母の日

 明日は母の日。妻が話すのを聞いてふと自分の母のことを思った。
 私が子どもの頃は母の日はなかった。青年時代にはもうあったのだろうか?いずれにしても、母に花束を上げたことはない。思えば親不孝な息子だった。今になって花束のプレゼントをしたいと思っても、米寿に近い老人の母がまだ生きているはずもない。だが、何かしたいと思って古い母の写真の机上においてみた。
 私の記憶に残る母は小学校に2年までしか行ってっいなかったが賢母だった。9人の子を育て上げた。繭から糸を紡ぎ、機織りで着物を織って、仕立ててくれた。早朝から家族の食事の支度をし、昼間は父と畑で働き、少し早めに家に戻ると、また家族の食事の支度をする毎日だった。ご飯も粗朶や松葉を燃やしてを炊いていた時代だ。それだけでもどんなに苦労だっただろうか。夜は裸電球の下で繕い物の夜なべをしていた。
 思い出せば書くことはたくさんある。しかし、それはいつか別の時にして、明日は人生の終わりにせめてもの親孝行をするために、机上の写真と共に過ごそうと思う。私に生を与え、生き方の元を備えてくれた母に心からの感謝をあらわし、それを心の花束として贈りたい。親に迷惑や心配ばかりかけていた息子だったが、今はわが子だけでなく、多くの人たちと子ども達の心配をし、世話ができるようになりました。そして、まだ生きていますよ、と報告するために。

 生みの母は一人だけだが、私には育ての母みたいな人が少なくとも二人いる。一人はイエス・キリスト様の福音を教えてくれた元シスター・Gさんだ。いわば私を父なる神の子として霊的に生まれさせ、育ててくれた大恩人だ。人は洗礼によってキリスト教的に新たに生まれる時、赤子とは違って自分の意志で、自分で決心して生まれる。しかし、一人で育つことはできない。霊的にも多くの人のおかげで育つ。その中で最も育ててくれたのは元シスターGさんだった。だから、彼女は私にとって霊的な育ての親なのだ。
 もう人は大学生時代と留学生時代に学資を出してくれたカナダ人のOさんだ。彼女たちにも母の日に感謝したい。恩を忘れないことがおそらく彼女たちへの一番の恩返しだと思う。彼女は13人の子持ちだったが、夫が死んだ後葬儀屋を始め、女で一つで子どもを育て上げた。そして、まだ余力があったので私の学資を援助してくれて、会いに行ったとき、私を14番目の子どもだと言ってくれた。だから、彼女は私の知的成長にとって育ての親なのだ。育ての母みたいだったこの二人にも感謝の心の花束を捧げよう。

 母と言えば、けっして忘れてはいけないもう一人の母がいる。最高の母だ。それはマリア様。マリア様は聖母として、主を信じるすべての者の母である。だから、私だけの母ではない。だが、私の母ではあることも確かだ。聖母マリア様は地上における生みの母でも育ての母でもない。神の国における母である。だから、すべての母たちの母でもあるのだ。聖母には毎日祈るが、母の日には天の母としての聖母に感謝の祈りをささげよう。

 そして、最後にもう一人の母を加えよう。私の子ども達にとってのかけがえのない、すばらし母だ。そのような母親を人生の伴侶として生きている私は、この恵みをどれほど感謝したらよいことだろうか。来年は金婚になる。息子ではないから花束は贈らないが、この母には健康と幸せを祈ってやまない。よい母の日を!

 

  
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ご復活の宵と復活祭の宵

 今日、4月16日は2017年の復活祭であった。土曜日の復活徹夜祭に出るのはもう年齢的に無理だから、この数年は日中ミサに行っている。だが、今年はいつもより早く教会に行ったのに、何ともう満席だった。辛うじて丸椅子を見つけて座ったが、もっと後から来られた方々は1時間半立ちっぱなしだった。さぞ疲れたことだろう。後でナルテックスまで人がいっぱいだったと知って驚いた。クリスマスならわかるが、一般の人たちが復活祭にも関心を持つようになったのだろうか?信者でない方々もちらほらおられた。

 ミサの後ではK神父様の送別会を兼ねた復活祭パーティがあったが、そこでは教会が国際色豊かになったものだなぁと感じた。日本人がいるのは当たり前だが、私が話した相手にはセネガル人、ベトナム人、フィリピン人がいた。話さなかったが、中南米の人たち、アメリカ人もいた。こういう人々が争うのではなく、和気あいあいと一緒に過ごせるとは何といいことかと嬉しく思った。これもイエス・キリスト様が復活されたからこそ実現している信仰共同体の恵みだ。

 復活祭の典礼では一つ気付いたことがあった。ご復活の宵(註)と復活祭の宵の違いである。先週は聖週間だったが、日曜日は枝の主日兼受難の主日で、ミサ中はご受難の長い福音が読まれた。聖木曜日は主の最後の晩餐を記念した宵のミサがあり、聖金曜日には長い祈りと十字架の崇敬の祭式があった。聖土曜日は宵から復活の徹夜祭が荘厳に行われた。そして、今日、日中の復活祭ミサでは特別な続唱が歌われ、復活の朝を伝えるヨハネの福音書20.19が読まれた。要するに聖週間の典礼は、私たちが主のご受難と復活の朝までをよく思い起こしかつ追体験できるよう、非常によく用意されている。
 ところが、復活祭のミサが終ると、午後はもう何もない。普通の日になってしまうのだ。私自身もTVなどを見て、気持ちからはもうご復活が消えていた。だが、夕方ふと思ったのだ。かつて主が復活なさった当日は全く違っていたはずだ、と。弟子たちにとってその日は普通ではなかった。彼らはユダヤ人を怖れて家にこもっていたが、朝から「主イエスは生きておられる」と驚かされる知らせが入り、どうしたらいいのか動揺し迷っていた。そして、宵には戸が閉まっていたのに復活の主が出現なさったのだ。彼らは驚き、怖れ、疑うが、本当だとわかると怖れや疑いは大きな喜びに変わった。それは復活の朝に劣らぬ大事な信仰の契機の宵だった。
 ところが、復活祭の宵はそうではない。典礼は私たちが復活の朝の出来事まではよく追体験できるよう用意されているが、その後は急に何もなくなる。だから、復活祭の午後は世俗の普通に戻ってしまう。かつて起こった復活の宵の出来事を追体験する典礼がないからだ。世間で暮らす一般信者にはそれでもいいが、かつて私が経験した修道生活でもそれはなかった。典礼祭儀は、復活祭の朝までは主の受難と復活の実際と並行しているが、復活の午後以後の出来事は典礼祭儀には欠けているのだ。

 私が気付いたのはその点だ。主のご復活の宵と復活祭の宵とには違いがある、と。では、その欠けた所を補うにはどうしたらいいか?願わしいのはご復活の宵を追体験できる典礼祭儀があることだろう。でも、今はそれがないのだから、自分で工夫するしかない。例えば、復活祭の宵にはヨハネの福音書20.10-23とか、ルカの福音書24.1-49など、福音書の該当箇所を読むといいのではなかろうか。次の日曜日まで間が空くと気が抜けてしまうから、復活祭当日の宵に実践した方がいい。だから私はそうした。

(註)
 このブログでは、「夜」の代わりに「宵」と書いた。かつて日本の時刻表現では、「暮」が六つと六つ半、即ち午後6時頃から8時頃までを指し、酉の刻と言われ、「宵」(初更)が五つと五つ半、即ち午後8時ごろから10時ごろまでを指し、戌の刻と言われ、「夜」(二更)が四つと四つ半、即ち午後10時頃から12時ごろまでを指し、亥の刻と言われていた。これに照らせば、主が⒒使徒にお現れになったのは暮か宵のうちで、夜ではなかっただろうし、夜のミサも厳密に言えば宵のミサと呼ぶべきだろうと思ったからだ。
 ちなみに「暮れ六つ」とは日暮れの午後6時ごろを言い、「明け六つ」は朝の午前6時ごろを指す。また、夜間は「夜」(二更)、「真夜」(三更:12時~2時)、「夜」(四更:2時~4時)の三つに分けられ、「暁」(五更:4時~6時)がそれに続いた。「夜が更けた」とは、夜には二更、三更、四更があったから生まれた言い回しなのである。

 

聖金曜日の福音から三つの拾い物

 昨日は聖木曜日の祭式から帰宅して、「聖木曜日の過去と今」を夜遅くまで書いた。始めはちょっとのつもりだったが、いつしか長い考察になってしまった。だから大変疲れたので、今日も聖金曜日の祭式には行ってきたが、今日は長くは書きたくない。しかし、ヨハネによる福音書18,19章の長いご受難の箇所は今年も原典で全部読んだ。そこで、気付いた三つの事柄があったから、それだけ取り上げてみる。それらは見落としていた事柄だから、小さな拾い物とした。
 
 一つ目の拾い物は「手下の名はマルコスであった」(ヨハネ18.10)という一句だ。ペトロが「大祭司の手下に打ってかかり、その右の耳を切り落とした」という記述に付いたコメントだが、それが私の注意を引いた。私は自問した。ヨハネ福音書記者はなぜその名を知り得たのだろうか?と。そして、自答した。おそらくその手下が後年主イエス・キリスト様を信じる一人になったからではなかろうか、と。同福音書は使徒ヨハネが大祭司の知り合いだったと書いている。ならば、その手下が信仰者になったとき、会って名前を聞いたことは察するに難くないからだ。
 ところで、この手下が片方の耳を切られたことは4福音書全部が言及している。しかし、その名がマルコスであったことはヨハネの福音書しか書いていない。こういうのを当事者しか知らない事実と言う。ヨハネ19.35には「それ(主の御受難)を目撃した者が証ししており、その証は真実である」とあるが、その通りだと言えると思う。ヨハネが当事者しか知らない事実を知っていたことは、彼の福音書が他の福音書よりずっと遅く出来たにもかかわらず、信ぴょう性が非常に高いことを示している証左だろう。
 また、マルコスと言う大祭司の手下が、後年キリスト者になったであろうことは十分推察できる。なぜなら、ルカの福音書は彼が右の耳を切り落とされた時、イエス様が「その人の耳に触れて癒された」(ルカ22.51)と伝えているからだ。小さな奇跡だったとは言え、逮捕される寸前の状況下におられたのに、そのような癒しを行われたとは驚くべきことだだった。切られて動顛していたとき、そんな奇跡で癒された者がどうして無関心でいられただろうか。きっと尊崇の念と恩義とを感じないではいられなかっただろう。奇跡の癒しをしてもらい、裁判の経過を見て、彼も内心では「この人は神の子だ」と思ったに違いない。だから、彼が初代のキリスト者になり、ヨハネの知人になったであろうことは十分推察できることだ。

 二つ目は、ピラトにイエス様を「十字架に付けろ、十字架に付けろ」と叫んだのが、ヨハネの福音書では「祭司長や下役たち」(ヨハネ19.6)だったと書いてあることだ。私は今までそれを見落としていた。ところで、他の3福音書は「人々」またや「群集」と書いているが、ヨハネだけはその群集が実は祭司長の手下だったと書いている。「いばらの冠り」という聖歌の2番は「きのうにかわる主を取り巻き、罵り叫ぶ憎む群れを」という歌詞だが、実は「ホサナ」と賛美した群集が「十字架につけろ」と叫ぶ群集に豹変したのではないのだ。ヨハネのこの一語を読むと、二つは違う人々の群れだったことがはっきりする。「十字架につけろ」と叫んだ群集はイエス様を敵視していた祭司長の手の者たちに他ならなかったのだ。

 三つめの拾い物は、ヨハネ19.13と同19.17に出てくるガバタとゴルゴタという語の本当の発音だ。今まで気にも留めず、そういうものかとしか思っていなかったが、今年も聖金曜日にギリシャ語原典で読んでみて、そこに説明してあるヘブライ語が本当にそういう発音なのか、またしてもギリシャ語風のヘブライ語発音ではないのか、と初めて疑問に思ったのだ。そこで、ヘブライ語訳新約聖書を開いて調べてみた。すると案の定、正確ではないことが分かった。
 ガバタはギリシャ語ではGabbata.jpgと書くが、ヘブライ語ではGabbata en hebreuと書き、発音はカタカナ表記すると「グフィフタ」だ。ガバタとはかなり違う。
 ゴルゴタの方は、ギリシャ語ではGolgota.jpgと書くが、ヘブライ語ではGolgota en hebreuと書き、発音は「ガグルタ」である。これも発音はかなり違うと言えよう。
 では、このことから何がわかることがあるのだろうか?ある。ヨハネ福音書は体験した者でなければ書けない事実を書いているが、それは使徒ヨハネの証言が基礎になっているからだ。しかし、福音書を実際に書いたのは弟子たちだと言われている。そして、ギリシャ語原典にあるヘブライ語の発音の不正確さはそれを裏付けているように思える。なぜなら、もしヨハネ自身が書いたのなら、たとえギリシャ語であったとしても、生粋のイスラエル人だった彼が母国語のヘブライ語の発音を間違って書くはずはなかっただろうからだ。また、弟子に口述して書かせたとしても、違い過ぎる発音に気付けば訂正したに違いないと思われるからだ。
 聖書学者たちによれば、今日ではヨハネの福音書は5段階を経て今の形に完成したと考えられているが、世に出たのは西暦90~110年の間だと推定されている。だとすれば、主の御受難の当時、仮に使徒ヨハネが20歳だったとしたら、彼の福音書完成版ができたとき、彼は最も若くても80歳にはなっていただろう。もう自分で書ける年齢ではなかった。実際に書いたのは弟子たちだったろう。しかし、19章が今の構成で書かれた時、彼が存命であったかどうかは疑わしい。なぜなら、ヘブライ語の不正確なギリシャ語表記は直されていないからだ。
 さてさて、今日の考察には霊性的要素が希薄だ。聖金曜日にふさわしくない自問自答ではある。

聖木曜日の過去と今

 枝の主日だった日曜日に、教会の玄関でプロテスタントから改宗した知人と会ったので、尋ねてみた。その日は信者がソテツの枝を一本ずつ持って教会の玄関前に集まり、イエス・キリスト様が民衆にホサナ、ホサナと迎えられてエルサレムに入られた事績を追体験する儀式があっが、それが聖週間の始まりになるからだった。

 「ちょっと聞いてもいいですか?」
 「ええ。何でしょう?」
 「プロテスタントの教会でも聖週間はあるんですか?」
 「いやありません。」
 「では、復活祭の前に特別なことは何もしないんですか?」
 「金曜日にちょっとした式はあるけど、他はなにもしないですね。」
 「ほう、そうなんですかぁ・・・」
 「カトリックはお祝いがたくさんあって、楽しいですね。」
 「ま、そうですね。」

 それだけの単純な会話だったが、おかげで私はプロテスタントの教会のことをまたもう少し知ることができた。もっともプロテスタントには教派がいくつもあるので、すべてのプロテスタント教会が必ずしも知人が言った通りかどうかはわからない。いずれにせよ、カトリック教会の聖週間典礼は実に奥が深く、霊的富の宝庫だから、それを共有できていなことはさみしいことに思えた。

 ところで、聖週間中の重要な一日の一つである聖木曜日のミサは、イエス・キリスト様の最後の晩餐を記念する祭式だから、行われる時刻は必ず宵のうちだ。その聖書と祭儀の形を見れば、最後の晩餐がミサ聖祭の原型であり原点であることがよくわかる。そして、最後の晩餐が旧約聖書の原点である過越にルーツを持ち、それが新約で驚きの変容を遂げて、実に豊かな価値を付加し乍ら今に至っていることもわかる。
 聖木曜日の聖書は第一朗読が出エジプト記12.1-14、第二朗読が聖パウロのコリントの教会への第一の手紙11.23-26、福音がヨハネ13.1-15だ。どれをとっても長い考察になりそうだが、ここでは要点に注目するだけにしよう。

 出エジプト記12.1-14は約3400年前、奴隷状態だったイスラエルの民がまさにエジプトから脱出する前夜のことを描く。その夜、神はモーシェを通してイスラエルの全家族に、焼いた小羊と無酵母のパンを食べ、羊の血は家の戸口に塗るよう命じた。そして、神はその夜天使を遣わして、エジプトにいる初子は人も家畜も全部殺戮させたが、戸口に羊の血のついたイスラエル人の家は通り過ぎた。だからこれを過越と言ったが、神はこの救いを子々孫々に伝えるよう命じ、彼らはそれを守って来た。今も守っている。イスラエル人の過越は一週間続くが、その初日の夜はセデールと言う。そして、その祝い方はハガダーと言う。過越祭初日晩餐の典礼書だ。
 イエス・キリスト様がなさった最後の晩餐は過越の食事だったから、大筋は当時のハガダーに従って行なわれたに違いない。しかし、イエス様はその途中で本質的な変更を加えられた。これによって形はユダヤ教過越の骨組みを残したが、中身と価値はまったく変わった過越になった。それがミサ聖祭なのだ。だからそれは新約の過越と言われる。では、ユダヤ教の過越とミサ聖祭では何が変わらず、何が変わったのか?
 脱出前の、つまり救いが成就する前夜の食事を世々にわたって伝え、記念する事では両者は変わらない。罪を悔い、無酵母のパンを食べ、感謝をささげて葡萄酒の杯を飲み、詩編を歌い、神を讃えて感謝することも同じだ。しかし、新約の過越しでは、救いはエジプトの奴隷状態からではなく、罪の奴隷状態からだ。他にも変った点は多々あるが、些細な物は省いて、最も大きな変化を挙げると、ミサでは食するのが焼いた羊の肉ではなく、イエス・キリスト様の聖体であり、飲むのはただの葡萄酒ではなく葡萄酒の形色をした主の御血であることだ。
 聖パウロのコリントの教会への第一の手紙11.23-26はまさにそれへの注意を喚起している。「主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげてそれを裂き、『これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい』と言われました。また、食事の後で杯も同じようにして、『この杯は、わたしの血によってたてられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念として、このように行いなさい』と言われました。だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主がこられるときまで、主の死を告げ知らせるのです」と。だからこそ、この箇所は聖木曜日に読まれる。
  
 ところで、ユダヤ教の過越祭が旧約の出エジプトの事績を神の大いなる救いとして伝える記念なら、新約の過越しであるミサ聖祭は、神の御子イエス・キリスト様が人間を罪と死から救うのために成し遂げた受難と復活の大いなる事績を伝える記念だ。この「記念としておこないなさい」と言う一語は福音書でも聖パウロのコリントの教会への第一の手紙11.章でもギリシャ語では「テン・エメン・アナムネシン」と書かれている。アナムネシスとは想起のことだが、この想起はただ昔あったことを思い起こすだけではなく、それを今この場にもう一度再現することでもあるのだ。それが最も端的に現れるのは、司祭が無酵母のホスチアを手に取り、「これはわたしの体である」と言うときだ。教会用語ではそれを聖変化と言うが、おそらくそれを信じるか信じないかが、聖木曜日を盛大に祝うかどうかの違いになるのだろう。
 ところで、イエス様はユダヤ人だったから、「これはわたしの体である」のお言葉も、「わたしの記念として、このように行いなさい」もギリシャ語ではなく、ヘブライ語で言われたはずだ。普段はアラマイ語をお使いになっておられたようだが、この時はユダヤ人の大事な過越だった。したがって、ハガダーを尊重して、正式のヘブライ語を使われたに違いないと思う。
 ならば、ヘブライ語でそれをどんな風に言われたのだろうか? それに興味を持って調べたところ、、こう書かれている。「これはわたしの体である」は、カタカナで表記すると「ゼフー グフィ」だ。たいへん短い。「わたしの記念として、このように行いなさい」は、「カク アスー レ・ジクロニ」だ。ああ、本当はイエス様はこういう風に言われたんだ、と知っておくのもいいのではなかろうか。

 さて、「これはわたしの体である」というお言葉からは、もう一つの疑問がわく。そして、そこから一つの大事なことがわかる。一つの疑問とはユダヤ教の過越では、そのお言葉に対応する何らかの言葉か動作があるのかという疑問だ。答えは「ある」だ。ハガダーを読むと、式がかなり進行した頃合いに、「過越しの三つのシンボル」という箇所が来る。三つのシンボルとは、過越しの羊の肉、無酵母のパン(マッツアと言う)、苦菜の三つの食物だ。現在のユダヤ教過越祭の晩餐では卵や魚や他の食物もあって、かなり豪華らしいが、この三つの食物はEssential、と言われる。つまり必要不可欠の食物なのだ。
 だから、それは2千年前イエス様の最後の晩餐でも食卓にあっただろう。過越祭の晩餐では家長がその三つの食物を一つずつ指さして、それがなぜそこにあるかのわけを語る。羊の肉がある理由は、まさに第一朗読で読んだ出エジプト記12.1-14が伝える内容だ。種無しパンは「また、酵母を入れないパンを苦菜を添えて食べる」と命じられている。「酵母を入れないパンの練粉を鉢ごと外套に包んだ」(出エ12.34)のは、それほど急いでエジプトを脱出しなければならなかったからだ。
 イスラエル人たちはそれ以後、それを子々孫々に伝えて神に感謝し、自分たちがそれほど神に愛された民であることを誇りにしてきた。ところで、最後の晩餐では家長の立場はイエス様だった。では、イエス様もこの三つのシンボルのくだりに来た時、一般の家長がするのと同じ動作をし、同じ言葉を口にされたのだろうか?いや、されなかったのではないかと私には思えてならない。あるいは、その三つの説明は慣習通りに言われたかも知れない。しかし、そうされたとすれば軽く済まされたのではないかと思う。なぜならその後に、三つのシンボルと関係して、「これはわたしの体である」という重大な機会が来るからだ。
 その機会は三つのシンボルを指示した後、詩編113の賛美と2回目の葡萄酒の祝杯が済んだ直後に来る。ハガダーでは、その時点で家長が無酵母パンの祝福と一枚を裂き与えるのだ。そして、その時こそ旧約のハガダーの言葉ではなく、主イエス様が新約の小羊とパンを制定する瞬間になったのだと、私は推理する。そこで旧約との決定的違いが生まれ、そこから新約の過越の本質(Essential)が始まったのだ、と。

ペサハ エンボッス 円形

 では、主イエス様はその時どういう動作をし、何と言われたのだろうか?形の上ではイエス様はハガダーにある通り、慣習にのっとり、無酵母のパンを取って裂き、弟子たちに与えられたと推察できる。しかし、言われた言葉はまるで違った。「これはわたしの体である」(ゼフー グフィ)と言われたのだった。それは弟子たちがそれまで過越のどの晩餐でも聞いたこともない言葉だった。
 主はもはや羊の肉を見ておられなかったと思う。なぜなら、新約の神の小羊であるご自分がそこにいたからだ。それまでは焼いた羊の肉は象徴的代用品として必要だったが、真の小羊が出現した以上それはもはやそこになくてもよいものだった。主の最後の晩餐では、真の犠牲の小羊は翌日十字架に付けられるはずのイエス様ご自身だったのだ。
 焼いた小羊の肉がもはや不要となった代り、イエス様は無酵母のパンの方を取りあげられた。そして、旧約の過越では急いで脱出するから酵母が無いのだという理由しかなかった酵母無しのパンに、新約の過越では無限の比類ない価値を付与された。そのパンを御自分の体とされたからだ。ここに新約の過越しの神秘が始まったのだった。神の小羊の肉はパンと同化した。それが御聖体である。だから、新約の過越に他ならないミサでは、パンは神の小羊でもあるから、パンがあれば、焼いた小羊の肉はもう要らないのだ。

 しかし、その時の弟子たちはおそらくその意味がよく-いや、まったくと言っていいほど、わかっていなかったのではなかろうか。たぶん「えっ?主はどうなさったんだろう。慣わし通りの過越しとは違うことを言っておられる」と、怪訝な顔をしたと想像する。だが彼らはその後その限りなく深く豊かな意味を理解した。そして、私たちもわかっている。「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである」(ヨハネ6.54)ことを。
 聖木曜日はミサの原点を想起させるだけでなく、翌日記念する主の御受難の聖金曜日と密接に繋がっている。なぜなら、聖木曜日に祝う最後の晩餐の中心は神の小羊の肉だが、それはパンの形色の御聖体であり、それが真に神の小羊として屠られるのは翌日の十字架の上だということも知っているからだ。十字架の受難は神の小羊を焼く行為に当たり、新約の犠牲が成就してこそ、その肉と血は神の小羊の犠牲としての価値を持つに至る。従って、聖木曜日の御聖体は聖金曜日の十字架の犠牲を前提にした、その前倒しのanticipationなのだということもわかる。

 聖木曜日の福音ヨハネ13.1-15は、御聖体についても過越の晩餐についても何一つ語っていない。だが最後の晩餐であったことは確かで、どんな心がけでその席に着くべきかを教えている。イエス様は席を立って、上着を脱ぎ、手ぬぐいを腰につけ、たらいに水を汲んで弟子たちの足を洗われた。なぜ、そんなことをされたかと言うと、その理由は「主であり師であるわたしが、あなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗わなければならない」というお言葉で明白だ。模範を示されたのだ。
 些細なことだが、ここで注目したい言葉がある。「食事の席から立ちあがって」(ヨハ13..4)という一句だ。「食事の席から」だから、食前ではなく、もう食事が始まっていた証拠だ。ならば、もしそれが過越の晩餐だったのなら、どの頃合いだったのだろうか?私はそんな好奇心を抱いた。ヨハネの福音書では、イエス様は洗足の後食卓に戻られている。そして、弟子たちの間で裏切り者は誰だという議論が起こる。すると主は、「わたしが浸したパンを渡す者がそれだ」と、それとなくヨハネに裏切り者を教えられた。
 これらのことから推測してみると、洗足は三つのシンボルの説明や二回目の祝杯が行なわれた直後だったように思われる。その根拠はユダヤ教過越の晩餐では、その時点で「ラハッツ」(Washing hands:洗手)という行為をすることになっているからだ。この洗手の儀式を、イエス様は洗足に変えられたのだと見ると、なるほどと納得がいく。パンを食べる前の手を洗う段取りとして、洗手では水も洗う道具も全部用意されているのだから、洗う対象を弟子たちの足に変更さえすればすぐできたことだったからだ。
 そして、ユダヤ教の過越の晩餐では洗手の次にはマッツァの祝福(Blessing of the unlevend bread)が来る。それは家長の役目で、家長はパンを祝福すると裂いて食卓の人たちに配る。それはまさにイエス様がなさったことと合致する。すでに述べたように、イエス様はそのとき3枚のうちの1枚のマッツァ(無酵母パン)を取って祝福し、「これはわたしの体である」とご聖体になさったのだ。
 しかし、主がユダに渡したパン切れは、ご聖体として祝別しなかった他の無酵母パンの1枚をちぎったのではなかろうか。そして、浸したのは水にではなく、直前の祝杯で満たした葡萄酒の中だったと思われる。このように前後関係の順序がわかると、洗足の行為とご聖体の制定も意味をもってつながる。洗足はもともとパンを祝福して裂く前の洗手のはずだった。それをイエス様がとっさに手を足に変えられたのだ。誰が一番偉いかの議論が耳に入ったからではなかろうか。ルカ22.24-27はそれに言及している。

 イスカリオテのユダはその後すぐ出て行った。その時、「夜であった」と、ヨハネは印象的な一語を残している。それはあってもなくてもよい一語に思えるが、実は意味深い。ユダが出て行った時、外は当然夜だったが、それはユダの心の闇をも象徴的に思わせるからだ。そればかりではない。なぜヨハネはユダが出た時、「夜であった」と書いたのか?出て行ったとき、ドアが開けられたからだ。晩餐の四回目の祝杯後、最期の祝福が終ると、「戸開き」(Open the door)があるから、それと符合する。ユダが戸を開けたというより、彼は戸開きのタイミングを利用して出たのだろう。その結果、戸外の暗い夜が見えたのだ。
 戸開きは預言者エリアの待望と、飢えた人や助けの必要な人を受け入れる象徴として行われる。だから、ユダが出て行った時、弟子たちが「貧しい人に何か施すように、とイエスが(ユダに)言われたのだと思っていた」(ヨハ13.29)と思ったのももっともだと合点がいく。

 ところで、「あなたがたも互いに足を洗わなければならない」とはどういう意味なのだろうか?日本でも昔は宿屋で草鞋を脱ぐと旅人の足を洗った。同じように昔のイスラエルでも、道を歩いた人の足は埃で汚れたから、客人の足を洗うのはもてなしの一つだった。ただし、それは召使の仕事だったが、主はそれをなさった。しかし、ここで「互いに足を洗うように」と言われたのは、身体の足のことではなかろう。大事なのは「足を洗い合う」真の意味だ。
 神の恵みで洗礼を受け、原罪も自罪も許された人は、主の弟子たちと同じく、ある部分を除いては清められた心の人だと言ってよかろう。しかし、体を清めても、素足で歩けば足がまた汚れるように、人の心も日常生活を送っていると、大きくはなくても小さな罪の汚れや垢がつかざるを得ない。だから、教会には赦しの秘跡がある。しかし、信者同志が互いの罪、欠点、過ちを非難し合っていたら、愛の共同体は成り立たない。だから、互いに赦し赦されなくてはならない。イエス様はそれを言われたのだ。
 それが現実生活でどれほど必要かは、私たちは痛いほどよくわかっている。が、なかなかできない。失敗の繰り返しだ。しかし、主は言われた。「あなたがたに新しい掟を与える。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」と。この掟が新しいのは、愛の基準が「自分がしてもらいたいように」という「自分」ではなく、「わたしが愛したように」とあるように主イエス様だからだ。実際、主は私たちをいかばかり赦し、いかばかり忍耐し、何度足の汚れを洗ってくださったことか。互いの足を洗い合うとは過ちや欠点を許し合うことだが、それは新しい掟の一実践なのだ。聖木曜日の過去と今をこう思い巡らしてみた。


 


 

さくら哀讃惨

   さくら麗し、満開の空
   億兆輪はまとまり合って
   やわらか色の夢の雲 

   さくら気の毒、一輪ずつを
   愛でて見る人はたしているや
   みんな総体だけ観てほめる

   さくらお見事、そのいさぎよさ
   無数の花びら芝生に道に 
   赤子の頬に風と舞う

   さくら哀しや、地面に散って
   悼む人無く 踏まれて朽ちる
   されど安かれ 大地は憩い
 
ひこばえに咲いた桜

     ひこばえの一枝に咲いた桜

プロフィール

余生風

Author:余生風
「聖書温故知新」
「思いつくまま、気の向くまま」
折にふれ「水彩画」も紹介してまいります。

「手を貸す運動」創始者
社会福祉法人「地の星」理事
元玉川大学教授

佐藤正明(余生風)ホームページ
「絵画と心」

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