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君たちの競争相手は

  “君たちの競争相手は無限大の大空、万古不動の大地。しっかりやりましょう!”
 今日は体育の日なので、この名言を思い出した。玉川学園の創立者故小原國芳総長が、体育祭の冒頭で毎回高らかにのべた挨拶だ。
 体育祭が人間同士の競争に終始するだけでは次元が低い。我々は何のために体を鍛え、競い合うのか?考えを新たにし高い目的を追え。人間同士の身体的優劣、目先の勝ち負けはある。だが、身体的競争であっても、大空や大地のようなドでかいものを窮極の相手と思い、魂をも養う競争に高めることを意識せよ。そう刺激し激励したのだと私は理解して来た。
 皮肉屋は言うかも知れない。「大空は無限ではない。大地は確固不動ではない」と。だが、そんな揚げ足取りは野暮だ。ここは宇宙論や地殻変動理論の出番ではない。かの挨拶は簡潔で、高邁な思想を感じさせ、参加する大人をも子どもをも潔い競争心に奮い立たせたものだ。そして、人の記憶に長く残っている。身体が衰えても、それは精神にその競争相手がどんなものかを示唆し続ける。力ある名言のゆえんだ。
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信行

 今週、年間第27主日の第一朗読ハバククの預言書に、「神に従う人は信仰によって生きる」(新共同訳ハバ2.4)ということばがあった。今日、金曜日の第一朗読ガラテヤの人々への手紙3.11では使徒パウロがそれを引用している。そして、16世紀にマルティン・ルターもそれを引用し、教会に分裂の雪崩を誘発した。
 ところで、キーワードとなっている「信仰」という言葉を調べると、訳は一様ではないのだ。いわゆる「信仰」という意味では言い表せない証拠である。だから、聖書協会訳と新共同訳は「信仰」だが、バルバロ訳は「誠」、フランシスコ会訳は「誠実」と訳している。元々原典のヘブライ語 אמונתו のאמנה は אמן(アメン)と語根が同じで、「神は誠実、信頼に足る」のような用法の「信頼、誠意、誠実等」の意味だ。教義的信仰の意味だけではない。 ところが、三者はそれを三様の意味で使い、その対立対象も同じではないのだ。少しずつずれている。
 預言者ハバククの「神に従う人は信仰によって生きる」と言う一句では、צדיק (ツァディク)は「義人」、「神に従う人」、「正しい人」等と訳せるが、そのどれでもよい。要するに「神の前に正しい人」を指す。そして、その対立対象は「高慢な者、歪んだ心の悪人」である。だから、高慢にも神を拒む歪んだ心の悪人と違い、神の前に正しい人は神を信頼して生きると言ったのだ。複雑な教義論争ではなく、未来のことを告げた時に単純に言っただけだ。
 ところが、使徒パウロはそれをローマの人々への手紙1.17とガラテヤの人々への手紙3.11で論証として引用した。使徒パウロはアブラハムを救いが約束に過ぎなかった時代の信仰の模範と見なし、「正しい人」を彼に倣って主の福音を信じた人と理解した。だから、「正しい人」の意味にはハバククの場合と少しずれている。しかし、対立対象は非常に違って、「高慢な者、歪んだ心の悪人」ではなく、「モーセの律法、またはそれに固執する者たち」であった。だから、彼が「正しい人は信仰によって生きるからです」(フランシスコ会訳)と言うとき、言いたいことはわかるが、私には少しこじつけの感がぬぐえない。
 それをさらに牽強付会させたのがマルティン・ルターだと思う。彼は「正しい人」を彼の解釈に従って主の福音を信じた人とし、その対立対象を「高慢な悪人」でも「律法」でもなく、「人間の業」(Opera)としたからだ。使徒パウロは人が救われるのは主の福音を信じて実践することによるのであって、律法の実践によるのではないと言ったが、ルターは人が救われるのは主の福音を信じることだけによるのであって、人が行う善なる業によるのではないと言った。そこには大きなずれがある。
 ルターは主の福音を信じることを信仰と呼び、人間の業をそれに対立させた。教会は救いにはGratia et Opera, Scriptura et Traditio(神の恩恵と人の善行、聖書と伝承の教え)が必要と教えてきたが、彼はいやSola gratia, sola scriptura(神の恩恵と聖書のみ)でいいと主張し、Opera(人間の善行)とTraditio(伝承の教え)を否定した。そして、教会に分裂の大悲劇を惹き起した。
 しかし、聖パウロは「アブラハムは神を信じた。それは彼の義と認められた」(ガラ3.6)と言い、主イエス様は「わたしたちの父はアブラハムだ」と誇ったユダヤ人たちに、「アブラハムの子供なら、アブラハムの業を行なうはずだ」(ヨハネ8.39)と言われた。では、アブラハムの業で最も優れた業は何であったかと言うと、それは「神を信じた行い」であった。信じるとは人間の行為、即ち業の一つだ。だから信仰と業は対立しない。表裏一体だ。もしルターがそれに気付いていたら、不幸な教会分裂は起こらなかったのではなかろうか。
 そもそも日本語では「信じること」(אמנה, πίστις, fides, foi, faith)を仰ぐという字をつけて信仰と言う。神への特別の信だという意味では優れている。だが、誤解のリスクもある。「信仰vs行い」の図式で、行いと対立的に受けとめられるリスクだ。しかし、信じるとは人間の行為の一つでもある。ならば、信仰ではなく信行と言えばよい。イエス様はアブラハムの業がまさにそれだと言われたのだ。
  「義人は信仰で生きる。」と言った預言者ハバククの言葉は、使徒パウロによって少しずれて引用され、ルターによってさらにずれて引用された。それがハバククの想定もしなかった歴史上の激動を起こした。日曜日にこの預言者のことばを原典で読み、金曜日に使徒パウロのその引用を読んで思った。もし使徒がそれを引用することなく、更にルターが使徒の引用を取り上げなかったら、この一句がこんなに注目されることはなかっただろう、と。

ああ、愚かなガラテヤの人々よ

 今週の聖書の第一朗読は旧約聖書からではなく、ずっとガラテヤの人々への手紙だ。使徒パウロの理と情が入り混じっていて、それを読むと彼が嘆き、怒り、諭す肉声が聞こえるようだ。2千年も前にこんな個性溢れる手紙が書かれたのかと思うと感動を覚え、感じ入ってしまう。そこには聖パウロ自身の経歴や体験、出会った人々や問題状況等も生々しく書かれているから、初代教会の歴史を知る上でも非常に貴重な文献だ。
 今日のことばは、 「ああ、愚かなガラテヤの人々よ」だ。今日の朗読箇所、3章1-5節の冒頭にある。ガンと一発喰らわせる一語だ。こんな激しい叱責のことばはめったに聞かないし言わない。しかし、それは罵声や激怒とは違う。やり切れない嘆きをこめて、正しい信仰に戻れと願う深い愛がこもった叱責だった。これを聞いた人たちはどれほどショックを受け、どう受け止めたのだろうか?
 その一語の後を続けて読むと、叱責の理由がわかる。こう書いてある。 「ああ、愚かなガラテヤの人々、十字架につけられた者としてイエス・キリストがあなた方の目の前に描き出されたのに、誰があなた方を惑わしたのですか。」
 ガラテヤの異邦人信徒たちは使徒パウロからイエス・キリスト様の福音を聞いて信じた。ところが、せっかく信じたのに、ほどなく惑わされ始めた。惑わしたのはユダヤ教から改宗したユダヤ人キリスト教徒たち、いわゆるユダヤ化主義者だった。彼らは使徒パウロが宣教した後に潜入し、ユダヤ人のように割礼を受けなければ神の前に義とされないと、異邦人の信徒たちを惑わしたのだ。それは初代教会が最初に直面し大問題になった。
 考えてみれば、それは西暦50年前後のことだったから、主のご昇天後まだ20年前後しか経っていなかった。それなのに、早や福音のそんな歪曲や信仰の劣化が起こっていたのだ。それを知ると、人はなかなか変わらない頑迷さがあると同時に、何とも変わりやすいものだとつくづく思う。教会の2千年はそんなことの繰り返しだったとも言える。
 現代でも、ガラテヤの人々の代わりに「ああ、愚かな〇〇〇〇よ」と言えるケースは少なくないはずだ。人々を導く立場の人たちにはきっとそう言いたい者たちがいるに違いない。では、仮にもし私がそう言うとしたら、私はその〇〇〇〇にどんな名を入れるだろうか?と一瞬そんな思いが脳裏をよぎったが、「それはおこがましいぞ」と自分をたしなめた。むしろ自分が誰かから「ああ、愚かな者よ」と言われないようにしないといけない。

恋人と夫婦

 「恋人はできないことを約束するが、夫婦は約束しないことをする。」
 名は思い出せないが、あるフランス思想家の言葉だ。そんな夫婦は今時珍しくなってきて、約束したことを忘れたり、破ったりする夫婦の方が多くなっているかも知れないが、この言葉を思い出したのは、昨日の朝日新聞朝刊で「妻に先立たれたら」という記事を読んだからだ。
 それによると、配偶者に死なれたダメージは男性の方が強いそうだ。そして、不眠、悲哀、孤独感、引き込もり等に陥りやすいとか。そこで、それを乗り越えるための方策が書いてあった。「悲哀等の解消を焦らない。よく休む。故人のためにできなかったことより、できたことを想い出す。信頼できる人に気持ちを聴いてもらう。日記を書く。外出する」の6つだ。よいアドバイスだとは思うが、どうも平凡な心理療法みたいで、心にエネルギーを与えるものが足りないように感じた。それで思った。発想を変えて、自分が残されたことの意味を見いだせたら、気力が湧くのではないかと。
 愛する配偶者に先立たれたらどんなに悲しいか!そこで立場を置き換えて察してみるのだ。「もし自分が先に死んでいたら自分は悲しまなくて済むが、配偶者が悲しまなくてはならない。どんなに辛いだろう。ならば、配偶者にそんな思いをさせないため、代わりに自分が引き受ける。してみると、残されてよかった。それができるのだから」と。発想をそう変えてみれば、悲しみは自分が愛する者に代わって引き受けているのだという意味が見つかり、生きがい、つまり心のエネルギーが湧くだろう。そして、それは約束しなかったことの最良の一例になると思う。

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原点のひとこと

 「聖書と典礼」による今日の福音はルカ10.25-37であった。その結語は手を貸す運動の原点であるイエス様の次のひとことだった: “行って、あなたも同じようにしなさい。” 原典ではギリシャ語でこう書かれている。
行って ギリシャ語行え ギリシャ語
 しかし、律法の専門家に話されたのだから、実際はヘブライ語でこう言われたのだと思う。
行って行え ヘブライ語


プロフィール

余生風

Author:余生風
「聖書温故知新」
「思いつくまま、気の向くまま」
折にふれ「水彩画」も紹介してまいります。

「手を貸す運動」創始者
社会福祉法人「地の星」理事
元玉川大学教授

佐藤正明(余生風)ホームページ
「絵画と心」

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