泣いたのはどちらか?

 過去一ヶ月間にはいろいろなことがあった。中でも一番記憶に残るのは東京都議選の自民党大敗北だろうか。それによって安倍政権がダメージを受けたのは喜ばしいことであった。安倍氏は選挙戦最終日の応援演説中「帰れ、辞めろ」コールに反論し、そう叫んだ人たちに向かって、「こんな人たちに負けるわけにはいかない」と言った。だが私は彼に言いたい。「そんなあなたに日本の舵取りを任せておくわけにはいかない」と。
 とは言え、社会の激動とは違って、私の生活はこの間も波風もなく、手を貸す運動Ⅱの仕事と聖書原典黙読が淡々と続くルーチンの日々だった。しかし、そんな聖書原典黙読にも小さな起伏はある。時々わからないことに遭遇して立往生したり、疑問が湧いてその解消のために横道に逸れたりするからだ。6月5日(水)もそんな1日だった。読んだ旧約聖書に、「ちょっと待てよ」と疑問を覚える一節があったからだ。今回はそれを取り上げてみる。

 私は3年前から「聖書と典礼」を利用して毎日の聖書を原典で黙読しているが、その日の聖書は創世記21.5,8-20とマタイによる福音書8.28-34だった。ところで、疑問が湧いたのは創世記21.16の主語についてだった。原典はもちろんヘブライ語だから、その一節は  ותשא את-קלה ותבך と書かれている。新共同訳はそれを「彼女は声をあげて泣いた」と訳している。しかし、泣いたのははたして彼女(母親)だったのかという疑問が湧いたのだった。

 そんな疑問が湧いたわけを言う前に、その一節がどんな文脈の中で書かれたかを簡単に説明しておこう。これは創世記にあるイサク物語の中の一場面で、そこに至るまでのいきさつはこうだ。アブラハムと妻サラには子がなかったので、サラは夫に子孫を残させるため、召使のエジプト人ハガルを夫アブラハムに与えて一子イシュマエルを生ませた。
 ところが、年老いた妻サラは神の恵みで自分にも一子イサクが生まれた。しかしある日、成長した息子が召使の子イシュマエルにからかわれるのを見た。そこで、サラは夫アブラハムに召使の親子を追い出すよう要求した。アブラハムは苦悩したが、結局パンと水袋を持たせて召使の親子を追放せざるを得なかった。砂漠をさまよい、水もなくなると、召使ハガルは子どもを灌木の下に置き、「子どもが死ぬのを見るのは忍びない」と、矢が届く距離に離れて座った。そして「声をあげて泣いた」のだ。

 ではなぜそれに疑問が湧いたのかというと、理由はこうだ。私はヘブライ語で旧約聖書を読むとき、自分が正しく理解したかどうかを確かめるため、フランス語訳のLa Bible de Jerusalemか英語訳のThe Bible Revised Standard Versionも見るのを常としている。この日は英語訳を参考にしていたが、何とそれには“…, the child lifted up his voice and wept.”と訳してあったのだ。
 上掲のヘブライ語では主語は明記されていないが、「声をあげて泣いた」は「上げる」と「泣く」という動詞が女性形で書かれているから、彼女つまり母親を指していることは間違いない。英語訳はそれと違う。なぜ同訳は主語を子供にしたのか?それは註に、ヘブライ語では“彼女は声をあげ”と書かれていることを承知の上で、ギリシャ語訳に従って「子供は」と訳した旨を記していた。
 ならば、英訳の元になったギリシャ語訳はそこをどう書いており、なぜ英訳はその方がヘブライ語原典より筋が通ると考えてそれに従ったのだろうか?私はそう思って調べてみた。ギリシャ語訳はそこをどう書いているかというと、創世記21 子どもは声を上げ創世記21 子どもは泣いた 「子どもは声を上げて泣いた」と明記している。ヘブライ語原典では声を上げて泣いたのは「彼女」なのに、ギリシャ語訳は「子ども」としている。英語訳は後者を選択したのだ。では、いったいどちらが正しいのか?泣いたのは母親だったのか、それとも子どもだったのか?これが疑の核心だった。

 ある人は「原典が正しいにきまっている」と思うかもしれない。だが簡単にそうとも言い切れないわけがある。そもそも現在のヘブライ語聖書がラビたちによって正式に決められたのは西暦90年のヤブネの会議だが、ギリシャ語の七十人訳はそれより約250年も前にできた訳だ。従って、その元になったもっと古いヘブライ語聖書には「子どもは声を上げて泣いた」と書いてあった可能性もあり、ギリシャ語訳はその忠実な訳であったかも知れないからだ。
 それに、そう訳したもっと強力な根拠はその一節に続く17節だ。そこでは神の御使いが、「ハガルよ、どうしたのか。恐れることはない。神はあそこにいる子供の泣き声を聞かれた。立って行って、あの子を抱き上げやりなさい」と言っている。ヘブライ語原典自身が「あそこにいる子供泣き声を聞かれた」と、彼女が泣いたという記述とは違う事実を明記しているのだ。これを見ると、どうやら泣いたのは子どもであり、どうやら泣いたのは子どもであり、筋が通っているのはギリシャ語訳の方ではないかと思えてくる。ヘブライ語原典は写本段階で誤記が起こったのだろうか?

 では、諸国語訳はそれにどう対応して訳したのだろうか?私が知る外国語は限られているから、可能な範囲内で検証してみた。
 まずラテン語のブルガタ訳を見ると、“Et … levavit vocem suam et flevit.”とある。ラテン語は必要がない限り主語を省くから、ここでも主語は書かれていない。従って、声を上げて泣いたのは母親と子どものどちらともとれる。
 英語は上述した通りなので文章は省略するが、泣いたのは「子ども」になっている。
 フランス語訳は“Et il se mit à crier et à pleurer.” 明らかに泣いたのを「子ども」としている。
 スペイン語(Biblia de Jerusalén)訳は“(Sentadas,…)se puso a llorar a gritos.” 泣いたのを「彼女」としている。
 ドイツ語訳(ヘルダー社版)は、“und er begann laut zu weinen.” 「彼は」だから、泣いたのは子どもとしている。
 では、日本語の諸訳はどう対応しているだろうか?
 新共同訳は、「(彼女は)声をあげて泣いた。」泣いたのは彼女とされている。
 フランシスコ会訳は、「(彼女は)声をあげて泣いた。」新共同訳と同じく泣いたのは「彼女」だ。
 バルバロ訳は、「子どもが大きな声で泣き出した。」と訳している。この訳でも、泣いたのは子どもになっている。
 聖書協会訳は、「子どもは声を上げて泣いた」としている。泣いたのは子どもだ。

 諸国語における訳の対応を見ると、ほとんどが「母親系」か「子供系」のどちらかに2分されていることがわかる。ただし、どちらともいえない「両立系」もあるにはある。それを仕分けしてみると、次のようになるだろう。
 「母親系」は、ヘブライ語原典、スペイン語訳、新共同訳、フランシスコ会訳等である
 「子供系」は、ギリシャ語訳、英語訳、フランス語訳、ドイツ語訳、バルバロ訳、聖書協会訳等である。
 「両立系」はラテン語訳のみ。
 もちろこれは私が持ち合わせている聖書だけの仕分けだが、他の言語ではどう対応されているか興味のあるところだ。

 私は両方にそういう対応をとったそれ相応の根拠と考え方があることを認める。しかし、筋が通っている点から言えば、「子供系」の方にやや分があるかなと思う。ギリシャ語訳は訳と言っても他の諸訳とは権威が断然違う。七十人訳の訳者たちはおそらく文脈をよく考察し、「子供が泣いた」と訳したのだと推測する。その判断は重い。
 そもそもハガル親子は砂漠をさまよい、水もなくなって死を待つばかりだった。子が死ぬのを見るのは忍びないと、親が離れた所に座ってしまったのを見れば、普通に考えると泣き出すのは子どもの方だろうと想像できる。飢えと渇きによる衰弱もさることながら、木蔭に置きざりにされた子どもにとって一番の不安は母親から見放されることだっただろう。幼くてまだ死などはわからなかっただろうが、歩く力もなくなっていた子供は本能的に泣いて母を呼び求めた。だから精一杯声を上げたのだろう、と。
 しかし、母が声を上げて泣いたこともまた十分あり得た。いや、母親もきっと泣いたに違いない。愛する子が飢えと渇きで衰弱し、砂漠で死んでゆくというのに、助けてやれない無力と絶望の中に置かれていたからだ。子供の死を見るのは忍びないから矢の届く距離に離れたが、それでも子供の方に向いて地べたに座った母親の行動はその心の状態をよく表している。もしかしたら嘆きと絶望の余り彼女は胸も張り裂けんばかりに泣き叫んだのかも知れない。
 そんな状況を想像すれば、彼女が声を上げて泣いたと記したヘブライ語原典の記述にも十分うなずける。そして、それを尊重して忠実に訳した「母親系」の訳は、原典に深い敬意を払っているからこそ、それに従って訳す方を選んだのであろうから、それは翻訳者の姿勢としてこれも十分尊敬に値する。

 では、この疑問に対する私の結論はどうか。私はこう思う。実際は「泣いたのは子かそれとも母か」ではなく、「子供も母も声をあげて泣いた」のであろう、と。私にはそう考えるのが一番妥当だと思える。ただし、泣いた理由と相手は違っただろう。子どもは母親が傍にいないのが不安でたまらず、母に向かって泣いたのだろうが、母親は子どもの死を目前にして助けられない絶望のあまり、運命を呪ってか、あるいは神に救いを求めてかはわからないが、何かに向かって泣き叫んだのだろうと推察する。

 さて、こんな些細なことはどうでもいいではないか。それがわかったところで何になる?と言う人がいるかも知れない。確かにこれは些事であって、物語全体にもその解釈にも影響を与えない。そして、答えを得ても大して役に立つわけでもない。しかしながら、私はこんな考察にも何らかの意味と有用性はあると思っている。
 そもそも聖書原典は誰でも簡単に読めるわけではないが、読めればこういう疑問も持てる。これは小さな疑問だったが、大きな問題も発見できるチャンスやメリットがある。単に一つの翻訳を読むだけでは、(それではだめだとは言わないけれども)、その訳が本当に正しいかどうかは検証できない。しかし、原典や他の諸訳を読んで比較考察すれば、何が本当かを確認できる。
 同時に原典がいつも正しいとは必ずしも言えないことも分かる。ヘブライ語原典にも誤記やミスプリがある。原典といえども人が書いたものであり、今あるのは写本に写本を重ねた末の原典だからだ。写本書写者が書き間違えたり書き換えたりした可能性も排除できない。ハガルとイシュマエルの物語のこの疑問もその1例であるかも知れないのだ。聖書に書かれていることを全部間違いないと信じるのは単純過ぎる。
 最後にこういう些細な話題の考察でも、それは知的な刺激と満足をもたらす。私にとってはそれが一番のメリットだ。ある人が老人の集まりで、「老人にはキョウヨウが必要だ」と言ったそうだ。皆が「えっ?今さら教養ですか?」と怪訝な顔をすると、その人は、「いいえ、《今日用》ですよ。今日何かする用事があることが老化を防ぐからね」と答えたとか。毎日の聖書で疑問と取り組むことは《今日用》の最たるものの一つではなかろうか。
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教育勅語にわたしも一言

 しばらく前、森友学園では幼稚園児が教育勅語を唱えていると報道で知り、愕然としたことがあった。ネット時代だからすぐ忘れ去られるかと思ったいたら、そうでもなく、今日6月10日の朝日新聞声欄には「教育勅語 切り売りは無意味」という声が掲載されていた。実は私も森友学園での教育勅語というニュースを聞いて以来、意見を書こうかと思った。見過ごせなかったからだ。
 しかし、そのままにしてしまったので、もう賞味期限が過ぎた話題だろう思っていた。ところが、今日の投書を読んで、、わが意を得たりと嬉しくおもった。ただ、ひとつ言い足さなくてはならないことがあると思い、私も一言ここに書くことにした。
 そのためにはまずその投書を紹介しなくてはならないが、それを全部書き写すのはたいへんだ。そこで、その手間を省くために要点をコピーさせてもらった。コピーは少し不鮮明だが、次のような文面である。
教育勅語批判略
 この投書の論旨はしっかりしており、その指摘はまことに正鵠を射ている。

 私は教育勅語を唾棄するが、少年時代の私は教育勅語を信じて海軍少年兵にまでなり、まさに「一旦緩急あれば義勇公に報じ、もって天壌無窮の皇運を扶翼すべし」を実行した軍国少年だった。子どもだったから仕方なかったとは言え、天皇主権国家思想の催眠術にかかって、あわや一命を失うところであった。今思えば、無知であり、愚かであり、浅はかであった。教育勅語はにとっては恨み骨髄に徹するほどの反面教師に他ならない。
 あの森友ニュース以来、多くの人が教育勅語の危険を指摘し、主権在民の現憲法と相容れないことを論じて来た。まさにその通りだ。上掲の投稿もその一つで、非常に説得力がある。しかし、思うにまだ誰も指摘していない論点が一つ残っている。それは教育勅語がよって立つ思想的論拠の誤謬だ。教育勅語は嘘とすり替えに立脚しているからだ。それを知れば、教育勅語がいわばガラクタに等しいものであることがわかろう。それを安倍晋三氏や稲田朋美氏らの政治家はすばらしいと思っているらしいから呆れる。

 教育勅語は冒頭から天皇家の祖先を称揚して、「わが皇祖皇宗国をはじむること高遠に、徳をたつること深厚なり」と宣言し、「わが臣民よく忠によく孝に億兆心を一にして世々その美をなせる」とし、「これわが国体の精華にして教育の淵源また実にここに存す」と述べている。要するに「天皇家は遠く先祖より徳が深く厚かった。臣民もそれにならって忠孝に努めて来たが、これこそが日本と言う国の神髄で、教育の根拠はそこにある」と言っているのだ。私などは少年時代に暗記させられたから、忌まわしいことに今でもそれをすらすら言える。
 ところが、では天皇家の先祖は本当に徳がそんなに深く厚かったのか?そう問えば、どんな歴史家も否と答えるであろう。個別の例は列挙しないが、過去の天皇たちを知れば、徳が深く厚かったどころか、血みどろの醜悪な権力争いを演じた例は枚挙にいとまがない。そして、臣民も天皇家にならって忠孝に励んで来たか?と問えば、それも否である。天皇を追放したり悪用したりしたりした例もまた事欠かない。そんな虚偽の歴史観を前提にして、教育の淵源(根源)がそこにあるなどと言うのは悪い冗談でしかない。

 そもそも「汝臣民父母に孝に兄弟に友に、夫婦相和し、安倹おのれを持し、博愛衆に及ぼし…」など、中ほどに書かれている徳目は儒教の教えだ。ところで、儒教の始祖孔子が理想としたモデルは周であった。ところが、教育勅語は皇祖皇宗を周とすり替えている。徳のモデル入れ替え操作をしたのだ。多くの人はそこに気付いていない。しかし、入れ替えたモデルの皇祖皇宗が実は高徳でも何でもなく、むしろ権力争いが多かったとわかれば、教育の淵源は無残に崩壊する。もし淵源にすれば害毒の淵源になる。
 それに、教育勅語は「御名御璽」と、明治天皇自らが書いたようになっているが、実際は明治政府に任された元田永孚と井上毅が文案を作ったのだ。それを天皇がさもさも自分が考え勅を発したかのごとく宣言していること自体が欺まんであろう。このように史実を無視し、嘘とごまかしを論拠とし、癒しがたい傷を国民に負わせた前科のある教育勅語は、現在と未来の日本から抹消されるべきものである。

 ただ、誤解のないよう付け加えておきたい。教育勅語を拒否するからと言って、私は天皇制否定論者ではない。昭和天皇には批判的だったが、現天皇と美智子皇后の両陛下には深い尊敬の念をもっている。誇らしいくらいだ。今後の天皇皇后も現天皇ご夫妻のようであってくれればいいと願っている。そして、できれば天皇ご夫妻にはご退位後はもっと自由にあって欲しいと思っている。実際、私は天皇には国民と同じ人権があるのだろうかと時々感じるからだ。教育勅語は現天皇ご夫妻と今後の天皇家をも幸福にはせず、むしろ不幸にしかねない過去の亡霊だと思う。

母の日

 明日は母の日。妻が話すのを聞いてふと自分の母のことを思った。
 私が子どもの頃は母の日はなかった。青年時代にはもうあったのだろうか?いずれにしても、母に花束を上げたことはない。思えば親不孝な息子だった。今になって花束のプレゼントをしたいと思っても、米寿に近い老人の母がまだ生きているはずもない。だが、何かしたいと思って古い母の写真の机上においてみた。
 私の記憶に残る母は小学校に2年までしか行ってっいなかったが賢母だった。9人の子を育て上げた。繭から糸を紡ぎ、機織りで着物を織って、仕立ててくれた。早朝から家族の食事の支度をし、昼間は父と畑で働き、少し早めに家に戻ると、また家族の食事の支度をする毎日だった。ご飯も粗朶や松葉を燃やしてを炊いていた時代だ。それだけでもどんなに苦労だっただろうか。夜は裸電球の下で繕い物の夜なべをしていた。
 思い出せば書くことはたくさんある。しかし、それはいつか別の時にして、明日は人生の終わりにせめてもの親孝行をするために、机上の写真と共に過ごそうと思う。私に生を与え、生き方の元を備えてくれた母に心からの感謝をあらわし、それを心の花束として贈りたい。親に迷惑や心配ばかりかけていた息子だったが、今はわが子だけでなく、多くの人たちと子ども達の心配をし、世話ができるようになりました。そして、まだ生きていますよ、と報告するために。

 生みの母は一人だけだが、私には育ての母みたいな人が少なくとも二人いる。一人はイエス・キリスト様の福音を教えてくれた元シスター・Gさんだ。いわば私を父なる神の子として霊的に生まれさせ、育ててくれた大恩人だ。人は洗礼によってキリスト教的に新たに生まれる時、赤子とは違って自分の意志で、自分で決心して生まれる。しかし、一人で育つことはできない。霊的にも多くの人のおかげで育つ。その中で最も育ててくれたのは元シスターGさんだった。だから、彼女は私にとって霊的な育ての親なのだ。
 もう人は大学生時代と留学生時代に学資を出してくれたカナダ人のOさんだ。彼女たちにも母の日に感謝したい。恩を忘れないことがおそらく彼女たちへの一番の恩返しだと思う。彼女は13人の子持ちだったが、夫が死んだ後葬儀屋を始め、女で一つで子どもを育て上げた。そして、まだ余力があったので私の学資を援助してくれて、会いに行ったとき、私を14番目の子どもだと言ってくれた。だから、彼女は私の知的成長にとって育ての親なのだ。育ての母みたいだったこの二人にも感謝の心の花束を捧げよう。

 母と言えば、けっして忘れてはいけないもう一人の母がいる。最高の母だ。それはマリア様。マリア様は聖母として、主を信じるすべての者の母である。だから、私だけの母ではない。だが、私の母ではあることも確かだ。聖母マリア様は地上における生みの母でも育ての母でもない。神の国における母である。だから、すべての母たちの母でもあるのだ。聖母には毎日祈るが、母の日には天の母としての聖母に感謝の祈りをささげよう。

 そして、最後にもう一人の母を加えよう。私の子ども達にとってのかけがえのない、すばらし母だ。そのような母親を人生の伴侶として生きている私は、この恵みをどれほど感謝したらよいことだろうか。来年は金婚になる。息子ではないから花束は贈らないが、この母には健康と幸せを祈ってやまない。よい母の日を!

 

  

ご復活の宵と復活祭の宵

 今日、4月16日は2017年の復活祭であった。土曜日の復活徹夜祭に出るのはもう年齢的に無理だから、この数年は日中ミサに行っている。だが、今年はいつもより早く教会に行ったのに、何ともう満席だった。辛うじて丸椅子を見つけて座ったが、もっと後から来られた方々は1時間半立ちっぱなしだった。さぞ疲れたことだろう。後でナルテックスまで人がいっぱいだったと知って驚いた。クリスマスならわかるが、一般の人たちが復活祭にも関心を持つようになったのだろうか?信者でない方々もちらほらおられた。

 ミサの後ではK神父様の送別会を兼ねた復活祭パーティがあったが、そこでは教会が国際色豊かになったものだなぁと感じた。日本人がいるのは当たり前だが、私が話した相手にはセネガル人、ベトナム人、フィリピン人がいた。話さなかったが、中南米の人たち、アメリカ人もいた。こういう人々が争うのではなく、和気あいあいと一緒に過ごせるとは何といいことかと嬉しく思った。これもイエス・キリスト様が復活されたからこそ実現している信仰共同体の恵みだ。

 復活祭の典礼では一つ気付いたことがあった。ご復活の宵(註)と復活祭の宵の違いである。先週は聖週間だったが、日曜日は枝の主日兼受難の主日で、ミサ中はご受難の長い福音が読まれた。聖木曜日は主の最後の晩餐を記念した宵のミサがあり、聖金曜日には長い祈りと十字架の崇敬の祭式があった。聖土曜日は宵から復活の徹夜祭が荘厳に行われた。そして、今日、日中の復活祭ミサでは特別な続唱が歌われ、復活の朝を伝えるヨハネの福音書20.19が読まれた。要するに聖週間の典礼は、私たちが主のご受難と復活の朝までをよく思い起こしかつ追体験できるよう、非常によく用意されている。
 ところが、復活祭のミサが終ると、午後はもう何もない。普通の日になってしまうのだ。私自身もTVなどを見て、気持ちからはもうご復活が消えていた。だが、夕方ふと思ったのだ。かつて主が復活なさった当日は全く違っていたはずだ、と。弟子たちにとってその日は普通ではなかった。彼らはユダヤ人を怖れて家にこもっていたが、朝から「主イエスは生きておられる」と驚かされる知らせが入り、どうしたらいいのか動揺し迷っていた。そして、宵には戸が閉まっていたのに復活の主が出現なさったのだ。彼らは驚き、怖れ、疑うが、本当だとわかると怖れや疑いは大きな喜びに変わった。それは復活の朝に劣らぬ大事な信仰の契機の宵だった。
 ところが、復活祭の宵はそうではない。典礼は私たちが復活の朝の出来事まではよく追体験できるよう用意されているが、その後は急に何もなくなる。だから、復活祭の午後は世俗の普通に戻ってしまう。かつて起こった復活の宵の出来事を追体験する典礼がないからだ。世間で暮らす一般信者にはそれでもいいが、かつて私が経験した修道生活でもそれはなかった。典礼祭儀は、復活祭の朝までは主の受難と復活の実際と並行しているが、復活の午後以後の出来事は典礼祭儀には欠けているのだ。

 私が気付いたのはその点だ。主のご復活の宵と復活祭の宵とには違いがある、と。では、その欠けた所を補うにはどうしたらいいか?願わしいのはご復活の宵を追体験できる典礼祭儀があることだろう。でも、今はそれがないのだから、自分で工夫するしかない。例えば、復活祭の宵にはヨハネの福音書20.10-23とか、ルカの福音書24.1-49など、福音書の該当箇所を読むといいのではなかろうか。次の日曜日まで間が空くと気が抜けてしまうから、復活祭当日の宵に実践した方がいい。だから私はそうした。

(註)
 このブログでは、「夜」の代わりに「宵」と書いた。かつて日本の時刻表現では、「暮」が六つと六つ半、即ち午後6時頃から8時頃までを指し、酉の刻と言われ、「宵」(初更)が五つと五つ半、即ち午後8時ごろから10時ごろまでを指し、戌の刻と言われ、「夜」(二更)が四つと四つ半、即ち午後10時頃から12時ごろまでを指し、亥の刻と言われていた。これに照らせば、主が⒒使徒にお現れになったのは暮か宵のうちで、夜ではなかっただろうし、夜のミサも厳密に言えば宵のミサと呼ぶべきだろうと思ったからだ。
 ちなみに「暮れ六つ」とは日暮れの午後6時ごろを言い、「明け六つ」は朝の午前6時ごろを指す。また、夜間は「夜」(二更)、「真夜」(三更:12時~2時)、「夜」(四更:2時~4時)の三つに分けられ、「暁」(五更:4時~6時)がそれに続いた。「夜が更けた」とは、夜には二更、三更、四更があったから生まれた言い回しなのである。

 

聖金曜日の福音から三つの拾い物

 昨日は聖木曜日の祭式から帰宅して、「聖木曜日の過去と今」を夜遅くまで書いた。始めはちょっとのつもりだったが、いつしか長い考察になってしまった。だから大変疲れたので、今日も聖金曜日の祭式には行ってきたが、今日は長くは書きたくない。しかし、ヨハネによる福音書18,19章の長いご受難の箇所は今年も原典で全部読んだ。そこで、気付いた三つの事柄があったから、それだけ取り上げてみる。それらは見落としていた事柄だから、小さな拾い物とした。
 
 一つ目の拾い物は「手下の名はマルコスであった」(ヨハネ18.10)という一句だ。ペトロが「大祭司の手下に打ってかかり、その右の耳を切り落とした」という記述に付いたコメントだが、それが私の注意を引いた。私は自問した。ヨハネ福音書記者はなぜその名を知り得たのだろうか?と。そして、自答した。おそらくその手下が後年主イエス・キリスト様を信じる一人になったからではなかろうか、と。同福音書は使徒ヨハネが大祭司の知り合いだったと書いている。ならば、その手下が信仰者になったとき、会って名前を聞いたことは察するに難くないからだ。
 ところで、この手下が片方の耳を切られたことは4福音書全部が言及している。しかし、その名がマルコスであったことはヨハネの福音書しか書いていない。こういうのを当事者しか知らない事実と言う。ヨハネ19.35には「それ(主の御受難)を目撃した者が証ししており、その証は真実である」とあるが、その通りだと言えると思う。ヨハネが当事者しか知らない事実を知っていたことは、彼の福音書が他の福音書よりずっと遅く出来たにもかかわらず、信ぴょう性が非常に高いことを示している証左だろう。
 また、マルコスと言う大祭司の手下が、後年キリスト者になったであろうことは十分推察できる。なぜなら、ルカの福音書は彼が右の耳を切り落とされた時、イエス様が「その人の耳に触れて癒された」(ルカ22.51)と伝えているからだ。小さな奇跡だったとは言え、逮捕される寸前の状況下におられたのに、そのような癒しを行われたとは驚くべきことだだった。切られて動顛していたとき、そんな奇跡で癒された者がどうして無関心でいられただろうか。きっと尊崇の念と恩義とを感じないではいられなかっただろう。奇跡の癒しをしてもらい、裁判の経過を見て、彼も内心では「この人は神の子だ」と思ったに違いない。だから、彼が初代のキリスト者になり、ヨハネの知人になったであろうことは十分推察できることだ。

 二つ目は、ピラトにイエス様を「十字架に付けろ、十字架に付けろ」と叫んだのが、ヨハネの福音書では「祭司長や下役たち」(ヨハネ19.6)だったと書いてあることだ。私は今までそれを見落としていた。ところで、他の3福音書は「人々」またや「群集」と書いているが、ヨハネだけはその群集が実は祭司長の手下だったと書いている。「いばらの冠り」という聖歌の2番は「きのうにかわる主を取り巻き、罵り叫ぶ憎む群れを」という歌詞だが、実は「ホサナ」と賛美した群集が「十字架につけろ」と叫ぶ群集に豹変したのではないのだ。ヨハネのこの一語を読むと、二つは違う人々の群れだったことがはっきりする。「十字架につけろ」と叫んだ群集はイエス様を敵視していた祭司長の手の者たちに他ならなかったのだ。

 三つめの拾い物は、ヨハネ19.13と同19.17に出てくるガバタとゴルゴタという語の本当の発音だ。今まで気にも留めず、そういうものかとしか思っていなかったが、今年も聖金曜日にギリシャ語原典で読んでみて、そこに説明してあるヘブライ語が本当にそういう発音なのか、またしてもギリシャ語風のヘブライ語発音ではないのか、と初めて疑問に思ったのだ。そこで、ヘブライ語訳新約聖書を開いて調べてみた。すると案の定、正確ではないことが分かった。
 ガバタはギリシャ語ではGabbata.jpgと書くが、ヘブライ語ではGabbata en hebreuと書き、発音はカタカナ表記すると「グフィフタ」だ。ガバタとはかなり違う。
 ゴルゴタの方は、ギリシャ語ではGolgota.jpgと書くが、ヘブライ語ではGolgota en hebreuと書き、発音は「ガグルタ」である。これも発音はかなり違うと言えよう。
 では、このことから何がわかることがあるのだろうか?ある。ヨハネ福音書は体験した者でなければ書けない事実を書いているが、それは使徒ヨハネの証言が基礎になっているからだ。しかし、福音書を実際に書いたのは弟子たちだと言われている。そして、ギリシャ語原典にあるヘブライ語の発音の不正確さはそれを裏付けているように思える。なぜなら、もしヨハネ自身が書いたのなら、たとえギリシャ語であったとしても、生粋のイスラエル人だった彼が母国語のヘブライ語の発音を間違って書くはずはなかっただろうからだ。また、弟子に口述して書かせたとしても、違い過ぎる発音に気付けば訂正したに違いないと思われるからだ。
 聖書学者たちによれば、今日ではヨハネの福音書は5段階を経て今の形に完成したと考えられているが、世に出たのは西暦90~110年の間だと推定されている。だとすれば、主の御受難の当時、仮に使徒ヨハネが20歳だったとしたら、彼の福音書完成版ができたとき、彼は最も若くても80歳にはなっていただろう。もう自分で書ける年齢ではなかった。実際に書いたのは弟子たちだったろう。しかし、19章が今の構成で書かれた時、彼が存命であったかどうかは疑わしい。なぜなら、ヘブライ語の不正確なギリシャ語表記は直されていないからだ。
 さてさて、今日の考察には霊性的要素が希薄だ。聖金曜日にふさわしくない自問自答ではある。

プロフィール

余生風

Author:余生風
「聖書温故知新」
「思いつくまま、気の向くまま」
折にふれ「水彩画」も紹介してまいります。

「手を貸す運動」創始者
社会福祉法人「地の星」理事
元玉川大学教授

佐藤正明(余生風)ホームページ
「絵画と心」

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