の国に入れるなら、その方がずっと良い。イエス様はそう教えられたかったのだ。実際に切り捨て、抉り取るのは手足や目ではなく、富や名誉や地位や安楽な生活だと言えよう。ただ、聞く人がその覚悟を心に焼き付くほど鮮明に覚えていられるよう、過激とも思える喩えで話されたのだ。それは自分への徹底した厳しさを求める教えだが、実はそれが真の自己を愛することだからだ。
 イエス様は「もし片手が…あなたをつまずかせるなら…」と言われた。片足、片目についても同様だが、必要なら確かに人は、それらを本当に犠牲にするほどの決断をしなければならない。しかし、私は思う。もっと願わしいのは両手、両足、両目もそろったまま、神の国に入れることではないか、と。そうならいいと望むからこそ、私たちは主の祈りで、「私たちを誘惑におちいらせず、悪からお救いください」と祈るのではなかろうか。厳しい教えの後の緊張をほぐすためには、そんな慰めになるケースを想い描いてみるのもいい。
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心の中の隔たり

 「一行はそこを去って、ガリラヤを通って行った。」年間第25主日の福音マルコ9;30-37の書き出しだ。「そこを去って」の「そこ」とはどこのことだろうか?フィリポのカイサリア地方からの帰途、イエス様はある山の上で変容された。そして、3使徒を伴っ下山すると、他の弟子たちが治せないで困っていた癲癇症の子を治癒なさった。「そこ」とはその場所を指す。おそらく、その山の麓の村だったのだろう。
 一行はもうガリラヤ地方に入っていた。しかし「通って行った」とあるのは、もうそこに留まるつもりがなく、どこかへ行こうとしていたことを意味する。では、どこへ行こうとしていたのだろうか?エルサレムへ上るつもりだったのだ。ルカはそれを一番はっきりと伝えて、「イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた」(ルカ9;51)と書いている。もうガリラヤでの宣教は終わったのだった。

 このステップがわかると、次に書いてある言葉の意味もわかってくる。そこには、「イエスは人に気付かれるのを好まれなかった。それは弟子たちに、『人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する』と言っておられたからである。弟子たちはこの言葉がわからなかったが、怖くて尋ねられなかった」と書いてある。
 「イエスは人に気付かれるのを好まれなかった。」この一句はおやっと感じさせる。それまでの主は、群集がついてくれば神の国の福音を話し、病人がくれば拒まずに癒すのが常だった。そればかりか徴税人や罪人とさえ食事を共にされた。つまりほとんどいつも人々の中におられた。それが急に人間嫌いにでもなったかのように、人目を避けられたからだ。いったい、なぜだったのだろうか?
 そのわけはそれに続く「殺されて三日後に復活する」という言葉の「殺されて」にあると思う。これは二度目の予告だったが、それは穏やかな死ではなく、とてつもなく過酷な死を示唆していた。天の父から受けた使命の第一段階、ガリラヤでの福音宣教活動は終わった。その福音で伝えた救いの業を成し遂げるため、ここからはその受難と復活の段階が始まろうとしていた。そして、そのためこそエルサレムに上ろうとしておられたのだった。
 マタイは祭司長や長老たちが十字架上の主を嘲って、「神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っていたのだから」(マタイ27;43)と書いているが、それは知恵の書2;18をそっくり引用した言葉だ。だからその箇所が今日の第一朗読で読まれたのだと思うが、イエス様はこれから受けなければならないこれらの苦難を、もうすべて予見なさっておられたに違いない。
 だからこそ、ご受難直前のゲッセマネの園では、「わたしは死ぬばかりに悲しい」と弟子たちに言われ、天父には「アッバ、父よ、・・・この杯をわたしから取りのけてください」(マルコ14;34-36)と懇願なさった。誰にもわからない計り知れない苦悶は、もうこの予告の時から始まっていたのだ。人々に気付かれることを好まれなかったのは、都への途上で人々に殺されることを恐れたからでも、人々を毛嫌いなさったからでもなく、一人で祈りたい心境だったからだと推察する。

 ところが、弟子たちにはまだ、なぜ主がエルサレムに行って人々に殺されなければならないのか、その理由も必要性も全然わかっていなかった。殺されると言われたが、それなら行かなければいいではないか。死んだら今までの苦労は無になる。それでは神の国も実現できなくなるではないか。ならば殺されることなどあってはならない。この時点の彼らには、主の予告がそういう理屈でしか考えられなかった。
 しかし、ペトロがその思いを代弁して、「そんなことがあってはなりません」と主を諌め、厳しく叱責されたことは彼らの記憶に新しかった。だから「もう少しわかるように話してください」と聞きたかったのだろうが、彼らは怖くて言い出せなかった。聞いてまた叱られるのも怖かったのだろうが、「主の死」がどうしても避けられないことを確認してしまう方が、もっと怖かったのかも知れない。そこからは弟子たちのピリピリした、何か気まずさも漂う緊張感が伝わってくる。
 イエス様にそんな近寄り難い雰囲気があったからだろうか、どうも弟子たちは少し間隔を置いて師の後を歩いていたように思われる。その距離的間隔は、その時の師と弟子たちとの心の隔たりを象徴していたとも言えよう。事実、主は死地に向かって歩いておられたのに、弟子たちは誰が一番偉いかという、最も俗っぽい議論をし合って歩いていたからだ。それは主がイスラエルの国を再建して王となったら、誰が一番いい大臣ポストに就けるかの言い争いに他ならなかった。
 イエス様が天父からの使命を自覚した眼差しで、来るべき苦難と死を見据えておられたとき、弟子たちは俗っぽい人の眼差しで立身出世を議論し合っていた。鈍感というかちぐはぐと言うか、その状況にはふさわしくない、情けない話題だった。ただ、その時の彼らの気持ちもわからないではない。主の死の深刻な話が本当ならとても怖いから、あえて考えないようにして、むしろ元気の出そうな俗っぽい話題に目を向け、気を紛らわそうとしていたのかも知れないからだ。

 ところが、その議論はイエス様には聞こえていたようだ。それはカファルナウムについてからの会話でわかる。主はわかっていたのに、弟子たちに「途中で何を議論していたのか」とお尋ねになった。でも、弟子たちは黙っていた。彼らもそれがふさわしくない話題だったと、後ろめたく感じていたからだろう。すると、主は12使徒を近くに呼んで、「一ばん先になりたい者は・・・」と話し始められた。弟子たちの話の中身が聞こえていた証拠だ。
 主は言われた。「一ばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者となりなさい」と。このお言葉は最後の晩餐の後の話の中では、次のようにもっと詳しく語られている。「異邦人の間では、王が民を支配し、民の上に権力を振るう者が守護者と呼ばれている。しかし、あなたがたはそれではいけない。あなたがたの中でいちばん偉い人は、いちばん若い者のようになり、上に立つ人は仕える者のようになりなさい」(ルカ22;25-26)と。
 これを見れば、「一ばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者となりなさい」という意味は明らかだ。上に立つ人は威張って権力を振るってはいけない。むしろ上に立つ人は一番下の者のようになって、慈しみと謙虚さをもって仕えなさいという戒めだ。神の国では世俗の国とは逆だ。それは福音の世界を世俗世界のあり方と同じに考えてはいけないことを意味する。これは主に従う者の心構えの一つだが、特に指導的立場にある人に当てはまる戒めだ。

 そして、イエス様は一人の子ども抱き上げると、付け加えて言われた。「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである」と。
 カファルナウムはガリラヤでの福音宣教の根拠地だったから、一行がそこに着くと、すぐ人々がいっぱい集まって来たのだろうと思う。病人も普通の人々もいただろうが、子どもたちもいた。その子はたぶん、祝福してもらおうと母親が連れてきていた幼子だったのではなかろうか。「イエスは人に気付かれるのを好まれなかった」とあったが、主はそういう心境だったにもかかわらず、ここでは人々をこころよく受け入れておられたのだ。ここに小さい人を受け入れる最高の模範がある。
 日本でも昔はそうだったが、2000年前のユダヤでは、子供はとるに足りない半端な存在だった。パンの奇跡の時も「男が五千人」と、数えるに足る人間は男だけだった。だからこそイエス様はそういう一人の子どもを取り上げ、小さな者をも大切にしなさいと諭されたのだ。小さな者とは子どもだけのことではなく、貧者、病人、身障者、罪人、身分の低い人、寄留人など、社会の底辺にいる弱者、低い評価を受けている者などを意味する。
 「わたしの名のため」とは、ユダヤ的言い方で、「わたしのため」と同じだ。「わたしのため」とは、主の福音を信じた人々の背後には主がおられ、その人たちにしたことは「わたしにしてくれたこと」(マタイ25;40)になるからだ。特に小さな人々や苦しむ人々の中に主はおられる。そういう人々をこそ大事にして、受け入れ、仕えなさいと諭されたのだ。この場合は指導的立場の人たちだけにではなく、福音を信じて生きる信者すべてに当てはまると思う。

 さて、この日の福音にはどんなメッセージがあるのだろうか?すぐわかるのは、イエス・キリスト様を信じて生きる者の共同体では、上に立つものは一番下になり、仕える者にならなければならないというメッセージだろう。それは12使徒から続く現代の全教会はもとより、末端の小教区共同体でも当てはまる。幸い多くの教導者は主の諭しを実践していると思う。でも、「私のやり方に従えない人は来なくていい」と言う権力主義的な言葉も聞いた。仕える心から出てくるとはとても思えない言葉だった。
 しかし、この日の福音でもっと重要なメッセージは、2回目の受難と復活の予告の箇所にあったと思う。弟子たちは怖くて、主から距離を置いて歩いていたが、私はそれを師と弟子たちの心にある隔りでもあると見た。師の心が理解できなかったから、心にも距離ができていたのだ。まだ救いの業が成就していなかった時点では、それは致し方なかったと思う。しかし、わたし達はどうだろうか?もう救いは実現し、2000年も経った。私たちは主のご受難もご復活も聖霊降臨も知っているし、教会がどんな歴史をたどってきたかも知っている。
 それなのに師の心を理解せず-しようとせず-、距離を置いて生きてはいないか?主の福音を信じていることは本当でも、実践はどうか?日曜日のミサでは主の教えを思い出すが、それ以外ではあの時の弟子たち同様、誰が一番出世するか、誰が一番幸せか、何が一番面白いか、何が一番儲かるか、何が一番おいしいかなどと、世俗の話題ばかりに没頭していないか?ここには、「少しでも主との隔りを狭めて、ついて行こうとしているか?」と、私に問うメッセージがある。

信仰は行い

 年間第24主日の聖書で考察し残したことがある。朗読はイザヤ50;5-9a、ヤコブ2;14-18、マルコ8;27-35だったが、なぜヤコブのこの箇所が読まれたのか、今一釈然としなかった点についてだ。イザヤの箇所は「主の僕の苦難」を語っているので、マルコの福音書が伝える主の受難と復活の予告と重なり、その予言的描写として理解できた。だが、ヤコブの手紙の内容は「行いのない信仰」の話であって、どこに福音の内容との接点があるのかが見えなかったのだ。
 しかし、マルコ8;34-35の「わたしの後に従いたい者は…」に続く箇所を検証したとき、マルコには明記されていないが、並行するマタイの箇所16;27に、「人の子は父の栄光に輝いて天使たちと共に来るが、そのとき、それぞれの行いに応じて報いるのである」と書いてあるのを見て、そこに接点があると気付いた。ヤコブは「行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです」と言っており、イエス様は「そのとき、それぞれの行いに応じて報いる」と明言なさっているからだ。
 それがわかったら、では、このヤコブとはいったい誰なのか?なぜ彼の手紙がペトロやヨハネの前に収録されているのか?それはどんな性質の手紙なのか?この手紙の朗読が来週も続くようなら、それを知っておきたい。そして何よりも、この主日の箇所はどう理解したらいいのか?という疑問が湧いた。そこでそれを解く努力をしてみることにした。

 まず、ヤコブとはいったい誰なのかだが、この手紙を書いたヤコブは、使徒ヨハネの兄ヤコブとは別人だ。信者の皆さんはそのことを知っていたのだろうか?ヨハネの兄は聖大ヤコブと言われ、ペトロとヨハネと共によく主の側近くにいた3使徒の一人だが、紀元44年にヘロデ・アグリッパ王によってエルサレムで殺され、殉教した。手紙は残していない。もちろんスペインになど行ったことはないが、同国の守護の聖人として、有名な巡礼地サンチャーゴ・デ・コンポステーラで尊敬を受けている。
 他方、手紙を書いたヤコブとは、実際は誰だったのかはっきりしないのだが、カトリック教会では伝統的に聖小ヤコブだと信じられてきた。2人の使徒はヨハネの兄が大ヤコブなのに対し、彼は小ヤコブと呼ばれるが、福音書ではアルファイの子(マルコ3;18)と言われている。イエス様の従兄弟だったが、エルサレムの司教として働き、紀元62年に殉教した。福音書には活動が書かれていないが、使徒言行録には発言が残されている。特にパウロとバルナバが出席したエルサレムの使徒会議では、ペトロと共に会議をリードして、異邦人にはユダヤ人の習慣を押し付けない、という画期的方針の決定(徒15;13-21)に大きな影響を及ぼした。

 では、なぜ彼の手紙が使徒の頭だったペトロの手紙の前に収録されているのか?これには今確かな答えはない。手元に参考文献もなく、よく調べたわけでもないから、全くの私見だが、パウロの手紙がどの使徒の手紙よりも先にあるのを見ると、とにかくヤコブの手紙の位置は、彼がペトロやヨハネよりも重く見られていたからそうなったのではないことは確かだ。4福音書もそうだが地位役務には関係はないと思う。
 しかし、彼がエルサレムの初代教会総責任者として大いに尊敬されていたことは、新約聖書編纂の順序に何らかの影響は与えたかも知れない。興味深いのは聖パウロの言葉だ。彼はガラテヤの教会への手紙で使徒会議に言及したとき、「ヤコブとケファ(=ペトロ)とヨハネ、つまり柱と目されるおもだった人たちは…」(ガラ2;9)と書いている。このヤコブは小ヤコブだが、彼の名はペトロの前に置かれている。パウロが初代教会の重鎮だった彼に一目も二目も置いていた証拠だと思う。こういうことからすれば、彼の手紙の位置も納得できないことはない。

 では、それはどんな性質の手紙なのか言うと、冒頭に「離散している十二部族の人たちにあいさつ」とあるように、特定の共同体や個人に宛てた聖パウロの手紙などとは違い、宛先は不特定だ。離散したイスラエルの十二部族は地中海世界のどこにもいたからだ。しかし、ユダヤ系キリスト信者宛であることは間違いなく、内容は手紙と言うより、旧約の箴言や知恵の書に似た語り口で、イエス様の福音に従って生きる人の生き方を説いた、「勧めと励ましの訓戒集」という感がある。 
 この手紙は非常に早く書かれたという説がある。根拠はこうだ。エルサレムの使徒会議は49年だったが、そこでの大問題はユダヤ人系信者がギリシャ人系信者に、割礼などユダヤの律法を押し付けようとしたことだった。ところが、パウロのガラテヤの教会への手紙などとは大違いで、ヤコブの手紙はその問題に全然触れていない。もし彼がその問題を知っていたら、信仰と行いの問題と同様に、それに言及しなかったはずがない。なのに全然触れていないということは、彼の手紙がその大問題の発生前、つまり49年以前に書かれたからではないかという推論だ。もちろん、それより後で書かれたのかも知れないが、少なくとも62年の殉教前だったことは確かだ。
 ということは、現存するどの福音書よりも早い年代に書かれたことになる。そこで私の興味をそそるのは、まだ福音書が出来ていなかった時に、福音書の中にある言葉がすでにこの手紙の中に見られることだ。例えば「誓いを立ててはなりません。・・・あなたがたは『然り』は『然り』とし、『否』は『否』としなさい」(5;12)とあるが、それはマタイ5;34-37とそっくりだ。

 だから、カトリック教会は聖伝に従ってこの手紙を正典としてきた。ところが、プロテスタントの教会はそれを認めなかった。もっとも今日では、それを正典に入れている教派が多いそうだ。現に日本聖書教会訳も日本国際ギデオン協会訳もそうだ。しかし、かつては違った。それはマルチン・ルターがこの手紙を「藁の書簡」と言って、除外したことが発端だった。そして、彼がヤコブの手紙をそう呼んで拒否したのは、まさにこの主日の朗読の箇所が、彼の神学的主張と真っ向対立していると見たからだった。では、このヤコブ2;14-18の箇所はどう理解したらいいのだろうか?
 使徒ヤコブはここで、信仰をもっていても行いが伴わなければ、その信仰は何の役にも立たないと言っている。その一例として、ある兄弟姉妹が着る物にも食べ物にも事欠いているのに、口先で「温まりなさい。満腹するまで食べなさい」というだけで、何にも与えない場合を述べている。そんな人の信仰は救いに役立たない。行いを伴わない信仰は、それだけでは死んだものだ。行いがあってこそ、信仰は本物なのだと言う。
 ところが、ルターは「恩寵と信仰のみ」(Sola gratia, sola fides)でよい。行いは要らない。人が救われるのは神の恵みによってだけで、それを信じる信仰があれば足りる。人間は心底から罪に汚染されてしまったので、その行為は救いには役立たないと主張し、ローマの信徒への手紙の一節、「正しいものは信仰によって生きる」(ロマ1;17=ハバクク書2;4の引用)を自説の根拠にした。私は彼の著作を直接読んでいないが、この問題はもういやと言うほど論じられてきたから、もし間違って理解されていたのなら、とうにそれは誤解だと反論されていただろう。だから、間違いはありえないが、教会一致に向かっている今日、私には今更古い論争を蒸し返すつもりはない。
 ただ、ルターは神学を信頼し過ぎていたように思う。アッシジの聖フランシスコのように、もっと福音の素朴さ、明るさ、天父の子である喜びの中に身を置くべきだった。イエス様のお言葉を虚心坦懐に読めば、人間が魂の底から腐り切ってしまっている、というような暗く歪んで、悲観的な思想には陥らなかったと思う。しかし、彼は自説の神学的結論を絶対に正しいと思い込んでいたから、行いのない信仰ではだめだと説くヤコブの手紙を、自説と相容れないものとして排斥し、藁のように無価値だとして新約聖書から外してしまったのだった。

 実は、カトリックの神学もとうの昔から、人が救われるのは神の恵みによるのであり、人が義とされるのは信仰によると教えてきた。ルターと違わない。では何が違ったかと言うと、人の行いの評価についてだ。彼はそれを無益だとした。しかし、イエス様は裁きの日、右の人たちに「祝福された者たちよ、約束された国を受け継ぎなさい。あなたがたは私が飢えていた時に食べさせ、渇いていた時に飲ませ、・・・たからだ」(マタイ26;34-37)と、行いに応じて報いられることをはっきり言われた。行いはしてもしなくても同じではないのだ。「主よ、主よと言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである」(マタイ7;21)とも言われている。
 行いのない信仰だけでよいなどとは、福音書のどこにも書いてないのだ。むしろイエス様は行いが必要だと何回も話しておられる。ヤコブはまさに主の教えを別の言葉で忠実に伝えたのだ。そして、教会はその手紙を新約聖書の一部として認めてきたのだった。それを自説に合わないからと言って排除したルターの行為は、不敬と思い上がりのそしりを免れないものだったと思う。
 ヤコブは信仰か行いかの選択を言っているのではなく、信仰がなくても行いがあればいいと言ったのでもない。行いのない信仰か、行いのある信仰かの是非を語り、後者こそが本物の信仰だと諭したのだ。ただ、行いが伴うかどうかで信仰を比較すると、何か信仰と行いを対立するもののように理解しやすく、誤解を生むリスクは残る。そこで、私が勧めるのは「信仰と行い」ではなく、「信仰は行い」と発想を変えることだ。そうすると、問題は次のように違って見えてくる。
 人は信仰によって救われる。しかし、「信仰だけでよい。行いは要らない」と言ったら、実は信仰そのものをも否定することになる。なぜなら、信仰もまた信じるという人間の一行為だからだ。信仰を認める人は、少なくとも信仰という一つの行為だけは認めることになる。従って、信仰だけあればよく、行いは要らないとは言えなくなるわけだ。この論理ならルターも納得できるのではないか。
 ユダヤ人たちが「私たちの父はアブラハムです」と言ったとき、イエス様は「アブラハムの子なら、アブラハムと同じ業をするはずだ」と答えられた。アブラハムの業とは、神の言葉を信じた行いであった。聖パウロはローマの信徒への手紙4;3に、「アブラハムは神を信じた。それが彼の義と認められた」(創15;6)という旧約聖書の言葉を引用した。アブララハムが神を信じたのは、信じるという行いでもあったのだ。信と行を二つの対立するものとしてではなく、一つのことの表裏と見る方がいいのではないか。信仰より、信行だ。私はそう思う。
 しかし、これらがすべてわかっても、実践しなかったら何になろうか。それが肝心なことだ。

何だ、またかではなく

 秋だ。わが家の前のケヤキ並木路ぞいに、彼岸花が咲き始めた。時は過ぎる。典礼暦年も、王であるキリストの祝日まであと10週を残すだけになった。年間第24主日の今日、9月13日、聖書は第一朗読がイザヤ50;5-9a、第二朗読がヤコブ2;14-18、福音はマルコ8;27-35だった。 
 福音の前半はイエス様一行が、フィリッポのカイサリア地方に行かれた折の話だ。主が弟子たちに、「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか?」と質問されたとき、ペトロが「あなたはメシアです」と答えた箇所に当たる。後半は、主がイスラエルの指導者たちによって殺され、三日後に復活すると予告をなさった時の話で、それをいさめたペトロが、「サタン、引き下がれ!」と、厳しく叱責されたことを伝えている箇所だ。 

 それを知ったとたん、私の心には一瞬、「何だ、またか」という思いがよぎった。この話題についてはもう再三述べて来たし、昨年の年間第21と第22主日には、コラムの聖書反芻No.275「口止めしたわけとQ&A」とNo.276「厳しい叱責」で、2回に渡って十分に書いたからだ。この記事ではマルコとマタイに大きな違いはない。マタイの福音書の時すでに十分論考したのだから、また書く必要はないだろう。それに、それ以上書くのはしんどいし…と思えたのだ。 
 しかしすぐ、そんな思いは福音書への敬いを欠くことで、不遜だと反省した。昨年出版した本「あの笑顔が甦った」には、「重要なことは、『何だ、またか』と言われようと何と言われようと、繰り返し話さなければならないと思っています」と書いたのに、書いた当の本人が「何だ、またか」と呟いたのでは話にならない。情けない、と自分を叱った。そうなのだ。信仰とは、「何だ、またか」ではなく、「何度も、また」同じことを聞き、考えることによって鍛えられ、糧とすることによって成長していくものなのだ。一度だけ聞いたり考えたりすれば、それで済むというものではない。疑いも湧けば解らなくなることもある。誘惑も起こる。そうであればこそ、イエス様はご受難と復活の予告などを、何回も弟子たちに繰り返しお話になったのだと思う。

 そうは言っても、聞いたり読んだりする側ではなく、伝える側からすれば、「何度も、また」同じ事を話したり書いたりすることは、そんなにたやすいことではない。そう思ったら、ふとボワソノー神父様のことが脳裏に浮かんだ。30年以上もカトリック藤が丘教会の主任司祭だったと聞くが、説教一つをとって見ても、どんなに大変だったことだろうか。典礼の聖書は3年で一巡だから、30年同じ教会にいれば、聖書の同じ箇所が10回は巡ってくる計算だ。それを「何だ、またか」などとは言わず、よくぞ淡々とやり通されたものだと、今更ながら感心してしまったのだ。
 聖書の同じ箇所について話すことは、2回や3回ならそれほど大変ではない。しかし、それ以上になると次第に重圧となる。「ネタ切れ」が起こり、モチベーションも落ちてくるからだ。そこで、説教を手抜きしてやり過ごす司祭が出てくる。同一教会における主任司祭の任期は、通常6年ほどが目安と聞くが、説教面からだけ見ても、それは理にかなっていると思う。同じ箇所が2度巡って来るぐらいなら、司祭も充実度と鮮度を保った説教をすることができるからだ。
 それに比べると、ボワソノー神父様の場合は異例だった。私はいったい日曜日ごとの説教を、どう準備なさっていたのだろうかと、感服して想像する。その半面、あらためて同神父様の説教を思い出そうとすると、どうも内容が思い出せない。奇をてらわず、知識もひけらかさず、当たり前のことを当たり前に話しておられたように思うが、印象に残った言葉とか具体的な話とかが、ほとんど記憶に残っていないのだ。もっとも私だけぼけーっとしていたせいかも知れないが…
 なぜそうだったのかを考えてみると、たぶんそのわけは、分裂もわだかまりもなかったその頃の教会そのものにあったのではないかと思う。そんな平穏な信仰共同体の中では、信者たちは説教が眠気を誘うほど単調であっても気にせず、慈父のような主任司祭がそこにいて、話していてくれればそれで安心し、それだけでよかった。だから、説教の内容にもあまり注意しなかったということだ。
 しかし、説教の内容が記憶に残っていなくても、それは信仰の血肉となって信者たちを養っていたのだと思う。それは食べた物がそのまま体内に残らず、吸収されて形を失っても、体全体を健康に保つのと同じだ。この教会が横浜教区でも屈指の立派な教会堂を建て、信者数も非常に増大したことがその証明だと思う。これは信者達の努力もあったが、同神父が30年余の間、何度も繰り返し福音を伝えて、彼らの信仰を育てたおかげだ。それを評価しない人もいるが、私は聖パウロと共に言いたい。「良い知らせを伝える者の足は、何と美しいことか」(ロマ10;15)と。

 さて、かなり横道にそれてしまったので、今日の福音そのものに戻る。ペトロの素晴らしい信仰表明とご受難・ご復活の予告は非常に重要なので、何だ、またかではなく、何度もまた語らなければならない。だから、私もここで表明しよう。ペトロと同じように、「主よ、あなたはメシアです」と。そして、ペトロのようには主を諌めず、主のご受難と復活を信じて、「ついて行きます」と。
 一番大切な問いにそう答えた上で、今日は何を取り上げるかを明らかにしたい。このブログは福音宣教のためというより(それも否定しないが…)、むしろ私自身が考えることを楽しむ場として使っている。だから、すでに取り上げたことを重複して述べるよりも、まだ触れていないテーマを取り上げる方を選びたい。ところで、この日の福音でまだ取り上げていないテーマは何かと言うと、マルコ8;34-38に書いてある事柄だ。そこで今日はそれを考察してみたいと思う。では、そこにはどんなことが述べられているかというと、こう書いてある。

 「それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。『わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。』」と。
 この言葉の前には、イエス様がペトロを「サタン、引き下がれ」とお叱りになった場面があった。それを聞いていたのはどうも同行した弟子たちだけだったように思われる。ところが、「十字架を背負って従いなさい」と言われたこの場面では、「それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて」と、イエス様はむしろ群衆を呼んで話されている。もちろん弟子たちも一緒だが、どうも群集の方がメインだったような印象を与える。
 この事実からすると、これらの事柄があったのは、必ずしも同一場所ではなかったのではないかと私には思える。つまり、この日の福音で、ペトロが「あなたは、メシアです」と言った場所、「サタン、引き下がれ」と叱られた場所、そして主に従う心構えを群集に話された場所は、それぞれ別の場所だったのではないかということだ。その区分は、31節も34節も「それから、」で始まっている。もちろん、それらの場所が同じであっても不都合なことはない。しかし、同一場所だと見なす必要もないということだ。むしろ、別と見なしたほうが筋は通る。では、なぜあたかも同じ場所で話されたかのように伝えられているかと言うと、内容的に継続した話題だからだと思う。

 ところでイエス様は、ペトロがご自分の受難をあってはならないことだと諌めたとき、「あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」と断じて斥けられた。このお言葉は群集に話された「主に従う心構え」を理解する鍵になる。それは神の思いと人間の思いのどちらを、去就を決める基準にするかの問題だからだ。人間の思いで動くことは、神ではなくサタンに加担することになる。だから主はペトロを叱責なさった。では、神のことを思うなら、どういう論理で動くことになるのか?
 それは「自分を捨て」て、主に従うことであった。「自分を捨て」とは自分を否定することを意味する。それは自己主張、自己肯定をよしとする世の中、特に現代の価値観とは正反対に見える。そんな生き方を、なぜイエス様は群集にまで求められたのだろうか?いや、一見そう見えても、実は反対ではないのだ。なぜなら今風に言うと、理想の自己は今の自己を乗り越えてこそ実現するので、現状のままの自己を主張し肯定している限り何も変わらないからだ。今の自分を否定し脱皮すること、自分を捨てるとはそういうことなのだ。
 つまり、イエス様は人間の思いではなく、神の思いを基準にして、考え方、生き方を変えなさいと言われたのだ。人は生きよう生きようとして、「人間の思い」を尺度にした生き方にしがみついている。そこには変わることを嫌がる自分、罪のぬるま湯から出たがらない自分、世の富や逸楽に傾く自分、福音的生き方に踏み出せない自分がいる。人はそういうあり方が自分には安全だ、こうすれば命が保てると信じがちだ。 だが、イエス様は違うと言われたのだ。「自分の命を救いたいと思う人は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである」と。まさに逆説の真理だ。
 ここで言う「命を失う」は、自分が持っているものの中で最も大切な物を捨てることに他ならない。最もかけがえのないもの、それが命だからだ。「自分を捨て」とは物や財産、名声、地位、夢などはもとより、捨てまいと執着する自我も捨て、必要ならば肉体的命までも捨てる。それが殉教者だが、そういうあり方を意味する。もちろん、ここでは肉体的命のことだけではなく、むしろもう一つの命、永遠の命のことが語られていることは明らかだ。
 だが、命はやみくもに捨てるわけではない。神のご意思に沿った目的のために捨てる。それが「わたしのため、また福音のため」で、もし愚行のためなら命を失っても意味はない。ところで、主のお言葉に従って自分を捨て、命まで失う人は命を救うと言われる。なぜか?命の主である神は命を与えることがおできになるからだ。反対に、自力で自分の命を救いたいと思う人は、それを失う。なぜなら人には命を与える力はないからだ。何だか小難しくなったが、この逆説的真理は、何となくわかればそれでいいと思う。

 残るは、「自分の十字架を背負って」と言われたお言葉だ。なぜ後回しにしたかというと、イエス様が本当に「十字架を背負って」と言われたかどうか、私には少し疑問があるからだ。そうは言われなかった、と言い切るような恐れ多いことはしないが、あれこれ考えると、どうもマルコが使徒たちの時代に教会内で定着していた表現を、イエス様のお言葉に挿入したのではないだろうか、そして、マタイとルカはそれを踏襲したのではないか、と思えてならないのだ。
 そう考える根拠はこうだ。イエス様は「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、・・・」と予告なさった。ところが、「十字架につけられて」とはどこにも言っておられない。それは他の福音書でも同じだ。「十字架につけられるため引き渡される」と初めて口にされたのは、ご受難のたった2日前(マタイ26;2)だった。それもマタイだけが伝えている。そうすると、まだガリラヤ宣教中の期間には、主が十字架にかけられて死ぬことは、誰も知ってはいなかったのではなかろうか。
 もしそうだったとすれば、「多くの苦しみを受け、殺される」という言葉だけから、十字架を背負い、そこに架けられて死ぬというイメージは誰にも持てなかったと思う。つまり、この時点では弟子たちにも群衆にも、主の十字架というモデルがまだわかっていなかったことを意味する。もしそうだったとしたら、「自分の十字架を背負って従いなさい」と言われても、群集はもとより、弟子たちも何のことかよくわからなかったに違いない。そんな意味不明なことをイエス様が言われただろうか?私はそう疑問に思うのだ。 
 もちろん、彼らは十字架の刑を知っていた。だから、群集は主のご受難のとき、「十字架につけろ」と叫んだ。しかしこの時点では、彼らにとってイエス様と十字架とは結びついていなかったと思う。そもそも十字架は当時、呪いの木と言われていた。そこにいた弟子たちと群集は十字架についてそういう認識しか持っていなかったはずだ。だから、犯罪者でもないのに、そんな忌み嫌うべき呪いの木を、なぜ自分が背負わなければならないのか、彼らにはまったく理解できないことだったと思う。 
 それに対して、福音書ができた頃は、十字架に対する認識は一変していた。それは救いの象徴になっていたのだ。主が十字架で死去なさったこと、そのおかげで救いが成就したことは周知の事実だったし、信者たちは十字架を崇敬していた。だから、自分たちも主のため、福音のために苦難を甘受することを、「自分の十字架を背負う」と表現し、それが十字架を背負われた主に従う生き方と見なされたのだと思う。
 この表現は当時の教会内では、ごく自然に使われるようになっていたのではなかろうか。おそらく説教師も使ったことであろう。それをマルコが主の言葉として、本当に主が話されたお言葉の中に書き加えたのだとしたら、つじつまがよく合う。実際、「自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」という一節は、「自分の十字架を背負って」がなくても意味はちゃんと通る。イエス様の元のお言葉はこの部分なしだったのかも知れない、と私が推測するゆえんだ。
 しかし、たとえそれが主の元々のお言葉ではなく、後の教会で人口に膾炙した表現を福音記者が書き加えたのであったとしても、救いが成就した今は大した問題ではない。そのお言葉が本当に主の言われたものかどうかということは、単に知的興味の問題にすぎない。大事なのはその意味だが、イエス様は十字架を背負って、模範を見せてくださった。だから、自分の十字架を背負うという意味を理解することはもう難しくない。もっと大事でもっと難しいのは、それを実際に背負って生き抜くことにある。

 イエス様は弟子たちにだけでなく、群集にも自分の十字架を背負って従うことを求められた。それは非常に厳しい生き方だ。しかし、主は厳しい要求だけをなされたのではない。その後に、「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか」と言われている。神様の見方で人生の損得勘定をしなさいと教えてくださったのだ。カルジナル・ジョン・ニューマンの書に、「永遠を考慮に入れると、すべての計算が違ってくる」という言葉があったが、まさにこのことだと思う。それはあの愚かな金持ちの譬え(ルカ12;13-21)にも通じる人生の見方だ。
 その人生の損得勘定は比類ない報いでわかる。主は自分を捨て、自分の十字架を背負って主に従い、主と福音のために命を惜しまない者は、「命を得る」と約束された。マルコには書かれていないが、マタイには「人の子は父の栄光に輝いて天使たちと共に来るが、そのとき、それぞれの行いに応じて報いるのである」(マタイ16;27)と書いてある。十字架は辛く、苦しく、重い。しかし、報いの時は必ず来るのだ。
 それを信じるか信じられるか。信じなければ自分の十字架は背負いきれないと思う。

なぜ手の込んだことを…?

 「人々は耳が聞こえず舌の回らない人を連れて来て、その上に手を置いてくださるようにと願った。そこで、イエスはこの人だけを群衆の中から連れ出し、指をその耳に入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた。そして、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、『エッファタ』と言われた。これは、『開け』という意味である。するとたちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになった。イエスは人々に、だれもこのことを話してはいけない、と口止めされた。」
 これは9月6日、年間第23主日のミサで読まれる福音、マルコ7;31-37の中心部分だ。多くの人はこれを読むと、この治癒の仕方に疑問を感じるのではないだろうか。イエス様は常々お言葉一つで中風者とか手足の悪い人を治され、「起きなさい」と言うだけで少女を蘇生させなさった。それなのに、なぜこの障害者には、指を耳に入れたり、舌に唾をつけたり、そんな手の込んだことをなさったのだろうか?そういう疑問だ。

 そのわけを探る前に、この奇跡が行なわれた時と場所を確認しておこう。マルコによれば、「イエスはティルスの地方を去り、シドンを経てデカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖へやって来られた」と書いてある。これはマタイによる福音書15;31と重なる記述だ。イエス様はフェニキア(現在のレバノン)地方に遠出され、またガリラヤ地方に戻って来られたところだったのだ。
 ところが、マルコが伝えるこの聾唖者の治癒は他の福音書にはない。マルコ単独の記述だ。では信憑性がないかというと、そういうことにはならない。一つの福音書しか伝えていない出来事は他にもたくさんある。それに、この奇跡的治癒を裏付ける証言は皆無なのか、とあえて念を押されたら、いや、含蓄的に示唆する箇所は一つあると答えなければなるまい。マタイ15;29-31がそれだ。
 マタイはそこに、「大勢の群衆が、足の不自由な人、目の見えない人、体の不自由な人、口の利けない人、その他多くの病人を連れて来て、イエスの足もとに横たえたので、イエスはこれらの人々をいやされた」と書いている。その身障者リストの中には、「口の利けない人」もいる。マルコの福音書の聾唖者がこれに当たると推測できる。マルコはその一ケースを特記したのだと思う。

 マルコの記述によれば、その人は完全な聾唖者ではなく、舌はもつれるが、いくらかは話せたようだ。そして、子どもとか少女とかの特定がないから、大人だったのだと思われる。一つの特徴は、彼が人々に連れて来られたことだ。連れて来たのは親兄弟とは書いてないから、親戚とか知り合いとか、彼の面倒を見ていた人々ではないだろうか。彼らはイエス様がガリラヤに戻られたという噂を聞いて、その人を主のもとに連れて来たのだ。
 しかし、ちょっと考えればわかることだが、その人が大人だったとすれば、連れて来るには理由を納得させなければならなかったに違いない。ところが耳が聞こえないのでは、口が多少きけたとしても、言葉でわからせることは無理だっただろう。当時はまだちゃんとした手話はなかっただろうから、身振り手振りを使う、何らかの手話的な意思伝達方法を使ったのだろうか。苦労があったと思う。あるいは逆にその人がもう主のことを知っていて、彼らに連れて行ってと願ったこともあり得る。いずれにせよ、彼らは主と会う幸運を何とか実現させてやろうと、彼を連れてきたのだ。

 これらの事前考証は、なぜイエス様が手の込んだ治癒をなさったのか、そのわけを示唆してくれる。耳の聞こえない聾唖者に、いくら言葉で「あなたの信仰があなたを救った。耳と口がよくなれ」と言っても、聞こえないのでは無意味だ。だから、主はいつもとは違う治癒方法をとられたのだと思う。そう考えると、指をその耳に入れ、唾をつけてその舌に触れ、天を仰いで深く息をつかれたことは、すべて意味があったということがわかってくる。
 その人は耳と口が不自由でも、目はちゃんと物を見ることができた。皮膚感覚も健常だった。従って、イエス様が自分の耳(多分片耳だけ)に指を入れ、もう片方の手で自分の口を開かせて、唾をつけた指先を自分の舌に触れたとき、その人は今何が行われているかを、自分の目でしっかりと見ることができた。そして、どこに触れられているかも、皮膚感覚でよくわかったはずだ。言葉が通じない人に対してだったからこそ、イエス様は行なおうとしていたことをわからせるために、そのような動作をなさったのだ。私はそう解釈する。
 
 では、なぜ「天を仰いで深く息を」つかれたのだろうか?「天を仰いで」は祈りのお姿だ。しかし、「深く息をつき」は、原典ギリシャ語ではエステナクセンと言い、「溜息をついた、嘆息した、呻いた」の意味だ。だとすれば、天を仰いだのは、感謝や喜びを表わすためではなかったと考えざるをえない。むしろ、呻くような溜息をつく思いがあったからだろう。ではどんな思いがあったのだろうか?
 私が想像するのは罪の歴史だ。そもそも原罪と死が世に入ったのは、人祖が誘惑者の言葉を耳で聞き、うかつにも口で会話をして、信じたからだった。以来、人類は耳と口でどれほど罪悪を重ねてきたことであろうか。この聾唖者も、聞こえず話せない間は無縁だった罪を、耳と口が使えるようになれば犯す可能性が大いにあった。イエス様は、世の罪を除くために来られた神の子羊。溜息は、そういう罪の結果と世の現状を嘆かれてのことではなかったのだろうか。 
 たしかに、耳と口には罪悪の道具となるリスクがある。しかし反対に、神様の恵みがあれば、人はそれらを使って実にすばらしい生き方もできる。ある典礼聖歌は、「聞こえていますかいつも。…よい耳、よい口を持たなければ」と歌うが、すばらしい生き方とは、耳で神様の言葉を聞き、口で感謝と賛美をささげ、苦しむ人に耳を傾け、力づけて、福音的に生きることだ。その聾唖者もそういう生き方ができるよう、イエス様はこの治癒でチャンスをお与えになったのだと思う。

 だから、言われた。「エッファタ!」(開け!)と。これは非常に貴重なお言葉だ。なぜなら、イエス様が日常使っておられたアラマイ語のままでの表現が、新約聖書原典のギリシャ語の中に残って伝えられたものだからだ。印象がきわめて強烈だったから、弟子たちもそのまま伝えていたのであろう。私もこれを発音すると、主の生のお言葉に触れるような感動を覚える。ちなみに、その英訳は原典ギリシャ語の読みに倣いEph’phatha と綴っているが、ラテン語のヴルガタ訳はEffethaと表記し、ヘブライ語訳は Hipathaha と訳している。アラマイ語だと本来ならItphathahaらしいから、ギリシャ語原典にある発音はやや崩れて伝わったのだろうか。
 さて、イエス様は天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、「エッファタ」と言われた。すると「たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになった。」驚くべき奇跡が起こったのだった。それまで言葉が聞こえていなかったのに、果たしてすぐちゃんと話せるようになるものだろうか?と疑念を抱く人もいるだろう。私は「はっきり話す」という意味を舌が自由に動くようになったことと理解した。しかし、もしその人がそれまで言葉を聞いたこともなかったのに、発音もアクセントもイントネーションもちゃんとできてしまったとしても、これが耳と口の奇跡的治癒であった以上、私は不思議とは思わない。それほどすばらしい奇跡だったのだと解釈していいと思う。

 ところが、興味深いことに、イエス様はすぐさま人々に、「だれもこのことを話してはいけない」と口止めされた。誇らしげにも、喜んでおられたようにも見えない。なぜ?という疑問が湧くだろうが、同じような口止めがあった例で、すでに聖書反芻No.308「復活後のお姿の予兆」とNo.348「なぜ3人の弟子だけ?」に、そのわけについて書いているから、ここでは繰り返さない。
 しかし、口止めされた人々が誰だったのかは気になる。いったいそれは誰だったのだろうか?主はその聾唖者を治癒なさる前に、「群衆の中から連れ出された」とある。そうはなさったが、二人だけになったのではなく、その人を連れて来た人たちと弟子たちは主といっしょにいたのだと思う。だから彼らはその奇跡を目撃した。だとすれば、口止めされたのはその目撃者たちに対してであったと言えよう。だが彼らがそれを守っても、噂は広まるばかりで止まらなかった。治癒されたその人が何不自由なく話せるようになったこと自体、もう口止めが無理な事実だったからだ。
 そこで、人々は驚いて言った。「この方のなさったことはすべて、すばらしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる」と。だから、この年間第23主日の第一朗読はそれを予言したかのような、イザヤ35;4-7aが読まれるのだ。「神は来て、あなたたちを救われる。そのとき、見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開く。そのとき、歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う」と。

 従って、当然この箇所のメインテーマは喜ばしい福音の実現にある。奇跡はその証明に他ならない。だが同時に、隠れたテーマも見落としたくないものだ。その一つは「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい」(ルカ6;31)という教えの実践だ。この時、人々はその聾唖の人を治してくださいと言って来たのではなく、その人の上に手を置いてくださいと願ったのだった。しかし、イエス様は彼らが心の中で、できればしてほしいと思っていたことをお察しになった。だから、治してと頼まれなかったのに治癒なさったのだった。私はそこに心を打たれる。
 もう一つは、この奇跡的治癒が彼らへのさりげない報いだったことだ。その身障者は自力で来たのではなく、連れて来られた。彼の世話をしていた人たちに信仰と愛があったからこそ、それは実行されたのだった。だから、イエス様が彼を治されたのは、彼らの信仰をほめて報いたことでもあって、それは「あなた方の信仰が彼を救った」と言われたに等しい。これは現代の福祉活動で、信仰のことも心にかけながら、病人や障害者のお世話をする人たちに重なることだと思う。ここにこの出来事の現代的な意味がある。聾唖者を連れて来た人々は福祉の元祖だったのだ。

世の中にちょっぴり口出し

 政治のことにはついぞ口出ししないのだが、ちょっぴり時間があるし、思いついたことがちょっぴりあるので、ちょっぴり口出ししてみる気になった。思いついたこととは総選挙にまつわるあれこれのことだ。
 わが家は朝日新聞を購読しているのだが、私は新聞社発信の記事以上に、声欄を楽しみにして読む。それは一般庶民の思いをじかに知る、貴重な情報源だからだ。もちろんそれとても、編集部のフィルターを通して掲載されることは百も承知だが、それでもいろいろな声は世の中の実情を反映してとても興味深い。

 ところで、今日、9月2日の朝刊には、声欄に私の目を惹いた投書が二つと、その反対側ページのオピニオン欄に、山崎正和氏の「世論と空気」という長い論文があった。それらが私にちょっぴり口出しする気を起こさせたのだが、声欄投書の一つは「失業中の社会負担を軽減して」という、50代パート女性の悲鳴に近い願いだった。彼女はこう書いていた。
 「夫が昨年10月失業して以来、『失業』の恐ろしさを知った。失業手当が少ないので、困るだろうな、という程度しか考えていなかったが、もっと恐ろしいことがあった。国民健康保険料も住民税も働いていた時の収入で計算されるため、現在は収入がないにもかかわらず、多額の金額を納めなくてはならないことである。国民年金保険料も払えば、それだけで失業手当の半分が消えてしまう。…失業者を何とか救済する手当てはないものか。私は生活していけるか不安でならない。夫はとても痩せてしまった」と。
 もちろん、辛く苦しい境遇の人は他にも無数にいる。かつて30代で、その日その日を生きるため、日雇い仕事をした経験のある私には、そういう人たちの不安や悲しみはよ~くわかる。このパート女性は新しくできる民主党政権に、名指しで何かを要望してはいない。政治の任に当たる人たちに何とかしてほしいと叫んでいるだけだ。でも、おそらく何とかしてほしいから選挙には行ったことだろう。そして、何とかしてくれそうな政党に投票したのではなかろうか。それが叶うか叶わないかは別として、今回の選挙には人々のそういう切実な願いが込められていたのだ。

 それに比べ、劇作家・評論家山崎正和氏の論文には不愉快になった。たしかに氏は豊富な知識を持ち、頭脳は明晰な人ではあろう。しかし、彼の物言いは一般の人々を見下した論調だ。彼は書いた。「私は日本社会に広がる『リーダーなきポピュリズム』が今回の結果を生んだと見ています」と。要するに、2005年の郵政選挙の裏返しで、今度も「政権選択」というワンフレーズに踊らされ、民衆は雪だるまのように膨らんで民主党に転がっていったというのだ。
 氏は自分だけが賢い者であるかのような物の言い方で、国民も愚かなら政治家も愚かな衆愚政治だと、傍観者的に事態を見ている。しかし、その頭でっかち批評は事実とは違っている。今回、多くの人は熟慮して選挙に行ったからだ。2005年に小泉氏に踊らされたときは、確かにポピュリズムだった。私もそれを苦々しく見ていたが、今回は誰も躍らされてはいなかった。それに、彼は知識だけで論じ、庶民の苦悩とか、切実な願いとかを親身に感じていない。こんな論評に新聞の半ページを割くくらいなら、声欄に2倍の声を掲載した方がずっとましだったのにと思った。 

 声欄のもう一つの投書は山崎氏への意図せざる反論になっていた。それは大学非常勤講師S氏が書いたもので、「立会人が見た活気ある投票所」というタイトルだが、今回の選挙が単なるポピュリズムによる付和雷同的な行動ではなく、有権者の本気度を示すものだったことを物語っているからだ。投票立会人だった彼は、初めて経験したことをこう書いている。
 「これまでの投票風景は、私の知る限り閑散としていて、マンネリと諦めが漂っていたように思う。しかし、今回は生き生きとして活気に満ちていた。これが本当の国民による政治の始まりかと、希望がわいた」と。まずは投票箱を写メールしたいという若い母親に慌てさせられ、出口から入ってくる人、投票用紙を持たずに来る人、消しゴムを借りに来る人、書き方を聞きに来る人などの珍事が続出して、「初めて投票所に来た、そんな人たちが目立った」そうだ。それは皆が本気だったからだ。

 その活気は私自身も投票所で実感した。私たち夫婦は町田市成瀬台小学校にある投票所に、午前11時ごろ行った。ミサには前日夜に与っていたから、この時間ならそれほど混むこともあるまいと思って出かけたのだが、着いてみて「ほう!これはすごい」と驚いた。校庭には何と100人ほどもいるかと思われる、長蛇の列ができていたからだ。もちろん、列の先は投票所の廊下の見えない列につながっていた。折悪しく雨も降り出した。でも、2列に並んだ隣の人も、車椅子に乗った老母に傘をさしてやりながら、「ずいぶん時間がかかりそうだから帰ろう」などとは言わなかった。
 この長蛇の列を見たとき、私の脳裏に浮かんだのはシエラレオネの選挙風景だった。この国では全てを荒廃させた10年の内戦があった。2002年平和がもどって、2007年8月11日に2回目の総選挙があった。大統領と国会議員を選ぶその投票風景をBBCのインターネット報道で見て、私はすごく感激したことを覚えている。シエラレオネでは8月は雨期のまっ最中だ。しかし、人々は傘をさしたり濡れたりしたままで、すごい長蛇の列を作り、投票の番を待っていた。そこには政治に希望を託す人々の熱気があった。民主主義を否定する者たちに苦しめられたからこその投票だったのだ。それに比べたら、わが成瀬台投票所の列はまだ短かったが、それでも人々の意思がそこにあった。山崎氏はそういう現実を見たのだろうか。 
 ちなみに、2年前のシエラレオネの総選挙では、大統領にはAPC党のアーネスト・バイ・コロマ氏が当選した。昨年同国を訪問した時、その結果、国は良くなったかと聞いたところ、人々はそんなに気にしていないようだった。少しずつはよくなっている。誰が政権を担っても、一気に全てを良くすることはできない。今まで余りにもひどかったのだから、少しずつだけでもよくなるならそれでよい。何よりも平和である今は実にありがたいと言うことなのだと思った。

 山崎氏の論調に比べ、総選挙前日の8月29日、同じ朝日新聞の同じオピニオン欄に書いていた作家高村薫氏の論文「はけ口求める不安、皮膚感覚に背く成長依存の枠組み」は、はるかに好感が持てた。彼女はその時点での現状を「特定の政党に期待するというより、とにかくこの閉塞感からの脱出を願っているというのが正しい」と分析していたが、「有権者の多くが今、初めて一票の重みを感じ、初めて真剣に各党のマニフェストを見つめている」とも書いていた。国民の投票行動をポピュリズムだなどと見下していない。
 彼女の先見性は、「真のキーワードは、先進国が主導してきた20世紀型の経済成長の終わりと、低成長に入ったこの国の生き方だろう。国の形としての官と民のあり方や、私たち自身の価値観のあり方も含まれる」と書いてあるところに現れていた。言い換えれば、もう大量に生産し、それを消費して、景気を活発にするという幻想は捨てなければならないと言っているのだと思う。私も日本人は今よりもっとつつましく生きる覚悟が必要だと思う。中国やインドが経済大国になってきたと焦っている人がいるが、いいではないか。彼らは先進国の後追いをしているのだ。日本は21世紀の生き方をすればよい。

 高村見解は、「一方、国民生活のキーワードは少子高齢化社会と、その下での社会保障のあり方である。そこではまず、『どこに重点を置くか』が問われるが、…各党のマニフェストがそろって子どもを優先順位の第一に据えているのは、国の将来を考えれば当然だろう。また、安定した年金制度の構築と、国民皆保険制度の維持も、優先順位は高いだろう」と書いていた。声欄に投書した失業の夫を持つ女性の悲鳴は、こういう問題の狭間で見落とされた一具体例なのだと思う。
 同氏は「しかし、高齢化に伴う医療・社会保障費の増大を、このまま青天井にしてよいわけもない」とも書いていた。同感だ。だから、私は民主党支持だが、後期高齢者医療を撤廃するという政策には反対だ。高齢者の負担が増えたと言うが、高齢者には金持ちが多い。金持ち高齢者を優遇する必要などまったくない。救うべきは貧しい高齢者だけだと思うからだ。
 そもそも今の高齢者は、自分たちを大切にしろと言い過ぎるのではないか。末永くもない身をわきまえろと言いたい。もう十分生きてきたのだから、医療に多くのお金を使ってまでも、むだに長生きしようなどとは願わず、お金は後の人たちに優先して使ってくれと言うぐらいでないと、年の功を軽蔑されるのではないか。私は弱虫だから苦痛には耐えられないと思うので、それさえ軽くしてもらえれば、そんなに医療費をかけてもらわなくてもかまわないと思っている。

 医療政策について、私の思いの一端を述べるついでに悪態をついたが、高村氏は最後にこう書いていた。「今回の選挙は、自民か民主かというより、劣化が著しい政党政治のレールを、久々に敷き直すか否かを問う選挙である」と。つまり一つの維新だったのだ。そして、その選挙は4日前に行われ、結果が出た。劣化していたのは自民党政治だった。私はその退場を喜んでいる。そして、徳川幕府の終焉を連想する。
 徳川時代とは実はある意味で、文化が豊かですばらしい時代だったのだ。しかし、千人の大奥女中がいたという幕府の末期は、政治がまさに老朽化していた。では、自民党政権時代、千人の大奥女中に相当するものは何であったか?ここではそれを問わないが、明治維新が彼女達に暇をだしたように、民主党新政権はそういう無駄には暇を出し、その財源を失業などで喘ぐ人たちに充ててもらいたい。
 私にとってこの選挙は、最後の投票機会だったかも知れない。しかし、本気で投票したように、生きている限りは本気で新政権を見守っていかなくてはなるまいと思う。と、まじめに言ったところで、ハッハッハ、ちょっぴり口出しのつもりが、あれこれ盛りだくさんの口出しになってしまったわい、と我に返った。でも、考えたり書いたりすることは楽しいものだ。
プロフィール

余生風

Author:余生風
「聖書温故知新」
「思いつくまま、気の向くまま」
折にふれ「水彩画」も紹介してまいります。

「手を貸す運動」創始者
社会福祉法人「地の星」理事
元玉川大学教授

佐藤正明(余生風)ホームページ
「絵画と心」

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